林「情報法」(55)

『知財の理論』を読んで

 暮れも押し迫ったころ、田村善之さんから新著の『知財の理論』(有斐閣)を贈呈いただき、年末始の長い休みを使って、全巻を通読することができました。私が著作権の考察を足掛かりにして、「情報法」へと対象を広げてきたことはしばしば述べましたが、ここへきて「原点回帰」の機会をいただいたような気がして、感謝しています。という訳で今回は、私にとっての原点は何だったのか、を自問自答します。

・知的財産は、なぜ財産なのか?

 私は33年間という長いビジネス経験を経て、1997年に56歳にして学者に転じました。「少年老い易く、学成り難し」ですから、ピンポイントで焦点を定めなければ、学者らしい成果は出せそうにありません。そこで考えたのは、ビジネス経験の延長上に研究テーマを絞ることと、それを補う最適な学問分野を選定することでした。その結果、幸い情報産業はまだ成長の余地があり学問の対象になり得ること、コンテンツに縁が薄かった私にも、著作権を勉強すれば付加価値をつけることができそうだ、という理解に達しました。

 そこで、著作権を中心に知的財産の研究を始めたのですが、法学部出身ながら独学で経済学を学んだ私がまず違和感を持ったのは、概説書のほとんどが知的財産の定義はするものの、なぜそうなるのかを説明してくれなかったことです。これは現在でも残っている疑問で、例えば知的財産基本法2条1項の定義は、それに応えてくれません。

この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。

 このような中にあって、田村さんの『著作権法』(現在は第2版、2001年、有斐閣)は、唯一といえるほど、私と問題意識を共有するものでした。同書は、所有権と著作権の違いはもとより、「隅田川の花火を見る権利が成り立つか」、「成り立つとすれば所有権以外を根拠にできるか」といった問題設定で、知財の法的性格とその限界を描いています。要は、知的財産というものは、それがなければ「ただ乗り」が横行して創作や発明による文化や技術の発展に支障があるから、インセンティブとして政策的に付与する権利だというのです。

 このような発想は、一時代前の著作権研究者の理解(自然権論といい、人格の発露である知的生産物そのものが保護に値すると説く)とは対照的で、経済学を先に学んでおり米国在住の経験もあった私には、「しっくり」くるものでした。そのころ、偶々ローレンス・レッシグと知り合う機会があり、田村さんも私もクリエイティブ・コモンズの動きに少なからぬ貢献をし、影響も受けました。しかし法学のみを根拠に著作権を論ずる人たち(こちらの方が数も多く「主流派」と思われます)は、こうした「亜流」の発想を受け入れる気はなかったようです。

・情報法アプローチと知的財産法政策学アプローチ

 このような発想の差は、「知的財産として保護すべき情報はどこまでか」をめぐって先鋭化します。主流派からすれば、「知的財産を保護することが経済を活性化させる」と信じたいところでしょうが、経済分析の結果がそれを支持するとは限りません。そういう場合もあるでしょうが、ある情報に排他権を与えると、次の創作や発明を制約する面があるので、経済を停滞させるかもしれないからです。

 この点は、「言論の自由」を重んずる憲法論において、著作権がどのように扱われてきたかを知ると、より理解が深まるでしょう。2005年に出した拙著『情報メディア法』で私は、上記のような「著作権の二面性」を指摘しましたが、これは憲法学者にある種の刺激になったようです。長谷部恭男さんのような権威者が、その後「憲法学者も著作権を学ぶべし」と説いてくれたほどで、今日では「言論の自由と著作権の関係」は、憲法研究のサブ・テーマに昇格した(?)ように思われます。

 さて、ここまでは田村さんと私はかなり近い位置に居たのですが、その後私は「著作権をモデルに情報法を構想する」方向に進み、田村さんは「法解釈論よりも、その立法過程の歪みなどを研究する」方向を志向したので、やや疎遠になりました。田村さんは、その方法論を「知的財産法政策学」と称し、ジャーナル(『知的財産法政策学研究』)の発行等を通じて精力的に自ら論陣を張り、また多くの寄稿者に最新の研究成果発表の機会を提供したことは、わが国の知的財産研究史において特筆すべき貢献であったと言えるでしょう。

 その方法論の基礎にある考えを私流に要約すれば、「法を、妥協の産物である法文の解釈論で語るだけでは、不十分である」「法制定の過程で、権利者は団体を作ってロビーイングするので、その声は反映されやすいが、利用者は多数であるが分散しているので、その利害はまとまらず反映されにくい」「しかしインターネットが開いた道は、誰もが利用者でもあり創作者にもなれる世界なので、上記のバイアスは修正されるべきである」といった視点になると思われます。

 このような新しいアプローチには、新しい方法論が必要になりますが、田村さんは私のように苦労し挫折する(実は、私が経済学を諦めて法学に回帰したのは、トランプの出現まで預言することはできませんでしたが、経済学の「効率性第一主義」の危うさを直感的に感じたからです)ことなく、各種方法論の「良いとこ取り」を楽々と達成しているようです。つまり、もともと知的財産法学者としての研鑽と実績を基礎に、「法と経済学」とわざわざ銘打たなくても、そのエクスを十分吸収し、更には行動経済学や経済心理学の知見を自在に活用しているのは、羨ましい限りです。わが国で「法政策学」を最初に掲げた平井宜夫氏と、これを批判する星野英一氏の間で、激しい論争が繰り広げられたことが嘘のように思われます。

 米国の有名ロー・スクールでは、これらの知識が会計や金融の知識などとともに、裁判でも有用とされているようですから(ハウエル・ジャクソン他著、神田秀樹・草野耕三訳『数理法学概論』有斐閣、2014年)、当然のこととも思われますが、私自身は上述の挫折の経験から、「若い人はいいな」という羨望を拭えません。

・客体としての知財+関係的権利?

 さて全体的な評価よりも、実質的に私が今後の研究のためのヒントを得た具体的ポイントを紹介しましょう。まず田村さんが、従来から拠って立つインセンティブ論を維持しつつ、自然権論にも補足的役割を付与して両者を統合したことが印象的でした。両説の対立があまりに先鋭であったためか、田村さんは従来インセンティブ論だけを強く支持してきました。しかし本書では、インセンティブ論だけでは説明できない部分に、自然権論による説明が有効な場合があることを示しています。この点は、私も異論ありません。

 第2点は、法学における伝統的な発想は、「主体と客体」二分論でした。知的財産を「客体」とし、それに対して権利を有する者(主体)を想定し、その「権利の内容」を考えるというアプローチです。この点に関して彼は、従来から「機能的知的財産法」を志向し、「知的財産という客体がまず存在する」という発想を排除してきました。私が見る限り「権利の内容」が先に決まるべきだ、という発想に近かったと思われます。

 本書において、その発想はいよいよ洗練され、「知的財産は客体に関する権利ではなく、人々の行動の自由を制約する仕組みである」という「自由統制型知的財産法」の考えが前面に出ています。実は私も、情報法の基礎には「情報は本来自由に流通すべきものであり、それに規律を加えるのは、知的財産・秘密情報・違法(有害)情報の3つのパターンに該当する場合に限る」という着想を得て、同様の議論を展開しています(『情報法のリーガル・マインド』特に、第2章)。

 しかし私は、なおそのような「法的規律の対象としての情報」という概念から抜けきれないでいます。これは「客体論」を払拭できないことと同じです。ただし、客体の存在を認めることと、その権利内容が一意に決まることとは同義ではないとして、「主体と客体の関係性」の中に、その解を求めようとしているのですが、まだまだ模索中です。

 これに対して田村さんは、法律は文字情報による人々の行動の規律ですから、私流の「規律の手段としての情報」、特にメタファーによる影響を受けやすいとして、「知的創作物」(「物とは有体物をいう」という民法75条の規定に引きずられて、自然に有体物アナロジーになる)といった定義には、注意が必要だとしています。そうすると、本来の知的財産法は「知的創作に伴う利用行為の規律に関する法律」とすべきことになるのでしょうか? そして、そうした「純粋の行為規律」としての制定法は、「主体・客体」を中心に形成されてきた、わが国の法制の中に「座り心地良く」定着するのでしょうか?

 私は田村さんの主張に共感する点が多く、「わが意を得たり」という感触もある中で、なお検討すべき点が多いようにも感ぜざるを得ません。それは、本連載第21回「主体と客体に関する情報法の特異性」や第25回「馬の法か、サイバー法か、情報法か」で述べたような分析を続けていけば、「関係性の法」として同じ目的を達成できるのではないか、という淡い期待があるからです。私が10歳若ければ、田村さんと競い合うのですが、残念です。

 と言いつつも第3点として、田村さん自身がmuddling through(田村さんは「漸進的試行錯誤」と訳していますが、私は「難局を何とか切り抜ける」ではどうかと思っています)が不可避としていることに、学者としての良心を感じました。この分野はまだまだ「未開の荒野」であり、多くの参入者を得て開拓を進める余地があると信じています。

 なお最後に、一言だけお詫びを。実は田村さんのこの論文集は、過去に単独論文として発表済みのものをまとめたもので、多くは前述の『知的財産法政策学研究』が初出です。このジャーナルをいただいていながら、初出時に読み飛ばすか、積読したおいた怠惰をお許しください。なお田村さんご本人には、お礼とともに怠惰を直接お詫びしました。

林「情報法」(54)

A型企業とJ型企業(その2)

 前回に続いて、日本企業の特質を「現場で即応すべき情報に対して自律的権限を認める一方、人事管理を集中処理する」点に求める、故青木昌彦の理論を紹介します。これは西欧諸国特に米国に典型的な企業運営方法である「人事は分散処理だが、情報は集中処理」というタイプ(A型企業)とは違った、日本企業(J型企業)の特徴であるというのが、青木の主張ですが、それは今日でも有効でしょうか?

・NTTアメリカ社長としての私の経験

 私は1992年にNTTの100%子会社であるNTTアメリカ(ニューヨーク州法人)の社長に任命され、ニューヨーク市に赴任しました。シリコン・バレーにもオフィスがあったし、その後重要性を増したのですが、当時の最大の任務は日米貿易摩擦解消の一環として、NTTの調達を「内外無差別」にすることでした。平たく言えば、米国政府から非関税障壁などの不公正取引の嫌疑で睨まれないことだったので、政府機関のあるワシントンD.C. に近い必要があったのです。

 当時はまだバブルの余韻も残っていて日本企業の鼻息は荒く、米国企業から学ぶものは吸収し尽くしたので、米国子会社であっても経営の面で特段変わるところはないだろうと高をくくっていました。しかし着任早々、その考えは甘いことを知りました。驚きは2つに分かれます。

 1つは、社員を現地採用する際にjob descriptionがいかに大切か、しかもそれはワーカー・クラスの採用にとどまらず、将来重要なポストを任せようとするオフィサー(執行役)候補者についても必要なことを、教えられたことです。当時の日本企業は(現在でもその傾向はかなり残されていますが)、可塑性に富んだ優秀な若手を終身雇用の前提で採用し、いろいろな仕事を任せながら能力と適性を見極めていく、という人事制度を採っていました。私もそのプロセスを経る、いわゆる「本社採用組」でしたので、準幹部候補生にもjob descriptionが必要という事態に戸惑ったものです。

 もう1つの驚きは更に大きく、「米国企業は70年代の最悪期を脱し、80年代に製造業の生産性を回復させた上、新分野であるIT産業を発展させている。しかも、それをすべての産業の生産性向上に活用しつつある」という現状認識に至りました。これは「米国から学ぶべきものはない」という甘い認識を一転させるもので、何としても日本側に伝える必要があると考え、それなりの努力をしたのですが(「ITS資本主義による米国の優位」『季刊アスティオン1995 Spring』TBSブリタニカ」、「情報エコノミーに適応した新しい米国方式」『世界』1998年7月号などの論稿を参照)、力及ばず、日本経済がその後の「失われた30年」に陥落していったのは、悔やんでも悔み切れません。

 当時の米国企業の経営者は、日本に負けた製造業の生産性競争で盛り返すだけでなく、インターネットなどITの活用によってホワイトカラーの生産性で日本を引き離すことができると、直感的に信じたものと思われます。彼らにとって追い風だったのは、日本バッシングの風潮があったことに加えて、従業員を解雇するのが制度的に容易であるばかりか、それで業績が上がれば経営者には「巨額の報酬と名声」が約束されていたことかと思われます。

・90年代前半に委員会設置会社の役員に

 という訳で、日米企業の発想の違いを実感したつもりでいたのですが、1994年にNTT本社がNextelという新興企業に出資したのを機に、同社(NASDAQ上場の委員会設置会社、デラウェア法人)の8人の取締役の1人に加わったところ、日米のガバナンス構造に決定的ともいえる差があることを改めて認識させられました。当時日本には委員会設置会社はなかったと思われるので、私が稀有の体験で戸惑ったのも無理はないでしょう。

 この会社は、全米各地でタクシー無線などを運営している小規模の無線会社を買収して、全国ネットワークを構築しようというユニークな作戦を採っていました。取締役は創業者が2人、最大の出資者だったComcast(現在では全米最大のCATV会社)から2人、買収された会社の社長経験者が2人、松下通信とNTTという出資者から各1人という構成で、全員が指名・監査・報酬の3委員会のいずれかに属します。私は報酬委員になり、同社のofficerかその候補者以上に対するストック・オプションの制度を作ったことを、懐かしく思い出します(私自身にもオプションの権利があったのですが、行使しませんでした。その裏話をするとおもしろいのですが、脇道に逸れるので別途にします)。

 委員会設置会社は、わが国にも2002年の商法改正で導入され、2005年の会社法に取り込まれましたが、採用しているのは日産やソニーなど、グローバル展開を積極的に実施している企業に限られるようです。その理由は、委員会設置会社とそうでない会社の間で、取締役の役割が180度違ってくるからです。委員会設置会社の取締役は先のNextelの例にあるように、業務執行をしない者がほとんどであり、仮に監査委員にならないにしても、主たる任務は業務執行の監督ですから、旧来の日本企業の常識からすれば監査役相当になります。

 一方、わが国には世界に稀な監査役の制度があり、その機能に期待して組織を設計すれば、取締役は自ら執行業務に携わるプレイイング・マネジャーになります。もちろん、一部取締役は外部から来る「独立取締役」の場合もありますが、それは例外と考えられます。最近は欧米流のcorporate governanceが優勢とはいえ、完全な欧米型には抵抗があり、2014年に導入された監査等委員会設置会社は、両者を折衷するものとして採用が増えています。もっとも、いずれの場合も外部取締役が必要で、候補者の奪い合いが顕著なようです。

 つまり、日本企業では取締役は経営者であり、大株主のご機嫌を損ねなければ大きな裁量権を持っている。一般株主の権利は弱く、株主総会での発言の機会は少なく、経営状況に不満なら株を売るのが手っ取り早い(Hirschman [1970] “Exit, Voice, and Loyalty” Harvard Univ. Pressの軽妙な譬えによれば、voiceではなくexitが優先)。M&A(Merger & Acquisition)により会社が売買の対象になることは稀で、その場合でさえ解雇は例外とされており、労働者保護が厚いといった特徴を持っていると考えられます。

 これに対して、米国企業での取締役は監査役に近く、Principalである株主(voice型の「モノ言う株主」が大部分)に代わってAgentである経営者のパフォーマンスをチェックし、結果が芳しくなければ交代させる。また株主価値最大化のためならM&Aも考える。従って執行役を兼務する取締役は稀で、ほとんどが外部取締役で占められる。取締役の採用には、独自の外部労働市場があり、人事委員会は市場からふさわしい経営者を選任するといった具合に、前回紹介したエージェンシー理論を教科書通りに運用しているように見えました。

・A型企業とJ型企業

 このような経験をした後に帰国して学者に転じた私は、自身が慣れ親しんできた「日本的経営」とは何だったのか、それに対してNextelで得た経験は何だったのか、学問的な説明はできるのか、に関心を持ち続けていました。以前から付き合いのあった伊丹敬之の、日本的経営を「資本主義」(資本を中心に組織化される)ではなく「人本主義」(従業員を中心に組織化される)だと捉える考え方は、ユニークさに惹かれつつも日米をあまりに対比的に見る点で、得心するには至りませんでした。

 そこへ青木昌彦の業績を知り、また当の著者とも面識を得る機会があったことから、日米の企業経営の差を「A型企業とJ型企業」と類型化する考えに、深い感銘を受けました。

 青木の考えは、なお若干の「ゆらぎ」を持っていたように見えますが、『日本企業の組織と情報』で見る限り、以下のように要約することが許されるかと思います。

 ますA型企業の特徴として、以下の3点を摘出します(p.29 の記述を私流に再編集)

① 組織は明確に定義された「専門的」機能のもとに結集している
② 組織内の構成単位は、報告を受けるべき唯一の上司を持ち、2以上の構成単位間の調整は、彼らに共通の上司を経由してのみなされる、
③ すべての構成単位に対する上司である唯一の中央機関が存在する。

 これは私が経験した米国企業(A型企業)の組織上の特徴を簡潔に説明したもので、J型企業の特徴は、正反対のものと考えれば間違いないでしょう。

 その上で、こうした基本構造が企業経営にどのように反映されるかを考えるため、人材(従業員 = P)と情報(経営全体ではなく、現場レベルの意思決定 = I)という2つの経営資源の活用方法に関して、それぞれ中央集権的な管理(C)と分散的な管理(D)を想定し、どの組み合わせがA型企業とJ型企業にフィットするかを考察します。すると理論的にはCP、DPとCI、DIをどのように組み合わせても良いはずで、4通りの組み合わせがあるにもかかわらず、「西洋、とくにアメリカの事業組織(A企業)は、どちらかというと組織モードのスペクトラムのCI-DP側の方向に傾斜しており、他方、DI-CPの組合せは日本の事業組織により顕著である」(同上書p.118)というのです。

 確かに経営の意思決定とは別に、現場で起きた事故対策のようなオペレーショナルな意思決定の場合、A型企業では「必ず上司の指示を仰げ」というマニュアルに従わないと叱られる(情報の集中管理)のに対して、J型企業ではライン全体を止めるという大決断さえ現場の判断に任されているといいますから、情報管理が自律・分権的です。

 それではJ型企業で、会社全体のヒエラルキーをどう保っているかといえば、人事管理を一元化していて、どの社員にどの程度の権限を任せられるかを、社内資格を基準に標準化しているからだとされます。つまり人材を全社的に集中管理しており、これは事業部単位で採用・昇進を決めるA型企業と対照的です。

 このように青木理論は私の現場感覚にぴったりだったのですが、実は理論的にも、効率的であるのは、この組み合わせだけで、他のCI-CPとDI-DPは非効率になるというのです。つまり「組織的に有効であるためには、雇用契約は情報側面とインセンティブの側面において、双対的に分散化と集中化を結合する必要がある。この要請を満たす2つのパターンがCI-DPのA型と、DI-CPのJ型である」(p.149の第1双対原理を私流に読み替え)というのが青木理論のエッセンスです。

・青木の分析のその後

 このような理論の含意は何でしょうか? 青木とともにスタンフォード大学と縁が深かった故林敏彦が、書評で次のように述べているのは、核心をついています(『経済研究』42巻1号、1991年)。

 企業組織にとって最も重要なことは、個別要素を組織化するによって要素価値の単純和を超えるレントを生み出すことであり、その組織レントの分配は、経営者が仲介する株主と従業員との間の協力ゲームの解として、利潤と従業員福利に加重された目的関数を最大化するように行われる。こうして著者は、株主利益(株価)の最大化を目指す新古典派的企業と労働者一人当たりの付加価値を最大化する労働者自主管理企業の中間的存在として日本企業を位置づけ、企業に参加する資本の提供者、経営者、従業員の3者の間の協力ゲームの安定的均衡としてその企業行動を理解しようとする。

 これは当時の日本企業の内部分析として出色と思われましたが、その後の変化で色あせてしまったのは、残念なことです。その原因は、どこにあるのでしょうか? 著者が亡くなったため、日本企業のパフォーマンスが落ちたため、インターネットが経済のルールを変えたため、あるいはソ連の崩壊によって純粋の「資本主義」が優位に立ったため? 学問には終わりがないようです。

林「情報法」(53)

A型企業とJ型企業(その1)

 近代法において、私たち人間(自然人)が法律に定められた権利を享受する資格があるのは当然として、それ以外の有資格者(法的主体)として認められてきたのは、法人だけです。ところが自動運転車やロボット・AIなどが高度の知識を持つようになると、これらの者も主体になり得るか否かが問題になってきます。これは全く新しい議論のように思われがちですが、実は19世紀前半において法人に関する激しい論争(法人本質論)があったときも、類似の議論が交わされています。法学における議論が沈静化してからも、20世紀中葉以降の経済学において「法人とは何か」「法人のあり方に文化の違いがあるか」「どのような法人組織が効率的か」などの議論が展開されています。

 日本的企業を客観視するために、そのエキスを紹介したいのですが、1回では説明しきれないので、年をまたいで2回に分けました。後半は「お年玉」としてお待ちください。

・法学における法人本質論

 私が法学部で学んだ頃は、ドイツ流の法学が主流であったこともあって、「法人実在説」「法人擬制説」の違いについて随所で説明を受けました。前者は「法人は自然人と同様実在のもの」と考えるのに対して、後者は「法人は特に認められた場合に限り自然人に擬制することが許される」ものと考える点で対照的です。法解釈の実務でも、前者であれば法人設立の自由度と活動範囲は広く、また個人の行為か法人の行為かを比較的平等に割り振るのに対して、後者の考えに立てば法人の設立そのものが制限され、その行為の範囲も狭くなり個人の行為として扱われることが多くなります(その極限は、法人否定説になります)。

 資本主義経済の発展に伴って企業の役割が増し、また大企業の存在が無視できなくなるとともに、この概念論争ともいえる議論は次第に衰え、過去の議論になったかに見えます。事実、法の運用においても、大きな変貌がありました。かつては「法人擬制説」の見方が強く、法人格を得られない「権利能力なき社団」(同窓会やNPO的組織など)が、事務所や運転資金の借り入れで苦労する(代表者である個人名義でしか借りられない)などの苦労がありましたが、2006年の一般社団法人及び一般財団法人に関する法律の制定によって、これらの懸念はかなり緩和され、「法人実在説」に近付いたかに見えます。

 しかし従業員が企業目的を達成するために行なった行為が他者に損害を与えた場合に、それを個人の行為と見るか企業の行為と見るかは、現在でも問題になり得ます(個人の不法行為と法人の使用者責任の両方が認められているので、実行上deep pocketである企業の責任を追及する場合が多いでしょうが)。また税法の分野では、企業に対する法人税と個人に対する所得税が併存するのは妥当か、という議論があり得ます。法人税を認めることと、法人が政治資金を支出することを認める最高裁の判例とは整合的のように見えますが、法人に選挙権を認めるべきかとなると、考え込む人が多いでしょう。特許の原始的取得者は自然人ですが、会社が発明者(多くは従業員)から権利の譲渡等を受けることが多い現状をどう考えるべきでしょうか?(往々にして、見返りとしての「相当の利益」について争いが生ずることがあります)。

 このように民事法の分野では「法人実在説」に近い解釈が一般化していますが、刑事法の分野で、「法人が犯罪の行為者になり得るか」という設問をすれば、大方の学者はかなり否定的に答えるでしょう(特に、個人の行為がなく法人だけが処罰される可能性に関して)。現在頻発している組織不祥事に対する対策も、この点を考慮に入れて検討すべき時期ではないかと思います。

・法人の設立し易さ

 このような変化、特に民事法分野における変化にもかかわらず、どの国の法律が法人の設立に易しいかと言えば、少なくとも日本ではないと思われます。わが国の民法が33条において「法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない」と規定し、何らかの法的根拠を要請していること(「法人法定主義」)も影響しているかもしれません。

 この点に関して、私はこんな経験もしています。1980年代初頭にNTTの民営化に携わっていたころ、各国の動向を探ろうとAT&TやBTなどの代表的事業者の、社内経済学者と交流を始めました(どこの国でも電話料金は認可制だったので、規制当局を説得するため社内に経済学者がいたのです)。その交流はやがて国際学会の設立に至ったのですが、どの国で学会を設立するかで迷いました。

 最初は電気通信の国際機関であるITUの本部があるジュネーブが良いという意見が多く、発起人一同のサインまで集めたのですが、手続きが煩瑣なうえ、寄付に対して税控除を受けるのはほぼ不可能という情報が入りました。すると、米国の規制機関であるFCC出身の学者(彼はすでに学者専業になっていました)が、米国なら法人の設立は簡単だといって、あっという間に米国法人化し税控除も可能にしてくれました。米国では法人の設立は「結社の自由」として憲法で保障された権利なのだという感を強くしました。

 また、その10年ほど後にニューヨークに勤務することになった際、個人が好みの法人に寄付をした場合に税控除してくれる制度は、内国歳入法(IRS=Internal Revenue Act)501条 (c) (3) に規定されている有名な条項であることを知りました。時あたかも日本経済が曲がり角にあり、雇用調整が不可避になったため「転職後の年金の継続」が大問題となり、米国の年金ポータビリティ制度(勤め先が変わっても年金は継続する制度)が同法401条 (k) 項にあるため、「401 k」として有名になったころです。私はメディアへの出稿を依頼された場合、「501 (c) (3) もお忘れなく」と訴えたのですが、未だに実現していません。

 私の推測では、最大の反対者は財務省ではないかと思います。彼らの発想では、反社会的勢力を筆頭に、「税金逃れ」「節税」をしたい人はわんさといるので、501 (c) (3) をわが国に導入したら、税収が著しく減ってしまうことを恐れているのではないでしょうか。「ふるさと納税」の不適切な運用からすれば彼らの心配は分かりますが、わが国がデフレから脱却するには個人資産を流動化するしかないので、米国的「寄付文化」を移植するのが最適ではないかと思うのですが、読者の皆さんはいかがお考えでしょうか?

・法人に関する経済学の3つの見方

 ところで、経済学における法人の見方は、法学とは全く異なります。この分野の権威者でノーベル経済学賞候補ともいわれた故青木昌彦によれば、そこではエージェンシー理論、取引費用の経済学、協調ゲーム理論の3つが代表的説明だとされます(以下の記述は、最も分かりやすい『日本企業の組織と情報』東洋経済新報社、1989年、に拠っています)。

 エージェンシー理論は、法人を設立し所有するPrincipalは自ら企業を経営する時間と能力がないので、Agentとしての経営者に任せるのが一般的ですが(所有と経営の分離)、両者の利害は対立する場合が多いと見ます。そこでこの理論では、この対立を回避し如何に経営効率を上げるかを論ずるのが、経済学(特に「企業の経済学」)の役割だというのです。

 これに対して取引費用の経済学は、「個人ではなく企業が市場の主たるプレイヤーになったのはなぜか」という素朴な疑問から出発し、市場取引にはコストがかかるが、それを内部化する(例えば、職員を日々更新で雇うのではなく終身雇用とする)ことによってコストが削減されるなら、企業の方が有利になるからと答えます。もっとも、これは最初期の「取引費用の経済学」の答えで、現在では「契約の経済学」へと変質している面があります。それによれば、「企業は数多くの契約の束」という見方に近付き、「ブロック・チェーンによるスマート契約を絶えず更新し続けるのが企業の実態」だという見方になります。

 最後の協調ゲーム理論による見方とは、青木自身と彼の共同研究者がその後 CIA(Comparative Institutional Analysis)として体系化した方法論のはしりで、もし従業員が企業に特有の資産となるのであれば、企業の超過利潤の配分とそれにかかわる意思決定は、投資家と従業員の協調により決定されるのが効率的かつ組織的均衡である、という見方です。これはエージェンシー理論や取引費用の経済学が、「企業の生むレント(超過利潤)はresidual rightsとして最終的には株主に帰する」という点で一致しているのに対して、真向から反論するものです。

 ここで、2つの点に注意を喚起しておきたいと思います。まず第1点は、青木はもちろん自説である「協調ゲーム理論」を推奨しているのですが、それは先行するエージェンシー理論と、取引費用の経済学の成果をも踏まえていることです。そしてその源流が「コースの定理」で有名な R. Coaseの画期的な論文 ‘The Nature of the Firm’ (Economica, N.S. 4、1937年)にあることは、容易に推測できることです。つまり青木の理論は、米国の主流派経済学と親和性があると認められているのです。

 もう1点は、その当時における日本経済の位置づけです。「失われた30年」しか知らない不幸(?)な世代の方には想像できないでしょうが、本書を構成する英文論文は1980年代かそれ以前に執筆されたものであり、日本経済は光り輝いていました。Ezra F. Vogel の『Japan as Number One: Lessons for America』 がハーバード大学出版局から世に出たのが1979年のことですから、当然かもしれません。そのように注目されていた日本経済のことを知る米国の学者は少数派です。そこへ青木が「米国流の経済学の手法で異質とも思われる日本経済を解剖する」理論を展開したのですから、大いに注目を集めたことは容易に想像できます。

 お気づきになったかも知れませんが、先の「協調ゲーム理論」のプレイヤーとして、「企業の特有の資産となる従業員」という表現がありましたが、これが「熟練」や「終身雇用」といった日本企業の特質を連想させるのは、青木が両国の事情に明るいことを暗に示しています。さて前置きが長くなりすぎましたが、次回はいよいよ「J型企業とA型企業」の本質に迫ります。

 良いお年を。

 

林「情報法」(52)

Check‐Actの省略:日本人は「振り返らない」?

 前回の原稿で私自身も気になっている点は、「期間を限定した秘密の保護が大切だとしても、手続きが適正に定められ適正に運用されていることを、監視(モニタ‐)することはそもそも可能なのか?」という疑問です。人権侵害を防ぐには検証しておかなければならないクリティカルな質問ですが、そこにはわが国に固有の問題もありそうです。なお、この主題は、品質保証の偽装を論じた連載31回~35回と関係しますので、ご参照いただければ幸いです(なんと今年の1月~3月のことですので、年を取ると時間が早く過ぎるということを実感します)。

・Plan–Do–Check–Act ではなくPlan–Do–Plan–Do

 経営学やリスク管理などの教科書で、組織を運営しリスクを最小化するには、Plan–Do–Check–Act の手順を守ることだと説かれ、俗にPDCAサイクルと呼ばれています。初期にはCheckで止まっていたものにActが追加され、現在では更に周期が早いDODA(Direct–Observe–Decide–Act)に変えるべきだとの主張もありますが、なお有効性は失われていないと思います。

 というのも、DODAは朝鮮戦争における戦闘現場の知恵から生まれたもので、現場指揮官の意思決定には有効ですが、軍事においても全体の戦局を睨んだ意思決定は別に必要で、その基本はやはりPDCAの方がふさわしいからです。ところが、少なくともわが国の現状を見ると、PDCAではなくPDPD —-の繰り返しになっているように思えます。

 それには理由がありそうで、最大の要因は技術変化と社会変化が激しいために、Planを立てて実行している(Do)最中に、前提が変わってしまうことです。Pは全社の経営方針に従わなければなりませんから、経営環境が変わればやり直すのは当然で、その意味ではPDPD —-となるのは変化に即応した結果として、あながち否定すべきことでもないかもしれません(もっとも、官庁の人事のように2~3年のローテーションで担当が変わることでPDに戻るのは、回避すべきですが)。

 しかし同時に、見逃せない側面もあります。わが国の組織風土では、「計画を立てるのは偉い人で、実行するのは二流の人。さらに監査するのは、売り上げを稼げない人」という空気が拭えないからです。企業における「主流派」として役員を多く輩出している部門と、そうでない部門を思い浮かべていただければ、細かくご説明するまでもないでしょう。あるいは、自部門の長が監査役候補になったときに、盛大な内祝いをやるかどうか考えていただくだけで、十分かもしれません。

 ・監査軽視と「失敗学」の失敗(あるいは不成功?)

  確かに監査役という役どころ(監査委員会に属する社外取締役も同じです)は、「嬉しさも中くらい也」という微妙な位置にあります。正義感だけで直言を繰り返したのでは、すぐに煙たがられてしまい、提案を実現に近づけることができません。しかし他方で、忖度を繰り返す茶坊主になれば、何のために居るのか分からなくなってしまいます。この中間のどこかに「日本的最適解」があるのでしょうが、「正論を吐いて喜ばれた監査役」という具体例を、あまり聞いたことがありません。

 これは西欧諸国にも通用する人情かもしれませんが、外国ではその弊害を回避する手段を長年にわたって考案してきた(訴訟が多いのも、その一例でしょう)のに対して、わが国では依然としてCheckを軽視する組織運営が続いているように思えます。それは、畑村洋太郎氏が『失敗学のすすめ』(講談社、2005年)で提唱した「失敗学」が失敗した(少なくとも成功できない)理由を考えれば、直感的に理解できます。

 私たちは、起こってしまった失敗の直後には責任の追及に敏感ですが、しばらくすると次の仕事に追われて、失敗を将来の対策に生かすことには、あまり力が入らない傾向があります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺は、その弊を的確に表しています。マス・メディアの報道も、事実をベースに長期的な視点から分析して改善を促すのではなく、「経営層の責任を追及し謝罪させる」「経営層の辞任を促す」など、即興的で人目を惹きやすいトップ記事や、TV映えする映像を追及する弊があります。

 これに対して、工学者である畑村氏の提唱する失敗学は、責任追及よりもむしろ、(物理的・個人的な)直接原因と(人間工学的・組織的な)間接原因を究明し、それを今後に生かす学問のことです。そこでは、私たちが失敗に対して採るべき態度は、「失敗は許すが忘れない」という点に集約できるでしょう(この考えは、畑村さんご自身にも伝えたのですが、笑っておられただけでした)。

 この点にやや学問的な雰囲気(装飾?)を加えて、「『人間は間違える』ことを科学する」『Economic Review』(富士通総研 Vol.11 No.4、2007年)として発表したのですが、その発端は、私たち日本人が好む「水に流す」を英語では何というかと思って辞書を引いたところ、「Forgive and Forget」という熟語に行き着いたことでした。なお、論稿の表はその後一部を修正したので、最新版は以下のForgive‐Forget Matrixになります(修正点は、Never Forgive – Forgetを「論理矛盾」としていたのを改め、表にあるように「無かったことにする」と直した点と、「腹切り」に「仇討ち」を加えた点です)。

・「許すが忘れない」ことの難しさ

 この表の「許して忘れる」である「水に流す」と、「許さず忘れない」である「腹切り・仇討ち」とは、寛容主義と厳罰主義の代表例で、われわれ日本人はどうやら、どちらかの極端に走りがちなようです。「二者択一」の弊害について本連載で何回も強調しましたが、ここにもその傾向が読み取れます。日本人は、一般的には争いを好まない「穏やかな性格」の持ち主が多いと思われていますが、どこかに過激さを隠しているのかもしれません。そういえば、年末になると必ず「忠臣蔵」が演じられるのは、復讐心を潜めていることになるのでしょうか。

 しかしここでは、「無かったことにする」というパターンがあることに、より注目してください。セキュリティの面から言えば、これこそ最悪の対応で、責任がどこにあるかが不明確になるだけでなく、その後の改善策の立てようもありません。元の資料がなければ、監査のしようもありません。昨今生じた不祥事の多くが、この分類に属していることだけを見ても、このマトリクスの有効性が分かると思います。

 その対極にある「失敗学」、つまり「許すが忘れない」態度こそ、リスクやセキュリティに対応する人々の基本的規範となるべきですが、残念ながらそうなっていないのが現状です。人種や言語、宗教などで多様性に乏しいわが国では、「阿吽の呼吸」で分かりあってきたというのが背景にあるのかもしれませんが、グローバル化の時代に、それを続けることができないことは自明でしょう。

・情報のトリセツの可視化とCheck機能の強化

  今後の方向性を単純化して言えば、業務の取り扱い説明書(昨今ではトリセツという略語も使われるようです)を明確にして、「誰がやっても同じ結果が生まれるようにする」ことが、失敗を最小化する道であると認識することが第一歩かと思います。そのためには、業務をシステム的に理解して文書とフロー・チャートにするとともに、PDのプロセスと同等かそれ以上に、CAのプロセスを重視する必要があります。近未来の企業では、社長経験者が監査役をやっているという姿を想定すべきかもしれません。

 このことは、情報セキュリティの研究を15年も続けてきた私の、「セキュリティには病理学に加えて生理学が必要だ」という実感と符合しています。セキュリティは優れて実践ですから、インシデント(事故)を減らし抑制することに注力すべきは当然です。しかし、技術が激しい勢いで変化する時代に、事後対応だけに頼っていたのでは常に「後追い」になってしまいます。そこで、チェック機能を生かして「事故の背後にある原因」を追及し、防御の理論を構築しなければなりません。つまり「セキュリティの生理学」が必要なのです。

 Check–Actをおろそかにしていると、長期的には自分に跳ね返ってくることを、しかと認識すべきでしょう。しかし、南スーダンの日報問題、森友・加計学園問題における公文書の扱い、桜を見る会の事務処理などを見る限り、この道は遠くて険しいと思わざるを得ません。

林「情報法」(51)

GSOMIAの情報法的意味

 第48回で紹介したGSOMIA破棄問題は23日の期限切れを目前にして、韓国政府が「破棄通知の効力を停止する」という玉虫色の暫定決着となりました。態度急変の最大の要因は米国の圧力といわれ、韓国自身の考え方が変わったわけではないようですので、今後も火種を抱えたまま推移するものと思われます。そこで今回は政治的な側面とは離れ、この問題を情報法の観点からみるとどうなるかを、まとめておきましょう。

・国内の秘密保護法制の整備が前提

 GSOMIAの重要性を理解するには、協定が定める手続き的な面を知らなければなりません。GSOMIAは国家間における機密情報の共有を定めるものですが、その前提にはそれぞれの国内において、国家機密が十分に保護されていなければなりません。日ごろ議論に上ることが少ない(マス・メディアもあまり取り上げない)特定秘密保護法の仕組みが、GSOMIAの前提です。

 どこの国にも国家機密の保護法があり、それが政府調達などの官民関係などを媒介にして民間にも準用されていくので、秘密保護法制の基本形になっています。ところがわが国では、長い間国家機密を守る法律が無く、民間に適用される営業秘密保護法制(法律としては不正競争防止法)の枠組みが、官庁にも準用されるといった「逆転現象」が起きていました。この倒立した関係を正常化した点に、特定秘密保護法の意義があります。

 しかし法律制定後も,その意義に関する国民一般の理解は極めて遅れています。平和憲法の下で「有事」に備えることを回避する傾向があるのが最大の原因ですが、同時にわが国の企業風土が人的関係を重視し,手続きを通じてシステム化を進めることに気乗り薄なことも深く関係しています。その象徴的な例が「マニュアル」を評価しないことで、デジタルネイティブの若者の間では,西欧的なマニュアル文化に対する抵抗は少ないのですが,世代が上に進むに連れて,「経験と勘」に偏りがちです。

 有体物が中心の時代、あるいは製造業が中心の時代にはそれで良かったかもしれませんが、インターネットのような情報システムがインフラになった現代では、手続きを重視し「誰がやっても同じ結果が得られる」ように、システム化することが不可欠と思われます。

 そこで準拠すべき規範は何かというと、やはり軍事情報やインテリジェンス情報を管理する基準に勝るものはないと思われます。GSOMIAは、両当事国が同レベルの秘密保護法制を有していることを前提に、国家間の情報共有を律する仕組みですから、情報管理の国際モデルともいえるものです。

・秘密管理の7原則

 そこでは,a) 取り扱う情報に軽重を付ける(classification)、b) 取り扱う人の資格を審査する(security clearance)、c) この両者の組みあわせでNeed-to-Knowがない限り当該情報へのアクセスを許さない、d) 情報の窃用・漏示を厳しく罰する、e) 秘密の取り扱いは期間を限定し必要がなくなれば直ちに指定解除する、f) 濫用を防止する内部統制の仕組みを整える、g) 外部に独立した監視機関を設置する、の7つの手順が定められています。( GSOMIA では相手国の主権を尊重するので、これらの原則が明文で規定されていなくても、暗黙の前提となっていると言ってよいでしょう。)

 ここで a) では,取り扱う情報を top secret,secret,confidential,unclassifiedに分けるのが一般的です。しかし米国では、unclassifiedの再分類が100種類近くになったので、新たにCUI(Controlled Unclassified Information)として再整理しつつあります。b) は一種の資格審査で、米国では資格取得者が再就職で有利になるなど、一種の合法的discriminationではないかとさえ言われています。

 a) b) において参考になるのは、やはり米国の実例です。連邦政府の情報管理体制を整備する法律(FISMA = Federal Information Security Management Act of 2002)を作り、CISO(Chief Information Security Officer)を必須ポストとするほか、自らに「情報行動規範」を課し、同時に政府調達等を通じて民間にもそれに沿った運用を求めます(Office of Management and Budget所管)。そして、NIST(National Institute of Standards and Technology)がSP(Special Publication)シリーズによって、具体的な手続きをマニュアル化する、といった形で情報管理を手続面から枠にはめています。

 c) は、これらの背後にある大原則ですが、これを強調しすぎると情報の共有が進まないため、Need-to-Shareとのバランスが必要だとの議論を呼んでいます。また d) 守秘義務違反に対しては厳罰を科しますが、e) 秘密の指定期間が過ぎれば速やかに指定解除する、ことが定められています。f) は内部統制、g) は外部統制の仕組みで煩瑣のように見えますが、秘密を管理するには、それ相応の体制が不可欠と理解してください。

 上記の7原則は,特定秘密保護法の制定によって,わが国でもやっと法的に認められるようになりましたが,まだまだ世間に広く知られていません。そこで、わが国の民間企業は、準拠すべき手順として、ISO(International Organization for Standardization)が定めたISMS(Information Security Management System)や、米国NISTが推奨するSecurity Frameworkなど国際的なものや、わが国の内閣サイバーセキュリティセンターが定めた「政府機関等の情報セキュリティ対策のための統一基準(平成30年度版)」などを参考にし、あるいは準用しているのが現状です。

・秘密保護法制は「信頼」の制度化

 ここで大事な点は、このような仕組みは「一定期間に限り情報の流通範囲を制限する」ことが主眼であるため、「情報の扱いを面倒にして流通量を減らす」面があると同時に、「正当な手続きを経た扱いは責任を免れる」という効果をも有することです。情報は複製によってたやすく流通するので漏えいしがちなものですが、仮に流出が生じてもこの手順を守っていることを証明できれば責任を問われることはありません(故意犯の場合は別ですが)。つまり手順やマニュアルは、「信頼される当事者のみが情報を利用できる」ことを制度化し、その関係者間での共有を促進しているということもできます。

 しかし、このような理屈が、わが国の一部の人には理解してもらえないことも事実です。わが国には欧米並みのインテリジェンス機関がないため、それに関するリテラシーが欠けているからと思われます。マス・メディアなどでは 権力の恣意的運用による危険性を指摘していますが、その懸念自体はもっともです。しかし、それは本筋の理論ではない(危険性はないとは言えないが、運用をチェックするしかない)ということでしょう。

 例えば外交秘密のように「一定時期(例えば、交渉中)に限り秘密にし、できるだけ早期に公開する」という性格を持った情報が存在することは、認めるしかないでしょうし、企業にも同種の情報はたくさんあります。これは組織を運営したことがある人なら、当然知っていることかと思います。それを認めた上で、その管理をどうすべきかを議論しているのに、「存在そのものがけしからん」というのでは、話になりません。

 もっとも、公文書の破棄や改ざんなどが相次いでいる現状では、「信頼を制度化したら、その制度が悪用される」という疑念が生ずるのは、やむを得ないところでしょう。しかし、それを正す責任は有権者自身にありますし、「一定期間は秘密にするしかない」情報が存在することを前提に、「どのような手順や仕組みを設ければ濫用を最小化できるか」という面から、具体的に手続き論を進めるのが妥当だと思います。先の7原則の中で、f) 内部統制と g) 外部監視機関によるダブル・チェックの必要性を強調したのも、このような理解からです。

 私の立場は一見「政権寄り」ですが、その実「秘密の管理を徹底することで、秘密保持者の負担(責任)を加重する(原則 d)」や「秘匿の必要性がなくなったら可及的速やかに指定解除する(同 e)」ことを同時に主張しているので、その実「最も強硬な人権派」と理解していただければ幸いです。

・信頼がなければ協定があっても無意味

 さて、このような分析を踏まえて改めてGSOMIA問題を眺めてみると、最も大切な点は「日韓両国の間に信頼関係はあるのか」という疑問に収斂すると思わざるを得ません。「協定は信頼を制度化する」ものですが、「信頼そのものを生み出すことはできない」からです。手続きはあくまで手続きに過ぎず、実体として信頼関係がないところで協定を作っても「仏作って魂入れず」に終わるでしょう。

 その意味では、GSOMIAを議論することは、「将来の日韓関係をどうするのか」という大問題の1つのトピックに過ぎないと考えるべきでしょう。情報法においても同様に、「手続法がより重要」になるのは事実としても、「実体のない手続きは無意味」ということを暗示しているように思えます。

林「情報法」(50)

漫画村事件に見るインターネットの曲がり角

 前回は、いわゆる「漫画村事件」をめぐる諸問題のうち、違法著作物のサイト・ブロッキングや「通信の秘密」に関連するテーマを中心に報告しました。それは、学術会議のシンポジウムが、そのような問題意識の下で行なわれたからです。しかし本問題が示唆する論点には、インターネットの基本理念に再考を促すような、大きな問題提起が含まれています。

・権利者や管理団体の立場と、意見の分断

 まずは、著作権に関しての補足です。学術会議のシンポジウムの出席者は「著作物の利用者」側に立つ人が多く、何らかの事情で「審議会やロビーイング勢力の多数派を占める『著作権を所有権に準じて考える派』の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示する」と述べました。このような参加者の偏りのため、私が期待していた「立場を超えた公開討論」とは程遠いものになってしまいました。

 そこで、権利者や著作権管理団体の立場を聞きたいと思っていたところ、情報通信学会の研究会の1つで、そのような機会がありました。報告者はJASRAC(日本音楽著作権協会)の外部理事を経験されている玉井克哉教授(東大先端研)で、TPP(Trans Pacific Partnership)協定への高い評価や、著作権管理団体の役割への期待など、学術会議のシンポジウムでは聞けなかった視点を提供してもらい、大いに参考になりました。

 しかし、不思議な発見もしました。シンポジウムに出た田村教授(東大法学政治学研究科)が強調した「tolerated use」(寛容的利用)を、玉井教授も現在の著作権制度は「権利主張を控える目こぼしが前提」になっているとして、是認しているように見えたからです。また私がシンポジウムで強調した、「著作物は占有できない」ことにも、両者とも異論がないようでした。ところが、政策として何が必要かとなると180度意見を異にするように見えたことは、私の理解を超えていました。

 どこかで「ボタンの掛け違い」があったものと思われますが、今や著作権実務の世界と著作権法学の世界は共に、「権利重視派」と「自由利用派」に分断されたかの感があるのは、残念なことです。しかも、その分断が「インターネットは無法地帯」という誤解を生みだしかねないのは、さらに困ったことです。ごく最近も、インターネットの世界では著名なエンジニアから「著作権をめぐる混乱が、インターネットの信頼性そのものへの懐疑を生んでいる」という強い懸念の声を聞きました。

・インターネットの「自律・分散・協調」の限界と、代替案の不在

 このような事態になったのは、インターネットの側にも問題があります。初期のインターネットは「自律・分散・協調」の理想を掲げ、それを原理主義的に推進してきた感がありました。John Perry Barlow (Electronic Frontier Foundation の共同設立者)が起草し、インターネット商用化直後の1996年に発表された「サイバースペース独立宣言」は、「国家はインターネットの領域に入るべからず」と、「治外法権」を高らかに宣言するものでした(https://www.eff.org/cyberspace-independence)。

 こうした「インターネット原理主義」に近い主張は、翌1997年の「通信品位法」により(一部は憲法違反で効力を停止されましたが)、インターネットに流れる情報に関しても、伝統的な言論に関する法が適用されることを確認したことによって、否定されました。その翌年1998年の「デジタル・ミレニアム著作権法」は、ISP(Internet Service Provider)に、違法コンテンツのnotice-and takedown を義務化しました。これはISPがコモン・キャリアであっても、「違法情報を認識しつつ放置する」ことは許さないとするものでした。これらの法定化によって「サイバースペースの自由領域」は次第に制限され、逆に「インターネットは特別な領域ではなく、従来の法律が適用される」という理解が広まっていきました。

 しかし国内法においても、インターネットのガバナンスや、そこで運ばれる情報の扱いに関して、何らかの規律を定めるという試みは、なかなか進みませんでした。その原因としては、市場原理を取る国々では規制は一般的に忌避される傾向にあること(と、次節で説明する産業融合という現象)に加えて、以下のような国際分野における特殊事情が働いていたからと思われます。

 それは、『グローバリゼーション・パラドクス』(白水社、2014年)の著者であるロドリックの「トリレンマ(三方一両得ではなく、三者鼎立は不可能)」という概念です。邦訳者の1人である柴山教授によれば、その考え方は以下のように要約されます(訳者あとがき)。

「本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。(中略)市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、統治の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済が抱える最大の『逆説』がある、というのが著者の問題意識である。

 グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の 3 つのうち 2 つしか取ることができない、という本書の『トリレンマ』に従うなら、今後の世界には 3 つの道がある。①グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、②グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、③あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。」

 その結果、「インターネットは民主主義と同義に近く、国家主権よりも優先する価値がある」と考える西欧先進国は ③ を取り、「国家主権あってのインターネット」と考える中国・ロシア等の国々は ① を取るため、インターネットに関する国際秩序の形成がほぼ不可能になっているのです。

・メディア産業のPBC分類の限界と、融合法制の難しさ

 米国を代表とするインターネット先進国で、規制よりも自由を好む気風がなくならなかったのは、資本主義を信奉する国家間では当然であり、良かったといえるかもしれません。しかし、そのことが漫画村事件など、これまでの産業分類でいえば「新聞・放送・通信」の3分野にまたがるサービスが出てくると、「より規制が緩いルール」を適用せざるを得ない(つまり無法地帯になりかねない)という欠点につながっていきます。

 それは、「新聞・出版(Press)」「放送(Broadcasting)」「通信(Communications)」の3つのメディアが、産業秩序の基本がそれぞれ違っていることで垣根を作っていたのに、インターネットによる産業融合で次第に境目がなくなりつつあるという歴史を反映するものだからです。この三者の規律を、経済的規制(参入・退出や、料金規制などconduitに関する規制。以下 Cdと略記)と社会的規制(contentに関する規制。以下Ctと略記)の2つの面から分類したのが以下の表で、これは私が『インフォミュニケーションの時代』(中公新書、1984年)で定式化し、PBC分類と呼んだものです。 表が示す意味を箇条書きにすれば、次のように要約されます。

① 最も古いメディアである新聞・出版(P型)には、Ct規制もCd規制もないので、「言論の自由を最もよく保障している」ものと理解されてきた(Marketplace of Ideasも、これを念頭に置いたものと考えられる)。
② この対極にあるのが放送(B型)であり、Cd規制(電波の割り当て)Ct規制(番組編集準則)の両面の規制を受けるが、これは電波の希少性に由来し「規制によってこそ公共の福祉が実現される」ものと理解されてきた。
③ この両者に対して通信(C型)は、Cd規制は受けるものの、Ct規制は受けない(というよりも、そもそも通信の内容にタッチしてはならない)ものと理解され、「通信の秘密」は、そのような立場に特有の責務とされてきた。
④ ところがここに、PCBいずれの型にも収まらず、これらを融合した機能を持ったインターネットが登場したので、これをどの型に当てはめるか、あるいは新しい秩序を構築すべきか、検討する必要が出てきた。

 実は1984年の出版の時点では、未だインターネットは研究者仲間のマイナーなネットワークに過ぎなかったので、④ は将来の課題としておくことで十分でした。ところがその後1990年代半ばにインターネットが商用化されたので、これを表に付加すると、「Cdはあるが、Ctはない」つまり「参入・退出などに若干の規制はあるものの、社会的規制としてコンテンツの扱いは自由」ということかなと思っていました(確たる自信がなかったので、?を付けていました)。

 インターネットの進展とともに、この問題は次第に重要になってきたのですが、今日まで確固たる成果は出ていません。それは、インターネットが「情報処理(Data Processing)」産業の出自を持っているために、「コンピュータ産業は製造部門もサービス部門も、一度として政府規制を受けたことがない」という史実があり、また産業人がそれを誇りにしている、という事情が強く影響していると思われます。

 しかし、果たしてそれでよいのか、漫画村事件はその点を突き付けていると思われます。インターネットの本質はマルチメディア化、すなわち「メディアとメッセージが自由に結びつく」ことにあるので、「P型産業ならこの規律、B型なら別の規律」という切り分けができません。しかも境目のなさは、企業内や国内といった伝統的な境界も超えてグローバルに広がっていくので、産業秩序もグローバルな合意を得なければ実効性がありません。

 厄介ですが、私たちは現実を直視して、「この制度化に知恵を出した国がデジタル時代をリードすることになる」との期待を込めて、努力を惜しまないことが必要かと思われます。

林「情報法」(49)

著作権研究の原点に還って

 台風19号が去った直後の10月13日の日曜日に、学術会議法学委員会が主催する「著作権法上のダウンロード違法化に関する諸問題」という公開シンポジウムが開催され、私もパネリストの1人として参加しました。「情報法の観点から」というのが私に与えられた役割で、サイトブロッキングの妥当性(合法・違法性や有効性)や「通信の秘密」について所見を述べましたが、大きなテーマが著作権だったことが、私の参加意欲を一層高めました。著書で述べたように、私の情報法研究は、著作権をプロトタイプとして始まっているからです。いわば「著作権の原点に還った」ような半日を、予定を変更して、レポートします。

・多角的な著作権の見方と私の立場

 今回の出講依頼は、学術会議第3部会(理学・工学)に属する、セキュリティ研究者からいただきました。どうやら学術会議の第1部会(人文社会科学)に属する法学研究会が、第3部会と協力して運営するようでした。実際、趣旨説明者(佐藤岩夫氏)・司会者(松本氏)・総括者(高山氏)は、すべて第1部会の会員ですが、田村氏(著作権法)・亀井氏(刑法)・壇氏(弁護士)・佐藤一郎氏(情報学)・私(情報法)という組み合わせは、法学を主としながらも幅広い視点での議論を喚起しようという、企画側の意図と柔軟性を示しているように思えました。

 そして実際、当日の議論も、文化審議会著作権分科会における「やり取り」の裏話も含めて、忌憚のない意見交換に終始し、パネリスト相互間も「得るところが多かった」という見方で一致しました。主催者が集めたアンケートでも、問題を多角的に議論したことへの共感が表明されていました。ただ、そのことは逆に、審議会やロビーイング勢力の多数派を占める「著作権を所有権に準じて考える派」の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示するもので、本当の議論がなされたかは別途検証が必要かと思います。

 私個人は、「著作権が情報法のプロトタイプになり得る」という仮説(というよりも、一種の直感)から研究生活を始めたものの、すぐに「有体物の所有権と無体財である情報に関する権利とは違った側面が多い」という事実に気づき、「著作権をも包摂した情報法のあり方」へと研究テーマを微修正した経緯があります。したがって私は、「著作権」を盲信する人は、「無体財に関する法制度がどうあるべきかが分かっていない人」という疑いを払拭できません。

 具体的にいえば、登録を要さず(無方式主義で)著作権が発生し、しかもその権利保護期間が「著者の存命中+死後50年」という驚くべき長期にわたる制度を、法的に是認することができません。永久に続くはずの所有権の代表例である不動産でさえ、転々流通し所有者が変わるばかりか、相続が起きれば分割されるのが通例です。「死後50年」も相続財産として同一人物に帰属することは稀でしょう。数ある権利の中で、ひとり著作権だけが「超長期の排他権」を享受できると考えるのは、バランスを欠いているとしか思えません。

・「思想の自由市場」論の限界

 このような考え方は、情報法の考察を進めるにつれて、修正されるどころか、ますます確信に近くなっています。その例として当日挙げたのが、米国の憲法論に由来する「思想の市場」(Marketplace of Ideas)理論の妥当性です。

 これは、有体物が市場で自由に取引される(市場原理)のと同じように、「言論」という財貨も市場の取引を可能にすれば、優れた商品が生き残るのと同様、優れた言論が選ばれていくではないかという、超楽観主義です。資本主義社会における「言論の自由」を象徴する比喩としては、秀逸であるように思えます。

 しかし比喩は、直感的理解に役立つものの、厳密な理論としては以下の 5 点のような限界(市場の失敗)があることも、理解しておく必要があるでしょう(アンダーラインの部分は、今回のシンポジウムのテーマに関連する事項です)。

①価値の不確定性:アイディアあるいは思想(いずれも「情報」の一種)の価値は不確定で、「時と場所と態様」によって大きく変動するので、「一物一価」は成り立たない
②占有不可能性:情報に排他性を持たせることは不可能ではないが困難であり、登録を要件とする「知的財産」か、秘密管理を厳密にした「秘密情報」に適用するのがやっとである(しかも、著作権には前者の要件が欠けている)。
複製容易性:占有可能な有体物の引き渡しよりも、占有不可能だが複製で拡散する情報財の複製物の方が、技術の進化により容易に流通する
④返還不可能性:情報は一旦流出したら取り戻すことができないし、随所に複製されているので、返還の意味もない。
⑤法的救済の不十分性:損害賠償を主とする従来の「事後救済」中心主義では、被害者の期待に応えられない。差止めを中心とした「事前」あるいは「即時」救済の方法を検討する必要がある。

・サイトブロッキングと「通信の秘密」

 情報法的観点から、当日私に期待されていたコメントの1つは、「通信の秘密」に関するものでした。特に、「サイトブロッキングは通信の秘密の侵害に当たる」という理解(一部は誤解と思われます)が広まっているので、いささか専門的になるのですが、これに触れないわけにはいきませんでした。

 まず私は、海賊版(著作権侵害)サイトを何とかしたいという、一般感情があるのではないかと指摘しました。ブロッキングを含め検討したいとの NTT 鵜浦社長(当時)の発言に賛否両論があったものの、海賊版サイトを無くしたいという点では一致しているかに思えたからです。  

 しかし、その手段としてブロッキングが適切かというと、それはアクセス・サービスの提供者がアクセスをブロックするという「禁じ手」としか思えません。また、アクセスの遮断は、当該言論を流通させないことと同義なので、児童ポルノのブロッキングが慎重な検討過程を経てきたこととのバランスからしても、十分な議論が望まれます。

 実はサイトブロッキングは、こうした適法・違法論とは別に、果たして実効性があるのかという議論もあるのですが、この点は技術者である佐藤パネリストに期待していたところ、実に分かりやすく問題点を指摘してくれました(結論は、想像通り、あまり実効的ではないということでした)。

 そこで私は、当該行為の「通信の秘密」との関係に集中することができましたが、この点に関しては2つの対極的な見方があります。「通信の秘密」の侵害であるという大方の理解と、厳密な法理論では侵害を証明することが難しいとの見方(伊藤真・前田哲夫 [2018]「サイトブロッキングと通信の秘密」『コピライト』No.690)です。ただし、後者は「電気通信」の定義のうち「他人の通信の媒介」(電気通信事業法2条三号前段)には当たらないというだけで、「電気通信設備を他人の通信の用に供する」(同条同号後段)に当たるかどうかを検討していないので、「通信の秘密」侵害の恐れがあることまでは、通説化していると思ってよいでしょう。

 しかし、本件は「通信の秘密」侵害の心配よりも、「検閲の禁止」(事業法3条、憲法21条2項前段)や「利用の公平」(事業法6条)の侵害につながる恐れが強いからこそ、懸念が広がったのではないかと思われます。前者は国家権力に対するものだと考えられてきましたが、今日では「私企業による検閲類似行為」(特にプラットフォーマと呼ばれるグローバル企業)によるプライバシー侵害に、より強い懸念が示されているからです。

 なお、電気通信事業法の「検閲の禁止」と「通信の秘密」の該当条文は、彼らにも適用されることになっています(同法164条3項)が、米国の1934年通信法では同種の規定がないので、日本で営業活動を行なっている米国系 プラットフォーマには、そのような発想がそもそも欠落していると推定されます。

 さて残念ながら「通信の秘密」と「検閲の禁止」の関係について、憲法学者が大いに議論してきたという事実はないようです。それだけ侵害が少なかったとすれば、その事実自体は大いに評価されるべきことです。とすると、より根本的な問題は、知的財産という形での「物権的保護」以外の保護方式が、十分に検討されていないこと(個人データにも物権的保護が先行して検討され、「情報は占有になじまない」点が軽視されている)にあるように思えます。著作権の考察を超えて、情報法へと進んできた私の出番かもしれません。

・「通信の秘密」における4つの厳格解釈と1つの原則

 ところで、わが国の「通信の秘密」に関する解釈と運用は、おそらく「世界一厳格」と言ってよさそうです。これは「自由の国アメリカ」で3年半生活し、おそらく頻繁に通信傍受の対象になっていたであろう私の、個人的経験から出た感想ですので、立証できないのが残念です(私は私企業であるNTTアメリカの社長であったに過ぎませんが、NTTの調達問題に関して日米政府間の協定が結ばれ、その実行部隊の長として誠実な実施が義務付けられていたこと、スノーデンの暴露によってアメリカの通信傍受が大規模に、かつ長期間にわたって行なわれてきたこと、が傍証です)。

 その厳格さは、以下の4つの解釈と、その背景にある1つの原則の基づくものだ、というのが私の見立てです。4つの厳格解釈とは、以下のものをいいます。

①検閲の禁止は絶対的なものだが、通信の秘密もそれと同程度だとする(後者は本来、比較衡量により判断すべきものだが、それを否定)。
②通信内容とログ(通信履歴)を区別せず、ともに同程度に保護されるものと考える(事業法4条1項の「通 信の秘密」を広義に捉え、同条2項の「他人の秘密」を極めて限定的に捉えることとパラレル)。
③通信内容やログの取得が公共の福祉(犯罪捜査等)のために必要だとしても、取得には裁判所の令状が必要だとし、かつ厳格に審査する(取得と漏示・窃用を区別せず、かつ行政傍受等も否定)。
④バルク取得(全通信履歴の無差別的取得)は認めず、令状は案件ごとに必要だとする。

 そして、これらの厳格解釈の背景にある1つの原則とは、「通信事業者は、通信には手を触れてはならない」(hands-off)というものです。これはインターネットの登場(法的には「プロバイダ責任(制限)法」の制定)以降維持できないし、「通信」と「情報処理」を峻別してきた米国でも、相互浸透を是認する方向にある(「高度サービス」の提供者にも、通信法におけるコモン・キャリア規制を適用するという規則は、なお議論されている)ことを考えると、抜本的な見直しの時期に来ているのではないかと思います。

・個人的感慨

 今回の企画は、私の著作権への関心を呼び覚ましてくれました。1997年に学者専業に転ずると同時に、著作権の研究を始めたことは「直感的だが正しい選択」であったことが確認できました。しかし、その後の長い考察にもかかわらず、達成できたことがあまりに少ないことに驚くと同時に、パネリストと共有できる点が多かったことから、あきらめず前進する勇気をいただきました。この企画をされた関係者にお礼を申し上げます。

林「情報法」(48)

GSOMIA破棄という二者択一

 「遠交近攻」という四字熟語が暗示するのは、「隣国との摩擦を回避するため遠い国と仲良くして集団としての安全を図る」戦略の有効性です。ただでさえ隣国との関係は難しいのに、一時期支配・従属の関係にあった日本と韓国が仲良くするのは、更に難しい課題でしょう。それにしても昨今の相互不信は「度を越えている」と考える人が多いのではないでしょうか? GSOMIA(General Security of Military Information Agreement)を例に、二者択一の限界と、「超えてはならない一線」がどこにあるのかを、考えてみましょう。

 ・自由貿易の例外としての輸出管理と優遇措置

  最近における日韓関係の悪化は、元慰安婦や元徴用工問題を二国間協定で解決したはずなのに、それを韓国側が「国内の裁判所が判断する被害者の法的救済は、国際関係とは別」などと、理解できない屁理屈で履行しないことに端を発しています。したがって、史上最悪とも評される両国関係の改善には、歴史認識などの深い理解が必要ですが、ここでは輸出管理の強化以降の問題に絞って議論しましょう。

 グローバル化の進展に伴って、貿易の障壁となる規制はなるべく撤廃しようという動きが強まり、「輸出入に関する規制はない方がよい」というコンセンサスが(少なくともトランプの登場以前には)できつつありました。しかし、北朝鮮の核実験やミサイル発射等にも見られるように、大量破壊兵器や通常兵器の拡散が「自由貿易」の間隙をついて横行していることが、大きな国際問題となっていました。

 これに対して、わが国は、安全保障と国際的な平和・安全の維持の観点から、大量破壊兵器や通常兵器の開発・製造等に関連する資機材・関連汎用品の輸出や、これらの関連技術の非居住者への提供について、外国為替及び外国貿易法(「外為法」)に基づいて、必要最小限の国家管理を実施しています。WTO(World Trade Organization)協定には安全保障を理由に貿易制限ができる例外規定があるので、これに依っているのです。

 この制度の下では、外為法で規制されている貨物や技術を輸出(提供)しようとする場合は、原則として経済産業大臣の許可を受ける必要があります。外為法に基づく規制は、化学兵器禁止条約等の条約に基づくものと、欧米先進諸国等が中心となって参加する国際的な輸出管理に関する合意(国際輸出管理レジーム)等に基づくものがあります。

 各国政府は軍事転用の恐れが大きい規制品目を輸出する場合、輸出企業に許可手続きを求めていますが、輸出先の国自身が厳しく輸出管理をしていると判断した場合、手続きを簡略化する優遇措置も認めています。具体的には、相手国の輸出管理制度の信頼度をランク付けして、優遇するのです。最上位の「グループA」は優遇措置が最も大きく、アジアで唯一となる韓国を含めて米国や英国など27か国が対象でした。しかし、日本政府は韓国の体制を「脆弱」と判断し、まず7月に韓国向けの半導体材料などの輸出管理を厳しくすることとし、その後8月28日から、最上位の格付けから除外し「グループB」に移しました。

 これに対して韓国も9月16日、本件はもともと元徴用工問題に対する報復であり、「政治的動機による差別的な措置」であるとして、加盟国間での貿易の差別を禁じる「最恵国待遇」のWTO原則に反するとして提訴しました。さらに9月18日、安全保障上の輸出管理で、優遇する国のグループから日本を除外しました。相互不信は、遂に報復合戦になってしまったのです。

・GSOMIA(General Security of Military Information Agreement

 しかも報復は貿易にとどまらず、国家間で軍事上の機密情報を提供し合い、共有し、また他国への漏えいを防ぐことを目的として締結される二国間協定である、GSOMIAの更新拒否(韓国の一方的離脱)にまで及びました。GSOMIAは普通名詞ですが、今問題になっているのは日韓における「秘密軍事情報の保護に関する日本国政府と大韓民国政府との間の協定」のことで、難産の末2016年に締結され、1年ごとに自動更新されてきました。終了させる場合は、更新期限の90日前(8月24日)までに相手国へ通告することとなっていたところ、2019年8月22日に韓国側が協定の破棄を決定し、日本側に伝達したのです(現協定は11月23日までは有効です)。

 日韓におけるGSOMIAの必要性は、言うまでもなく北朝鮮問題と不可分です。北のミサイルの射程圏内にある両国にとっては、軍事情報を共有し不測の事態に備えることが死活的に重要だからです。「日韓の協定が破棄されても2016年以前に戻るだけで、米国との協定が生きている限り、米国経由で情報を入手できるので被害は少ない」との見方もありますが、それは有事における「時間」の大切さを忘れた議論でしょう。韓国から直で入手できる場合に比べ、韓国が米国に提供する情報を米国経由で入手する場合には、貴重な時間を浪費してしまいます。

 また「地球が丸い」以上、発射直後における情報は、日本からはキャッチしにくい点を過小評価してはなりません。この初期の数十秒が決定的な意味を持つことがあり得ます。加えて、閉鎖社会である北朝鮮に関する人的情報(ヒューマン・インテリジェンス)は、韓国に依存せざるを得ないことも認めざるを得ません。このような不利益は韓国にはないので、彼らは失うものはないとお考えかもしれませんが、実はそうではありません。

 わが国は偵察衛星を持っているほか、ソ連による大韓航空撃墜事件の際にその一部始終を傍受するなど、無線の分野のインテリジェンス力はかなりのものです。また、潜水艦の動きをキャッチする能力も優れているとされます。しかし、わが国だけで得られる情報には、当然限界があります。そこで、米国を軸にしつつ日韓が協力して、北朝鮮に関する情報を共有し対処するのが、一番理にかなっているのです。この事情は、わが国だけでなく、韓国の関係者にも共有されている認識(知らぬは大統領ばかりなり)であろうと思います。

・レッド・ラインを超えた韓国

 それではなぜ、韓国はGSOMIA  の破棄を選んだのでしょうか? 韓国では、右派と左派が融和不可能なほどの対立関係にあり、左派の文大統領の優先順位は「民主主義」よりも「祖国統一」の方にあるのかもしれません。つまり、日米流の自由主義体制を選ぶか、北朝鮮に寄り添った祖国統一を選ぶかという「二者択一」的発想では、後者を選択することに決めている「確信犯」ではないかと思えるのです。このような「二者択一」的発想の限界については、この連載で注意を喚起してきたところです。

 しかし、ここでより視野を広げて、1989年のベルリンの壁の崩壊をまたいで、一時期ドイツ統一や東欧の西欧化をウオッチする機会のあった、私の個人的体験を披露させてください。ドイツの統一にせよ、東欧諸国の旧ソ連からの解放にせよ、より強権的なシステムと、より自由なシステムとを統合するには、「より自由」な方に合わせるしかないというのが歴史的事実です。仮にこのトレンドに反する統合を企てれば、その政権がやがて終焉を迎え、「統合のやり直し」が行なわれるまで、混乱は避けられないでしょう。

 文大統領は、個人的な心情として、金正日に親近感を感じているのかもしれません。しかし、一国の統治者として「二者択一」しかないと決め込み、「北による韓国併合」ともいえる案を自ら推進するとすれば、自殺行為ではないでしょうか? わが国のみならず、西洋諸国はそのような指導者を信頼することはできません。トランプ大統領でさえ「南抜きでの北との直接交渉」を進めていますし、肝心の金正日も「文政権相手にせず」を貫いています。政治面のみならず経済面においては、韓国企業が西欧諸国と取引するうえで支障が出ることも想定されます。

 確かに、これらの国々が共有する価値である民主主義は、現実主義者で皮肉屋のチャーチル元英国首相によれば、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という程度の、相対的優位性しか持たないものです。しかし、一旦民主主義世界で生活した人が、強権主義の命令に従わなければならなくなったら、その優位性を「絶対的」と言ってよいほどに感ずるでしょう。「一国二制度」の香港で、「現状維持」が如何に「革新的」とみなされているかを見れば、このギャップの大きさを感ずることができるでしょう(上述のように私は、旧東ドイツや東欧諸国を訪問することで、実感してきました)。

 文大統領が、民主主義を捨てても祖国統一を志向するなら、もはや「超えてはならない一線(レッド・ライン)を越えた」と評するしかないと思います。ただし、そのような最終判断を下すには、もう一度GSOMIAが何を目指しており、手続き的にはどのようなことを期待しているのかを、細部まで見ておく必要があります。その点は、GSOMIAを情報法的に解釈するという別のテーマになりますので、次回まとめて説明します。

林「情報法」(47)

二者択一の政治状況

 「○か×か」の二者択一は、政治家が一番好むようです。私は1999年に「NHKは民営化して世界最大のペイ・テレビになればよい」と主張した者(拙稿「放送人よ、目を覚ませ:『地上波テレビの全デジタル化』7つの神話」『情報通信アウトルック ’99』 NTT出版)ですが、20年を経てそれと同じ趣旨を、唯一の公約にした政党が出現したことに驚きました。そして、その政党が参議院選挙で議席を獲得したことに、二度ビックリです。三度目のビックリもあるのでしょうか。世界中が「○か×か」の衆愚政治に陥っているのでしょうか。

・「一億総白痴化」と「衆愚政治」の経済学

 経済学(者)は、「一見非合理と思われる事象にも合理性が潜んでいる」ことを見抜く力を持っています。それは「合理的経済人」(rational person)を前提にした学問の、優位性かも知れません。リード文で触れた論文を書いている最中に、エコノミストのI氏から「テレビ番組が俗悪化することは必然で、大宅壮一氏の言う『一億総白痴化』は止めようがない」というご託宣を聞いたのは、経済学の初学者だった私には新鮮な驚きでした。

 I氏の説明は、大要以下のようなものでした。民間のテレビ局は当然のことながら、利潤の最大化を目指している。利潤の太宗は広告収入で、それは「視聴率」に連動しているから、「視聴率」を上げる必要がある。そのためには、番組の多くが国民の多数が好んで見るものでなければならない。ここで国民の知的レベルは正規分布していると考えると、「多数に見てもらえる」には平均人をターゲットにしたのではだめで、より知的レベルの低い視聴者を取り込んでいかざるを得ない。よって番組は「低俗化」せざるを得ない——–。

 実は、この分析の後に、「しからば公共放送であるNHKの役割をどう考えるか」という、やや高尚(?)な議論が続き、先生であるI 氏は「NHKは、ニュース・スポーツ・ドラマ・演芸・教養・教育番組などを総合的に提供し、総合的な収支均衡を図ればよい。加えて、災害放送やローカル・ニュースの提供など公共的な役割もある」という伝統的な見解でした。これに対して、弟子である私が「そうした高尚な志向のある視聴者は、支払意思(willingness-to-pay)があるので、NHKをペイTVにしても加入者はさほど減らないだろう。民営化して、もっと活力が出る仕組みに変えた方が良い」と主張したのが、上述の論稿で展開した私のNHK論でした。

 ここで本来の議論に戻れば、「一億総白痴化は不可避」という結論に至るまでの「視聴率」を「得票率」と、「より知的レベルの低い視聴者」を「国民全員に投票権がある」と読み替えれば、「衆愚政治は不可避」との結論に到達することは間違いありません。

・多数決原理の限界とグローバル化の逆説

 これは親しい先生と弟子の間の「思考実験」であることは両者とも承知の上の、楽しい会話でした。それが、現実の政治のテーマになり、一定の力を持つようになるとは、どうしたことでしょうか。そこには、成熟した日本において「波風立てる」ことは得にならないという冷めた認識を持ちながら、30年も続くデフレで幸福感が味わえないという焦燥が、ないまぜになっているように思えます。野党に政権維持能力が欠けていて頼りにならないが、与党に任せっぱなしでは暴走の懸念が残る、というアンビバレントな感覚と言い換えても良いでしょう。

 しかし、そこには何らかの「理論的背景」が潜んでいるようにも思えます。ここでは、2点だけ指摘しておきましょう。まず第1点は、「民主主義的意思決定が、誰もが納得する解を生み出すとは限らない」ということです。それにはマクロとミクロの両面があります。

 マクロ的には、どのような選挙制度を採ろうと、「死に票」が避けられないことが問題の本質です。何らかの単位で、winner-take-all(総取り)を認めざるを得ないからです。州ごとの選挙人の「総取り」を前提にする米国の大統領選挙では、国民投票であれば多数を得たはずの候補者(クリントン)が、選挙人の多数を得た候補者(トランプ)に負ける、ということが起こり得ます。

 ミクロ的な側面は、「アローの不可能性定理」に示されるように、意見が割れている場合には「投票順」という一見中中立的に見える「手続き」が、意見の採否を決めてしまう場合があるということです。例えば、投票者甲・乙・丙が、議案A、B、Cに関して、甲はA > B > C、乙はB > C > A、丙はC > A > Bという、3すくみの投票選好を持っているとしましょう。

 投票用紙にA、B、C のいずれかを書く方式の投票では、「多数を得た案なし」となります。そこで、まずAかBかの投票をし、その後に優勢な方とCとで投票することにすれば、第1回でAが勝ち、第2回でCが勝つことになります。この関係はA、B、Cすべてに成り立ちますから、「どの案を先に議決するかによって、採択される案が変わる」ことになります。

 第2の理論駅背景は、グローバル化に関わります。投票による多数決という、民主主義の基本ともいえる原理でさえ、このような例外的事象があり得るのですが、グローバル化という巨大な潮流は、もっと深刻な事態を招くと言います。『グローバリゼーション・パラドクス』(柴山桂太・大川良文訳、白水社、2014年)という本を書いた、ダニ・ロドリックによれば、グローバル化する環境では「グローバル化・国家主権・民主主義の3つの理念のうち2つしか同時に満たすことはできない」というのです。

 この点について、訳者の柴山氏が次のようの総括しているのは、簡潔で秀逸です(訳者あとがき)。

本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。(中略)市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、当地の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済が抱える最大の「逆説」がある、というのが著者の問題意識である。

 確かに中国の動きを見ていると、共産主義革命という歴史から当然のこととはいえ、「グローバル化の波に乗り、国家の機能維持のためには民主主義を捨てる」ことが鮮明になっていると思います。そして、悲しいことにロシアは当然のこととして、中東やアフリカ諸国の多くも、こうした「新しい国家主義」ともいえる考えに傾いている懸念が消えません。例えば、ITUという最も長い歴史を持つ国際機関が、「電気通信規則」という国際規約を決める際、こうした諸国が多数派になり、西側が調印を留保するという事態になったのは、2012年末のことでした。

・Unity, Diversity and Generosity

 そして、このような民主主義崩壊の予兆に驚いたのか、西欧世界のリーダーの中でも「自分のことや自分の国しか考えない」孤立主義者が多くなり、「他者への配慮」が死にそうになっているのが気がかりです。本来グローバル化とは、国家主権の壁を低くし、すべての人が等しく扱われるべきだ(inclusion)という「寛容の精神」を基にするはずだったのに、全く反対の排外主義(exclusion)に傾いてしまったのは、何としたことでしょうか。しかも、それが中国のような強権国家だけでなく、つい先代の大統領までは「民主主義のチャンピオン」の顔をしていた国までが、先導しているとは。

 この点で私には、ある感慨があります。1992年から(1995年まで)ニューヨークに駐在することになったので、当時の大統領であったブッシュ(父)の思想と行動に関心を持ちました。そこで、1989年1月20日の大統領の就任演説を調べたところ、その末尾にUnity, Diversity and Generosityという語を見つけました。現在も利用できる邦訳サイトに拠れば、その部分は以下の通りです(カッコ内の英文は筆者が追記)。
https://openshelf.appspot.com/UnitedStatesPresidentialInauguration/GeorgeHerbertWalkerBush.html

 「リーダーシップを、トランペットの音が聞こえてくる盛り上がるドラマとみている人もいるだろう。そして時々はそういうものかもしれない。しかし私は歴史とは多くのページがある一冊の本だと思っている。そして日々われわれは希望にみちた意味ある行為でその一ページを埋めていくのである。新たな風がふき、ページをめくり、物語が展開していく。そして今日新たな章がはじまり、短く威厳にみちた、団結(Unity)と多様性(Diversity)と寛容(Generosity)の物語が、共有して、ともに執筆される。」

 この同じ共和党から、現在の大統領が登場したことを、私たちはどう捉えたら良いのか、視点が定まらないでいます。一般的に言えば「団結」と「多様性」は両立が難しいものです。だからこそ「寛容」が必要なのであって、両立を諦めて「矛盾を武力によって解決する」毛沢東的手法が、許されるはずはありません。矛盾する要素の中和や妥協を図ること、つまり「二者択一」ではない選択肢を視野に入れることこそ、成熟した国家における政治家の役割ではないでしょうか。役割を果たさないプレイヤーには、退場を促すしかないと思います。

林「情報法」(46)

多元化と相対化を急いで要約する「○か×か」

 お盆休み中に本棚の整理をしていたら、私の恩人の一人である庄司薫(福田章二)氏が早くも1973年(つまり約半世紀前)に、なぜ「ぼくたち」が二者択一に走るのかを喝破していたことを再発見しました(庄司薫『狼なんてこわくない』中公文庫、pp.167-168)。ここで「恩人」と言ったのは、「成長とは自らの持つ可能性が結局は不可能性にしか過ぎない」(福田章二『喪失』あとがき、中央公論社、1959年)ことを教えてくれた、と私が「片思い」しているだけの話で、他にも存在する多くの「恩人」と同じく、直接の面識はありません。

・約半世紀前の指摘

 ○×式が持つ社会的な意味を「多元化と相対化を急いで要約するため」と、半世紀も前に的確に記述していたのは、庄司氏以外にいないと思います。

(前略)価値基準が多元化し相対化していく一方で、選択処理しなくてはならない情報が洪水のように増大するという、本来なら「要約」することの最も困難な状況の中で、そのあまりの困難のゆえにかえって不安に耐えきれず、性急な「要約」を、○×式要約を求めるという風潮が、現代の矛盾した社会全体の「方法」になっている。おかしいことは分かっていても、「他にしょうがないじゃないか」というその瞬間瞬間の「必要悪」としての「要約」が、歯どめを持たぬままどこまでも浸透しつつある。

 そして「恩人」のすごい所は、この現象の背後にある人間の本性にも触れていることです。前の文章には、直ちに次の分析が続きます。

しかもこの場合注目すべきことは、これがたんなる時代の「風潮」というのではなく、ぼくたち人間の本能的ともいうべき欲求に基づいている、という点にある。すなわちぼくは、民主主義という最大の知的フィクションを含むおよそあらゆる価値の相対化は、根本的にぼくたちの本能に反する性格を持っていると考える。たとえば、自分の「正しさ」を信じられる場合にも、なお無数の他者の「正しさ」を寛容に許すなどということは、ぼくたちにとって極めて不自然な「抑圧」とならざるを得ないのだ。そしてその不自然さは、言いかえれば、ぼくたち人間は、およそ敵味方がはっきりしない状況の中では本能的に不安でたまらない、という事実に対応するのは明らかにちがいない。ぼくたちは、明確な○×に代わる無数の「?」には本能的に耐えがたい。ぼくたちは、一刻でも早く敵味方を識別したい、少なくとも敵だけでも知っておきたい。たとえ粗雑な○×式に拠ろうとも、そしてまたそれが多くの誤解や偏見を含む危険があろうとも、ぼくたちはとにかく○と×を、いや×だけでもさっさとつけて自分の不安から逃れたい——。

 この分析は、現代の主要国リーダーの多く(あるいはほぼ全員)に当てはまることに驚きます。そして彼の直感から出た分析が、その後の学問的実験で証明されたことに、改めて驚きます。シーナ・アイエンガ―は、リーダーではない一般人においても、「選択肢が多いことが必ずしも歓迎されるとは限らない」ことを発見しました(桜井裕子訳『選択の科学』文春文庫、2010年)。

 その実験では、「24種類のジャムの売り場と、6種類のジャムの売り場では、前者は後者の10分の1しか売れなかった」といいます。科学的証明までは成されていないものの、チームやグループの構成メンバーは、最大でも7人、できれば5人か6人が良いという経験則とも合致します。

・情報の不確定性と「あれかこれか」の危険性

 恩人の指摘は「デジタル・トランスフォーメーション」が避けがたい現代では、さらに深刻になっているようです。デジタル世界では、1か0かを単位(bit = binary digit)として情報を表現するのが基本です。これは、情報の「意味」を考えることをとりあえず止めて、ビットで計算可能な「情報量」に基づいて、「形式」面だけに着目して情報を伝達・処理しようという、シャノンの「情報理論」に基づくものです。

 このようなデジタル的発想には、何でも「あれかこれか」の二者択一で考える誘因が潜んでいますが、世の中の事象がすべて「1か0か」で分類できるわけではありません。特に「言論の自由」が係るような「多元性の世界」では、「あれかこれか」の危険は常に強調しリマインドしておく必要があります。

 直近の例を見ても、漫画村に代表される著作権侵害サイトをネット上から削除(その実はアクセス不能化)すべきか否か、「言論の不自由展」といった企画を誰がどのように運営すべきかといった「際どい」事案については、慎重な判断が求められます。

 繰り返すようですが、情報の価値は時と場所と態様によって変化するもので、その「不確定性」こそ情報の本質なのですから、これを一刀両断に切り分けるのは至難の業であることを忘れないで欲しいと思います。

・「秘密保護のあり方」に適用した場合

 以上の懸念を情報法に適用した場合、わが国において秘密の保護法制が未整備の中で、EUの個人データ保護規制が先行するため、「バスに乗り遅れるな」とばかり、プライバシー保護優先主義が、無意識のうちに醸成されていることが心配です。さらに、その方法論がEUの影響を強く受けて「自己情報コントロール権」といった「基本権」あるいは「絶対的排他権」として議論されていて、英米法的プラグマティズムから離れていくことも懸念材料です。そこには、複雑に入り組んだ「二値的発想」の弊害が見て取れます。

 まず、人格権のような「不可侵の権利」と捉えれば、人格権の一種→絶対的排他権→差止命令、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)自己陶酔に陥る危険があります。ここでは、人格権から始まったはずなのに、前回紹介した所有権から始まる三段論の場合の、所有権類似→絶対的排他権→差止命令、といった三段論法と「うり二つ」になっていることにお気づきでしょう。

 第2の「二値的発想」は、プライバシーの保護がそれ以外の秘密の保護とは異質なものとされ、「特別な保護に値する」ものとされていることです。具体的に言えば、秘密の保護法制においては、a) 私人のプライバシー保護に資する「個人データ」の保護法制、b) 企業の秘密を保護する営業秘密の保護法制、c) 国家の機密を保護する特定秘密保護法制、の三者が適度のバランスをもって整備されるべきところ、a) だけが突出していることに警鐘を鳴らす人が少ないのです。

 営業秘密の3要件(① 非公知性、② 有用性、③ 秘密管理性)は、a) ~ c) の三種の秘密にほぼ共通ですが、特に② の「有用性」は「保有者が秘密だと思う情報はすべて保護される」のではなく、「保護されるには有用な情報であるという客観性が必要」という要件を課す点で重要です。つまり「主観秘」は保護の対象ではなく、「客観秘」であることが必要で、そのためにも ③ の管理性が必須になってきます。

 営業秘密と特定秘密はこうした要件を備えているのが普通ですが、プライバシーだけは主観的要素が強いので、より複雑な処理が必要になるのは避けられません。ところが現実は、そのプライバシー保護に「二者択一」を適用しているように見えます。私が「二者択一から三択になっただけでも大ジャンプ」と言うのは、こうした現象を念頭においてのことです。