林「情報法」(52)

Check‐Actの省略:日本人は「振り返らない」?

 前回の原稿で私自身も気になっている点は、「期間を限定した秘密の保護が大切だとしても、手続きが適正に定められ適正に運用されていることを、監視(モニタ‐)することはそもそも可能なのか?」という疑問です。人権侵害を防ぐには検証しておかなければならないクリティカルな質問ですが、そこにはわが国に固有の問題もありそうです。なお、この主題は、品質保証の偽装を論じた連載31回~35回と関係しますので、ご参照いただければ幸いです(なんと今年の1月~3月のことですので、年を取ると時間が早く過ぎるということを実感します)。

・Plan–Do–Check–Act ではなくPlan–Do–Plan–Do

 経営学やリスク管理などの教科書で、組織を運営しリスクを最小化するには、Plan–Do–Check–Act の手順を守ることだと説かれ、俗にPDCAサイクルと呼ばれています。初期にはCheckで止まっていたものにActが追加され、現在では更に周期が早いDODA(Direct–Observe–Decide–Act)に変えるべきだとの主張もありますが、なお有効性は失われていないと思います。

 というのも、DODAは朝鮮戦争における戦闘現場の知恵から生まれたもので、現場指揮官の意思決定には有効ですが、軍事においても全体の戦局を睨んだ意思決定は別に必要で、その基本はやはりPDCAの方がふさわしいからです。ところが、少なくともわが国の現状を見ると、PDCAではなくPDPD —-の繰り返しになっているように思えます。

 それには理由がありそうで、最大の要因は技術変化と社会変化が激しいために、Planを立てて実行している(Do)最中に、前提が変わってしまうことです。Pは全社の経営方針に従わなければなりませんから、経営環境が変わればやり直すのは当然で、その意味ではPDPD —-となるのは変化に即応した結果として、あながち否定すべきことでもないかもしれません(もっとも、官庁の人事のように2~3年のローテーションで担当が変わることでPDに戻るのは、回避すべきですが)。

 しかし同時に、見逃せない側面もあります。わが国の組織風土では、「計画を立てるのは偉い人で、実行するのは二流の人。さらに監査するのは、売り上げを稼げない人」という空気が拭えないからです。企業における「主流派」として役員を多く輩出している部門と、そうでない部門を思い浮かべていただければ、細かくご説明するまでもないでしょう。あるいは、自部門の長が監査役候補になったときに、盛大な内祝いをやるかどうか考えていただくだけで、十分かもしれません。

 ・監査軽視と「失敗学」の失敗(あるいは不成功?)

  確かに監査役という役どころ(監査委員会に属する社外取締役も同じです)は、「嬉しさも中くらい也」という微妙な位置にあります。正義感だけで直言を繰り返したのでは、すぐに煙たがられてしまい、提案を実現に近づけることができません。しかし他方で、忖度を繰り返す茶坊主になれば、何のために居るのか分からなくなってしまいます。この中間のどこかに「日本的最適解」があるのでしょうが、「正論を吐いて喜ばれた監査役」という具体例を、あまり聞いたことがありません。

 これは西欧諸国にも通用する人情かもしれませんが、外国ではその弊害を回避する手段を長年にわたって考案してきた(訴訟が多いのも、その一例でしょう)のに対して、わが国では依然としてCheckを軽視する組織運営が続いているように思えます。それは、畑村洋太郎氏が『失敗学のすすめ』(講談社、2005年)で提唱した「失敗学」が失敗した(少なくとも成功できない)理由を考えれば、直感的に理解できます。

 私たちは、起こってしまった失敗の直後には責任の追及に敏感ですが、しばらくすると次の仕事に追われて、失敗を将来の対策に生かすことには、あまり力が入らない傾向があります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺は、その弊を的確に表しています。マス・メディアの報道も、事実をベースに長期的な視点から分析して改善を促すのではなく、「経営層の責任を追及し謝罪させる」「経営層の辞任を促す」など、即興的で人目を惹きやすいトップ記事や、TV映えする映像を追及する弊があります。

 これに対して、工学者である畑村氏の提唱する失敗学は、責任追及よりもむしろ、(物理的・個人的な)直接原因と(人間工学的・組織的な)間接原因を究明し、それを今後に生かす学問のことです。そこでは、私たちが失敗に対して採るべき態度は、「失敗は許すが忘れない」という点に集約できるでしょう(この考えは、畑村さんご自身にも伝えたのですが、笑っておられただけでした)。

 この点にやや学問的な雰囲気(装飾?)を加えて、「『人間は間違える』ことを科学する」『Economic Review』(富士通総研 Vol.11 No.4、2007年)として発表したのですが、その発端は、私たち日本人が好む「水に流す」を英語では何というかと思って辞書を引いたところ、「Forgive and Forget」という熟語に行き着いたことでした。なお、論稿の表はその後一部を修正したので、最新版は以下のForgive‐Forget Matrixになります(修正点は、Never Forgive – Forgetを「論理矛盾」としていたのを改め、表にあるように「無かったことにする」と直した点と、「腹切り」に「仇討ち」を加えた点です)。

・「許すが忘れない」ことの難しさ

 この表の「許して忘れる」である「水に流す」と、「許さず忘れない」である「腹切り・仇討ち」とは、寛容主義と厳罰主義の代表例で、われわれ日本人はどうやら、どちらかの極端に走りがちなようです。「二者択一」の弊害について本連載で何回も強調しましたが、ここにもその傾向が読み取れます。日本人は、一般的には争いを好まない「穏やかな性格」の持ち主が多いと思われていますが、どこかに過激さを隠しているのかもしれません。そういえば、年末になると必ず「忠臣蔵」が演じられるのは、復讐心を潜めていることになるのでしょうか。

 しかしここでは、「無かったことにする」というパターンがあることに、より注目してください。セキュリティの面から言えば、これこそ最悪の対応で、責任がどこにあるかが不明確になるだけでなく、その後の改善策の立てようもありません。元の資料がなければ、監査のしようもありません。昨今生じた不祥事の多くが、この分類に属していることだけを見ても、このマトリクスの有効性が分かると思います。

 その対極にある「失敗学」、つまり「許すが忘れない」態度こそ、リスクやセキュリティに対応する人々の基本的規範となるべきですが、残念ながらそうなっていないのが現状です。人種や言語、宗教などで多様性に乏しいわが国では、「阿吽の呼吸」で分かりあってきたというのが背景にあるのかもしれませんが、グローバル化の時代に、それを続けることができないことは自明でしょう。

・情報のトリセツの可視化とCheck機能の強化

  今後の方向性を単純化して言えば、業務の取り扱い説明書(昨今ではトリセツという略語も使われるようです)を明確にして、「誰がやっても同じ結果が生まれるようにする」ことが、失敗を最小化する道であると認識することが第一歩かと思います。そのためには、業務をシステム的に理解して文書とフロー・チャートにするとともに、PDのプロセスと同等かそれ以上に、CAのプロセスを重視する必要があります。近未来の企業では、社長経験者が監査役をやっているという姿を想定すべきかもしれません。

 このことは、情報セキュリティの研究を15年も続けてきた私の、「セキュリティには病理学に加えて生理学が必要だ」という実感と符合しています。セキュリティは優れて実践ですから、インシデント(事故)を減らし抑制することに注力すべきは当然です。しかし、技術が激しい勢いで変化する時代に、事後対応だけに頼っていたのでは常に「後追い」になってしまいます。そこで、チェック機能を生かして「事故の背後にある原因」を追及し、防御の理論を構築しなければなりません。つまり「セキュリティの生理学」が必要なのです。

 Check–Actをおろそかにしていると、長期的には自分に跳ね返ってくることを、しかと認識すべきでしょう。しかし、南スーダンの日報問題、森友・加計学園問題における公文書の扱い、桜を見る会の事務処理などを見る限り、この道は遠くて険しいと思わざるを得ません。

林「情報法」(51)

GSOMIAの情報法的意味

 第48回で紹介したGSOMIA破棄問題は23日の期限切れを目前にして、韓国政府が「破棄通知の効力を停止する」という玉虫色の暫定決着となりました。態度急変の最大の要因は米国の圧力といわれ、韓国自身の考え方が変わったわけではないようですので、今後も火種を抱えたまま推移するものと思われます。そこで今回は政治的な側面とは離れ、この問題を情報法の観点からみるとどうなるかを、まとめておきましょう。

・国内の秘密保護法制の整備が前提

 GSOMIAの重要性を理解するには、協定が定める手続き的な面を知らなければなりません。GSOMIAは国家間における機密情報の共有を定めるものですが、その前提にはそれぞれの国内において、国家機密が十分に保護されていなければなりません。日ごろ議論に上ることが少ない(マス・メディアもあまり取り上げない)特定秘密保護法の仕組みが、GSOMIAの前提です。

 どこの国にも国家機密の保護法があり、それが政府調達などの官民関係などを媒介にして民間にも準用されていくので、秘密保護法制の基本形になっています。ところがわが国では、長い間国家機密を守る法律が無く、民間に適用される営業秘密保護法制(法律としては不正競争防止法)の枠組みが、官庁にも準用されるといった「逆転現象」が起きていました。この倒立した関係を正常化した点に、特定秘密保護法の意義があります。

 しかし法律制定後も,その意義に関する国民一般の理解は極めて遅れています。平和憲法の下で「有事」に備えることを回避する傾向があるのが最大の原因ですが、同時にわが国の企業風土が人的関係を重視し,手続きを通じてシステム化を進めることに気乗り薄なことも深く関係しています。その象徴的な例が「マニュアル」を評価しないことで、デジタルネイティブの若者の間では,西欧的なマニュアル文化に対する抵抗は少ないのですが,世代が上に進むに連れて,「経験と勘」に偏りがちです。

 有体物が中心の時代、あるいは製造業が中心の時代にはそれで良かったかもしれませんが、インターネットのような情報システムがインフラになった現代では、手続きを重視し「誰がやっても同じ結果が得られる」ように、システム化することが不可欠と思われます。

 そこで準拠すべき規範は何かというと、やはり軍事情報やインテリジェンス情報を管理する基準に勝るものはないと思われます。GSOMIAは、両当事国が同レベルの秘密保護法制を有していることを前提に、国家間の情報共有を律する仕組みですから、情報管理の国際モデルともいえるものです。

・秘密管理の7原則

 そこでは,a) 取り扱う情報に軽重を付ける(classification)、b) 取り扱う人の資格を審査する(security clearance)、c) この両者の組みあわせでNeed-to-Knowがない限り当該情報へのアクセスを許さない、d) 情報の窃用・漏示を厳しく罰する、e) 秘密の取り扱いは期間を限定し必要がなくなれば直ちに指定解除する、f) 濫用を防止する内部統制の仕組みを整える、g) 外部に独立した監視機関を設置する、の7つの手順が定められています。( GSOMIA では相手国の主権を尊重するので、これらの原則が明文で規定されていなくても、暗黙の前提となっていると言ってよいでしょう。)

 ここで a) では,取り扱う情報を top secret,secret,confidential,unclassifiedに分けるのが一般的です。しかし米国では、unclassifiedの再分類が100種類近くになったので、新たにCUI(Controlled Unclassified Information)として再整理しつつあります。b) は一種の資格審査で、米国では資格取得者が再就職で有利になるなど、一種の合法的discriminationではないかとさえ言われています。

 a) b) において参考になるのは、やはり米国の実例です。連邦政府の情報管理体制を整備する法律(FISMA = Federal Information Security Management Act of 2002)を作り、CISO(Chief Information Security Officer)を必須ポストとするほか、自らに「情報行動規範」を課し、同時に政府調達等を通じて民間にもそれに沿った運用を求めます(Office of Management and Budget所管)。そして、NIST(National Institute of Standards and Technology)がSP(Special Publication)シリーズによって、具体的な手続きをマニュアル化する、といった形で情報管理を手続面から枠にはめています。

 c) は、これらの背後にある大原則ですが、これを強調しすぎると情報の共有が進まないため、Need-to-Shareとのバランスが必要だとの議論を呼んでいます。また d) 守秘義務違反に対しては厳罰を科しますが、e) 秘密の指定期間が過ぎれば速やかに指定解除する、ことが定められています。f) は内部統制、g) は外部統制の仕組みで煩瑣のように見えますが、秘密を管理するには、それ相応の体制が不可欠と理解してください。

 上記の7原則は,特定秘密保護法の制定によって,わが国でもやっと法的に認められるようになりましたが,まだまだ世間に広く知られていません。そこで、わが国の民間企業は、準拠すべき手順として、ISO(International Organization for Standardization)が定めたISMS(Information Security Management System)や、米国NISTが推奨するSecurity Frameworkなど国際的なものや、わが国の内閣サイバーセキュリティセンターが定めた「政府機関等の情報セキュリティ対策のための統一基準(平成30年度版)」などを参考にし、あるいは準用しているのが現状です。

・秘密保護法制は「信頼」の制度化

 ここで大事な点は、このような仕組みは「一定期間に限り情報の流通範囲を制限する」ことが主眼であるため、「情報の扱いを面倒にして流通量を減らす」面があると同時に、「正当な手続きを経た扱いは責任を免れる」という効果をも有することです。情報は複製によってたやすく流通するので漏えいしがちなものですが、仮に流出が生じてもこの手順を守っていることを証明できれば責任を問われることはありません(故意犯の場合は別ですが)。つまり手順やマニュアルは、「信頼される当事者のみが情報を利用できる」ことを制度化し、その関係者間での共有を促進しているということもできます。

 しかし、このような理屈が、わが国の一部の人には理解してもらえないことも事実です。わが国には欧米並みのインテリジェンス機関がないため、それに関するリテラシーが欠けているからと思われます。マス・メディアなどでは 権力の恣意的運用による危険性を指摘していますが、その懸念自体はもっともです。しかし、それは本筋の理論ではない(危険性はないとは言えないが、運用をチェックするしかない)ということでしょう。

 例えば外交秘密のように「一定時期(例えば、交渉中)に限り秘密にし、できるだけ早期に公開する」という性格を持った情報が存在することは、認めるしかないでしょうし、企業にも同種の情報はたくさんあります。これは組織を運営したことがある人なら、当然知っていることかと思います。それを認めた上で、その管理をどうすべきかを議論しているのに、「存在そのものがけしからん」というのでは、話になりません。

 もっとも、公文書の破棄や改ざんなどが相次いでいる現状では、「信頼を制度化したら、その制度が悪用される」という疑念が生ずるのは、やむを得ないところでしょう。しかし、それを正す責任は有権者自身にありますし、「一定期間は秘密にするしかない」情報が存在することを前提に、「どのような手順や仕組みを設ければ濫用を最小化できるか」という面から、具体的に手続き論を進めるのが妥当だと思います。先の7原則の中で、f) 内部統制と g) 外部監視機関によるダブル・チェックの必要性を強調したのも、このような理解からです。

 私の立場は一見「政権寄り」ですが、その実「秘密の管理を徹底することで、秘密保持者の負担(責任)を加重する(原則 d)」や「秘匿の必要性がなくなったら可及的速やかに指定解除する(同 e)」ことを同時に主張しているので、その実「最も強硬な人権派」と理解していただければ幸いです。

・信頼がなければ協定があっても無意味

 さて、このような分析を踏まえて改めてGSOMIA問題を眺めてみると、最も大切な点は「日韓両国の間に信頼関係はあるのか」という疑問に収斂すると思わざるを得ません。「協定は信頼を制度化する」ものですが、「信頼そのものを生み出すことはできない」からです。手続きはあくまで手続きに過ぎず、実体として信頼関係がないところで協定を作っても「仏作って魂入れず」に終わるでしょう。

 その意味では、GSOMIAを議論することは、「将来の日韓関係をどうするのか」という大問題の1つのトピックに過ぎないと考えるべきでしょう。情報法においても同様に、「手続法がより重要」になるのは事実としても、「実体のない手続きは無意味」ということを暗示しているように思えます。

林「情報法」(50)

漫画村事件に見るインターネットの曲がり角

 前回は、いわゆる「漫画村事件」をめぐる諸問題のうち、違法著作物のサイト・ブロッキングや「通信の秘密」に関連するテーマを中心に報告しました。それは、学術会議のシンポジウムが、そのような問題意識の下で行なわれたからです。しかし本問題が示唆する論点には、インターネットの基本理念に再考を促すような、大きな問題提起が含まれています。

・権利者や管理団体の立場と、意見の分断

 まずは、著作権に関しての補足です。学術会議のシンポジウムの出席者は「著作物の利用者」側に立つ人が多く、何らかの事情で「審議会やロビーイング勢力の多数派を占める『著作権を所有権に準じて考える派』の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示する」と述べました。このような参加者の偏りのため、私が期待していた「立場を超えた公開討論」とは程遠いものになってしまいました。

 そこで、権利者や著作権管理団体の立場を聞きたいと思っていたところ、情報通信学会の研究会の1つで、そのような機会がありました。報告者はJASRAC(日本音楽著作権協会)の外部理事を経験されている玉井克哉教授(東大先端研)で、TPP(Trans Pacific Partnership)協定への高い評価や、著作権管理団体の役割への期待など、学術会議のシンポジウムでは聞けなかった視点を提供してもらい、大いに参考になりました。

 しかし、不思議な発見もしました。シンポジウムに出た田村教授(東大法学政治学研究科)が強調した「tolerated use」(寛容的利用)を、玉井教授も現在の著作権制度は「権利主張を控える目こぼしが前提」になっているとして、是認しているように見えたからです。また私がシンポジウムで強調した、「著作物は占有できない」ことにも、両者とも異論がないようでした。ところが、政策として何が必要かとなると180度意見を異にするように見えたことは、私の理解を超えていました。

 どこかで「ボタンの掛け違い」があったものと思われますが、今や著作権実務の世界と著作権法学の世界は共に、「権利重視派」と「自由利用派」に分断されたかの感があるのは、残念なことです。しかも、その分断が「インターネットは無法地帯」という誤解を生みだしかねないのは、さらに困ったことです。ごく最近も、インターネットの世界では著名なエンジニアから「著作権をめぐる混乱が、インターネットの信頼性そのものへの懐疑を生んでいる」という強い懸念の声を聞きました。

・インターネットの「自律・分散・協調」の限界と、代替案の不在

 このような事態になったのは、インターネットの側にも問題があります。初期のインターネットは「自律・分散・協調」の理想を掲げ、それを原理主義的に推進してきた感がありました。John Perry Barlow (Electronic Frontier Foundation の共同設立者)が起草し、インターネット商用化直後の1996年に発表された「サイバースペース独立宣言」は、「国家はインターネットの領域に入るべからず」と、「治外法権」を高らかに宣言するものでした(https://www.eff.org/cyberspace-independence)。

 こうした「インターネット原理主義」に近い主張は、翌1997年の「通信品位法」により(一部は憲法違反で効力を停止されましたが)、インターネットに流れる情報に関しても、伝統的な言論に関する法が適用されることを確認したことによって、否定されました。その翌年1998年の「デジタル・ミレニアム著作権法」は、ISP(Internet Service Provider)に、違法コンテンツのnotice-and takedown を義務化しました。これはISPがコモン・キャリアであっても、「違法情報を認識しつつ放置する」ことは許さないとするものでした。これらの法定化によって「サイバースペースの自由領域」は次第に制限され、逆に「インターネットは特別な領域ではなく、従来の法律が適用される」という理解が広まっていきました。

 しかし国内法においても、インターネットのガバナンスや、そこで運ばれる情報の扱いに関して、何らかの規律を定めるという試みは、なかなか進みませんでした。その原因としては、市場原理を取る国々では規制は一般的に忌避される傾向にあること(と、次節で説明する産業融合という現象)に加えて、以下のような国際分野における特殊事情が働いていたからと思われます。

 それは、『グローバリゼーション・パラドクス』(白水社、2014年)の著者であるロドリックの「トリレンマ(三方一両得ではなく、三者鼎立は不可能)」という概念です。邦訳者の1人である柴山教授によれば、その考え方は以下のように要約されます(訳者あとがき)。

「本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。(中略)市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、統治の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済が抱える最大の『逆説』がある、というのが著者の問題意識である。

 グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の 3 つのうち 2 つしか取ることができない、という本書の『トリレンマ』に従うなら、今後の世界には 3 つの道がある。①グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、②グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、③あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。」

 その結果、「インターネットは民主主義と同義に近く、国家主権よりも優先する価値がある」と考える西欧先進国は ③ を取り、「国家主権あってのインターネット」と考える中国・ロシア等の国々は ① を取るため、インターネットに関する国際秩序の形成がほぼ不可能になっているのです。

・メディア産業のPBC分類の限界と、融合法制の難しさ

 米国を代表とするインターネット先進国で、規制よりも自由を好む気風がなくならなかったのは、資本主義を信奉する国家間では当然であり、良かったといえるかもしれません。しかし、そのことが漫画村事件など、これまでの産業分類でいえば「新聞・放送・通信」の3分野にまたがるサービスが出てくると、「より規制が緩いルール」を適用せざるを得ない(つまり無法地帯になりかねない)という欠点につながっていきます。

 それは、「新聞・出版(Press)」「放送(Broadcasting)」「通信(Communications)」の3つのメディアが、産業秩序の基本がそれぞれ違っていることで垣根を作っていたのに、インターネットによる産業融合で次第に境目がなくなりつつあるという歴史を反映するものだからです。この三者の規律を、経済的規制(参入・退出や、料金規制などconduitに関する規制。以下 Cdと略記)と社会的規制(contentに関する規制。以下Ctと略記)の2つの面から分類したのが以下の表で、これは私が『インフォミュニケーションの時代』(中公新書、1984年)で定式化し、PBC分類と呼んだものです。 表が示す意味を箇条書きにすれば、次のように要約されます。

① 最も古いメディアである新聞・出版(P型)には、Ct規制もCd規制もないので、「言論の自由を最もよく保障している」ものと理解されてきた(Marketplace of Ideasも、これを念頭に置いたものと考えられる)。
② この対極にあるのが放送(B型)であり、Cd規制(電波の割り当て)Ct規制(番組編集準則)の両面の規制を受けるが、これは電波の希少性に由来し「規制によってこそ公共の福祉が実現される」ものと理解されてきた。
③ この両者に対して通信(C型)は、Cd規制は受けるものの、Ct規制は受けない(というよりも、そもそも通信の内容にタッチしてはならない)ものと理解され、「通信の秘密」は、そのような立場に特有の責務とされてきた。
④ ところがここに、PCBいずれの型にも収まらず、これらを融合した機能を持ったインターネットが登場したので、これをどの型に当てはめるか、あるいは新しい秩序を構築すべきか、検討する必要が出てきた。

 実は1984年の出版の時点では、未だインターネットは研究者仲間のマイナーなネットワークに過ぎなかったので、④ は将来の課題としておくことで十分でした。ところがその後1990年代半ばにインターネットが商用化されたので、これを表に付加すると、「Cdはあるが、Ctはない」つまり「参入・退出などに若干の規制はあるものの、社会的規制としてコンテンツの扱いは自由」ということかなと思っていました(確たる自信がなかったので、?を付けていました)。

 インターネットの進展とともに、この問題は次第に重要になってきたのですが、今日まで確固たる成果は出ていません。それは、インターネットが「情報処理(Data Processing)」産業の出自を持っているために、「コンピュータ産業は製造部門もサービス部門も、一度として政府規制を受けたことがない」という史実があり、また産業人がそれを誇りにしている、という事情が強く影響していると思われます。

 しかし、果たしてそれでよいのか、漫画村事件はその点を突き付けていると思われます。インターネットの本質はマルチメディア化、すなわち「メディアとメッセージが自由に結びつく」ことにあるので、「P型産業ならこの規律、B型なら別の規律」という切り分けができません。しかも境目のなさは、企業内や国内といった伝統的な境界も超えてグローバルに広がっていくので、産業秩序もグローバルな合意を得なければ実効性がありません。

 厄介ですが、私たちは現実を直視して、「この制度化に知恵を出した国がデジタル時代をリードすることになる」との期待を込めて、努力を惜しまないことが必要かと思われます。

林「情報法」(49)

著作権研究の原点に還って

 台風19号が去った直後の10月13日の日曜日に、学術会議法学委員会が主催する「著作権法上のダウンロード違法化に関する諸問題」という公開シンポジウムが開催され、私もパネリストの1人として参加しました。「情報法の観点から」というのが私に与えられた役割で、サイトブロッキングの妥当性(合法・違法性や有効性)や「通信の秘密」について所見を述べましたが、大きなテーマが著作権だったことが、私の参加意欲を一層高めました。著書で述べたように、私の情報法研究は、著作権をプロトタイプとして始まっているからです。いわば「著作権の原点に還った」ような半日を、予定を変更して、レポートします。

・多角的な著作権の見方と私の立場

 今回の出講依頼は、学術会議第3部会(理学・工学)に属する、セキュリティ研究者からいただきました。どうやら学術会議の第1部会(人文社会科学)に属する法学研究会が、第3部会と協力して運営するようでした。実際、趣旨説明者(佐藤岩夫氏)・司会者(松本氏)・総括者(高山氏)は、すべて第1部会の会員ですが、田村氏(著作権法)・亀井氏(刑法)・壇氏(弁護士)・佐藤一郎氏(情報学)・私(情報法)という組み合わせは、法学を主としながらも幅広い視点での議論を喚起しようという、企画側の意図と柔軟性を示しているように思えました。

 そして実際、当日の議論も、文化審議会著作権分科会における「やり取り」の裏話も含めて、忌憚のない意見交換に終始し、パネリスト相互間も「得るところが多かった」という見方で一致しました。主催者が集めたアンケートでも、問題を多角的に議論したことへの共感が表明されていました。ただ、そのことは逆に、審議会やロビーイング勢力の多数派を占める「著作権を所有権に準じて考える派」の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示するもので、本当の議論がなされたかは別途検証が必要かと思います。

 私個人は、「著作権が情報法のプロトタイプになり得る」という仮説(というよりも、一種の直感)から研究生活を始めたものの、すぐに「有体物の所有権と無体財である情報に関する権利とは違った側面が多い」という事実に気づき、「著作権をも包摂した情報法のあり方」へと研究テーマを微修正した経緯があります。したがって私は、「著作権」を盲信する人は、「無体財に関する法制度がどうあるべきかが分かっていない人」という疑いを払拭できません。

 具体的にいえば、登録を要さず(無方式主義で)著作権が発生し、しかもその権利保護期間が「著者の存命中+死後50年」という驚くべき長期にわたる制度を、法的に是認することができません。永久に続くはずの所有権の代表例である不動産でさえ、転々流通し所有者が変わるばかりか、相続が起きれば分割されるのが通例です。「死後50年」も相続財産として同一人物に帰属することは稀でしょう。数ある権利の中で、ひとり著作権だけが「超長期の排他権」を享受できると考えるのは、バランスを欠いているとしか思えません。

・「思想の自由市場」論の限界

 このような考え方は、情報法の考察を進めるにつれて、修正されるどころか、ますます確信に近くなっています。その例として当日挙げたのが、米国の憲法論に由来する「思想の市場」(Marketplace of Ideas)理論の妥当性です。

 これは、有体物が市場で自由に取引される(市場原理)のと同じように、「言論」という財貨も市場の取引を可能にすれば、優れた商品が生き残るのと同様、優れた言論が選ばれていくではないかという、超楽観主義です。資本主義社会における「言論の自由」を象徴する比喩としては、秀逸であるように思えます。

 しかし比喩は、直感的理解に役立つものの、厳密な理論としては以下の 5 点のような限界(市場の失敗)があることも、理解しておく必要があるでしょう(アンダーラインの部分は、今回のシンポジウムのテーマに関連する事項です)。

①価値の不確定性:アイディアあるいは思想(いずれも「情報」の一種)の価値は不確定で、「時と場所と態様」によって大きく変動するので、「一物一価」は成り立たない
②占有不可能性:情報に排他性を持たせることは不可能ではないが困難であり、登録を要件とする「知的財産」か、秘密管理を厳密にした「秘密情報」に適用するのがやっとである(しかも、著作権には前者の要件が欠けている)。
複製容易性:占有可能な有体物の引き渡しよりも、占有不可能だが複製で拡散する情報財の複製物の方が、技術の進化により容易に流通する
④返還不可能性:情報は一旦流出したら取り戻すことができないし、随所に複製されているので、返還の意味もない。
⑤法的救済の不十分性:損害賠償を主とする従来の「事後救済」中心主義では、被害者の期待に応えられない。差止めを中心とした「事前」あるいは「即時」救済の方法を検討する必要がある。

・サイトブロッキングと「通信の秘密」

 情報法的観点から、当日私に期待されていたコメントの1つは、「通信の秘密」に関するものでした。特に、「サイトブロッキングは通信の秘密の侵害に当たる」という理解(一部は誤解と思われます)が広まっているので、いささか専門的になるのですが、これに触れないわけにはいきませんでした。

 まず私は、海賊版(著作権侵害)サイトを何とかしたいという、一般感情があるのではないかと指摘しました。ブロッキングを含め検討したいとの NTT 鵜浦社長(当時)の発言に賛否両論があったものの、海賊版サイトを無くしたいという点では一致しているかに思えたからです。  

 しかし、その手段としてブロッキングが適切かというと、それはアクセス・サービスの提供者がアクセスをブロックするという「禁じ手」としか思えません。また、アクセスの遮断は、当該言論を流通させないことと同義なので、児童ポルノのブロッキングが慎重な検討過程を経てきたこととのバランスからしても、十分な議論が望まれます。

 実はサイトブロッキングは、こうした適法・違法論とは別に、果たして実効性があるのかという議論もあるのですが、この点は技術者である佐藤パネリストに期待していたところ、実に分かりやすく問題点を指摘してくれました(結論は、想像通り、あまり実効的ではないということでした)。

 そこで私は、当該行為の「通信の秘密」との関係に集中することができましたが、この点に関しては2つの対極的な見方があります。「通信の秘密」の侵害であるという大方の理解と、厳密な法理論では侵害を証明することが難しいとの見方(伊藤真・前田哲夫 [2018]「サイトブロッキングと通信の秘密」『コピライト』No.690)です。ただし、後者は「電気通信」の定義のうち「他人の通信の媒介」(電気通信事業法2条三号前段)には当たらないというだけで、「電気通信設備を他人の通信の用に供する」(同条同号後段)に当たるかどうかを検討していないので、「通信の秘密」侵害の恐れがあることまでは、通説化していると思ってよいでしょう。

 しかし、本件は「通信の秘密」侵害の心配よりも、「検閲の禁止」(事業法3条、憲法21条2項前段)や「利用の公平」(事業法6条)の侵害につながる恐れが強いからこそ、懸念が広がったのではないかと思われます。前者は国家権力に対するものだと考えられてきましたが、今日では「私企業による検閲類似行為」(特にプラットフォーマと呼ばれるグローバル企業)によるプライバシー侵害に、より強い懸念が示されているからです。

 なお、電気通信事業法の「検閲の禁止」と「通信の秘密」の該当条文は、彼らにも適用されることになっています(同法164条3項)が、米国の1934年通信法では同種の規定がないので、日本で営業活動を行なっている米国系 プラットフォーマには、そのような発想がそもそも欠落していると推定されます。

 さて残念ながら「通信の秘密」と「検閲の禁止」の関係について、憲法学者が大いに議論してきたという事実はないようです。それだけ侵害が少なかったとすれば、その事実自体は大いに評価されるべきことです。とすると、より根本的な問題は、知的財産という形での「物権的保護」以外の保護方式が、十分に検討されていないこと(個人データにも物権的保護が先行して検討され、「情報は占有になじまない」点が軽視されている)にあるように思えます。著作権の考察を超えて、情報法へと進んできた私の出番かもしれません。

・「通信の秘密」における4つの厳格解釈と1つの原則

 ところで、わが国の「通信の秘密」に関する解釈と運用は、おそらく「世界一厳格」と言ってよさそうです。これは「自由の国アメリカ」で3年半生活し、おそらく頻繁に通信傍受の対象になっていたであろう私の、個人的経験から出た感想ですので、立証できないのが残念です(私は私企業であるNTTアメリカの社長であったに過ぎませんが、NTTの調達問題に関して日米政府間の協定が結ばれ、その実行部隊の長として誠実な実施が義務付けられていたこと、スノーデンの暴露によってアメリカの通信傍受が大規模に、かつ長期間にわたって行なわれてきたこと、が傍証です)。

 その厳格さは、以下の4つの解釈と、その背景にある1つの原則の基づくものだ、というのが私の見立てです。4つの厳格解釈とは、以下のものをいいます。

①検閲の禁止は絶対的なものだが、通信の秘密もそれと同程度だとする(後者は本来、比較衡量により判断すべきものだが、それを否定)。
②通信内容とログ(通信履歴)を区別せず、ともに同程度に保護されるものと考える(事業法4条1項の「通 信の秘密」を広義に捉え、同条2項の「他人の秘密」を極めて限定的に捉えることとパラレル)。
③通信内容やログの取得が公共の福祉(犯罪捜査等)のために必要だとしても、取得には裁判所の令状が必要だとし、かつ厳格に審査する(取得と漏示・窃用を区別せず、かつ行政傍受等も否定)。
④バルク取得(全通信履歴の無差別的取得)は認めず、令状は案件ごとに必要だとする。

 そして、これらの厳格解釈の背景にある1つの原則とは、「通信事業者は、通信には手を触れてはならない」(hands-off)というものです。これはインターネットの登場(法的には「プロバイダ責任(制限)法」の制定)以降維持できないし、「通信」と「情報処理」を峻別してきた米国でも、相互浸透を是認する方向にある(「高度サービス」の提供者にも、通信法におけるコモン・キャリア規制を適用するという規則は、なお議論されている)ことを考えると、抜本的な見直しの時期に来ているのではないかと思います。

・個人的感慨

 今回の企画は、私の著作権への関心を呼び覚ましてくれました。1997年に学者専業に転ずると同時に、著作権の研究を始めたことは「直感的だが正しい選択」であったことが確認できました。しかし、その後の長い考察にもかかわらず、達成できたことがあまりに少ないことに驚くと同時に、パネリストと共有できる点が多かったことから、あきらめず前進する勇気をいただきました。この企画をされた関係者にお礼を申し上げます。

林「情報法」(48)

GSOMIA破棄という二者択一

 「遠交近攻」という四字熟語が暗示するのは、「隣国との摩擦を回避するため遠い国と仲良くして集団としての安全を図る」戦略の有効性です。ただでさえ隣国との関係は難しいのに、一時期支配・従属の関係にあった日本と韓国が仲良くするのは、更に難しい課題でしょう。それにしても昨今の相互不信は「度を越えている」と考える人が多いのではないでしょうか? GSOMIA(General Security of Military Information Agreement)を例に、二者択一の限界と、「超えてはならない一線」がどこにあるのかを、考えてみましょう。

 ・自由貿易の例外としての輸出管理と優遇措置

  最近における日韓関係の悪化は、元慰安婦や元徴用工問題を二国間協定で解決したはずなのに、それを韓国側が「国内の裁判所が判断する被害者の法的救済は、国際関係とは別」などと、理解できない屁理屈で履行しないことに端を発しています。したがって、史上最悪とも評される両国関係の改善には、歴史認識などの深い理解が必要ですが、ここでは輸出管理の強化以降の問題に絞って議論しましょう。

 グローバル化の進展に伴って、貿易の障壁となる規制はなるべく撤廃しようという動きが強まり、「輸出入に関する規制はない方がよい」というコンセンサスが(少なくともトランプの登場以前には)できつつありました。しかし、北朝鮮の核実験やミサイル発射等にも見られるように、大量破壊兵器や通常兵器の拡散が「自由貿易」の間隙をついて横行していることが、大きな国際問題となっていました。

 これに対して、わが国は、安全保障と国際的な平和・安全の維持の観点から、大量破壊兵器や通常兵器の開発・製造等に関連する資機材・関連汎用品の輸出や、これらの関連技術の非居住者への提供について、外国為替及び外国貿易法(「外為法」)に基づいて、必要最小限の国家管理を実施しています。WTO(World Trade Organization)協定には安全保障を理由に貿易制限ができる例外規定があるので、これに依っているのです。

 この制度の下では、外為法で規制されている貨物や技術を輸出(提供)しようとする場合は、原則として経済産業大臣の許可を受ける必要があります。外為法に基づく規制は、化学兵器禁止条約等の条約に基づくものと、欧米先進諸国等が中心となって参加する国際的な輸出管理に関する合意(国際輸出管理レジーム)等に基づくものがあります。

 各国政府は軍事転用の恐れが大きい規制品目を輸出する場合、輸出企業に許可手続きを求めていますが、輸出先の国自身が厳しく輸出管理をしていると判断した場合、手続きを簡略化する優遇措置も認めています。具体的には、相手国の輸出管理制度の信頼度をランク付けして、優遇するのです。最上位の「グループA」は優遇措置が最も大きく、アジアで唯一となる韓国を含めて米国や英国など27か国が対象でした。しかし、日本政府は韓国の体制を「脆弱」と判断し、まず7月に韓国向けの半導体材料などの輸出管理を厳しくすることとし、その後8月28日から、最上位の格付けから除外し「グループB」に移しました。

 これに対して韓国も9月16日、本件はもともと元徴用工問題に対する報復であり、「政治的動機による差別的な措置」であるとして、加盟国間での貿易の差別を禁じる「最恵国待遇」のWTO原則に反するとして提訴しました。さらに9月18日、安全保障上の輸出管理で、優遇する国のグループから日本を除外しました。相互不信は、遂に報復合戦になってしまったのです。

・GSOMIA(General Security of Military Information Agreement

 しかも報復は貿易にとどまらず、国家間で軍事上の機密情報を提供し合い、共有し、また他国への漏えいを防ぐことを目的として締結される二国間協定である、GSOMIAの更新拒否(韓国の一方的離脱)にまで及びました。GSOMIAは普通名詞ですが、今問題になっているのは日韓における「秘密軍事情報の保護に関する日本国政府と大韓民国政府との間の協定」のことで、難産の末2016年に締結され、1年ごとに自動更新されてきました。終了させる場合は、更新期限の90日前(8月24日)までに相手国へ通告することとなっていたところ、2019年8月22日に韓国側が協定の破棄を決定し、日本側に伝達したのです(現協定は11月23日までは有効です)。

 日韓におけるGSOMIAの必要性は、言うまでもなく北朝鮮問題と不可分です。北のミサイルの射程圏内にある両国にとっては、軍事情報を共有し不測の事態に備えることが死活的に重要だからです。「日韓の協定が破棄されても2016年以前に戻るだけで、米国との協定が生きている限り、米国経由で情報を入手できるので被害は少ない」との見方もありますが、それは有事における「時間」の大切さを忘れた議論でしょう。韓国から直で入手できる場合に比べ、韓国が米国に提供する情報を米国経由で入手する場合には、貴重な時間を浪費してしまいます。

 また「地球が丸い」以上、発射直後における情報は、日本からはキャッチしにくい点を過小評価してはなりません。この初期の数十秒が決定的な意味を持つことがあり得ます。加えて、閉鎖社会である北朝鮮に関する人的情報(ヒューマン・インテリジェンス)は、韓国に依存せざるを得ないことも認めざるを得ません。このような不利益は韓国にはないので、彼らは失うものはないとお考えかもしれませんが、実はそうではありません。

 わが国は偵察衛星を持っているほか、ソ連による大韓航空撃墜事件の際にその一部始終を傍受するなど、無線の分野のインテリジェンス力はかなりのものです。また、潜水艦の動きをキャッチする能力も優れているとされます。しかし、わが国だけで得られる情報には、当然限界があります。そこで、米国を軸にしつつ日韓が協力して、北朝鮮に関する情報を共有し対処するのが、一番理にかなっているのです。この事情は、わが国だけでなく、韓国の関係者にも共有されている認識(知らぬは大統領ばかりなり)であろうと思います。

・レッド・ラインを超えた韓国

 それではなぜ、韓国はGSOMIA  の破棄を選んだのでしょうか? 韓国では、右派と左派が融和不可能なほどの対立関係にあり、左派の文大統領の優先順位は「民主主義」よりも「祖国統一」の方にあるのかもしれません。つまり、日米流の自由主義体制を選ぶか、北朝鮮に寄り添った祖国統一を選ぶかという「二者択一」的発想では、後者を選択することに決めている「確信犯」ではないかと思えるのです。このような「二者択一」的発想の限界については、この連載で注意を喚起してきたところです。

 しかし、ここでより視野を広げて、1989年のベルリンの壁の崩壊をまたいで、一時期ドイツ統一や東欧の西欧化をウオッチする機会のあった、私の個人的体験を披露させてください。ドイツの統一にせよ、東欧諸国の旧ソ連からの解放にせよ、より強権的なシステムと、より自由なシステムとを統合するには、「より自由」な方に合わせるしかないというのが歴史的事実です。仮にこのトレンドに反する統合を企てれば、その政権がやがて終焉を迎え、「統合のやり直し」が行なわれるまで、混乱は避けられないでしょう。

 文大統領は、個人的な心情として、金正日に親近感を感じているのかもしれません。しかし、一国の統治者として「二者択一」しかないと決め込み、「北による韓国併合」ともいえる案を自ら推進するとすれば、自殺行為ではないでしょうか? わが国のみならず、西洋諸国はそのような指導者を信頼することはできません。トランプ大統領でさえ「南抜きでの北との直接交渉」を進めていますし、肝心の金正日も「文政権相手にせず」を貫いています。政治面のみならず経済面においては、韓国企業が西欧諸国と取引するうえで支障が出ることも想定されます。

 確かに、これらの国々が共有する価値である民主主義は、現実主義者で皮肉屋のチャーチル元英国首相によれば、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という程度の、相対的優位性しか持たないものです。しかし、一旦民主主義世界で生活した人が、強権主義の命令に従わなければならなくなったら、その優位性を「絶対的」と言ってよいほどに感ずるでしょう。「一国二制度」の香港で、「現状維持」が如何に「革新的」とみなされているかを見れば、このギャップの大きさを感ずることができるでしょう(上述のように私は、旧東ドイツや東欧諸国を訪問することで、実感してきました)。

 文大統領が、民主主義を捨てても祖国統一を志向するなら、もはや「超えてはならない一線(レッド・ライン)を越えた」と評するしかないと思います。ただし、そのような最終判断を下すには、もう一度GSOMIAが何を目指しており、手続き的にはどのようなことを期待しているのかを、細部まで見ておく必要があります。その点は、GSOMIAを情報法的に解釈するという別のテーマになりますので、次回まとめて説明します。

林「情報法」(47)

二者択一の政治状況

 「○か×か」の二者択一は、政治家が一番好むようです。私は1999年に「NHKは民営化して世界最大のペイ・テレビになればよい」と主張した者(拙稿「放送人よ、目を覚ませ:『地上波テレビの全デジタル化』7つの神話」『情報通信アウトルック ’99』 NTT出版)ですが、20年を経てそれと同じ趣旨を、唯一の公約にした政党が出現したことに驚きました。そして、その政党が参議院選挙で議席を獲得したことに、二度ビックリです。三度目のビックリもあるのでしょうか。世界中が「○か×か」の衆愚政治に陥っているのでしょうか。

・「一億総白痴化」と「衆愚政治」の経済学

 経済学(者)は、「一見非合理と思われる事象にも合理性が潜んでいる」ことを見抜く力を持っています。それは「合理的経済人」(rational person)を前提にした学問の、優位性かも知れません。リード文で触れた論文を書いている最中に、エコノミストのI氏から「テレビ番組が俗悪化することは必然で、大宅壮一氏の言う『一億総白痴化』は止めようがない」というご託宣を聞いたのは、経済学の初学者だった私には新鮮な驚きでした。

 I氏の説明は、大要以下のようなものでした。民間のテレビ局は当然のことながら、利潤の最大化を目指している。利潤の太宗は広告収入で、それは「視聴率」に連動しているから、「視聴率」を上げる必要がある。そのためには、番組の多くが国民の多数が好んで見るものでなければならない。ここで国民の知的レベルは正規分布していると考えると、「多数に見てもらえる」には平均人をターゲットにしたのではだめで、より知的レベルの低い視聴者を取り込んでいかざるを得ない。よって番組は「低俗化」せざるを得ない——–。

 実は、この分析の後に、「しからば公共放送であるNHKの役割をどう考えるか」という、やや高尚(?)な議論が続き、先生であるI 氏は「NHKは、ニュース・スポーツ・ドラマ・演芸・教養・教育番組などを総合的に提供し、総合的な収支均衡を図ればよい。加えて、災害放送やローカル・ニュースの提供など公共的な役割もある」という伝統的な見解でした。これに対して、弟子である私が「そうした高尚な志向のある視聴者は、支払意思(willingness-to-pay)があるので、NHKをペイTVにしても加入者はさほど減らないだろう。民営化して、もっと活力が出る仕組みに変えた方が良い」と主張したのが、上述の論稿で展開した私のNHK論でした。

 ここで本来の議論に戻れば、「一億総白痴化は不可避」という結論に至るまでの「視聴率」を「得票率」と、「より知的レベルの低い視聴者」を「国民全員に投票権がある」と読み替えれば、「衆愚政治は不可避」との結論に到達することは間違いありません。

・多数決原理の限界とグローバル化の逆説

 これは親しい先生と弟子の間の「思考実験」であることは両者とも承知の上の、楽しい会話でした。それが、現実の政治のテーマになり、一定の力を持つようになるとは、どうしたことでしょうか。そこには、成熟した日本において「波風立てる」ことは得にならないという冷めた認識を持ちながら、30年も続くデフレで幸福感が味わえないという焦燥が、ないまぜになっているように思えます。野党に政権維持能力が欠けていて頼りにならないが、与党に任せっぱなしでは暴走の懸念が残る、というアンビバレントな感覚と言い換えても良いでしょう。

 しかし、そこには何らかの「理論的背景」が潜んでいるようにも思えます。ここでは、2点だけ指摘しておきましょう。まず第1点は、「民主主義的意思決定が、誰もが納得する解を生み出すとは限らない」ということです。それにはマクロとミクロの両面があります。

 マクロ的には、どのような選挙制度を採ろうと、「死に票」が避けられないことが問題の本質です。何らかの単位で、winner-take-all(総取り)を認めざるを得ないからです。州ごとの選挙人の「総取り」を前提にする米国の大統領選挙では、国民投票であれば多数を得たはずの候補者(クリントン)が、選挙人の多数を得た候補者(トランプ)に負ける、ということが起こり得ます。

 ミクロ的な側面は、「アローの不可能性定理」に示されるように、意見が割れている場合には「投票順」という一見中中立的に見える「手続き」が、意見の採否を決めてしまう場合があるということです。例えば、投票者甲・乙・丙が、議案A、B、Cに関して、甲はA > B > C、乙はB > C > A、丙はC > A > Bという、3すくみの投票選好を持っているとしましょう。

 投票用紙にA、B、C のいずれかを書く方式の投票では、「多数を得た案なし」となります。そこで、まずAかBかの投票をし、その後に優勢な方とCとで投票することにすれば、第1回でAが勝ち、第2回でCが勝つことになります。この関係はA、B、Cすべてに成り立ちますから、「どの案を先に議決するかによって、採択される案が変わる」ことになります。

 第2の理論駅背景は、グローバル化に関わります。投票による多数決という、民主主義の基本ともいえる原理でさえ、このような例外的事象があり得るのですが、グローバル化という巨大な潮流は、もっと深刻な事態を招くと言います。『グローバリゼーション・パラドクス』(柴山桂太・大川良文訳、白水社、2014年)という本を書いた、ダニ・ロドリックによれば、グローバル化する環境では「グローバル化・国家主権・民主主義の3つの理念のうち2つしか同時に満たすことはできない」というのです。

 この点について、訳者の柴山氏が次のようの総括しているのは、簡潔で秀逸です(訳者あとがき)。

本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。(中略)市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、当地の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済が抱える最大の「逆説」がある、というのが著者の問題意識である。

 確かに中国の動きを見ていると、共産主義革命という歴史から当然のこととはいえ、「グローバル化の波に乗り、国家の機能維持のためには民主主義を捨てる」ことが鮮明になっていると思います。そして、悲しいことにロシアは当然のこととして、中東やアフリカ諸国の多くも、こうした「新しい国家主義」ともいえる考えに傾いている懸念が消えません。例えば、ITUという最も長い歴史を持つ国際機関が、「電気通信規則」という国際規約を決める際、こうした諸国が多数派になり、西側が調印を留保するという事態になったのは、2012年末のことでした。

・Unity, Diversity and Generosity

 そして、このような民主主義崩壊の予兆に驚いたのか、西欧世界のリーダーの中でも「自分のことや自分の国しか考えない」孤立主義者が多くなり、「他者への配慮」が死にそうになっているのが気がかりです。本来グローバル化とは、国家主権の壁を低くし、すべての人が等しく扱われるべきだ(inclusion)という「寛容の精神」を基にするはずだったのに、全く反対の排外主義(exclusion)に傾いてしまったのは、何としたことでしょうか。しかも、それが中国のような強権国家だけでなく、つい先代の大統領までは「民主主義のチャンピオン」の顔をしていた国までが、先導しているとは。

 この点で私には、ある感慨があります。1992年から(1995年まで)ニューヨークに駐在することになったので、当時の大統領であったブッシュ(父)の思想と行動に関心を持ちました。そこで、1989年1月20日の大統領の就任演説を調べたところ、その末尾にUnity, Diversity and Generosityという語を見つけました。現在も利用できる邦訳サイトに拠れば、その部分は以下の通りです(カッコ内の英文は筆者が追記)。
https://openshelf.appspot.com/UnitedStatesPresidentialInauguration/GeorgeHerbertWalkerBush.html

 「リーダーシップを、トランペットの音が聞こえてくる盛り上がるドラマとみている人もいるだろう。そして時々はそういうものかもしれない。しかし私は歴史とは多くのページがある一冊の本だと思っている。そして日々われわれは希望にみちた意味ある行為でその一ページを埋めていくのである。新たな風がふき、ページをめくり、物語が展開していく。そして今日新たな章がはじまり、短く威厳にみちた、団結(Unity)と多様性(Diversity)と寛容(Generosity)の物語が、共有して、ともに執筆される。」

 この同じ共和党から、現在の大統領が登場したことを、私たちはどう捉えたら良いのか、視点が定まらないでいます。一般的に言えば「団結」と「多様性」は両立が難しいものです。だからこそ「寛容」が必要なのであって、両立を諦めて「矛盾を武力によって解決する」毛沢東的手法が、許されるはずはありません。矛盾する要素の中和や妥協を図ること、つまり「二者択一」ではない選択肢を視野に入れることこそ、成熟した国家における政治家の役割ではないでしょうか。役割を果たさないプレイヤーには、退場を促すしかないと思います。

林「情報法」(46)

多元化と相対化を急いで要約する「○か×か」

 お盆休み中に本棚の整理をしていたら、私の恩人の一人である庄司薫(福田章二)氏が早くも1973年(つまり約半世紀前)に、なぜ「ぼくたち」が二者択一に走るのかを喝破していたことを再発見しました(庄司薫『狼なんてこわくない』中公文庫、pp.167-168)。ここで「恩人」と言ったのは、「成長とは自らの持つ可能性が結局は不可能性にしか過ぎない」(福田章二『喪失』あとがき、中央公論社、1959年)ことを教えてくれた、と私が「片思い」しているだけの話で、他にも存在する多くの「恩人」と同じく、直接の面識はありません。

・約半世紀前の指摘

 ○×式が持つ社会的な意味を「多元化と相対化を急いで要約するため」と、半世紀も前に的確に記述していたのは、庄司氏以外にいないと思います。

(前略)価値基準が多元化し相対化していく一方で、選択処理しなくてはならない情報が洪水のように増大するという、本来なら「要約」することの最も困難な状況の中で、そのあまりの困難のゆえにかえって不安に耐えきれず、性急な「要約」を、○×式要約を求めるという風潮が、現代の矛盾した社会全体の「方法」になっている。おかしいことは分かっていても、「他にしょうがないじゃないか」というその瞬間瞬間の「必要悪」としての「要約」が、歯どめを持たぬままどこまでも浸透しつつある。

 そして「恩人」のすごい所は、この現象の背後にある人間の本性にも触れていることです。前の文章には、直ちに次の分析が続きます。

しかもこの場合注目すべきことは、これがたんなる時代の「風潮」というのではなく、ぼくたち人間の本能的ともいうべき欲求に基づいている、という点にある。すなわちぼくは、民主主義という最大の知的フィクションを含むおよそあらゆる価値の相対化は、根本的にぼくたちの本能に反する性格を持っていると考える。たとえば、自分の「正しさ」を信じられる場合にも、なお無数の他者の「正しさ」を寛容に許すなどということは、ぼくたちにとって極めて不自然な「抑圧」とならざるを得ないのだ。そしてその不自然さは、言いかえれば、ぼくたち人間は、およそ敵味方がはっきりしない状況の中では本能的に不安でたまらない、という事実に対応するのは明らかにちがいない。ぼくたちは、明確な○×に代わる無数の「?」には本能的に耐えがたい。ぼくたちは、一刻でも早く敵味方を識別したい、少なくとも敵だけでも知っておきたい。たとえ粗雑な○×式に拠ろうとも、そしてまたそれが多くの誤解や偏見を含む危険があろうとも、ぼくたちはとにかく○と×を、いや×だけでもさっさとつけて自分の不安から逃れたい——。

 この分析は、現代の主要国リーダーの多く(あるいはほぼ全員)に当てはまることに驚きます。そして彼の直感から出た分析が、その後の学問的実験で証明されたことに、改めて驚きます。シーナ・アイエンガ―は、リーダーではない一般人においても、「選択肢が多いことが必ずしも歓迎されるとは限らない」ことを発見しました(桜井裕子訳『選択の科学』文春文庫、2010年)。

 その実験では、「24種類のジャムの売り場と、6種類のジャムの売り場では、前者は後者の10分の1しか売れなかった」といいます。科学的証明までは成されていないものの、チームやグループの構成メンバーは、最大でも7人、できれば5人か6人が良いという経験則とも合致します。

・情報の不確定性と「あれかこれか」の危険性

 恩人の指摘は「デジタル・トランスフォーメーション」が避けがたい現代では、さらに深刻になっているようです。デジタル世界では、1か0かを単位(bit = binary digit)として情報を表現するのが基本です。これは、情報の「意味」を考えることをとりあえず止めて、ビットで計算可能な「情報量」に基づいて、「形式」面だけに着目して情報を伝達・処理しようという、シャノンの「情報理論」に基づくものです。

 このようなデジタル的発想には、何でも「あれかこれか」の二者択一で考える誘因が潜んでいますが、世の中の事象がすべて「1か0か」で分類できるわけではありません。特に「言論の自由」が係るような「多元性の世界」では、「あれかこれか」の危険は常に強調しリマインドしておく必要があります。

 直近の例を見ても、漫画村に代表される著作権侵害サイトをネット上から削除(その実はアクセス不能化)すべきか否か、「言論の不自由展」といった企画を誰がどのように運営すべきかといった「際どい」事案については、慎重な判断が求められます。

 繰り返すようですが、情報の価値は時と場所と態様によって変化するもので、その「不確定性」こそ情報の本質なのですから、これを一刀両断に切り分けるのは至難の業であることを忘れないで欲しいと思います。

・「秘密保護のあり方」に適用した場合

 以上の懸念を情報法に適用した場合、わが国において秘密の保護法制が未整備の中で、EUの個人データ保護規制が先行するため、「バスに乗り遅れるな」とばかり、プライバシー保護優先主義が、無意識のうちに醸成されていることが心配です。さらに、その方法論がEUの影響を強く受けて「自己情報コントロール権」といった「基本権」あるいは「絶対的排他権」として議論されていて、英米法的プラグマティズムから離れていくことも懸念材料です。そこには、複雑に入り組んだ「二値的発想」の弊害が見て取れます。

 まず、人格権のような「不可侵の権利」と捉えれば、人格権の一種→絶対的排他権→差止命令、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)自己陶酔に陥る危険があります。ここでは、人格権から始まったはずなのに、前回紹介した所有権から始まる三段論の場合の、所有権類似→絶対的排他権→差止命令、といった三段論法と「うり二つ」になっていることにお気づきでしょう。

 第2の「二値的発想」は、プライバシーの保護がそれ以外の秘密の保護とは異質なものとされ、「特別な保護に値する」ものとされていることです。具体的に言えば、秘密の保護法制においては、a) 私人のプライバシー保護に資する「個人データ」の保護法制、b) 企業の秘密を保護する営業秘密の保護法制、c) 国家の機密を保護する特定秘密保護法制、の三者が適度のバランスをもって整備されるべきところ、a) だけが突出していることに警鐘を鳴らす人が少ないのです。

 営業秘密の3要件(① 非公知性、② 有用性、③ 秘密管理性)は、a) ~ c) の三種の秘密にほぼ共通ですが、特に② の「有用性」は「保有者が秘密だと思う情報はすべて保護される」のではなく、「保護されるには有用な情報であるという客観性が必要」という要件を課す点で重要です。つまり「主観秘」は保護の対象ではなく、「客観秘」であることが必要で、そのためにも ③ の管理性が必須になってきます。

 営業秘密と特定秘密はこうした要件を備えているのが普通ですが、プライバシーだけは主観的要素が強いので、より複雑な処理が必要になるのは避けられません。ところが現実は、そのプライバシー保護に「二者択一」を適用しているように見えます。私が「二者択一から三択になっただけでも大ジャンプ」と言うのは、こうした現象を念頭においてのことです。

 

林「情報法」(45)

二者択一と三択問題

 テレビのクイズ番組を見ていると、「AかBか」という二択問題が多いように感じます。朝方、同姓の林修さん(親戚ではありません)が登場する「ことば検定」は青・赤・緑の三択ですが、緑は番組スタッフが作る「選択肢もどき」(これもfakeの一種?)ですから、実質は二択です。これはなぜでしょうか? デジタル化やトランプ現象と関係があるのでしょうか? あまりに外気が暑いので、少し気楽に考えてみましょう。なお本テーマは、次回に続きます。

・法律は網羅的とは限らない

 前回述べたとおり、公開と秘匿の間は連続的なスぺクトラムとなっており、両極端だけを見ていたのでは、対処しきれない部分が出てきます。ところが、これまでの立法は、とりあえず中間的なグレイゾーンは後回しにして、典型的な例だけを扱うことが多かったように思います。前回は、公開と秘匿に加えて、真実か虚偽かというマトリクスを考えましたが、今回は後者の代わりに「情報の保有者が政府機関か民間企業か」という軸を使って、代表的な法律を示すと、以下の図表のようになります。

 この図表を一見しただけでは、それぞれの領域ごとに代表的な法律が揃っていて、よく整備されているように見えるかもしれません。しかし、個々の法律の適用範囲を子細に見ていくと、公開と秘匿や公的・私的保有者のスぺクトラムうち、重要な部分がいくつも抜け落ちていることに気づきます。

 最も新しい法である特定秘密保護法を例に取ると、これは長らく空白であった「行政機関の情報で秘匿すべきもの」について規定することで、法の欠缺(不存在)を補完するものです。しかし、それでもなお「行政機関以外の政府機関」(国会や裁判所)に関する立法は欠けたままです。ましてや政府と民間の協働による組織(Public-Private Partnership = PPP)や、公開と秘匿の境目にある情報の扱いなどは、カバーされていません。

・Controlled Unclassified Information

 公開と秘匿の中間があるなんて信じられないかもしれませんが、米国でCUI = Controlled Unclassified Information(秘密情報に分類されないが、なお取扱いに制限が課せられる情報)という矛盾に満ちた名前で呼ばれているものは、9.11でテロの事前抑止に失敗した教訓として注目されるようになった概念です。従来の Need-to-Know の原則に加え(場合によっては、それに代えて)、 Need-to-Share の必要性を指摘するものだからです。

 テロの教訓を踏まえて発出された大統領令(Executive Order)13556 は、情報を区分(classify)し、アクセスできる「有資格者」を制限すること(security clearance)も大切だが、インテリジェンス機関等で情報を共有することも、それに劣らず大事だという、ある種の意識改革を伴うものです。ご承知のように、情報は秘密と区分されるもの(classified information)とそうでないもの(unclassified)に明確に分けられ、前者はさらにtop secret・secret・confidentialに三分されます。

 ところが、こうした厳密な仕組みも、現場ではその通りには運用されていませんでした。9.11テロ以前から、unclassified情報の中にも、連邦政府の各機関でSBU(Sensitive But Unclassified)とか FOUO(For Official Use Only)という名称で、アクセスや配布が制限されてきた情報が100 種類以上あったとされます。これらを改めて、CUIという形で統一的に扱う方針を定めたのが上記の大統領令なのです。いわば「生活の知恵」として運用されてきた方法を、追認し正規化したという側面もあるのです。

 大統領令を受けて国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration)が政府部門のおける実施方針を策定し(2015 年 12 月 32 CFR 2000)、国立標準技術研究所(National Institute of Standard and Technology)が非政府部門への展開指針を定めています(2015 年 6 月 NIST 800-171)。特にわが国の企業が注目しているのが、政府調達との関連です。民間企業といえども、米国政府の仕組みと同等のルールを定め遵守していないと、「調達先として不適格」にされる(つまり米国政府の調達から除外される)リスクがあるからです。

 この問題は根深いもので、ファーウェイ事件などとも底流でつながっており、学者としては以下の諸点を解明する必要があると思っています。① なぜ CUI が必要なのか、② 連邦機関横通しの手続きはどこまで可能か、③ 従来のシステムからの移行はスムーズに進むのか、④ 移行費用や格付け担当者の育成はどうするのか、⑤ 情報の秘匿と共有のバランスはどうとるのか、⑥ 情報公開法(FOIA)との関連はどうか。

 しかし、とりあえず本稿との関連では、あれほどインテリジェンスに敏感な米国においても、情報を一意に分類することがいかに難しいかを示す事例として、理解していただければ良いかと思います。

・二択から三択への大ジャンプ

 さてわが国に戻って、ごく最近になって二択択一ではなく三択を前提にした法律が登場したので、私も驚きました。それは、7月1日から施行されたばかりの、改正不正競争防止法において導入された「限定提供データ」という概念です。従来から「営業秘密」として保護されるための3要件は、① 非公知性(公然とは知られていないこと)、② 有用性(法的に保護する利益があること)、③ 秘密管理性(情報の保有者が秘密として管理していること)と規定されています。

 これは秘密保護法の一般原則となり得る要件ですが、同法の規律対象は従来、同一社内の情報だけと考えられてきました。しかし現代の企業は、他社と対等な持ち分で合弁会社を持ったり、長期の供給契約で提携したり、コンソーシアムに参加したりと多様なビジネスを展開しており、上記の3要件が同一社内だけでなく、サプライ・チェーンの関係者の間等もカバーして欲しいとの要望が強くなってきました。データの共有が事業成功の要になる傾向が高まってきたため、「情報共有」に基づく事業展開が円滑に進められないと困るという訳です。

 そこで、「限定提供データ」という概念が導入されたのです。これは「業として特定の者に提供する情報として電磁的方法により相当量蓄積され、及び管理されている技術上又は営業上の情報(秘密として管理されているものを除く。)」をいうとされています(法第2条第7項)。条文のカッコ内が従来の「営業秘密」で、改正された部分は「それを超える」ものになります。

 本稿の文脈から見た限定提供データの画期性は、「データ」とりわけ電子化されたデータに着目した点も然ることながら、「公有(あるいは公開)と私有の間に限定共有という第3類型を認めた」点にあると思われます。一見すると大した工夫ではなさそうですが、実は法学は「二値的分類」を基本論理としているので、「二択が三択になった」だけでも、革命的な変化ともいえます。

 二択しかないとすれば、私が「所有権アナロジー」と呼んでいる現象、つまり情報という占有できない対象に関しても何らかの支配権が必要だと考え、「限りなく所有権に近い扱い」をしようとする誘因が生じます。現行法を変える必要もなく、所有権類似―>絶対的排他権―>差止命令可能、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)からです。「二択の魅力」に魂を奪われた結果と言えるかもしれませんが、これを三択に変えるだけでも、法律に対する見方が違ってきます。

 なお「限定提供データ」を私の専門分野との関連で見ると、サイバー・インシデント情報の共有は、立法事実としては挙げられていませんが、今後この制度を利用する可能性があるかどうか、慎重に見守って行きたいと思います。そこから再び「革命的」なアイディアが出現するかもしれません。

林「情報法」(44)

公開と真実の間

「嘘と秘密」の間に微妙な関係があることから類推すると、「公開と真実」の関係も一筋縄ではいかないようです。「公開情報」というと信ぴょう性が高そうに聞こえますが、その推定は意外に不確かであることが、フェイク・ニュースの氾濫で明らかになったからです。とすると、「情報が公開されれば真実に近づける」というのも限界があり、私たちは「公開と秘匿」と「真実と虚偽」のマトリクスの中で、嘘を見抜く力を身につけていく必要がありそうです。これこそ、サイバー・リテラシーの核心でしょうか。

・情報の公開と説明責任

 情報が社会生活にとって必要不可欠であることは、今さら言うまでもないでしょうが、学問の領域でそのことがしかと認識されたのは、「情報化」がかなり進んでからです。もちろん情報科学の分野では、コンピュータの実用化と同じ時期、つまり1940年代末から自覚されていました。しかし社会科学の分野では、1963年のケネス・アローの論文「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care」が最初とされ、何度も紹介した経済学の「情報の非対称性」の分析が、これを継いだと思われます。

 その後はあらゆる学問分野で、情報の重要性が説かれてきましたが、身近なのは、情報が不足したり歪んでいたりすることが経済取引にどう影響するかを考える経済学と、同じ状況で民主主義が可能かどうかを考える政治学の分野でしょう。特に後者は、「言論の自由」や「知る権利」を基礎づけることになるので、少なくとも民主主義国家では「基本中の基本」の理念となっています。

 しかし、その理念が実務手続として結実し、行政機関や民間企業が「情報を公開する」ことが、組織の社会的責任の一環とされるようになったのは、スエーデンなどの例を別にすれば、ごく最近のことです。情報の公開は関係者の請求を待って行なわれることもあります(受け身の情報公開)が、時代の加速化とともに、記者会見やホーム・ページでの発信、SNSへの投稿(積極的な情報開示)など、より迅速で手軽な手段へとシフトしています。トランプ大統領などは、その代表格と言えそうですが、当の本人が「フェイク・ニュース」の発信源でもあるのは何とも皮肉です。  

また直近の例では、話芸の才があるタレントを多数抱えた吉本興業の社長が、「こんな記者会見をしてはいけない」という反面教師になったのは、痛ましい感じさえします。情報化の時代には「沈黙は金」ではなく、「話さなければわからない」のは事実ですが、「話す量が多ければ効果も高い」し「洗いざらい話すのがベスト」とも言えないところがあります。

・公開―秘匿の軸と、真実―虚偽の軸

 それでは、情報の公開―秘匿の軸と、真実―虚偽の軸とを組み合わせてみると、どのような知見が得られるでしょうか? 次の表はそれを簡潔にまとめたものです。

 この表が教えてくれるのは、ITなどの技術進歩に伴って情報の公開が容易になる反面、情報を秘匿する手続が面倒になってコストがかかるため、公開情報の比率が高まって行く、という傾向のようにも思えます。確かに、技術進歩により従来とは桁違いの個人データが流通し蓄積されていくため、プロファイリングに伴うプライバシー侵害の危険が増大している、と心配する向きがあるのはもっともです。

 しかし、それは物事の一面にしか過ぎません。公開情報が増えれば、逆に私が「あなただけ情報」と呼んでいる、特定の相手にしか開示しない秘匿情報の価値も上昇するからです。インターネットの普及で過剰ともいえる情報が氾濫すると、「どれを信じて良いかわからない」状況になりますので、会員制の情報交換の場や会員制のチャットなど、さらには「永田町だけで流通する情報」など、限られた範囲だけで共有される情報の重要性も、高まってくるからです。

 しかも情報の価値には、2つのパラドクスがあります。第1のパラドクスは「誰もが知っている情報は価値が低い」と同時に、「誰も知らない情報」は同様に「価値が低い」か「極端に価値が高い」かの両極端に分かれるということです。最後の「極端に価値が高い」例は、すぐには思いつかないかもしれませんが、企業の秘密である営業秘密の例でいえば「コカコーラの原液の配合比率と配合手順」を、国家の秘密である「特定秘密」の例でいえば「金正恩の最新の健康状態」を想定してください。これらの情報が公開の場に出ることは少なく、如何に情報化が進んでも「特定少数者の間で共有されるだけ」に留まるのが通例です。

 そこで、情報の価値のスぺクトラムを次のように描けば、左端の価値は低く、右端の価値は低いものと極端に高いものに分かれ、中間の価値はそれなりに高いということになりそうです。

 ここで本稿の分類との関連では、「誰もが知っている」を「公開」と、「誰も知らない」を「秘匿」と結びつけるのは自然のことでしょう。すると、仮に倫理的にいえば「情報社会においては、なるべく多くの情報を公開すべきである」という命題が正しいとしても、経済学的には「情報は秘匿して価値を高めるのが良い」というインセンティブは消すことができないことになります。更に、倫理的には全く推奨できないにもかかわらず、「秘匿情報の中に嘘を混ぜておく」という作戦が、後を絶たないことになります。

 拙著において(そして本稿においても)、知財型情報の保護を論ずるとともに、それと同程度の密度を持って、秘密型情報の保護と管理方式を論じなければならないと力説しているのは、こうした理解に基づくものです。

・公開・秘匿と情報の価値

 しかし、以上の説明と若干矛盾するかもしれませんが、そもそも「情報の価値」は測定可能か、という第2のパラドクスがあります。物理的な財貨でも、設計者の意図とは違った利用法が市場で発見され、大ヒット商品に化けるということが、たまには起こり得ます。しかし情報の場合には、たまに起こるのではなく、それが常態になり「情報の不確定性」と呼ばれています。

 不確定になるのは、情報の価値が「時と場所と態様」によって、大きく変化するからです。「時」の変化とは、同じ私が同じ情報を得た場合にも、ある決断の前では大変な価値があるが、決断後には無意味になってしまう、といった例を想定してください。「場所」の変化としては、同じ情報を元にした提案書の社内会議をしても、イギリス支社では歓迎されたが、日本の本社では嫌われた、といった例を想定してください。「態様」は、同じ情報を上司に伝える場合と部下に伝える場合、さらには記者会見で公表する場合では、訴求点を変えないとアピールしない、といった例を考えていただけると良いかと思います。

 このような情報の特質は、量子論における「不確定性」(「シュレディンガーの猫」の比喩が有名です)と通ずるものがあるので、私はこの語を使っているのですが、「不確実性」とどう違うのかを未だに上手に説明できません(英語では両者ともuncertaintyです)。それどころか、理系の研究者からは「むやみに不確定性と言わない方が良い」という、親切な忠告も受けています。そこで、これ以上の深入りは止め、このような世界で生きていくためには、どのようなリテラシーが必要かを考えてみましょう。

・サイバー・リテラシーの核心

 情報化の深化、とりわけインターネットの登場以前には、「権威」が存在したと思います。ある分野の専門家、特定の技能や資格を持った人、創造力に富んだ表現者、政治家として尊敬を集まる人、などなど。こうした「権威」はある種「近寄りがたい」もので、事実直接面談することや、ノウハウを取得することは不可能に近い状態でした。

 ところが、インターネットに代表される情報技術の登場は、こうした「権威」を形式知化して伝達・理解可能なものに転換してしまいました。今後もAIの普及によって、形式知化と伝達・アクセス可能性は、ますます拡大していくでしょうから、この傾向はしばらく止まることはないと思われます。これは「権威の消滅」と理解することもできますが、その実は権威を解体して、「誰でも権威になれる」可能性を開いたともいえます。インターネットでは才能ある少数者だけが情報を発信するのではなく、誰でも発信者になれるからです。

 しかし、こうして情報量が飛躍的に伸びていく中で、権威が衰退していくと、頼るのは自分だけになってしまいます。これまでなら、マスメディアの言説は「一応信頼できる」として、それに頼ることができましたが、今日では誰が最も信頼できるのかは、極めて流動的になってしまいました(先の「情報の不確定性」につなげれば、「権威の不確定性」となるでしょうか)。

「自己責任」という言葉がしばしば聞かれるようになったのは、このような「権威なき社会」では、最終的には「自分を頼りにするしかない」からだと思われます。考えてみれば「情報処理有機体」(フロリディの用語では Informational Organism = Inforg)である人間が過酷な状況を生き延びてきたのは、「環境に対応するように情報処理を巧みに実践してきた」からかもしれません。その基本はリテラシーと呼ばれることが多いと思いますが、サイバー時代にふさわしい「サイバー・リテラシー」の核心は、「情報の真偽と価値を見抜く力」であろうと思われます。

林「情報法」(43)

秘密の法的保護

 前回までの議論を経て、嘘と秘密の間には微妙な関係があることが浮き彫りになりました。

 法学は嘘の方にもうまく対応できていませんが、秘密の方に至っては「ほとんど手つかず」の状態であると思われます。その原因は、秘密を守ること(言い換えれば「隠すこと」)に手を貸すことが、「正義を実現する」という法律の使命に沿わないと思われがちなことでしょう。これは世界に共通の傾向ですが、とりわけわが国では、2013年の特定秘密保護法により国家秘密を守る法律がやっと制定されたこと、しかもその法律には感情的とも思われる反対論が根強いことに、象徴的に示されています。

・情報の法的保護の区分:仮説としての「知財型と秘密型」

 拙著『情報法のリーガル・マインド』には、同じく『情報法』を冠する書物にはない幾つかの特色があります。中でも対象となる情報の法的保護の方法を、① 事前に権利(排他権)を付与するか、② 事後的に損害賠償で救済するだけか、と、a) 情報を公開して守るか、b) 情報を秘匿して守るか、という2つの軸で区分して、①+a) の代表格である知的財産型と、②+b) の典型である秘密型の2つ類型があると指摘した点が、他の書籍や論文にはない特色であると自負しています。

 このアイディアは、2017年の同書で初めて発表するものではなく、そこに至るには長い空白と悶々とした歴史がありました。まず前者については、学者になった当初(1997年)から著作権の研究を始めたため、比較的短時間で問題の核心に近づき、2001年の「『情報財』の取引と権利保護」(奥野正寛・池田信夫(編)『情報化と経済システムの転換』東洋経済新報社、所収)で、知財型保護のあり方と限界を論ずることができました。

 他方、秘密については情報セキュリティの3大要素がConfidentiality、Integrity、AvailabilityのCIAであるとする一般的理解に基づいて、まずはConfidentialityの法的な根拠を明らかにしようとして、2005年に「『秘密』の法的保護と管理義務―情報セキュリティを考える第一歩として」(富士通総研研究レポートNo. 243)をまとめました。しかしサブ・タイトルにもある通り、私の本業である「情報セキュリティ」の視点からアプローチしたため、知財型との接点を見出せないままでした。

 これでは前に進めないと思った私は、法学の初学者(当時私は経済学者から法学者に転向したばかりでした)には、「情報法」といった複合領域を論ずる資格がないことを自覚しつつも、ある種の「賭け」に出ました。2006年に、やや学問的な論稿として「『情報法』の体系化の試み」(『情報ネットワーク・ローレビュー』第5巻)を発表するとともに、日経新聞から執筆依頼を受けた機会を捉えて、一般の読者向けに「情報と安全の法制度」(「ゼミナール」欄にて12月に16回にわたって連載)を書きました。そして、これらの論稿を書くことで「情報法の一般理論」が存在し得ることと、拙いながらも私流の解釈ができるとの自信を得ました。

・思わぬ横槍とブレーク・スルー

 しかし他方で、思いもかけぬ妨害にも会いました。「今連載中の記事は、自分が既に書いたものの剽窃だ」という匿名の投書が編集部に舞い込み、私の筆を鈍らせると同時に、細部を知らぬ編集者に疑心暗鬼を招きました。この世界は狭いので、後刻投書者と思しき人物を突き止め、第三者立会いの下に「対決」しましたが、得るものはありませんでした。幸か不幸か、学者であった亡き父が同じような目にあったとき、「これで自分も相応の学者であることが証明された」と負け惜しみを言っていたことを思い出して、一人納得しました。

 しかし知財型と秘密型の二分論が、「個人情報」(私はこの用語が混乱を招く一因になっているとの認識から、講学上の概念としては「個人データ」という語に統一しています)の位置づけに役立たなければ、世間は納得しないでしょう。そこで私は2009年以降4年間の間に、「『個人データ』の法的保護:情報法の客体論・序説」(『情報セキュリティ総合科学』Vol.1 所収)を手始めに、主として『情報通信学会誌』への投稿(3回)を通じて、理論の精緻化を図りました。

 その集大成とも言うべきまとめは、2014年の「『秘密の法的保護』のあり方から『情報法』を考える」(『情報セキュリティ総合科学』Vol. 6)で、その結果「秘密型の情報保護」が存在し得ることも証明でき、やっと2つのタイプを対比的に統合するというブレーク・スルーに成功しました。

 その結果、拙著『情報法のリーガル・マインド』では「差止条件付き許諾権としての知的財産制度」「管理責任付き秘匿権としての秘密保護法制」として、両類型を分かり易く再類型化できたと思っています。しかし振り返れば、このテーマとの悪戦苦闘は15年以上に及んだことになります。

・知財型と秘密型の対比

 かくして類型化された知財型と秘密型の保護方式の違いは、同書の図表2-7.(p.91)にまとまられています。念のため、説明抜きで該当部分を再掲します。ここでは、この表以上に細かい説明はしませんので、疑問や関心をお持ちの向きは、直接拙著に当たってください。

・それでも敬遠される「秘密型」という概念

 こうして私の中では、「秘密の法的保護」の位置づけがクリアになったのですが、この理論が世間に受け入れられたかというと、残念ながらそうではありません。試しに、情報法関連の判例を参照するために「便利帳」として使わせていただいている、宍戸常寿(編) [2018]『新・判例ハンドブック[情報法]』(日本評論社)を見ると、以下の表のような分類を採用しています。ここでは知財型の判例が著作権を中心に多数収録されているのに対して、秘密型のものは営業秘密を含めて極めて少ない状況です。

 なお別の論点ですが、この表の末尾にある「情報と裁判過程」という分類は、私が強調した「情報法では実体法と同等かそれ以上に手続法が重要になる」という指摘と軌を一にする面があることにも、注目していただければと思います。表自体は、目次を転写したものに過ぎませんが、新しい分野であるだけに「分類それ自体が物語るファクトがある」という印象を持ちます。

 私としては、情報の法的保護の類型として「秘密型」があることをまず認識いただくと同時に、それには国家の秘密を守る特定秘密保護法や、企業の秘密を守る不正競争防止法、個人の秘密を守る個人データ保護法などが包摂されることを、理解していただきたいところです。

 また、秘密が法的に保護されるには、① 公知ではないこと(非公知性)、② 営業上または技術上有用であること(有用性)に加えて、③ 秘密として管理されていること(秘密管理性)、が必要です。これは営業秘密の3要件として確立された概念ですが、このうち ③ について「どのように管理すべきか」「情報へのアクセスにはどのような資格が必要か」については、これまで経済産業省が基準・ガイドラインとして示す「営業秘密管理指針」に委ねられ、行政庁もこれに準ずることとされてきました。

 しかし、前者については公文書管理法(2009年法律第66号)が、後者については特定秘密保護法(2013年法律第108号)が制定され、行政庁の文書管理と秘密情報へのアクセスについて、法的な手続きが明示されました。特に後者は「セキュリティ・クリアランス」を含むもので、これでやっと行政庁の情報保全(狭義のInformation Security = InfoSec)の制度が整ったことになります。

 今後は、営業秘密管理指針が行政庁にも準用されるというベクトルは修正され、行政庁の制度の方が民間企業へと浸透していくでしょう。ただし、秘密は「生もの」に似ていて賞味期限がありますから、秘密指定をするばかりで解除を怠ると、管理すべき対象が膨大になって漏えいのリスクが急激に高まることにも、留意しなければなりません。

 いずれにせよ私が主張する「秘密型」の情報保護が明確な形を取ったことになりますが、学界の反応は緩慢です。個人データ保護法の研究者が100人以上はいると思われるのに、特定秘密保護法をしっかり身につけた方は数えるほどしかいない現状は、世界標準から見れば「ガラパゴス状態」ではないかと思わざるを得ません。