東山「禅密気功な日々」(8)

ウエブ<気功と健康>について

 藤田正和さんのウエブ「気功と健康」が禅密気功普及に果たした役割は大きい。藤田さんは40代のころ過労から体調を崩したのがきっかけで朱剛先生と禅密気功に出会ったという。朱剛先生の人柄に引かれたことも大きかったらしい。それ以来、朱剛先生の師である劉漢文師にも教えを受け、気功に精進してこられた禅密気功大先達の1人である。

「気功と健康」は1996年の開設で、私が<「気圧の魔」研究会報告>を立ち上げたのより2年ほど早い。まさにウエブ黎明期の快挙である。

 気功の紹介と説明、実践例、参考文献紹介、よもやま話など、気功のすべてを網羅したと言っていい内容で、その経験の豊富さ、理解の深さ、添えられた写真の見事さ、どれをとってもすばらしい。

 禅密気功に関しては、<我々現代人には、姿勢が悪いために健康に支障を来たしている病気あるいは「未病(半病人)」の人が多くなりつつあるのではないでしょうか。気功の本来の目的は、「未病を治す」事だと言われています。特に、背骨のゆがみの是正と、気の滞りの除去と流れの円滑化を功法の基礎(築基功)に据えた禅密気功は、理にかなった健康法だと思います>記されている。私が大いに納得したのは「気功を練習していて常々感じるのは、その習熟曲線が直線ではなく、階段状、それもかなり段差のある階段状だということです」(気功徒然草「気功の階段」)という文章だった。

 2016年まで逐次更新されてきた結果だが、惜しいことに、レンタルサーバーの都合でそれ以後は更新されず、クローズされた形になっている。

 藤田さんによれば、その際、いくつかの項目でリンクが途切れたり、アクセス数のカウントができなくなったりしたらしい。100万件をめざしたアクセス数は90万件ほどでストップ、「気功めやす箱」のデータも失われた。とくにユーザーとの双方向向けコミュニケーションの道具だったBBS機能が失われたのが残念だったという(いまはフェイスブックで情報発信されている)。

 しかしこのウエブが禅密気功普及に果たした意義は大きいだろう。鎌倉教室に通う人の中にも、いまだに「気功と健康」で気功を知ったという人が結構いる。当初の目的は十分果たされ、いまも禅密気功の道しるべとして貢献している。その努力に敬意を表し、ここに紹介させていただいた(ちなみに藤田さんは「禅密気功」のウエブも立ち上げられたとか)。

 彼は国際派ビジネスマンとして国内外で活躍しつつ、テニス、カメラ、バードウオッチングなど多彩な趣味を楽しんでおられる。つい先日も仲間と3週間のエーゲ海クルーズに行ってきたと言い(写真はそのクルーザー)、私が電話したときは「明日から軽井沢でテニス合宿」だとか。1946年生まれ、私よりはやや年少ではあるが、まことにすばらしい「壮年」生活である。これも気功のおかげだろう。
 ギリシャは私のあこがれの地であり、まだ30代のころ、1カ月ほど休みをとってアテネ、スパルタ、オリンピア、デルフォイ、クレタ島、ロードス島などを放浪したときの海と空の碧さが懐かしい。

 

林「情報法」(49)

著作権研究の原点に還って

 台風19号が去った直後の10月13日の日曜日に、学術会議法学委員会が主催する「著作権法上のダウンロード違法化に関する諸問題」という公開シンポジウムが開催され、私もパネリストの1人として参加しました。「情報法の観点から」というのが私に与えられた役割で、サイトブロッキングの妥当性(合法・違法性や有効性)や「通信の秘密」について所見を述べましたが、大きなテーマが著作権だったことが、私の参加意欲を一層高めました。著書で述べたように、私の情報法研究は、著作権をプロトタイプとして始まっているからです。いわば「著作権の原点に還った」ような半日を、予定を変更して、レポートします。

・多角的な著作権の見方と私の立場

 今回の出講依頼は、学術会議第3部会(理学・工学)に属する、セキュリティ研究者からいただきました。どうやら学術会議の第1部会(人文社会科学)に属する法学研究会が、第3部会と協力して運営するようでした。実際、趣旨説明者(佐藤岩夫氏)・司会者(松本氏)・総括者(高山氏)は、すべて第1部会の会員ですが、田村氏(著作権法)・亀井氏(刑法)・壇氏(弁護士)・佐藤一郎氏(情報学)・私(情報法)という組み合わせは、法学を主としながらも幅広い視点での議論を喚起しようという、企画側の意図と柔軟性を示しているように思えました。

 そして実際、当日の議論も、文化審議会著作権分科会における「やり取り」の裏話も含めて、忌憚のない意見交換に終始し、パネリスト相互間も「得るところが多かった」という見方で一致しました。主催者が集めたアンケートでも、問題を多角的に議論したことへの共感が表明されていました。ただ、そのことは逆に、審議会やロビーイング勢力の多数派を占める「著作権を所有権に準じて考える派」の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示するもので、本当の議論がなされたかは別途検証が必要かと思います。

 私個人は、「著作権が情報法のプロトタイプになり得る」という仮説(というよりも、一種の直感)から研究生活を始めたものの、すぐに「有体物の所有権と無体財である情報に関する権利とは違った側面が多い」という事実に気づき、「著作権をも包摂した情報法のあり方」へと研究テーマを微修正した経緯があります。したがって私は、「著作権」を盲信する人は、「無体財に関する法制度がどうあるべきかが分かっていない人」という疑いを払拭できません。

 具体的にいえば、登録を要さず(無方式主義で)著作権が発生し、しかもその権利保護期間が「著者の存命中+死後50年」という驚くべき長期にわたる制度を、法的に是認することができません。永久に続くはずの所有権の代表例である不動産でさえ、転々流通し所有者が変わるばかりか、相続が起きれば分割されるのが通例です。「死後50年」も相続財産として同一人物に帰属することは稀でしょう。数ある権利の中で、ひとり著作権だけが「超長期の排他権」を享受できると考えるのは、バランスを欠いているとしか思えません。

・「思想の自由市場」論の限界

 このような考え方は、情報法の考察を進めるにつれて、修正されるどころか、ますます確信に近くなっています。その例として当日挙げたのが、米国の憲法論に由来する「思想の市場」(Marketplace of Ideas)理論の妥当性です。

 これは、有体物が市場で自由に取引される(市場原理)のと同じように、「言論」という財貨も市場の取引を可能にすれば、優れた商品が生き残るのと同様、優れた言論が選ばれていくではないかという、超楽観主義です。資本主義社会における「言論の自由」を象徴する比喩としては、秀逸であるように思えます。

 しかし比喩は、直感的理解に役立つものの、厳密な理論としては以下の 5 点のような限界(市場の失敗)があることも、理解しておく必要があるでしょう(アンダーラインの部分は、今回のシンポジウムのテーマに関連する事項です)。

①価値の不確定性:アイディアあるいは思想(いずれも「情報」の一種)の価値は不確定で、「時と場所と態様」によって大きく変動するので、「一物一価」は成り立たない
②占有不可能性:情報に排他性を持たせることは不可能ではないが困難であり、登録を要件とする「知的財産」か、秘密管理を厳密にした「秘密情報」に適用するのがやっとである(しかも、著作権には前者の要件が欠けている)。
複製容易性:占有可能な有体物の引き渡しよりも、占有不可能だが複製で拡散する情報財の複製物の方が、技術の進化により容易に流通する
④返還不可能性:情報は一旦流出したら取り戻すことができないし、随所に複製されているので、返還の意味もない。
⑤法的救済の不十分性:損害賠償を主とする従来の「事後救済」中心主義では、被害者の期待に応えられない。差止めを中心とした「事前」あるいは「即時」救済の方法を検討する必要がある。

・サイトブロッキングと「通信の秘密」

 情報法的観点から、当日私に期待されていたコメントの1つは、「通信の秘密」に関するものでした。特に、「サイトブロッキングは通信の秘密の侵害に当たる」という理解(一部は誤解と思われます)が広まっているので、いささか専門的になるのですが、これに触れないわけにはいきませんでした。

 まず私は、海賊版(著作権侵害)サイトを何とかしたいという、一般感情があるのではないかと指摘しました。ブロッキングを含め検討したいとの NTT 鵜浦社長(当時)の発言に賛否両論があったものの、海賊版サイトを無くしたいという点では一致しているかに思えたからです。  

 しかし、その手段としてブロッキングが適切かというと、それはアクセス・サービスの提供者がアクセスをブロックするという「禁じ手」としか思えません。また、アクセスの遮断は、当該言論を流通させないことと同義なので、児童ポルノのブロッキングが慎重な検討過程を経てきたこととのバランスからしても、十分な議論が望まれます。

 実はサイトブロッキングは、こうした適法・違法論とは別に、果たして実効性があるのかという議論もあるのですが、この点は技術者である佐藤パネリストに期待していたところ、実に分かりやすく問題点を指摘してくれました(結論は、想像通り、あまり実効的ではないということでした)。

 そこで私は、当該行為の「通信の秘密」との関係に集中することができましたが、この点に関しては2つの対極的な見方があります。「通信の秘密」の侵害であるという大方の理解と、厳密な法理論では侵害を証明することが難しいとの見方(伊藤真・前田哲夫 [2018]「サイトブロッキングと通信の秘密」『コピライト』No.690)です。ただし、後者は「電気通信」の定義のうち「他人の通信の媒介」(電気通信事業法2条三号前段)には当たらないというだけで、「電気通信設備を他人の通信の用に供する」(同条同号後段)に当たるかどうかを検討していないので、「通信の秘密」侵害の恐れがあることまでは、通説化していると思ってよいでしょう。

 しかし、本件は「通信の秘密」侵害の心配よりも、「検閲の禁止」(事業法3条、憲法21条2項前段)や「利用の公平」(事業法6条)の侵害につながる恐れが強いからこそ、懸念が広がったのではないかと思われます。前者は国家権力に対するものだと考えられてきましたが、今日では「私企業による検閲類似行為」(特にプラットフォーマと呼ばれるグローバル企業)によるプライバシー侵害に、より強い懸念が示されているからです。

 なお、電気通信事業法の「検閲の禁止」と「通信の秘密」の該当条文は、彼らにも適用されることになっています(同法164条3項)が、米国の1934年通信法では同種の規定がないので、日本で営業活動を行なっている米国系 プラットフォーマには、そのような発想がそもそも欠落していると推定されます。

 さて残念ながら「通信の秘密」と「検閲の禁止」の関係について、憲法学者が大いに議論してきたという事実はないようです。それだけ侵害が少なかったとすれば、その事実自体は大いに評価されるべきことです。とすると、より根本的な問題は、知的財産という形での「物権的保護」以外の保護方式が、十分に検討されていないこと(個人データにも物権的保護が先行して検討され、「情報は占有になじまない」点が軽視されている)にあるように思えます。著作権の考察を超えて、情報法へと進んできた私の出番かもしれません。

・「通信の秘密」における4つの厳格解釈と1つの原則

 ところで、わが国の「通信の秘密」に関する解釈と運用は、おそらく「世界一厳格」と言ってよさそうです。これは「自由の国アメリカ」で3年半生活し、おそらく頻繁に通信傍受の対象になっていたであろう私の、個人的経験から出た感想ですので、立証できないのが残念です(私は私企業であるNTTアメリカの社長であったに過ぎませんが、NTTの調達問題に関して日米政府間の協定が結ばれ、その実行部隊の長として誠実な実施が義務付けられていたこと、スノーデンの暴露によってアメリカの通信傍受が大規模に、かつ長期間にわたって行なわれてきたこと、が傍証です)。

 その厳格さは、以下の4つの解釈と、その背景にある1つの原則の基づくものだ、というのが私の見立てです。4つの厳格解釈とは、以下のものをいいます。

①検閲の禁止は絶対的なものだが、通信の秘密もそれと同程度だとする(後者は本来、比較衡量により判断すべきものだが、それを否定)。
②通信内容とログ(通信履歴)を区別せず、ともに同程度に保護されるものと考える(事業法4条1項の「通 信の秘密」を広義に捉え、同条2項の「他人の秘密」を極めて限定的に捉えることとパラレル)。
③通信内容やログの取得が公共の福祉(犯罪捜査等)のために必要だとしても、取得には裁判所の令状が必要だとし、かつ厳格に審査する(取得と漏示・窃用を区別せず、かつ行政傍受等も否定)。
④バルク取得(全通信履歴の無差別的取得)は認めず、令状は案件ごとに必要だとする。

 そして、これらの厳格解釈の背景にある1つの原則とは、「通信事業者は、通信には手を触れてはならない」(hands-off)というものです。これはインターネットの登場(法的には「プロバイダ責任(制限)法」の制定)以降維持できないし、「通信」と「情報処理」を峻別してきた米国でも、相互浸透を是認する方向にある(「高度サービス」の提供者にも、通信法におけるコモン・キャリア規制を適用するという規則は、なお議論されている)ことを考えると、抜本的な見直しの時期に来ているのではないかと思います。

・個人的感慨

 今回の企画は、私の著作権への関心を呼び覚ましてくれました。1997年に学者専業に転ずると同時に、著作権の研究を始めたことは「直感的だが正しい選択」であったことが確認できました。しかし、その後の長い考察にもかかわらず、達成できたことがあまりに少ないことに驚くと同時に、パネリストと共有できる点が多かったことから、あきらめず前進する勇気をいただきました。この企画をされた関係者にお礼を申し上げます。

新サイバー閑話(32) 令和と「新選組」④

トップから腐っていく社会

 ちょっと前になるけれど、10月4日の東京新聞一面が大見出しの記事3本だけでほとんど占められていた。

 トップが「関電金品受領 監査役、総会前に指摘 社長ら公表見送る」、肩4段が「トリエンナーレ補助金不交付 文化庁有識者委員が辞意『相談なく決定 納得できず』」、下方4段が「かんぽ報道 NHK会長、抗議影響否定『編集の自由損なわれず』」である。

 いずれも事件自体はあらためて説明するまでもないだろうが、トップ記事は、関電の金品授受問題を今年6月の株主総会を前に監査役が把握し、経営陣の対応に疑問を投げかけていたが、問題の公表は見送られたという話。トリエンナーレに関するものは、文化庁が補助金7000余万円を交付しないと決めたことに関し、採択の審査をした委員の一人が「不交付は委員に相談なく決定された。これでは委員を置く意味がない」として辞任を申し出たというもの。最後は「クローズアップ現代+」の報道に関して、日本郵政グループがNHK経営委員会に抗議、経営委員会が上田良一会長を厳重注意した問題で、当の上田会長が定例記者会見で「番組編集の自由が損なわれた事実はない」と述べたというものである。

 3本の記事には、はっきりした共通性がある。それは、社会制度が本来の趣旨にそって適正に運営されるために、あらかじめ設定されているチェック機能が無化(無効化)されていることである。

 何のための監査役か、何のための有識者委員会か、何のための経営委員会か。

・「非立憲」政権によるクーデター

 本来果たすべきチェック機能を崩していくのが安倍政権発足以来のやり方である。まず権力チェックの重要な機能を持つとも言われる新聞、テレビなどの報道機関を早々に切り崩しにかかった。アベノミクス実現の環境づくりとして日銀総裁を替え、安保法制強行のために憲法の番人とされてきた内閣法制局長官を替えた、などなど。

 この点について、改憲問題に関連して石川健治東大教授が書いた論考「『非立憲』政権によるクーデターが起きた」が実に明快に論じてくれている(長谷部恭男・杉田敦編『安保法制の何が問題か』所収、岩波書店、2015)。

 「現政権の全体的な政権運営の特徴として、ナチュラルに非立憲的な振る舞いをしてしまう傾向を上げることができます。もともと統治システムの中には内閣が独走できないように、いろいろな統制と監督の仕掛けが内蔵されているわけですね。ところが、安倍政権は、政権にとって、歯止めをかける対抗的な役割を果たしかねない要所要所に、ことごとく『お友達』を送り込んで、対抗勢力の芽を摘んでいく――、そういう手段を駆使していると思います。故・小松一郎内閣法制局長官の人事がそうでしたし、日銀総裁、NHK会長の人事の場合もそうです」、「たとえば、憲法は、内閣に国政の決定権の一部を委ねているかもしれませんが、コントラ・ロールとして、その責任を追及する立場にあるのが、いうまでもなく国会です。……。政府内部にも、伝統的に内閣法制局という、お目付け役を果たしてきたコントラ・ロールがいます(いました)。対抗的存在は、世論やメディアなど、制度外にもさまざまに用意されています。内からも外からも内閣が独走しないようコントロールしているのです。そのような存在が多重的に仕組まれていて、権力が暴走しないようにシステムができ上っています。ところが安倍政権は本来コントロールを受ける立場にありながら、自分から対抗的存在に圧力をかけたり、つぶしにかかったりします」、「恐らく安倍首相個人のパーソナリティによるとこころが大きいのだと思いますが、とにかく批判を受けるのを嫌がります。自らに対する批判を抑圧したいという動機がむき出しになっています。……。その姿勢そのものが、非立憲だといわざるを得ません。そういう政権に日本の行く末を委ねていいのか、直感的に不安を抱く人は多いのではないでしょうか」。

・「忖度」する人、「模倣」する人

 安倍政権の体質をもっともあからさまに浮き彫りにしたのが森友加計問題だろう。文書改竄を進めた財務省幹部は訴追を見送られ、あるいは海外に転出した。憲法問題においても、安保法に異議を唱える憲法学者の声やパブリックコメントでの国民の声に何の配慮も払わなかった。沖縄問題も同じで、要は異論の完全無視である。

 しかも安倍首相や菅官房長官は、事態を自らの問題として受け止めず、他人ごとのように答弁したり、問題の所在をはぐらかしたり、あっさりと、断定的に否定したりしてきた。「こんなことが許されるのか」と怒ったり、慨嘆したりする人も当然いるわけだけれど、逆にそういう(うまい)手があるのかと率先してまねる人が出てきても不思議ではない。手続きを無視したごり押し路線の「模倣」である。今回の関電幹部や文化庁(文部科学省)やNHK経営委員会がそうだと「断定」するわけではないが、そこには政権の〝得意芸〟も反映しているように思われる。

 ユーチューブの動画によると、10月9日の官邸記者会見で、例によって望月衣塑子記者が「森友加計問題など政府の疑惑に関しては何の第三者委員会も設置しなかったのに、関電に対しては第三者の徹底的な調査を求めるというのは整合性があるのか」という趣旨の質問をしたのに対し、菅官房長官は「まったく事案が違う」、「適切に対応したと考えている」、「何か勘違いしているのではないか」と木で鼻をくくったような答弁をし、それで記者会見は終わっている。

 国会やメディアも含めて、チェック機能がかくも働かなければ、人びとの政治不信、政治的無関心の流れはさらに加速するだろう。今回の組閣人事を見ても、ごり押し路線を強化、徹底しようとしているばかりで、いま進む深刻な事態(深い病)への認識、想像力はまるで見られない。政権中枢のモラル崩壊は確実に周辺に及び、それは国民全体にまで徐々に広がっていくだろう。それは、台風19号襲来時の気象予報官の語り口をまねれば、「もうすでに一部で起こっているかもしれない」。

 老子に「大道廃れて仁義あり」という言葉がある。大道が廃れるから仁義が出てくる(大道が行われていれば仁義などは無用である)と、儒教における仁義強調を批判したものとして知られているが、いまや大道廃れて仁義なし。

 この言葉は、「国家混乱して忠臣あり」と続いていて、これも国家が混乱すると忠臣が出てくる、国家が正しく運営されていれば忠臣など出てくる必要はない、という逆説的意味だけれど、これも今は、国家混乱して忠臣なし。

 老子のくだりを友人にメールしたら、「山本太郎こそ真の忠臣である」との返事が来た。彼は自分の会社の窓にれいわ新選組のポスターを張っている(下)。
 NHKのかんぽ報道に対して、逆ギレのように居丈高に抗議している日本郵政上級副社長は元総務省事務次官だが、彼が事務次官になったのは菅総務相(当時)に抜擢されたためらしい。そういう意味では、現政権は早くから「忠臣」の育成に乗り出していたようである。

 

古藤「自然農10年」(3)

実りの秋を次々と襲う台風

 東海、関東から東北まで百人に迫る死者・行方不明者を出す甚大な被害となった台風19号は「サイバー燈台」へ送ろうとした私の原稿も吹き飛ばした(というわけで、今回は台風と農業の話である)。千葉県を中心に大被害を与えた台風15号が三浦半島に上陸した日から1か月後の10月9日、私は吉野彰氏のノーベル賞受賞より台湾の南、北緯20度線近くの洋上にあった台風19号の進路に気を取られていた。

 九州もうかがうコースに見え、中心気圧は何と916hPa、最大瞬間風速は70メートルに達するという圧倒的な巨大さに怯えていた。しかし、そのころから急に進路が西寄りから東寄りへ変わり、15号とほとんど同じコースへ北上することが次第にはっきりしてきた。台風15号は上陸の時、960hPa、直径も半分以下の小型だったが、最大風速40メートルで千葉県を中心に大被害をもたらした。

 大停電の陰に隠れがちだったが、農水被害は367億円、東日本大震災の被害額を上回ったと、9月26日に千葉県が発表している(産経新聞)。ハウスや水田などほとんどは農業被害だったから、19号の動きは他人事と思えずニュースを見続けた。伊豆半島に上陸した10月12日午後7時ごろ、中心気圧はまだ960hPa、恐れたのは実りの秋を直撃する風のことばかりで、まさかあれほどの雨量と広範囲な洪水になろうとは少しも予想できなかった。

 千曲川、利根川、阿武隈川…7県で52に及んだ河川の氾濫。日常を唐突に襲い情け容赦なく人命を奪い、家や生活の場を破壊した台風。呆然としている被災者の心情を思うといたたまれない気持ちになるが、その悲しみ、怒りを持っていく先がない。そして、その泥水の下にどれほどの田畑が広がっていることであろうか。

 昔から「ナミダヲナガシ オロオロアルキ」しかない農業者の声がすぐにニュースとなることは少ない。事態が少し収まるまで被害の全容がつかめないこともあろうが、倒れた稲や野菜、落下した果実を前に今、農業者は肉親を失った人たちと同じようにただじっとうつむいているだけであろう。

 九州沖から日本海へ抜けた台風17号の被害は19号に比べるとスケールが余りに小さい。9月22日午後8時ごろ玄界灘を通過した時、中心気圧は980hPaだった。とはいえ、最大瞬間風速は40㍍を超え、私の棚田は進行速度と風速が重なる東側で、15号における房総半島の鋸南町に似た位置に当たっていたのでかなり心配した。

 棚田へ向かう県道近くにある神功皇后ゆかりの宇美八幡宮で、幹回り7メートル、高さ26メートルのご神木(イチイガシ)が根こそぎ倒れ、沿岸部一帯で家屋や電柱の被害、倒木が相次いだが、幸いにも棚田の稲はお辞儀をしただけで倒れなかった。背振山系が風を弱める衝立の働きをしてくれたのかもしれない。

 お米は「つくった」と言ってはならない。幸運にも災害を免れ自然の力で作ってもらったのだから「とれた」と言わなければならない。ありがたくも台風被害を免れて稲田は黄金色をまし、今年も順調にとれそうである。野菜の方は、種まきから幼児、大人へ育つよう除草や間引きなど手を加え続けるから「育てた」感覚もある。しかし、この夏のトウガンは玉ねぎの後に苗を植えただけで田の作業に追われ放置同然だった。

 台風19号の進路を気にしながら腰の高さにのびた雑草を手刈りしている時、ゴロゴロころがっているのが見つかった。数キロが5個、最後に見つけたのは重さ7.2キロと9.9キロのでかさ。育てたとはいえず育っていた。お裾分けした人たちから笑顔をもらって老後農業の励みになった。自然は涙と喜びを脈絡なく運んでくる。

×    ×    ×    ×
 

 自然農に私をつないでくれた松尾靖子さんは2012年5月28日午前6時半、眠るように亡くなった。57歳。後に残った自然農の畑のそばで、彼女が好きだったエゴノキが可憐な美しい花をいっぱいに咲かせていた(撮影・西松宏)。次回は、彼女から研修生として自然農を学び、残された畑で営農を引き継いだ二人の青年のいまを紹介したい。

東山「禅密気功な日々」(7)

日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ

 52歳で家督を息子に譲り隠居した三屋清左衛門は、「残日録」と題する日記を書き始めるが、その表題を垣間見た嫁の里江に「いま少しおにがやかなお名前でもよかったのでは」と言われて、「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日を数えようというわけではない」と答えた。隠居後の人生もまた大切にしたいという決意表明だっただろう。藤沢周平の名作、『三屋清左衛門残日録』冒頭の話である。彼はまた藩の道場に通い始める。

 いまや5人に1人が70歳以上。65歳をすぎないと年金ももらえない時代である。隠居という言葉自体、すでに死語に違いが、65歳ごろから人生を引き算で考えはじめ、しかもずるずると90歳、100歳まで生きてしまうとなると、これはやはり「迂闊」というべきだろう。

 「休息は死の床で」をモットーとして会社経営に、執筆に精力的に活動している友人がいるが、そこまでは無理としても、超高齢化社会を健康で前向きに生きていく心構えはやはり必要だろう。

 『残日録』の最後にこういう記述もある。「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ」

あれをご覧よ 真っ赤な夕陽
落ちてゆくのに まだ燃えている

 福田こうへいの「南部蝉しぐれ」のこの歌詞を私は気に入っているが、高齢にしてなお矍鑠として生きようとすれば健康第一、そのためには本コラム第3回で書いたように、蠕動+筋トレが一番である。というわけで、このコラムでも折々に<老いと筋トレ>についても書いていきたい。

 インドの聖人、ガンジーにはこういう言葉もあるという。https://www.excite.co.jp/news/article/Mycom_freshers__gmd_articles_18852/など参照

明日死ぬと思って
生きなさい。
永遠に生きると思って
学びなさい。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.

新サイバー閑話(31) 平成とITと私③

最先端技術の世界に挑む

 『アサヒグラフ』のコンピュータ特集が好評だったことに気をよくした私たちはその後も、躍進するバイオテクノロジーの世界、コンピュータで武装するサイボーグ、進化するバーチャルリアリティとコンピュータ・ゲーム、巨大技術としてのロケット開発や核融合技術、がん治療最前線などの最先端技術の世界を立て続けに特集した。当時、ニュー・テクノロジーとかハイ・テクノロジーとかう言葉が盛んに喧伝されていた。

 全国の大学や民間の研究室、ロケット打ち上げ現場、国立がんセンターなどの病院をいろいろ取材したから、私と岡田カメラマンは一年中、全国を歩き回っていた。種子島宇宙センターにNⅠロケット打ち上げの取材に行って台風に遭遇、車を借りて〝強行取材〟、台風の写真で誌面を飾ったこともある。

 旅の先々でおいしそうなラーメン屋を勘で見つけて、ラーメン&餃子を食べるのが私たちの楽しみだった。しゃれた店構えや店頭に自動券売機を設置している店は避け、小さくて古い佇まいながら、これは良さそうだと思う店を選んで、それが成功したときは嬉しかったものである。

 巻頭カラーだけでなく、モノクロページでも、コンピュータ達人になった少年たち、町工場に進出しはじめたヒューマノイド・ロボット、土を忘れて〝翔ぶ〟農業(水耕栽培)、建設が急ピッチで進められる東北新幹線上野地下駅など、技術が変えていく社会の風景も取材した。

 これらの仕事は後にカラー版の旺文社文庫に『コンピューターの衝撃』(1983)、『現代医学の驚異』(同)、『巨大科学の挑戦』(1984)の三部作としてまとめられた。


 この取材を通して私は多くのことを学んだ。

 まず技術の目覚ましい躍進ぶりである。しかも技術現場のシステムは巨大化し、個々の技術者が全体を見ることはどんどん不可能になっていた。『巨大科学の挑戦』のあとがきでは「科学技術の営為が巨大プロジェクト化すればするほど、プロジェクト全体を掌握することは難しいし、また実際に現場の技術者たちは、自分たちに与えられた職務にのみ忠実で、その計画全体に思いをいたすことが少なくなっているようである」と書いている。

 当時、国家予算600億円を投じた原子力船「むつ」が放射能漏れ以来十年、東北―九州間を漂流したあげく廃船になるとのニュースが流れていた。

 もう一つは、技術の進歩は果たして人間を幸せにするだろうかという疑問だった。『現代医学の驚異』のあとがきで、がん取材でお会いしたある教授の言を紹介している。

「がんは簡単には撲滅できませんが、それでいいのかもしれません。もしがんが克服され、寿命が延びたとして、人類の未来はバラ色ですかね。ひとびとはますます子どもを産まなくなり、社会はそれだけ高齢化し、いよいよ活力がなくなるでしょう。それは灰色の世界かもわかりませんよ」

・日本情報社会の進展とパソコン

 最先端技術の世界を取材していたころは、日本が高度経済成長を謳歌していた時期であり、同時に社会が情報化へと向かう転換期でもあった。

 先にアルビン・トフラーの『第三の波』(1981)がコンピュータ取材を始めたきっかけだったことにふれたが、日本でも1980年以降、「高度情報化社会」という言葉が脚光を浴びるようになっていた。

 1980年には通産省(当時)産業構造審議会情報産業部会中間報告が「S家の一日」というエッセイ風の文書で、バラ色の情報社会の青写真を提示していたし(「団地」に代わって「ニュータウン」という言葉が登場していた。下図はそのイラスト)、雑誌『日経ビジネス』が「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集を組んだのは1982年だった。

 パソコン、ワープロ、電卓、軽自動車、携帯用ヘッドホンステレオ、ミニコンポステレオなど、当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという、鋭い洞察だった。

 日本情報社会論の古典とも言える増田米二『原典・情報社会 機会開発者の時代へ』(TBSブリタニカ)は1985年に出ている(サイバー燈台プロジェクト欄で小林龍生さんが梅棹忠夫『情報産業論』を読み解いているが、その1963年という発表年がいかに時代を先んじていたかは驚異的である)。

 情報社会出現を推進したのがコンピュータだったから、最先端技術シリーズの取材対象の中心には常にコンピュータがあった。特集「コンピューター」でもワープロ、パソコン、電卓を取り上げているが、パソコンはNECの8ビットマシン、8801シリーズであり、ワープロは小型化してきたとは言え、まだ50万円以上した。

 ちなみに私は1983年4月に富士通のワープロ、マイオアシスを86万1200円で買っている。「ザ文房具」というキャッチコピーで大相撲の高見山が宣伝していた機種である。これを月々1万5500円、ボーナス月6万5500円のリースにしていたのだが、ワープロもどんどん小型化、価格も安くなって、たしか85年ごろには1台10万円台の小型ワープロが登場、しかもより多機能になっていた。そのとき私のローン残高は20余万円、さすがに馬鹿らしくなって残金を一括で支払ってケリをつけた。コンピュータの小型化、それと同時の高機能化、低価格化を身をもって知った最初の出来事だった。

 さて海の向こうに話を移すと、世界最初のパーソナル・コンピュータは1974年に開発されたアルテアだと言われる。当時のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって激しい反戦運動が巻き起こっていたころで、この小さなマシンは、IBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受け、そこからいくつかの成功物語が生まれた。

 学生だったビル・ゲイツと友人のポール・アレンは、アルテアを見て大いに驚くと同時に、大型コンピュータで使われている言語、BASICをアルテアでも使えるようにするビジネスを思いつく。同じころ、カリフォルニアのスティーブ・ウオズニアックとスティーブ・ジョブズという「2人のスティーブ」は、ガレージで「アップル」というパソコンを作り、1976年に同名の会社を起こした。

 大型コンピュータの雄、IBMも1981年にパーソナル・コンピュータIBM-PCを売り出し、時代はパソコンの時代へと移っていく。日本にも伝わっていたその一端を私は取材していたことになる。

・最先端技術シリーズとデスクの大崎紀夫さん

 ところで『アサヒグラフ』は週刊誌である。その1回の特集を作るために私たちは1カ月以上をかけて全国を取材した。当時のメディア業界、さらには朝日新聞という会社の鷹揚さを考えると隔世の感があるが、デスクにして名編集者だった大崎紀夫さんの存在なしには考えられない企画だった。

 彼はすでに大物編集者として社内外に知られた存在だったが、私たちのコンピュータ特集に巻頭25ページをあてがい、しかも大胆なレイアウトをしてくれたのである。社内モニターで高く評価されるなどの事情もあってシリーズ化へと結びついたけれど、いまでも彼には深く感謝している。

 編集局の出稿部(社会部)、整理部を経て、出版局『アサヒグラフ』にやってきた私は、希望して異動してきたとは言え、当初大いに戸惑った。新聞でももちろん写真は大きな力だが、やはり記事が中心だった。それがグラフでは「写真がつまらなければそれで企画は没」というふうに、記事と写真の関係は逆転した。大崎さんは常々「いい写真が撮れたらカメラマンの手柄。つまらない写真しか撮れなかったら編集者の責任」と言っていたが、写真と記事の関係ばかりでなく、私は大崎さんはじめアサヒグラフの先輩同僚から雑誌編集の基本を学んだ。

 記者と編集者とではまるで違う役割があることに気づかされたし、雑誌というメディアをどう作り上げていくかという編集ノウハウも学んだ。編集者としての私はアサヒグラフで、最先端技術シリーズで培われたのだった。

 日大全共闘の猛者だった岡田明彦カメラマンはずっと頼もしい相棒だった。「腰が痛い、腰が痛い」と言いながら、個々の対象物に鋭く迫って、豊穣なイメージを切り出す(紡ぎ出す)彼の写真が私は好きだった。シリーズ後半のころ、写真家団体の賞の新人賞候補になったと聞いたが、受賞を逸したのは少し残念だった。彼は無冠の帝王を標榜していたけれど……。

 こうして私は「メディアとしてのコンピュータ」をテーマにする雑誌を構想するようになる。

 

新サイバー閑話(30) 平成とITと私②

『アサヒグラフ』のコンピュータ特集

 これは平成というより昭和の話だが、私が『ASAHIパソコン』を構想するきっかけとなったのが『アサヒグラフ』のコンピュータ特集である。『ASAHIパソコン』前史として、このコンピュータ特集についてふれておきたい。

  1981年11月27日号で私は、大型コンピュータはもとより、登場しつつあったパーソナル・コンピュータ、さらにはすでに普及していた電卓まで、ハードウェアとしてのコンピュータのすべてを、全国の工場や店頭を隈なく取材して、巻頭25ページで特集した。

 パーソナル・コンピュータのもととなるIC(集積回路)の素材であるウエハーがシリコンの塊(インゴット)から作られる過程、小さなチップに複雑な回路が埋め込まれていく様子、そのチップの配線拡大図、されには使用済みコンピュータがうず高く積み上げられたコンピュータの墓場まで網羅したから、当時としては画期的なコンピュータ特集だったと自負している。トップページには、当時世界一計算が速いと言われたスーパーコンピュータ、クレイー1の写真を使った。当時のアサヒグラフは米誌「ライカ」のような大判だったから、裁ち落としの見開き写真が並ぶ巻頭25ページの特集は相当に迫力があった。

・後に日米特許紛争の舞台となったIBM3081

 技術には門外漢だった私がコンピュータを取材しようと思いたったのは、同じ年、アルビン・トフラーの『第三の波』 (1981年、NHK出版) が翻訳出版され、エレクトロニック・コテッジとかプロシューマ―という言葉が話題になるなど、これからはコンピュータが大きな力を発揮しそうだったからである。

 秋葉原には、「マイコンショップ」が雨後のタケノコのように開店し(当時はパソコンではなく、マイコンと呼ばれていた。マイクロチップ・コンピュータとマイ・コンピュータを掛け合わせたネーミングだった)、新宿では、中学生の講師が大人のサラリーマンにコンピュータの扱い方を教えていた。コンピュータにはたしかに世の中を変える力がありそうだった。「コンピュータって一体何なのか。物としてのコンピュータをきっちりカメラにおさめて、ずらりと並べてみたらイメージが湧いてくるのではないか」と思って取材を始めたのである。

 グラフ誌のメインは言うまでもなく写真である。その撮影をフリーカメラマンの岡田明彦さんに頼んだ。

 このコンピュータ特集にはいろんな思い出がある。そのいくつかを紹介しておこう。

 当時はまだメインフレーム(大型コンピュータ)の時代だった。その主力はIBMの3033シリーズで、最新機種として3081が売り出されていた。日本アイ・ビー・エムに取材を申し込むと「3081は受注生産を始めたばかりで企業秘密もあってお見せできません。ひとつ前の3033シリーズは、それこそ旧式で、お見せするほどのものではございません」とあっさり断られた。

 そこを粘って、「興味があるのはコンピュータそのもので、生産台数が分かる生産ラインなどは撮りませんから」と取材意図を説明して、結局、両機種とも見せてもらえることになり、我々はいそいそとIBMの滋賀県野洲工場に出かけた。

 雑誌には配線がびっしりと入り乱れた3033シリーズの中央演算処理装置や、逆にすべてがモジュール化されて金属の覆いが黒光りしている3081の中央演算処理装置が、ともに見開き写真として掲載されている。私たちは配線だらけの3033の方がいかにもコンピュータらしいと思っていたのだが、この3081はまさに最新機種で、後年、富士通との間で日米特許権争いが展開された機種だった。めくら蛇におじずというべきか、その核心部分を堂々と掲載していたのだが、もちろんハードウェアの写真だから、ソフトウェアは見えない(^o^)。

 ICチップ製作工程を熊本の九州日本電気で取材したのも楽しい思い出である。

 岡田君は別の仕事ですでに九州入りしており、当日午後1時に私が空路熊本に向かい、九州日本電気で落ち合うことにしていた。ところが当日は悪天候で熊本空港は閉鎖、私は福岡空港で下された。あわててタクシーを飛ばして現地に到着したのは午後3時である。簡単な打ち合わせはしてあったとは言うものの、何を撮るかまでは詰めてなかった。しかも共同取材を始めた初日である。結局、彼に2時間待ちぼうけをくわせることになった。

 いや、そう思っていたのだが、岡田君は広報担当者の案内で、どんどん撮影を進めていた。九州日本電気の鈴木政男社長のご協力もあり、撮影は私抜きでずいぶん進展していたのである。担当者が「ここの撮影は駄目です」と言う部屋にも、豪放磊落な社長決断で許可が下りたりした。最後の懇談の席で、鈴木社長が言った言葉が忘れられない。

「プロのカメラマンはさすがですねえ。私どもが見せたくないところの写真ばかり撮りたがるんですから」

 コンピュータ特集は岡田君と組んだ初めての仕事で、彼はそれこそコンピュータのコの字も知らなかった。彼の鋭いジャーナリスト感覚には私もすっかり感心、意気投合もして、その後、ずっと取材を続けるようになった。

・次いでソフトウェアに挑戦

 ハードウェアのコンピュータ特集が好評だったことを受けて、私たちは翌1982年4月30日号で、やはり巻頭25ページを使って、「特集コンピューター・イメージ 『幻視者』が生みだす衝撃の世界」を掲載した。

 前年は、三和銀行(当時)のベテラン女子行員がオンラインの端末を操作して1憶3000万円を詐取したのをはじめ、コンピュータを利用した犯罪が続発したため、雑誌もコンピュータ特集ばやり。単行本も続々刊行されていたが、ソフトの世界は絵になりにくく(写真に撮るのがむずかしく)、まともな写真はほとんどなかった。

「ソフトって何だ」
「プログラムのことだろう。計算式を撮ってもしょうがないなあ」
「ソフトってのはプログラマーの頭の中にあるんだから、プログラマーの頭のCT写真を撮れば、それがソフトだ」
「ソフトが、目に見えない『透明人間』だとしても、包帯を巻けば、見えてくるわけだなあ」

 などと言いながら、私たちは取材の焦点をコンピュータ・イメージに絞り、コンピュータが複雑な計算を経て作り出す画像の世界を見てまわることにした。

 取材を始めてみて驚いた。リモートセンシングの分野で、コンピュータ・グラフィックスやシミュレーションの世界で、あるいはがんなどの医療診断の最前線で、先端技術導入に意欲を燃やす技術者たちが、コンピュータを駆使して新しい画像を次々に作り出している最中だったのである。

 地球観測衛星ランドサットから見たカナダとアメリカの「国境」、日本列島の全容写真、気象衛星「ひまわり」が赤外線放射でみた地球の雲の動き、この年の台風1号の目、アンドロメダ大星雲、ようやく導入されつつあった航空自衛隊や日本航空のパイロット訓練用フライトシュミレータ、CT写真やサーモグラフィで見る人体などなど。

 今では日々の天気予報などでちっとも珍しくない写真だし、画面をそのままカラー印刷することもできる。しかし当時は、それらの画像をディスプレイに暗幕を張りつつ、アナログ写真に収めていたのである。しかし、これはこれで当時としては衝撃的で、けっこう話題にもなった。

 当時、日本電子専門学校の講師だった河口洋一郎さんのコンピュータ・グラフィックスも大々的に掲載した。彼はすでにわが国コンピュータ・グラフィックスの第一人者で、アメリカのSIGGRAPHで自己増殖する造形理論「グロースモデル(The GROWTH Model)」を発表し、話題になっていた。記事は「数学から美へ迫ろうというなんとも壮大な試みで、彼はコンピュータ―・グラフィックスを『画像表現の全過程を論理的に構築されたアルゴリズムに基づいて行う新しい芸術行為』と位置づけている」と書いている。

 後に川口氏本人が人懐こい笑顔に若干の口惜しさを交えて述懐したところによると、彼の作品を科学雑誌『ニュートン』が大々的に紹介してくれることになっていたのに、アサヒグラフに先行報道されたので、企画中止になったらしい。物心両面でずいぶん迷惑をかけた取材になった。

 活躍が日本でも評価されるにつれ、彼は筑波大学助教授、東京大学情報学環教授へと栄進した。2018年には東大教授を定年退官したというから、『アサヒグラフ』特集はずいぶん昔の話である。同誌は私が在籍中に判型が小振りになり、2000年には休刊している。

東山明「禅密気功な日々」(6)

気を動かす=細胞を共鳴させる

 先に築基功のやり方に関して、「円緩軽柔=ゆっくり、柔らかく、なめらかに、そして速度は一定」が大事だと書いたけれど、それは体をなぞるようにして気を動かすということである。朱剛先生流に言えば、「白くて粘っこい」気を動かす。私流に言えば、体中の細胞を蠕動の動きに共鳴させる、ということになるだろうか。

 坐禅で呼吸を数える、いわゆる数息観でも、呼吸の速さはゆったりしたものでなくてはならない。「どのくらいの速さがいいのか」と問えば、「いろいろ試しているうちに、自分にぴったりの呼吸に落ち着く」というふうに教えられる。自分固有の速さというのが大事である。築基功で言えば、個々の細胞が共鳴するような動かし方がある、ということだと思われる。

 この点で興味深いのがバイオレゾナンスの考え方である。

 バイオレゾナンスはドイツ発祥の振動医学による治療法である。振動医学では、一般の西洋医学とは違って、人間の体を生命エネルギー(すなわち気)の場ととらえ、気が体の隅々にまでスムーズに流れることが健康な状態であるとする。逆に滞った状態は不調である。

 この気の捉え方は、私の気功の考え方と共通しているが、興味深いのは、バイオレゾナンスでは「『気の滞り』にも原因などによって固有の周波数の波動があり、その同じ周波数の波動による共鳴現象(ハーモナイズ)によって滞りを解消できる」としていることである。「生命エネルギー(=気)の振動(=波動)には、それぞれの器官、組織、働きなどにより固有の周波数があること。そして、その気が滞りスムーズに流れなくなることが、健康が損なわれるということであり、そのときには滞りと同じ周波数の波動による共鳴現象によって滞りが消えて再び気が活発に流れるようになる、これが健康を取り戻すということだ」(ヴィンフリート・ジモン『「気と波動」健康法』イースト・プレス、2019)。

 バイオレゾナンス理論は、プランクの量子論、前科学的な地中探査法であるダウジング(北米大陸やアンデスなどの先住民が地下水脈や鉱脈を見つけるために使ってきた)、そして東洋医学・チベット医学の「気」の三要素をもとに組み立てられたという。実際、診断治療においても、丸い球がついた揺れる竿のようなものを使う。

 私が注目するのはレゾナンス(共鳴) という言葉である。バイオレゾナンスについては門外漢なので、正面から論ずることはできないが、蠕動しながら体を動かしていると、体内の滓がほぐれ、気がゆるやかに流れるためには、やはり細胞を共鳴させてやる必要があるように思われる。その共鳴のしかたは、部署(筋肉や内臓)によっても違うし、日によっても違うようである。

新サイバー閑話(29) 令和と「新選組」③

新聞はこれでいいのか

 消費税が10%に上がった10月1日、購読紙に「消費税軽減税率の適用にあたって」と題する3段抜きの社告が出ていた。日本新聞協会と当該紙の連名になっているから、ほとんどの新聞に同じ社告が載ったと思われる。

 新聞に軽減税率が適用され、8%に据え置かれたことを「報道・言論により民主主義を支え、国民に知識・教養を広く伝える公共財としての新聞の役割が認められたと受け止めています」と書き、「この期待に応えられるよう、責務を果たしていきます」と続けているのだが、昨今の新聞のあり方をふり返るとき、ずいぶん身勝手な見解だとシラケる人も多かったのではないだろうか。

 たとえば、以下のユーチューブの動画を見てほしい。

 東京新聞の望月衣塑子記者が官邸記者会見で萩生田光一氏が文部科学大臣になった件などを追求したときの菅義偉官房長官の記者をバカにしきった、いかにも醜い表情が映し出されているのだが、こんな記者会見を許している新聞が「公共財としての役割が認められた」とよく言えたものだと思う。

 すでに日常的な会見風景になっていると思われるが、仲間の新聞記者がこんなふうにあしらわれているのを他の記者が放任していること自体が信じがたい。ひと昔前なら、だれかが「国民の代表たる新聞記者に向かって何という態度だ」と、これもいささかどうかと思う発言ながら、とにかく為政者の横暴に抗議する、あるいはたしなめるような反骨精神が発揮されたはずである。

 そのひと声、その一突きが事態をがらりと変えると思われるが、そのひと声を発しようとせず、その一突きを繰り出す勇気がない。

 新聞よ、お前はもう死んでいる。

 もはや、そういう状況なのに、政府に公共財としての役割を認めていただきありがたい、と言わんばかりに軽減税率適用を喜んでいる(ように見える)のは、まことに恥ずかしいことではないだろうか。