『DOORS』は3Dメディア
1995年3月10日、朝日新聞出版局のホームページ、OPENDOORSが店開きした。日本の大手マスコミが開設した初めてのホームページだった。私は編集長挨拶として、ホームページの冒頭で以下のように述べた。
ギリシャ神話に題材をとったジャン・コクトーの映画『オルフェ』では、鏡がこの世と黄泉の国を結ぶ扉でした。詩人である主人公オルフェは、死んだ妻を取り戻すために、不思議な手袋の助けを借りて鏡を通り抜け、黄泉の宮殿にたどりつきます。
いまパソコンのディスプレイは、私たちを未知の世界へと誘ってくれる鏡、新しい扉です。マウスやプログラムの力を借りて、インターネットで結ばれた多くの扉を次々に開けば、瞬時に世界中を飛び回ることができます。いずれは個人個人が自分たちの扉を作って相互に情報を交換することができるでしょう。「生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける」とわが国の歌人はうたいました。「おぼしき事いはぬははらふくるるわざなり」と書いた人もいます。みなが自分のメディアを持って、自由に歌をうたい、ものをいうためのツール、それがインターネットです。新しいメディアの実験『OPENDOORS』の扉を開いてみてください。
その少し前、OPENDOORS開設を知らせる社告が朝日新聞本紙の一面に大きく載った。初めての横組み社告だったはずである。全体が3段組みで、「OPENDOORS10日開設」の横カットがあり、縦に「初の本格的『ネットワーク・マガジン』」のカット、真ん中に「DOORS」のロゴが入った。骨子はこんな内容だった。
新しい情報インフラとしてのインターネットの普及を受けて、朝日新聞社は今秋9月、インターネットとマルチメディアを対象とする月刊誌『DOORS』を創刊します。また、それに先立ち3月10日からインターネット上にホームページOPENDOORSを立ち上げます。
雑誌のコンセプトは「情報社会の賢いナビゲータ」。OPENDOORSはそのネット版で、「わが国初の本格的ネットワーク・マガジン」として、ホームページの標準スタイルを築き上げたいと思っています。http://www.asahi-np.co.jp/経由で、どうぞアクセスしてみてください。
お分かりのように、OPENDOORSは秋に発売される雑誌DOORSと連動したホームページだった。これから進展するマルチメディア化に対応するために、祇の雑誌、インターネット上のホームページ、雑誌の付録CD-ROM、の3つのDOORSのメディアミックスこそが、当プロジェクトのねらいだったが、それについては後述する。紙のメディアより先にホームページを開設する、それも日本マスコミ業界の先陣を切って、というのが私のねらいだった。
・加速する時間に悪戦苦闘
『DOORS』は『ASAHIパソコン』の土台の上に築き上げられるべきメディアだったが、実際にはふたたび「ガレージからの出発」となった。
今度の相棒は、MITへの留学経験もある服部桂君と社外から来てもらった京塚貢君、後に林智彦、角田暢夫、久保田裕君などが加わった。多くは例によって社外協力者に頼った(『ASAHIパソコン』以来の知己、西田雅昭さんの紹介で加藤泰子さんが、今でいえば、契約社員として編集部に常駐してくれた。学生アルバイトの諸君にはたいへん助けられた)。とくに今回は大日本印刷に制作をお願いするにあたって、大日本印刷の社員2人(K、S君)が編集部に常駐するという破格の対応をしてくれた。
5月には出版局の組織改革でデジタル出版部長が置かれることになり、私がデジタル出版部長兼ドアーズ編集長になった。したがって、私に才覚があれば、デジタル出版部全体を束ねるきちんとした組織にできたはずだが、新設された電子電波メディア局との対応や日々の誌面作りに忙殺され、『DOORS』さえ成功すれば道が開けるという思いも強く、当面の組織づくりはおろそかになった。最終的には『DOORS』廃刊、私自身の出版局更迭という事態に終わり、関係したすべての人びとにまことに申し訳ない結果になった。とくに加藤さんや大日本印刷の2人には、苦労ばかり強いて何の好結果も産めず、まことに慚愧に絶えない(桑島出版担当は『DOORS』創刊にあたって、私の要請を受けて、編集局科学部から服部桂君を引き抜く剛腕も発揮してくれた。その意味で当初の出版局の期待に応えられなかった非力は認めなくてはならない)。
それはともかく、 私の構想は以下のようなものだった。
これからはメディアミックスの時代である。紙のメディア、ホームページ、CD-ROM、そういった異なるメディアを組み合わせて新しいメディアを作り上げていかなければ、マスメディアの前途は多難である。最初は、紙のメディア「雑誌」で収支をとりながら、ホームページやCD-ROMを育て上げる準備をしたい。編集局とは違って小世帯で小回りがきく上に、印刷会社、取次、各種プロダクションなど外部組織とのつきあいも深い出版局は、これからのメディア開発のパイロットとして、勇猛果敢に新規プロジェクトに取り組んでいくべきである。
その主力の紙のメディアがさっぱり売れなかったのが最初にして最大の躓きだった。
『DOORS』創刊号(11月号)は、1995年9月29日に発売された。A4変形判、136ページ、今度は無線綴じで、CD-ROM付きで定価1480円だった。売りものは「3Dメディア」である。雑誌『DOORS』、CD-ROMのCOOLDOORS、ホームページOPENDOORSの三位一体であり、3つの
DOORSという意味で、3Dメディアと呼んだ(3D=Three Dimensionでもあった)。創刊直後のある会合で、私は『DOORS』のコンセプトを敷衍して次のように話した。
創刊号の特集は「デジタル・キャッシュの衝撃」。インターネットの普及につれてネットワーク上でのビジネスが盛んになりつつありますが、そこでの決済手段として電子のお金が使われます。欧米で進められているデジタル・キャッシュの先駆的実験を紹介しつつ、貨幣の本質にも迫ろうという企画ですが、DOORS創刊と同時に模様替えするOPENDOORSでも、この特集を全面展開します。
雑誌に掲載した記事や写真をオンラインで流すのをはじめ、取材で撮影した8ミリビデオの映像も取り込みます。双方向メディアの特性を生かして、読者の意見を聞いたり、雑誌本体の定期購読の申し込みを受け付けたりもします。余力があれば、英語版も製作し、世界に向けて情報発信していきたいと思っています。
インターネットは、回線容量やソフトウェアの関係で、実際には、映像や音を快適に受発信できるようになるのはまだ先の話です。その点をカバーすべく、映像などはむしろCOOLDOORSに収録することにしました。本誌の「ゼロから始める入門講座」で取り上げたソフトウェアの一部やWWWサーバーを見るためのブラウザー「ネットスケープ」日本版も期限付きながら収録することができました。入門講座につける用語解説もCOOLDOORSやOPENDOORSに収録し、これらは回を追うにしたがって増やしていく積み上げ方式で、いずれは立派な用語事典にするつもりです。
創刊号のCOOLDOORSには、週刊朝日編集部が製作した『’96大学ランキング』のデジタル・データも採録しました。検索できるので、紙のメディアとは一味違った利用ができるはずです。
いま振り返っても、その意図や良し、というべきだが、小規模所帯である立場をわきまえず、あれもこれもに手を出して、いずれも中途半端だったと、正直に認めざるを得ない。それよりも私たちにとって誤算だったのは、冒頭でも述べたように、インターネットの普及ぶりがあまりに急激だったことである。
ジム・クラークはインターネットの未来にかけて、ブラウザー開発者、マーク・アンドルーセンに接触し、短期間で新ブラウザー、ネットスケープを提供、脚光を浴びた人である。『DOORS』を創刊したころは、マイクロソフトのインターネット・エキスプローラと熾烈なシェア争いを続けていたころで、毎月、無料で提供される新しいアドインソフトを付録COOLDOORSに収録する作業だけでも大わらわだった。こうしてブラウザーは日に日に使いやすく便利なものになり、インターネットが拓く世界はそのたびに大きく姿を変えていった。

そのクラークが前半生を振り返って書いた自伝がNETSCAPE TIME(邦題『起業家ジム・クラーク』(日経BP社、2000)である。彼は「わが社は全プロジェクトを3カ月で見直す」と言ったが、まさに「加速するスピード」こそがネットスケープタイム=インターネットタイムだったのである。このスピードは当時、「ドッグイヤー」とも呼ばれていた。
私たちはそのスピードに負けたと言っていい。コンセプト上の混乱もあった。「デジタル・キャッシュの衝撃」という特集が象徴しているように、紙面作りの中心は、インターネットをめぐる欧米最先端事情の掘り下げた紹介・解説に置かれていた。「ゼロからはじめる入門講座」も用意していたから、これからインターネットを始めようとする初心者を対象にしていなかったわけではないが、日本でインターネットをやるのは、まだ一部の限られた人である、という認識が強く、当初の想定読者は、どちらかというと、一部専門家の方にシフトしていた。だから表紙も、専門誌的だったし、雑誌の価格も、他の雑誌と同じように、高かった。
ここには、インターネットにはガイド誌より、メディアとしての本質を掘り下げた記事が求められるのではないかという私の思いが反映していた。だから、創刊前に発行したムックは『インターネットの理解(Understanding Internet)』だった。MIT時代にインターネット最先端を精力的に取材、人脈も築いていた編集委員、服部桂君が全身全霊を打ち込んだ、インターネットの解説本としては他に例を見ない傑作だったと今でも思っている。タイトルがマー
シャル・マクルーハンの『メディア論』(Understanding Media)をもじっているように、インターネット黎明期のアメリカの最新事情を丁寧に紹介すると同時に、インターネットの預言者と呼んでもいいマクルーハンについても詳しく紹介した。巻頭ではジム・クラークやマーク・ア
ンドルーセンなどにもインタビューし、アメリカでのインターネットの熱気について伝えている。
ところが、このムックが予想に反してまったく売れなかったのである。
アメリカではインターネットが切り拓く新しい社会や文化を紹介した雑誌『Wired』が評判になっていたが、日本の読者はそういう記事より、やはり初心者向けガイドを求めているのだろうか。しかし、ハードウェアとしてのパソコンにはガイド誌が成立しても、ソフトウェアとしてのインターネットにはガイド誌は成立しないのではないか。というわけで、インターネット事情とそのガイド情報という両天秤をうまく塩梅できないままに、『DOORS』は廃刊に追い込まれていったとも言えるだろう。インターネットというオンラインメディアと紙のメディアを共存させようとする試みそのものが、とくに日本においては、難しいということだったかもしれない。
ムック刊行直後から、さまざまに軌道修正を試みたが、作り上げた仕掛けを直すのに戸惑うわ、釣り糸はこんがらがるわ、餌はなくなるわ――、初心者ガイドに力を入れると、今度は当初の最先端情報への目配りが足りなくなるといった悪循環で、日々のあまりの多忙さもあって、軌道修正はスムーズに進まなかった。一方、世の中は降って湧いたようなインターネット雑誌の創刊ブームで、1996年6月には、初心者向けガイドに撤した『日経ネットナビ』(日経BP社)も創刊された。老舗の『インターネット・マガジン』(インプレス)と新手の『ネットナビ』に挟まれて、『DOORS』はずっと苦戦を強いられたが、
「3Dメディア」としての実績は、少しづつ築かれつつあったとも自負している。主なものを整理すると、以下のようになる(写真は1996年7月号の3DOORS案内)。
①出版業界の先陣を切っての出版案内開設(96.2)
出版局発行の各種雑誌の案内や書籍の新館案内などをOPENDOORSで行い、ASA(朝日新聞販売店)、取次につぐ第3の販売ルート開拓をめざした。『週刊朝日』連載と連動した村上春樹の『村上朝日堂』ホームページはたいへんな人気だった。
②OPENDOORS及びCOOLDOORSでの「プロバイダー・パワーサーチ」の開始(96.9)
全国で続々誕生しつつあったプロバイダーの紹介は、当初は本誌で行っていたが、その数が増えるにつれて、誌面の制約が生じ、それをCD-ROMやホームページ上に移し、かつサービス別、地区別などで検索できるようにした。
③「進学の広場」開設(97.4)
出版局内の大学班と協力して、朝日新聞の強みを生かした教育ホームページのたち上げをめざした。
④イベントへの協力
広告局の企画するイベント、「インターロップ」や事業開発本部の「朝日デジタル・エンターテインメント大賞」など、朝日新聞社主催のイベントにも協力して、マルチメディア部門への進出をめざした。
めくら蛇に怖じずで、よくもまあ、いろんなことをやろうとしたものだと、列記しつつ、その〝蛮勇〟に我ながら恐れ入るが、 OPENDOORSは1ヵ月に200ヒット近く、出版業界のホームページとしては屈指のアクセス数を得た。そして、創刊1周年を迎えたころには、編集部態勢も整い、DOORSらしい誌面作りも軌道に乗り出した。部内にはシステムエンジニア、編集者、デザイナーなどからなるOPENDOORS作業班もできて、いよいよこれからという時、『DOORS』は突如として休刊を宣告され、1997年5月号という中途半端なタイミングで、短い命を終えた。

私は『月刊Asahi』の3代目編集長となり、総合月刊誌の新しいスタイルを確立したいと悪戦苦闘したが、結局はうまく行かず、A4変型判から従来の総合月刊誌のA5判、いわゆる「弁当箱」スタイルに移行するなどの経過を経たのち、その休刊に立ち会うことになった。『20世紀日本の異能・偉才100人』(1992.7号)など発売直後に完売する特集をしたなどの思い出もあるが、ITと直接関係がないので、ここではその後、取り組むことになったインターネット情報誌『DOORS』に話を移したい。
1993年に発足した米クリントン政権はインターネットを重視したNII(National Information Infrastructure 全米情報基盤)構想を発表、「情報スーパーハイウエイ」という言葉とともに、インターネットが広く流布されることになった。軍事用、学術用に発展したインターネットは、しだいに商用利用へと道を開き、1995にはつながれたホスト数で、学術関係よりもビジネス関係の方が多くなっている。同年にはNSFネットのバックボーンも民間ネットワーク・プロバイダーへ移された。日本で初期のインターネット普及に取り組んだのがJUNET(Japan University Network)であり、それが発展したWIDE(Widely Integrated Distributed Environments)プロジェクトで、その中心人物が村井純氏だった。
出版局を去った後の1998年に出した『マス・メディアの時代はどのように終わるか』(洋泉社)のデータをもとに、1995年の状況を再現してみよう(本書は絶版となっている。『ASAHIパソコン』および『DOORS』について丁寧に振り返っており、本<平成とITと私>前半の記述の多くは本書に寄っていることをお断りしておく)。
①阪神淡路大震災で、災害に強い情報手段として注目される


B 櫛渕万里議員は6月1日の衆院本会議で10日間の登院停止という懲戒処分を受けました。2番目に重い処分で、衆議院議員の処分は16年ぶりとか。自民、公明、日本維新の会などの動議です。
きわめてラフな地質年代の略図を示すと、 完新世は新生代第4紀に属し、更新世に続く年代です。クルッツエンはそこに人間活動の爆発的な影響力に注目して「人新世」を新たに加えた。第二次世界大戦後の1950年前後に始まったという捉え方が一般的のようですが、村上さんは「いままさに人類は、自らの手で自らを滅ぼす可能性に向かって突き進んでいるとしか思えない」と書いています。
B れいわ新選組の共同代表でもある櫛渕万里議員に対する懲罰動議が5月25日の衆院本会議で自民、立憲民主、日本維新の会、公明、国民民主各党の賛成多数で可決しました。櫛渕議員は、鈴木俊一財務相に対する不信任決議案採決が行われた18日の衆院本会議の投票時に、「与党も野党も茶番」などと書かれた紙を掲げたことで与野党双方から懲罰動議が出されていました。
私を懲罰委員会に付する動議につき身上弁明を行います。まず5月18日の壇上における行為について議場の皆様にお詫びをいたします。国権の最高機関である国会において言論の府として議会制民主主義の根幹を支える院の秩序とルール、これは本来尊重されるべきものであることに深く同意いたします。私としても考えに考え抜き、党の内部でも真摯な議論を重ねた結果、政治が暴走するその危機に対して、已むに已まれず今回の行動に至りました。
私もやりたくてやっているわけではありません。この国で生きる多くの人びとが苦しんでいる中で、防衛増税法案を出してくる、こういった憲法25条や9条を無視したような政権のやり方に対して、憲法を守るものとして議員の務めだと思っています。実力行使については過去盛んに行われているということです。立憲・共産は今回この防衛増税法案に断固反対と、何としても止めるとおっしゃっていましたが、もっと体を張って止めましょうとういう呼びかけでもありましたから、それに対して処分でお答えになったというのは大変残念だなと。私自体は一人の国会議員として国民の期待に応えるために、自分が何をしていけばいいのか、ということについては、本当にできることが小さいと。だからこの国会の与党も野党もどういうことをやっているのかということを可視化して、まず国民の皆さんにお見せするということが、私の最大限できることなのかなと思います。
A 岸田文雄首相は5月19日から地元広島で開かれるG7サミットに意欲満々なようですが、米誌タイムの5月22・29日号がその岸田首相を表紙に取り上げ、「日本の選択」というキャッチのもとに「岸田首相は数十年にわたる平和主義を放棄し、日本を真の軍事大国にしたいと望んでいる。Prime Minister Fumiko Kishida wants to abandon decades of pacifism ‐and make his country a true military power」と紹介しました。
こんな型通りの抵抗ではどうしようもないと思っていた矢先、れいわ新選組の大石あき子議員が、衆院本会議場でその野党の態度に異議を唱えました。「大量の売国棄民法案を廃案にするためにもっと本気で戦う野党の復活を」(写真)と訴えたわけです。
B 話は変わりますが、横浜の映画館、ジャック/ベティで『ハマのドン』と『妖怪の孫』を同時に見てきました。
『妖怪の孫』は岸信介元首相の孫、安倍晋三元首相のやはりドキュメントですが、藤木さんのどっしりした存在感に比べると、安倍元首相のいかに薄っぺらなことか。彼はアベノミクスに対して、「やってる感だけだせればいいんだ」と、もはや驚くこともないけれど、これが首相の言かと思うようなことを平気で言っていました。


つい最近までサイバー空間は、ユーザーの関心がある、あるいはユーザー好みの情報を彼らの履歴を参考に自動的に選んで提供してくれるから、人びとは知らない間に自分好みの情報だけに取り囲まれて、結果的に社会は分断される(イーライ・パリサーのフィルター・バブル、『閉じこもるインターネット』2012、早川書房)と言われていたのである。もちろん今もその傾向は拡大しているが、一方で、ChatGPTは誰が質問しても同じような回答を返してくる。これも「今のところ」と制約をつけるべきかもしれないが、ともかく当面は私が質問しようと、他の人が質問しようと、質問が同じならば回答も同じではないかと思われる(もっとも、同じ質問でも条件を付けると回答が変わるし、同趣旨の質問でも、ちょっと表現が異なると答え方も変わってくる。利用する心構えとしては、よい質問をすることが重要になってくる)。
これもインターネット黎明期に『「みんなの意見」は案外正しい』(ジェームズ・スロウィッキー、2004年、角川書店)という本が話題になった。「正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりもすぐれている」として、最大公約数的な意見はけっこう正しいということを主張した本だが、それではChatGPTの提供してしてくれる情報は正しいと言っていいのだろうか。