林「情報法」(58)

市場を信頼しながら所有権は制限する

 この連載で繰り返し強調してきたように、私が情報法の論議で最も懸念しているのは、有体物の法の基礎にある「所有権」の概念を、無意識のうちに情報にも適用してしまうという弊害です。この傾向は、特に経済学者の間で根強いものがあります。ところが意外や意外、「法と経済学」の論者の中でも最も「市場」重視派と思われているエリック・ポズナーの新著は、「市場は重視するが、(従来はそれと表裏一体とされてきた)所有権の呪縛から脱皮しなければならない」と説くものです。この一見矛盾するロジックは、どのようにして可能になるのでしょうか?

・Radical Markets: Uprooting Capitalism and Democracy for Just Society

 『ラディカル・マーケッツ:脱・私有財産の世紀』という邦訳書(安田洋祐・監訳、遠藤真美・訳)のタイトルは、この謎を解く上で適切な訳語だと思われます。今年の初めに東洋経済新報社から出版された同書の共著者は、「法と経済学」の始祖の1人であるリチャード・ポズナーを父に持つエリック・ポズナーと、E グレン・ワイルというマイクロソフト社の主任研究員です。書きぶりから見て、ワイルのアイディアとシミュレーションを2人で検討し、理論づけとまとめはポズナーが担当したものと思われます。

 社会主義を否定し資本主義を是とする思想の背景には、「市場と所有権は一体不可分に結びついている(はず)」という前提があります。事実、2大政党制が定着している米国では、以下のような図式が一般的な理解になっています。

 右派≒共和党の主張:所有権は市場取引の前提で、これを制限するとインセンティブを削ぐから、原則として認めるべきではない。旧ソ連が崩壊したのは、統制経済が分散型意思決定システムである市場メカニズムに負けた、象徴的出来事である。
 左派≒民主党の主張:市場が有効に機能しない「市場の失敗」に対しては、政府の介入が不可欠で、時に所有権を制限すべき場合がある。累進課税や国民皆保険、公益のための土地の強制収容などは、資本主義国でも広く認められている。

 両者の争いは、ソ連が崩壊した直後は右派の圧勝のように見えました。「すべての財を共有すべき」という共産主義の主張は、「コモンズの悲劇」(所有権が不明確だと誰もがただ乗りしようとするので、資源が浪費され枯渇してしまう)に陥るか、逆に資源が活用されずに衰退する。それが歴史的に証明されただけだ、というのです。これに対して資本主義社会では私有財産(所有権)が明確にされており、所有者が必要な管理をすれば「資産の価値を高める」インセンティブが働くので、資源投資の効率性も資源配分の効率性も担保される。このような見方からすれば、ソ連の崩壊は逆説的だが「所有権と、それに連動する市場システムや政治的な民主主義の優位性」を証明したというのです。

 さて旧ソ連の崩壊直後には、例えばアパートの国有方式を改めて市場取引を可能にしても、統制に慣れた官僚が(例えば登記の)権限を手放さないため、時間がかかったり賄賂が必要になって、「権利の存在が証明できない」まま取引するという不完全な市場しか生まれませんでした。これは「反コモンズの悲劇」と呼ばれ、「完全な排他性のある所有権」でなければ市場が機能しないことが、旧東西両陣営の共通認識になりました。

 ところが勝利したはずの資本主義においても、右派共和党と左派民主党が競っている間に所得格差が徐々に拡大して、世界一豊かな国であったはずの米国でも、グローバリズム反対の声が上がるようになってきました。また、中国経済の急成長によって、「非資本主義的市場主義」が(少なくとも短期的には)成立し得ることが実感されるようになり、「所有権」と「市場原理」が、必ずしもセットではないことが明らかになってきました。

 ポズナーとワイルの本は、まさにこのような「世界理解の揺らぎ」の時期に登場したもので、「市場原理は守りつつも所有権の絶対性は弾力的に捉える」という理解が可能かどうかを試す、思考実験だと思われます。英文タイトルのradicalやuprootは、いずれも「根源的に考え直す」ことを意図する語で、それらは必然的に「過激」な内容を含むものにならざるを得ません。

 ・繰り返し準リアルタイム・オークションが可能にしたもの

  共著者が、リスクを取っても過激な議論を展開しようとした背景には、序文で明らかにしているように、ノーベル経済学賞受賞の知らせを受けた3日後に急死したウィリアム・ヴィックリー(1914~1996)による、オークション理論への信頼があります。オークションは、希少な財貨の競売や公共工事の入札などでは古くから利用されてきましたが、ICT(情報通信技術)の驚くべき発展とともに、その応用分野を拡大しています。

 米国では、私がニューヨークに滞在した1990年代前半に、従来は「専門家による審査」(俗称「美人投票」)というプロセスで政治的に決定されていた周波数の割り当てに、オークションが導入され威力を示しました。今日では、インターネットの発展とともに中古品の売買などに広く適用され、広告市場ではリアルタイムに近いオークションが当たり前になっています(そのため、広告市場と広告による無料情報市場という「両面市場」が成立し、後者の倫理が広告市場に支配されるといった問題も生じています)。

 オークションの仕組みは、インターネット上では「繰り返し、リアルタイムに近い形」で行なうことが可能になるので、以下のようなことができるといいます(邦訳書、pp. 26~28)。① 従来は相対で取引するしかなかった私有財産を公開し広く取引の対象にできる、② 常時開設されているので頻繁に取引できる、③ 買い占めの意味がなくなり貧富の格差が縮小する、④ 取引過程が透明化され政治的介入を排除できる。

・COST(Common Ownership Self-assessed Tax)

 共著者は、オークションの仕組みを財貨の取引という伝統的市場に応用するだけでなく、選挙システムや移民労働者の市場、企業ガバナンスの市場、現在無料サービスになっているデータ取引の市場など、およそあらゆる価値の交換に利用できる(あるいは新しい市場を開設できる)はずだ、というradical な議論を展開しています。

 しかし、その基本になるのは伝統的な財貨の取引ですので、まずはそこで提案されているCOST(共同所有自己申告税)に限って、説明しましょう。監訳者の安田准教授の簡潔な要約によれば、COSTは以下のような仕組みです(邦訳 p. 419の表現を一部修正)。

①現在保有している財産の価値を自ら決める、
②その価値に対して政府が一定の税率分を課税する、
③ ①の価値より高い価格の買い手が現れた場合には、
 1)①の金額が現在の所有者に対して支払われ、
 2)その買い手に所有権が自動的に移転する。

 この仕組みに従えば、「財産を所有して他人の利用を排除する」所有権に拘ることは、趣味や希少財の世界では引き続き有効です(誰にも「これを持っているのは世界で私一人だけ」と誇りにしたい品物があるでしょう)が、財貨一般に関して所有権に拘泥することは合理的ではなくなります。なぜなら、税金を安くしようとして価値を低位に設定した人は、常にオークションで買い取られるリスクを覚悟しなければならないし、逆に見せびらかせたいだけで高値の申告をすれば、それに連動して高額の税を負担しなければならないからです。

 つまり旧来の所有権の経済的機能のうち、利用価値は生き残りますが交換価値は減退し、権利としても「所有権」ではなく「利用権」があれば良い、という状況に変化します。これまでの所有権中心の発想では、「物を持つ」ことがなければ「物を利用する」ことができないか、極めて不便な状況でした。しかしCOSTの世界では状況は改善され、「いつでも利用できる」ことを前提に権利のあり方を考え直すべきだ、と主張したいのでしょう。

 こうした主張は理論的に可能なだけでなく、一般にシェアリング・エコノミーと呼ばれているUber やAirbnb という「所有しないで利用するだけ」サービスの形で既に実現されているので、説得力があります。法律的に見れば所有権の機能は、① 自分で利用する(使用)、② 他者に利用させて収益を得る(収益)、③ 売却して換金する(処分)の3つですが、従来利用度が低かった ② の機能が、ICTの発展で重要度が増したと考えれば、当然のことともいえます。

 しかも、こうした利用形態はインターネットを前提にしているので、市場原理は後退するどころか、ますます使い勝手を広めていきます。「市場は所有権と表裏一体のはずなのに、所有権を制限しつつ市場原理は守る」という一見矛盾しそうな論理が、実は最も現実に即したものであるのは、まさにこのためです。「結論を言ってしまえば、大規模な経済を組織するアプローチとして、市場に対抗する選択肢はない」(p. 56)というのが、共著者の揺るがない理解です。

 ・所有権の排他性をゼロ・イチから解き放つ

  ただし共著者は、現在の市場は期待通りには機能していないとして、大胆な改革を求めてもいます。市場原理の良さは、「自由」「競争」「開放性」にあるのに、「富める者がますます富む」「IT市場を支配した企業が経済全体を支配する」度合いが高まったため、理想は裏切られています。それどころか、「新自由主義経済は、格差と引き換えに経済の活力が高まると約束した。結果として、格差は広がったが、活力はかえって低下している。これを『スタグネクオリティ』(stagnequality)と呼ぶ」(p.46)として、厳しく批判しています。スタグネクオリティとは、stagnation(停滞)とinflation(インフレ)の合成語である「スタグフレーション」に倣って、前者とinequality(格差)を結び付けたものです。

 上記の記述を法学的に翻訳し、私流の情報法的解釈を施せば、以下のようになるでしょう。a) 所有権は財の市場取引を可能にする機能を持つ優れた仕組みではあるが、b) 同時に所有者に「他者を排除する権利」を付与することになるので、独占を誘発しやすい欠点がある。また、c) 本来コモンズ的性質を持つ情報に所有権アナロジーで対処したところ、d) GAFA独占のような19世紀末の独占を上回る集中が起きた。結局、解決法としては、d) 所有権をアンバンドルして「他者の利用」が可能になるよう排他性を弱める必要がある、となるでしょう。

 これは、著作権に関して私の ⓓ マークやレッシグが考案したcreative commonsのように「弱い排他性」あるいは「共同利用が可能な排他性」を工夫するという発想の延長線上にあります(拙著p. 248 以下と、本連載の第49回を参照してください)。しかも、レッシグや私が考えることができなかった「所有権そのものの情報法的代替案」を提示したという意味で、画期的なものです。この提案を知ったからには、拙著の大部分を書き換えたくなるようなradical(根源的で過激)なもので、大いに刺激を受けました。

 しかし法学者として唯一の不満を言えば、邦訳書のサブ・タイトルを「脱・私有財産の世紀」ではなく、「脱・所有権の世紀」としてもらいたかったところです。しかしこれは、経済学から学問に入って、法学に回帰した私の「繰り言」にすぎないかもしれません。

林「情報法」(57)

新型ウィルスとコンピュータ・ウィルス

 新型コロナ・ウィルスによる感染症が、世界中を不安にさせています。コンピュータ・ウィルスが主原因であるサイバーセキュリティ事案は、病原体としてのウィルスのアナロジーで語られることが多いのですが、果たして両者はどこが似ていて、どこが違うのでしょうか? 今回の騒動は未だ収束していませんが、渦中にあるからこそ自覚できる事柄もあるので、今後のための備忘録としてまとめておきましょう。

・メカニズムが分からず確率論の世界になる

 今回の2019新型コロナ・ウイルス(Covid-19)は、感染力がかなり強い反面、発症率はさほど高くないといえます。しかし、検査体制が整っていない中で発生し、潜伏期間が数日から2週間程度あるので、その間に感染が拡大したと思われます。加えて、検査陽性者の80%は自覚症状のないまま、あるいは軽症のまま治癒するものの、一部はその間にも感染源となっているようです。

 更に、死亡率は現在進行形で確定できませんが、約2%~3% 程度と言われ、2002年に発生した「重症急性呼吸器症候群(SARS)」(約10%)や2012年以降発生している「中東呼吸器症候群(MERS)」(約30%)に比べると1桁下で、一般的なインフルエンザ死亡率の1%未満に近いものですから、それほど心配すべきものではなさそうです(ただし、私のような高齢者は要注意です)。

 それにもかかわらず、世界中が不安に包まれている現象は、航空輸送の発達で商用・観光を問わず人的交流が活発になった結果、中国を発生源とする病気が瞬く間に世界中に拡散するので、「他人事」とはいえないためでしょう。しかし、より根本的には、ウィルスが人の健康に及ぼす害悪のメカニズム(いったん罹患すれば抗体ができて安全なのか、免疫力が低下すれば再発するのかなど)が解明されていないためと思われます。

 そのため、簡便な検査キットや安価で保険が適用される治療薬が未開発で、「医者にかかっても治るかどうか分からない」という不確実性が不安心理を助長しているのです。「予防手段はインフルエンザ対策と変わらない」と言われても、「人から移されるのは不運と諦めよ」という確率論的状況では、不安が募るばかりです。それがマスクの不足だけでなく、トイレット・ペーパー騒ぎなど一種の「パニック」に近い状況を生み出しています。

 しかも、経済も政治も「心理」で動く要素がある以上、パニックが現実を動かしてしまう危険があります。株価の乱高下はその象徴でしょうし、外出しない・買い物をしない・イベントや旅行は回避する、といった行動が広まれば、それこそ実体経済が悪循環に陥ってしまいます。公衆衛生やリスク管理の専門家は「正しく恐れる」ことを推奨しますし、それはそれで正しいのですが、忠告通り実践するのは「言うは易く行なうは難し」の落とし穴にはまってしまいます。

・ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ

 ここで大切なことは、「不可能を強いる」ことではなく、「出来ないことは認めて将来の改善に期待する」ことではないでしょうか? リスク管理の教科書で「後知恵」(hindsight)を戒めているのは、大事な点だと思います。「後知恵」は知恵として蓄積する必要がありますが、リスクに直面している現時点では「やるべき手を尽くす」ことと、その「正確かつ客観的な記録を取る」ことに、全力を集中すべきでしょう。

 「やるべきことをすべてやる」「正確で客観的な記録を残す」を両立させることは、簡単なようでいて、意外なことにわが国ではほとんど実績がありません。そこには2つの課題があり、まず1つは、今風に言えば「インスタ映え」するか否かです。医療現場で治療に携わることは使命感に訴えるものだし、テレビで報道されるかもしれません。つまり「インスタ映え」の要素があります。これに対して現場で記録係を命ぜられたら、意気消沈するかもしれませんし、少なくともテレビ報道には向かない地味な仕事ですが、これも医療行為と同等の重要性があるのです。

 この点を敷衍すると、連載の第52回で紹介した「失敗学の失敗」という第2の課題が浮かび上がります。わが国においては、チェック・アンド・バランスの重要性に対する認識が薄く、「監査役」を「閑散役」として遊ばせています。しかし、西欧先進諸国のコーポレート・ガバナンスでは、監査役会が最高意思決定機関であるドイツ型や、取締役が執行役と分離されて監査役と変わらないアメリカ型、などが主流です。つまり、これらの国々では「業務の執行」には不正や不当事項が含まれる危険を認識し、その最小化の仕組みを組み込もうとしているのです(それでも不正・不当は無くなりませんが)。

 その際に大切なことは、何よりもまず「正確で客観的な記録を残す」ことです。そのような国々では、わが国で起きるような「記録係はやりたくない」といった風潮とは違った文化があると思われます。残念ながら、そのような文化的背景に欠けるわが国で、「失敗学」を導入しても、その証拠が集まらなかった、というのが連載52回の教えでした。

 この点は、次のように言い換えることもできそうです。インターネットが普及する過程で、標語の1つとしてbest effortが流行しました。それ以前のguarantee型ネットワークは、端から端まで(end-to-end)電話会社が接続を保証する一方で、コンピュータを接続して良いか否かなどを一方的に決めるシステムでした。インターネットはそうしたお仕着せを改めて、利用者がエンドにコンピュータを置いて、誰と接続するかも含めて自由に接続できる(同じエンド・ツー・エンドをe2eと書きます)システムに変更し、同時に接続保証もbest effortで良いとしたのです。

 しかし、ベスト・エフォートは、「保証システムではない」というだけで、それ自体から品質レベルが示されるものではありません。事実、「自律・分散・協調」を旨とするインターネットのアーキテクチャの脆弱性を突いて、次々とサイバー攻撃(ウィルスを含む)や有害情報の流布が繰り返されるようになってしまいました。そこで現在では、best effortという語は次第に使われなくなり、サイバー対策ではbest practiceという語が使われる頻度が高まっています。前者は静的ですが後者は動的な概念で、攻撃に対して良かれと思う施策をその都度実施し、その経験が有効ならマニュアルやガイドラインなどに収録して、その後の普及を図るというものです。

 新型コロナ・ウィルスに対する、一見対症療法に過ぎないと思われる施策も、このような文脈で見ると、将来に向けての経験の蓄積と評価できる面があるのではないでしょうか。そのためには、「正確で客観的な記録を残す」ことが不可欠です。

・専門特化した学問は総合し実践しないと役に立たない

 退職して「毎日が日曜日」になったので、暇に任せてテレビを見ていると、新型コロナ・ウィルスに関して専門家という肩書の人が多数登場し、興味を惹かれました。その数の多さにも驚きましたが、更にびっくりしたのは専門家の「専門」が細分化していることでした。研究者と臨床医の違いはもとより、同じ研究者でも疫学研究者とワクチン開発者の間、同じ臨床医でも呼吸器系の医師とその他の部門の医師との間、あるいは大病院の医師と診療所の医師の間、などの随所に「見えない壁」があるのを感じました。

 これは批判すべきことではなく、学問や治療体制が進歩した結果の必然で、それほど専門分化していればこそ、最先端の治療や予防が可能になっていると、ポジティブに捉えるべきでしょう。しかし、このことは逆に「専門家とは誰のことか」という疑問を生み、特に「専門家会議」に緊急対策策定のかなりの権限を委ねざるを得ない現状では、「有識者として誰を選任すべきか」がカギになることを暗示しています。私も有識者の一人として、サイバーセキュリティ戦略本部員を務めた経験から、他人事とは思えませんでした。

 今回の専門家会議の人選でも、政府はバランス論に十分配慮したことと思われますが、テレビの解説から垣間見た限りでは、上記の「見えない壁」がある種の支障になっていることは、否定できないように思われます。そして、この点は、アメリカの疾病対策センター(Center for Disease Control and prevention)のような常設機関がないと、克服できないように思われました。

 このような感慨を抱いたのは、サイバーセキュリティに特化した政府機関である内閣サイバーセキュリティセンター(NISC = National center of Incident readiness and Strategy for Cybersecurity)との長い付き合いがあるからかもしれません。わが国のサイバーセキュリティ対策は、先進諸国に比して遅れていることは否めませんが、NISCがその前身を含めて約20年間にわたってサイバーセキュリティに特化し、そこに専門は違うがセキュリティ対策という共通の目的を持った人材を結集してきた実績は、何物にも代えがたい財産(特に、内閣官房に置かれていながら、GSOC = Government Security Operation Centerという現業部門を内部に抱えていることは、実践の重要性を忘れない決め手)になっています。

 技術革新と学問の進歩に伴って、一人が決められる専門分野は次第に狭くなっていきます。それは「やむを得ない」とする一方で、タコつぼに陥らず、関連分野の専門家と広く交流を深め、総合的な判断ができる体制を整備することが如何に大切かを、新型コロナ・ウィルス事件が教えてくれたような気がしています。

・サイバーの世界も同じだが、自然現象と故意とは違う

 以上を要約すると、「メカニズムが分からず確率論の世界になる」「ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ」「専門特化した学問は総合し実践しないと役に立たない」の3点は、病原体としてのウィルス対策にも、コンピュータ・ウィルス対策にも共通の重要事項である、ということになりそうです。

 しかし、病原体としてのウィルス対策が、自然現象であり人の意思に無関係である(生物兵器としての利用は別ですが)のに対して、コンピュータ・ウィルス対策は、クラッカーという故意犯の行為に対するものである点で、大きな違いがあります。

 その限りで、刑法的・犯罪学的あるいは刑事政策的配慮が必要になるからです。前述の3つの共通項のうちでも、「ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ」をそのまま適用できず、刑事政策の視点からは「投資効果を無視してでも非違行為を抑止せよ」という強い要請が出るかもしれません。

 このように、ウィルス・アナロジーは十分に役に立つものですが、analogical = identicalではあり得ません。この連載の随所で「所有権アナロジーの限界」について述べたように、法学におけるアナロジーやメタファーには、効用と陥穽とがあります。効用はすぐにわかるのですが,陥穽の方は時として忘れやすいので、十分な注意が必要だと説く学者も多いのです。この連載の前々回(第55回)に紹介した田村さんが、松浦好治さんの『法と比喩』(1992年、弘文堂)を引きながら、その懸念を述べていることにも留意したいと思います。

林「情報法」(56)

AI時代の法≒情報法か?

 小塚荘一郎さんの新著、『AIの時代と法』(岩波新書)に関する書評を読んで、いずれ拙著との対比を試みようと思っていたところ、親しい人から「情報法の研究者を名乗るなら、すぐにも読むべし」とのメールがあったので、急いで読んでみました。多くの論点が要領よくまとめられていて、いろいろな視角から対比可能な良書ですが、今回は拙著とどこが同じで、どこが違うかを中心に紹介します。

・AI時代の法の3つの変化

 小塚さんの本は、以下の3つの主要な論点を第2章から第4章に配置し、その前後にイントロダクションや、分析とまとめの章を加えて構成されています。

  (1) モノからサービスへ(MaaS、Air B&B、スマートフォンのアプリなどが好例)
  (2) 財物からデータへ(データ中心社会、深層学習によるAIの高度化など)
  (3) 法・契約からコードへ(アーキテクチャ、Privacy-by-Designなど)

 この3つのトレンドが、現代法の変化をもたらしている原動力である点については、私も異論ありません。加えて小塚さんの本は、「新書」という制約をプラスに変えて、簡潔で読みやすい仕上がりになっています。これに対して拙著の方は、分量が多い点がむしろ弱点になっているようで、専門家向けという印象は否めません。私ももう少し「ストーリー・テラー」としての修業を積む必要があると、反省しきりです。

 両者とも、法の客体に「サービス」「情報」「データ」などが否応なく入ってくる点を認め、「有体物が中心の法を、そのまま現代社会に適用するには限界がある」との認識は共有しています。しかし問題の捉え方が違うため、私は「情報法を考えるための発想の原点」を極めるべく、法学の領域を超えて他の学問的知見も総動員して、「情報の特性」をパラダイム・シフト的に追及しています。これに対して小塚さんは、あくまでも法学に立脚しつつ「AIが活躍する時代になると法はどうなるのか」を逐次改善的(incremental)に考察している、という差が生じています。

・データの前に、プログラムの法的扱いから

 上記のような私の問題意識からすれば、「AI時代の法」の3つの変化のうち「財物からデータへ」を議論する前に、「プログラム」という最初に登場した「非有体財」を、現行法がどう扱ってきたかを見ておく必要があります。コンピュータ時代の到来と同時に、ソフトウェアあるいはプログラムという従来にない「法の客体」が登場し、1980年代前半にその扱いをめぐって激しい議論が展開されたからです。

 わが国の現行法では、プログラムは以下のように保護されています。まず著作物に対する創作者の権利の一種として、著作権法2条十の二号において「プログラム」が、保護の対象になっています。このような扱いで決着するまでには、「プログラム権法」という特別法による保護を目指す動きがありましたが、著作権法における「無方式主義」(著作権法17条2項)と権利保護期間(同53条、公表後70年=法人著作の場合)のいずれも権利者に有利であり、権利保護に熱心な米国の強い意向が反映されて著作権法が使われることになった、と言われています。

 なお、プログラムはまた、特許法2条「自然法則を利用した技術的な思想の創作のうち高度のもの」の要件を満たせば、特許として保護されます。この場合に、「物の発明」と「方法の発明」のうち、どちらになるのかという問題があります。現在の法制では、オンライン実施に関する特許法2条3項一号が、「この法律で発明について『実施』とは、次に掲げる行為をいう」として、「物(プログラム等を含む。以下同じ。)の発明にあっては、云々」と規定しているため、ソフトウェアは「物の発明」とされていることは明白です。

 保護の根拠が著作権であれ特許権であれ、いずれも「物」(著作物あるいは「物の発明」)として保護されているので、ここに所有権アナロジーの強さが反映されています(ついでながら、法的なモノには「物」「者」「もの」の3種があります)。しかし、プログラムはバグを内包しているため、他の著作物のようには「同一性保持権」を主張できないなどの例外もあります。(第20条第2項第3号)。

 また、製造物責任法に基づく瑕疵担保責任を負うこともありません。法的には、ソフトウェアは「製造物」、つまり同法2条1項にいう「製造又は加工された動産」ではないからです。新しい事象にも、当面は「物」中心の発想(民法85条は「物とは有体物をいう」とする)で対処せざるを得ないことは分かりますが、出来の悪いソフトに日々悩まされている被害者からすれば「何とかならないのか」という声も出るでしょう。もっとも、論者がソフトウェアの制作者であれば、「瑕疵を問われては、やってられない」のが正直なところかもしれません。

 残念ながら、小塚さんの本は、AIの社会的影響に注目しているので、その技術的裏付けであるプログラムの話は出てきませんが、データの扱いについての検討を深めていけば、避けて通れない課題になるものと思われます。

・データの法的扱い

 以上のように「プログラム」という、いわばシャノン的なデータについての法的扱いさえ難しいので、これよりもさらに多様な「データ」一般について、正面から取り扱っている法律(制定法)はありません。この点は、福岡真之介・松村英寿 [2019]『データの法律と契約』(商事法務)が端的に述べています。

 データに関して一般の人がまず心配するのは、自分自身に関するデータでしょうが、個人情報保護法(2条各号)は、「個人情報」(「生存する個人に関する情報であって、特定の個人を識別することができるもの」、「個人識別符号が含まれるもの」)を中心に構成され、「個人データ」は「個人情報データベース等を構成する個人情報」としてのみ登場します。本来ならまず「個人データ」を定義し、その上位概念として「個人情報」を定義すべきかと思われますが、逆の方法になっています。

 その結果同法は、個人情報取扱事業者が「開示、内容の訂正、追加又は削除、利用の停止、消去及び第三者への提供の停止を行うことのできる権限を有する」個人データは規律の対象ですが、「データ」一般を保護する法ではないことが明白です。そこで、「AI時代の法」のうちでも特に「データに関する法」を考えるなら、何らかの形でデータを分類し、それぞれにふさわしい法のあり方を分析する必要が生じますが、これに成功した文献は未だないと思われます。

 その試みの1つが、上述の福岡・松村 [2019] による、以下の9分類です(p.35 以降)。

① 一般的なデータ(②~⑨ 以外のデータ)、② 契約によって規律されるデータ、③ 不正競争防止法により保護されるデータ、④ 知的財産権の対象となるデータ、⑤ 不法行為法(民法)により保護されるデータ、⑥ パーソナルデータ、⑦ 刑法・不正アクセス禁止法により保護されるデータ、⑧ 独占禁止法により規律されるデータ、⑨ その他法律により規律されるデータ。

 この分類は役に立ちますが、ソフト・ローの存在を明示していないことと、「秘密」という分類があり得ることを失念していることなど、なお改善の余地があります。特に、「秘密」という概念は私が常に強調している点ですが、わが国では「秘密はない方が良い」という倫理観が強いためか、知らず知らずのうちに避けている傾向があります。この点は、拙著p. 56の図と、p. 88以降の説明を読んでいただけると幸いです。

・ケース・スタディに多くの示唆

 小塚さんの本で見習いたいと思った最大のポイントは、法学者らしく多くのケースを取り上げて、読者の興味を惹き付けていることです。以下がすべてではありませんが、これらを見ただけでも、「AI時代の法」が如何に新規で難しい問題を提起しているかが分かります(カッコ内は、同書の該当ページです)。

・ヤフーはオークション詐欺の責任を負うべきか?(p.62)
・装着型 GPS による犯罪捜査には、裁判所による「新しいタイプの令状」が必要か?(p.76。なお日米ともに、最高裁の判例がある)
・EU の GDPR における「データ主体」は、当該データの排他的権利を持つのか?(p.94)
・イーサリアム(Ethereum)のデータ流出対策として、互換性のない新仕様を導入して旧仕様を廃棄すること(hard-fork)は、適法か?(法的には、新仕様を遡及して適用することにならないか?)(p.144)
・アシモフの「ロボット3原則」(① 人を傷つけてはならない、② ①に反しない限り人間の命令に従わねばならない、③ ①②に反しない限り自己の存在を守らねばならない)を成文法として具体化でき、それで十分か?(p.209)
・ロボットや AI などを「電子人」(electronic person)として、「自然人」(natural person)「法人」(legal person) に次ぐ「第3の権利主体」と扱うことはできるか?(p.211)

 なお最後のテーマだけは、拙著でも同様の問題提起をしていますが、私の場合はより懐疑的で、以下のような設問になっています。

・自然人を「自立し自律できる個人」とする原則そのものが妥当か?(人は常に rational で reasonable な判断ができるか?)

・神奈川工大先進AI研究所のシンポジウム

 ここまで書き進んでいたところ、神奈川工科大学が文部科学省の「平成30年度私立大学研究ブランディング事業」に採択されて設置した、「先進AI研究所」の研究会(3月9日)で発表の機会をいただきました。次回は、その模様をお伝えすることができそうです。その際には、今回タイトルに掲げた「AI時代の法≒情報法か?」に関して、もう少し突っ込んだ説明をしたいと思っています。

林「情報法」(55)

『知財の理論』を読んで

 暮れも押し迫ったころ、田村善之さんから新著の『知財の理論』(有斐閣)を贈呈いただき、年末始の長い休みを使って、全巻を通読することができました。私が著作権の考察を足掛かりにして、「情報法」へと対象を広げてきたことはしばしば述べましたが、ここへきて「原点回帰」の機会をいただいたような気がして、感謝しています。という訳で今回は、私にとっての原点は何だったのか、を自問自答します。

・知的財産は、なぜ財産なのか?

 私は33年間という長いビジネス経験を経て、1997年に56歳にして学者に転じました。「少年老い易く、学成り難し」ですから、ピンポイントで焦点を定めなければ、学者らしい成果は出せそうにありません。そこで考えたのは、ビジネス経験の延長上に研究テーマを絞ることと、それを補う最適な学問分野を選定することでした。その結果、幸い情報産業はまだ成長の余地があり学問の対象になり得ること、コンテンツに縁が薄かった私にも、著作権を勉強すれば付加価値をつけることができそうだ、という理解に達しました。

 そこで、著作権を中心に知的財産の研究を始めたのですが、法学部出身ながら独学で経済学を学んだ私がまず違和感を持ったのは、概説書のほとんどが知的財産の定義はするものの、なぜそうなるのかを説明してくれなかったことです。これは現在でも残っている疑問で、例えば知的財産基本法2条1項の定義は、それに応えてくれません。

この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。

 このような中にあって、田村さんの『著作権法』(現在は第2版、2001年、有斐閣)は、唯一といえるほど、私と問題意識を共有するものでした。同書は、所有権と著作権の違いはもとより、「隅田川の花火を見る権利が成り立つか」、「成り立つとすれば所有権以外を根拠にできるか」といった問題設定で、知財の法的性格とその限界を描いています。要は、知的財産というものは、それがなければ「ただ乗り」が横行して創作や発明による文化や技術の発展に支障があるから、インセンティブとして政策的に付与する権利だというのです。

 このような発想は、一時代前の著作権研究者の理解(自然権論といい、人格の発露である知的生産物そのものが保護に値すると説く)とは対照的で、経済学を先に学んでおり米国在住の経験もあった私には、「しっくり」くるものでした。そのころ、偶々ローレンス・レッシグと知り合う機会があり、田村さんも私もクリエイティブ・コモンズの動きに少なからぬ貢献をし、影響も受けました。しかし法学のみを根拠に著作権を論ずる人たち(こちらの方が数も多く「主流派」と思われます)は、こうした「亜流」の発想を受け入れる気はなかったようです。

・情報法アプローチと知的財産法政策学アプローチ

 このような発想の差は、「知的財産として保護すべき情報はどこまでか」をめぐって先鋭化します。主流派からすれば、「知的財産を保護することが経済を活性化させる」と信じたいところでしょうが、経済分析の結果がそれを支持するとは限りません。そういう場合もあるでしょうが、ある情報に排他権を与えると、次の創作や発明を制約する面があるので、経済を停滞させるかもしれないからです。

 この点は、「言論の自由」を重んずる憲法論において、著作権がどのように扱われてきたかを知ると、より理解が深まるでしょう。2005年に出した拙著『情報メディア法』で私は、上記のような「著作権の二面性」を指摘しましたが、これは憲法学者にある種の刺激になったようです。長谷部恭男さんのような権威者が、その後「憲法学者も著作権を学ぶべし」と説いてくれたほどで、今日では「言論の自由と著作権の関係」は、憲法研究のサブ・テーマに昇格した(?)ように思われます。

 さて、ここまでは田村さんと私はかなり近い位置に居たのですが、その後私は「著作権をモデルに情報法を構想する」方向に進み、田村さんは「法解釈論よりも、その立法過程の歪みなどを研究する」方向を志向したので、やや疎遠になりました。田村さんは、その方法論を「知的財産法政策学」と称し、ジャーナル(『知的財産法政策学研究』)の発行等を通じて精力的に自ら論陣を張り、また多くの寄稿者に最新の研究成果発表の機会を提供したことは、わが国の知的財産研究史において特筆すべき貢献であったと言えるでしょう。

 その方法論の基礎にある考えを私流に要約すれば、「法を、妥協の産物である法文の解釈論で語るだけでは、不十分である」「法制定の過程で、権利者は団体を作ってロビーイングするので、その声は反映されやすいが、利用者は多数であるが分散しているので、その利害はまとまらず反映されにくい」「しかしインターネットが開いた道は、誰もが利用者でもあり創作者にもなれる世界なので、上記のバイアスは修正されるべきである」といった視点になると思われます。

 このような新しいアプローチには、新しい方法論が必要になりますが、田村さんは私のように苦労し挫折する(実は、私が経済学を諦めて法学に回帰したのは、トランプの出現まで預言することはできませんでしたが、経済学の「効率性第一主義」の危うさを直感的に感じたからです)ことなく、各種方法論の「良いとこ取り」を楽々と達成しているようです。つまり、もともと知的財産法学者としての研鑽と実績を基礎に、「法と経済学」とわざわざ銘打たなくても、そのエクスを十分吸収し、更には行動経済学や経済心理学の知見を自在に活用しているのは、羨ましい限りです。わが国で「法政策学」を最初に掲げた平井宜夫氏と、これを批判する星野英一氏の間で、激しい論争が繰り広げられたことが嘘のように思われます。

 米国の有名ロー・スクールでは、これらの知識が会計や金融の知識などとともに、裁判でも有用とされているようですから(ハウエル・ジャクソン他著、神田秀樹・草野耕三訳『数理法学概論』有斐閣、2014年)、当然のこととも思われますが、私自身は上述の挫折の経験から、「若い人はいいな」という羨望を拭えません。

・客体としての知財+関係的権利?

 さて全体的な評価よりも、実質的に私が今後の研究のためのヒントを得た具体的ポイントを紹介しましょう。まず田村さんが、従来から拠って立つインセンティブ論を維持しつつ、自然権論にも補足的役割を付与して両者を統合したことが印象的でした。両説の対立があまりに先鋭であったためか、田村さんは従来インセンティブ論だけを強く支持してきました。しかし本書では、インセンティブ論だけでは説明できない部分に、自然権論による説明が有効な場合があることを示しています。この点は、私も異論ありません。

 第2点は、法学における伝統的な発想は、「主体と客体」二分論でした。知的財産を「客体」とし、それに対して権利を有する者(主体)を想定し、その「権利の内容」を考えるというアプローチです。この点に関して彼は、従来から「機能的知的財産法」を志向し、「知的財産という客体がまず存在する」という発想を排除してきました。私が見る限り「権利の内容」が先に決まるべきだ、という発想に近かったと思われます。

 本書において、その発想はいよいよ洗練され、「知的財産は客体に関する権利ではなく、人々の行動の自由を制約する仕組みである」という「自由統制型知的財産法」の考えが前面に出ています。実は私も、情報法の基礎には「情報は本来自由に流通すべきものであり、それに規律を加えるのは、知的財産・秘密情報・違法(有害)情報の3つのパターンに該当する場合に限る」という着想を得て、同様の議論を展開しています(『情報法のリーガル・マインド』特に、第2章)。

 しかし私は、なおそのような「法的規律の対象としての情報」という概念から抜けきれないでいます。これは「客体論」を払拭できないことと同じです。ただし、客体の存在を認めることと、その権利内容が一意に決まることとは同義ではないとして、「主体と客体の関係性」の中に、その解を求めようとしているのですが、まだまだ模索中です。

 これに対して田村さんは、法律は文字情報による人々の行動の規律ですから、私流の「規律の手段としての情報」、特にメタファーによる影響を受けやすいとして、「知的創作物」(「物とは有体物をいう」という民法85条の規定に引きずられて、自然に有体物アナロジーになる)といった定義には、注意が必要だとしています。そうすると、本来の知的財産法は「知的創作に伴う利用行為の規律に関する法律」とすべきことになるのでしょうか? そして、そうした「純粋の行為規律」としての制定法は、「主体・客体」を中心に形成されてきた、わが国の法制の中に「座り心地良く」定着するのでしょうか?

 私は田村さんの主張に共感する点が多く、「わが意を得たり」という感触もある中で、なお検討すべき点が多いようにも感ぜざるを得ません。それは、本連載第21回「主体と客体に関する情報法の特異性」や第25回「馬の法か、サイバー法か、情報法か」で述べたような分析を続けていけば、「関係性の法」として同じ目的を達成できるのではないか、という淡い期待があるからです。私が10歳若ければ、田村さんと競い合うのですが、残念です。

 と言いつつも第3点として、田村さん自身がmuddling through(田村さんは「漸進的試行錯誤」と訳していますが、私は「難局を何とか切り抜ける」ではどうかと思っています)が不可避としていることに、学者としての良心を感じました。この分野はまだまだ「未開の荒野」であり、多くの参入者を得て開拓を進める余地があると信じています。

 なお最後に、一言だけお詫びを。実は田村さんのこの論文集は、過去に単独論文として発表済みのものをまとめたもので、多くは前述の『知的財産法政策学研究』が初出です。このジャーナルをいただいていながら、初出時に読み飛ばすか、積読したおいた怠惰をお許しください。なお田村さんご本人には、お礼とともに怠惰を直接お詫びしました。

林「情報法」(54)

A型企業とJ型企業(その2)

 前回に続いて、日本企業の特質を「現場で即応すべき情報に対して自律的権限を認める一方、人事管理を集中処理する」点に求める、故青木昌彦の理論を紹介します。これは西欧諸国特に米国に典型的な企業運営方法である「人事は分散処理だが、情報は集中処理」というタイプ(A型企業)とは違った、日本企業(J型企業)の特徴であるというのが、青木の主張ですが、それは今日でも有効でしょうか?

・NTTアメリカ社長としての私の経験

 私は1992年にNTTの100%子会社であるNTTアメリカ(ニューヨーク州法人)の社長に任命され、ニューヨーク市に赴任しました。シリコン・バレーにもオフィスがあったし、その後重要性を増したのですが、当時の最大の任務は日米貿易摩擦解消の一環として、NTTの調達を「内外無差別」にすることでした。平たく言えば、米国政府から非関税障壁などの不公正取引の嫌疑で睨まれないことだったので、政府機関のあるワシントンD.C. に近い必要があったのです。

 当時はまだバブルの余韻も残っていて日本企業の鼻息は荒く、米国企業から学ぶものは吸収し尽くしたので、米国子会社であっても経営の面で特段変わるところはないだろうと高をくくっていました。しかし着任早々、その考えは甘いことを知りました。驚きは2つに分かれます。

 1つは、社員を現地採用する際にjob descriptionがいかに大切か、しかもそれはワーカー・クラスの採用にとどまらず、将来重要なポストを任せようとするオフィサー(執行役)候補者についても必要なことを、教えられたことです。当時の日本企業は(現在でもその傾向はかなり残されていますが)、可塑性に富んだ優秀な若手を終身雇用の前提で採用し、いろいろな仕事を任せながら能力と適性を見極めていく、という人事制度を採っていました。私もそのプロセスを経る、いわゆる「本社採用組」でしたので、準幹部候補生にもjob descriptionが必要という事態に戸惑ったものです。

 もう1つの驚きは更に大きく、「米国企業は70年代の最悪期を脱し、80年代に製造業の生産性を回復させた上、新分野であるIT産業を発展させている。しかも、それをすべての産業の生産性向上に活用しつつある」という現状認識に至りました。これは「米国から学ぶべきものはない」という甘い認識を一転させるもので、何としても日本側に伝える必要があると考え、それなりの努力をしたのですが(「ITS資本主義による米国の優位」『季刊アスティオン1995 Spring』TBSブリタニカ」、「情報エコノミーに適応した新しい米国方式」『世界』1998年7月号などの論稿を参照)、力及ばず、日本経済がその後の「失われた30年」に陥落していったのは、悔やんでも悔み切れません。

 当時の米国企業の経営者は、日本に負けた製造業の生産性競争で盛り返すだけでなく、インターネットなどITの活用によってホワイトカラーの生産性で日本を引き離すことができると、直感的に信じたものと思われます。彼らにとって追い風だったのは、日本バッシングの風潮があったことに加えて、従業員を解雇するのが制度的に容易であるばかりか、それで業績が上がれば経営者には「巨額の報酬と名声」が約束されていたことかと思われます。

・90年代前半に委員会設置会社の役員に

 という訳で、日米企業の発想の違いを実感したつもりでいたのですが、1994年にNTT本社がNextelという新興企業に出資したのを機に、同社(NASDAQ上場の委員会設置会社、デラウェア法人)の8人の取締役の1人に加わったところ、日米のガバナンス構造に決定的ともいえる差があることを改めて認識させられました。当時日本には委員会設置会社はなかったと思われるので、私が稀有の体験で戸惑ったのも無理はないでしょう。

 この会社は、全米各地でタクシー無線などを運営している小規模の無線会社を買収して、全国ネットワークを構築しようというユニークな作戦を採っていました。取締役は創業者が2人、最大の出資者だったComcast(現在では全米最大のCATV会社)から2人、買収された会社の社長経験者が2人、松下通信とNTTという出資者から各1人という構成で、全員が指名・監査・報酬の3委員会のいずれかに属します。私は報酬委員になり、同社のofficerかその候補者以上に対するストック・オプションの制度を作ったことを、懐かしく思い出します(私自身にもオプションの権利があったのですが、行使しませんでした。その裏話をするとおもしろいのですが、脇道に逸れるので別途にします)。

 委員会設置会社は、わが国にも2002年の商法改正で導入され、2005年の会社法に取り込まれましたが、採用しているのは日産やソニーなど、グローバル展開を積極的に実施している企業に限られるようです。その理由は、委員会設置会社とそうでない会社の間で、取締役の役割が180度違ってくるからです。委員会設置会社の取締役は先のNextelの例にあるように、業務執行をしない者がほとんどであり、仮に監査委員にならないにしても、主たる任務は業務執行の監督ですから、旧来の日本企業の常識からすれば監査役相当になります。

 一方、わが国には世界に稀な監査役の制度があり、その機能に期待して組織を設計すれば、取締役は自ら執行業務に携わるプレイイング・マネジャーになります。もちろん、一部取締役は外部から来る「独立取締役」の場合もありますが、それは例外と考えられます。最近は欧米流のcorporate governanceが優勢とはいえ、完全な欧米型には抵抗があり、2014年に導入された監査等委員会設置会社は、両者を折衷するものとして採用が増えています。もっとも、いずれの場合も外部取締役が必要で、候補者の奪い合いが顕著なようです。

 つまり、日本企業では取締役は経営者であり、大株主のご機嫌を損ねなければ大きな裁量権を持っている。一般株主の権利は弱く、株主総会での発言の機会は少なく、経営状況に不満なら株を売るのが手っ取り早い(Hirschman [1970] “Exit, Voice, and Loyalty” Harvard Univ. Pressの軽妙な譬えによれば、voiceではなくexitが優先)。M&A(Merger & Acquisition)により会社が売買の対象になることは稀で、その場合でさえ解雇は例外とされており、労働者保護が厚いといった特徴を持っていると考えられます。

 これに対して、米国企業での取締役は監査役に近く、Principalである株主(voice型の「モノ言う株主」が大部分)に代わってAgentである経営者のパフォーマンスをチェックし、結果が芳しくなければ交代させる。また株主価値最大化のためならM&Aも考える。従って執行役を兼務する取締役は稀で、ほとんどが外部取締役で占められる。取締役の採用には、独自の外部労働市場があり、人事委員会は市場からふさわしい経営者を選任するといった具合に、前回紹介したエージェンシー理論を教科書通りに運用しているように見えました。

・A型企業とJ型企業

 このような経験をした後に帰国して学者に転じた私は、自身が慣れ親しんできた「日本的経営」とは何だったのか、それに対してNextelで得た経験は何だったのか、学問的な説明はできるのか、に関心を持ち続けていました。以前から付き合いのあった伊丹敬之の、日本的経営を「資本主義」(資本を中心に組織化される)ではなく「人本主義」(従業員を中心に組織化される)だと捉える考え方は、ユニークさに惹かれつつも日米をあまりに対比的に見る点で、得心するには至りませんでした。

 そこへ青木昌彦の業績を知り、また当の著者とも面識を得る機会があったことから、日米の企業経営の差を「A型企業とJ型企業」と類型化する考えに、深い感銘を受けました。

 青木の考えは、なお若干の「ゆらぎ」を持っていたように見えますが、『日本企業の組織と情報』で見る限り、以下のように要約することが許されるかと思います。

 ますA型企業の特徴として、以下の3点を摘出します(p.29 の記述を私流に再編集)

① 組織は明確に定義された「専門的」機能のもとに結集している
② 組織内の構成単位は、報告を受けるべき唯一の上司を持ち、2以上の構成単位間の調整は、彼らに共通の上司を経由してのみなされる、
③ すべての構成単位に対する上司である唯一の中央機関が存在する。

 これは私が経験した米国企業(A型企業)の組織上の特徴を簡潔に説明したもので、J型企業の特徴は、正反対のものと考えれば間違いないでしょう。

 その上で、こうした基本構造が企業経営にどのように反映されるかを考えるため、人材(従業員 = P)と情報(経営全体ではなく、現場レベルの意思決定 = I)という2つの経営資源の活用方法に関して、それぞれ中央集権的な管理(C)と分散的な管理(D)を想定し、どの組み合わせがA型企業とJ型企業にフィットするかを考察します。すると理論的にはCP、DPとCI、DIをどのように組み合わせても良いはずで、4通りの組み合わせがあるにもかかわらず、「西洋、とくにアメリカの事業組織(A企業)は、どちらかというと組織モードのスペクトラムのCI-DP側の方向に傾斜しており、他方、DI-CPの組合せは日本の事業組織により顕著である」(同上書p.118)というのです。

 確かに経営の意思決定とは別に、現場で起きた事故対策のようなオペレーショナルな意思決定の場合、A型企業では「必ず上司の指示を仰げ」というマニュアルに従わないと叱られる(情報の集中管理)のに対して、J型企業ではライン全体を止めるという大決断さえ現場の判断に任されているといいますから、情報管理が自律・分権的です。

 それではJ型企業で、会社全体のヒエラルキーをどう保っているかといえば、人事管理を一元化していて、どの社員にどの程度の権限を任せられるかを、社内資格を基準に標準化しているからだとされます。つまり人材を全社的に集中管理しており、これは事業部単位で採用・昇進を決めるA型企業と対照的です。

 このように青木理論は私の現場感覚にぴったりだったのですが、実は理論的にも、効率的であるのは、この組み合わせだけで、他のCI-CPとDI-DPは非効率になるというのです。つまり「組織的に有効であるためには、雇用契約は情報側面とインセンティブの側面において、双対的に分散化と集中化を結合する必要がある。この要請を満たす2つのパターンがCI-DPのA型と、DI-CPのJ型である」(p.149の第1双対原理を私流に読み替え)というのが青木理論のエッセンスです。

・青木の分析のその後

 このような理論の含意は何でしょうか? 青木とともにスタンフォード大学と縁が深かった故林敏彦が、書評で次のように述べているのは、核心をついています(『経済研究』42巻1号、1991年)。

 企業組織にとって最も重要なことは、個別要素を組織化するによって要素価値の単純和を超えるレントを生み出すことであり、その組織レントの分配は、経営者が仲介する株主と従業員との間の協力ゲームの解として、利潤と従業員福利に加重された目的関数を最大化するように行われる。こうして著者は、株主利益(株価)の最大化を目指す新古典派的企業と労働者一人当たりの付加価値を最大化する労働者自主管理企業の中間的存在として日本企業を位置づけ、企業に参加する資本の提供者、経営者、従業員の3者の間の協力ゲームの安定的均衡としてその企業行動を理解しようとする。

 これは当時の日本企業の内部分析として出色と思われましたが、その後の変化で色あせてしまったのは、残念なことです。その原因は、どこにあるのでしょうか? 著者が亡くなったため、日本企業のパフォーマンスが落ちたため、インターネットが経済のルールを変えたため、あるいはソ連の崩壊によって純粋の「資本主義」が優位に立ったため? 学問には終わりがないようです。

林「情報法」(53)

A型企業とJ型企業(その1)

 近代法において、私たち人間(自然人)が法律に定められた権利を享受する資格があるのは当然として、それ以外の有資格者(法的主体)として認められてきたのは、法人だけです。ところが自動運転車やロボット・AIなどが高度の知識を持つようになると、これらの者も主体になり得るか否かが問題になってきます。これは全く新しい議論のように思われがちですが、実は19世紀前半において法人に関する激しい論争(法人本質論)があったときも、類似の議論が交わされています。法学における議論が沈静化してからも、20世紀中葉以降の経済学において「法人とは何か」「法人のあり方に文化の違いがあるか」「どのような法人組織が効率的か」などの議論が展開されています。

 日本的企業を客観視するために、そのエキスを紹介したいのですが、1回では説明しきれないので、年をまたいで2回に分けました。後半は「お年玉」としてお待ちください。

・法学における法人本質論

 私が法学部で学んだ頃は、ドイツ流の法学が主流であったこともあって、「法人実在説」「法人擬制説」の違いについて随所で説明を受けました。前者は「法人は自然人と同様実在のもの」と考えるのに対して、後者は「法人は特に認められた場合に限り自然人に擬制することが許される」ものと考える点で対照的です。法解釈の実務でも、前者であれば法人設立の自由度と活動範囲は広く、また個人の行為か法人の行為かを比較的平等に割り振るのに対して、後者の考えに立てば法人の設立そのものが制限され、その行為の範囲も狭くなり個人の行為として扱われることが多くなります(その極限は、法人否定説になります)。

 資本主義経済の発展に伴って企業の役割が増し、また大企業の存在が無視できなくなるとともに、この概念論争ともいえる議論は次第に衰え、過去の議論になったかに見えます。事実、法の運用においても、大きな変貌がありました。かつては「法人擬制説」の見方が強く、法人格を得られない「権利能力なき社団」(同窓会やNPO的組織など)が、事務所や運転資金の借り入れで苦労する(代表者である個人名義でしか借りられない)などの苦労がありましたが、2006年の一般社団法人及び一般財団法人に関する法律の制定によって、これらの懸念はかなり緩和され、「法人実在説」に近付いたかに見えます。

 しかし従業員が企業目的を達成するために行なった行為が他者に損害を与えた場合に、それを個人の行為と見るか企業の行為と見るかは、現在でも問題になり得ます(個人の不法行為と法人の使用者責任の両方が認められているので、実行上deep pocketである企業の責任を追及する場合が多いでしょうが)。また税法の分野では、企業に対する法人税と個人に対する所得税が併存するのは妥当か、という議論があり得ます。法人税を認めることと、法人が政治資金を支出することを認める最高裁の判例とは整合的のように見えますが、法人に選挙権を認めるべきかとなると、考え込む人が多いでしょう。特許の原始的取得者は自然人ですが、会社が発明者(多くは従業員)から権利の譲渡等を受けることが多い現状をどう考えるべきでしょうか?(往々にして、見返りとしての「相当の利益」について争いが生ずることがあります)。

 このように民事法の分野では「法人実在説」に近い解釈が一般化していますが、刑事法の分野で、「法人が犯罪の行為者になり得るか」という設問をすれば、大方の学者はかなり否定的に答えるでしょう(特に、個人の行為がなく法人だけが処罰される可能性に関して)。現在頻発している組織不祥事に対する対策も、この点を考慮に入れて検討すべき時期ではないかと思います。

・法人の設立し易さ

 このような変化、特に民事法分野における変化にもかかわらず、どの国の法律が法人の設立に易しいかと言えば、少なくとも日本ではないと思われます。わが国の民法が33条において「法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない」と規定し、何らかの法的根拠を要請していること(「法人法定主義」)も影響しているかもしれません。

 この点に関して、私はこんな経験もしています。1980年代初頭にNTTの民営化に携わっていたころ、各国の動向を探ろうとAT&TやBTなどの代表的事業者の、社内経済学者と交流を始めました(どこの国でも電話料金は認可制だったので、規制当局を説得するため社内に経済学者がいたのです)。その交流はやがて国際学会の設立に至ったのですが、どの国で学会を設立するかで迷いました。

 最初は電気通信の国際機関であるITUの本部があるジュネーブが良いという意見が多く、発起人一同のサインまで集めたのですが、手続きが煩瑣なうえ、寄付に対して税控除を受けるのはほぼ不可能という情報が入りました。すると、米国の規制機関であるFCC出身の学者(彼はすでに学者専業になっていました)が、米国なら法人の設立は簡単だといって、あっという間に米国法人化し税控除も可能にしてくれました。米国では法人の設立は「結社の自由」として憲法で保障された権利なのだという感を強くしました。

 また、その10年ほど後にニューヨークに勤務することになった際、個人が好みの法人に寄付をした場合に税控除してくれる制度は、内国歳入法(IRS=Internal Revenue Act)501条 (c) (3) に規定されている有名な条項であることを知りました。時あたかも日本経済が曲がり角にあり、雇用調整が不可避になったため「転職後の年金の継続」が大問題となり、米国の年金ポータビリティ制度(勤め先が変わっても年金は継続する制度)が同法401条 (k) 項にあるため、「401 k」として有名になったころです。私はメディアへの出稿を依頼された場合、「501 (c) (3) もお忘れなく」と訴えたのですが、未だに実現していません。

 私の推測では、最大の反対者は財務省ではないかと思います。彼らの発想では、反社会的勢力を筆頭に、「税金逃れ」「節税」をしたい人はわんさといるので、501 (c) (3) をわが国に導入したら、税収が著しく減ってしまうことを恐れているのではないでしょうか。「ふるさと納税」の不適切な運用からすれば彼らの心配は分かりますが、わが国がデフレから脱却するには個人資産を流動化するしかないので、米国的「寄付文化」を移植するのが最適ではないかと思うのですが、読者の皆さんはいかがお考えでしょうか?

・法人に関する経済学の3つの見方

 ところで、経済学における法人の見方は、法学とは全く異なります。この分野の権威者でノーベル経済学賞候補ともいわれた故青木昌彦によれば、そこではエージェンシー理論、取引費用の経済学、協調ゲーム理論の3つが代表的説明だとされます(以下の記述は、最も分かりやすい『日本企業の組織と情報』東洋経済新報社、1989年、に拠っています)。

 エージェンシー理論は、法人を設立し所有するPrincipalは自ら企業を経営する時間と能力がないので、Agentとしての経営者に任せるのが一般的ですが(所有と経営の分離)、両者の利害は対立する場合が多いと見ます。そこでこの理論では、この対立を回避し如何に経営効率を上げるかを論ずるのが、経済学(特に「企業の経済学」)の役割だというのです。

 これに対して取引費用の経済学は、「個人ではなく企業が市場の主たるプレイヤーになったのはなぜか」という素朴な疑問から出発し、市場取引にはコストがかかるが、それを内部化する(例えば、職員を日々更新で雇うのではなく終身雇用とする)ことによってコストが削減されるなら、企業の方が有利になるからと答えます。もっとも、これは最初期の「取引費用の経済学」の答えで、現在では「契約の経済学」へと変質している面があります。それによれば、「企業は数多くの契約の束」という見方に近付き、「ブロック・チェーンによるスマート契約を絶えず更新し続けるのが企業の実態」だという見方になります。

 最後の協調ゲーム理論による見方とは、青木自身と彼の共同研究者がその後 CIA(Comparative Institutional Analysis)として体系化した方法論のはしりで、もし従業員が企業に特有の資産となるのであれば、企業の超過利潤の配分とそれにかかわる意思決定は、投資家と従業員の協調により決定されるのが効率的かつ組織的均衡である、という見方です。これはエージェンシー理論や取引費用の経済学が、「企業の生むレント(超過利潤)はresidual rightsとして最終的には株主に帰する」という点で一致しているのに対して、真向から反論するものです。

 ここで、2つの点に注意を喚起しておきたいと思います。まず第1点は、青木はもちろん自説である「協調ゲーム理論」を推奨しているのですが、それは先行するエージェンシー理論と、取引費用の経済学の成果をも踏まえていることです。そしてその源流が「コースの定理」で有名な R. Coaseの画期的な論文 ‘The Nature of the Firm’ (Economica, N.S. 4、1937年)にあることは、容易に推測できることです。つまり青木の理論は、米国の主流派経済学と親和性があると認められているのです。

 もう1点は、その当時における日本経済の位置づけです。「失われた30年」しか知らない不幸(?)な世代の方には想像できないでしょうが、本書を構成する英文論文は1980年代かそれ以前に執筆されたものであり、日本経済は光り輝いていました。Ezra F. Vogel の『Japan as Number One: Lessons for America』 がハーバード大学出版局から世に出たのが1979年のことですから、当然かもしれません。そのように注目されていた日本経済のことを知る米国の学者は少数派です。そこへ青木が「米国流の経済学の手法で異質とも思われる日本経済を解剖する」理論を展開したのですから、大いに注目を集めたことは容易に想像できます。

 お気づきになったかも知れませんが、先の「協調ゲーム理論」のプレイヤーとして、「企業の特有の資産となる従業員」という表現がありましたが、これが「熟練」や「終身雇用」といった日本企業の特質を連想させるのは、青木が両国の事情に明るいことを暗に示しています。さて前置きが長くなりすぎましたが、次回はいよいよ「J型企業とA型企業」の本質に迫ります。

 良いお年を。

 

林「情報法」(52)

Check‐Actの省略:日本人は「振り返らない」?

 前回の原稿で私自身も気になっている点は、「期間を限定した秘密の保護が大切だとしても、手続きが適正に定められ適正に運用されていることを、監視(モニタ‐)することはそもそも可能なのか?」という疑問です。人権侵害を防ぐには検証しておかなければならないクリティカルな質問ですが、そこにはわが国に固有の問題もありそうです。なお、この主題は、品質保証の偽装を論じた連載31回~35回と関係しますので、ご参照いただければ幸いです(なんと今年の1月~3月のことですので、年を取ると時間が早く過ぎるということを実感します)。

・Plan–Do–Check–Act ではなくPlan–Do–Plan–Do

 経営学やリスク管理などの教科書で、組織を運営しリスクを最小化するには、Plan–Do–Check–Act の手順を守ることだと説かれ、俗にPDCAサイクルと呼ばれています。初期にはCheckで止まっていたものにActが追加され、現在では更に周期が早いDODA(Direct–Observe–Decide–Act)に変えるべきだとの主張もありますが、なお有効性は失われていないと思います。

 というのも、DODAは朝鮮戦争における戦闘現場の知恵から生まれたもので、現場指揮官の意思決定には有効ですが、軍事においても全体の戦局を睨んだ意思決定は別に必要で、その基本はやはりPDCAの方がふさわしいからです。ところが、少なくともわが国の現状を見ると、PDCAではなくPDPD —-の繰り返しになっているように思えます。

 それには理由がありそうで、最大の要因は技術変化と社会変化が激しいために、Planを立てて実行している(Do)最中に、前提が変わってしまうことです。Pは全社の経営方針に従わなければなりませんから、経営環境が変わればやり直すのは当然で、その意味ではPDPD —-となるのは変化に即応した結果として、あながち否定すべきことでもないかもしれません(もっとも、官庁の人事のように2~3年のローテーションで担当が変わることでPDに戻るのは、回避すべきですが)。

 しかし同時に、見逃せない側面もあります。わが国の組織風土では、「計画を立てるのは偉い人で、実行するのは二流の人。さらに監査するのは、売り上げを稼げない人」という空気が拭えないからです。企業における「主流派」として役員を多く輩出している部門と、そうでない部門を思い浮かべていただければ、細かくご説明するまでもないでしょう。あるいは、自部門の長が監査役候補になったときに、盛大な内祝いをやるかどうか考えていただくだけで、十分かもしれません。

 ・監査軽視と「失敗学」の失敗(あるいは不成功?)

  確かに監査役という役どころ(監査委員会に属する社外取締役も同じです)は、「嬉しさも中くらい也」という微妙な位置にあります。正義感だけで直言を繰り返したのでは、すぐに煙たがられてしまい、提案を実現に近づけることができません。しかし他方で、忖度を繰り返す茶坊主になれば、何のために居るのか分からなくなってしまいます。この中間のどこかに「日本的最適解」があるのでしょうが、「正論を吐いて喜ばれた監査役」という具体例を、あまり聞いたことがありません。

 これは西欧諸国にも通用する人情かもしれませんが、外国ではその弊害を回避する手段を長年にわたって考案してきた(訴訟が多いのも、その一例でしょう)のに対して、わが国では依然としてCheckを軽視する組織運営が続いているように思えます。それは、畑村洋太郎氏が『失敗学のすすめ』(講談社、2005年)で提唱した「失敗学」が失敗した(少なくとも成功できない)理由を考えれば、直感的に理解できます。

 私たちは、起こってしまった失敗の直後には責任の追及に敏感ですが、しばらくすると次の仕事に追われて、失敗を将来の対策に生かすことには、あまり力が入らない傾向があります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺は、その弊を的確に表しています。マス・メディアの報道も、事実をベースに長期的な視点から分析して改善を促すのではなく、「経営層の責任を追及し謝罪させる」「経営層の辞任を促す」など、即興的で人目を惹きやすいトップ記事や、TV映えする映像を追及する弊があります。

 これに対して、工学者である畑村氏の提唱する失敗学は、責任追及よりもむしろ、(物理的・個人的な)直接原因と(人間工学的・組織的な)間接原因を究明し、それを今後に生かす学問のことです。そこでは、私たちが失敗に対して採るべき態度は、「失敗は許すが忘れない」という点に集約できるでしょう(この考えは、畑村さんご自身にも伝えたのですが、笑っておられただけでした)。

 この点にやや学問的な雰囲気(装飾?)を加えて、「『人間は間違える』ことを科学する」『Economic Review』(富士通総研 Vol.11 No.4、2007年)として発表したのですが、その発端は、私たち日本人が好む「水に流す」を英語では何というかと思って辞書を引いたところ、「Forgive and Forget」という熟語に行き着いたことでした。なお、論稿の表はその後一部を修正したので、最新版は以下のForgive‐Forget Matrixになります(修正点は、Never Forgive – Forgetを「論理矛盾」としていたのを改め、表にあるように「無かったことにする」と直した点と、「腹切り」に「仇討ち」を加えた点です)。

・「許すが忘れない」ことの難しさ

 この表の「許して忘れる」である「水に流す」と、「許さず忘れない」である「腹切り・仇討ち」とは、寛容主義と厳罰主義の代表例で、われわれ日本人はどうやら、どちらかの極端に走りがちなようです。「二者択一」の弊害について本連載で何回も強調しましたが、ここにもその傾向が読み取れます。日本人は、一般的には争いを好まない「穏やかな性格」の持ち主が多いと思われていますが、どこかに過激さを隠しているのかもしれません。そういえば、年末になると必ず「忠臣蔵」が演じられるのは、復讐心を潜めていることになるのでしょうか。

 しかしここでは、「無かったことにする」というパターンがあることに、より注目してください。セキュリティの面から言えば、これこそ最悪の対応で、責任がどこにあるかが不明確になるだけでなく、その後の改善策の立てようもありません。元の資料がなければ、監査のしようもありません。昨今生じた不祥事の多くが、この分類に属していることだけを見ても、このマトリクスの有効性が分かると思います。

 その対極にある「失敗学」、つまり「許すが忘れない」態度こそ、リスクやセキュリティに対応する人々の基本的規範となるべきですが、残念ながらそうなっていないのが現状です。人種や言語、宗教などで多様性に乏しいわが国では、「阿吽の呼吸」で分かりあってきたというのが背景にあるのかもしれませんが、グローバル化の時代に、それを続けることができないことは自明でしょう。

・情報のトリセツの可視化とCheck機能の強化

  今後の方向性を単純化して言えば、業務の取り扱い説明書(昨今ではトリセツという略語も使われるようです)を明確にして、「誰がやっても同じ結果が生まれるようにする」ことが、失敗を最小化する道であると認識することが第一歩かと思います。そのためには、業務をシステム的に理解して文書とフロー・チャートにするとともに、PDのプロセスと同等かそれ以上に、CAのプロセスを重視する必要があります。近未来の企業では、社長経験者が監査役をやっているという姿を想定すべきかもしれません。

 このことは、情報セキュリティの研究を15年も続けてきた私の、「セキュリティには病理学に加えて生理学が必要だ」という実感と符合しています。セキュリティは優れて実践ですから、インシデント(事故)を減らし抑制することに注力すべきは当然です。しかし、技術が激しい勢いで変化する時代に、事後対応だけに頼っていたのでは常に「後追い」になってしまいます。そこで、チェック機能を生かして「事故の背後にある原因」を追及し、防御の理論を構築しなければなりません。つまり「セキュリティの生理学」が必要なのです。

 Check–Actをおろそかにしていると、長期的には自分に跳ね返ってくることを、しかと認識すべきでしょう。しかし、南スーダンの日報問題、森友・加計学園問題における公文書の扱い、桜を見る会の事務処理などを見る限り、この道は遠くて険しいと思わざるを得ません。

林「情報法」(51)

GSOMIAの情報法的意味

 第48回で紹介したGSOMIA破棄問題は23日の期限切れを目前にして、韓国政府が「破棄通知の効力を停止する」という玉虫色の暫定決着となりました。態度急変の最大の要因は米国の圧力といわれ、韓国自身の考え方が変わったわけではないようですので、今後も火種を抱えたまま推移するものと思われます。そこで今回は政治的な側面とは離れ、この問題を情報法の観点からみるとどうなるかを、まとめておきましょう。

・国内の秘密保護法制の整備が前提

 GSOMIAの重要性を理解するには、協定が定める手続き的な面を知らなければなりません。GSOMIAは国家間における機密情報の共有を定めるものですが、その前提にはそれぞれの国内において、国家機密が十分に保護されていなければなりません。日ごろ議論に上ることが少ない(マス・メディアもあまり取り上げない)特定秘密保護法の仕組みが、GSOMIAの前提です。

 どこの国にも国家機密の保護法があり、それが政府調達などの官民関係などを媒介にして民間にも準用されていくので、秘密保護法制の基本形になっています。ところがわが国では、長い間国家機密を守る法律が無く、民間に適用される営業秘密保護法制(法律としては不正競争防止法)の枠組みが、官庁にも準用されるといった「逆転現象」が起きていました。この倒立した関係を正常化した点に、特定秘密保護法の意義があります。

 しかし法律制定後も,その意義に関する国民一般の理解は極めて遅れています。平和憲法の下で「有事」に備えることを回避する傾向があるのが最大の原因ですが、同時にわが国の企業風土が人的関係を重視し,手続きを通じてシステム化を進めることに気乗り薄なことも深く関係しています。その象徴的な例が「マニュアル」を評価しないことで、デジタルネイティブの若者の間では,西欧的なマニュアル文化に対する抵抗は少ないのですが,世代が上に進むに連れて,「経験と勘」に偏りがちです。

 有体物が中心の時代、あるいは製造業が中心の時代にはそれで良かったかもしれませんが、インターネットのような情報システムがインフラになった現代では、手続きを重視し「誰がやっても同じ結果が得られる」ように、システム化することが不可欠と思われます。

 そこで準拠すべき規範は何かというと、やはり軍事情報やインテリジェンス情報を管理する基準に勝るものはないと思われます。GSOMIAは、両当事国が同レベルの秘密保護法制を有していることを前提に、国家間の情報共有を律する仕組みですから、情報管理の国際モデルともいえるものです。

・秘密管理の7原則

 そこでは,a) 取り扱う情報に軽重を付ける(classification)、b) 取り扱う人の資格を審査する(security clearance)、c) この両者の組みあわせでNeed-to-Knowがない限り当該情報へのアクセスを許さない、d) 情報の窃用・漏示を厳しく罰する、e) 秘密の取り扱いは期間を限定し必要がなくなれば直ちに指定解除する、f) 濫用を防止する内部統制の仕組みを整える、g) 外部に独立した監視機関を設置する、の7つの手順が定められています。( GSOMIA では相手国の主権を尊重するので、これらの原則が明文で規定されていなくても、暗黙の前提となっていると言ってよいでしょう。)

 ここで a) では,取り扱う情報を top secret,secret,confidential,unclassifiedに分けるのが一般的です。しかし米国では、unclassifiedの再分類が100種類近くになったので、新たにCUI(Controlled Unclassified Information)として再整理しつつあります。b) は一種の資格審査で、米国では資格取得者が再就職で有利になるなど、一種の合法的discriminationではないかとさえ言われています。

 a) b) において参考になるのは、やはり米国の実例です。連邦政府の情報管理体制を整備する法律(FISMA = Federal Information Security Management Act of 2002)を作り、CISO(Chief Information Security Officer)を必須ポストとするほか、自らに「情報行動規範」を課し、同時に政府調達等を通じて民間にもそれに沿った運用を求めます(Office of Management and Budget所管)。そして、NIST(National Institute of Standards and Technology)がSP(Special Publication)シリーズによって、具体的な手続きをマニュアル化する、といった形で情報管理を手続面から枠にはめています。

 c) は、これらの背後にある大原則ですが、これを強調しすぎると情報の共有が進まないため、Need-to-Shareとのバランスが必要だとの議論を呼んでいます。また d) 守秘義務違反に対しては厳罰を科しますが、e) 秘密の指定期間が過ぎれば速やかに指定解除する、ことが定められています。f) は内部統制、g) は外部統制の仕組みで煩瑣のように見えますが、秘密を管理するには、それ相応の体制が不可欠と理解してください。

 上記の7原則は,特定秘密保護法の制定によって,わが国でもやっと法的に認められるようになりましたが,まだまだ世間に広く知られていません。そこで、わが国の民間企業は、準拠すべき手順として、ISO(International Organization for Standardization)が定めたISMS(Information Security Management System)や、米国NISTが推奨するSecurity Frameworkなど国際的なものや、わが国の内閣サイバーセキュリティセンターが定めた「政府機関等の情報セキュリティ対策のための統一基準(平成30年度版)」などを参考にし、あるいは準用しているのが現状です。

・秘密保護法制は「信頼」の制度化

 ここで大事な点は、このような仕組みは「一定期間に限り情報の流通範囲を制限する」ことが主眼であるため、「情報の扱いを面倒にして流通量を減らす」面があると同時に、「正当な手続きを経た扱いは責任を免れる」という効果をも有することです。情報は複製によってたやすく流通するので漏えいしがちなものですが、仮に流出が生じてもこの手順を守っていることを証明できれば責任を問われることはありません(故意犯の場合は別ですが)。つまり手順やマニュアルは、「信頼される当事者のみが情報を利用できる」ことを制度化し、その関係者間での共有を促進しているということもできます。

 しかし、このような理屈が、わが国の一部の人には理解してもらえないことも事実です。わが国には欧米並みのインテリジェンス機関がないため、それに関するリテラシーが欠けているからと思われます。マス・メディアなどでは 権力の恣意的運用による危険性を指摘していますが、その懸念自体はもっともです。しかし、それは本筋の理論ではない(危険性はないとは言えないが、運用をチェックするしかない)ということでしょう。

 例えば外交秘密のように「一定時期(例えば、交渉中)に限り秘密にし、できるだけ早期に公開する」という性格を持った情報が存在することは、認めるしかないでしょうし、企業にも同種の情報はたくさんあります。これは組織を運営したことがある人なら、当然知っていることかと思います。それを認めた上で、その管理をどうすべきかを議論しているのに、「存在そのものがけしからん」というのでは、話になりません。

 もっとも、公文書の破棄や改ざんなどが相次いでいる現状では、「信頼を制度化したら、その制度が悪用される」という疑念が生ずるのは、やむを得ないところでしょう。しかし、それを正す責任は有権者自身にありますし、「一定期間は秘密にするしかない」情報が存在することを前提に、「どのような手順や仕組みを設ければ濫用を最小化できるか」という面から、具体的に手続き論を進めるのが妥当だと思います。先の7原則の中で、f) 内部統制と g) 外部監視機関によるダブル・チェックの必要性を強調したのも、このような理解からです。

 私の立場は一見「政権寄り」ですが、その実「秘密の管理を徹底することで、秘密保持者の負担(責任)を加重する(原則 d)」や「秘匿の必要性がなくなったら可及的速やかに指定解除する(同 e)」ことを同時に主張しているので、その実「最も強硬な人権派」と理解していただければ幸いです。

・信頼がなければ協定があっても無意味

 さて、このような分析を踏まえて改めてGSOMIA問題を眺めてみると、最も大切な点は「日韓両国の間に信頼関係はあるのか」という疑問に収斂すると思わざるを得ません。「協定は信頼を制度化する」ものですが、「信頼そのものを生み出すことはできない」からです。手続きはあくまで手続きに過ぎず、実体として信頼関係がないところで協定を作っても「仏作って魂入れず」に終わるでしょう。

 その意味では、GSOMIAを議論することは、「将来の日韓関係をどうするのか」という大問題の1つのトピックに過ぎないと考えるべきでしょう。情報法においても同様に、「手続法がより重要」になるのは事実としても、「実体のない手続きは無意味」ということを暗示しているように思えます。

林「情報法」(50)

漫画村事件に見るインターネットの曲がり角

 前回は、いわゆる「漫画村事件」をめぐる諸問題のうち、違法著作物のサイト・ブロッキングや「通信の秘密」に関連するテーマを中心に報告しました。それは、学術会議のシンポジウムが、そのような問題意識の下で行なわれたからです。しかし本問題が示唆する論点には、インターネットの基本理念に再考を促すような、大きな問題提起が含まれています。

・権利者や管理団体の立場と、意見の分断

 まずは、著作権に関しての補足です。学術会議のシンポジウムの出席者は「著作物の利用者」側に立つ人が多く、何らかの事情で「審議会やロビーイング勢力の多数派を占める『著作権を所有権に準じて考える派』の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示する」と述べました。このような参加者の偏りのため、私が期待していた「立場を超えた公開討論」とは程遠いものになってしまいました。

 そこで、権利者や著作権管理団体の立場を聞きたいと思っていたところ、情報通信学会の研究会の1つで、そのような機会がありました。報告者はJASRAC(日本音楽著作権協会)の外部理事を経験されている玉井克哉教授(東大先端研)で、TPP(Trans Pacific Partnership)協定への高い評価や、著作権管理団体の役割への期待など、学術会議のシンポジウムでは聞けなかった視点を提供してもらい、大いに参考になりました。

 しかし、不思議な発見もしました。シンポジウムに出た田村教授(東大法学政治学研究科)が強調した「tolerated use」(寛容的利用)を、玉井教授も現在の著作権制度は「権利主張を控える目こぼしが前提」になっているとして、是認しているように見えたからです。また私がシンポジウムで強調した、「著作物は占有できない」ことにも、両者とも異論がないようでした。ところが、政策として何が必要かとなると180度意見を異にするように見えたことは、私の理解を超えていました。

 どこかで「ボタンの掛け違い」があったものと思われますが、今や著作権実務の世界と著作権法学の世界は共に、「権利重視派」と「自由利用派」に分断されたかの感があるのは、残念なことです。しかも、その分断が「インターネットは無法地帯」という誤解を生みだしかねないのは、さらに困ったことです。ごく最近も、インターネットの世界では著名なエンジニアから「著作権をめぐる混乱が、インターネットの信頼性そのものへの懐疑を生んでいる」という強い懸念の声を聞きました。

・インターネットの「自律・分散・協調」の限界と、代替案の不在

 このような事態になったのは、インターネットの側にも問題があります。初期のインターネットは「自律・分散・協調」の理想を掲げ、それを原理主義的に推進してきた感がありました。John Perry Barlow (Electronic Frontier Foundation の共同設立者)が起草し、インターネット商用化直後の1996年に発表された「サイバースペース独立宣言」は、「国家はインターネットの領域に入るべからず」と、「治外法権」を高らかに宣言するものでした(https://www.eff.org/cyberspace-independence)。

 こうした「インターネット原理主義」に近い主張は、翌1997年の「通信品位法」により(一部は憲法違反で効力を停止されましたが)、インターネットに流れる情報に関しても、伝統的な言論に関する法が適用されることを確認したことによって、否定されました。その翌年1998年の「デジタル・ミレニアム著作権法」は、ISP(Internet Service Provider)に、違法コンテンツのnotice-and takedown を義務化しました。これはISPがコモン・キャリアであっても、「違法情報を認識しつつ放置する」ことは許さないとするものでした。これらの法定化によって「サイバースペースの自由領域」は次第に制限され、逆に「インターネットは特別な領域ではなく、従来の法律が適用される」という理解が広まっていきました。

 しかし国内法においても、インターネットのガバナンスや、そこで運ばれる情報の扱いに関して、何らかの規律を定めるという試みは、なかなか進みませんでした。その原因としては、市場原理を取る国々では規制は一般的に忌避される傾向にあること(と、次節で説明する産業融合という現象)に加えて、以下のような国際分野における特殊事情が働いていたからと思われます。

 それは、『グローバリゼーション・パラドクス』(白水社、2014年)の著者であるロドリックの「トリレンマ(三方一両得ではなく、三者鼎立は不可能)」という概念です。邦訳者の1人である柴山教授によれば、その考え方は以下のように要約されます(訳者あとがき)。

「本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。(中略)市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、統治の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済が抱える最大の『逆説』がある、というのが著者の問題意識である。

 グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の 3 つのうち 2 つしか取ることができない、という本書の『トリレンマ』に従うなら、今後の世界には 3 つの道がある。①グローバリゼーションと国家主権を取って民主主義を犠牲にするか、②グローバリゼーションと民主主義を取って国家主権を捨て去るか、③あるいは国家主権と民主主義を取ってグローバリゼーションに制約を加えるか、である。」

 その結果、「インターネットは民主主義と同義に近く、国家主権よりも優先する価値がある」と考える西欧先進国は ③ を取り、「国家主権あってのインターネット」と考える中国・ロシア等の国々は ① を取るため、インターネットに関する国際秩序の形成がほぼ不可能になっているのです。

・メディア産業のPBC分類の限界と、融合法制の難しさ

 米国を代表とするインターネット先進国で、規制よりも自由を好む気風がなくならなかったのは、資本主義を信奉する国家間では当然であり、良かったといえるかもしれません。しかし、そのことが漫画村事件など、これまでの産業分類でいえば「新聞・放送・通信」の3分野にまたがるサービスが出てくると、「より規制が緩いルール」を適用せざるを得ない(つまり無法地帯になりかねない)という欠点につながっていきます。

 それは、「新聞・出版(Press)」「放送(Broadcasting)」「通信(Communications)」の3つのメディアが、産業秩序の基本がそれぞれ違っていることで垣根を作っていたのに、インターネットによる産業融合で次第に境目がなくなりつつあるという歴史を反映するものだからです。この三者の規律を、経済的規制(参入・退出や、料金規制などconduitに関する規制。以下 Cdと略記)と社会的規制(contentに関する規制。以下Ctと略記)の2つの面から分類したのが以下の表で、これは私が『インフォミュニケーションの時代』(中公新書、1984年)で定式化し、PBC分類と呼んだものです。 表が示す意味を箇条書きにすれば、次のように要約されます。

① 最も古いメディアである新聞・出版(P型)には、Ct規制もCd規制もないので、「言論の自由を最もよく保障している」ものと理解されてきた(Marketplace of Ideasも、これを念頭に置いたものと考えられる)。
② この対極にあるのが放送(B型)であり、Cd規制(電波の割り当て)Ct規制(番組編集準則)の両面の規制を受けるが、これは電波の希少性に由来し「規制によってこそ公共の福祉が実現される」ものと理解されてきた。
③ この両者に対して通信(C型)は、Cd規制は受けるものの、Ct規制は受けない(というよりも、そもそも通信の内容にタッチしてはならない)ものと理解され、「通信の秘密」は、そのような立場に特有の責務とされてきた。
④ ところがここに、PCBいずれの型にも収まらず、これらを融合した機能を持ったインターネットが登場したので、これをどの型に当てはめるか、あるいは新しい秩序を構築すべきか、検討する必要が出てきた。

 実は1984年の出版の時点では、未だインターネットは研究者仲間のマイナーなネットワークに過ぎなかったので、④ は将来の課題としておくことで十分でした。ところがその後1990年代半ばにインターネットが商用化されたので、これを表に付加すると、「Cdはあるが、Ctはない」つまり「参入・退出などに若干の規制はあるものの、社会的規制としてコンテンツの扱いは自由」ということかなと思っていました(確たる自信がなかったので、?を付けていました)。

 インターネットの進展とともに、この問題は次第に重要になってきたのですが、今日まで確固たる成果は出ていません。それは、インターネットが「情報処理(Data Processing)」産業の出自を持っているために、「コンピュータ産業は製造部門もサービス部門も、一度として政府規制を受けたことがない」という史実があり、また産業人がそれを誇りにしている、という事情が強く影響していると思われます。

 しかし、果たしてそれでよいのか、漫画村事件はその点を突き付けていると思われます。インターネットの本質はマルチメディア化、すなわち「メディアとメッセージが自由に結びつく」ことにあるので、「P型産業ならこの規律、B型なら別の規律」という切り分けができません。しかも境目のなさは、企業内や国内といった伝統的な境界も超えてグローバルに広がっていくので、産業秩序もグローバルな合意を得なければ実効性がありません。

 厄介ですが、私たちは現実を直視して、「この制度化に知恵を出した国がデジタル時代をリードすることになる」との期待を込めて、努力を惜しまないことが必要かと思われます。

林「情報法」(49)

著作権研究の原点に還って

 台風19号が去った直後の10月13日の日曜日に、学術会議法学委員会が主催する「著作権法上のダウンロード違法化に関する諸問題」という公開シンポジウムが開催され、私もパネリストの1人として参加しました。「情報法の観点から」というのが私に与えられた役割で、サイトブロッキングの妥当性(合法・違法性や有効性)や「通信の秘密」について所見を述べましたが、大きなテーマが著作権だったことが、私の参加意欲を一層高めました。著書で述べたように、私の情報法研究は、著作権をプロトタイプとして始まっているからです。いわば「著作権の原点に還った」ような半日を、予定を変更して、レポートします。

・多角的な著作権の見方と私の立場

 今回の出講依頼は、学術会議第3部会(理学・工学)に属する、セキュリティ研究者からいただきました。どうやら学術会議の第1部会(人文社会科学)に属する法学研究会が、第3部会と協力して運営するようでした。実際、趣旨説明者(佐藤岩夫氏)・司会者(松本氏)・総括者(高山氏)は、すべて第1部会の会員ですが、田村氏(著作権法)・亀井氏(刑法)・壇氏(弁護士)・佐藤一郎氏(情報学)・私(情報法)という組み合わせは、法学を主としながらも幅広い視点での議論を喚起しようという、企画側の意図と柔軟性を示しているように思えました。

 そして実際、当日の議論も、文化審議会著作権分科会における「やり取り」の裏話も含めて、忌憚のない意見交換に終始し、パネリスト相互間も「得るところが多かった」という見方で一致しました。主催者が集めたアンケートでも、問題を多角的に議論したことへの共感が表明されていました。ただ、そのことは逆に、審議会やロビーイング勢力の多数派を占める「著作権を所有権に準じて考える派」の出席者が少なかったか、ボイコットされたことを暗示するもので、本当の議論がなされたかは別途検証が必要かと思います。

 私個人は、「著作権が情報法のプロトタイプになり得る」という仮説(というよりも、一種の直感)から研究生活を始めたものの、すぐに「有体物の所有権と無体財である情報に関する権利とは違った側面が多い」という事実に気づき、「著作権をも包摂した情報法のあり方」へと研究テーマを微修正した経緯があります。したがって私は、「著作権」を盲信する人は、「無体財に関する法制度がどうあるべきかが分かっていない人」という疑いを払拭できません。

 具体的にいえば、登録を要さず(無方式主義で)著作権が発生し、しかもその権利保護期間が「著者の存命中+死後50年」という驚くべき長期にわたる制度を、法的に是認することができません。永久に続くはずの所有権の代表例である不動産でさえ、転々流通し所有者が変わるばかりか、相続が起きれば分割されるのが通例です。「死後50年」も相続財産として同一人物に帰属することは稀でしょう。数ある権利の中で、ひとり著作権だけが「超長期の排他権」を享受できると考えるのは、バランスを欠いているとしか思えません。

・「思想の自由市場」論の限界

 このような考え方は、情報法の考察を進めるにつれて、修正されるどころか、ますます確信に近くなっています。その例として当日挙げたのが、米国の憲法論に由来する「思想の市場」(Marketplace of Ideas)理論の妥当性です。

 これは、有体物が市場で自由に取引される(市場原理)のと同じように、「言論」という財貨も市場の取引を可能にすれば、優れた商品が生き残るのと同様、優れた言論が選ばれていくではないかという、超楽観主義です。資本主義社会における「言論の自由」を象徴する比喩としては、秀逸であるように思えます。

 しかし比喩は、直感的理解に役立つものの、厳密な理論としては以下の 5 点のような限界(市場の失敗)があることも、理解しておく必要があるでしょう(アンダーラインの部分は、今回のシンポジウムのテーマに関連する事項です)。

①価値の不確定性:アイディアあるいは思想(いずれも「情報」の一種)の価値は不確定で、「時と場所と態様」によって大きく変動するので、「一物一価」は成り立たない
②占有不可能性:情報に排他性を持たせることは不可能ではないが困難であり、登録を要件とする「知的財産」か、秘密管理を厳密にした「秘密情報」に適用するのがやっとである(しかも、著作権には前者の要件が欠けている)。
複製容易性:占有可能な有体物の引き渡しよりも、占有不可能だが複製で拡散する情報財の複製物の方が、技術の進化により容易に流通する
④返還不可能性:情報は一旦流出したら取り戻すことができないし、随所に複製されているので、返還の意味もない。
⑤法的救済の不十分性:損害賠償を主とする従来の「事後救済」中心主義では、被害者の期待に応えられない。差止めを中心とした「事前」あるいは「即時」救済の方法を検討する必要がある。

・サイトブロッキングと「通信の秘密」

 情報法的観点から、当日私に期待されていたコメントの1つは、「通信の秘密」に関するものでした。特に、「サイトブロッキングは通信の秘密の侵害に当たる」という理解(一部は誤解と思われます)が広まっているので、いささか専門的になるのですが、これに触れないわけにはいきませんでした。

 まず私は、海賊版(著作権侵害)サイトを何とかしたいという、一般感情があるのではないかと指摘しました。ブロッキングを含め検討したいとの NTT 鵜浦社長(当時)の発言に賛否両論があったものの、海賊版サイトを無くしたいという点では一致しているかに思えたからです。  

 しかし、その手段としてブロッキングが適切かというと、それはアクセス・サービスの提供者がアクセスをブロックするという「禁じ手」としか思えません。また、アクセスの遮断は、当該言論を流通させないことと同義なので、児童ポルノのブロッキングが慎重な検討過程を経てきたこととのバランスからしても、十分な議論が望まれます。

 実はサイトブロッキングは、こうした適法・違法論とは別に、果たして実効性があるのかという議論もあるのですが、この点は技術者である佐藤パネリストに期待していたところ、実に分かりやすく問題点を指摘してくれました(結論は、想像通り、あまり実効的ではないということでした)。

 そこで私は、当該行為の「通信の秘密」との関係に集中することができましたが、この点に関しては2つの対極的な見方があります。「通信の秘密」の侵害であるという大方の理解と、厳密な法理論では侵害を証明することが難しいとの見方(伊藤真・前田哲夫 [2018]「サイトブロッキングと通信の秘密」『コピライト』No.690)です。ただし、後者は「電気通信」の定義のうち「他人の通信の媒介」(電気通信事業法2条三号前段)には当たらないというだけで、「電気通信設備を他人の通信の用に供する」(同条同号後段)に当たるかどうかを検討していないので、「通信の秘密」侵害の恐れがあることまでは、通説化していると思ってよいでしょう。

 しかし、本件は「通信の秘密」侵害の心配よりも、「検閲の禁止」(事業法3条、憲法21条2項前段)や「利用の公平」(事業法6条)の侵害につながる恐れが強いからこそ、懸念が広がったのではないかと思われます。前者は国家権力に対するものだと考えられてきましたが、今日では「私企業による検閲類似行為」(特にプラットフォーマと呼ばれるグローバル企業)によるプライバシー侵害に、より強い懸念が示されているからです。

 なお、電気通信事業法の「検閲の禁止」と「通信の秘密」の該当条文は、彼らにも適用されることになっています(同法164条3項)が、米国の1934年通信法では同種の規定がないので、日本で営業活動を行なっている米国系 プラットフォーマには、そのような発想がそもそも欠落していると推定されます。

 さて残念ながら「通信の秘密」と「検閲の禁止」の関係について、憲法学者が大いに議論してきたという事実はないようです。それだけ侵害が少なかったとすれば、その事実自体は大いに評価されるべきことです。とすると、より根本的な問題は、知的財産という形での「物権的保護」以外の保護方式が、十分に検討されていないこと(個人データにも物権的保護が先行して検討され、「情報は占有になじまない」点が軽視されている)にあるように思えます。著作権の考察を超えて、情報法へと進んできた私の出番かもしれません。

・「通信の秘密」における4つの厳格解釈と1つの原則

 ところで、わが国の「通信の秘密」に関する解釈と運用は、おそらく「世界一厳格」と言ってよさそうです。これは「自由の国アメリカ」で3年半生活し、おそらく頻繁に通信傍受の対象になっていたであろう私の、個人的経験から出た感想ですので、立証できないのが残念です(私は私企業であるNTTアメリカの社長であったに過ぎませんが、NTTの調達問題に関して日米政府間の協定が結ばれ、その実行部隊の長として誠実な実施が義務付けられていたこと、スノーデンの暴露によってアメリカの通信傍受が大規模に、かつ長期間にわたって行なわれてきたこと、が傍証です)。

 その厳格さは、以下の4つの解釈と、その背景にある1つの原則の基づくものだ、というのが私の見立てです。4つの厳格解釈とは、以下のものをいいます。

①検閲の禁止は絶対的なものだが、通信の秘密もそれと同程度だとする(後者は本来、比較衡量により判断すべきものだが、それを否定)。
②通信内容とログ(通信履歴)を区別せず、ともに同程度に保護されるものと考える(事業法4条1項の「通 信の秘密」を広義に捉え、同条2項の「他人の秘密」を極めて限定的に捉えることとパラレル)。
③通信内容やログの取得が公共の福祉(犯罪捜査等)のために必要だとしても、取得には裁判所の令状が必要だとし、かつ厳格に審査する(取得と漏示・窃用を区別せず、かつ行政傍受等も否定)。
④バルク取得(全通信履歴の無差別的取得)は認めず、令状は案件ごとに必要だとする。

 そして、これらの厳格解釈の背景にある1つの原則とは、「通信事業者は、通信には手を触れてはならない」(hands-off)というものです。これはインターネットの登場(法的には「プロバイダ責任(制限)法」の制定)以降維持できないし、「通信」と「情報処理」を峻別してきた米国でも、相互浸透を是認する方向にある(「高度サービス」の提供者にも、通信法におけるコモン・キャリア規制を適用するという規則は、なお議論されている)ことを考えると、抜本的な見直しの時期に来ているのではないかと思います。

・個人的感慨

 今回の企画は、私の著作権への関心を呼び覚ましてくれました。1997年に学者専業に転ずると同時に、著作権の研究を始めたことは「直感的だが正しい選択」であったことが確認できました。しかし、その後の長い考察にもかかわらず、達成できたことがあまりに少ないことに驚くと同時に、パネリストと共有できる点が多かったことから、あきらめず前進する勇気をいただきました。この企画をされた関係者にお礼を申し上げます。