東山「禅密気功な日々」(36)

人は努力する限り悩む、これが修行である

『禅密気功』会報第121号の原稿を再掲。

 あしかけ4年余りをかけて禅密気功の動功編、および静功編について、朱剛先生のお話を聞きながら、自分なりの実践結果をまとめてきた。執筆、編集、レイアウトまですべてが自作で、書籍流通ルートを介さないアマゾンだけの販売である。第1作が東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(2019)、第2作が東山明『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』(2023)で、サイバー燈台叢書(サイバーリテラシー研究所刊)の一環である。このたび会報に執筆の機会をいただいたので、よしなしごとを書かせていただいた。

◇ 

 前著でふれた鍼灸師の山本エリさんが、東京から逗子まで居眠りしながら毎日通勤している人の首にコブが出来ていたという話をしてくれたことがある。しょっちゅう前かがみになっているためである。そのコブがあるからといって、肩が凝りやすいという程度で、日常生活にそれほどの支障があるわけではないだろう。老化の一種と考えて自然に任せていればいいとも言えるが、それは必ずしも健康な姿とは言えない。ならば、思い立ってそのコブを取ろうとすると、かえってやっかいなことになる。本来の健康を取り戻そうとすることがかえって別の悪さをするからである。コブ(滓)解凍の副作用が生じたり、やり方によっては他の部位に支障が出たりする(コブを外科的に切除すればいいとは思えない)。ここが健康になるための修行の難しさである。

 昔は年齢とともに「枯れていく」のが自然であるとされてきた。悠々自適、あくせくせずに老いに身をゆだね、枯れ木が朽ちるように死を迎える方がいいのだと。いわゆる「老境」である。その人の考え方次第だが、私はどちらかというと、その老いに逆らい、若さを保つことを心がけてきた。そして、「健康を守り 老化を遅らせ 若返る」ための功法こそ禅密気功だと思ってきたのである。

 修業するから悩みが起こる。努力する限り悩みは尽きない、と言ってもいい。これにどう対応するか、それが『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』のテーマでもあった。先生の瞑想教室に何度目かの参加をした後、「身と心の滓が ほぐれて下る 瞑想の淵」という駄句が浮かんだ。淵とは気海・丹田のつもりである。これを第1作にあわせて瞑想編のタイトルにしようとしたが、抽象的でわかりにくいと思ってやめた。気を気海・丹田に下ろすことで、身心の滓をほぐすのが健康法だというのが、私の当面の〝悟り〟である。

 練習(修業) は、事情が許す限り、毎日やるのがいい。これも昔話で、名前は忘れたが、有名な歌手が「1日練習を怠ると、自分にわかる、2日怠るとマネージャーにわかる、3日怠ると、観客にわかる」と言ったらしい。1日、練習をさぼると自分にわかるところが肝心である。すべては体が教えてくれる。悩んだ時も自分の体に訊く、そうすれば今何をすべきか、教えてくれるだろう。

 先生の本(『気功瞑想でホッとする』春風社)に、雑念に寄りかかるのはそれが気持ちがいいからだが、雑念や眠気を乗り越えたら、それとは較べられないほどの良い気持ちを味わうことができる、と書いてある。「辛さが消えるのではない。辛くなくなるのだよ」という禅僧の言葉もある。

 「血が上る」と言う。「心火」もまた上ってくる。「上虚下実」こそ健康な状態であり、後書で紹介した白隠禅師は、観想するとき「およそ生を保つの要は気を養うにしかず、気、尽くる時は身死す」と3度唱えることを勧めている。

 先生の教えの中でとくに重要だと思うのが、この気の下ろし方である。意識して気を下ろす状態(意領気行)から気が自然に下りて意識がそれに従うよう(随意気功)になり、最後に意と気が一体化する(15P参照)。そのとき、身体の荒れた状態が細やかなものに変わるようで、これを私は「粗触」から「細触」への変化ではないかと思っている。

 いずれにしろ、そうして坐っていると、身心の滓がほぐれて下っていき、穏やかな気持ちになる。そして、その先に真の瞑想状態が訪れるだろう。朱剛先生によれば、そのとき、その人の「人間性」が変る。もっとも、これはただいま現在、修業中である(^o^)。

 

 

東山「禅密気功な日々」(35)

『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』発売

 前著『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』の続編、『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』が11月末に発売になりました。前著の禅密気功動功編に続く静功編で、朱剛先生の瞑想理論の真髄をやさしく解説しています。瞑想に興味があるがまだ始めていない人ばかりでなく、現に本部道場などで習得につとめておられる方にも参考になると自負する禅密気功の瞑想ガイドです(静功の前提となる動功については、ぜひ前著を参照してください。動功+静功=瞑想です)。

禅密気功の瞑想は動功とセットである
体をゆする動功と座位での静功を交互に繰り返すことで
身と心の滓がほぐれて消えて
穏やかな気持ちに導かれる

 先生が力を入れておられる「気の瞑想」、「光の瞑想」、「心の瞑想」についてもその違いを説明しつつ、瞑想で得られる「穏やかな生活」、「悟り」の世界とはどういうものなのか、先生の40年に及ぶ修業の到達点についても、会報の中から珠玉の3編を選んで掲載しました(先生の横顔も紹介)。

 前著と同じ1200円+税で、アマゾンで購入できます。前著に比べるとやや薄手ですが、中身は充実していると、これも自負してます(^o^)。PARTⅠはウエブ未掲載、目次は以下の通りです。

PARTⅠ 先生に聞く<瞑想編>
<1> 瞑想を通して穏やかな気持ちになる
<2> 禅密気功の瞑想、3本の柱
<3> 個人的覚書&蛇足的コメント

PARTⅡ 瞑想と現代社会
<1> 瞑想すれば人間が変わる
    突然起こる悟りも、長年の訓練の成果
    瞑想すると、自然に人間性が出てくる
    正念の禅は健康になれる瞑想法
<2> 自分を守るための瞑想.

PARTⅢ 禅密気功な日々
<1> 細胞と和気あいあい
<2> Years of Practice
<3> 「病邪の実を瀉す」
<4> 蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな
<5> オンライン瞑想教室に参加
<6> 傘寿を迎えて老年について考える
<7> 「ゼロ・ポイント・フィールド」と気功
<8> 真夏の夜にお奨めする本2冊
<9> 10人に1人が80歳以上の「超高齢社会」

 注:PARTⅡの補遺として、「活在当下について」、「『小周天』について」、「道教の思想について」を収録しました。

 

 

東山「禅密気功な日々」(34)

コモンの喪失とIT社会の暴走

 明治神宮外苑の再開発問題は、もちろん樹齢100年もの樹木1000本近くを伐採しようという暴挙にあるだろう。開発関係者の無神経は理解に苦しむところだが、ことの本質はもっと深いところにあると思われる(写真は神宮外苑のイチョウ並木、ウィキペディアから)。

 神宮外苑の森は国有地を戦後に明治神宮などに払い下げられ、同時に都民の憩いの場になっていたのだが、今回はこれを再開発し、老朽化したスポーツ施設などを新設しようと計画されている。これによって古い樹木が伐採されるだけでなく、市民が憩いの場として利用していた空間(共有財産=コモン)が失われ、金儲けのための娯楽施設に切り替えられる。

 要は都民が散歩したり、遊戯をしたりしていた無料の憩いの場が消え、より多くの利潤を生む巨大なスポーツ施設などに変貌する。神宮および開発者にとっては歓迎すべきことだろうが、都民にとっては無形の財産が消えることでもある。ここには、土地の所有者だからと言って、何をやってもいいのか、その時、経済の外に置かれることになる「環境」はどう変遷するのか、という大問題が横たわっている。

・すべてが「儲け」のために

 ウイーンの社会科学者、カール・ポランニーは戦後ほどなく、「社会に埋め込まれた経済」が「経済に埋め込まれた社会」に「大転換」しつつあると述べたが(『大転換』、東洋経済新報社)、ソ連の崩壊で世界全体が高度資本主義の渦中にある現在、その最新形態である新自由主義はいよいよ経済を社会のくびきから引きはがして、あらゆる場面で資本の論理を貫徹させ、すべてのものごとを金に、儲けを生む商品、施設などに変えている。そのために起こっているのが市民の共有財産とも言えるコモンの喪失である。

 その典型は最近話題になった琵琶湖の花火大会だろう。花火大会が市民のお祭りから観光客相手に利潤を生む観光事業、営利事業に変質したために、入場料を払って観覧席に入らない人は見えないように、会場の周囲2キロにわたって柵がつくられた。本来、市民全般の祭りで会った花火大会を、一般の人びとは柵の隙間から見ている。「公」のものであるべき花火大会を、自治体が「私」的に囲い込み、金を払わない地元民を「排除した」わけである。

 利用できるものはすべて金儲けの手段に変えようとする新自由主義は、おそらく社会主義を標榜する陣営も含めて、いまや水や空気のような自然の恵みすら金で買う商品に変質させている。ジャーナリスト、ナオミ・キャンベルは『ショック・ドクトリン』という本で、惨事をも自己の利益に結びつけようとする資本の飽くなき「惨事便乗型資本主義」の正体を暴いた。今回のコロナ禍でもワクチン製造業者は大儲けしたらしい。

 東京大学大学院准教授(経済学)、斎藤幸平は初期マルクスの手稿などを丹念に読み込み、マルクスの環境への関心を掘り起こして、「いま必要なのはコモン(共有財産)の再生である」と言っている(『ゼロからの資本論』NHK出版)。これとよく似た考えは、早くはわが国が生んだ屈指の経済学者、宇沢弘文(写真)によって「社会的共通資本」として提起されている。

 社会的共通資本は、広い意味での「環境」を経済学の対象にすることを意図して、宇沢がつくりだした概念で、佐々木学(『資本主義と戦った男』講談社)によれば、「近代経済学は市場の分析に注力してきたが、宇沢は『環境』を含めた社会そのものを分析しようとした。自然と人間の関係をも射程に入れた経済学の構築に挑んだ」ものだった。

 宇沢の説明によれば、社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の3つの大きな範疇にわけて考えることができる。「自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などである。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど、ふつう社会資本とよばれているものである。‣‣‣。制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度をひろい意味での資本と考えようとするもの」で、「社会的共通資本は、 一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本は、 一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために、不可欠な役割を果たすものである」と述べている(『社会的共通資本』、岩波新書)。

 彼は「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理され、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない」とも述べている。ここは地域住民など関係者を広く集めた「アソシエーション」を重視する斎藤とは少し違うが、資本の論理がいよいよ激しく貫徹している現状に対する鋭い批判と言えるだろう。

 かつてマイケル・サンデルが『それをお金で買いますか』で例にあげたように、こどもに読書の習慣をつけさせたいと、1冊読めばいくらかのお小遣いを与えると、それは読書欲を刺激する効果よりも金儲けの手段となり、かえて読書本来の楽しみを奪ってしまう。お金が介在することで人々の倫理感が微妙に変わる。

 斎藤幸平や政治学者の白井聡は、資本主義が高度化するにつれて、資本主義の論理を内面化したような人びとが現れると警告している。それはたとえば、花火大会で締め出された人がいることには思いが至らず、「私たち有料席で立派な花火を見られてラッキー」と思う若者に象徴的だが、今やそういうふうに育った人々が社会の中堅を占めるようになっている。

・ITの想像を絶する発達が拍車

 この高度に発達した資本主義と不即不離の関係で、私たちに大きな影をなげかけているのがITの想像を絶する発達である。ダグラス・ラシュコフ『デジタル生存競争』(ボイジャー)によると、デジタル技術を開発した億万長者たちは、自分たちの利益のためには地球がどう危機に瀕しても、貧しい人びとがどうなってもお構いなしで、自分たちだけが地上 の楽園、あるいは地球外に避難所を求めて、そこで生き延びようとしている。

 パソコン黎明期にBASICやMS-DOSで世界一の大富豪になったビル・ゲイツは比較的早くに隠退、いまは世界規模の慈善事業に乗り出しているが、本書によれば、この低開発国援助などを標榜する慈善事業こそが最先端ビジネスらしい。

 私たちを取り巻く「クラウド」について考えてみよう。いまや自分の個人的感想やプライベートなデータもすべて大手IT企業の巨大なサーバーに蓄えられ、それらのデータは、私たちの購買意欲、嗜好、さらには思考、生き方まで分析する材料に使われ、新しい製品開発に利用されている。

 パソコンのOSやアプリケーションソフトを利用者が自ら管理することは難しい。パソコンをつないでおけば自動的にバージョンアップしてくれるし、またそうしてもらえなければ、快適なパソコンライフを送るのは不可能にまでなっている。この至れり尽くせりのサービスの代価が個人情報の提供である。OSやアプリは頻繁に更新され、そのたびに「個人情報に関する扱いの変更」などが提示されるが、これは個人情報をより広く、より詳細に、効率的に集めるためなのは間違いない。と言って、一般ユーザーにその更新をしないという選択肢はほとんどない。ソフトを更新しつつ、個人情報を防衛するためにはかなりの技術が必要で、そう努力していたとしても、専門家の方がはるかに上手で、いつの間にか彼らの軍門に下ることになる。

 アプリもそれで生成したデータもすべて自分のパソコン内ではなく、クラウドの上に置かれ、ということは、結局は個人情報を惜しげもなく差し出すとことになっている。この趨勢はもはや止められないだろう。個人情報ばかりでなく、一国の重要秘密も、パソコンを使って生成している以上、もはやGAFASなどの大手IT企業の思うがままである。最近話題のChatGPTやメタバースにしても、たしかに著作権上の問題は喫緊の課題だとしても、もっと深いところに憂慮すべき問題がある。デジタル化した情報を収集分析して的確な答えを提示してくるのをありがたがって、お伺いを立てていると、私たちの思考そのものが、大きく変えられる恐れがある。

 そういう時代の中で、自分を客観視するためにこそ瞑想が不可欠だと、私は思っているのである。瞑想は紀元前、釈迦の時代から面々と伝わってきた。それは朱剛先生が言うように、自己を陶冶し、いい方向へ変えていくものだと思うが、一方で、このような社会によって自分本来の姿が変えられないようにするためにも不可欠だと思われる。

 花火大会を有料席で見て、一般人が締め出されていることに何の想像力も働かないのは、やはりやさしさに欠けるのではないだろうか。花火大会はみんなで楽しんだ方がいい。また政治学を学びながら、「時の首相の言うことに反対すること自体、おかしいのではないか」という学生は、大学で何を勉強しているのであろうか。なぜ思想信条の自由、表現の自由という人権感覚を喪失してしまっているのだろうか。そう言えば、以前、やはり白井聡がどこかで「現代の若者は『寅さん』映画がなぜおもしろいのかがわからなくなっている」と書いていた。庶民感覚からすでに切り離されているわけで、こういう生き方は果たして豊かと言えるのだろうか。

 社会の激しい波に巻き込まれないためにも、一人静かに自分と向き合う時間が貴重なものになる。それは社会をより客観的に眺める訓練にもなるだろう。まさに現代社会で正気を保つためにこそ、瞑想が必要になっていると思われる。(注:この原稿は近く刊行を予定している東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』の続編(瞑想編)のために書いたものです)

東山「禅密気功な日々」(33)

10人に1人が80歳以上の「超高齢社会」

 健康な生活をめざして禅密気功に励んでいる日々ではありますが、日本社会、および世界の情勢はけっして健康とは言えない状況です。とくに日本の現状はひどい。2回にわたって、私たちの周りの情勢について考えておきたいと思います。

 2023年の敬老の日(9月18日)にあわせて総務省が発表した人口推計によると、80歳以上が総人口に占める割合が10.1%となった。なんと10人に1人が80歳以上となったわけである。

 65歳以上の人口が総人口に占める割合を老齢化率と呼び、7%以上を高齢化社会、14%以上を高齢社会、21%以上を超高齢化社会と呼ぶ習わしだが、日本の高齢化率は29.1%、ほぼ30%である。これは2022年の段階でモナコに次いで2位である(グローバルノート – 国際統計・国別統計専門サイト)。しかも国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、2040年には総人口の34.8%になるという。

 また2022年版の世界保健統計(WHO)によると、平均寿命(各年における0歳児の平均余命)が80歳を超えている国は世界中で31カ国あり、日本はもっとも高い。私は「超高齢社会」という呼び方を使っているが、日本は世界屈指の超高齢社会である。しかも同時に、急速に進む「少子化社会」でもある。

 内閣府によれば、「少子化とは出生率が低下し、子どもの数が減少すること」で、出生率には普通、「合計特殊出生率(その年における15~49歳の女性の各年齢別出生率を合計した数値)が使われる。日本の合計特殊出生率は、2022年が1.26で過去最低、しかも7年連続の下降となった(厚労省発表、人口を維持するためには2.07が必要と言われる)。要は、若い人が子どもを産まなくなっている。

 その結果として、人口構成を年少人口(0~14)、生産年齢人口(15~64)、老年人口(65以上)に分けて見ると、11.9、59.5、28.6(各%)となり、 老年人口が年少人口を上回っているし、世界平均の25.4、65.2、9.3(各%)に比べると、日本の高齢化、少子化傾向が際立つ(内閣府、令和4年版「少子化社会対策白書」)。将来的に、いよいよ高齢者は増え、若者の数は減る。これは高齢者だけの問題だけなく、若者の問題、いや社会全体で考えるべき大問題だろう。

 別のグラフを見ると、日本の高齢化は戦後急速に進んだことが明らかである。その過程には高度経済成長があったが、それも今は昔、ここ30年、日本経済はむしろ衰退しており、私たちの前途には大きな苦難が横たわっていると言っていい。

・前途に横たわるさまざまな問題

 ジェロントロジー(Gerontology)という言葉がある。一般に「老年学」と言われるが、日本総合研究所の寺島実郎が提唱するように、むしろ「高齢化社会工学」ととらえ、日本社会を今後どうするのか、そこで日本人はどう生きていくのかを大きな構想力をもって議論していくべき時だと思われる(『ジェロントロジー宣言』NHK出版新書)。

 本書によれば、たとえば、「現在、企業に就職した新卒者のうち3割が3年で転職していく」など、終身雇用制度はすでに崩れている。また、「戦前の日本で『大人になるために身につけるべき基本』とされた和漢洋の教養は、すっかり失われてしまった」という全体的な知的劣化も否定できないだろう。「高齢者ほど安倍政権の経済政策であるアベノミクスを支持する構図になっている」という気になる指摘もあった。

 超高齢社会にはちょっと考えただけで、以下のような問題がある。

・人口構成が「高齢化」することで、社会そのものの活力が奪われる。
・生産年齢人口減少による経済の一層の衰退。年金制度の崩壊と若者の閉塞感、および生きがいの喪失。
・政治や経済、社会の公的な役職に老人が居座るための「老害」。
・逆に弱者としての「老人切り捨て」。
・失われた「隠居」というライフスタイル。成熟、老成できない老人。

 最近は老後を快適に過ごすために海外に移住する人も出ているし、逆に日本に職を求める外国人も少なくない。世界中から多くの観光客もやって来る。日本を「捨てて」海外に出ていく若者もけっこういるようである。そういう若者が日本に帰ってくることはまずないだろう。世界中の社会的移動が活発になっており、これからは日本民族純潔主義的政策で国の将来を考えることは難しい。

 にもかかわらず、現自民党政権は全地球的視野でものごとを考えることができず、入管制度を厳しくするなど、外国の安い労働力だけ使おうという古い発想から抜け出ていない。女性登用にしても、男性社会に迎合するような人材や親譲りの世襲、選挙で勝てるタレントばかり集めるから、国会議員でも女性候補の数そのものが少なくなるし、とんちんかんな行動やひんしゅくものの答弁をする人も後を絶たない。

 こういうことでは、世界のトップを走り続ける超高齢社会の世界モデルを構築し、そのことで世界に貢献、あるいはリードするなどということはまず不可能である。こういう難題を抱えていることを前提にしつつ、私もその立派な一員である高齢者自身が健康に、そしてまっとうに生きていくための工夫や知恵を考えていきたいと思っている今日この頃かな(^o^)。

東山「禅密気功な日々」(32)

真夏の夜にお奨めする本2

 連日の猛暑ですが、みなさん、禅密気功に励みつつ、元気にお過ごしのことと存じます。気功の神髄と無関係とも思えない2冊の本を、真夏の夜にお楽しみください。ともにかなり以前の出版なので、ご存知の方も多いかと思いますが、まだ読んでいない人は――。

 政木和三さんが25年前に書いた『この世に不可能はない』(サンマーク出版、1997)は、気功愛好者必読だと思われる。政木さんはすでに故人だが、彼によると、人はだれでも「肉体」と「生命体」からなっている。生命体はエネルギーで、一つではなく、精神的に成長すると次々に新しい生命体ができてくるらしく、肉体が滅びると生命体は肉体を離れ、いずれ別の肉体に宿ることになる。輪廻転生である。

 政木さんは大阪大学工学部で電気、建築土木、航空、造船学から醸造学まで学部の全学科を収め、そのあとさらに7年、医学部で学んだ。その知識を生かして、生前に3000件ほどの特許を得たが、すべて無料で公開した。瞬間湯沸かし器、自動炊飯器などみなそうらしい。金儲けにはほとんど興味がなかった人である。

 ・私たちは「肉体」と「生命体」の合体

 根っからの科学者である政木さんが超常現象といったものを信じるようになったのは50歳を超えてからということだが、彼によると、この世の中には人間の知らないもうひとつの未知のエネルギーが確実に存在するという。そしてこのエネルギーは、実は人間の肉体の内側にも潜んでいて、ある状態のもとにおかれると、それが前面に出てきて、とうてい信じられないような力を発揮できるようになる。

 彼は言っている。「私は、科学者でありながら、神の存在を信じている。神といっても、天のどこか高いところにいるわけではない。人間の肉体の中に宿っているだけである。それを私は『生命体』と呼んでいる」、「生命体の存在を自覚することは、非常に大事なことだと思う。生命体とは、別の言い方をすれば、魂であり、私たちの中にある神もしくは守護神であり、あるいは宇宙そのものであるといっていい。それはすべての人間の心の奥深くに潜んでいる。だからこそ私たちは誰もがみんな尊いのである。その生命体を自らの内側に自覚し、その声に耳を傾けることは、無限の可能性に道を開く第一歩となるだろう」。

 禅密気功では、慧中を開いて無限の宇宙を見ることを奨めている。「慧中が開けてはじめて、自然と『微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる』という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます」(朱剛先生の言葉。東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』サイバーリテラシー研究所刊、P86)。

 私たちは生命体のエネルギーにふれると、信じられないような能力を発揮できるようになる。神は自分自身であり、同時に宇宙である。それは臨済宗中興の祖、白隠禅師の坐禅和讃冒頭の「衆生本来仏なり」を思い出させるし、「私たちの体内には地球(星)のリズムが流れている」という以前紹介した解剖学者、三木成夫の考えにも通じる。孟子が言った「浩然の気」もそうだろう。

 また前回とりあげた『死は存在しない』で田坂広志が強調していたのは、現代科学の最先端はミクロレベルでは「物質は存在しない、あるのは波動エネルギーだけである」という地点に到達、逆にマクロのレベルでは、「量子真空が大爆発を起こして、そこから銀河系も、太陽系も、地球も、そして人類そのものも誕生した」ということだった。そこでは物質と精神、ミクロとマクロの境界そのものがあいまいになると同時に、それら先端科学の知見は、古くからの神話、宗教、民俗信仰、心理学、哲学などが言及してきたさまざまな神秘現象とも関係がある。政木さんは、過去、現在、未来の記録がすべて蓄えられているゼロ・ポイント・フィールド、あるいはアカシック・レコードにもアクセスしていたと言う。

・プレアデス星ですばらしい文明を見てきた

 もう1冊は上平剛史『プレアデス星訪問記』(たま書房、2009)である。Online塾DOORSで情報通信講釈師、唐澤豊さんが紹介してくれたのだが、上平さんは16歳のとき、プレアデス星人に迎えられ、宇宙船に乗って銀河系内のプレアデス星を訪問したという。プレアデス星は地球よりはるかに文明が発達しており、科学技術を賢明に利用し、理想的な生活を営んでいる。いわく、「我々の宇宙科学は波動と光の科学であると言っても過言ではないでしょう。物質世界と非物質世界を徹底的に解明し、これ以上できないレベルまで細分化しました。そして、波動と光の科学を駆使し、元の原子、分子に科学の力を加え、新たな物質を創り、物質を自由にコントロールするところまで科学を進めたのです」、「宇宙には宇宙開闢以来の記録『アカシック・レコード』があり、それを見れば過去がすべてわかることを発見したのです。過去の場面は映画のフィルムのひとコマを見るようなものです」。

 貨幣経済とは無縁の、争いのない、弱いものほど助け、足りないものほど補うという「愛の奉仕活動を基本とする社会」をつくっており、肉体と霊魂(精神)が進化をとげ、思考力でモノを作り出せるから、飲み物や食事も瞬時にできるし、宇宙船はテレポーテーションで広大な宇宙を自由に飛び回っている。輪廻転生、死は新しい生であり、人びとは死ぬことを悲しまない。

 一方で、地球は貨幣経済に毒され、利己主義に凝り固まり、自然を搾取し続けたために、地球はすでに悲鳴を上げている。上平さんはその地球人を目覚めさせるための使徒としてプレアデス星に招かれ、この書を書いたのだという。「もし地球人類がプレアデスの科学を手に入れたいのなら、まず心のありかたを変えなければなりません。‣‣‣。『他人を愛し、奉仕を基本とする社会にしなければなりません。人間が知識を得ることも必要ですが、それ以上に『心のあり方』が重要なのです。その心のありかたが、地球人はあまりにも幼稚でありすぎるのです」。

 このコラムの文章をまとめて、サイバー燈台叢書第1弾として東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』を刊行したのは2021年9月である。朱剛先生への禅密気功入門編、および動功篇のインタビューを終え、その後、静功編に移る予定だったが、コロナ禍や私自身の準備も整わないうちに2年が過ぎた。今度こそ、秋には瞑想教室に参加し、その後に朱剛先生に静功編(瞑想編)インタビューもお願いし、年内には『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』Ⅱも刊行したいと思っている。

東山「禅密気功な日々」(31)

「ゼロ・ポイント・フィールド」仮説と禅密気功

 禅密気功に親しんでいる人にとっては、気が宇宙にあまねく存在するエネルギーだということは常識だと思うけれど、知人に教えられて読んだ田坂広志『死は存在しない  最先端量子科学が示す新たな仮説』(光文社新書、2022)はたいへん興味深かった。

 現代科学の最先端はミクロレベルでは、物質の単位を原子核から光子、素粒子へとどんどん細分化し、ついに物質そのものは存在しない、あるのは波動エネルギーだけであるというところまで到達したという。逆にマクロのレベルでは、真空も無ではなくそこには莫大なエネルギーが秘められており、そもそも宇宙は138億年前、「量子真空」が何らかのゆらぎをおこして突然膨張、大爆発(ビッグバン)を起こして、そこから銀河系も、太陽系も、地球も、そして人類そのものも誕生した。

 朱剛先生もインタビューでふれたことがあるけれど、宇宙の95%は私たちに普通では認識できない暗黒物質(暗黒エネルギー)から成り立っている。量子真空は実は宇宙のあらゆる場に遍在し、そこには「ゼロ・ポイント・フィールド」というエネルギーの場があり、過去・現在・未来の地球上の、いや全宇宙のあらゆる出来事が波動情報としてホログラム原理で記録されている。だから、その記録は減衰せず、常にその一部に全体を包含している。

 私たちがときに経験する予知、予感、直観、既視感、シンクロニシティといった不思議な精神現象はすべて、無意識下の量子レベルで行われるゼロ・ポイント・フィールドとの交流(交信)のせいで、しかも、このゼロ・ポイント・フィールドは138億年の記憶をどんどん蓄積してより広大に、そしてより深遠になっており、我々の自我意識も、肉体の死後はこのゼロ・ポイント・フィールドに比重を移し、宇宙意識と合体していく。

 著者は、「『神』や『仏』や『天』とは、宇宙の歴史始まって以来の『すべての出来事』が記録され、人類の歴史始まって以来の『すべての叡智』が記録されている、この『ゼロ・ポイント・フィールド』に他ならない」、「そして、もし、そうであるならば、昔から、世界の様々な宗教において、『祈祷』や『祈願』、『ヨガ』や『座禅』や『瞑想』と呼ばれ、実践されてきた諸種の技法は、実は、この『ゼロ・ポイント・フィールド』に繋がるための『心の技法』に他ならない」と書いている。

 また「もし、あなたが、『私とは、この壮大で深遠な宇宙の背後にある、この「宇宙意識」そのものにほかならない』ことに気がついたならば、『死』は存在しない。『死』というものは、存在しない」とも。

 先に「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」で紹介した日本の解剖学者、三木成夫の「人類の生命記憶」の話も思い浮かぶし、昔読んだ、コーリン・ウイルソンの『賢者の石』、ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』の世界も彷彿とさせる。実は、本書にはカール・ユングの「集合的無意識」、アーサー・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』のスターチャイルド、仏教の天台本覚思想(山川草木悉皆成仏)、般若心経の「色即是空空即是色」、深層意識としての阿頼耶識、さらにはジェームズ・ラブロックのガイアの思想、、グレゴリー・ベイトソンの創発、複雑系の科学、イリヤ・ブルコジンの自己組織化などなど、宗教、科学にまたがる多くの先達の見解が紹介されている。

 特筆すべきことは、これがただの幻想、幻視ではなく、科学的な仮説だということである。著者は物理学を専攻した科学者で、ゼロ・ポイント・フィールド仮説を通して、「科学的知性」と「宗教的叡智」を結びつけ、「新たな文明」を生み出す壮大な試みに挑戦しているわけである。

 瞑想中にどこかで深い真理にふれるというか、より透明な心境に到達できるという感覚は多くの人に共通するところで、築基功で「慧中を開き無限の宇宙を見る」ということは、まさに、無意識下で行われるゼロ・ポイント・フィールドとの交流を促進する技法の一つではないか。そう考えると、ゼロ・ポイント・フィールド仮説と禅密気功とは大いに親和性があることになるだろう。

東山「禅密気功な日々」(30)

傘寿を迎えて老年について考える

 18世紀アイルランドの鬼才、ジョナサン・スウィフトが書いた架空航海記の『ガリヴァ旅行記』は世界中のだれもが知っているが、ガリヴァは小人の国(リリパット)や巨人の国(プロブディンナグ)ばかりでなく、宮崎駿のアニメで有名な飛ぶ島、ラピュタとか賢明な馬が支配する国(フウイヌム)にも行っている。最後のフウイヌムには、検索サイト、ヤフーの由来となったヤフーという人間種に近い猿のような醜い動物も登場、スウィフトの諷刺も最高潮に達する。

 スウィフトはたいへん饒舌な人だったらしく、いろんな与太話が次々登場する塩梅で、そこにさまざまな、そして鋭い社会諷刺がちりばめられているようだが、当時の社会をほとんど知らない目から見ると、あまり面白くも感じない。当然といえば当然だが‣‣‣。

 ・不死は人類の夢か

 ある魔法の国では死者を蘇らせて話ができるというので、ホメロス、アレクサンダー、ジュリアス・シーザー、ブルータスなどなどいろんな人に会ってみたりしているが、こんな話もある。某国にはときどき不死の人が生まれるらしく、著者はそれがどんなに素晴らしいことかといろいろ夢想してみるが、いざ接見したそれらの人びとは老いにともなうマイナス要素(肉体の衰え、記憶力の喪失、多くの疾病など)をいたずらに加重して醜いばかりで、「吾輩は、心に描いていた美しい幻影を心から恥じるようになった。たとえどんな暴君が案出するどんな恐ろしい死であろうとも、このような生を逃れるためならば喜んで飛び込んでみせると思った」(中野好夫訳)などと書いている。

 ガリヴァは諸国を経めぐりつつ、日本の近くまで流れてきたらしく、オランダ船で帰国する前に日本にもちょっと寄ったことになっている。首府がエドであり、踏み絵の儀式だけは勘弁してほしいと奉行に頼み込んだり、ナンガサクまで送ってもらって、そこから無事にオランダ船に乗って帰国したりとか、ほんのわずかな行数の中で、それなりに〝最新知識〟を織り込んでサービスしながら、そこに諷刺も利かせているのはあっぱれというべきか。

 最終章によれば、ガリヴァの旅は16年以上に及んだらしい。この章でも近頃は嘘八百の旅行記が多いが吾輩は真実のみを語ったとか、旅行記作者には出版前に大法官の前に出て真実宣誓書を書かせるべきだとか、吾輩は訪れた国に対して領有宣言をしようなどとは考えなかったし、国務大臣だったとしても彼らの国を攻略せよなどとは言わないだろうとか、二重三重の煙幕を張っている。いまなら「そんな国があるなら探検に行こう」ということになるだろうが、当時はもっと世界は広く果てないと考えられていたから、だれもそれを実行しようなどと考えないという前提に立っていたらしい。フウイヌムにすっかり感化されたガリヴァは帰国後すっかり人間嫌いになったが、「ヤフー」たる家族と付き合わざるをえないために年々堕落しているなどと独白している。

 中野好夫『スウィフト考』によれば、スウィフトは風刺に対する批判が身辺に及ぶのを恐れて匿名でこの本を出したが、出版元が勝手に風刺部分を削ったり書き換えたりして改ざんするといった、すったもんだの経緯もあったらしい。だから版によって内容が違ったりするらしいが、結局は大評判となったわけである。

・老化に対する考えかた

 私も今年傘寿を迎え、押しも押されもせぬ「老人」になった。しかし、ガリヴァのように達観できる心境ではない。そこで最近、「高齢者専門の精神科医」、和田秀樹さんの本をいくつか読んでみた。80歳になったら自らの長寿を寿ぎ、無理に年齢に逆らわない方がいいと書いてある。曰く、健康診断を受けて新たな病気を発見してもらうようなことはしない、80歳を過ぎたらがんなど切らない方がいい、内臓の数値を基準外だからと言って、上げたり下げたりする薬もやめるに越したことはない、などなど。

 老化は自然の摂理と受け止めよ、と言うのだが、もちろんぼんやり生きて行けと言っているわけではない。曰く、若さを維持するのはコレステロールと前頭葉だから、たんぱく質、とくに肉を食べる、「前頭葉はルーティンだけの生活をしていると衰えてしまいます。想定外のこと、いつもと違うことを積極的に生活に取り入れることで活性化します。その意味では、自分とは違う考え方の人、想定外の考え方に接し、自分なりの考えも披露するような場に参加することはとてもいいことです」などなど。

 要は人生100歳時代を見据えて、天命には従いつつ、若さを持続するように、なるべく老いを遅らせるように生きるべきだという教えである。傘寿を迎えた身としては、ここが無難な着地点だろう。と言うより、この東山「禅密気功な日々」はそういう考えのもとに書き継いでいるのである。

 くり返しになるけれど、全身を揺する禅密気功は老年の人にとってとりわけ有効だと思う。教室に集い練習をすること自体すばらしいけれど、鎌倉教室の場合、その後で先生を囲む食事会があり、それぞれの体験を語り合ったり、先生からいろんなエピソードを聞いたりするのは老化を遅らせるうえですばらしいとも言えよう。

 私自身、コロナ恐怖症で、コロナ禍以来ほとんど教室に参加していないので大きなことは言えないが、そのためか鎌倉教室の会員が減少、運営が持続できるかどうかの瀬戸際だという。なかなか悩ましいことである。

東山「禅密気功な日々」(29)

オンライン瞑想教室に参加

 11月下旬のある日、江戸川橋の日本禅密気功研究所本部教室で実施された瞑想教室にZoomで参加してみた。朱剛先生から招待のURLを送っていただき、9時半にはスタンバイ。教室にはかなりの人が参加していたようだが、オンラインでは私のほかにもう1人参加者があった。

 カメラアングルも教室全体がうまくおさまり、先生が坐っているときも、蠕動しているときもほぼ全体が俯瞰できるように設定され、マイクから流れる先生の音声も明瞭に聞こえた。本部教室でみんなといっしょに先生の話を聞き、蠕動したり、瞑想したりするのとは違うと思うが、それなりの臨場感もあり、個人的には久しぶりに参加した瞑想教室で得るところがあった。こんな具合に受講できるのなら3日間参加したいと思ったほどだが、あいにく前日から風邪をひいていたこともあり、1日だけの参加で終わった。

遠方に住んでいる人や外出が難しい方がオンラインで気功教室や瞑想教室に参加するのはそれなりの効果があるように思われる。先生によれば、中国からの参加者もいるという。

東山「禅密気功な日々」(28)

蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな

 俳人、芭蕉の第一の高弟とされる宝井其角の句である。蟷螂はカマキリ。カマキリはメスより小さいオスがメスの背中に乗って交尾をする。それが終わると、メスは首を後ろに向けて、当のオスの頭をガリガリと噛んで食べてしまう。私はその現場を見たことはないけれど、ネットで検索すれば、その動画やメスの背中に止まったままの頭のないオスの写真を見ることができる。

 この句は、三木成夫『胎児の世界 人類の生命記憶』(中公新書、1983)で知った。そこには「交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、実りを終えた草が葉を枯らせていく光景をだぶらせて」詠んだ句と説明されていた。「尋常に死ぬ」という表現が心にひびく。

 三木成夫はすでに30年以上前に亡くなった解剖学者で、東京大学医学部や東京医科歯科大学で研究・講義をしたあと東京芸術大学教授となった。経歴からしてユニークだが、その研究がまた独創的、かつ画期的だった。

 彼は専門である人体解剖学の研究を進める中で、人も動物も植物も、そのすべてが何十億年も前の地球上に偶然生まれた原生生物から派生したもので、進化の過程を自らの細胞の中に今もなお記憶しているとして、それを「生命記憶」と名づけた。彼によれば、私たちの細胞そのものが地球の、さらには太陽系のリズム(宇宙のリズム)を内包している。

 三木は「個体発生は系統発生を繰り返す」というエルンスト・ヘッケル(19世紀ドイツの生物学者、哲学者)の説を受け、あらゆる生物には「原形」というものがあり、それは原生類から人類まで進化してきた何億年もの「記憶」として個々の体内に蓄積されていると主張した。「巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない」、「私たちの細胞の一つ一つはちょうどモチを小さくちぎったように、小さく区切られた地球だと考えるよりないわけです」。

 太古の海に最初の原形質が生まれたのが30億年前で、そのあるものは少なくとも5億年前に脊椎動物の祖先となった。海の魚は何十万年も何百万年もかけて行われた造山活動の過程で陸に打ち上げられ、その環境の変化に適応して進化した。最大の試練が「上陸」である。水中と空中では重力が6倍になる。寒暖の変化も激しい。多くは死に絶え、あるものは海に戻り、あるものは両生類から爬虫類へ、そして哺乳類、人類へと姿を変えていく。

 だから「かれらの体内には、生まれながらにして、『宇宙リズム』が内蔵されており」、「思いきった言い方をすれば、われわれの祖先の太古の原形質は、みな地球から分かれたひとつの〝生きた衛星〟である。したがってその集合体である生物の個体もまた一個の星であり、かれらはすべて〝母なる大地〟と臍の緒で結ばれている」。彼は「この問題の指針はただひとつ、それは、卵巣とは全体が一個の『生きた天体』ではないか、ということだ。いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないか……」とも書いている。

 その宇宙リズムは、地球が太陽を回る24時間と月が地球を回る24時間50分という2つのリズムからなる。あらゆる生物は、植物も動物も、「食の相」と「性の相」という2つのリズムで生きている。

 たとえば一年生草花は春に芽吹き、成長し(「食の相」)、秋には稔りの季節を迎え(「性の相」)、種を残し枯れていく(冒頭の写真は、どこからともなく飛んできた風媒花の種子)。サケは故郷の川で生まれて太平洋へと下り、そこで腹いっぱいの栄養を蓄える(「食の相」)。そして時至ればただ一筋に故郷の川をめざし、滝を乗り越え、産卵し受精させる。「性の相」を終えたサケは細菌に侵され白骨化して自然に還る。

 人類は文明を発達させ、自然に逆らう生き方を模索しているけれど、この宇宙リズムから逃れることはできないというのが三木の言いたかったことのように思われる。「われわれの細胞一つ一つが、生きた衛星ではないか、ということになってくるのです。星であるから命令されなくてもちゃんと太陽系の運行のリズムを知っている。‣‣‣。ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間の体のリズムと天体のリズムが調和したとき、‣‣‣、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないかと思うのです」。

・胎児は「上陸期」の苦難を追体験する

 彼はニワトリの受精卵を使って研究していた時、その卵が4日目に急に弱り、その段階で死んでしまうものも多いことに気づいた。ところがこの「苦難」に耐えた卵はまた元気になり、どんどん成長を続けた。その胎児の変化をつぶさに観察するなかで、三木はこれこそかつての「上陸期」の苦難の再現ではないかと洞察した。

 突き動かされるようにして彼は、友人が集めてくれた標本の胎児を解剖して、人の場合は、受胎32日から1週間で、何億年という時代の経過を繰り返すことを〝突き止め〟た。1億年におよぶ上陸のドラマが受胎1か月後の1週間に繰り返され、人類はえらで呼吸するフカから肺で呼吸する哺乳類へと変化するのだという。母胎につわりが始まるのもこのころらしい。

 その経過は『胎児の世界』などに詳しいので、付け焼刃の紹介はこの辺でやめるが、彼はそういう研究をバックボーンにして、自然と人間のかかわりあい、そこでの植物と動物の連続と相違などユニークな考察を公表した。

 その見解は、解剖学を離れて、東洋医学(漢方や鍼灸)、老荘や仏教の思想、民俗学、伝統芸能、さまざまな呼吸法など、広く深い学識に裏打ちされている。とくに生物の「原形」に関しては、ドイツの文豪ゲーテの「形態学、Morphology(ゲーテの造語)」に多くの示唆を得ているという。

 彼は生前、『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館、1982、後に『内臓とこころ』と改題されて河出文庫として出版)と『胎児の世界』の2著しか公刊しておらず、1987年には60歳すぎで世を去った。名声は死後大いに高まり、その独創的研究をめぐって多くのシンポジウムが開かれ、遺稿集や講演録などが次々に出版された。

 冒頭に掲げたカマキリの句は『胎児の世界』以外にも、折にふれて言及されており、『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院、1992)に収録された論考の中では「この俳人の眼には、昆虫の死も、それは、草木の枯れと同様、ただ、天然自然の理に従ったまでの尋常のものとして映し出されたのであろう」と書いている。

・三木成夫の世界と禅密気功

 三木の洞察は、気功に親しむ者にとって多くの示唆を与えてくれるだろう。

 たとえば呼吸である。彼は「呼吸のリズムは‣‣‣、あの波打ち際の、ザザーと寄せて、そしてサァーと引いていく、あの波のリズムです。それこそ宇宙的なリズムではないでしょうか。お釈迦様の呼吸の教えはこのことではないかと思っております」と書き、また別の個所では「この数百万年にもおよぶ水辺の生活の中で、いつしか刻み込まれたであろう浪打のリズムが、私にはどうしても人間の呼吸のリズムに深いかかわりがあるように思えてならないのです。……。このことは心拍のリズムもまた海のうねりとは無関係でないことを教えてくれる」とも述べている。

 私たちが日々実践している呼吸法のもとは波のリズムなのである。これも三木の著作で紹介されていることだが、調和道開祖の藤田霊斎は九十九里浜の海岸で波浪息という呼吸道を体得したという。波打ち際に一人たたずむとき、寄せては返す波の音に心癒される思いをした人は多いだろう。

 禅密気功と朱剛先生の教えとの関連でも思いつくことは多い。

 本連載を単行本としてまとめた『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(サイバーリテラシー研究所)PARTⅡの<1>「古人の知恵・気・現代科学」では、「気は神羅万象、たとえば人間、人間以外の動物や植物、海や山にも流れている」と説明、朱剛先生は「気は昔の人びとの宇宙感でした。万事万物は気で組み合わさってできていて、それを分解すると気になる。気というものは眼に見えないし、耳にも聞こえないし、触れても感じない。しかし存在していると考えていました。身体も気で構成されており、身体を細かく分解すると気に返る、だから心身の健康は気と密接に繋がっていると考えました」と述べている。

 このくだりは、三木成夫が説く「宇宙リズム」と符合する。さらに先生は「意識と健康、環境と健康、食事と健康などすべては気と繋がっており、気を整えることによって、健康になるだけでなく、良い人生を送れるとも考えていました」と言っており、三木がなお存命であれば、大いに賛同してくれると思われる。

 ほかにも、たとえば蠕動のとき、「体を波のように動かす」というのは、宇宙のリズムに身をゆだねることであり、「慧中を通して無限の宇宙を見る」ことは、それに共鳴することでもあろう。

『胎児の世界』まえがきの冒頭にはこうある。「過去に向かう『遠いまなざし』というのがある。人間だけに見られる表情であろう」。また『海・呼吸・古代形象』に収められた「動物的および植物的」という論考では、動物と植物のありようを対比して述べたくだりで、ロダンの「考える人」と広隆寺の弥勒菩薩の2つの彫像を対比させ、ロダンの彫刻では、「感覚―運動」の動物相が全面に出て、人間のみに宿る「精神」の機能(「近」への志向)が表現されているが、弥勒菩薩には植物相(「遠」への志向)が全面に出ている、と分析している。「〝あたま〟を押さえるものがなく、胴体も手足も、筋肉はのびやかに、‣‣‣、微笑を浮かべた口許には、小宇宙を象るような指の輪が添えられ、‣‣‣。宇宙リズムと秘めやかに共振する植物系の、その内に深く蔵されたこころを、表わそうとしたものではないか」。

 ここは、動物相に支配された「あたま」、植物相ゆかりの「こころ(心臓)」という解剖学的図式を背景にしており、とかく「あたま」が「こころ」を支配しがちな人間に対する批判的目があるのだが、「慧中を開く」ことについて先生が「慧中が開けてはじめて、自然と『微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる』」という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます」と言っているのを思い出すと、また興味深い。

 陰陽合気法では、頭上に太陽、雲、風、月、星などすべての宇宙エネルギーを気のボールとして意識することをめざすが、もう一度、三木の言を引けば、「ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間の体のリズムと天体のリズムが調和したとき、‣‣‣、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないか」ということになる。

 拙著のPARTⅠで「晩夏の三浦海岸」、「青空に浮かぶ夏雲」、「繁茂するノウゼンカズラ」の写真を使ったけれど、三木成夫の世界を知るにつれて、何気ない選択のなかにそれなりの必然性があったのではないかと思えてきたりもするのである。

 蕪村の次の2つの俳句を上げたことにも、一種の感慨を覚える。

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

 思想家の吉本隆明は『海・呼吸・古代形象』の解説で、三木成夫の仕事をカール・マルクスや折口信夫に匹敵するものと絶賛、この著者をもっと早く知ればよかったと嘆いているが、それが1992年の段階である。それから30年、ようやく私は三木成夫という碩学の存在を知った。三木成夫の存在を教えてくれた友人、T氏に深く感謝すると同時に、己の不明を恥じつつこの項を書いた(三木成夫の文の引用は『胎児の世界』、『海・呼吸・古代形象』、『内臓とこころ』のほか、『生命とリズム』=河出文庫、による)。

・野口こんにゃく体操の極意

 最後に、三木成夫の著作をいくつか読む中で知った、これも気功と大いに関係のある「野口こんにゃく体操」についてふれておこう(野口晴哉を祖とする野口整体とは別)。

 三木成夫と同じころ、東京芸術大学に野口三千三という有名な先生がおり、音楽や美術の学生の基本素養として「こんにゃく体操」として知られる「野口体操」を提唱していた。こんにゃくの名の通り、体をぐにゃぐにゃにして、重力に逆らわずにぶらりとぶら下げるように動かしたり、前後左右にゆすったりする。これも築基功の動きに通じると言えるだろう。

 「人間の潜在的に持っている可能性を最大限に発揮できる状態を準備すること」を目的としており、ウィキペディアによると、野口は体操の優秀な指導者だったが、教え子を戦地へ送ってしまった呵責の上、自身も身体の不調を来たした。舞踊の道を志すなどの試みのうちに、重力などに抵抗するための筋力を鍛えるよりも、むしろ力を抜いて身体を動きや重さに任せることが、力や素早さなどを引き出せることを発見したという。

 野口の身体イメージは「生きている人間のからだは、皮膚という伸び縮み自由な大小無数の穴が開いている袋の中に液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」というもので、東京芸術大学でたまたま居合わせた三木成夫とは肝胆相照らす仲だったらしい。

 野口体操の極意もまた禅密気功、とくに蠕動の心得として大いに参考になると思われる。

東山「禅密気功な日々」(27)

「病邪の実を瀉す」

 これまでも2度ほど東洋医学(鍼灸)の「虚実補瀉(病邪の実を瀉し、正気の虚を補う)」という言葉にふれたけれど、作家、宇野千代の『天風先生座談』(廣済堂文庫)に、中村天風がエジプトのカイロでたまたま会ったインドの行者についてネパールの山奥に行き、長年の病を治した経験が語られている。

 行者はすぐにでも病から解放される方法を教えてくれると思ったのだが、幾日たっても何の音沙汰もない。2カ月を無為に過ごし、しびれを切らした天風先生が「いつになったら教えていただけるのでしょうか」と聞くと、行者は「大きな水飲みの器に水をいっぱい入れてこい」と言った。持っていくと、今度は「湯をいっぱい持ってこい」、「その湯を器にそそげ」と言う。「そんなの無理ですよ。水も湯もこぼれるだけです」と天風がたまらず抗議したとき、行者はこう言う。

お前をつれてきた翌日からでも教えたいと思ってじっと見ていると、お前の頭の中はな、私がどんなことを言っても、そいつをみんな、こぼしちまう。さっきの水のいっぱい入っているコップと同じだ。お前の頭の中に役にも立たない屁理屈がいっぱい詰まっている以上、いくらいいことを言っても、それをお前は無条件に受け取らないだろう。受け取れないものを与える。そんな愚かなことは、俺はしないよ。

 天風が心底、納得した姿を見た行者は、「今夜から俺のところへ来い。生まれたての赤ん坊のようになってな」と言った。

・「蠕動+筋トレ」の真意

 禅修行のときなどでも同じようなことを言われるようだが、頭をカラにしておかないと、新しいものは入ってこないということである。虚実補瀉は、これが体にも言えることを示している。筋肉を発達させ、若々しく蘇生させるためには、まず長年の間にたまってしまった滓を取り除く必要がある。高齢者トレーニングは「マイナスからの出発」だと言ったのはそのことである。

 体が錆びついたままいくら重いダンベルを上げても、筋肉は相変わらずしぼんだままで、けっしてパンプアップしてくれない。逆に股間ストレッチや呼吸法などを実践している人が、筋トレをしていなくても、その肌が水々しく、また筋肉も引き締まり、若者のようにしなやであるのを見て驚いた人もいるはずである。

 気功(蠕動)で筋肉の滓をほぐし、それを体外に排出する、次いで筋肉トレーニングをする。これが「蠕動+筋トレ」の真意である。スポーツ教室に行っても、筋トレだけでなく、エアロビクスやウォーキング、ヨガ、ストレッチなどをやれば、滓ほぐしの効果があるから、それでもいいわけだが、私の経験では、毎日蠕動をやったうえで、ときどき筋トレをやれば、年老いてからもけっこう若々しい肉体を保つことができる。

 もっとも老いは日々降り積もる。滓ほぐし≧降り積もり、でないとなかなか思うようにはいかない(^o^)。