東山「禅密気功な日々」(32)

真夏の夜にお奨めする本2

 連日の猛暑ですが、みなさん、禅密気功に励みつつ、元気にお過ごしのことと存じます。気功の神髄と無関係とも思えない2冊の本を、真夏の夜にお楽しみください。ともにかなり以前の出版なので、ご存知の方も多いかと思いますが、まだ読んでいない人は――。

 政木和三さんが25年前に書いた『この世に不可能はない』(サンマーク出版、1997)は、気功愛好者必読だと思われる。政木さんはすでに故人だが、彼によると、人はだれでも「肉体」と「生命体」からなっている。生命体はエネルギーで、一つではなく、精神的に成長すると次々に新しい生命体ができてくるらしく、肉体が滅びると生命体は肉体を離れ、いずれ別の肉体に宿ることになる。輪廻転生である。

 政木さんは大阪大学工学部で電気、建築土木、航空、造船学から醸造学まで学部の全学科を収め、そのあとさらに7年、医学部で学んだ。その知識を生かして、生前に3000件ほどの特許を得たが、すべて無料で公開した。瞬間湯沸かし器、自動炊飯器などみなそうらしい。金儲けにはほとんど興味がなかった人である。

 ・私たちは「肉体」と「生命体」の合体

 根っからの科学者である政木さんが超常現象といったものを信じるようになったのは50歳を超えてからということだが、彼によると、この世の中には人間の知らないもうひとつの未知のエネルギーが確実に存在するという。そしてこのエネルギーは、実は人間の肉体の内側にも潜んでいて、ある状態のもとにおかれると、それが前面に出てきて、とうてい信じられないような力を発揮できるようになる。

 彼は言っている。「私は、科学者でありながら、神の存在を信じている。神といっても、天のどこか高いところにいるわけではない。人間の肉体の中に宿っているだけである。それを私は『生命体』と呼んでいる」、「生命体の存在を自覚することは、非常に大事なことだと思う。生命体とは、別の言い方をすれば、魂であり、私たちの中にある神もしくは守護神であり、あるいは宇宙そのものであるといっていい。それはすべての人間の心の奥深くに潜んでいる。だからこそ私たちは誰もがみんな尊いのである。その生命体を自らの内側に自覚し、その声に耳を傾けることは、無限の可能性に道を開く第一歩となるだろう」。

 禅密気功では、慧中を開いて無限の宇宙を見ることを奨めている。「慧中が開けてはじめて、自然と『微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる』という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます」(朱剛先生の言葉。東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』サイバーリテラシー研究所刊、P86)。

 私たちは生命体のエネルギーにふれると、信じられないような能力を発揮できるようになる。神は自分自身であり、同時に宇宙である。それは臨済宗中興の祖、白隠禅師の坐禅和讃冒頭の「衆生本来仏なり」を思い出させるし、「私たちの体内には地球(星)のリズムが流れている」という以前紹介した解剖学者、三木成夫の考えにも通じる。孟子が言った「浩然の気」もそうだろう。

 また前回とりあげた『死は存在しない』で田坂広志が強調していたのは、現代科学の最先端はミクロレベルでは「物質は存在しない、あるのは波動エネルギーだけである」という地点に到達、逆にマクロのレベルでは、「量子真空が大爆発を起こして、そこから銀河系も、太陽系も、地球も、そして人類そのものも誕生した」ということだった。そこでは物質と精神、ミクロとマクロの境界そのものがあいまいになると同時に、それら先端科学の知見は、古くからの神話、宗教、民俗信仰、心理学、哲学などが言及してきたさまざまな神秘現象とも関係がある。政木さんは、過去、現在、未来の記録がすべて蓄えられているゼロ・ポイント・フィールド、あるいはアカシック・レコードにもアクセスしていたと言う。

・プレアデス星ですばらしい文明を見てきた

 もう1冊は上平剛史『プレアデス星訪問記』(たま書房、2009)である。Online塾DOORSで情報通信講釈師、唐澤豊さんが紹介してくれたのだが、上平さんは16歳のとき、プレアデス星人に迎えられ、宇宙船に乗って銀河系内のプレアデス星を訪問したという。プレアデス星は地球よりはるかに文明が発達しており、科学技術を賢明に利用し、理想的な生活を営んでいる。いわく、「我々の宇宙科学は波動と光の科学であると言っても過言ではないでしょう。物質世界と非物質世界を徹底的に解明し、これ以上できないレベルまで細分化しました。そして、波動と光の科学を駆使し、元の原子、分子に科学の力を加え、新たな物質を創り、物質を自由にコントロールするところまで科学を進めたのです」、「宇宙には宇宙開闢以来の記録『アカシック・レコード』があり、それを見れば過去がすべてわかることを発見したのです。過去の場面は映画のフィルムのひとコマを見るようなものです」。

 貨幣経済とは無縁の、争いのない、弱いものほど助け、足りないものほど補うという「愛の奉仕活動を基本とする社会」をつくっており、肉体と霊魂(精神)が進化をとげ、思考力でモノを作り出せるから、飲み物や食事も瞬時にできるし、宇宙船はテレポーテーションで広大な宇宙を自由に飛び回っている。輪廻転生、死は新しい生であり、人びとは死ぬことを悲しまない。

 一方で、地球は貨幣経済に毒され、利己主義に凝り固まり、自然を搾取し続けたために、地球はすでに悲鳴を上げている。上平さんはその地球人を目覚めさせるための使徒としてプレアデス星に招かれ、この書を書いたのだという。「もし地球人類がプレアデスの科学を手に入れたいのなら、まず心のありかたを変えなければなりません。‣‣‣。『他人を愛し、奉仕を基本とする社会にしなければなりません。人間が知識を得ることも必要ですが、それ以上に『心のあり方』が重要なのです。その心のありかたが、地球人はあまりにも幼稚でありすぎるのです」。

 このコラムの文章をまとめて、サイバー燈台叢書第1弾として東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』を刊行したのは2021年9月である。朱剛先生への禅密気功入門編、および動功篇のインタビューを終え、その後、静功編に移る予定だったが、コロナ禍や私自身の準備も整わないうちに2年が過ぎた。今度こそ、秋には瞑想教室に参加し、その後に朱剛先生に静功編(瞑想編)インタビューもお願いし、年内には『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』Ⅱも刊行したいと思っている。

東山「禅密気功な日々」(31)

「ゼロ・ポイント・フィールド」仮説と禅密気功

 禅密気功に親しんでいる人にとっては、気が宇宙にあまねく存在するエネルギーだということは常識だと思うけれど、知人に教えられて読んだ田坂広志『死は存在しない  最先端量子科学が示す新たな仮説』(光文社新書、2022)はたいへん興味深かった。

 現代科学の最先端はミクロレベルでは、物質の単位を原子核から光子、素粒子へとどんどん細分化し、ついに物質そのものは存在しない、あるのは波動エネルギーだけであるというところまで到達したという。逆にマクロのレベルでは、真空も無ではなくそこには莫大なエネルギーが秘められており、そもそも宇宙は138億年前、「量子真空」が何らかのゆらぎをおこして突然膨張、大爆発(ビッグバン)を起こして、そこから銀河系も、太陽系も、地球も、そして人類そのものも誕生した。

 朱剛先生もインタビューでふれたことがあるけれど、宇宙の95%は私たちに普通では認識できない暗黒物質(暗黒エネルギー)から成り立っている。量子真空は実は宇宙のあらゆる場に遍在し、そこには「ゼロ・ポイント・フィールド」というエネルギーの場があり、過去・現在・未来の地球上の、いや全宇宙のあらゆる出来事が波動情報としてホログラム原理で記録されている。だから、その記録は減衰せず、常にその一部に全体を包含している。

 私たちがときに経験する予知、予感、直観、既視感、シンクロニシティといった不思議な精神現象はすべて、無意識下の量子レベルで行われるゼロ・ポイント・フィールドとの交流(交信)のせいで、しかも、このゼロ・ポイント・フィールドは138億年の記憶をどんどん蓄積してより広大に、そしてより深遠になっており、我々の自我意識も、肉体の死後はこのゼロ・ポイント・フィールドに比重を移し、宇宙意識と合体していく。

 著者は、「『神』や『仏』や『天』とは、宇宙の歴史始まって以来の『すべての出来事』が記録され、人類の歴史始まって以来の『すべての叡智』が記録されている、この『ゼロ・ポイント・フィールド』に他ならない」、「そして、もし、そうであるならば、昔から、世界の様々な宗教において、『祈祷』や『祈願』、『ヨガ』や『座禅』や『瞑想』と呼ばれ、実践されてきた諸種の技法は、実は、この『ゼロ・ポイント・フィールド』に繋がるための『心の技法』に他ならない」と書いている。

 また「もし、あなたが、『私とは、この壮大で深遠な宇宙の背後にある、この「宇宙意識」そのものにほかならない』ことに気がついたならば、『死』は存在しない。『死』というものは、存在しない」とも。

 先に「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」で紹介した日本の解剖学者、三木成夫の「人類の生命記憶」の話も思い浮かぶし、昔読んだ、コーリン・ウイルソンの『賢者の石』、ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』の世界も彷彿とさせる。実は、本書にはカール・ユングの「集合的無意識」、アーサー・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』のスターチャイルド、仏教の天台本覚思想(山川草木悉皆成仏)、般若心経の「色即是空空即是色」、深層意識としての阿頼耶識、さらにはジェームズ・ラブロックのガイアの思想、、グレゴリー・ベイトソンの創発、複雑系の科学、イリヤ・ブルコジンの自己組織化などなど、宗教、科学にまたがる多くの先達の見解が紹介されている。

 特筆すべきことは、これがただの幻想、幻視ではなく、科学的な仮説だということである。著者は物理学を専攻した科学者で、ゼロ・ポイント・フィールド仮説を通して、「科学的知性」と「宗教的叡智」を結びつけ、「新たな文明」を生み出す壮大な試みに挑戦しているわけである。

 瞑想中にどこかで深い真理にふれるというか、より透明な心境に到達できるという感覚は多くの人に共通するところで、築基功で「慧中を開き無限の宇宙を見る」ということは、まさに、無意識下で行われるゼロ・ポイント・フィールドとの交流を促進する技法の一つではないか。そう考えると、ゼロ・ポイント・フィールド仮説と禅密気功とは大いに親和性があることになるだろう。

東山「禅密気功な日々」(30)

傘寿を迎えて老年について考える

 18世紀アイルランドの鬼才、ジョナサン・スウィフトが書いた架空航海記の『ガリヴァ旅行記』は世界中のだれもが知っているが、ガリヴァは小人の国(リリパット)や巨人の国(プロブディンナグ)ばかりでなく、宮崎駿のアニメで有名な飛ぶ島、ラピュタとか賢明な馬が支配する国(フウイヌム)にも行っている。最後のフウイヌムには、検索サイト、ヤフーの由来となったヤフーという人間種に近い猿のような醜い動物も登場、スウィフトの諷刺も最高潮に達する。

 スウィフトはたいへん饒舌な人だったらしく、いろんな与太話が次々登場する塩梅で、そこにさまざまな、そして鋭い社会諷刺がちりばめられているようだが、当時の社会をほとんど知らない目から見ると、あまり面白くも感じない。当然といえば当然だが‣‣‣。

 ・不死は人類の夢か

 ある魔法の国では死者を蘇らせて話ができるというので、ホメロス、アレクサンダー、ジュリアス・シーザー、ブルータスなどなどいろんな人に会ってみたりしているが、こんな話もある。某国にはときどき不死の人が生まれるらしく、著者はそれがどんなに素晴らしいことかといろいろ夢想してみるが、いざ接見したそれらの人びとは老いにともなうマイナス要素(肉体の衰え、記憶力の喪失、多くの疾病など)をいたずらに加重して醜いばかりで、「吾輩は、心に描いていた美しい幻影を心から恥じるようになった。たとえどんな暴君が案出するどんな恐ろしい死であろうとも、このような生を逃れるためならば喜んで飛び込んでみせると思った」(中野好夫訳)などと書いている。

 ガリヴァは諸国を経めぐりつつ、日本の近くまで流れてきたらしく、オランダ船で帰国する前に日本にもちょっと寄ったことになっている。首府がエドであり、踏み絵の儀式だけは勘弁してほしいと奉行に頼み込んだり、ナンガサクまで送ってもらって、そこから無事にオランダ船に乗って帰国したりとか、ほんのわずかな行数の中で、それなりに〝最新知識〟を織り込んでサービスしながら、そこに諷刺も利かせているのはあっぱれというべきか。

 最終章によれば、ガリヴァの旅は16年以上に及んだらしい。この章でも近頃は嘘八百の旅行記が多いが吾輩は真実のみを語ったとか、旅行記作者には出版前に大法官の前に出て真実宣誓書を書かせるべきだとか、吾輩は訪れた国に対して領有宣言をしようなどとは考えなかったし、国務大臣だったとしても彼らの国を攻略せよなどとは言わないだろうとか、二重三重の煙幕を張っている。いまなら「そんな国があるなら探検に行こう」ということになるだろうが、当時はもっと世界は広く果てないと考えられていたから、だれもそれを実行しようなどと考えないという前提に立っていたらしい。フウイヌムにすっかり感化されたガリヴァは帰国後すっかり人間嫌いになったが、「ヤフー」たる家族と付き合わざるをえないために年々堕落しているなどと独白している。

 中野好夫『スウィフト考』によれば、スウィフトは風刺に対する批判が身辺に及ぶのを恐れて匿名でこの本を出したが、出版元が勝手に風刺部分を削ったり書き換えたりして改ざんするといった、すったもんだの経緯もあったらしい。だから版によって内容が違ったりするらしいが、結局は大評判となったわけである。

・老化に対する考えかた

 私も今年傘寿を迎え、押しも押されもせぬ「老人」になった。しかし、ガリヴァのように達観できる心境ではない。そこで最近、「高齢者専門の精神科医」、和田秀樹さんの本をいくつか読んでみた。80歳になったら自らの長寿を寿ぎ、無理に年齢に逆らわない方がいいと書いてある。曰く、健康診断を受けて新たな病気を発見してもらうようなことはしない、80歳を過ぎたらがんなど切らない方がいい、内臓の数値を基準外だからと言って、上げたり下げたりする薬もやめるに越したことはない、などなど。

 老化は自然の摂理と受け止めよ、と言うのだが、もちろんぼんやり生きて行けと言っているわけではない。曰く、若さを維持するのはコレステロールと前頭葉だから、たんぱく質、とくに肉を食べる、「前頭葉はルーティンだけの生活をしていると衰えてしまいます。想定外のこと、いつもと違うことを積極的に生活に取り入れることで活性化します。その意味では、自分とは違う考え方の人、想定外の考え方に接し、自分なりの考えも披露するような場に参加することはとてもいいことです」などなど。

 要は人生100歳時代を見据えて、天命には従いつつ、若さを持続するように、なるべく老いを遅らせるように生きるべきだという教えである。傘寿を迎えた身としては、ここが無難な着地点だろう。と言うより、この東山「禅密気功な日々」はそういう考えのもとに書き継いでいるのである。

 くり返しになるけれど、全身を揺する禅密気功は老年の人にとってとりわけ有効だと思う。教室に集い練習をすること自体すばらしいけれど、鎌倉教室の場合、その後で先生を囲む食事会があり、それぞれの体験を語り合ったり、先生からいろんなエピソードを聞いたりするのは老化を遅らせるうえですばらしいとも言えよう。

 私自身、コロナ恐怖症で、コロナ禍以来ほとんど教室に参加していないので大きなことは言えないが、そのためか鎌倉教室の会員が減少、運営が持続できるかどうかの瀬戸際だという。なかなか悩ましいことである。

東山「禅密気功な日々」(29)

オンライン瞑想教室に参加

 11月下旬のある日、江戸川橋の日本禅密気功研究所本部教室で実施された瞑想教室にZoomで参加してみた。朱剛先生から招待のURLを送っていただき、9時半にはスタンバイ。教室にはかなりの人が参加していたようだが、オンラインでは私のほかにもう1人参加者があった。

 カメラアングルも教室全体がうまくおさまり、先生が坐っているときも、蠕動しているときもほぼ全体が俯瞰できるように設定され、マイクから流れる先生の音声も明瞭に聞こえた。本部教室でみんなといっしょに先生の話を聞き、蠕動したり、瞑想したりするのとは違うと思うが、それなりの臨場感もあり、個人的には久しぶりに参加した瞑想教室で得るところがあった。こんな具合に受講できるのなら3日間参加したいと思ったほどだが、あいにく前日から風邪をひいていたこともあり、1日だけの参加で終わった。

遠方に住んでいる人や外出が難しい方がオンラインで気功教室や瞑想教室に参加するのはそれなりの効果があるように思われる。先生によれば、中国からの参加者もいるという。

東山「禅密気功な日々」(28)

蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな

 俳人、芭蕉の第一の高弟とされる宝井其角の句である。蟷螂はカマキリ。カマキリはメスより小さいオスがメスの背中に乗って交尾をする。それが終わると、メスは首を後ろに向けて、当のオスの頭をガリガリと噛んで食べてしまう。私はその現場を見たことはないけれど、ネットで検索すれば、その動画やメスの背中に止まったままの頭のないオスの写真を見ることができる。

 この句は、三木成夫『胎児の世界 人類の生命記憶』(中公新書、1983)で知った。そこには「交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、実りを終えた草が葉を枯らせていく光景をだぶらせて」詠んだ句と説明されていた。「尋常に死ぬ」という表現が心にひびく。

 三木成夫はすでに30年以上前に亡くなった解剖学者で、東京大学医学部や東京医科歯科大学で研究・講義をしたあと東京芸術大学教授となった。経歴からしてユニークだが、その研究がまた独創的、かつ画期的だった。

 彼は専門である人体解剖学の研究を進める中で、人も動物も植物も、そのすべてが何十億年も前の地球上に偶然生まれた原生生物から派生したもので、進化の過程を自らの細胞の中に今もなお記憶しているとして、それを「生命記憶」と名づけた。彼によれば、私たちの細胞そのものが地球の、さらには太陽系のリズム(宇宙のリズム)を内包している。

 三木は「個体発生は系統発生を繰り返す」というエルンスト・ヘッケル(19世紀ドイツの生物学者、哲学者)の説を受け、あらゆる生物には「原形」というものがあり、それは原生類から人類まで進化してきた何億年もの「記憶」として個々の体内に蓄積されていると主張した。「巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない」、「私たちの細胞の一つ一つはちょうどモチを小さくちぎったように、小さく区切られた地球だと考えるよりないわけです」。

 太古の海に最初の原形質が生まれたのが30億年前で、そのあるものは少なくとも5億年前に脊椎動物の祖先となった。海の魚は何十万年も何百万年もかけて行われた造山活動の過程で陸に打ち上げられ、その環境の変化に適応して進化した。最大の試練が「上陸」である。水中と空中では重力が6倍になる。寒暖の変化も激しい。多くは死に絶え、あるものは海に戻り、あるものは両生類から爬虫類へ、そして哺乳類、人類へと姿を変えていく。

 だから「かれらの体内には、生まれながらにして、『宇宙リズム』が内蔵されており」、「思いきった言い方をすれば、われわれの祖先の太古の原形質は、みな地球から分かれたひとつの〝生きた衛星〟である。したがってその集合体である生物の個体もまた一個の星であり、かれらはすべて〝母なる大地〟と臍の緒で結ばれている」。彼は「この問題の指針はただひとつ、それは、卵巣とは全体が一個の『生きた天体』ではないか、ということだ。いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないか……」とも書いている。

 その宇宙リズムは、地球が太陽を回る24時間と月が地球を回る24時間50分という2つのリズムからなる。あらゆる生物は、植物も動物も、「食の相」と「性の相」という2つのリズムで生きている。

 たとえば一年生草花は春に芽吹き、成長し(「食の相」)、秋には稔りの季節を迎え(「性の相」)、種を残し枯れていく(冒頭の写真は、どこからともなく飛んできた風媒花の種子)。サケは故郷の川で生まれて太平洋へと下り、そこで腹いっぱいの栄養を蓄える(「食の相」)。そして時至ればただ一筋に故郷の川をめざし、滝を乗り越え、産卵し受精させる。「性の相」を終えたサケは細菌に侵され白骨化して自然に還る。

 人類は文明を発達させ、自然に逆らう生き方を模索しているけれど、この宇宙リズムから逃れることはできないというのが三木の言いたかったことのように思われる。「われわれの細胞一つ一つが、生きた衛星ではないか、ということになってくるのです。星であるから命令されなくてもちゃんと太陽系の運行のリズムを知っている。‣‣‣。ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間の体のリズムと天体のリズムが調和したとき、‣‣‣、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないかと思うのです」。

・胎児は「上陸期」の苦難を追体験する

 彼はニワトリの受精卵を使って研究していた時、その卵が4日目に急に弱り、その段階で死んでしまうものも多いことに気づいた。ところがこの「苦難」に耐えた卵はまた元気になり、どんどん成長を続けた。その胎児の変化をつぶさに観察するなかで、三木はこれこそかつての「上陸期」の苦難の再現ではないかと洞察した。

 突き動かされるようにして彼は、友人が集めてくれた標本の胎児を解剖して、人の場合は、受胎32日から1週間で、何億年という時代の経過を繰り返すことを〝突き止め〟た。1億年におよぶ上陸のドラマが受胎1か月後の1週間に繰り返され、人類はえらで呼吸するフカから肺で呼吸する哺乳類へと変化するのだという。母胎につわりが始まるのもこのころらしい。

 その経過は『胎児の世界』などに詳しいので、付け焼刃の紹介はこの辺でやめるが、彼はそういう研究をバックボーンにして、自然と人間のかかわりあい、そこでの植物と動物の連続と相違などユニークな考察を公表した。

 その見解は、解剖学を離れて、東洋医学(漢方や鍼灸)、老荘や仏教の思想、民俗学、伝統芸能、さまざまな呼吸法など、広く深い学識に裏打ちされている。とくに生物の「原形」に関しては、ドイツの文豪ゲーテの「形態学、Morphology(ゲーテの造語)」に多くの示唆を得ているという。

 彼は生前、『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館、1982、後に『内臓とこころ』と改題されて河出文庫として出版)と『胎児の世界』の2著しか公刊しておらず、1987年には60歳すぎで世を去った。名声は死後大いに高まり、その独創的研究をめぐって多くのシンポジウムが開かれ、遺稿集や講演録などが次々に出版された。

 冒頭に掲げたカマキリの句は『胎児の世界』以外にも、折にふれて言及されており、『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院、1992)に収録された論考の中では「この俳人の眼には、昆虫の死も、それは、草木の枯れと同様、ただ、天然自然の理に従ったまでの尋常のものとして映し出されたのであろう」と書いている。

・三木成夫の世界と禅密気功

 三木の洞察は、気功に親しむ者にとって多くの示唆を与えてくれるだろう。

 たとえば呼吸である。彼は「呼吸のリズムは‣‣‣、あの波打ち際の、ザザーと寄せて、そしてサァーと引いていく、あの波のリズムです。それこそ宇宙的なリズムではないでしょうか。お釈迦様の呼吸の教えはこのことではないかと思っております」と書き、また別の個所では「この数百万年にもおよぶ水辺の生活の中で、いつしか刻み込まれたであろう浪打のリズムが、私にはどうしても人間の呼吸のリズムに深いかかわりがあるように思えてならないのです。……。このことは心拍のリズムもまた海のうねりとは無関係でないことを教えてくれる」とも述べている。

 私たちが日々実践している呼吸法のもとは波のリズムなのである。これも三木の著作で紹介されていることだが、調和道開祖の藤田霊斎は九十九里浜の海岸で波浪息という呼吸道を体得したという。波打ち際に一人たたずむとき、寄せては返す波の音に心癒される思いをした人は多いだろう。

 禅密気功と朱剛先生の教えとの関連でも思いつくことは多い。

 本連載を単行本としてまとめた『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(サイバーリテラシー研究所)PARTⅡの<1>「古人の知恵・気・現代科学」では、「気は神羅万象、たとえば人間、人間以外の動物や植物、海や山にも流れている」と説明、朱剛先生は「気は昔の人びとの宇宙感でした。万事万物は気で組み合わさってできていて、それを分解すると気になる。気というものは眼に見えないし、耳にも聞こえないし、触れても感じない。しかし存在していると考えていました。身体も気で構成されており、身体を細かく分解すると気に返る、だから心身の健康は気と密接に繋がっていると考えました」と述べている。

 このくだりは、三木成夫が説く「宇宙リズム」と符合する。さらに先生は「意識と健康、環境と健康、食事と健康などすべては気と繋がっており、気を整えることによって、健康になるだけでなく、良い人生を送れるとも考えていました」と言っており、三木がなお存命であれば、大いに賛同してくれると思われる。

 ほかにも、たとえば蠕動のとき、「体を波のように動かす」というのは、宇宙のリズムに身をゆだねることであり、「慧中を通して無限の宇宙を見る」ことは、それに共鳴することでもあろう。

『胎児の世界』まえがきの冒頭にはこうある。「過去に向かう『遠いまなざし』というのがある。人間だけに見られる表情であろう」。また『海・呼吸・古代形象』に収められた「動物的および植物的」という論考では、動物と植物のありようを対比して述べたくだりで、ロダンの「考える人」と広隆寺の弥勒菩薩の2つの彫像を対比させ、ロダンの彫刻では、「感覚―運動」の動物相が全面に出て、人間のみに宿る「精神」の機能(「近」への志向)が表現されているが、弥勒菩薩には植物相(「遠」への志向)が全面に出ている、と分析している。「〝あたま〟を押さえるものがなく、胴体も手足も、筋肉はのびやかに、‣‣‣、微笑を浮かべた口許には、小宇宙を象るような指の輪が添えられ、‣‣‣。宇宙リズムと秘めやかに共振する植物系の、その内に深く蔵されたこころを、表わそうとしたものではないか」。

 ここは、動物相に支配された「あたま」、植物相ゆかりの「こころ(心臓)」という解剖学的図式を背景にしており、とかく「あたま」が「こころ」を支配しがちな人間に対する批判的目があるのだが、「慧中を開く」ことについて先生が「慧中が開けてはじめて、自然と『微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる』」という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます」と言っているのを思い出すと、また興味深い。

 陰陽合気法では、頭上に太陽、雲、風、月、星などすべての宇宙エネルギーを気のボールとして意識することをめざすが、もう一度、三木の言を引けば、「ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間の体のリズムと天体のリズムが調和したとき、‣‣‣、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないか」ということになる。

 拙著のPARTⅠで「晩夏の三浦海岸」、「青空に浮かぶ夏雲」、「繁茂するノウゼンカズラ」の写真を使ったけれど、三木成夫の世界を知るにつれて、何気ない選択のなかにそれなりの必然性があったのではないかと思えてきたりもするのである。

 蕪村の次の2つの俳句を上げたことにも、一種の感慨を覚える。

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

 思想家の吉本隆明は『海・呼吸・古代形象』の解説で、三木成夫の仕事をカール・マルクスや折口信夫に匹敵するものと絶賛、この著者をもっと早く知ればよかったと嘆いているが、それが1992年の段階である。それから30年、ようやく私は三木成夫という碩学の存在を知った。三木成夫の存在を教えてくれた友人、T氏に深く感謝すると同時に、己の不明を恥じつつこの項を書いた(三木成夫の文の引用は『胎児の世界』、『海・呼吸・古代形象』、『内臓とこころ』のほか、『生命とリズム』=河出文庫、による)。

・野口こんにゃく体操の極意

 最後に、三木成夫の著作をいくつか読む中で知った、これも気功と大いに関係のある「野口こんにゃく体操」についてふれておこう(野口晴哉を祖とする野口整体とは別)。

 三木成夫と同じころ、東京芸術大学に野口三千三という有名な先生がおり、音楽や美術の学生の基本素養として「こんにゃく体操」として知られる「野口体操」を提唱していた。こんにゃくの名の通り、体をぐにゃぐにゃにして、重力に逆らわずにぶらりとぶら下げるように動かしたり、前後左右にゆすったりする。これも築基功の動きに通じると言えるだろう。

 「人間の潜在的に持っている可能性を最大限に発揮できる状態を準備すること」を目的としており、ウィキペディアによると、野口は体操の優秀な指導者だったが、教え子を戦地へ送ってしまった呵責の上、自身も身体の不調を来たした。舞踊の道を志すなどの試みのうちに、重力などに抵抗するための筋力を鍛えるよりも、むしろ力を抜いて身体を動きや重さに任せることが、力や素早さなどを引き出せることを発見したという。

 野口の身体イメージは「生きている人間のからだは、皮膚という伸び縮み自由な大小無数の穴が開いている袋の中に液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」というもので、東京芸術大学でたまたま居合わせた三木成夫とは肝胆相照らす仲だったらしい。

 野口体操の極意もまた禅密気功、とくに蠕動の心得として大いに参考になると思われる。

東山「禅密気功な日々」(27)

「病邪の実を瀉す」

 これまでも2度ほど東洋医学(鍼灸)の「虚実補瀉(病邪の実を瀉し、正気の虚を補う)」という言葉にふれたけれど、作家、宇野千代の『天風先生座談』(廣済堂文庫)に、中村天風がエジプトのカイロでたまたま会ったインドの行者についてネパールの山奥に行き、長年の病を治した経験が語られている。

 行者はすぐにでも病から解放される方法を教えてくれると思ったのだが、幾日たっても何の音沙汰もない。2カ月を無為に過ごし、しびれを切らした天風先生が「いつになったら教えていただけるのでしょうか」と聞くと、行者は「大きな水飲みの器に水をいっぱい入れてこい」と言った。持っていくと、今度は「湯をいっぱい持ってこい」、「その湯を器にそそげ」と言う。「そんなの無理ですよ。水も湯もこぼれるだけです」と天風がたまらず抗議したとき、行者はこう言う。

お前をつれてきた翌日からでも教えたいと思ってじっと見ていると、お前の頭の中はな、私がどんなことを言っても、そいつをみんな、こぼしちまう。さっきの水のいっぱい入っているコップと同じだ。お前の頭の中に役にも立たない屁理屈がいっぱい詰まっている以上、いくらいいことを言っても、それをお前は無条件に受け取らないだろう。受け取れないものを与える。そんな愚かなことは、俺はしないよ。

 天風が心底、納得した姿を見た行者は、「今夜から俺のところへ来い。生まれたての赤ん坊のようになってな」と言った。

・「蠕動+筋トレ」の真意

 禅修行のときなどでも同じようなことを言われるようだが、頭をカラにしておかないと、新しいものは入ってこないということである。虚実補瀉は、これが体にも言えることを示している。筋肉を発達させ、若々しく蘇生させるためには、まず長年の間にたまってしまった滓を取り除く必要がある。高齢者トレーニングは「マイナスからの出発」だと言ったのはそのことである。

 体が錆びついたままいくら重いダンベルを上げても、筋肉は相変わらずしぼんだままで、けっしてパンプアップしてくれない。逆に股間ストレッチや呼吸法などを実践している人が、筋トレをしていなくても、その肌が水々しく、また筋肉も引き締まり、若者のようにしなやであるのを見て驚いた人もいるはずである。

 気功(蠕動)で筋肉の滓をほぐし、それを体外に排出する、次いで筋肉トレーニングをする。これが「蠕動+筋トレ」の真意である。スポーツ教室に行っても、筋トレだけでなく、エアロビクスやウォーキング、ヨガ、ストレッチなどをやれば、滓ほぐしの効果があるから、それでもいいわけだが、私の経験では、毎日蠕動をやったうえで、ときどき筋トレをやれば、年老いてからもけっこう若々しい肉体を保つことができる。

 もっとも老いは日々降り積もる。滓ほぐし≧降り積もり、でないとなかなか思うようにはいかない(^o^)。

東山「禅密気功な日々」(26)

Years of Practice

How do you do that so easily?
Years of practice! But just smile and relax. Above all, you should enjoy yourself. Now you try.
I did it!
You see? I know you could.

 英会話の勉強みたいだが、そう、英会話用テキストから借用した。

先生はなぜそんなに簡単にできるのですか/いつも練習しているからだよ。笑顔でリラックスしてね。なによりも楽しみながら。君もためしてごらん?/あっ、できました!/だろう?君ならやれると思っていたよ。

 何年もの練習の成果が一瞬でできる、というのがいかにもテキスト的だが、何事も繰り返しながらの練習が大事だというのはたしかである。最初はとてもできないと思ったことが、そのうちできるようになる。若者に限らず、老年になっても同じである。

 Years of Practiceは、行住坐臥と言い換えてもいい。寝ても覚めても。ふだんの修練がすばらしい結果を生む。広島大学元学長の耳鼻科医、原田康夫さんはことし満90歳だが、なお現役のテノール歌手として、ときに「オーソレミオ」を朗誦しているらしい。声の老化を防ぐために、専門知識を生かした独自の声帯健康法を何年も、日々実践しているおかげである。

まさに

Years of Practice.
Heaven helps those who help themselves.

である。

  歳をとってからではもう遅いかというと、そうでもない。

 よく知られた話だが、ロケット開発で有名だった故糸川英夫さんは、晩年になって社交ダンスを始めたが、最初練習したとき足がほとんど上がらなかった。それで洋服ダンスの引き出しを開けて、最初は最下段に足をかけるようにした。そこまでしか上がらなかったのである。なれたところで2段目の引き出しに挑戦、それを3段、4段と続けて、最後は最上段まで届くようになったという。

・自分にかまける時間はたっぷりある

 趣味もここまでやればたいしたものだが、気功も同じである。

 そのためには、最初からきついことに挑戦しない。体をゆっくり動かしながら、体が自然にほぐれていくのを待つ。

 子はすでに独立、孫の子守からも解放された老年にとって、残された時間はそれほど長くないとしても、その時間は、ほとんど自分だけにかまけることを許される〝至福〟の時でもある(女性の場合、男性のように自由とはいかないかも……)。短い年月に残された長い時間。そのためには健康第一。のんびり練習する。そして何よりもそれを楽しむことである。

 朱剛先生によれば、展慧中の極意は、眉間を広げて心の底から微笑むことだという。Just smile and relax.

 敬老の日を前に総務省が(2021年)9月19日に発表した人口推計によると、65歳以上の高齢者は前年より22万人も増え、総人口に占める割合は29.1%と過去最高になった。これはイタリア(23.6%)、ポルトガル(23.1%)を抜く断トツの1位である。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2040年になると35.3%を占めることになる。

 国民の3分の1が老人である国はさまざまなひずみを社会にもたらすだろう(すでにそうなってもいるが……)。地球環境問題と並ぶ政治の大問題だが、私たちは有史以来初めて、そういう未踏の社会に向かっている。

 個人的な対処法としては、だからこその健康法であり、そのためにはYears of Practiceに励むのがいい。

東山「禅密気功な日々」(25)

細胞と和気あいあい

 だいぶ前だが、『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳、新潮社、2009)という本が話題になった。脳卒中で左脳の活動が止まってしまった脳科学者が、左脳の回復までの過程で、むしろ右脳のすばらしい機能に目覚めていく体験を記したものである。8年の苦闘の末に咲いた幸せの記録でもある。

 左脳が壊れた彼女は、自分がこれまでとは違う穏やかな性格に変わったことに気づき、それをすごく魅力的だと思う。そして、左脳が回復する過程で右脳の素晴らしさがまた失われていくのを恐れた。彼女は、脳卒中という不慮の事故を通して、理知的で冷たい左脳とは違う、感情的で穏やかな右脳の働きを自ら体験、そのうえで脳科学者らしく、両者をバランスよくコントロール技術を身につけたわけである。

「脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。左脳が司る判断や分析といった特性が、私の人格を支配していたのです」、「脳卒中によってひらめいたこと。それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。右脳は世界に対して、平和、愛、喜び、そして同情をけなげに表現し続けているのです」、「回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした」。

 ここには左脳的な人間が、左脳的に考えながら、右脳の働きを取り入れて人生を豊かにしていこうという、いかにも西欧人的な対処法が示されているが、著者が気づいたことは、ひとことでいえば、瞑想のすばらしさだろう。「瞑想の発見」だったと言ってもいい。

 彼女は書いている。「左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。安らぎの感覚は、現在の瞬間におきる何かです。……。内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに『いま、ここに』いる、という気になること」、「私の意識は、自分自身を個体として感じることをやめ、流体として認知する(宇宙とひとつになったと感じる)ようになったのです」。

 瞑想の極意とは、まさに「宇宙と一つになる」感覚だろう。「いま、ここにいる」感覚は、朱剛先生が教室でよく言う「気持ちのいい感覚に意識を集中する」を思わせる。

 後半で彼女は、自分の「新しい」人生について、「脳の細胞との会話に多くの時間を費やすのに加えて、わたしはからだをつくっている50兆もの細胞という天才たちと、和気藹々とした関係を結んでいます。細胞たちが元気で完全に調和しながら働いていることに、感謝しています」とも書いている。

 この「細胞と和気あいあい」という表現がまた興味深い。これこそ蠕動の極意でもある。全身を動かす時、頭、肩、背、腕、胸、腹、股間、脚と意念を動かしながら、それぞれの細胞と和気あいあいの関係を維持する。以前書いた「気を動かす=細胞を共鳴させる」というのも同じである。

 会報『禅密気功』第111号(2021.9)で朱剛先生がたまたま「活在当下」(かつざいとうげ)という言葉について紹介し、「それは『今ここを生きる』という意味で、『今ここ』とも言います」と書いておられる。テイラーの「いま、ここに」の原語が何かわからないが、表現が一致しているのはやはり興味深い(10.3追記)。

東山「禅密気功な日々」(24)

辛いほど頑張る必要はない

 人体の筋肉を大きさ順に並べると、だいたい以下のようになる。説によって、一部順位の入れ替わりがあるようだが、だいたいこんなところだと考えていい。

大腿四頭筋 
大臀筋
三角筋
ハムストリングス
大胸筋
上腕三頭筋
腓腹筋
広背筋
僧帽筋
上腕二頭筋

 上位に大腿四頭筋とハムストリングス(ももの前後)および大殿筋(尻)が並んでいるように、下半身に全身の7割の筋肉がある。上半身で大きいのは左右の肩にある三角筋、ついで大胸筋である。背中の広背筋と首筋にあたる僧帽筋は意外に小さい。上腕の三頭筋(陽面)と二頭筋(陰面)もトップ10に入っている。

 鍛えやすく、また大きくなりやすいのは大胸筋、三角筋、上腕二頭筋、大腿四頭筋、大殿筋と言われるが、高齢トレーニングでは筋肉の増強自体を目指す必要はあまりない(二次的にはともかく)。老化は足からとも言われるが、高齢者にとっては、下半身を鍛えることがとくに大事である。気功でも下半身に気血をめぐらせることはできるが、自分の体重を負荷とするウオーキングは格好の運動である。私は毎朝、蠕動のあとステイショナリーバイクに乗っている。

 一方で日常作業を円滑に行うために鍛えておかないと具合が悪い筋肉がある。手首と足首はその筆頭である。ちょっと重いもの、ポットなどを持った拍子に手首をひねったり、くじいたりする。また石に躓いたわけでも、段差のある場所でもないのに、足首を捻挫することがある。健康寿命を維持するための手首、足首の筋トレはけっこう大事である。

・トレーニングの敵は風邪とけが

 高齢トレーニングは持続することが命である。翌日体の節々が痛くなるまでやるのは、その日は充実感を得られるかもしれないが、痛みが長引いて長続きしない結果にもなる。

 持続を妨げるのは風邪とけがである。風邪は寝込むというほどでなくても、あらゆる事柄への意欲をそぐのがいけない。せっかくトレーニングを始めたのに風邪をきっかけでやめてしまう例はよくある。

 寒い時は厚着し、外出を控えるなどして予防する。やっかいなのは夏の列車、オフィス、レストランなどの冷房である。日本の冷房は効きすぎていると思うが、あるいは若者向け仕様のためかもしれない。いくら屋外が暑くても、室内用の上着を忘れないようにする。

 過度に負荷をかけたり、不自然に体を動かしたりすると、すぐけがをする。インストラクターの知人がこんなことを言っていた。「傷をつけることで筋肉は大きくなるが、キズとケガは違う。ケガをしない心がけが大事である」。高齢者にとってけがはまさに大敵である。いったんけがをすると、治るのに時間がかかるから、これも、それっきりトレーニングをやめることになりがちである。運動前後のストレッチは不可欠である。

 軽い負荷で丁寧に、鍛えたい筋肉を動かしていれば、しだいに力がついてくる。そうすると、最初のころの辛さが楽しみに変わる。菩提寺でもらった小冊子の表紙に「苦しみがなくなるのではない。苦しみでなくなるのだよ」と書いてあったが、これは高齢トレーニングにも応用できる。

 映画女優のオードリー・ヘップバーンは「人には誰にも愛する力がある。しかし筋肉と同じように、使わないと衰える」と言ったらしい。愛は高齢者にとっても魅力的だが、ここは愛よりも筋肉を鍛えることを優先しないといけない。

東山「禅密気功な日々」(23)

マイナスからの出発

 以後しばらく、高齢者の筋肉トレーニングと禅密気功(とくに蠕動)について書くことにする。

 高齢になると、使っていない筋肉は確実に衰える。滓がたまっていくからである。軽い負荷でいいから、すべての筋肉をこまめに動かしてやる。精神を集中し丁寧に、ゆっくり、意念を細胞の一つひとつに行きわたらせる。これが高齢トレーニングの要諦である。歳をとればとるほど、実は筋肉トレーニングが大事になる。毎日、食べたり、寝たり、呼吸したりするのと同じように、トレーニングすることを心がけるのがいい。

 若いときに快適に動いていた体が凝り固まったところから始めるのだから、高齢トレーニングはマイナスからのスタートである。位置としてマイナスであるばかりか、ベクトルとしてもマイナスである。1日使わない筋肉は1日分衰える。逆に鍛えれば必ずプラスに反応する。1日トレーニングをして現状を維持できれば、1日の終わりに1日若返ったと考えてもいい。これを10年続ければ、10年若返る理屈である。肉体が日々衰えていくのに抗してトレーニングし、トレーニングによる効果が1日分の老化を上回れば、それは名実ともに若返りとなる。「健康を守り、老化を防ぎ、若返りもめざす」とはそういう意味である。

 使わない筋肉は衰える。逆に、鍛えれば必ず強くなる、というのは多くの専門家が指摘しているが、私の実感としてもそうである。筋肉のピークは25歳頃で、あとはどんどん衰える。だから、平均寿命の80歳まで生きるとして、後の55年間をただ衰えるにまかせているのは、どう考えても得策ではない。前にも書いたが、それは「迂闊」というものである。

・筋トレと禅密気功は健康維持の両輪

 大事なのは凝り(筋肉の滓)ほぐしである。滓がほぐれて邪気を発生するとも、滓が邪気になって体外に排出されるとも言えるが、その滓および邪気こそが「老いの素」である。それが高齢者の頭、首、肩、背、胸、腹、股間、下半身などあらゆるところに蓄積している。肩の凝り、膝の炎症、腹の贅肉、精力減退、顔の渋、いずれも原因は一つだと言ってもいい。

 筋肉トレーニングについて言えば、若いころと歳をとってからではやり方を変えなくてはいけない。若いころは激しい運動をすることでそれらの〝毒素〟を除去できるが、歳をとるともはや無理である。激しい運動ができないこともあるが、まず蠕動で滓をほぐしてからではないと、筋肉を鍛えられない。東洋医学(針灸)の虚実補寫(病邪の実を拭ったあとで正気の虚を補う)はそのことを言っている。

 若い時は意念が不足しても鍛えられるが、歳をとると、意念をともなわない運動はほとんど効果がない。逆に意念を強くすれば、歳をとっても、たくましい、そして弾力性のある筋肉をつくることができる。筋肉トレーニングと禅密気功(とくに蠕動)は、高齢者が健康を維持するための不可欠な両輪だというのが、私の高齢トレーニングに対する基本的な考えである。