新サイバー閑話(28)

オーラルヒストリーシリーズ 

情報法オーラルヒストリーシリーズ1 情報の法社会学 名和小太郎さんから『情報の法社会学』(翔泳社)という本をご寄贈いただいたが、それが「情報法オーラルヒストリーシリーズ1」(オンデマンド印刷版)と銘打たれているのが興味深く思われた。

 情報法、著作権、情報倫理などの分野で大きな功績を残した名和さんの足跡を、彼が歩いてきた現場、言わば生活史を通して記録したものである。どういう仕事を通してIT社会の諸問題にかかわることになったのか、当時の人びとは新しい問題にどう取り組もうとしたのか、どんな分野からどんな専門家が集まって来ていたのか――。聞き手は新潟大学法学部教授、鈴木正朝さんである。

 IT社会を牽引した方々はすでに老境にさしかかっているが、インターネットそのものが辺境から立ち上がり、主流へと躍り出た歴史を反映して、多彩な経歴の人が多い。学問的業績を上げた人も、多くは実務家だったり、後にアカデミズムに転じたりしている。その人生行路は、日本的タテ社会を上昇するよりも、むしろ異なる分野を横断してきた傾向も見られる。

 これら先人が悪戦苦闘した道そのものがIT社会発達史であり、情報法をはじめとする先端的学問分野の成長過程だった。既にそれぞれに学問的成果を公表しておられるし、回顧的な記録も残されているけれど、そういった体系的著作ではあまり触れられない、本人も忘れているような具体的事実や興味深いエピソードを聞き出し、それを一定の基準のもとに整理記録しておく「オーラルヒストリー」の意義は大きい。新しい学問分野、あるいは先端的事業であれば、なおさらである。名和さんの話にも、「そういうことだったのか」、「まるで知らない話だなあ」などと、思わず合点する読者も多いのではないだろうか。

 鈴木さんの話だと、とりあえず情報法の分野に限った企画のようで、林紘一郎さんが2番手、他に何人かの候補もリストアップされているという。企画を実現した関係者に敬意を表したい。

 ちなみに、名和さんには本サイバー燈台で「後期高齢者」というコラムを書いていただいている。林紘一郎さんにも「情報法のリーガル・マインド その日その日」で健筆を振るっていただいている。また、もう1人のサイバー燈台の筆者、小林龍生さんは「情報革命の時代にあっては、その動きの多くが、アカデミズムから少し外れた現場の知によって支えられ推し進められてきた。時の流れとともに忘れ去られてしまう危険性が大きいそれらの事実を記録に残していく意味は大きいのではないか」と、我が意を得たりの述懐をしておられる。

・日本パーソナル・コンピュータ発達史

 そのうえで思うのは、この企画を法や情報倫理など人文科学の分野に限らず、インターネット技術そのもの、パソコン、ベンチャー企業、文字コード、黎明期に雨後のタケノコのように現れたソフトウエア、メディアといったところまで広げられないかということである。

 実は、私は『ASAHIパソコン』編集長だったころ、「日本パーソナル・コンピュータ発達史」という連載を企画したことがある。筆者も念頭にあったのだが、実現せずに終わった。

 たとえば、『ASAHIパソコン』創刊前につくったムック『おもいっきりPC-98』(1987年、朝日新聞社)には、ワープロソフトと表計算ソフトだけでも、以下のものが掲載されている。

 【ワープロ】一太郎、The Word、オーロラエース、創文、ユーカラart、松86、デスクup、テラⅢ世、QUEEN-Ⅱ、小次郎98/武蔵98、美文、しのぶれど、HuWORD、弘法Ⅱ、TWINSTAR2
 【表計算】Lotus1-2-3、Microsoft Multiplan、SuperCalc3R2、HuCAL16、The File

 ハードウエアに関しても、これは白田由香利さんに聞いたのだが、彼女は大学院学生のころ、登山用リュックを背負って小田急線、百合丘にあったガレージ会社に出かけ、基本ソフトCP/Mで動くパソコンを買ったという。そういうパソコンの広告が当時の雑誌、『トランジスタ技術(トラ技)』にたくさん載っていたらしい(矢野直明編『パソコンと私』所収、1991年、福武書店)。ハードとソフトを組み合わせたソードという先端的なベンチャー企業もあった。

 当時、すでに百花繚乱だった初期の個性的なソフトウェアの多くは消え、大手IT企業の製品に取って代わられつつあったが、それぞれのソフトやハードに特有の歴史とドラマを丹念に取材して記録しておきたいというのが企画の意図だった。

 今回の企画「オーラルヒストリーシリーズ」に接して、昔を思い出すと同時に、これを他分野へももう少し広げられないかと思ったわけである。もちろん一出版社には荷が重い仕事だろう。だとすれば、こういう事業への公的援助があっていいし、それが無理なら、どこかのIT企業が大金を投じても良さそうに思うけれど、どうだろうか。

 

新サイバー閑話(27) 令和と「新選組」②

まかり通る理不尽 

 テレビ朝日が開局60周年夏の傑作選と銘打って、平成19(2007)年に制作したドラマ『点と線』の特別編集版(8月4日放映)を見た。松本清張の社会派推理小説の傑作で、制作当時も大いに感心したが、今回はまた別の意味で大いに考えさせられた。わずか十数年前にはテレビ局もこのような重厚な傑作を生みだしていたということである。原作、脚本、演出、鳥飼刑事を演じたビートたけしをはじめとする豪華出演陣、すべてにおいて今昔の感がある。その底には、巨悪を憎む市井の人々の素直な怒りがたぎっているように思われた。

 政官界の汚職を隠蔽するため、事情を知っている下級役人が心中と見せかけて殺される。警察の執拗な捜査で事が明るみに出そうになった時、殺人の実行犯は自殺するが、その間に隠蔽失敗の責任を問われて、某官庁局長が青酸カリで自殺することを迫られるシーンがあった。それを見ながら、森友疑惑で決裁文書を改竄したとされる財務省の佐川宣寿局長(その後国税庁長官)も怖い目にあったのではないかと想像していたら、今朝(8月10日)の新聞に大阪地検特捜部が佐川元国税庁長官らを再度不起訴にしたとの報道があった。これで佐川氏は司法的な責任追及を免れたわけである。 

「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止に関連しては、企画展の芸術監督をつとめたジャーナリストの津田大介氏が参加するという理由だけで、神戸市の外郭団体が企画していたシンポジウムが、やはり抗議を受けて中止に追い込まれている(9日)。

 理不尽なことへの怒りの声が市井からも衰退していくように思われる令和である。

新サイバー閑話(26) 令和と「新選組」①

幕開けは風雲急

 かつての新撰組は幕藩体制維持を掲げたが、れいわ新選組は安倍政権打倒を旗印としている。新撰組は剣を武器としたが、れいわ新選組はSNSというコミュニケーションツールを駆使する。声の広がりが武器である。山本代表は、「命をかけている」、「本気だ」という意思を「新選組」に託したのだろう。

 先日、れいわ新選組に寄付をしたとき、メッセージに「れいわ新選組は日本の希望です」と書いた。

 名古屋の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、開催3日で中止に追い込まれた事件は、名のある文士がお先棒を担ぎ、大物市長が騒ぎ、自治体の長や政権がここぞとばかりに同調するという、いかにも戦前の思想統制を思わせる不気味な事態である。ここで脅かされているのは、言うまでもなく「表現の自由」である。にもかかわらず、世論調査では安倍政権支持がむしろ増えているのだという(メディアも、何かあると、それに直接対決するよりも、民意は奈辺にありやと、世論調査をやって報道していればいいと安穏と構えている場合ではないように思われる)。

 悲憤慷慨メール 鳴きやまぬ 老いの夏(^o^)                                           

 

新サイバー閑話 (25)

映画『新聞記者』を見る

 東京新聞記者の望月衣塑子さんの原案になるという映画『新聞記者』(藤井道人監督)を見て、この時代にこういう反骨の映画を作る人がまだいる、しかもけっこう見る人もいることにちょっと救われる思いがした。

 神奈川県茅ヶ崎市のシネコンで見たのだが、最近にない観客の多さに少し驚いた。平日昼ということもあり、老人が多かったけれど、映画パンフレットは売り切れ、ちょっと熱気を感じた。

 映画そのものもおもしろかった。紋切型で深みがたりないと批判もできそうだけれど、そんなことを云々するより、よく作ってくれたという気持ちの方が強い。かつては『悪い奴ほどよく眠る』とか『金環蝕』といった、骨太の構想、奥行きのある内容、すぐれたエンターテインメント性などで、文句のない重量級の映画があった。森友や加計問題を正面から取り上げた映画を見たい気もする。

 主役の女性記者が韓国人俳優シム・ウンギュンで、熱演していたが、日本の女優で引き受ける人がいなかったのだとも聞いた。苦悩する若手官僚を松坂桃李が好演していた。悪玉官僚を演じた田中哲司がいかにもの演技で、彼が最後に言う「この国の民主主義は形式だけでいい」というセリフはドスが効いていた。

 折しも、7月5日のニューヨークタイムズ電子版に、官邸記者クラブで〝孤軍奮闘〟の活躍をする望月衣塑子さんが取り上げられ、菅義偉官房長官の「独裁政権のような振舞い」が批判されていたが、他の記者がすっかり萎んでしまっているように見えるのは残念である。メディアに対して高圧的なのは、トランプ大統領も同じだけれど……。

<新サイバー閑話>(24) 平成とITと私①

熊澤正人さんを悼む

 私が1988年にパソコン使いこなしブック『ASAHIパソコン』を創刊した際のアートディレクターで、それ以来の良き友であり、かけがえのない仕事仲間でもあった熊澤正人さんが2019年1月にがんのために亡くなり、彼の71歳の誕生日にあたる(はずだった)6月29日に家族、親族、デザイナー仲間、編集者などが集い「しのぶ会」が開かれた。

 思えば、『ASAHIパソコン』創刊の翌年1月から平成が始まり、彼が去ったのは平成が終わる半年ほど前だった。彼とともに歩んだ平成という元号の区切りは、折しも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、まさにIT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。

 しのぶ会で挨拶する機会があり、その弔辞を読みながら、『ASAHIパソコン』創刊以来ずっとIT社会の変容を見つめてきた私自身の記録を残しておくのも、少しは意味があるように思われた。というわけで、この<新サイバー閑話>でも折々に「平成とITと私」と題するコラムを書きつけておこうと思う。

・<弔辞>

 熊澤正人さん、こと熊さんにはじめてお会いしたのは、私が朝日新聞出版局でムック『ASAHIパソコン』シリーズを創刊するためのアートディレクターを探していた時でした。たしか出版局プロジェクト室の先輩に紹介していただいたのだと思います。

 1987年初めでしたから、かれこれ30年も前のことです。そのときの熊さんのやさしい笑顔、穏やかな物腰は、その後の年月を通じて、がんに冒されて辛い闘病生活を続けた後年においても、ほとんど変わりませんでした。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 最初はムックの第1号だけを引き受けてもらうことになっていたのですが、無理を言って5巻全部を担当してもらい、さらには、ムック成功を受けて創刊することになったパソコン使いこなしガイドブック『ASAHIパソコン』のデザイン全般もお願いすることになりました。その後、『月刊Asahi』、『DOORS』とおつきあいはずっと続いて、私が朝日新聞を去ってからも著書の装丁などでお世話になりました。

 『ASAHIパソコン』創刊の気勢を上げるために自宅裏の源氏山ではじめた花見宴も30年続きましたが、そこでも世話人として参加していただきました。その間に桜の木も参加者も老齢化し、花見は去年ではおしまいになりましたが、最初の年に熊さんが持って来てくれた紅白の垂れ幕が花見のシンボルとなり、今でも大事に保管してあります。

 さながら 

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

 というふうな面倒見のいい熊さんを、朝日新聞社の雑誌部門や書籍部門の人も頼りにするようになり、朝日新聞での輪もずいぶん広がったようでした。がん発症を聞いたのは8年半前で、すでに末期的だというのでたいへん驚きましたが、それからは果敢にがんと向き合うと同時に、オフィス、パワーハウスの運営にあたって来られました。ここでもイツモシヅカニワラッテヰル姿が印象的でした。

 装丁の最後の仕事は平成天皇御即位30年記念記録集『道』でしたが、2019年(平成31年)3月20日の刊行になっています。『ASAHIパソコン』創刊は1988年(昭和63年)11月1日号で、翌1989年1月から平成が始まりました。

 折しも神田川の桜が満開のころ、仏前にご挨拶にお伺いしたとき、身内の方が書かれたたという詩句が捧げられ、そこに「最も田舎の心を持つ弟」とあるのが目に止まりました。まったくそうだったと思います。「都会のマンションに住んでいる」とも書かれていましたが、そのマンションの外でも満開の桜が風に舞っていました。

 それにしても、長い闘病生活でした。いまは安らかな地で安住しておられることでしょう。ほぼ平成の期間とダブった30年をともに歩んだ思い出を噛みしめつつ。

2019年6月29日
 サイバーリテラシー研究所代表(元『ASAHIパソコン』編集長) 矢野直明

・目黒の旧宅に65人が集う

 会は目黒に残る旧宅を借りて、約65人の参加のもとに行われた。

 そこには『ASAHIパソコン』や『月刊Asahi』、『DOORS』の表紙ばかりでなく、熊さんが装丁した多くの書籍の写真が並べられていた。奥さんやご子息、親族、パワーハウスの面々も列席され、あるいは忙しそうに働いていたが、オフィス、パワーハウスは奥さんを中心として今後も活動を続けていかれるという。

 会場には歴代の『ASAHIパソコン』編集長や当時、世話になったデザイナー、イラストレーターなどの懐かしい顔もあり、熊さんの穏やかな人柄があらためてしのばれた。

新サイバー閑話(23) ホモ・デウス⑭

いよいよ影が薄くなる「倫理」

 サイバーリテラシーがIT社会の世界観だとすれば、サイバー倫理はそこでどう生きるべきかという処世訓だと私は言ってきた。しかし「できることをあえてやらない」のが倫理の基本だとすると、サイバー倫理の旗色はきわめて悪い。いよいよ影が薄くなっているようにも思われる。

 ハラリも「いったん重要な大躍進を遂げたら、新しいテクノロジーの利用を治療目的に制限して、アップグレードへの応用を完全に禁止することは不可能」と言っている。『サピエンス全史』では「私たちが超人を生み出すのを妨げる、克服不可能な技術的障害はないように見える。主な障害は、倫理的な異議や政治的な異議であり、そのせいで人間についての研究の進展が遅れている。そして、倫理的な主張は、たとえどれほど説得力を持っていても、次の段階に進むのをあまり長く防げるとは思えない」と書いている。

 カーツワイルの本にある「ひとたびこの道を進み始めれば、テクノロジー恐怖症の人が『ここまではいいが、ここから先に行ってはいけない』ともっともらしく言えるような停止点はどこにもない.」という発言はすでに紹介した。

 ヒューマニズムにもとづいた個人主義や自由主義の根幹が崩れれば、人間の内心に焦点を当てる倫理の出番はいよいよなくなるのかもしれない。連載②で取り上げたように、コンピュータ黎明期にはジョセフ・ワイゼンバウムのような人が安易なコンピュータの利用を批判していたのだが……。

 サイバー倫理に対する疑問あるいは批判としては、「一神教の神のような絶対者が存在しないところで倫理が成立する余地はあるのか」とか、「倫理ではなく法こそが大事である。係争に倫理を持ち込むから話が混乱する」など、さまざまな意見を聞いてきた。

 しかし、法はどうしても保守的である。これだけ技術が急速に進む中では、法は事後規制にならざるを得ず、その間にも技術は進化して、結局、取り返しのつかないことになる恐れがある。

 大学で教えていたとき、強調していたのは<倫理はもろい>ということだった。私はよく、チョコレート、ゴディバの由来となった中世のイギリス南部の領主婦人、ゴディバの話をした。

 夫人の夫は冷酷で、領民から多額の税を徴収していた。夫人は「どうかして税を軽減して、領民を楽にしてあげてください」と頼むが、夫は頑として首を立てにふらない。夫人に何度もせがまれて、苦し紛れに「お前が生まれたままの姿で馬に乗って領内を一周すればまけてやってもいい」と言った。中世において女性が、しかも高貴な女性が人前で裸を見せることは死ぬよりも恥ずかしいことで、夫は「どうしてもダメだ」と言ったつもりだったが、夫人は、領民のために、裸で馬にまたがって領内を一周する決断をする。「みんなのためです」。「公益のため pro bono publico」という言葉の由来である。
 ゴディバ夫人の決断を聞いた領民たちは、だれからともなく、自宅の扉や窓という窓を全部、板で覆って、夫人の裸を決して見ないように、見ようとしても見られないようにした。当日、ゴディバ夫人は約束どおり、領内を馬にまたがって一周した。
 比喩的に言えば、これが倫理である。夫人の裸を見たものは打ち首にするという命令が下ったわけでもないし、それを禁じる法律があったわけでも、みんなで作ったルールがあったわけでもない。人びとは、自発的に決断し、それを守った。ここに、強制力をともない明文化された法とも、一定の行動基準としてのルールとも違う倫理の姿がある。

 今でも、たかが倫理、されど倫理という思いが強い。ホモ・デウスをめざす人びとからは一蹴されてしまいそうだが、まさにこういう時だからこそ、倫理を復権すべきではないだろうか(自らは倫理観の微塵もない政治家などがすぐ「道徳教育」、「終身教育」などと叫んで、自らはその埒外に起きつつ、他人を縛りつけようとするのが、倫理のもう一つのやっかいなところである。ジョージ・オーウエルの『1984年』における思考を体制順応に誘導する話法、ニュースピーク開発などの例もある)。

・ローレンス・レッシグの危惧

 連載冒頭でサイバーリテラシーの教科書の一つとしてあげたローレンス・レッシグ『コード』は、IT社会における人びとの行動を規制する4つの要因を以下のように図示している。
 ①法(Law) 制裁の脅しによって裏付けられた命令。②規範(Norms) コミュニティのメンバーがお互いに対して課す小さな、あるいは強力な制裁を通じた規範的な制約。慣習、道徳。③市場(Market) 価格を通じて制約する。④コード(アーキテクチャー、Code、Architecture)。サイバー空間の現状を決めるソフトとハード。コードにはある価値観が埋め込まれているか、ある価値観を不可能にする。

 彼はコードこそサイバー空間における見えない規制だと強調したわけだが、この図の「規範」の重要なものこそが倫理だと私は考えている。

 ところで、彼が1999年の段階でサイバー空間のあり方について記した危惧は、今の状況にもそのまま妥当する。それはハラリの危惧でもあるだろうし、私の危惧でもある。

「サイバー空間をなるべく実空間と同じにして、同じ価値観をそこに入れ込むか、あるいはサイバー空間に現実空間とは根本的にちがう価値や性質を与えるか。どちらの選択をすべきかについて、一般的な答えは出せない。でももし実空間の価値観を保存すべきだと決めるなら、その手続きを考えなければならない。そしてもし実空間とは価値観を変えることに決めたら、じゃあどういう価値観に変えるのか?」、「何もしないというのは、最低でもそれを受け入れるということだ」、「サイバー空間がどうなるかについて、いちばん大事な決断をしなきゃいけない時期にいるのに、それをするための機関も仕組みもないし、決断するという実践力もない」。

 サイバー空間のあり方よりも、いまや人間の将来そのものが問題である。そしてかつてもいまも共通するのは、その大問題に対処する方法が私たちにはわかっていないということである。

 以下のハラリの記述は興味深い。「インターネットの台頭からは、将来の世界がうかがえる。今ではサイバースペースは私たちの日常生活や経済やセキュリティにとってきわめて重要だ。それなのに、いくつかのウエブの設計から一つを選ぶという重大な選択は、それが主権や国境、プライバシー、セキュリティのような従来の政治的問題に関連しているにもかかわらず、民主的な政治プロセスを通して行われなかった。あなたはサイバースペースの形態について投票などしただろうか?」。

 もっともインターネットが一部の科学者、技術者、若者などのボランティアで営々と築き上げられていったころ、ほとんどだれもインターネットに興味を示さなかった。インターネットを支えるWWW(World Wide Web)の略称はWild Wide Westだと冗談に言われていた時代が懐かしいが、それにしてもわずか100年にも満たない間の出来事である。

 ところで林紘一郎さんによると、レッシグはすでにサイバー法の世界から足を洗ったらしい。

 まさに万物流転。あるいは、逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず。

・ホモ・デウス5原則

 私はインターネットをうまく利用しつつ、その危険から身を守り、あわせて他人を傷つけないために、主として若い人や子ども向けに、具体的な行動指針(サイバー倫理Dos&Don’tsべからず集)を作ってきた。

 生命倫理4原則というものがある。「自律的な患者の意思決定を尊重せよ」という自律尊重原則、「患者に危害を及ぼすのを避けよ」という無危害原則、「患者に利益をもたらせ」という善行原則、「利益と負担を公平に配分せよ」という正義原則からなるという。(http://www.c-mei.jp/BackNum/076r.htm)

 サイバー倫理Dos&Don’tsも中途半端な現状でこんなことを言うのは気が引けるが、ふとホモ・デウス5原則みたいなものを考えてみるのはどうだろうかと思った。単なるスローガンに終わりがちなのは認めざるを得ないけれど……。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房、原著1949)
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 旅先で書いた<ホモ・デウス>シリーズを一応終える。『ホモ・デウス』『サピエンス全史』に対する遅まきながらの応戦と言えば大げさだが、<新サイバー閑話>を2018年末に開設したのをきっかけに、サイバーリテラシーを下敷きに両書を読み解き、提起された問題を私なりに整理してみた。ご意見、ご感想をお寄せいただければ幸いである。

 

新サイバー閑話(22) ホモ・デウス⑬

あらためてサイバーリテラシーについて

『ホモ・デウス』が提起した問題はサピエンス全体の運命に関わっている。何よりもまずこのことを認識すべきだと思う。

 先にも触れたように、いまやGAFA支配の時代である。日本ではようやく昨年になって、これらのIT企業を「プラットホーマー」(「社会経済に不可欠な基盤を提供」し「多数の消費者や事業者が参加する市場そのものを設計・運営・管理する」存在)と位置づけ、経済産業省が設置した有識者会議が中小企業などに与える影響への対策を検討し始めた(しかし、IT企業のサービスを利用する過程で「一方的に利用料を値上げされる」とか「手数料の負担が重い」などの対策を検討するという程度に過ぎない)。

 国際的にもいろんな対策が講じられつつある。サイバー空間を経由して収益を上げているIT企業の税金をどう適正に徴収するかに関して、イギリス政府は2020年4月から、海外大手の英国内での売り上げに課税する「デジタル税」を導入する。グローバル企業の国境を越えた収入は、従来のように工場や営業拠点などを通して収益を計算し課税するやり方はではうまく把握できないからである。

 それぞれ対応を迫られる具体的問題であることは間違いないが、そんな〝ささやかな〟問題ではなく、もっと大きく、深刻な問題が前途には横たわっているとハラリは警告しているのである。

 国内外の『ホモ・デウス』をめぐる反響についてはよく調べていないので何とも言えないが、ハラリのこの問いかけへの「応戦」はどの程度なされているのだろうか。

・あぶり出される「個」の解体

 私は2000年来、IT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱してきた。このことについては本サイバー燈台の「サイバーリテラシーについて」を参照していただきたいが、要はIT社会を現実世界とインターネット上に成立するサイバー空間の相互交流する姿と捉え、この社会を快適で豊かなものにする実践的知恵を探ろうとするものである。

 ここではインターネット誕生以来のサイバー空間と現実世界の交流史を図示している。

 細かい説明はウエブにまかせるとして、今は図6の状態で、サイバー空間と現実世界は渾然一体となっている。データ至上主義はインターネット上のサイバー空間でこそ猛威を振るうのであり、私はこの新しい情報空間に注目してきたわけである。

 ただ「個」の外部に焦点を当てており、「個」内部に外部が否応なく浸透してきていることを今回、ハラリの本で教えられた。「21世紀には、個人は外から情け容赦なく打ち砕かれるのではなくむしろ、内から徐々に崩れていく可能性の方が高い」。

 私はサイバーリテラシーの課題を以下の3つだと考えてきた(『サイバーリテラシー概論』参照)。

①デジタル技術でつくられたサイバー空間の特質を理解する。
②現実世界がサイバー空間との接触を通じてどのように変容しているかを探る。
③サイバー空間の再構築と現実世界の復権。

 ③がハラリの言う、いま検討すべき課題だと言っていいだろう。ついでだが、サイバー空間のアーキテクチャーとしてのサイバーリテラシー3原則は以下の通りである。

<サイバー空間には制約がない>
<サイバー空間は忘れない>
<サイバー空間は「個」をあぶり出す> 

 問題は「個」のあり方である。私の念頭にあったのは、個人が家族、地域、組織などのくびきから離れてバラバラになるということにすぎなかったけれど、今や「個」そのものが解体されて、個人のアイデンティティが喪失しかねないということである。文面を変える必要はないと思うが、より大きな含意を持つものになった。

・サイバーリテラシー協会

 『サピエンス全史』で日本にふれて、「日本が例外的に19世紀末にはすでに西洋に首尾よく追いついていたのは、日本の軍事力や、特有のテクノロジーのおかげではない。むしろそれは、明治時代に日本が並外れた努力を重ね、西洋の機械や装置を採用するだけにとどまらず、社会と政治の多くの面を西洋を手本として作り直した事実を反映しているのだ」というくだりがある。

 これもずいぶん前に書いたことだけれど(IT技術は日本人にとって「パンドラの箱」?讀賣新聞2006年2月7日夕刊文化欄)、日本人のITへの取り組みはきわめて甘い。こんなことでは、今度こそホモ・デウスの嵐にあっという間に呑み込まれてしまうだろう。

 昨年暮れ、ある会合で高齢の婦人からこう言われてショックを受けた。彼女は「矢野さんはサイバーリテラシーをずいぶん昔から提唱しており、おっしゃることはよくわかる。ひと昔前はそれでよかったけれど、書いているようなことはすでに現実になっているのだから、これからどう行動すればいいかの対策が必要ではないのか」と。

 まことに図星である。サイバーリテラシーを提唱してすでに20年近い。この間、警鐘を鳴らし続けたと個人的には思っているが、笛吹けども踊らず、世間的には微々たる関心しか呼ばなかったし、その間、私としても前にほとんど進めなかった。

 一人の力で簡単に進める問題でないことも確かである。

 だから私はITで潤っている企業、ITの行く末を案じている人びと、日々その恩恵を受けている人などが集まり、基金を作り、IT社会をまさに「快適で豊かなものにする」ための知恵を出し合うべきだと提唱してきた。エコロジーのようなグローバルな運動に育てたかったわけである。

 これが「サイバーリテラシー協会」設立の呼びかけだが、この機会にあらためてその種の団体を立ち上げ、世界の関連団体と提携して、歴史の転換点における知恵を探る必要性を強調したいと思う。

 そのときにはハラリを顧問に迎えたいものである(^o^)。

新サイバー閑話(21) ホモ・デウス⑫

ロボットと瞑想

 読後感よもやま話の続きである。

 カーツワイルによれば、今後はナノナノテクノロジーに基づく小型ロボットが大活躍する。それがサイボーグに結びつくのだが、そこでのロボットは、従来の西洋的なロボットの捉え方とだいぶ変わってきているように思われる。

 ロボットというのは、チェコの作家、カレル・チャペックが「R.U.R.(Rossum’s Universal Robots)」という戯曲で作り上げた造語で、R.U.R社長のドミンは、今後は「何もかも生きた機械がやってくれます。人間は好きなことだけをするのです。自分を完成させるためにのみ生きるのです」などと豪語していたが、結果はロボットの反乱で人類は滅びる。

 SF作家、アイザック・アシモフの有名な「ロボット工学の3原則」(①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視してはならない。 ②ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第1原則に反する命令はその限りではない。 ③ロボットは自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは、第1、第2原則に違反しない場合に限る)もそうだが、西欧におけるロボットはあくまでも人間に奉仕する下等な存在、言わば奴隷に変わる存在と考えられていた。

 ホモ・デウスは小さなロボットや人工知能で増強されるが、体内に埋め込まれたロボットなら、機能も限定されており、うまく人間と共生できるということかもしれない。しかし、これらのロボットがネットワークを組んで当の人間に反乱するとは考えないのだろうか。そこでは、過去のロボット観はどう修正されるのだろうか。

 日本のロボットは当初からヒューマノイド・ロボットと呼ばれ、アニメの鉄腕アトムやドラえもんに象徴されるように、人間と共存する存在と意識されてきた。西洋流の人間中心主義や闘争主義、二者択一主義と、山川草木悉皆成仏的な「生きとし生けるものみな兄弟」ふうの東洋流。自然を支配しようとする西洋と自然と一体化しようとする東洋。ホモ・デウス出現前夜に、あらためて考えていいテーマだと思われる。

『サピエンス全史』には以下の記述もある。「アニミズムとは、ほぼあらゆる場所や動植物、自然現象には意識と感情があり、人間と直接思いを通わせられるという信念だ」、「アニミズムの信奉者は人間と他の存在との間には壁はないと信じている」。

 サピエンス全史からすれば、狩猟採集時代の方がはるかに長い。その感性がサピエンスに残っていないわけがなく、日本にはアニメズム的な考え方もなお根強い。

・1日2時間の瞑想

 ハラリは『ホモ・デウス』をヴィバッサーナ瞑想の導師、サティア・ナラヤン・ゴエンカに捧げている。最後の謝辞でも故人を恩師として第一に上げている。

「(ヴィパッサナー瞑想の)技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィパッサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平安と洞察なしには、本書は書けなかっただろう」。

 著者が2018年に出版したエッセイ集とも言うべき“21 Lessons for the 21st Century”の最終章はMeditationである。彼は「自分の心を観察する方法」としての瞑想との出会いで救われたと書いており、1日2時間の瞑想を欠かさないらしい。ゴエンカは、「ヒンドゥー教徒のインド系移民としてミャンマーの裕福な家庭に育った」(ウィキペディア)人といい、ヴィパッサナーは仏教系の瞑想法である。日本にも道場がある。

 私も、いささかの気功修行をしており、その静功は瞑想そのものである。気功の要諦は外気と内気の交流にあり、めざすのはまさに自然との共生である。大木の前に立ち、その気を取り入れるための功法もある。気感の強い女性仲間には、堤中納言物語の「蟲愛ずる姫君」ではないけれど、森の中で木々と対話できる(時がある)という人もいる。


 バリ島東北部、ヒンドゥー教の総本山、ブサキ寺院の近くにアンラプラという美しい街がある。もとはバリ随一の勢力を誇ったガランカスム王国の都だった。19世紀末のオランダ植民地時代に王がオランダに留学するなど融和政策をとり、街並みにもオランダ風の様式を取り入れている。

 清い水(聖水)がふんだんに流れる「水の離宮」、宮殿、王族の別邸などを見て回ったが、別邸のややシンメトリックな配置はオランダの影響を感じさせ、バリでは異色の風景となっている。その美しい展望台で北欧から来たと思われる若いグループがヨーガをしていた。

 バリと言えばヨーガのメッカでもあり、観光客目当ての大々的なヨーガセンターばかりでなく、たとえばウブドの街中にも、1回500円程度で自由に参加できる教室があり、ここにもオーストラリア人などがたくさん来ていた(バリ・ヒンドゥー教はアニミズムの影響が強いとも言われている)。

 ヨーガ、坐禅、気功、マインドフルネスなどの心身健康法は洋の東西を問わず、いま大きなブームになっている。ハラリは人類(サピエンス)がいまのままのあり方を続けていると、いずれはホモ・デウス出現に至るだろうと〝幻視〟したわけだが、彼自身はその流れに掉さそうとしているのであり、船に乗ろうとしているわけでは決してない。

カレル・チャペック『R,U.R.』(岩波文庫、1920)
ロボット (岩波文庫)
アイザック・アシモフ『わたしはロボット』(創元推理文庫、原著1950)

わたしはロボット (創元SF文庫)

新サイバー閑話(20) ホモ・デウス⑪

文明の成長と衰退

 今回は読後感よもやま話である。 

 ハラリの大作に触れて、昔読んだ歴史家、アーノルド・トインビーの『歴史の研究』を思い出した。1934年から61年に書かれた超大作だが、私が読んだのは3巻本の縮刷版だった。トインビーは古代から現代(執筆時)に至る人類の歴史を、地域的に21の文明圏に分けた。5000年から6000年程度の歴史的差異は無視できる(それらの文明は共時性がある)との立場から、すべての文明に共通する原則として「成長」と「衰退」のあり方を考察した。

 文明は発生し、そして成長し、衰退し、最後に解体する。

 トインビーは個々の文明を横断的(空間的)に俯瞰して共通の原則を導きだしたが、ハラリはサピエンス史を縦に(時間的に)串裂きにして、動物→サピエンス→ホモ・デウスとして定式化した。

 サピエンス史をトインビー的に見ると、今ではひとくくりで考えられる人類文明は、すでに衰退期に向かっていることになるだろうか。興味深いのは、トインビーが成長と衰退、挑戦と応戦といった概念のほかに、「引退」と「復帰」にも言及していることである。たとえば、ルネッサンス期のフィレンツェの政治家、ニッコロ・マキュアベリは一時要職も務めた政界から放逐され、歴史からの引退を余儀なくされたが、蟄居して森の中で思索を積み、有名な『君主論』を書いて歴史に復帰したというふうな。

 だから、かじ取りを間違えなければ、サピエンスは引退することなく、うまく「おだやかな」ホモ・デウスへと変身して、歴史に復帰できる可能性もあるのではないだろうか。もちろんやり方を間違えて、いよいよ滅びていく危険を避けられればだが……。

 その点、ハラリが「振り返ってみると、ファラオの失墜や神の死は、どちらも好ましい展開だった。人間至上主義の破綻もまた、有益かもしれない。人がたいてい変化を怖がるのは、未知のものを恐れるからだ。だが、歴史には一定不変の大原則が一つある。そなわち、万物はうつろう、ということだ」と書いているのは興味深い。

・バリでつらつら考える

宿の外に広がる田園風景

 私はこの「ホモ・デウス」に関する連載を避寒と療養のために長期滞在しているバリで書いている。大きな繁華街以外には高層ビルは皆無で、伝統的な割れ門の中に平屋の住宅がひっそりとたたずむ姿は美しい。門の両脇にはさまざまなヒンドゥー教の守護神が祀られている。

 街は緑に覆われ、道路は車というよりバイクであふれている。人々はほとんどスマートフォンを持っている。定期的に通うジムへの往復はタクシーではなくバイクを利用する。インターネットを使ったバイク便サービスが発達しており、アプリを使って探せば、5分以内に門前まで迎えに来てくれる。ヘルメットをかぶって後ろにしがみつくように乗る。いくら交通渋滞でも車の左右かまわずどんどん先に進むから、タクシーなら30分もかかる渋滞でも5分で着く。料金は日本円で100円しない。

 信心深いヒンドゥー教徒は3月7日、バリ歴による正月(ニュピ)を迎えた。当日は煮炊きの火も使わず、外出は禁止。ラジオもテレビもWIFIも強制的に切断される。空港も閉鎖する。前日は神輿や山車が道路を練り歩きにぎやかだが、当日はみんな静かに自宅で祈りを捧げる。朝、試みにテレビをつけてみたら、ニュピのお知らせ休業の画面が出た。インターネットも同じである。

 この日は珍しいほどの悪天候で、日本の梅雨を思わせるどんよりとした雲に覆われ、ときおり激しい雨も降ったが、車やバイクの騒音はなく、隣家のざわめきも聞えず、ニワトリや犬もおとなしい。人の気配はまるでなく、ときおり雨や風の音、小鳥のさえずりが聞こえるばかりである。夜は島内のあらゆる灯が消された。昨年がそうだったが、天気が良ければ静まり返った空に無数の星が、まるで深山か離島にいるように美しく輝く。

 窓からあたりの景色を眺めていると、バリの人びとののどかな生活と「ホモ・デウス誕生」がどう関係してくるのかなどと考える。

 思い浮かぶのは、西洋人が15世紀から19世紀にかけて率先して行った「地理上の発見」とその後の世界制覇(植民地支配)である。

 ハラリはこの点を『サピエンス全史』で詳述しているが、西洋人だけが世界征服に乗り出し、アジアを始め他の諸国がその流れに逆らえなかったのは何故なのか。西洋人はいち早く科学革命や資本主義革命を推進すると同時に、「世界地図に空白がある」ことに気づき、それを征服することに強い意欲をもった。

 他文明の中には15世紀においてヨーロッパよりはるかに強大な統治力を持ち、技術力もあった国が存在したが、彼らは陸続きの隣国を征服し領土を拡大することに専念はしたが、海を隔てた遠い場所に他の人種が住んでいることも、世界地図に空白があることも真剣には考えなかった。「特異なのは近代前期のヨーロッパ人が熱に浮かされ、異質な文化があふれている遠方のまったく未知の土地へ航海し、その海岸へ一歩足を踏み下ろすが早いか、『これらの土地はすべて我々の王のものだ』と宣言したいという意欲に駆られたことだった」。

 他の文明は、そもそも外部世界への関心も知識もなく、その結果、手痛い仕打ちを受けることになったわけである。

ホモ・デウスによる第2の世界制覇?

 2015年にメキシコを旅したことがある。主にユカタン半島のリゾート地、カンクンに滞在、マヤ文明の遺跡、チチェンイッツァなどを訪ねたが、帰りにメキシコシティでアステカ帝国の遺跡も見た。

 現在のメキシコの首都はテスココという大きな湖を埋め立ててつくられた。この湖の中にアステカ帝国の牙城があったのだが、1519年、都を見下ろす山の上にスペインのエルナン・コルテスがわずかな軍勢だけで現れたとき、アステカの王はこれを「神の使者」と勘違いし、丁重な礼を持って迎えている。自分たちを征服するなど夢想もしなかったわけである。その結果、内部対立、隣国との抗争などもあって、当時最盛期にあったアステカ帝国はあっけなく滅んだ。

 アメリカ大陸の他の文明もよく似た運命をたどり、徹底的な虐待と持ち込まれた伝染病の蔓延により、本書によれば、「20年のうちに、カリブ海先住民のほぼ全員が命を落とした。スペイン人入植者はその穴を埋めるために、アフリカの奴隷を輸入し始めた」という経過をとった。

 メキシコシティの壮大なカトリック寺院はアステカ帝国の宮殿を潰した上に立てられており、埋もれた遺跡の一部をいま見学できるが、恐れ入った蛮行である(もっともスペイン自体、十字軍遠征の攻防でカトリック教会がイスラムのモスクになったり、イスラム施設に覆いかぶさるようにカトリック施設が建築されたりしている。アルハンブラ宮殿に象徴されるように、それがいまアンダルシア地方の観光資源である)。

 いずれホモ・デウスによる「第2の世界制覇」が行われるとして、それはどういうものなのだろうか。そこでも、「進歩意欲」、「改造意欲」、「征服欲」の強い西洋人が時代をリードするだろうか(ヒューマニズムが白人至上主義的傾向をもったことは否定できない)。たしかにいまIT社会をリードしているのはGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字)をはじめとするアメリカIT企業だが、そのメッカ、シリコンバレーには各国から優秀なエリートが集まっている。

 国で言えば、デジタル・レーニン主義を標榜する中国が一党支配をテコにIT業界でも覇権を築きつつあるし、名うてのロシアもいる。既存のカースト制がなお厳しいインドでは、脱カーストをIT産業に求める若者も多いと聞く。ホモ・デウスは西洋人を中心に地域や国、人種を離れた新しいエリートとして誕生するのだろうか。

 抗争は地上よりもサイバー空間を通して展開されるだろうが、今はのどかなバリでさえ静観していられないことは確かである。

 本コラムで環境問題に触れて社会学者、ウルリッヒベックの「海面上昇は、不平等の新たな景観を生み出しつつある。従来の国家間に引かれた境界線ではなく、海抜何メートルかを示す線が重要になる新たな世界地図を描き出しつつあるのだ。それによって、世界を概念化する方法も、その中で私たちが生き残る可能性も、これまでとはまったく異なるものになる」という言を紹介したことがあるが、いずれもう一つ、新たな世界地図が作り上げられる可能性があるということだろうか。

 そういうことを考えながら過ごしたニュピの一日だった。8日午前6時に灯火規制は解除され、インターネットもつながった。結局、今年は星空は見えなかった。

アーノルド・トインビー『歴史の研究』(縮刷版、社会思想社、1975)
歴史の研究 1

新サイバー閑話(19) ホモ・デウス⑩

岐路に立ちながら気づかぬサピエンス

 ハラリの『ホモ・デウス』『サピエンス全史』両著は、私にとっても衝撃だった。

 私たちは人間こそかけがえのない存在だと思い、その驕りのために、自然や動物を虐待してきたし、そのふるまいのつけで地球温暖化の危機も招いているけれども、にもかかわらず「われ思うゆえに我あり」、人間としてのアイデンティティが失われる日が来るとは考えてもみなかった。そこへ、ハラリはサピエンス→ホモ・デウスという座標軸を突きつけた。間違いなく私たちは歴史の大きな曲がり角に立っている。

『サピエンス全史』でハラリは、フランケンシュタイン神話に言及しつつ、私たちは将来、自分と同じような人間が恒星や宇宙を飛び交う夢を見がちだが、そのとき宇宙船に乗っているのは、私たちのような感情とアイデンティティを持った生き物ではない、まるで別の生命体になっている可能性が強いと言っている。

 そして肝心なのは、私たちがその未来を直視できていないことである。『サピエンス全史』の最後はこういう言葉で終わる。「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」。

・電子書籍と「注文の多い料理店」

 身近なところでも、ハラリの主張を裏付けるような出来事はいくらもある。人工臓器としては、すでに心臓ペースメーカーや人工膀胱を使っている人は多い。豊胸手術や頬へのヒアルロン酸注入などは珍しくもない。アンジェリーナ・ジョリーの場合、まだ予防治療だと考えることが可能だが、現代医学の最先端は患者を治療する段階から部分的な人間改造へ徐々に向かいつつある。米軍の経頭蓋直流刺激装置はまだ脳に直接電極を埋め込んでいないようだが、カーツワイルなどのテクノ人間至上主義者は、むしろ積極的に機械と人間を合体させようとしている。本連載①でゲームを通して見たように、バーチャル・リアリティの昨今の進歩は驚異的である。

 またインターネットの発達は、「かけがえのない個人」をミクロなデータに分割し、マクロな消費動向を占うようになっている。フェイスブックの「いいね!」から私たちの消費傾向、政治的思考まで分析されるし、フェイスブックを舞台にロシアがアメリカ大統領選挙に干渉した疑惑も浮上した。人びとはインターネット上の記事を容易に信じるし、そもそも自分好みの記事しか見えないように仕向けられている。アマゾンのサイトが購読商品から女性が妊娠していることを突き止め,お祝いメッセージを送ったとき、夫を含めた家族や友人のだれもそのことを知らなかったという話もある。ネット上にはフェイクや露骨な誹謗中傷が飛び交い、自ら「人間性」を貶めている。

 巨大IT企業はすでに私たち以上に私たちのことを知っている。

 最近、スマートフォンを使う時間が増えたからなのか、先日、立ち上げたとき「あなたが画面を見る時間が先月より8%減っています」というお知らせが現れた。「ほっといてくれ」と思いつつ、なるほどスマートフォンは1カ月の間、私がどのウエブを見たり書いたりしたとか、メールの送受信にどのくらいの時間を使ったかなどをすべて知っているのだと思った。メール内容もグーグルのサーバーに保管されている。私はGPS機能をオフにしているが、そうでない妻の場合、「あなたがこの店に来るのは一昨年に続き2度目です」といったことまで教えてくれるそうである。

 本書にアマゾンの電子書籍を読むときの話が紹介されている。

 アメリカでは印刷された本よりも電子書籍を読む人の方が多いそうだが、「キンドルのような機器は、ユーザーが読んでいる間にデータを収集できる」、「あなたがどの部分を素早く読み、どの部分をゆっくり読むかや、どのページで読むのを中断して一休みし、どの文で読むのをやめて二度と戻ってこなかったかをモニターしている」、「キンドルがアップグレードされ、顔認識とバイオメトリックセンサーの機能を備えれば、あなたが読んでいる一つひとつの文が、心拍数や血圧にどのような影響を与えたかを読み取れるようになる。……。あなたが本を読んでいる間に本があなたを読むようになる。そして、あなたは自分が読んだことをすぐに忘れるのに対して、アマゾンは何一つけっして忘れない」。

 山里の料理店に入ったら、服を脱ぎシャワーを浴びろ、体に塩をかけろ、などと指示され、すんでのところで自分が料理される羽目になる宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」を思い出させる現代の〝怪談〟だが、時代はここまで来ているということである。

 ちなみに、私が連載していた雑誌記事で「新年は『ビッグデータ』という言葉が流行語になるかもしれない」と書いたのは2013年1月号(「ミクロなデータからマクロな傾向を探る」だった。わずか5年前のことである。

・ハラリの「歴史家の目」

 しかし、問題はもっと先にある。

 私たちの人間としてのアイデンティティが危機に瀕しているということである。「危機に瀕している」という捉え方が間違いかもしれない。ハラリは「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない」と書いている(人間至上主義と訳されているのはヒューマニズムhumanismのことである)。

 私たちはサピエンスに見切りをつけてホモ・デウスへの道を歩みたいのか。あくまでも〝人間らしい〟サピエンスに止まりたいのか。だとすれば、ホモ・デウスによる支配を免れる方法は何か。一番いいのはホモ・デウスを誕生させないことではないのか。ホモ・デウスをめざす人には、アップグレードに向かうとしてかえってダウングレードしてしまったり、極端な場合、怪物になったり壊れてしまったりする危険も待ちかまえている(この点で、これもずいぶん昔に書かれたオルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』の先駆性に舌を巻く)。

 ハラリは、幾何学で言えば、鋭い補助線を一本引いて、歴史上の今を私たちに見せてくれたと言っていい。そして、私たちと言えば、未曽有の岐路に立たされていながら、それに気づきもせず、したがって真剣にも考えていない、というのがハラリのいらだちだと思われる。

 著者はサピエンス→ホモ・デウスへの動きにブレーキをかけるのは難しいと考えているようである。まずブレーキがどこにあるのか、誰も知らない(いろんな分野で起こっているシステムの変化を全体として見ている人はいない)、仮にだれかがブレーキを踏むことに成功したら、経済は崩壊し、社会も運命を共にするだろうと。

 しかし、手をこまねいているしかないと、言っているわけではない。ポーの「メルシュトリームの大渦」の話で言えば、渦に翻弄されながらも周囲を冷静に観察し、自らの生き方を決断すべきなのである。ハラリによれば、それこそが「歴史」を研究する意味である。

「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ」、「新しいテクノロジーの使用に関してある程度の選択肢があるからこそ、今何が起こっているのかを理解して、自ら決断を下し、今後の展開のなすがままになることを避けるべきなのだ」。

 彼の意図は以下に明確に示されている。

「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」、「データ至上主義の教義を批判的に考察することは、21世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトになりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何かを見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?意識を持たないアルゴリズムが、既知のデータ処理課題のすべてにおいて、意識を持つ知能をいずれ凌ぐことができるとしよう。その場合、意識を持つ知能を、意識を持たない優れたアルゴリズムに取り替えることによって、失われるものがあるとしたらそれは何だろうか?」

 未来に、人種差別や性差別から解放され、動物をはじめとする自然と共生する、それこそ人間らしい生活を築き上げるためには、まさに待ったなしで英知を結集すべき時だということだろう。

オルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』(早川書房、原著1934)
すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)