東山「禅密気功な日々」(29)

オンライン瞑想教室に参加

 11月下旬のある日、江戸川橋の日本禅密気功研究所本部教室で実施された瞑想教室にZoomで参加してみた。朱剛先生から招待のURLを送っていただき、9時半にはスタンバイ。教室にはかなりの人が参加していたようだが、オンラインでは私のほかにもう1人参加者があった。

 カメラアングルも教室全体がうまくおさまり、先生が坐っているときも、蠕動しているときもほぼ全体が俯瞰できるように設定され、マイクから流れる先生の音声も明瞭に聞こえた。本部教室でみんなといっしょに先生の話を聞き、蠕動したり、瞑想したりするのとは違うと思うが、それなりの臨場感もあり、個人的には久しぶりに参加した瞑想教室で得るところがあった。こんな具合に受講できるのなら3日間参加したいと思ったほどだが、あいにく前日から風邪をひいていたこともあり、1日だけの参加で終わった。

遠方に住んでいる人や外出が難しい方がオンラインで気功教室や瞑想教室に参加するのはそれなりの効果があるように思われる。先生によれば、中国からの参加者もいるという。

東山「禅密気功な日々」(28)

蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな

 俳人、芭蕉の第一の高弟とされる宝井其角の句である。蟷螂はカマキリ。カマキリはメスより小さいオスがメスの背中に乗って交尾をする。それが終わると、メスは首を後ろに向けて、当のオスの頭をガリガリと噛んで食べてしまう。私はその現場を見たことはないけれど、ネットで検索すれば、その動画やメスの背中に止まったままの頭のないオスの写真を見ることができる。

 この句は、三木成夫『胎児の世界 人類の生命記憶』(中公新書、1983)で知った。そこには「交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、実りを終えた草が葉を枯らせていく光景をだぶらせて」詠んだ句と説明されていた。「尋常に死ぬ」という表現が心にひびく。

 三木成夫はすでに30年以上前に亡くなった解剖学者で、東京大学医学部や東京医科歯科大学で研究・講義をしたあと東京芸術大学教授となった。経歴からしてユニークだが、その研究がまた独創的、かつ画期的だった。

 彼は専門である人体解剖学の研究を進める中で、人も動物も植物も、そのすべてが何十億年も前の地球上に偶然生まれた原生生物から派生したもので、進化の過程を自らの細胞の中に今もなお記憶しているとして、それを「生命記憶」と名づけた。彼によれば、私たちの細胞そのものが地球の、さらには太陽系のリズム(宇宙のリズム)を内包している。

 三木は「個体発生は系統発生を繰り返す」というエルンスト・ヘッケル(19世紀ドイツの生物学者、哲学者)の説を受け、あらゆる生物には「原形」というものがあり、それは原生類から人類まで進化してきた何億年もの「記憶」として個々の体内に蓄積されていると主張した。「巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない」、「私たちの細胞の一つ一つはちょうどモチを小さくちぎったように、小さく区切られた地球だと考えるよりないわけです」。

 太古の海に最初の原形質が生まれたのが30億年前で、そのあるものは少なくとも5億年前に脊椎動物の祖先となった。海の魚は何十万年も何百万年もかけて行われた造山活動の過程で陸に打ち上げられ、その環境の変化に適応して進化した。最大の試練が「上陸」である。水中と空中では重力が6倍になる。寒暖の変化も激しい。多くは死に絶え、あるものは海に戻り、あるものは両生類から爬虫類へ、そして哺乳類、人類へと姿を変えていく。

 だから「かれらの体内には、生まれながらにして、『宇宙リズム』が内蔵されており」、「思いきった言い方をすれば、われわれの祖先の太古の原形質は、みな地球から分かれたひとつの〝生きた衛星〟である。したがってその集合体である生物の個体もまた一個の星であり、かれらはすべて〝母なる大地〟と臍の緒で結ばれている」。彼は「この問題の指針はただひとつ、それは、卵巣とは全体が一個の『生きた天体』ではないか、ということだ。いや、この地球に生きるすべての細胞はみな天体ではないか……」とも書いている。

 その宇宙リズムは、地球が太陽を回る24時間と月が地球を回る24時間50分という2つのリズムからなる。あらゆる生物は、植物も動物も、「食の相」と「性の相」という2つのリズムで生きている。

 たとえば一年生草花は春に芽吹き、成長し(「食の相」)、秋には稔りの季節を迎え(「性の相」)、種を残し枯れていく(冒頭の写真は、どこからともなく飛んできた風媒花の種子)。サケは故郷の川で生まれて太平洋へと下り、そこで腹いっぱいの栄養を蓄える(「食の相」)。そして時至ればただ一筋に故郷の川をめざし、滝を乗り越え、産卵し受精させる。「性の相」を終えたサケは細菌に侵され白骨化して自然に還る。

 人類は文明を発達させ、自然に逆らう生き方を模索しているけれど、この宇宙リズムから逃れることはできないというのが三木の言いたかったことのように思われる。「われわれの細胞一つ一つが、生きた衛星ではないか、ということになってくるのです。星であるから命令されなくてもちゃんと太陽系の運行のリズムを知っている。‣‣‣。ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間の体のリズムと天体のリズムが調和したとき、‣‣‣、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないかと思うのです」。

・胎児は「上陸期」の苦難を追体験する

 彼はニワトリの受精卵を使って研究していた時、その卵が4日目に急に弱り、その段階で死んでしまうものも多いことに気づいた。ところがこの「苦難」に耐えた卵はまた元気になり、どんどん成長を続けた。その胎児の変化をつぶさに観察するなかで、三木はこれこそかつての「上陸期」の苦難の再現ではないかと洞察した。

 突き動かされるようにして彼は、友人が集めてくれた標本の胎児を解剖して、人の場合は、受胎32日から1週間で、何億年という時代の経過を繰り返すことを〝突き止め〟た。1億年におよぶ上陸のドラマが受胎1か月後の1週間に繰り返され、人類はえらで呼吸するフカから肺で呼吸する哺乳類へと変化するのだという。母胎につわり始まるのもこのころらしい。

 その経過は『胎児の世界』などに詳しいので、付け焼刃の紹介はこの辺でやめるが、彼はそういう研究をバックボーンにして、自然と人間のかかわりあい、そこでの植物と動物の連続と相違などユニークな考察を公表した。

 その見解は、解剖学を離れて、東洋医学(漢方や鍼灸)、老荘や仏教の思想、民俗学、伝統芸能、さまざまな呼吸法など、広く深い学識に裏打ちされている。とくに生物の「原形」に関しては、ドイツの文豪ゲーテの「形態学、Morphology(ゲーテの造語)」に多くの示唆を得ているという。

 彼は生前、『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館、1982、後に『内臓とこころ』と改題されて河出文庫として出版)と『胎児の世界』の2著しか公刊しておらず、1987年には60歳すぎで世を去った。名声は死後大いに高まり、その独創的研究をめぐって多くのシンポジウムが開かれ、遺稿集や講演録などが次々に出版された。

 冒頭に掲げたカマキリの句は『胎児の世界』以外にも、折にふれて言及されており、『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院、1992)に収録された論考の中では「この俳人の眼には、昆虫の死も、それは、草木の枯れと同様、ただ、天然自然の理に従ったまでの尋常のものとして映し出されたのであろう」と書いている。

・三木成夫の世界と禅密気功

 三木の洞察は、気功に親しむ者にとって多くの示唆を与えてくれるだろう。

 たとえば呼吸である。彼は「呼吸のリズムは‣‣‣、あの波打ち際の、ザザーと寄せて、そしてサァーと引いていく、あの波のリズムです。それこそ宇宙的なリズムではないでしょうか。お釈迦様の呼吸の教えはこのことではないかと思っております」と書き、また別の個所では「この数百万年にもおよぶ水辺の生活の中で、いつしか刻み込まれたであろう浪打のリズムが、私にはどうしても人間の呼吸のリズムに深いかかわりがあるように思えてならないのです。……。このことは心拍のリズムもまた海のうねりとは無関係でないことを教えてくれる」とも述べている。

 私たちが日々実践している呼吸法のもとは波のリズムなのである。これも三木の著作で紹介されていることだが、調和道開祖の藤田霊斎は九十九里浜の海岸で波浪息という呼吸道を体得したという。波打ち際に一人たたずむとき、寄せては返す波の音に心癒される思いをした人は多いだろう。

 禅密気功と朱剛先生の教えとの関連でも思いつくことは多い。

 本連載を単行本としてまとめた『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(サイバーリテラシー研究所)PARTⅡの<1>「古人の知恵・気・現代科学」では、「気は神羅万象、たとえば人間、人間以外の動物や植物、海や山にも流れている」と説明、朱剛先生は「気は昔の人びとの宇宙感でした。万事万物は気で組み合わさってできていて、それを分解すると気になる。気というものは眼に見えないし、耳にも聞こえないし、触れても感じない。しかし存在していると考えていました。身体も気で構成されており、身体を細かく分解すると気に返る、だから心身の健康は気と密接に繋がっていると考えました」と述べている。

 このくだりは、三木成夫が説く「宇宙リズム」と符合する。さらに先生は「意識と健康、環境と健康、食事と健康などすべては気と繋がっており、気を整えることによって、健康になるだけでなく、良い人生を送れるとも考えていました」と言っており、三木がなお存命であれば、大いに賛同してくれると思われる。

 ほかにも、たとえば蠕動のとき、「体を波のように動かす」というのは、宇宙のリズムに身をゆだねることであり、「慧中を通して無限の宇宙を見る」ことは、それに共鳴することでもあろう。

『胎児の世界』まえがきの冒頭にはこうある。「過去に向かう『遠いまなざし』というのがある。人間だけに見られる表情であろう」。また『海・呼吸・古代形象』に収められた「動物的および植物的」という論考では、動物と植物のありようを対比して述べたくだりで、ロダンの「考える人」と広隆寺の弥勒菩薩の2つの彫像を対比させ、ロダンの彫刻では、「感覚―運動」の動物相が全面に出て、人間のみに宿る「精神」の機能(「近」への志向)が表現されているが、弥勒菩薩には植物相(「遠」への志向)が全面に出ている、と分析している。「〝あたま〟を押さえるものがなく、胴体も手足も、筋肉はのびやかに、‣‣‣、微笑を浮かべた口許には、小宇宙を象るような指の輪が添えられ、‣‣‣。宇宙リズムと秘めやかに共振する植物系の、その内に深く蔵されたこころを、表わそうとしたものではないか」。

 ここは、動物相に支配された「あたま」、植物相ゆかりの「こころ(心臓)」という解剖学的図式を背景にしており、とかく「あたま」が「こころ」を支配しがちな人間に対する批判的目があるのだが、「慧中を開く」ことについて先生が「慧中が開けてはじめて、自然と『微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる』」という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます」と言っているのを思い出すと、また興味深い。

 陰陽合気法では、頭上に太陽、雲、風、月、星などすべての宇宙エネルギーを気のボールとして意識することをめざすが、もう一度、三木の言を引けば、「ひろく生物のリズムと宇宙的なリズムとは目に見えない糸で繋がってくるのではないだろうか。人間の体のリズムと天体のリズムが調和したとき、‣‣‣、これこそ生のリズムと宇宙のリズムが調和した生物としての本来のすがたではないか」ということになる。

 拙著のPARTⅠで「晩夏の三浦海岸」、「青空に浮かぶ夏雲」、「繁茂するノウゼンカズラ」の写真を使ったけれど、三木成夫の世界を知るにつれて、何気ない選択のなかにそれなりの必然性があったのではないかと思えてきたりもするのである。

 蕪村の次の2つの俳句を上げたことにも、一種の感慨を覚える。

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

 思想家の吉本隆明は『海・呼吸・古代形象』の解説で、三木成夫の仕事をカール・マルクスや折口信夫に匹敵するものと絶賛、この著者をもっと早く知ればよかったと嘆いているが、それが1992年の段階である。それから30年、ようやく私は三木成夫という碩学の存在を知った。三木成夫の存在を教えてくれた友人、T氏に深く感謝すると同時に、己の不明を恥じつつこの項を書いた(三木成夫の文の引用は『胎児の世界』、『海・呼吸・古代形象』、『内臓とこころ』のほか、『生命とリズム』=河出文庫、による)。

・野口こんにゃく体操の極意

 最後に、三木成夫の著作をいくつか読む中で知った、これも気功と大いに関係のある「野口こんにゃく体操」についてふれておこう(野口晴哉を祖とする野口整体とは別)。

 三木成夫と同じころ、東京芸術大学に野口三千三という有名な先生がおり、音楽や美術の学生の基本素養として「こんにゃく体操」として知られる「野口体操」を提唱していた。こんにゃくの名の通り、体をぐにゃぐにゃにして、重力に逆らわずにぶらりとぶら下げるように動かしたり、前後左右にゆすったりする。これも築基功の動きに通じると言えるだろう。

 「人間の潜在的に持っている可能性を最大限に発揮できる状態を準備すること」を目的としており、ウィキペディアによると、野口は体操の優秀な指導者だったが、教え子を戦地へ送ってしまった呵責の上、自身も身体の不調を来たした。舞踊の道を志すなどの試みのうちに、重力などに抵抗するための筋力を鍛えるよりも、むしろ力を抜いて身体を動きや重さに任せることが、力や素早さなどを引き出せることを発見したという。

 野口の身体イメージは「生きている人間のからだは、皮膚という伸び縮み自由な大小無数の穴が開いている袋の中に液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」というもので、東京芸術大学でたまたま居合わせた三木成夫とは肝胆相照らす仲だったらしい。

 野口体操の極意もまた禅密気功、とくに蠕動の心得として大いに参考になると思われる。

東山「禅密気功な日々」(27)

「病邪の実を瀉す」

 これまでも2度ほど東洋医学(鍼灸)の「虚実補瀉(病邪の実を瀉し、正気の虚を補う)」という言葉にふれたけれど、作家、宇野千代の『天風先生座談』(廣済堂文庫)に、中村天風がエジプトのカイロでたまたま会ったインドの行者についてネパールの山奥に行き、長年の病を治した経験が語られている。

 行者はすぐにでも病から解放される方法を教えてくれると思ったのだが、幾日たっても何の音沙汰もない。2カ月を無為に過ごし、しびれを切らした天風先生が「いつになったら教えていただけるのでしょうか」と聞くと、行者は「大きな水飲みの器に水をいっぱい入れてこい」と言った。持っていくと、今度は「湯をいっぱい持ってこい」、「その湯を器にそそげ」と言う。「そんなの無理ですよ。水も湯もこぼれるだけです」と天風がたまらず抗議したとき、行者はこう言う。

お前をつれてきた翌日からでも教えたいと思ってじっと見ていると、お前の頭の中はな、私がどんなことを言っても、そいつをみんな、こぼしちまう。さっきの水のいっぱい入っているコップと同じだ。お前の頭の中に役にも立たない屁理屈がいっぱい詰まっている以上、いくらいいことを言っても、それをお前は無条件に受け取らないだろう。受け取れないものを与える。そんな愚かなことは、俺はしないよ。

 天風が心底、納得した姿を見た行者は、「今夜から俺のところへ来い。生まれたての赤ん坊のようになってな」と言った。

・「蠕動+筋トレ」の真意

 禅修行のときなどでも同じようなことを言われるようだが、頭をカラにしておかないと、新しいものは入ってこないということである。虚実補瀉は、これが体にも言えることを示している。筋肉を発達させ、若々しく蘇生させるためには、まず長年の間にたまってしまった滓を取り除く必要がある。高齢者トレーニングは「マイナスからの出発」だと言ったのはそのことである。

 体が錆びついたままいくら重いダンベルを上げても、筋肉は相変わらずしぼんだままで、けっしてパンプアップしてくれない。逆に股間ストレッチや呼吸法などを実践している人が、筋トレをしていなくても、その肌が水々しく、また筋肉も引き締まり、若者のようにしなやであるのを見て驚いた人もいるはずである。

 気功(蠕動)で筋肉の滓をほぐし、それを体外に排出する、次いで筋肉トレーニングをする。これが「蠕動+筋トレ」の真意である。スポーツ教室に行っても、筋トレだけでなく、エアロビクスやウォーキング、ヨガ、ストレッチなどをやれば、滓ほぐしの効果があるから、それでもいいわけだが、私の経験では、毎日蠕動をやったうえで、ときどき筋トレをやれば、年老いてからもけっこう若々しい肉体を保つことができる。

 もっとも老いは日々降り積もる。滓ほぐし≧降り積もり、でないとなかなか思うようにはいかない(^o^)。

東山「禅密気功な日々」(26)

Years of Practice

How do you do that so easily?
Years of practice! But just smile and relax. Above all, you should enjoy yourself. Now you try.
I did it!
You see? I know you could.

 英会話の勉強みたいだが、そう、英会話用テキストから借用した。

先生はなぜそんなに簡単にできるのですか/いつも練習しているからだよ。笑顔でリラックスしてね。なによりも楽しみながら。君もためしてごらん?/あっ、できました!/だろう?君ならやれると思っていたよ。

 何年もの練習の成果が一瞬でできる、というのがいかにもテキスト的だが、何事も繰り返しながらの練習が大事だというのはたしかである。最初はとてもできないと思ったことが、そのうちできるようになる。若者に限らず、老年になっても同じである。

 Years of Practiceは、行住坐臥と言い換えてもいい。寝ても覚めても。ふだんの修練がすばらしい結果を生む。広島大学元学長の耳鼻科医、原田康夫さんはことし満90歳だが、なお現役のテノール歌手として、ときに「オーソレミオ」を朗誦しているらしい。声の老化を防ぐために、専門知識を生かした独自の声帯健康法を何年も、日々実践しているおかげである。

まさに

Years of Practice.
Heaven helps those who help themselves.

である。

  歳をとってからではもう遅いかというと、そうでもない。

 よく知られた話だが、ロケット開発で有名だった故糸川英夫さんは、晩年になって社交ダンスを始めたが、最初練習したとき足がほとんど上がらなかった。それで洋服ダンスの引き出しを開けて、最初は最下段に足をかけるようにした。そこまでしか上がらなかったのである。なれたところで2段目の引き出しに挑戦、それを3段、4段と続けて、最後は最上段まで届くようになったという。

・自分にかまける時間はたっぷりある

 趣味もここまでやればたいしたものだが、気功も同じである。

 そのためには、最初からきついことに挑戦しない。体をゆっくり動かしながら、体が自然にほぐれていくのを待つ。

 子はすでに独立、孫の子守からも解放された老年にとって、残された時間はそれほど長くないとしても、その時間は、ほとんど自分だけにかまけることを許される〝至福〟の時でもある(女性の場合、男性のように自由とはいかないかも……)。短い年月に残された長い時間。そのためには健康第一。のんびり練習する。そして何よりもそれを楽しむことである。

 朱剛先生によれば、展慧中の極意は、眉間を広げて心の底から微笑むことだという。Just smile and relax.

 敬老の日を前に総務省が(2021年)9月19日に発表した人口推計によると、65歳以上の高齢者は前年より22万人も増え、総人口に占める割合は29.1%と過去最高になった。これはイタリア(23.6%)、ポルトガル(23.1%)を抜く断トツの1位である。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2040年になると35.3%を占めることになる。

 国民の3分の1が老人である国はさまざまなひずみを社会にもたらすだろう(すでにそうなってもいるが……)。地球環境問題と並ぶ政治の大問題だが、私たちは有史以来初めて、そういう未踏の社会に向かっている。

 個人的な対処法としては、だからこその健康法であり、そのためにはYears of Practiceに励むのがいい。

東山「禅密気功な日々」(25)

細胞と和気あいあい

 だいぶ前だが、『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、竹内薫訳、新潮社、2009)という本が話題になった。脳卒中で左脳の活動が止まってしまった脳科学者が、左脳の回復までの過程で、むしろ右脳のすばらしい機能に目覚めていく体験を記したものである。8年の苦闘の末に咲いた幸せの記録でもある。

 左脳が壊れた彼女は、自分がこれまでとは違う穏やかな性格に変わったことに気づき、それをすごく魅力的だと思う。そして、左脳が回復する過程で右脳の素晴らしさがまた失われていくのを恐れた。彼女は、脳卒中という不慮の事故を通して、理知的で冷たい左脳とは違う、感情的で穏やかな右脳の働きを自ら体験、そのうえで脳科学者らしく、両者をバランスよくコントロール技術を身につけたわけである。

「脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。左脳が司る判断や分析といった特性が、私の人格を支配していたのです」、「脳卒中によってひらめいたこと。それは、右脳の意識の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い。右脳は世界に対して、平和、愛、喜び、そして同情をけなげに表現し続けているのです」、「回復するまでのわたしの目標は、二つの大脳半球が持っている機能の健全なバランスを見つけることだけでなく、ある瞬間において、どちらの性格に主導権を握らせるべきか、コントロールすることでした」。

 ここには左脳的な人間が、左脳的に考えながら、右脳の働きを取り入れて人生を豊かにしていこうという、いかにも西欧人的な対処法が示されているが、著者が気づいたことは、ひとことでいえば、瞑想のすばらしさだろう。「瞑想の発見」だったと言ってもいい。

 彼女は書いている。「左脳マインドを失った経験から、深い内なる安らぎは、右脳にある神経学上の回路から生じるものだと心の底から信じるようになりました。この回路はいつでも機能しており、いつでもつなげることができます。安らぎの感覚は、現在の瞬間におきる何かです。……。内なる安らぎを体験するための第一歩は、まさに『いま、ここに』いる、という気になること」、「私の意識は、自分自身を個体として感じることをやめ、流体として認知する(宇宙とひとつになったと感じる)ようになったのです」。

 瞑想の極意とは、まさに「宇宙と一つになる」感覚だろう。「いま、ここにいる」感覚は、朱剛先生が教室でよく言う「気持ちのいい感覚に意識を集中する」を思わせる。

 後半で彼女は、自分の「新しい」人生について、「脳の細胞との会話に多くの時間を費やすのに加えて、わたしはからだをつくっている50兆もの細胞という天才たちと、和気藹々とした関係を結んでいます。細胞たちが元気で完全に調和しながら働いていることに、感謝しています」とも書いている。

 この「細胞と和気あいあい」という表現がまた興味深い。これこそ蠕動の極意でもある。全身を動かす時、頭、肩、背、腕、胸、腹、股間、脚と意念を動かしながら、それぞれの細胞と和気あいあいの関係を維持する。以前書いた「気を動かす=細胞を共鳴させる」というのも同じである。

 会報『禅密気功』第111号(2021.9)で朱剛先生がたまたま「活在当下」(かつざいとうげ)という言葉について紹介し、「それは『今ここを生きる』という意味で、『今ここ』とも言います」と書いておられる。テイラーの「いま、ここに」の原語が何かわからないが、表現が一致しているのはやはり興味深い(10.3追記)。

東山「禅密気功な日々」(22) 動功編⑤

吐納気法と慧功<動功もまた瞑想の一部である>

 気功には築基功、陰陽合気法(天地部)のほかに、双雲功、吐納気法、慧功、洗心法、陰陽合気法(人部)、灌頂法、三密相応、霊至法、双至法などいろんな功法があります。中には密教系の加持祈祷のように印を結んだり、呪文を唱えたりするものもありますね。

――気功は古い歴史を持っていますが、禅密気功そのものは劉漢文先生が1980年代に、それまで家門秘伝とされてきた功法体系を公開したものです。密教系の歴史が長かったので、その文化も受けついでいます。本部道場でもそういう功法を教えています。

 すべての功法をマスターされた地点から見ると、築基功はどう位置づけられますか。

――築基功を広げていろんな功法に至るわけで、「築基功から始まって築基功に終わる」と言ってもいいでしょうね。

 太極拳と気功の違いはどういうところにありますか。

――太極拳は武術である拳法の一つです。太極拳でも気ということは言いますが、それは「気力」の気ですね。瞬発力と言ってもいい。気をゆっくり流していたんでは、試合に負けてしまいますから(^o^)。でもいま中国では太極拳(拳法)の試合はありません。型としての太極拳、健康法としての太極拳は、動きがだんだん柔らかくなってきています。もともと太極拳には気を流すという考えはなかったけれど、いまではだいぶ気功の動功に近づいてきたとも言えますね。

 今回は、上級気功士の資格を得るのに必須とされている吐納気法慧功についてのみ、その概略をお聞きします。

――吐納気法は、呼吸に合わせて外界自然の気を取り入れ、体内に流すことにより、内気と外気の自在な交流を日指す功法です。呼吸に合わせて意念を強くし、同時に気を強くします。

 外気との交流という点で、陰陽合気法との違いは何ですか。

――いい質問です(^o^)。陰陽合気法は温かいとか冷たいと感じることで気を取り入れますが、吐納気法はもっぱら呼吸にあわせて外気との交流をめざします。鼻を通して外の空気を吸い、あるいは体内の気を外に吐きます。

 なるほど違うんですね。

――大事なのは鼻、呼吸です。

 吐納気法を練習するためにも、築基功の修得は必要ですね。

――吐納気法には、気を吸うことに重きを置いた一字勢陰陽勢渾円勢などの納気法と、気を吸って吐くことを重視した排山勢立天勢などの吐気法の2通りがあります。

 樹木に向かって立ち、両手を前に伸ばし、息を吸いながら樹木の気を引っ張り、これを陰面を通して下に流したり、意念を手のひら(労宮)と足の裏(湧泉)に置き、その間で気を往復させたり、下から陽面を通して気を吸い上げ、それを労宮と中指から出したりします。
 吐納気法は武術からきて、だんだん柔らかくなった、他人を倒すのではなく、自分の体を動かす方法になってきました。

 集中コースを何度も履修しないとマスターできないですね。

――動作がたくさんあるから、覚えるまではたしかに練習が必要です。集中コースに年2回、20年以上参加している人もいますよ。

 慧功はどういうものですか。

――慧功は深い瞑想とともに、体内の気と天地宇宙の気を交流させ、調和させて心身を柔らかくし、人間が本来持っている潜在能力を啓発し、智慧を開発する功法です。慧功を練習すれば、心の奥深くから湧き出る悦びが表に表れ、精神は広く豊かになり、智慧は一層深くなります。気は体内を自在にめぐり、宇宙と連なり、宇宙の気、そして光と一体になり、自らも光となり、空になり、「空有合一」「天人合一」の境地が得られます。
 慧功を練習することにより、精神を癒し、ストレスを解消することができます。

 慧功は禅密気功の代表的功法だと聞いたことがありますが、どうでしょうか。

――一時はたしかにそう言われました。築基功、陰陽合気法、吐納気法をあわせたような練習をしますが、動きはもっと柔らかくなり、より深く瞑想します。ここまで履修すれば、禅密気功の山の5合目くらいまで来たという感じです(^o^)。

 「深い瞑想とともに、体内の気と天地宇宙の気を交流させ、調和させて心身を柔らかくし、人間が本来持っている潜在能力を啓発し、智慧を開発する功法」というのは、そういうことですね。いよいよ動功が瞑想に近づいてきた印象ですね。

・瞑想はより深く、動作はより柔らかく

――瞑想はより深く、動作はより柔らかくなります。瞑想(静功)は動いてはいけない、動功は動功というふうに分けて考えられているところがありますが、瞑想と動功は同時にも行なえます。禅密気功では瞑想の中に静功と動功があると考えているんですね。慧功はその辺をうまく合わせていると言えます。

 慧功では緩密処と展彗中の練習もしますね。

――全身の緊張を解きほぐし、心身を解き放つことが慧功の基礎で、その第一歩が「松展放収」の練習です。全身の緊張を緩めることにより、気持ちが落ち着き、呼吸が整い、気と息が調和します。
 まず密処を緩めます。密処の緊張が緩むと、それが逐次全身に波及し、血管の流れ、そして気と息の運行が円滑になります。密処を真にリラックスすることにより、全身は緩み柔らかくなり、心は調和され、心の奥底から自然に嬉しさがこみ上げてきます。
 ついで慧中を開きます(「展在慧中」)。慧中が開けてはじめて、自然と「微笑み(歓び)は心の底からとめどなく湧き上がる」という状態になれます。慧中が真に開けば、心身は改善され、悟りが開け、智慧が湧いてきます。

 なるほど。悟りですか。

――「悟り」というのは、人生に対する考えが変わるというか、人生がいい方に変わって見えることです。気持ちが落ち着いてきます。「知恵が湧いてくる」というのはこだわりや悩みがなくなり、視野が広くなることです。

 密処は「鉄の門」と言われるくらい固く、たしかに緩めるのがむつかしいですね。

――密処がほぐれるのには2つのポイントがあります。1つは尿が出そうで出ないような感覚、もう1つはあまり言わないですけれど、性欲の感じが出てきます。

 密処はいったんほぐれるとその状態がずっと維持されるのではなく、いつのまにかもとに戻ったりしますね。しかも密処が緊張していることを気づかせないのがやっかいです。密処はほぐしにくい、ほぐれてもすぐ元に戻る、密処は緊張していることを気づかせない、を私は「密処3原則」と呼んでいます(^o^)。

――人間、いい状態も悪い状態もいろいろありますからね。

 日により体調が変わる、と言うより、刻々と体調が変わることを、歳をとるにつれて敏感に感じるようになりました。だからこそいい状態をなるべく長く保つように心がけたいと思っています。漢方などは日によって、あるいはそのときの体調によって処方を変えると言いますものね。
 緩密処よりも展彗中の方が難しいように思います。慧中が開いて無限の宇宙が見えたかな、と思うこともありますが、慧中模様は曇天、頭に厚い雲が覆っているときもあります。

――ほほ笑むような感じが大事です。顔をやわらかくして、眉間を開きます。たまっていた意識が無限の空に向かって開いていくような感じですね、

 お話を聞いてあらためて思うのは、だからこそ毎日、築基功をやるのがいいのだと。私自身の体験からもみなさんにお勧めしたいと思います。

築基功教本(劉漢文編著、朱剛監修)

◇ 

 これで動功編を終わります。しばらく間をおいて、静功編をお届けする予定です。動功もまた瞑想だということはお分かりになったと思いますが、静功こそが瞑想の本丸、禅密気功の神髄ということにもなります。コメント欄や私へのメールで、ご感想や今後、先生に聞いてほしいことなどをご連絡いただければ幸甚です。

 

 

東山「禅密気功な日々」(21) 動功編④

陰陽合気法<大自然の陰と陽のエネルギーを体に取り入れる>

 鎌倉教室では、築基功のほかは陰陽合気法をもっぱら練習しています。

――陰陽合気法は、自然の陰気と陽気を取り入れて、身体の陰と陽のエネルギーを調和させる功法です。陰気とは地のエネルギー、陽気とは天のエネルギーです。宇宙のエネルギーと一体化した「天人合一」の意識にまで至れば、心身は穏やかに解きほぐされ、健康と活発な精神を得ることができます。

 陰と陽は中国思想の根本でもあるようですが、これについてまず説明してください。

――中国では常にものごとを陰と陽に分けて考えてきました。すべてのものごとには反対の意味がありますし、またその両者を統一することもできます。その考えを健康法に応用しているわけです。神秘とか幻覚とかいう非科学的なものに関連づけて説明すると、なんだかすばらしいように思えますが、かえって本質から離れてしまいます。大事なのはわかりやすく説明することです。

 体の前を陰面、背中の方を陽面と言いますね。犬などの四足動物で言うと、お腹が陰、背中が陽というのはわかる気もしますが‣‣‣。

――内側が陰、外側が陽。表が陽、裏が陰でもあります。腕でいうと、外側半分が陽、内側半分は陰ですが、細かく言うと、腕の外側3分の2ぐらいが陽です。

 陰陽合気法を練習するためには、築基功を修得しておくことが必要で、陰陽合気法の基本姿勢も「三七分力」、「三点一線」、「緩密処」、「展慧中」ですね。

――ここで陰陽合気法というのは「天地部」のことです。これとは別に「人部」がありますが、ここでは天地部について、順を追って説明します。
 最初が「築基法」です。まず、ゆるやかに嬬動します。次に、さらに深く瞑想、内視し、内に深く気を生み育て、行き渡らせます。その気は自然に外部ともつながり、内にも外にも気を配ることになります。動作は力を入れず、立ち止まらず、緩やかに、軽く、柔らかく、円くし、大小相まじって千変万化します。

 築基功の蠕動は、もっぱら体内の気を動かすが、築基法では外部との関係を重視するということでしょうか。

――そうでもありますが、自分の姿が見えるように、気をもっと感じるように、より強く瞑想します。目をつぶっても自分の姿が見えるようにします。

 瞑想の度を深めるということですね。

――「三円功」では、腹腔内に気を回して「先天の気」を育て、拡大させます。渦巻き状に円を描くように気を回します。円の描き方は「平円」「側円」「正円」の三つですが、どの円も下腹部の中心から渦を巻くように広がって、そして外周から中心に戻ります。
 「平円」を描く場合は、捻動と合わせて水平に回します。「側円」の場合は、擺動と合わせて時計方向(逆方向も可)に回します。円が大きくなったときは、上は鳩尾のあたり、下は密処を通します。さらに「正円」の場合は、蛹動と合わせて前後に回します。大きくなったときは、「側円」と同じように対処します。

 「先天の気」については以前もお聞きしましたが、「後天の気」との関係でもう一度説明してください。

――昔からいろんな言い方があります。たとえば生まれる前の気、生まれた後の気というとらえ方があります。生まれつきの気を先天の気と言ってもいいです。生後半年もたたない赤ん坊は病気もしません。そのうち食事をしたり、悩んだりして体に支障が出てくる。これを後天の気と言います。道教ではもともとの世界は「天人合一」と考えていたんですね。
 だから、こう言ってもいいです。先天の気は病気のない気、元気な気です。これに対して、社会生活の中でいらいらしたり、刺激を受けたりして乱れた気が後天の気です。この後天の気を先天の気に戻すようにするのが健康の秘訣です。

 なるほど。三円功は「腹腔内に気を回して『先天の気』を育て、拡大させる」わけですね。

――「先天の気」に戻す、と言ってもいいですね。

 もっぱらお腹を中心に気を動かすのは、どういう効果がありますか。

――丹田はへそ下三寸あたりにありますが、これは医学的に言えば小腸の部分です。気功にはいろんな流派がありますが、丹田を重視するのは共通しています。伝統的には、体に入ったエネルギーはまず丹田に集まり、そこから全身に広がっていくとされています。現代医学で言えば、食べたものは消化されてまず小腸に行く。ここで栄養分は吸収されて血液とともに全身に回ります。小腸が健康に大きな影響を与えることが明らかになっています。

 小腸が大事だということですね。

――今では小腸の働きと穏やかな気持ちは関係があるとも言われています。丹田に気を集めると落ち着いた感じが出てきます。気が頭の方に上っていると、気持ちが安定せず、落ち着きません。エネルギー吸収にもよくないですね。

 禅などでも「気を丹田に養う」とか「上虚下実」などと言いますね。

――3つの円の共通の要点は次の5点です。
 ①目を閉じて意念で気を引き連れていくよう、帯のような気の流れを見つめる。
 ②方向を変えるときにはS字状に動かして、気の流れを変える。
 ③円の大きさは身体の外に出ない。
 ④回数は、男性が3の倍数、女性が2の倍数。
 ⑤手は下腹部に重ねて行なう。男性は左手の上に右手、女性はその逆にする。

 「帯のような気の流れ」を実感することが大事ですね。ところで、男性と女性では回数や手の置き方が違うのはどういうことでしょうか。

――気になりますか(^o^)。厳密に守らなければ効果がないのかと言われると、そうでもないわけですが、ここに陰陽の考えが反映しています。女性は陰、男性は陽です。もちろん人間としては同じですが、違う面もありますね。その一つの現れですから、まあ従っておいていいでしょう。

 三円功が終わった後は、「接地陰」と「通天陽」に移るわけですね。教室などでは三円功を後でやることもありますね。

――そのときの状況や都合によって三円功を後にやることはありますが、三円功は陰陽合気法の前提を整えるものでもありますから、やはり最初にやるのがいいですね。

・温かくなったなと思えば、温かくなる

「接地陰」は、陰のエネルギーを取り入れて、体内の気の調和を図ります。「三円功」が終わり、気が下腹部に戻り、集中したところから始めます。
 ①意念で気を引き連れて、下腹部から密処、腿の内側、両足の裏側を通して、陰面に沿つてはるか深く地根にまで至ります。井戸の中の冷たい水に全身が浸るようなイメージを持ちます。
 ②次に気は地根から上り始め、両足の裏側を通して、両腿、密処、腰から陽面に沿って下腹部に戻り、再び地根に向かいます。
 ③軽く、柔軟に蝠動して、手は柔らかく気を導くようにします。
 ④意念の行くところは、手と気だけが行くのではなく、目も耳も同行します。
 「通天陽」は、陽のエネルギー(天陽)を取り入れて、体内の気の調和を図ります。「接地陰」に引き続いて、下腹部に戻った気を天根にまで到達させます。
 ①気は下腹部中心から密処を通して、陽面に沿って上に上り、天頂を通して天根に通じます。意念で気を引き連れ、手は気の流れを導きます。暖かい太陽のエネルギーを浴び、包まれるようなイメージを持ちます。
 ②次に気は天根から降りて天頂を通り、陰面に沿って下腹部、密処を通して下り、そのあと再び上に上ります。
 ③「接地陰」と同様に、軽く嬬動し、手は柔らかく気を導き、意念は気の流れを見つめます。

 接地陰では地下深くにある冷たいきれいな水を意識し、蠕動しながらそれをかき回す。また通天陽では「太陽、月、星、雲など、あらゆるエネルギーをまとめて」ボールにして、その太陽のボールを天頂で見る。そこから温かい気を引っ張ってくるわけですね。
 陰の気が上ってくるとその部分が涼しく、また陽の気が下ってくるとその部分が温かく感じると言いますが、最初はなかなかうまくいきません。その感覚は人によって違うということでしょうか。感じられない場合は効果がないのでしょうか。

――人によって違いはありますが、温かくなってきたなあと真剣に思えば温かくなります。涼しいなあと真剣に思えば涼しくなります。想像を込めて練習するわけです。

 なるほど。ここがポイントですね。意念を強くするとは、イメージを喚起しそこに集中するということですね。

昇降法」と「合気法」は応用編のようでもありますね。

――「昇降法」は身体を左右半分ずつに区分して、左右両側を通して気を昇降させます。「地―人―天―人―地」と気を循環させます。
 ①「接地陰」で気を地根にまで入れた後、地根から左足、左半身を通して引き上げ、天根にまで到達させます。
 ②次に天根から気を引っ張り、右半身、右足を通して、再び地根に入れます。これを繰り返します。
 ③柔らかく軽く嬬動し、手は気を導き、意念は気を引き連れるように気の流れを見つめます。
 「合気法」は陰気、陽気を用いて「陰陽共盛」を図り、身体の全体的調和を実現します。
 ①「昇降法」に引き続いて、地根に到達した気を両足を通して陽面に沿って引き上げ、そのまま天頂を通して天根に届けます。
 ②次いで天根の気を引っ張り、天頂を通して陰面に沿って下に降ろし、再び地根に到達させます。これを繰り返します。
 ③柔らかく軽く嬬動し、手は気を導き、意念は気を引き連れるように気の流れを見つめます。

 陰陽合気法でも、収功がありますね。

――「収法」は気を下腹部中心に戻して、手は下腹部で解脱印を結び、天地人の気を収めます。目も耳も下腹部に集中させ、見、聞きます。気の感じがまとまり、集中し、安定し、消えたら、静かに目を開けて、終わります。

 収法は築基功の収功と同じですか。

――まったく同じです。

 陰陽合気法では、地―人―天―人―地という感じで、体内の気と外気を交流させるわけですね。

――そのための功法です。さっきも言いましたが、意念の働きが大事です。感じる、感じないと言うよりも、感じるように強く意識することです。雑念が入るとなかなか集中できませんが、練習を続けるうちに雑念は少なくなり、集中できるようになります。がんばってください(^o^)。

 これは陰陽合気法の主要部分の動画です。それぞれの功法の概略を知ることができます。

東山「禅密気功な日々」(20) 動功編③

気功と好転反応<途中でやめてしまうのはもったいない>

 夜明け前に漆黒の闇が訪れるように、体調が好転する直前にかえって症状が重くなることは多くの人が経験することですが、これは一般には「好転反応」として知られています。私にも熱心に気功に取り組んでいたころ、かえって体調が悪くなった時期があります。
 蠕動のやり方がうまくなったために体内の滓が解凍し始めているのだが、そのために出た大量の邪気を放散できないために、かえって悪さをしているのではないかと思ったりもしたのですが、気功をやれば悪くなる、と言うか、休めば症状が軽くなるような経験をしました。
 しばらく気功を休んだ方がいいかもしれないと思い、実際に1週間ほどやらないこともありましたが、そのころ先生の『気功瞑想ですっきりする』の中に「気功には好転反応もあります」の一文を見つけて、救われた思いがしました。
 こう書いてありました。

 気功を練習することにより心身ともにさまざまな問題か生じてくることが考えられます。弱い体を健康な体にすることは大変です。一気に良くなるのではなく、波のように良くなったり悪くなったりしながら、階段を一段ずつ上がるように次第に改善されていきます。体調が少々悪くなっても継続し気功を信じて乗り越えることが大事です。

――良い結果がでるまでに苦しみ、痛みが先行する場合もありますね。たとえば2日間の基礎集中コースの練習の時、2日目は良い感じが次第に浮かんできますが、初日は疲れるばかりでつまらないと思うかもしれません。特にスジ、筋肉が硬くて弱い人は辛く感じることもあるでしょうし、2日目起きる時に、筋肉痛を伴うこともあるでしょう。それでも続けて2日目に練習に行くか行かないかが大事な分かれ道です。
 瞑想教室では4日間の工程をとっています。3日目までは辛くてしょうがなかったのに、4日目は見違えるように体が軽くなるという人は結構多いです。こういうところに気功を信じる心の強さが現れます。途中で止める人もいますが、残念ですね。

 何事によらず、ものごとをある程度理解できるようになるまでは時間がかかるし、それなりの練習も必要ですね。密処は股間全体で緩めなくてはならないと、言葉として理解することと、実際に体で体験して心底「腑に落ちる」のとは雲泥の差です。「これは大発見だ」と思ったことが、実は過去にすでに〝発見〟し、その後忘れていたものだったりすることはよくあります。
 修行には導師(グル)が必要だと言われるのも、このことと関係しますね。悩んでいるときに聞く「その一言」がありがたいわけです。
 好転反応についてウィキペディアには以下の説明があります。

 好転反応とは、治療の過程で一時的に起こる身体反応のこと。‣‣‣病状の改善が現れる前の一時的な悪化であり、経験上3~4日まで持続することが多い‣‣‣。
 慢性的に疲労していた筋肉がほぐれ、溜まっていた老廃物が血液中に流れることなどが要因として考えられる。だるさや眠気、ほてりなどを感じるケースが多い。‣‣‣。また、老廃物が尿として排出されるため、その色が濃くなったりする。その他にも、主訴となる症状が一過的にぶり返したかのように見える場合もある。

 他のウエブ上の記事を見てみると、好転反応というのは、鍼治療や整体などの自然治療を受けた翌日に、健康を取り戻す過程で、体にだるいなどの疲れや痛み、発熱などの症状が現れることを言う、という説明もあります。「一気に毒素や老廃物が身体中を駆け巡ることで、好転反応の症状が起きるようになります」とも書いてあり、この箇所は冒頭に述べた私の実感に近いです。
 『気功瞑想でホッとする』の「瞑想に入る前に」で書いておられる気功を始める心構えは、初心者にぜひ読んでいただきたいものです。好転反応の一字もここで見つけたわけですが、「信じることと気功」、「普段の生活と気功」のくだりはとくに、初心者向けです。ここでは「適切な教室、功法、指導者は信念を支える要素です」のくだりだけ再掲しておきます。

 いくら気功を信じて練習するといっても、 一人で練習するよりは教室に通うことで楽に長く続けられます。また、教室の雰囲気の中で練習する時と一人で練習する時とでは感覚が違います。
 功法は練習の方法であり教材です。1年生で3年生の内容を勉強しても効果がないし、3 年生になって1年生のものを勉強しても進歩はありません。
 また、教材がいかに素晴らしくても人によって理解が異なりますし、注意しないと間違った解釈になるかもしれません。ですから正しく体得している指導者が必要となります。良い指導者であれば教材の良さをすべて伝えることができます。

東山「禅密気功な日々」(19) 動功編②

基本姿勢と収功<なにはともあれリラックス>

 築基功のCDを聞いたりDVDを見たりしていただければわかりますが、最初に築基功を行うための準備態勢の説明があり、最後は「収功」にふれています。このことについてお聞きします。

――立ち方の基本は、身体全体の緊張をとり、心身ともに力が抜けて、もっともリラックスする位置を探すことです。頭のてっぺんである天頂を気の糸で吊るされているような感覚、かかとのあたりから密処(陰部と肛門の間)、天頂を通して気の柱が自分の中にあるといった感覚をつかみましょう。

 坐禅でも髪の毛で全身が吊るされている感じということを言いますね。天頂から密処にかけて気の筋が通るようにすると。

――立ち方のポイントは次のとおりです。

 ①両足を肩幅に開き、爪先を心持ち外に向けて立ち、指先は軽く開きます。体重の7割をかかとに落とし、3割を足裏の前の部分にかけます。これを三七分力といいます。
   ②両膝を曲げないようにし、硬直しないように緩めて、膝関節が自由に微動できる状態を保ちます。骨盤の関節を緩め、腰椎の生理的な前屈をなくすために、臀部を少し引っ込めます。また、両股の関節の前側を伸ばすように、少し前のほうへ出します。
   ③肩を下げ(緩め)、脇の下を少し開いて、両肘を心もち外側へ引っ張るようにします。両腕は下に垂らして、指は自然に開きます。頸椎は真っ直ぐにして、頭部は少し持ち上げ、天頂が天丼から細いヒモで吊るされているような感じにします。

 三点一線というのはどういうものですか。

――両踵を結んだ線の真ん中、密処、天頂の3点が、垂直に一直線になるように立つことです。3点を結んで気の柱があるようにイメージするのがコツです。
 密処は陰部と肛門の間、すなわち会陰のあたりのことですが、小さな点や表面の一部ではなく、下腹部全体と連なった「立体」としてイメージします。密処は気を運行させる重要な通路で、要となる場所です。リラックスさせると同時に、意識を密処に強く集中します。密処が緩めば、両腿の内側に温かい感じがして、陰部に痺れ、微かな性感を感じます。
 慧中は両眉の真ん中、少し上のところにあります。「第三の目」とも言われるところで、エネルギーの出入り口です。慧中を開くには、快い気持ちを持って意識を慧中に集中し、そこに窓を開いて光を見るようにイメージします。

 密処を緩めるのと慧中を開くのは、ともに最初はチンプンカンプンだと思いますね。ふだん私たちは密処とか慧中を意識しないし、そもそも病気の時以外は、体のことを考えることもありません。そして喉元過ぎれば熱さを忘れる、健康になれば、また忘れてしまうわけです。
 緩密処(密処を緩めること)と展彗中(慧中を開くこと)は瞑想に結びつく大事なポイントですので、後でもお聞きしますが、一般的に言って、自分の体の内部をのぞくのは大変興味深い。精神世界の広大さを感じますね。「魂の井戸に石を投げてその深さを測る」という表現を見た記憶があります。気宇壮大と言えば、こんなざれ歌もあります。

  天と地を 団子に丸めて 手にのせて ぐっと飲めども 喉にさわらず

 落語家の始祖、曽呂利新左衛門の作とも言われるようですが、真偽は知りません。
 閑話休題。
 これは本コラム冒頭に書いたことですが、専門コーステキストに「注意事項」として、「彗中を広げ、密処を緩めるとき、いずれも〝点着〟(穴を守ること)しないで、〝面顧〟(全体意識)すること。でないと、結果はよくならない」と書いてありました。密処なら股間全体、慧中なら頭全体を緩めるということですか。

・眉間を開いて、笑みをたたえた状態にする

――展彗中では、眉間にシワを寄せるのではなく、平らに広げて穏やかな気持ちで、にこやかに笑みをたたえた状態にします。心の奥底から自然にこみ上げてくる楽しさ、悦び、おおらかさ、温かさ、優しさ、慈しみなどの気持ちが、自ずと笑みとなって現れた状態です。

 要はリラックスということでしょうが、このリラックスがなかなかむつかしい。実際に慧中が開いている人は外から見てもわかりますか。

――ゆったりとほほ笑むような気持になっていれば、当然、外から見てもわかりますね。実際に、にこやかにほほ笑むような気持になることが大事です。

 築基功をするにあたっては、三七分力、三点一線、展彗中、緩密処を整えないといけないということですね。
 続いて収功についてお聞きします。

――築基功の最後は気を収める動作、「収功」です。ポイントは、周りに広がった気を身体に入れて、下腹部の中心(丹田)に収める点です。収功の順序は次のとおりです。
 ①両手を左右に開いて、周りに広がった気を抱えるようにしてゆつくりと上げていきます。このとき背骨は微動させます。
 ②肩のあたりで両手の手のひらを上に向け、そのままゆつくりと上げていって、頭の上で手のひらを合わせます。このとき頭の上で気を集め、まとめるようにイメージします。
 ③合わせた両手を上からゆっくり降ろしていきます。慧中から顔の前を通り、胸のあたりまできたら、合掌している両手の手首の部分を少し開き、指先を付けたまま下に向け、そのままお腹の前まで降ろします。
 ④お腹の部分にある帯脈に沿って両手を左右に開きます。
 ⑤次に気を丹田に収めるために、印(解脱印)を結びます。両手の指を左右交互に組み、男性は左手の人差し指が右手の人差し指の上になるようにし、女性はその逆に置きます。このとき、気は慧中から背骨を通って、丹田にどんどん流れていき、背骨を洗います。
 ⑥気は拡散したボールからだんだん凝縮されたようになり、最後に気の感じがなくなったら、ゆっくりと目を開けます.

 収功は必ず必要ですか。教室で築基功をやったときも、必ずしも毎回、収功するわけでもありませんが‣‣‣。

――収功は、結局、体を整えるということですね。朝、いきなり起きるより、少し体を動かして態勢を整えて起きたほうがいいですね。妙な姿勢で起きると、一日調子が悪かったりします。これと同じで収功は穏やかな、やわらかい気持ちで終わるようにするのがねらいです。

 CDの最後に「脊椎を観想して、気を丹田のところに集めて、漏れないように集めます」と言っています。この「漏れないように集めます」というのはどういうことを言っているのでしょうか。

――意念を丹田に集中すれば気は自然に丹田に集まります。

 気の流れを心眼で追おうとしても、最初はどうしても腹の前あたりで止まってしまい、それより下までいけないということがありました。そのうち自然に下りていくようになりましたが‣‣‣。 
 話がぐっと下世話になって申し訳ないですが、鎌倉教室であるとき先生が蠕動の指導をしながら、「これをやっていれば、腰もくびれて、すっきりした体になりますよ」とおっしゃいましたが、これは私にはずいぶん腑に落ちる話です。体を隅々まで丁寧に動かし、たまった滓をそぎ落とせば、腰が引き締まるのは当然だと思いますね。

――背骨を使って体を動かせば、全身が締まってきます。だから腰も、腹も当然締まるわけですね。背骨の運動の効果は抜群です。

 

東山「禅密気功な日々」(18)先生に聞く・動功編①

基本としての築基功<背骨で体内の気を動かす>

(写真は2009上海・蘇州合宿の一コマ、以下同じ)

 最初に動功の基本としての築基功についてお聞きします。

――築基功は禅密気功の基礎を築くための功法です。背骨(頸椎・胸椎・腰椎)を、自在に動かし、生命活動の根源である気を全身にめぐらせます。

 背骨を前後、左右に、さらには回転させ(ひねり)ながら、全身の気をかき混ぜるように動かすわけですね。蛹動(ようどう)、擺動(ばいどう)、捻動(にゅうどう)、蠕動(じゅうどう)という4つの基本動作から説明してください。

――蛹動は背骨を前後にS字状に揺らします。尾骶骨から始め、しだいに上に向けて動かします。力を入れてはいけません。軽く、柔らかく、ゆっくりと、まろやかに。脊柱を波打たせるように前後に動かします。意識を脊髄に集中し、一関節、一関節、気を関節ごとに絡め、回転させながら、仙椎、腰椎、胸椎の順に上にのぼり、頸椎の頂上まで上り詰めたら、こんどは下へ向けて一関節、一関節ずつ、ていねいに尾骨まで降ろしていきます(右図=ウィキペディアから)。

 S字状に動かすというのがむつかしいですね。ふだんあまり運動していない年長者の体はがちがちになっています。昔は腰がすっかり曲がってしまった年配のお百姓さんがいましたが、彼、あるいは彼女にとっては、曲がっている状態が自然というか、一番安定しているわけですね。しかし、それはたとえば田植えや草刈りに精出したといった生活からくる、やはりいびつな状態です。
 毎夜、接待の飲み会で疲れて、電車で眠って帰るサラリーマンは首のあたりにこぶのようなしこりが出来ていると聞いたことがありますが、これも同じですね。背筋を通して、しゃんとした姿勢に戻すのが健康の基本で、そのためには蛹動はすばらしい効果を上げてくれますね。

――背骨を動かすのが禅密気功のすぐれたところです。他の功法ではあまりそういうことは言いません。

 まっすぐ立って、背骨をS字状に動かせと言われても、なかなか思うようにいきません。私自身の経験から言っても、背骨がなめらかに動くようになるまでずいぶん時間がかかりました。背骨は関節でつながっている多くの小さな骨の集まりだから、関節がほぐれれば、金属製の鎖と同じで、ぐにゃぐにゃに動くわけだけれど、その関節がさびついている。
 だから最初はぎくしゃくしてもいい。とにかくなめらかに動かすという意識をもつことが大事です。究極的には、「揺らす」のではなく「揺れる」状態になるのがいいと言われますね。

――車の運転と同じです。初心者の場合は、ハンドル操作などぎこちないですが、慣れてくると、とくに運転しているという気持ちがなくても、自由に車を走らせることができます。気持ちと動作が一体化するわけです。運転しているという意識もあまりない。それと同じように、慣れてくると、無意識のうちに体が動きだします。

 導引動作ということを言いますね。たとえば体を前後に動かすときに、両腕を並行して前後に円を描くようにします。手の動きにあわせて体内の気を動かすわけです。だから手の動き自体、角張った感じではなく、円くなめらかにしないといけません。手の動きが円くなければ、背骨はスムーズに動いていないと考えた方がいいですね。体を沈ませたり持ち上げたりという動きとも連動していますね。

――擺動は背骨を左右に、これもS字状に、樹木が風になびくように揺らします。尾骨から始め、蛹動と同じように、極力軽やかに、柔らかく、ゆっくりと、まろやかに、脊柱を波打たせるように、左右に揺らします。意識を背骨に集中し、関節の間を縫うように、尾骶骨から頸椎まで、上に上ります。頸椎の頂上まで行ったら、こんどは下へ向かって、同じように関節ごとに、意念を縫うように降ろしていきます。

 擺動はわりとやさしいと思いますが、それでもまろやかに動かすのはむつかしい。体の左側を外に出して伸ばすときは、手は右側に開いて体全体のバランスをとる。逆の場合も同じです。とくに腰や肩を十分、伸ばしたり縮めたりするといいですね。蛹動でも同じですが、体を「く」の字型にする気持ちでやるといいと思いますが、これも角張ったくの字にならないことが大事です。

――捻動は背骨を左右にねじる動きです。まず身体を左から右にねじります。回す幅は、最初は小さく、次は中くらい、3回目に大きく回します。顔は正面を向いたまま、手と腰を同時に回します。次に右から左への回転を同じように行ないます。意念は背骨をねじるのに合わせて、背骨に絡ませるように回します。尾骶骨から始めて上にいき、頸椎の頂上まできたら、同じように下に降ろしていきます。背骨をねじる方向を右から左、左から右に変えるときには、意念をS字状に回して、気の回転する方向を変えます。

 捻動するとき、大事なのは体の外側から動かすのではなく、内側から動かす。すなわち背骨で体をひねることですね。背骨の動きにあわせて手(腕)も動きますが、手の後から背骨がついていくのではなく、背骨が先にねじれて、手がその動きについていく感じで練習するといいと思います。究極的に動いているのは背骨だということですね。

 ・蠕動は蛹動、擺動、捻動の組み合わせ

――蠕動は蛹動、擺動、捻動の3つの動きを組み合わせて、ゆっくりと自由自在に、滑らかに連続して動かします。蛹動の中に擺動があり、捻動があり、擺動の中に捻動があり、蛹動があります。また、捻動の中に蛹動があり、擺動があります。次第に全身のすべての関節、筋、筋肉も動かし、背骨で内臓も動かします。

 しばらく練習していると、蛹動、擺動、捻動という3つの動きの中でも、自分としては蛹動が一番やりやすい、いや捻動が好きだといろいろ好みが出てきますね。その違いを楽しみながら練習するのがいいと思います。
 私は蠕動が一番好きかもしれません。首、肩、胸、背、腰、腹、腕、股間、脚をそれぞれ意念とともに動かします。最初のころはどうだったのか、今ではもう覚えていませんが、途中から全身の骨や関節がボリボリ、ギシギシ音を立てるのに気づきました。首なんかすごかったですね。まるで下北半島の仏が浦か紀伊半島の橋杭岩のように大きな岩がごろごろ転がっている感じがしました(^o^)。しだいに小さくなり、岩から小石のようになっていきます。これだけの滓が体にたまっていたのだと思いますね。最初のころは音に気づかなかったのか、あるいは体全体が滓にまみれて、膠かビーフジャーキーのように固まって、音すらでなかったのか‣‣‣。
 先生のように若いころから武術に励んだり、スポーツに親しんだりしてきた人はそんなことはないのかもしれませんが、たいして運動もせず、いつの間にか歳をとってしまった人は、体がすっかりさびついているんだと思います。私は体内の気がスムーズに流れなくなって骨、関節、筋肉、内臓にたまってしまったのではないかと思い、これを「滓」と名づけています。
 体内の気をスムーズに流すだけでなく、こびりついた滓をほぐし(解凍し)、発生した気をうまく対外に放散してやれば、ある程度の若返りがはかれると考えているんですね。したがってこのインタビューでは、がたがたになった体を少しはまともなものにしたいと思っている年配の方を主な読者に想定しています。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の親鸞上人ではないけれど、だれにでも心がけ次第で救いはある、というのが僕の経験から得た知恵です。この辺は、コラム冒頭に掲載している「健康を守り、老化を遅らせ、若返りもめざす」でもふれました。

――すばらしい。とくに骨、関節、筋肉、内臓のすべてに言及しているところがいいですね。私も子どものころ腕に大きなけがをしたので、その部分がいびつに変化しているのでしょう、ギシギシすることはありますよ(^o^)。

 気功は何の準備もいりませんし、場所もほとんどとりません。毎日、ゆっくりと背骨を動かすだけで体が健康になるのですから、ぜひ皆さん、やっていただきたいと思います。最初は鎌倉教室や本部教室に通うのがいいと思いますが、練習用のCDやDVDもあります。
 百聞は一見に如かず。本コラム第15回でも紹介した先生の実践動画をここにも張り付けておきますから、コロナ禍で外出しずらいような場合は、まず動画を見ながら、見よう見まねでやってみてください。

 この動画は各功法とも前半だけですが、概略を知るには十分でしょう。先生の無駄のないなめらかな体の動きをよく見てください。無駄がないと同時に、動いていない部分がない、だからたいへん美しくもあります。