林「情報法」(47)

二者択一の政治状況

 「○か×か」の二者択一は、政治家が一番好むようです。私は1999年に「NHKは民営化して世界最大のペイ・テレビになればよい」と主張した者(拙稿「放送人よ、目を覚ませ:『地上波テレビの全デジタル化』7つの神話」『情報通信アウトルック ’99』 NTT出版)ですが、20年を経てそれと同じ趣旨を、唯一の公約にした政党が出現したことに驚きました。そして、その政党が参議院選挙で議席を獲得したことに、二度ビックリです。三度目のビックリもあるのでしょうか。世界中が「○か×か」の衆愚政治に陥っているのでしょうか。

・「一億総白痴化」と「衆愚政治」の経済学

 経済学(者)は、「一見非合理と思われる事象にも合理性が潜んでいる」ことを見抜く力を持っています。それは「合理的経済人」(rational person)を前提にした学問の、優位性かも知れません。リード文で触れた論文を書いている最中に、エコノミストのI氏から「テレビ番組が俗悪化することは必然で、大宅壮一氏の言う『一億総白痴化』は止めようがない」というご託宣を聞いたのは、経済学の初学者だった私には新鮮な驚きでした。

 I氏の説明は、大要以下のようなものでした。民間のテレビ局は当然のことながら、利潤の最大化を目指している。利潤の太宗は広告収入で、それは「視聴率」に連動しているから、「視聴率」を上げる必要がある。そのためには、番組の多くが国民の多数が好んで見るものでなければならない。ここで国民の知的レベルは正規分布していると考えると、「多数に見てもらえる」には平均人をターゲットにしたのではだめで、より知的レベルの低い視聴者を取り込んでいかざるを得ない。よって番組は「低俗化」せざるを得ない——–。

 実は、この分析の後に、「しからば公共放送であるNHKの役割をどう考えるか」という、やや高尚(?)な議論が続き、先生であるI 氏は「NHKは、ニュース・スポーツ・ドラマ・演芸・教養・教育番組などを総合的に提供し、総合的な収支均衡を図ればよい。加えて、災害放送やローカル・ニュースの提供など公共的な役割もある」という伝統的な見解でした。これに対して、弟子である私が「そうした高尚な志向のある視聴者は、支払意思(willingness-to-pay)があるので、NHKをペイTVにしても加入者はさほど減らないだろう。民営化して、もっと活力が出る仕組みに変えた方が良い」と主張したのが、上述の論稿で展開した私のNHK論でした。

 ここで本来の議論に戻れば、「一億総白痴化は不可避」という結論に至るまでの「視聴率」を「得票率」と、「より知的レベルの低い視聴者」を「国民全員に投票権がある」と読み替えれば、「衆愚政治は不可避」との結論に到達することは間違いありません。

・多数決原理の限界とグローバル化の逆説

 これは親しい先生と弟子の間の「思考実験」であることは両者とも承知の上の、楽しい会話でした。それが、現実の政治のテーマになり、一定の力を持つようになるとは、どうしたことでしょうか。そこには、成熟した日本において「波風立てる」ことは得にならないという冷めた認識を持ちながら、30年も続くデフレで幸福感が味わえないという焦燥が、ないまぜになっているように思えます。野党に政権維持能力が欠けていて頼りにならないが、与党に任せっぱなしでは暴走の懸念が残る、というアンビバレントな感覚と言い換えても良いでしょう。

 しかし、そこには何らかの「理論的背景」が潜んでいるようにも思えます。ここでは、2点だけ指摘しておきましょう。まず第1点は、「民主主義的意思決定が、誰もが納得する解を生み出すとは限らない」ということです。それにはマクロとミクロの両面があります。

 マクロ的には、どのような選挙制度を採ろうと、「死に票」が避けられないことが問題の本質です。何らかの単位で、winner-take-all(総取り)を認めざるを得ないからです。州ごとの選挙人の「総取り」を前提にする米国の大統領選挙では、国民投票であれば多数を得たはずの候補者(クリントン)が、選挙人の多数を得た候補者(トランプ)に負ける、ということが起こり得ます。

 ミクロ的な側面は、「アローの不可能性定理」に示されるように、意見が割れている場合には「投票順」という一見中中立的に見える「手続き」が、意見の採否を決めてしまう場合があるということです。例えば、投票者甲・乙・丙が、議案A、B、Cに関して、甲はA > B > C、乙はB > C > A、丙はC > A > Bという、3すくみの投票選好を持っているとしましょう。

 投票用紙にA、B、C のいずれかを書く方式の投票では、「多数を得た案なし」となります。そこで、まずAかBかの投票をし、その後に優勢な方とCとで投票することにすれば、第1回でAが勝ち、第2回でCが勝つことになります。この関係はA、B、Cすべてに成り立ちますから、「どの案を先に議決するかによって、採択される案が変わる」ことになります。

 第2の理論駅背景は、グローバル化に関わります。投票による多数決という、民主主義の基本ともいえる原理でさえ、このような例外的事象があり得るのですが、グローバル化という巨大な潮流は、もっと深刻な事態を招くと言います。『グローバリゼーション・パラドクス』(柴山桂太・大川良文訳、白水社、2014年)という本を書いた、ダニ・ロドリックによれば、グローバル化する環境では「グローバル化・国家主権・民主主義の3つの理念のうち2つしか同時に満たすことはできない」というのです。

 この点について、訳者の柴山氏が次のようの総括しているのは、簡潔で秀逸です(訳者あとがき)。

本書の核となるアイディアは、市場は統治なしには機能しない、というものだ。(中略)市場と統治という視点に立つと、グローバル経済が抱える根本的な問題が見えてくる。グローバル市場では、その働きを円滑にするための制度がまだ発達していない。全体を管理するグローバルな政府も存在していない。一国レベルでは一致している市場と統治が、グローバルなレベルでは乖離しているのだ。貿易や金融は国境を越えて拡大していくが、当地の範囲は国家単位にとどまっている。ここにグローバル経済が抱える最大の「逆説」がある、というのが著者の問題意識である。

 確かに中国の動きを見ていると、共産主義革命という歴史から当然のこととはいえ、「グローバル化の波に乗り、国家の機能維持のためには民主主義を捨てる」ことが鮮明になっていると思います。そして、悲しいことにロシアは当然のこととして、中東やアフリカ諸国の多くも、こうした「新しい国家主義」ともいえる考えに傾いている懸念が消えません。例えば、ITUという最も長い歴史を持つ国際機関が、「電気通信規則」という国際規約を決める際、こうした諸国が多数派になり、西側が調印を留保するという事態になったのは、2012年末のことでした。

・Unity, Diversity and Generosity

 そして、このような民主主義崩壊の予兆に驚いたのか、西欧世界のリーダーの中でも「自分のことや自分の国しか考えない」孤立主義者が多くなり、「他者への配慮」が死にそうになっているのが気がかりです。本来グローバル化とは、国家主権の壁を低くし、すべての人が等しく扱われるべきだ(inclusion)という「寛容の精神」を基にするはずだったのに、全く反対の排外主義(exclusion)に傾いてしまったのは、何としたことでしょうか。しかも、それが中国のような強権国家だけでなく、つい先代の大統領までは「民主主義のチャンピオン」の顔をしていた国までが、先導しているとは。

 この点で私には、ある感慨があります。1992年から(1995年まで)ニューヨークに駐在することになったので、当時の大統領であったブッシュ(父)の思想と行動に関心を持ちました。そこで、1989年1月20日の大統領の就任演説を調べたところ、その末尾にUnity, Diversity and Generosityという語を見つけました。現在も利用できる邦訳サイトに拠れば、その部分は以下の通りです(カッコ内の英文は筆者が追記)。
https://openshelf.appspot.com/UnitedStatesPresidentialInauguration/GeorgeHerbertWalkerBush.html

 「リーダーシップを、トランペットの音が聞こえてくる盛り上がるドラマとみている人もいるだろう。そして時々はそういうものかもしれない。しかし私は歴史とは多くのページがある一冊の本だと思っている。そして日々われわれは希望にみちた意味ある行為でその一ページを埋めていくのである。新たな風がふき、ページをめくり、物語が展開していく。そして今日新たな章がはじまり、短く威厳にみちた、団結(Unity)と多様性(Diversity)と寛容(Generosity)の物語が、共有して、ともに執筆される。」

 この同じ共和党から、現在の大統領が登場したことを、私たちはどう捉えたら良いのか、視点が定まらないでいます。一般的に言えば「団結」と「多様性」は両立が難しいものです。だからこそ「寛容」が必要なのであって、両立を諦めて「矛盾を武力によって解決する」毛沢東的手法が、許されるはずはありません。矛盾する要素の中和や妥協を図ること、つまり「二者択一」ではない選択肢を視野に入れることこそ、成熟した国家における政治家の役割ではないでしょうか。役割を果たさないプレイヤーには、退場を促すしかないと思います。

林「情報法」(46)

多元化と相対化を急いで要約する「○か×か」

 お盆休み中に本棚の整理をしていたら、私の恩人の一人である庄司薫(福田章二)氏が早くも1973年(つまり約半世紀前)に、なぜ「ぼくたち」が二者択一に走るのかを喝破していたことを再発見しました(庄司薫『狼なんてこわくない』中公文庫、pp.167-168)。ここで「恩人」と言ったのは、「成長とは自らの持つ可能性が結局は不可能性にしか過ぎない」(福田章二『喪失』あとがき、中央公論社、1959年)ことを教えてくれた、と私が「片思い」しているだけの話で、他にも存在する多くの「恩人」と同じく、直接の面識はありません。

・約半世紀前の指摘

 ○×式が持つ社会的な意味を「多元化と相対化を急いで要約するため」と、半世紀も前に的確に記述していたのは、庄司氏以外にいないと思います。

(前略)価値基準が多元化し相対化していく一方で、選択処理しなくてはならない情報が洪水のように増大するという、本来なら「要約」することの最も困難な状況の中で、そのあまりの困難のゆえにかえって不安に耐えきれず、性急な「要約」を、○×式要約を求めるという風潮が、現代の矛盾した社会全体の「方法」になっている。おかしいことは分かっていても、「他にしょうがないじゃないか」というその瞬間瞬間の「必要悪」としての「要約」が、歯どめを持たぬままどこまでも浸透しつつある。

 そして「恩人」のすごい所は、この現象の背後にある人間の本性にも触れていることです。前の文章には、直ちに次の分析が続きます。

しかもこの場合注目すべきことは、これがたんなる時代の「風潮」というのではなく、ぼくたち人間の本能的ともいうべき欲求に基づいている、という点にある。すなわちぼくは、民主主義という最大の知的フィクションを含むおよそあらゆる価値の相対化は、根本的にぼくたちの本能に反する性格を持っていると考える。たとえば、自分の「正しさ」を信じられる場合にも、なお無数の他者の「正しさ」を寛容に許すなどということは、ぼくたちにとって極めて不自然な「抑圧」とならざるを得ないのだ。そしてその不自然さは、言いかえれば、ぼくたち人間は、およそ敵味方がはっきりしない状況の中では本能的に不安でたまらない、という事実に対応するのは明らかにちがいない。ぼくたちは、明確な○×に代わる無数の「?」には本能的に耐えがたい。ぼくたちは、一刻でも早く敵味方を識別したい、少なくとも敵だけでも知っておきたい。たとえ粗雑な○×式に拠ろうとも、そしてまたそれが多くの誤解や偏見を含む危険があろうとも、ぼくたちはとにかく○と×を、いや×だけでもさっさとつけて自分の不安から逃れたい——。

 この分析は、現代の主要国リーダーの多く(あるいはほぼ全員)に当てはまることに驚きます。そして彼の直感から出た分析が、その後の学問的実験で証明されたことに、改めて驚きます。シーナ・アイエンガ―は、リーダーではない一般人においても、「選択肢が多いことが必ずしも歓迎されるとは限らない」ことを発見しました(桜井裕子訳『選択の科学』文春文庫、2010年)。

 その実験では、「24種類のジャムの売り場と、6種類のジャムの売り場では、前者は後者の10分の1しか売れなかった」といいます。科学的証明までは成されていないものの、チームやグループの構成メンバーは、最大でも7人、できれば5人か6人が良いという経験則とも合致します。

・情報の不確定性と「あれかこれか」の危険性

 恩人の指摘は「デジタル・トランスフォーメーション」が避けがたい現代では、さらに深刻になっているようです。デジタル世界では、1か0かを単位(bit = binary digit)として情報を表現するのが基本です。これは、情報の「意味」を考えることをとりあえず止めて、ビットで計算可能な「情報量」に基づいて、「形式」面だけに着目して情報を伝達・処理しようという、シャノンの「情報理論」に基づくものです。

 このようなデジタル的発想には、何でも「あれかこれか」の二者択一で考える誘因が潜んでいますが、世の中の事象がすべて「1か0か」で分類できるわけではありません。特に「言論の自由」が係るような「多元性の世界」では、「あれかこれか」の危険は常に強調しリマインドしておく必要があります。

 直近の例を見ても、漫画村に代表される著作権侵害サイトをネット上から削除(その実はアクセス不能化)すべきか否か、「言論の不自由展」といった企画を誰がどのように運営すべきかといった「際どい」事案については、慎重な判断が求められます。

 繰り返すようですが、情報の価値は時と場所と態様によって変化するもので、その「不確定性」こそ情報の本質なのですから、これを一刀両断に切り分けるのは至難の業であることを忘れないで欲しいと思います。

・「秘密保護のあり方」に適用した場合

 以上の懸念を情報法に適用した場合、わが国において秘密の保護法制が未整備の中で、EUの個人データ保護規制が先行するため、「バスに乗り遅れるな」とばかり、プライバシー保護優先主義が、無意識のうちに醸成されていることが心配です。さらに、その方法論がEUの影響を強く受けて「自己情報コントロール権」といった「基本権」あるいは「絶対的排他権」として議論されていて、英米法的プラグマティズムから離れていくことも懸念材料です。そこには、複雑に入り組んだ「二値的発想」の弊害が見て取れます。

 まず、人格権のような「不可侵の権利」と捉えれば、人格権の一種→絶対的排他権→差止命令、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)自己陶酔に陥る危険があります。ここでは、人格権から始まったはずなのに、前回紹介した所有権から始まる三段論の場合の、所有権類似→絶対的排他権→差止命令、といった三段論法と「うり二つ」になっていることにお気づきでしょう。

 第2の「二値的発想」は、プライバシーの保護がそれ以外の秘密の保護とは異質なものとされ、「特別な保護に値する」ものとされていることです。具体的に言えば、秘密の保護法制においては、a) 私人のプライバシー保護に資する「個人データ」の保護法制、b) 企業の秘密を保護する営業秘密の保護法制、c) 国家の機密を保護する特定秘密保護法制、の三者が適度のバランスをもって整備されるべきところ、a) だけが突出していることに警鐘を鳴らす人が少ないのです。

 営業秘密の3要件(① 非公知性、② 有用性、③ 秘密管理性)は、a) ~ c) の三種の秘密にほぼ共通ですが、特に② の「有用性」は「保有者が秘密だと思う情報はすべて保護される」のではなく、「保護されるには有用な情報であるという客観性が必要」という要件を課す点で重要です。つまり「主観秘」は保護の対象ではなく、「客観秘」であることが必要で、そのためにも ③ の管理性が必須になってきます。

 営業秘密と特定秘密はこうした要件を備えているのが普通ですが、プライバシーだけは主観的要素が強いので、より複雑な処理が必要になるのは避けられません。ところが現実は、そのプライバシー保護に「二者択一」を適用しているように見えます。私が「二者択一から三択になっただけでも大ジャンプ」と言うのは、こうした現象を念頭においてのことです。

 

林「情報法」(45)

二者択一と三択問題

 テレビのクイズ番組を見ていると、「AかBか」という二択問題が多いように感じます。朝方、同姓の林修さん(親戚ではありません)が登場する「ことば検定」は青・赤・緑の三択ですが、緑は番組スタッフが作る「選択肢もどき」(これもfakeの一種?)ですから、実質は二択です。これはなぜでしょうか? デジタル化やトランプ現象と関係があるのでしょうか? あまりに外気が暑いので、少し気楽に考えてみましょう。なお本テーマは、次回に続きます。

・法律は網羅的とは限らない

 前回述べたとおり、公開と秘匿の間は連続的なスぺクトラムとなっており、両極端だけを見ていたのでは、対処しきれない部分が出てきます。ところが、これまでの立法は、とりあえず中間的なグレイゾーンは後回しにして、典型的な例だけを扱うことが多かったように思います。前回は、公開と秘匿に加えて、真実か虚偽かというマトリクスを考えましたが、今回は後者の代わりに「情報の保有者が政府機関か民間企業か」という軸を使って、代表的な法律を示すと、以下の図表のようになります。

 この図表を一見しただけでは、それぞれの領域ごとに代表的な法律が揃っていて、よく整備されているように見えるかもしれません。しかし、個々の法律の適用範囲を子細に見ていくと、公開と秘匿や公的・私的保有者のスぺクトラムうち、重要な部分がいくつも抜け落ちていることに気づきます。

 最も新しい法である特定秘密保護法を例に取ると、これは長らく空白であった「行政機関の情報で秘匿すべきもの」について規定することで、法の欠缺(不存在)を補完するものです。しかし、それでもなお「行政機関以外の政府機関」(国会や裁判所)に関する立法は欠けたままです。ましてや政府と民間の協働による組織(Public-Private Partnership = PPP)や、公開と秘匿の境目にある情報の扱いなどは、カバーされていません。

・Controlled Unclassified Information

 公開と秘匿の中間があるなんて信じられないかもしれませんが、米国でCUI = Controlled Unclassified Information(秘密情報に分類されないが、なお取扱いに制限が課せられる情報)という矛盾に満ちた名前で呼ばれているものは、9.11でテロの事前抑止に失敗した教訓として注目されるようになった概念です。従来の Need-to-Know の原則に加え(場合によっては、それに代えて)、 Need-to-Share の必要性を指摘するものだからです。

 テロの教訓を踏まえて発出された大統領令(Executive Order)13556 は、情報を区分(classify)し、アクセスできる「有資格者」を制限すること(security clearance)も大切だが、インテリジェンス機関等で情報を共有することも、それに劣らず大事だという、ある種の意識改革を伴うものです。ご承知のように、情報は秘密と区分されるもの(classified information)とそうでないもの(unclassified)に明確に分けられ、前者はさらにtop secret・secret・confidentialに三分されます。

 ところが、こうした厳密な仕組みも、現場ではその通りには運用されていませんでした。9.11テロ以前から、unclassified情報の中にも、連邦政府の各機関でSBU(Sensitive But Unclassified)とか FOUO(For Official Use Only)という名称で、アクセスや配布が制限されてきた情報が100 種類以上あったとされます。これらを改めて、CUIという形で統一的に扱う方針を定めたのが上記の大統領令なのです。いわば「生活の知恵」として運用されてきた方法を、追認し正規化したという側面もあるのです。

 大統領令を受けて国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration)が政府部門のおける実施方針を策定し(2015 年 12 月 32 CFR 2000)、国立標準技術研究所(National Institute of Standard and Technology)が非政府部門への展開指針を定めています(2015 年 6 月 NIST 800-171)。特にわが国の企業が注目しているのが、政府調達との関連です。民間企業といえども、米国政府の仕組みと同等のルールを定め遵守していないと、「調達先として不適格」にされる(つまり米国政府の調達から除外される)リスクがあるからです。

 この問題は根深いもので、ファーウェイ事件などとも底流でつながっており、学者としては以下の諸点を解明する必要があると思っています。① なぜ CUI が必要なのか、② 連邦機関横通しの手続きはどこまで可能か、③ 従来のシステムからの移行はスムーズに進むのか、④ 移行費用や格付け担当者の育成はどうするのか、⑤ 情報の秘匿と共有のバランスはどうとるのか、⑥ 情報公開法(FOIA)との関連はどうか。

 しかし、とりあえず本稿との関連では、あれほどインテリジェンスに敏感な米国においても、情報を一意に分類することがいかに難しいかを示す事例として、理解していただければ良いかと思います。

・二択から三択への大ジャンプ

 さてわが国に戻って、ごく最近になって二択択一ではなく三択を前提にした法律が登場したので、私も驚きました。それは、7月1日から施行されたばかりの、改正不正競争防止法において導入された「限定提供データ」という概念です。従来から「営業秘密」として保護されるための3要件は、① 非公知性(公然とは知られていないこと)、② 有用性(法的に保護する利益があること)、③ 秘密管理性(情報の保有者が秘密として管理していること)と規定されています。

 これは秘密保護法の一般原則となり得る要件ですが、同法の規律対象は従来、同一社内の情報だけと考えられてきました。しかし現代の企業は、他社と対等な持ち分で合弁会社を持ったり、長期の供給契約で提携したり、コンソーシアムに参加したりと多様なビジネスを展開しており、上記の3要件が同一社内だけでなく、サプライ・チェーンの関係者の間等もカバーして欲しいとの要望が強くなってきました。データの共有が事業成功の要になる傾向が高まってきたため、「情報共有」に基づく事業展開が円滑に進められないと困るという訳です。

 そこで、「限定提供データ」という概念が導入されたのです。これは「業として特定の者に提供する情報として電磁的方法により相当量蓄積され、及び管理されている技術上又は営業上の情報(秘密として管理されているものを除く。)」をいうとされています(法第2条第7項)。条文のカッコ内が従来の「営業秘密」で、改正された部分は「それを超える」ものになります。

 本稿の文脈から見た限定提供データの画期性は、「データ」とりわけ電子化されたデータに着目した点も然ることながら、「公有(あるいは公開)と私有の間に限定共有という第3類型を認めた」点にあると思われます。一見すると大した工夫ではなさそうですが、実は法学は「二値的分類」を基本論理としているので、「二択が三択になった」だけでも、革命的な変化ともいえます。

 二択しかないとすれば、私が「所有権アナロジー」と呼んでいる現象、つまり情報という占有できない対象に関しても何らかの支配権が必要だと考え、「限りなく所有権に近い扱い」をしようとする誘因が生じます。現行法を変える必要もなく、所有権類似―>絶対的排他権―>差止命令可能、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)からです。「二択の魅力」に魂を奪われた結果と言えるかもしれませんが、これを三択に変えるだけでも、法律に対する見方が違ってきます。

 なお「限定提供データ」を私の専門分野との関連で見ると、サイバー・インシデント情報の共有は、立法事実としては挙げられていませんが、今後この制度を利用する可能性があるかどうか、慎重に見守って行きたいと思います。そこから再び「革命的」なアイディアが出現するかもしれません。

林「情報法」(44)

公開と真実の間

「嘘と秘密」の間に微妙な関係があることから類推すると、「公開と真実」の関係も一筋縄ではいかないようです。「公開情報」というと信ぴょう性が高そうに聞こえますが、その推定は意外に不確かであることが、フェイク・ニュースの氾濫で明らかになったからです。とすると、「情報が公開されれば真実に近づける」というのも限界があり、私たちは「公開と秘匿」と「真実と虚偽」のマトリクスの中で、嘘を見抜く力を身につけていく必要がありそうです。これこそ、サイバー・リテラシーの核心でしょうか。

・情報の公開と説明責任

 情報が社会生活にとって必要不可欠であることは、今さら言うまでもないでしょうが、学問の領域でそのことがしかと認識されたのは、「情報化」がかなり進んでからです。もちろん情報科学の分野では、コンピュータの実用化と同じ時期、つまり1940年代末から自覚されていました。しかし社会科学の分野では、1963年のケネス・アローの論文「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care」が最初とされ、何度も紹介した経済学の「情報の非対称性」の分析が、これを継いだと思われます。

 その後はあらゆる学問分野で、情報の重要性が説かれてきましたが、身近なのは、情報が不足したり歪んでいたりすることが経済取引にどう影響するかを考える経済学と、同じ状況で民主主義が可能かどうかを考える政治学の分野でしょう。特に後者は、「言論の自由」や「知る権利」を基礎づけることになるので、少なくとも民主主義国家では「基本中の基本」の理念となっています。

 しかし、その理念が実務手続として結実し、行政機関や民間企業が「情報を公開する」ことが、組織の社会的責任の一環とされるようになったのは、スエーデンなどの例を別にすれば、ごく最近のことです。情報の公開は関係者の請求を待って行なわれることもあります(受け身の情報公開)が、時代の加速化とともに、記者会見やホーム・ページでの発信、SNSへの投稿(積極的な情報開示)など、より迅速で手軽な手段へとシフトしています。トランプ大統領などは、その代表格と言えそうですが、当の本人が「フェイク・ニュース」の発信源でもあるのは何とも皮肉です。  

また直近の例では、話芸の才があるタレントを多数抱えた吉本興業の社長が、「こんな記者会見をしてはいけない」という反面教師になったのは、痛ましい感じさえします。情報化の時代には「沈黙は金」ではなく、「話さなければわからない」のは事実ですが、「話す量が多ければ効果も高い」し「洗いざらい話すのがベスト」とも言えないところがあります。

・公開―秘匿の軸と、真実―虚偽の軸

 それでは、情報の公開―秘匿の軸と、真実―虚偽の軸とを組み合わせてみると、どのような知見が得られるでしょうか? 次の表はそれを簡潔にまとめたものです。

 この表が教えてくれるのは、ITなどの技術進歩に伴って情報の公開が容易になる反面、情報を秘匿する手続が面倒になってコストがかかるため、公開情報の比率が高まって行く、という傾向のようにも思えます。確かに、技術進歩により従来とは桁違いの個人データが流通し蓄積されていくため、プロファイリングに伴うプライバシー侵害の危険が増大している、と心配する向きがあるのはもっともです。

 しかし、それは物事の一面にしか過ぎません。公開情報が増えれば、逆に私が「あなただけ情報」と呼んでいる、特定の相手にしか開示しない秘匿情報の価値も上昇するからです。インターネットの普及で過剰ともいえる情報が氾濫すると、「どれを信じて良いかわからない」状況になりますので、会員制の情報交換の場や会員制のチャットなど、さらには「永田町だけで流通する情報」など、限られた範囲だけで共有される情報の重要性も、高まってくるからです。

 しかも情報の価値には、2つのパラドクスがあります。第1のパラドクスは「誰もが知っている情報は価値が低い」と同時に、「誰も知らない情報」は同様に「価値が低い」か「極端に価値が高い」かの両極端に分かれるということです。最後の「極端に価値が高い」例は、すぐには思いつかないかもしれませんが、企業の秘密である営業秘密の例でいえば「コカコーラの原液の配合比率と配合手順」を、国家の秘密である「特定秘密」の例でいえば「金正恩の最新の健康状態」を想定してください。これらの情報が公開の場に出ることは少なく、如何に情報化が進んでも「特定少数者の間で共有されるだけ」に留まるのが通例です。

 そこで、情報の価値のスぺクトラムを次のように描けば、左端の価値は低く、右端の価値は低いものと極端に高いものに分かれ、中間の価値はそれなりに高いということになりそうです。

 ここで本稿の分類との関連では、「誰もが知っている」を「公開」と、「誰も知らない」を「秘匿」と結びつけるのは自然のことでしょう。すると、仮に倫理的にいえば「情報社会においては、なるべく多くの情報を公開すべきである」という命題が正しいとしても、経済学的には「情報は秘匿して価値を高めるのが良い」というインセンティブは消すことができないことになります。更に、倫理的には全く推奨できないにもかかわらず、「秘匿情報の中に嘘を混ぜておく」という作戦が、後を絶たないことになります。

 拙著において(そして本稿においても)、知財型情報の保護を論ずるとともに、それと同程度の密度を持って、秘密型情報の保護と管理方式を論じなければならないと力説しているのは、こうした理解に基づくものです。

・公開・秘匿と情報の価値

 しかし、以上の説明と若干矛盾するかもしれませんが、そもそも「情報の価値」は測定可能か、という第2のパラドクスがあります。物理的な財貨でも、設計者の意図とは違った利用法が市場で発見され、大ヒット商品に化けるということが、たまには起こり得ます。しかし情報の場合には、たまに起こるのではなく、それが常態になり「情報の不確定性」と呼ばれています。

 不確定になるのは、情報の価値が「時と場所と態様」によって、大きく変化するからです。「時」の変化とは、同じ私が同じ情報を得た場合にも、ある決断の前では大変な価値があるが、決断後には無意味になってしまう、といった例を想定してください。「場所」の変化としては、同じ情報を元にした提案書の社内会議をしても、イギリス支社では歓迎されたが、日本の本社では嫌われた、といった例を想定してください。「態様」は、同じ情報を上司に伝える場合と部下に伝える場合、さらには記者会見で公表する場合では、訴求点を変えないとアピールしない、といった例を考えていただけると良いかと思います。

 このような情報の特質は、量子論における「不確定性」(「シュレディンガーの猫」の比喩が有名です)と通ずるものがあるので、私はこの語を使っているのですが、「不確実性」とどう違うのかを未だに上手に説明できません(英語では両者ともuncertaintyです)。それどころか、理系の研究者からは「むやみに不確定性と言わない方が良い」という、親切な忠告も受けています。そこで、これ以上の深入りは止め、このような世界で生きていくためには、どのようなリテラシーが必要かを考えてみましょう。

・サイバー・リテラシーの核心

 情報化の深化、とりわけインターネットの登場以前には、「権威」が存在したと思います。ある分野の専門家、特定の技能や資格を持った人、創造力に富んだ表現者、政治家として尊敬を集まる人、などなど。こうした「権威」はある種「近寄りがたい」もので、事実直接面談することや、ノウハウを取得することは不可能に近い状態でした。

 ところが、インターネットに代表される情報技術の登場は、こうした「権威」を形式知化して伝達・理解可能なものに転換してしまいました。今後もAIの普及によって、形式知化と伝達・アクセス可能性は、ますます拡大していくでしょうから、この傾向はしばらく止まることはないと思われます。これは「権威の消滅」と理解することもできますが、その実は権威を解体して、「誰でも権威になれる」可能性を開いたともいえます。インターネットでは才能ある少数者だけが情報を発信するのではなく、誰でも発信者になれるからです。

 しかし、こうして情報量が飛躍的に伸びていく中で、権威が衰退していくと、頼るのは自分だけになってしまいます。これまでなら、マスメディアの言説は「一応信頼できる」として、それに頼ることができましたが、今日では誰が最も信頼できるのかは、極めて流動的になってしまいました(先の「情報の不確定性」につなげれば、「権威の不確定性」となるでしょうか)。

「自己責任」という言葉がしばしば聞かれるようになったのは、このような「権威なき社会」では、最終的には「自分を頼りにするしかない」からだと思われます。考えてみれば「情報処理有機体」(フロリディの用語では Informational Organism = Inforg)である人間が過酷な状況を生き延びてきたのは、「環境に対応するように情報処理を巧みに実践してきた」からかもしれません。その基本はリテラシーと呼ばれることが多いと思いますが、サイバー時代にふさわしい「サイバー・リテラシー」の核心は、「情報の真偽と価値を見抜く力」であろうと思われます。

林「情報法」(43)

秘密の法的保護

 前回までの議論を経て、嘘と秘密の間には微妙な関係があることが浮き彫りになりました。

 法学は嘘の方にもうまく対応できていませんが、秘密の方に至っては「ほとんど手つかず」の状態であると思われます。その原因は、秘密を守ること(言い換えれば「隠すこと」)に手を貸すことが、「正義を実現する」という法律の使命に沿わないと思われがちなことでしょう。これは世界に共通の傾向ですが、とりわけわが国では、2013年の特定秘密保護法により国家秘密を守る法律がやっと制定されたこと、しかもその法律には感情的とも思われる反対論が根強いことに、象徴的に示されています。

・情報の法的保護の区分:仮説としての「知財型と秘密型」

 拙著『情報法のリーガル・マインド』には、同じく『情報法』を冠する書物にはない幾つかの特色があります。中でも対象となる情報の法的保護の方法を、① 事前に権利(排他権)を付与するか、② 事後的に損害賠償で救済するだけか、と、a) 情報を公開して守るか、b) 情報を秘匿して守るか、という2つの軸で区分して、①+a) の代表格である知的財産型と、②+b) の典型である秘密型の2つ類型があると指摘した点が、他の書籍や論文にはない特色であると自負しています。

 このアイディアは、2017年の同書で初めて発表するものではなく、そこに至るには長い空白と悶々とした歴史がありました。まず前者については、学者になった当初(1997年)から著作権の研究を始めたため、比較的短時間で問題の核心に近づき、2001年の「『情報財』の取引と権利保護」(奥野正寛・池田信夫(編)『情報化と経済システムの転換』東洋経済新報社、所収)で、知財型保護のあり方と限界を論ずることができました。

 他方、秘密については情報セキュリティの3大要素がConfidentiality、Integrity、AvailabilityのCIAであるとする一般的理解に基づいて、まずはConfidentialityの法的な根拠を明らかにしようとして、2005年に「『秘密』の法的保護と管理義務―情報セキュリティを考える第一歩として」(富士通総研研究レポートNo. 243)をまとめました。しかしサブ・タイトルにもある通り、私の本業である「情報セキュリティ」の視点からアプローチしたため、知財型との接点を見出せないままでした。

 これでは前に進めないと思った私は、法学の初学者(当時私は経済学者から法学者に転向したばかりでした)には、「情報法」といった複合領域を論ずる資格がないことを自覚しつつも、ある種の「賭け」に出ました。2006年に、やや学問的な論稿として「『情報法』の体系化の試み」(『情報ネットワーク・ローレビュー』第5巻)を発表するとともに、日経新聞から執筆依頼を受けた機会を捉えて、一般の読者向けに「情報と安全の法制度」(「ゼミナール」欄にて12月に16回にわたって連載)を書きました。そして、これらの論稿を書くことで「情報法の一般理論」が存在し得ることと、拙いながらも私流の解釈ができるとの自信を得ました。

・思わぬ横槍とブレーク・スルー

 しかし他方で、思いもかけぬ妨害にも会いました。「今連載中の記事は、自分が既に書いたものの剽窃だ」という匿名の投書が編集部に舞い込み、私の筆を鈍らせると同時に、細部を知らぬ編集者に疑心暗鬼を招きました。この世界は狭いので、後刻投書者と思しき人物を突き止め、第三者立会いの下に「対決」しましたが、得るものはありませんでした。幸か不幸か、学者であった亡き父が同じような目にあったとき、「これで自分も相応の学者であることが証明された」と負け惜しみを言っていたことを思い出して、一人納得しました。

 しかし知財型と秘密型の二分論が、「個人情報」(私はこの用語が混乱を招く一因になっているとの認識から、講学上の概念としては「個人データ」という語に統一しています)の位置づけに役立たなければ、世間は納得しないでしょう。そこで私は2009年以降4年間の間に、「『個人データ』の法的保護:情報法の客体論・序説」(『情報セキュリティ総合科学』Vol.1 所収)を手始めに、主として『情報通信学会誌』への投稿(3回)を通じて、理論の精緻化を図りました。

 その集大成とも言うべきまとめは、2014年の「『秘密の法的保護』のあり方から『情報法』を考える」(『情報セキュリティ総合科学』Vol. 6)で、その結果「秘密型の情報保護」が存在し得ることも証明でき、やっと2つのタイプを対比的に統合するというブレーク・スルーに成功しました。

 その結果、拙著『情報法のリーガル・マインド』では「差止条件付き許諾権としての知的財産制度」「管理責任付き秘匿権としての秘密保護法制」として、両類型を分かり易く再類型化できたと思っています。しかし振り返れば、このテーマとの悪戦苦闘は15年以上に及んだことになります。

・知財型と秘密型の対比

 かくして類型化された知財型と秘密型の保護方式の違いは、同書の図表2-7.(p.91)にまとまられています。念のため、説明抜きで該当部分を再掲します。ここでは、この表以上に細かい説明はしませんので、疑問や関心をお持ちの向きは、直接拙著に当たってください。

・それでも敬遠される「秘密型」という概念

 こうして私の中では、「秘密の法的保護」の位置づけがクリアになったのですが、この理論が世間に受け入れられたかというと、残念ながらそうではありません。試しに、情報法関連の判例を参照するために「便利帳」として使わせていただいている、宍戸常寿(編) [2018]『新・判例ハンドブック[情報法]』(日本評論社)を見ると、以下の表のような分類を採用しています。ここでは知財型の判例が著作権を中心に多数収録されているのに対して、秘密型のものは営業秘密を含めて極めて少ない状況です。

 なお別の論点ですが、この表の末尾にある「情報と裁判過程」という分類は、私が強調した「情報法では実体法と同等かそれ以上に手続法が重要になる」という指摘と軌を一にする面があることにも、注目していただければと思います。表自体は、目次を転写したものに過ぎませんが、新しい分野であるだけに「分類それ自体が物語るファクトがある」という印象を持ちます。

 私としては、情報の法的保護の類型として「秘密型」があることをまず認識いただくと同時に、それには国家の秘密を守る特定秘密保護法や、企業の秘密を守る不正競争防止法、個人の秘密を守る個人データ保護法などが包摂されることを、理解していただきたいところです。

 また、秘密が法的に保護されるには、① 公知ではないこと(非公知性)、② 営業上または技術上有用であること(有用性)に加えて、③ 秘密として管理されていること(秘密管理性)、が必要です。これは営業秘密の3要件として確立された概念ですが、このうち ③ について「どのように管理すべきか」「情報へのアクセスにはどのような資格が必要か」については、これまで経済産業省が基準・ガイドラインとして示す「営業秘密管理指針」に委ねられ、行政庁もこれに準ずることとされてきました。

 しかし、前者については公文書管理法(2009年法律第66号)が、後者については特定秘密保護法(2013年法律第108号)が制定され、行政庁の文書管理と秘密情報へのアクセスについて、法的な手続きが明示されました。特に後者は「セキュリティ・クリアランス」を含むもので、これでやっと行政庁の情報保全(狭義のInformation Security = InfoSec)の制度が整ったことになります。

 今後は、営業秘密管理指針が行政庁にも準用されるというベクトルは修正され、行政庁の制度の方が民間企業へと浸透していくでしょう。ただし、秘密は「生もの」に似ていて賞味期限がありますから、秘密指定をするばかりで解除を怠ると、管理すべき対象が膨大になって漏えいのリスクが急激に高まることにも、留意しなければなりません。

 いずれにせよ私が主張する「秘密型」の情報保護が明確な形を取ったことになりますが、学界の反応は緩慢です。個人データ保護法の研究者が100人以上はいると思われるのに、特定秘密保護法をしっかり身につけた方は数えるほどしかいない現状は、世界標準から見れば「ガラパゴス状態」ではないかと思わざるを得ません。

林「情報法」(42)

嘘と秘密の間

 第40回の原稿を本サイトの運営者の矢野さんに送ったとき、「モームの『物知り博士』という短編は面白いですよ。岩波文庫『モーム短編選 (下) 』にあります。息抜きにどうぞ。」

というメールをいただいたので、読んでみました。連載を続ける中で、「嘘」をめぐる言説を検討していくと「秘密」との境目に近づいていくような気がしていたので、興味深く読みました。「嘘」は内容の真偽を問題にし、「秘密」は関係者の秘匿する意思を問題にする点で、全く交点は無さそうにも思えますが、嘘か本当かの「白黒をはっきりさせない」ためには秘密にしておくのが一番なので、実は両者は微妙な関係にあります。

・モームの「物知り博士」

 ケラーダ氏と太平洋航路で同室になった私は、「どうせ嫌な男だと決めてかかっていた。」彼は話し好きで「3日もすると船中の全員と知り合い」、あらゆる話題に薀蓄を披露するが、「自分が嫌われているなどとは決して考えたこともない」ため、皮肉を込めて「物知り博士」と呼ばれるようになる。

 ある日の夕食時に、天然真珠と養殖真珠を見分けることが出来るかをめぐって、神戸在住の米国外交官のラムゼイ夫妻を巻き込んだ大論争になった。夫人が着けている真珠はニューヨークで買った18ドルの安物だという夫に対して、ケラーダ氏が数万ドルもする高級品だと主張したからである。両者は賭けをすることになり、ケラーダ氏が真珠を鑑定すると言い出す。

 夫人は真珠を渡すのを嫌がるが、夫が外してケラーダ氏に手渡す。受け取った彼は、拡大鏡を出して子細に調べ、笑みを浮かべて真珠を返そうとするが、そのとき夫人の方をちらと見ると「真っ青で今にも気を失いそうだった。」ケラーダ氏は「顔を紅潮させ」「私が間違っていました」として、100ドル紙幣をラムゼイに渡す。「ケラーダ氏の手が震えていることに私は気づいた。」

「話はあっという間に船内全部に伝わり」「物知り博士が遂に尻尾を出したというのは、愉快な冗談だった」が、翌朝ドアの下からケラーダ氏宛の手紙が差し込まれる。出てきたのは100ドル札で、彼は赤くなった。「真珠は本物だったのですか」という私の問いに、「もし私に美人の女房がいたら、自分が神戸にいる間、ニューヨークで1年も1人にしておきませんよ」と彼が答える。「その瞬間、私はケラーダ氏が必ずしも嫌いではなくなった。」

 サマセット・モーム(Somerset Maugham, 1874-1965)は、イギリスの小説家・劇作家で『月と6ペンス』などの長編も有名ですが、短編にも優れた作品を残すほか、インテリジェンス業務にも従事した経歴の持ち主です。ただ不幸にして、私が最初に読んだのが受験英語の教材としての彼の作品であったためか、これまで何となく敬遠してきました。今回矢野さんの導きで、その良さを知ったので、私もモーム「食わず嫌い」を改めようと思いました。

・ポズナー教授のプライバシー感

 さて、このように文学作品では「嘘の効用」のニュアンスを伝えるものが多数あるのに対して、法学や「法と経済学」では、そのような人間臭さは捨象されているとお感じかもしれません。しかし、どのような分野であっても第一級の研究者は、人間臭さを忘れてはいないようです。

「法と経済学」の創始者の1人であり、自らも第7巡回区連邦控訴裁判所の判事として活躍しているリチャード・ポズナーは、「プライバシー」の背景には、「他人に裸を見られたくない」という動機と、「信用を失わせる事実を秘密にしておきたい」という望みの2つがあるとした上で、後者について以下のような観察をしています(『ベッカー教授、ポズナー教授のブログで学ぶ経済学』鞍谷・遠藤(訳)、東洋経済新報社、2006年)。これはモームの問題設定に近い発想です。

 プライバシーの第2の動機、すなわち信用を失わせる事実を秘密にしておきたいとの望みは、社会的観点から見て第1の動機よりも問題が多い。個人的取引(たとえばデートや、結婚や、親戚の遺言における指名など)の場合でも、商業的取引の場合でも、人々は自らに有利な取引をするために“できるだけ良い印象を与えよう”とする。この努力はしばしば、潜在的な取引相手が自分との取引を拒否することになるような情報、あるいは、より有利な条件を要求するようになる情報を隠すことを含む。そのように隠すことは、一種の不正行為である。だが、情報を隠すことはあまりに広く行なわれており、全体としては法的な処罰を必要とするほど有害なものではない(ただし例外的な場合はある)。そのうえ潜在的にそのような不正行為の犠牲になるおそれのある人々は、通常は自己防衛もできる(ただしコストもともなうが)。
 たとえば長々と展開する求婚過程は、将来に配偶者となる可能性がある人々が、暗黙あるいは明示的に表現される相手の人柄を互いに確認しあい、それによってロマンティックな恋愛関係にありがちな欺瞞をはがし本当の姿を知る一つの方法である。さらにまた(中略)すべての個人をあたかも証券取引委員会が規制する証券目論見書の発行人のように扱うことは、ささいではあるが人心を乱すような情報を社会に溢れさせるという弊害を生むであろう。
 だからと言って逆に、(あまり重要とは言えない)欺瞞を可能にしたり保護したりするために、法的強制力をともなう情報プライバシー権をわざわざ法が包括的に定めるべきであるということにはならない。

 これは人生の酸いも甘いも経験した人の言葉として聞くべきでしょう。プライバシー権にご執心の学者は、それが他の何物にも代えがたい基本権だと考える傾向があります。「自己情報コントロール権」という発想などは、その最たるものと言えましょうが、自分のこともあるところまで明らかにし、あるところを超えた部分を秘密にすることで、その人の魅力が醸成されると考えるべきでしょう。

 例えば詩人は、どの言語を使うかにかかわらず、そのあたりの微妙な心理を詠っています。わが国で言えば、「恋は終りね。秘密がないから」(なかにし礼・作詞作曲「知りすぎたのね」1967年)という逆説的な短いフレーズの中には、ポズナーの指摘を全部盛り込んだ感があります。

・「嘘」や「セキュリティ」の困ったところ

 しかし言うまでもないことですが、「嘘の効用」を認めることは「嘘の奨励」を意味するものではありません。特に注意を要するのは、1つの嘘が多くの嘘を誘発する「嘘の伝播効果」をどうやって防ぐかです。フェイク・ニュースの拡散に対して、その根拠を洗い出すファクト・チェックの活動が続けられていますが、情報の複製や伝播が容易でコストもさほどかからないのに対して、チェックには何倍もの時間とコストがかかり、しかも「後手に回る」ことが避けられないからです。

 このような状況は、サイバー・セキュリティの分野で最も顕在化しているように思われます。私自身は、この分野を研究しているので、問題の重要性が広く認識されていくのは喜ばしいと思う反面、費用対効果の面から見ると「セキュリティ対策費には上限があるのではないか」という疑念を禁じ得ません。例えば、年間売上高10億円の企業が年100万円のセキュリティ対策費(売上高比0.1%)を捻出できないとは思えませんが、1億円(同10%)必要だと聞けば、「何とか圧縮できないか」と考えるか、対策そのものを諦めるでしょう。

 しかし、トランプ大統領がフェイク・ニュースという「パンドラの箱」を空けてしまった(更にロシアが、外国の選挙に干渉するという禁じ手を使ってしまった)以上、ゲームのルールが変わって「対策費をケチった方が負け」という悪のスパイラルに陥ったように感じます。「嘘つきは泥棒の始まり」という牧歌的な倫理で社会の秩序が保たれていた時代は、もう戻ってこないのでしょうか?

林「情報法」(41)

情報の「法と経済学」の可能性

「嘘」を巡って人文科学から出発して、経済学と法学の両面から種々の分析を加えてきました。この辺りで、「情報の人文・社会科学」を今一歩前進させるためのヒントについて、私が援用する方法論である「法と経済学」を前提にしながら、まとめてみましょう。

・「情報の非対称性」の分析だけでは「情報の経済学」にならない

 これまでに検討してきた各種の仮説の中で一番有用と思われたのは、「情報の非対称性」に関する経済学的分析だったかと思います。経済取引が当事者間の合意だけで成り立つためには、明確な権利の設定・公平な市場のルールなどの法整備が大前提になり、財の確定性・限界費用逓増・外部性のなさ等とともに、両当事者が取引に必要な情報を持っていることが条件となります。ところが実際には、これらの条件を完全に満たすことは稀で、特に売手と買手の間の情報量に差があることが、問題とされるようになりました。

 この点に着目した「情報の非対称性」の分析は、取引の前提になる「価格」などの情報(つまり「取引手段としての情報」)が、当事者間で偏在しがちなことや、それが取引結果にどのような影響を与えるかを説明できるので、便利な道具として使われてきました。その結果、一部では「情報の非対称性の分析」=「情報の経済学」という誤解が生じたほどです。

 しかし、良く考えて見れば分かる通り、これは「取引費用の経済学」に発展することはあっても、「財としての情報」(「取引対象としての情報財」)そのものについての分析ではないため、「情報の経済学」の一部でしかありません。「取引手段としての情報」から「取引対象としての情報」へと、分析の重点を変えることは大いなる飛躍であり、ジャンプするのは容易ではありません。「財としての情報」を扱う情報産業は、日々新しい技術を生み、シュンペーターの言う「イノベーション」を繰り返しているからです。

 20世紀末に、評価の高いミクロ経済学の標準的教科書の著者であるハル・ヴァリアンがカール・シャピロとの共著Information Rules: A Strategic Guide to the Network Economy(1998年。邦題:「ネットワーク経済」の法則)を公刊して、これこそ「情報の経済学」の最初の書物であると注目されました。ところが、その後彼は学界を去り、Googleのチーフ・エコノミストになってしまいました。ビッグ・データを持っている所に行かないと、学問が出来ないことを暗示するような出来事でした

・「価値の不確定性」等がある限り「法学のみのアプローチ」では限界がある

 それでは、経済学の助けを借りず、法学だけで情報に関する規律を調えることは可能でしょうか? それは情報という対象に「価値の不確実性」が付きまとう限り、不可能とは言いませんが、非常に困難なことだと言わざるをえません。なぜなら、法学が規律を考えるに当たっては、一種の平均値管理をせざるを得ないからです。既に述べたように「合理的人間」というモデル化においても、「社会全体から見て平均的な感受性と判断能力を持ち、社会通念に沿った合理的な判断ができる個人」というように「社会通念」や「平均的な感受性」といった概念を導入するしかないからです。

 ところが情報の価値は、時と場所と態様によって、同一人においても千変万化します。例えば同じ私が、ある時重要だと思ったことが、数日も経たないうちに役立たずになったり、ある場面では不必要だった情報が別の場面では必要になったり、使い道次第で効用が180度変わったり、といったことはあり得ることですし、それを非難することはできません。これこそ、情報に固有の「価値の不確定性」という特質だからです。

 このような対象(法学的には「客体」)を扱う仕組みを、「平均値管理」が不可避な法の世界で成り立たせることは、これまでも経験したことの無い「事件」であり「不可能」と言いたいところです。しかし「情報法」を考える以上は、この問題を検討しないまま、入り口で排除することは出来ないと思います。喩えてみれば、量子論のように「生きているか死んでいるかを事前に決定できない。それぞれ50%の確率で生きているか死んでいるかのいずれかである」という、「シュレディンガーの猫」状態を是認せざるを得ないと思います。

「そんな夢物語を法学に持ち込むな」というお叱りは、もっともです。しかし量子コンピュータや量子暗号が実用に近づいている現代において、こうした「夢物語まがい」の事象を「入り口で排除する」ことは、学問の自殺行為になる恐れがあります。その際有効なのは「自分一人で考え込まない」「他の学問分野の知見を遠慮なく活用する」ということではないでしょうか? その場合、学問分野として近いのが経済学であることは言うまでもありません。

・行動科学的「法と経済学」なら役に立つか

 しかし「情報価値の不確定性問題」は、伝統的な経済学において克服されていませんし、行動経済学においても同じです。homo economics(経済合理的個人)の前提を緩め、実験経済学やゲーム理論を活用して「ほぼ合理的だが、時として非合理な判断をする」個人の行動分析に多くの貢献をしたことで、行動経済学の評価は高まったと思われます。それに意を強くして「法と経済学」の方法論も、「行動科学的法と経済学」へと変化しています。

 このように「経済人仮説」を柔軟に解釈したことは、一定の評価を与えても良いかと思いますが、経済学が「情報財」を経済分析の対象として認知し、他の財と比べてどんな特性があるかを深掘りしたかと問われれば、残念ながら答えは「ノー」と言わざるを得ません。不確実性の経済学・カオス理論といった分析道具の面で、期待を抱かせる仮説もありましたが、法学における「占有できない客体に対する権利設定」に比較し得る程度に、経済学の検討が進んでいるとは思えません。

 しかも、先に触れたとおり、最先端を走っていたヴァリアンがビジネスに転じたことで、逆に「学者の限界」を知らしめることになりました。新しい分析結果が、ビッグ・データを自由に利用できるGAFAのような超大企業からしか出てこないとすれば、学者が追跡調査する術もなく、結果だけを真似するしかありません。それは学問の発展にとって、最大の障害となる恐れがあります。

・歴史に学ぶことはできる

 しかし、希望がない訳ではありません。どんなに技術が深化しようが、社会の変化が激しくなろうが、過去に学ぶことの意義はなくならないことから、歴史研究から得るものがありそうです。中でも、情報化社会の進展とともに、歴史を「情報が果たした役割」の視点から見直そうとするアプローチは、意外なことを教えてくれます。

 例えば、近代ヨーロッパ経済史が専門の玉木俊明は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、わが国では人気のある仮説ですが、実はカトリックも資本主義の発達に寄与しなかった訳ではない点を強調しています(『<情報>帝国の興亡』講談社現代新書、2016年)。それどころか、両派の間はもちろん、言語の壁を超えて中国人やユダヤ人とも取引が行なわれたと言います。

 なぜなら、グーテンベルグの印刷革命によって、聖書が安くまた自国語訳で読めるようになり、宗教革命につながったのと同程度に、『商人の手引き』といったマニュアル(その代表例はフランス人サヴアリにより著され1675年から1800年まで実に11版を重ねた『完全なる商人』だと言います)による契約書の標準化や、商業新聞や『価格表』の普及による市場情報の迅速・正確な伝達が可能になったからです。

 これまでグーテンベルグ革命といえば、宗教改革と結びつきが強いものと考えられてきました。入試問題に出れば、両者を結び付ける線を引けば正解となるほど、両者の紐帯関係は強固なものだと思われたのです。ところが、それと同程度にグーテンベルグ革命が商業資本主義(あるいは重商主義)のインフラを提供していたとすれば、世の中を見る目を大きく変えることでしょう。このように「情報」という視点から、世界理解を見直すことから、意外な展開が期待できるかもしれません。

林「情報法」(40)

法学における嘘の扱い(3):フィクションという意味での「嘘」

 前2回における説明には法学の専門用語も出てきましたが、それでも「意思表示における嘘」は身近で分かり易かったと思います。ところが、法学は「フィクションの上に成り立っている」ものであり、条文に代表される「規定=フィクション」の解釈が決定的な影響を持つため、「法の解釈そのものが嘘かもしれない」という視点を欠かすことができません。前者が法そのものは与件として受け容れているのに対して、後者は法をメタ思考の対象としている点で対照的とも言えます。この世界に入り込むと何が起きるのか、恐る恐る覗いてみましょう。

・「合理的人間」モデルに見る経済学と法学のギャップ

 学問はすべて何らかのモデルを描いた上で、そのモデルの妥当性を検証するものですから、多かれ少なかれフィクション性を帯びています。私が学んだ経済学と法学は、ともに「合理的人間」をモデルにしていますが、前者は rational personを、後者は average reasonable personを念頭においている点で、実は(日本語では同じでも)「似て非なる」ものです。その両学問の差を対比的に表示すると、以下のようになるでしょう。ただし、ここでの法学とは主として「法解釈学」のことで、法社会学や「法と経済学」などは、除外しています。

 

経済学

法(解釈)学

①モデルとしての人間像

「自己の効用を最大化する」という意味で合理的な判断ができる個人(rational person)

社会全体から見て平均的な感受性と判断能力を持ち、社会通念に沿った合理的な判断ができる個人(average reasonable person)

②検証方法

経済現象の説明手段として有効か否かという定性的な検証のほか、現代では実験や統計による定量的検証も可能に

上記の想定に基づく政策判断や判決が、世間一般から支持されるか否かという視点での、定性的検証

③他のモデルの存立可能性

合理性の仮説を部分的に除いても、現象が説明できればモデルとして成り立つ

Average reasonable personの仮定を外すと、全体系が瓦解する恐れがある

④有力なモデル

Bounded rationalityモデルから発展した行動経済学のモデル

複雑系や行動経済学に対応したモデルを持ち得ていない(不可能?)

⑤専門家養成方法

自然科学や人文科学と変わらない(最高位はPh.D.)

専門職大学院であるlaw schoolにおける実践教育(LL.D.)

 この表のうち最も大きな差をもたらすのは、② と ③ ではないでしょうか。法学はaverage reasonable person(ARP) を前提として解釈運用されており、フィクションとしての法の規定の上に、解釈という別のフィクションが積み重なっていく構造になっています。その結論が正しいかどうかは、世間一般(社会通念)が認めてくれるかどうかにかかっており、(世論調査のような原始的な手段以外に)計量的に検証する手段がありません。つまり法学における「フィクション性」は経済学よりも強く、ましてや自然科学とは大きく隔たっていると言えます。

 このことは ⑤ の専門家育成方法に端的に表れています。わが国では法学部の上に法科大学院を作るという蛮行(?)がなされましたが、英米のlaw schoolは(medical schoolとともに)学部とはつながらないgraduate schoolで、わが国の専門職大学院に当たります。また学位(degree)も一般の大学院が出すPh.D.の系列ではなく、(MD = Medical Doctorと同様)LL.M.やLL.D.といった法学固有のものです。

 ところがわが国では、「法学と医学は実学で、リベラル・アーツやサイエンスとは区別される」という発想が理解されないため、すべての博士号を「博士(○○学)」に統一してしまいました。その結果、制度の変わり目である20世紀と21世紀にかけて2つの博士号をいただいた私は、「経済学博士(京都大学)」と「博士(法学、慶應義塾大学)」という表記を期待されています。しかし、この表記ではアメリカ人に分からないため、お叱りを受けるのを覚悟の上で、「Ph.D.(Economics)、LL.D.」と記載するしかありません。

・フィクションとしての法と、解釈や事実認定におけるフィクション

 このような法学の特殊性と限界を、大正年代に指摘した先駆者として末弘厳太郎がいます。「私は数年このかた『法律における擬制』(legal fiction)の研究に特別の興味を感じている」という独白を含むリード文で始まる「嘘の効用」(初出『改造』1922年7月号、『役人学三則』岩波現代文庫2000年に収録、青空文庫で読める)は、「擬制という意味での嘘」の機能を分析したユニークなエッセイです。

 末弘は、もともとドイツ流の概念法学の流れを汲んでいましたが、第1次世界大戦の勃発によりドイツではなく、アメリカに留学しました。帰国後、留学中に研究した社会学の成果を法解釈学に持ち込み、実生活に内在する「生きた法」と国家の制定した「法律」の乖離を理解すべきであるとして、民法判例研究会を設立しました。また両者にギャップがある代表例として、現実の労働問題に関心を持ち、日本で最初の労働法の講義を行ないました。加えて、欧米と異なる日本独自の「法」の現実を知るには、日本古来の農村を調査する必要があるとして、法社会学の基礎を築いたことでも有名です。

 このような経験と発想の持ち主である末弘から見ると、「嘘をついてはいけない」が最も基本的な戒律である一方、「この世の中には、種々雑多な嘘が無数に行なわれて」いる姿が映ります。その極限は、「生きた法」と「法律」の間に齟齬がある場合に、裁判官や法律家が行なう「擬制」、つまりは「嘘」だというのです。例えば、なぜ大岡越前守に人気があるかと言えば、「一言にしていうと、それは『嘘』を上手につきえたためだ、と私は答えたいと思います。」その背景について末弘は、次のように述べています。

 人間は「公平」を好む。ことに多年「不公平」のために苦しみぬいた近代人は、何よりも「公平」を愛します。(中略)いわゆる「法治主義」は、実にこの要求から生まれた制度です。
 法治主義というのは、あらかじめ法律を定めておいて、万事をそれに従ってきりもりしようという主義です。いわばあらかじめ「法律」という物差しを作っておく主義です。ところが元来「ものさし」は固定的なるをもって本質とするのです。「伸縮自在な物差し」それは自家撞着の観念です。(中略)
 ところが、それほど「公平」好きの人間であっても、もしも「法律」の物差しが少しも伸縮しない絶対的固定的なものであったとすれば、必ずやまた不平を唱えるに決まっています。人間は「公平」を要求しつつ同時に「杓子定規」を憎むものです。したがって一見きわめてわがままかってなことを要求するものだといわねばなりません。

 つまり大岡越前は、この「わがままかってな人間」が満足する解を「擬制」することが出来たからこそ人気があるのだと言います。そして彼は、法律の専門家らしく同種の具体例を挙げますが、その中には今日的には不適切な例もあるので、なお有効なものだけに絞ってみましょう。① nominal damage(名義上の損害賠償)を認める(実害がなくても不法行為であることを認定することによって、勝訴者という名誉を得、相手方に訴訟費用を負担させることができる)、② 協議離婚を認めない法律が多い中で、夫婦の間に虐待があったことを擬制して離婚を成立させる、③ 無過失責任の新法理の擬制:公害など近代的な企業の不法行為に対して、フランスでは「過失」の概念から主観的要素を希釈化して「違法」と違わないほどに換骨奪胎。

 もちろん彼は熟達した法律家ですから、③ についてフランス流の「見て見ぬふり」の効用を認めると同時に、ドイツでは「正面から堂々と無過失責任の理論を講究し論争して」いたことにも触れています。そして、「裁判官のこの際採るべき態度は、むしろ法を改正すべき時がきたのだということを自覚して、いよいよその改正全きを告げるまでは『見て見ぬふり』をし、『嘘』を『嘘』と許容することでなければなりません。」として、「嘘」を次善の策としているのです。

・インターネット時代への暗示

 「情報法」という新分野に取り組んでいる私から見ると、末弘の卓見は第11節(最後から2つ目の節)の次の件にあるように思えます。

 私の考えによると、従来の「法」と「法学」との根本的欠点は、その対象たる「人間」の研究を怠りつつ、しかもみだりにこれを「或るもの」と仮定した点にある。すなわち本来「未知数」たるものの価値を、十分実証的に究めずして軽々しくこれを「既知数」に置き換える点にあるのだと思います。(中略)従来の法学者や経済学者は本来Xたるべき人間をやすやすとAなりBなりに置き換えて、人間は「合理的」なものだとか、「利己的」ものだとか、仮定してしまいます。(中略)しかし人間は、合理的であるが、同時にきわめて不合理な方面をも具えて、また利己的であるが、同時に非利己的な方面をも具えている以上、かくして軽々しく仮定された「人間」を基礎として推論された「結果」が一々個々の場合について具体的妥当性を発揮しうるわけがないのです。(中略)
 さらばといって、XをXのまま置いたのでは学問になりがたい。なんとかしてそれを既知数化せねばならぬ。それがためにはまずできるかぎりXの中に既知数的分子たる a b c d などを求めなければなりません。しかし、それでもなお跡にはかなり大きな未知数が残ることを覚悟しなければなりません。

 実は私が、経済学から法学に転じた(再転向した?)のは、「インターネット・ガバナンス方程式」は未知数ばかりで、定数が無いかごく少ない。仮にあるとすれば、それは「法」ではないかと考えたからでした。私もゼミ生には先行研究の大切さを説いてきましたが、この一節をもっと早く知っていれば、と悔やむことしきりです。

林「情報法」(39)

法学における嘘の扱い (2): 消費者(保護)の視点から

 連載第36回で、経済学が開拓した「情報の非対称性」の理論を紹介しました。また経済学は「市場」を前提に議論するので、何らかの事情で「市場が失敗する」(法学的に言い直せば「契約が有効でない」に近い)事態を嫌います。その被害者の大部分は消費者ですから、法学が「嘘」から守る対象として「消費者」を第一に考えるのは当然とも言えます。このような分野の特別法の総体は、講学上「消費者法」と呼ばれますが、複合領域をカバーするので概説は容易ではありません。ここでは中田邦博・鹿野菜穂子(編)[2018]『基本講義 消費者法』(日本評論社)の諸論稿を中心に、最も分かり易い例を説明します。

・意思表示の特別法としての消費者(保護)法

 民法は一般法として、典型的・一般的な規定を定めるもので、それが十分でない場合には特別法が制定されることになります。大量生産・大量消費の時代を経て、サービスを含めた消費活動が活発化するにつれて、「情報の非対称性」等に影響された取引の弊害が目立つようになりました。そこで、A. 製品やサービスによる危害を防止する(安全)、B. 製品やサービスの表示を適正にする(表示)、C. 契約の形式や内容を公平にする(取引)の3局面で、新たな法的手当の必要性が生じました(第3章「消費者と行政法」中川丈久執筆)。

 このうち C. は、民法の意思表示の規定の特別法とも言える部分があるので、そこだけ説明しましょう。消費者が「契約は有効でない」と主張し得るケースとして、民法には、前回説明した ③ 錯誤、④ 詐欺、 ⑤ 強迫の3つ(以上、いずれも「取り消し得る」)に加えて、⑥ 公序良俗違反による無効(改正民法90条)、の4ケースが準備されています。しかし裁判結果を見ると、いずれも解釈論で取消や無効を証明することは難しく、「2000年における消費者契約法および特定商取引法の制定をはじめ、重要な特別法の制定や改正」が行なわれることになりました(第2章「消費者と民事法」鹿野執筆)。

 消費者契約法(2000年法律61号)は、上記C.のうち契約締結過程における民法の特別法として、消費者(原則として個人ですが、「事業として又は事業のために契約の当事者となる場合」は除かれます。同法2条1項)と事業者(同条2項では「法人その他の団体」か「事業として又は事業のために契約の当事者となる場合における個人」)間の取引(いわゆるB to C = Business to Consumer)には、民法より優先して適用されるものです(第6章「消費者契約法 (1) 総論・契約締結過程規制」鹿野執筆)。

 その第4条は、消費者が同条に規定される以下の4つのタイプの不当勧誘行為によって誤認または困惑して意思表示した際には、契約を取り消すことができるとしています。

     1) 重要事項の不実告知、不確実事項の断定的判断の提供(1項)、
  2) 重要事項等に関する不利益事実の不告知(2項。前項を含め民法の詐欺における「故意」を不要に)、
  3) 交渉の場からの退去意思の表明あるいは要請を無視した勧誘(3項。民法の強迫の要件を緩和)
    4) 通常の分量を著しく超える分量の勧誘(4項)。

 また特定商取引法(1976年法律57号)は、消費者トラブルの生じやすい訪問販売・通信販売・電話勧誘販売・連鎖販売取引・特定継続的役務提供・業務提供誘引販売取引・訪問購入の8つの取引形態だけを対象にするものですが、その限りでは民法に優先する規定を設けています。最も有名な例はクーリング・オフ(同法9条ほか。通信販売には適用されませんが、返品権という代替手段があります)と呼ばれ、「消費者が訪問販売などの不意打ち的な取引で契約したり、マルチ商法などの複雑でリスクが高い取引で契約したりした場合に、一定期間であれば無条件で、一方的に契約を解除できる制度」(国民生活センターのホーム・ページから)です。

 なお意思表示に関する一般原則は、有体物が中心の時代に制定されたものであるため、ネット取引の特性を反映して、修正されることがあります。例えば、電子商取引におけるクリックの間違いも表示行為の錯誤の一種ですが、「電子消費者契約及び電子承諾通知に関する民法の特例に関する法律」(2001年法律95号)によって、承諾の意思表示の錯誤に重過失があっても、表示行為に対応する内心的効果意思がなかった場合(同法3条1号2号の場合)には、原則(民法95条本文)どおり無効となる(3条本文)こととされています。ただし、事業者が承諾の意思表示を確認する措置を講じた場合や、消費者から事業者に対してそのような措置を講ずる必要はないという意思の表明があった場合には、表意者に重過失があれば表意者から無効を主張することはできません(3条但し書き)。

 これらの規定も民法の改正に連動して、法律名が「電子消費者契約に関する民法の特例に関する法律」となるほか、「無効」から「取り消し得る」ことに変更になり、新設される「動機の錯誤」には適用されず、「表示の錯誤」のみに適用されることになります。

・「消費者」に関する3つの見方

 それでは、消費者は「a. 専ら保護の対象」なのでしょうか? それとも「b. 賢い消費者」として、経済学の標準モデルであるrational personを具現化した存在と認識すべきでしょうか? さらには私自身の主張である「c. 誤り易い個人(Error-Prone Person = EPP)」に包摂されると考えるべきでしょうか? ここには、経済モデルとしての妥当性を超えて、「法学は消費者をどう捉えるべきか」という論点が潜んでいるように思えます。

 この点に関して前出の書籍の共編者である中田は、「甲 弱者としての消費者」「乙 自立した権利主体としての消費者(市場の主体としての消費者)」「丙 社会的弱者としての消費者(要保護性の高い消費者)」3つのモデルが鼎立していると分析しています(第1章「消費者法とはなにか」中田執筆)。

 甲 は、労働法が「弱者としての労働者の保護に重点がある」のと同じ考え方で、旧「消費者保護基本法(1968年制定)」の背景にあった発想と思われます。乙 は、それが2004年に大幅に改正され、名称から「保護」が削除されて「消費者基本法」となった時の発想に対応し、「保護から自立へ」がキーワードの1つになっています。丙 は、乙 を認めてもなお保護すべき対象(高齢者、18歳・19歳の若年成人、障碍者など)に対して、特別な扱いの必要性を説くものです。

 このような分析を私の分類と対応させると、a) と甲、b) と乙 はほぼ対応しますが、c) と丙 の関係は定かではありません。丙 では法学一般がモデルとする「合理的な判断ができる平均的個人(average reasonable person = ARP)」は原則的に除かれるのに対して、c) では適用の余地がある(一般人でも「時と場所と態様」によっては誤るので)という差があると思います。

 私としては、c) の「誤り易い個人」モデルをもっと広く理解してもらい、丙 におけるように特別扱いが必要な対象者だけではなく、一般人に対しても適用可能性を検討していただきたいところです。河上正二 [2018]「消費者法の来し方・行く末」『消費者法』第5号巻頭言 には、「平均的合理的人間から具体的人間へ」という表記がありますが、私の理解と同じかどうかは、なお見極める必要がありそうです。

  なお、このように消費者法では、権利の主体となるはずの「消費者」の定義が不明確である(法律によっては「購入者」「相手方」「顧客」などが主体であるとしつつ、「営業のために」した場合は除くと規定している)ことも反映してか体系的に論ずることが難しく、中田・鹿野(編)[2018] も、以下のように多くの法分野にまたがったものになっています。

  民法:例示した通り、消費者法は民法の特別法という性格を強く持っています。
  行政法:消費者庁・消費者委員会・国民生活センターのほか、公正取引委員会なども関係し、各種の行政規制・措置や課徴金の役割が高まっています。
  刑法:違反行為に対するサンクションとして刑事罰に期待する場面があり、刑事と民事の連携も生じています。
  経済法:独禁法の消費者保護法的な側面は、消費者法と相互補完の機能を持ちます。

・消費者問題は国際的問題

 インターネット取引には、国境がありません。また消費という活動は、万国に共通であるため国際的な運動論となる素地がありますから、消費者法については比較法的な視座を欠かすことはできません。食品安全におけるCODEX(ラテン語で「食品規格」の意)の役割、製造物責任法の国際的平準化、EUのデータ保護法制の域外適用による世界各国への影響等に見るように、消費者法の国際的伝播には注意が必要です。

 消費者運動の国際的組織であるCI(コンシューマーズ・インターナショナル)は、① 生活の基本的ニーズが満たされる権利、② 安全である権利、③ 知らされる権利、④ 選ぶ権利、⑤ 意見を反映される権利、⑥ 救済を受ける権利、⑦ 消費者教育を受ける権利、⑧ 健全な環境の中で働き生活する権利、の8つを消費者の権利として掲げています。

 消費者基本法制定50周年を記念した論文で、消費者委員会委員長である松本恒雄は、消費者被害の救済のしくみに関して、以下の3つの課題を指摘しています(「消費者政策の変遷と法整備」『国民生活』No.70、2018年5月)。

 ① 少額訴訟制度やADR によって個別被害の救済をもっとやりやすくする、
 ② 団体訴訟やクラスアクションによる集団的被害救済(2016年10月から施行されている「消費者の財産的被害の集団的な回復のための民事の裁判手続の特例に関する法律」(消費者裁判手続特例法)は、対象がかなり限定されている)、
 ③ 消費者保護執行機関、行政機関による消費者被害救済のための損害賠償訴訟(2006年の組織犯罪処罰法の改正と「犯罪被害財産等による被害回復給付金の支給に関する法律」の制定に基づく被害回復給付金支給制度があるが、消費者被害が「組織犯罪」に該当し、犯罪収益が没収・追徴されていることが前提と、要件が厳格である)。

・情報法との共通項

 以上、駆け足で「消費者法」を概観しました。いずれの特別法も、情報の量と質の面で見劣りし契約交渉力でも劣る「消費者」の立場を、民法の一般レベルよりも保護する立法(消費者取引法第1条の目的に相当)と言えるでしょう。しかも、意思表示を初めとして「情報法」の考察対象とかなりの重複がある点(情報が消費の対象になる場合と、情報が行為の基礎となる場合の両面で)に、お気づきになったのではないでしょうか。正直に言えば私自身も、この連載を通じて両者の交錯をより深く理解できるようになりました。

 消費者法の視点を持つことによって、情報の非対称性がある場合において、誰をどこまで保護する必要があるのか、あるいは保護だけに偏ってはいけないのか、が明確になるように思います。「消費者保護基本法」が「消費者基本法」に変わった歴史から見ると、個人情報保護法からも「保護」の文字が抜けて「個人データ法」となることも考えられます。また、中田・鹿野(編)[2018] は最も体系的な概説書ですが、前述の中川の A. B. C. 分類のうちC. の契約に重点があり、安全と表示に関する分析は相対的に薄いように思われます。

 このように、消費者法はまだまだ発展途上にあるという意味でも、情報法と共通項があるので、今後も両にらみの分析を続けていきたいと思います。しかしそのためには、私自身が消費者法をもっと深く理解する必要があると痛感した次第です。

林「情報法」(38)

法学における嘘の扱い(1):意思表示における「嘘」

 これまで「嘘」にまつわる種々の問題を、人文科学・経済学などの視点から見てきましたが、肝心の法学は「嘘」にどう対処しようとしているのでしょうか? ここには、人間の行為を規律する意味で基本となる「意思表示」をどう扱うかという日常的な問題と、それから派生する消費者保護のあり方、更には法律そのものが「虚構という嘘」の上に成り立っていることをどう考えるかというメタ思考的な問題、の3つの側面があります。それぞれを明確に分けた上で、逐次説明していきます。

・法学の基礎となる「意思表示」の扱い

 人間は日々膨大な情報を処理しています。英国の哲学者フロリディが、人間を「情報処理有機体(informational organism = Inforg)と呼ぶのも、もっともです。この情報処理行為のうち、特定の法律的効果をもたらすものを「法律行為」と呼びますが、その基本は個人の意思を他者に伝達する「意思表示」です。

 近代法の大前提は、「個人は合理的(reasonable)な判断能力を持っている」ということ(その能力を欠いた場合の扱いは、別途定める)ですから、意思表示は原則として尊重されなければなりません。どのような内容の契約であっても、一義的には(民法90条の公序良俗違反等の場合は別ですが)尊重されるという「契約自由の原則」は、その具体的現れです。しかし、その際には、取引が当事者間に閉じたものではないことにも配慮し、第三者の利益を害さないよう配慮する必要があります。   

 そのため民法は、表示された意思は原則として効果を持つものとし、例外的に効果をもたらさない場合だけを規定しています。民法93条から96条は、わずか4条に過ぎませんが、情報法の基本原理を示している、とさえ評価できます(4条以外にも重要な条文がありますが、ここでは省略)。以下、やや細かい法律論になって長くなりますが、「情報法とは何か」という原点に関係しますので、大筋だけでも理解してください。

 なお関係する条文は、民法の一部を改正する法律(2017年法律44号)によって改正されており、2020年4月1日から施行予定です。以下の説明は改正法を前提にしますので、『情報法のリーガル・マインド』のもの(pp.26-28)とは異なっていることに留意してください。ただし実際には、判例や学説で認められてきた要素を取り込むのが改正の主目的ですから、基本的な仕組みに変わりはありません。

・意思表示に問題がある5つのケース

 改正法に関する法務省民事局の説明資料「民法(債権関係)の改正に関する説明資料-主な改正事項-」(http://www.moj.go.jp/content/001259612.pdf)によれば、意思表示がそのまま受け入れられないケース(前節で言う「例外」)として5つを掲げています。これに若干のコメントを付加すれば、以表のようになります。

  内容 事例 改正の有無
①心裡留保(93条) わざと、真意と異なる意思を表明した場合 退職をする意思はなかったが、反省の意を強調する趣旨で、退職届を提出した 有(第三者保護規定の新設等)

②通謀虚偽表示
 (94条)

相手方と示しあわせて真意と異なる意思を表明した場合 財産を債権者から隠すために、土地について架空の売買契約をする なし
③錯誤に基づく意思表示 ③―1間違って真意と異なる意思を表明した場合(表示の錯誤) 売買代金として¥10000000(1000万円)と記載すべきところ¥1000000(100万円)と記載した契約書を作成してしまった(売主に錯誤) 有(③-2を明文化すると同時に要件を明確化し、「無効」ではなく「取り消し得る」こととして③~⑤を統一)
(95条) ③―2真意どおりに意思を表明しているが、その真意が何らかの誤解に基づいていた場合(動機の錯誤) 土地の譲渡に伴って自らが納税義務を負うのに、相手方が納税義務を負うと誤解し、土地を譲渡した(売主に錯誤)
④詐欺による意思表示 だまされて、意思を表明した場合 だまされて、二束三文の壺を高値で買わされた 有(第三者保護の要件の見直し等)
(96条)
⑤強迫による意思表示 強迫されて、意思を表明した場合 強迫されて、不必要な土地を買わされた なし
(96条)

・2020年4月からこう変わる

 上記のように整備された概念に対応する改正後の規定は、以下のようになります。アンダーラインの部分が、今回の改正箇所です。従来の「錯誤」の概念を明確にするとともに、「無効」とされてきた効果を「取り消し得る」こととして、詐欺・強迫による意思表示と同じように扱うようになることが読み取れます。

(心裡留保)
第93条
1 意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方がその意思表示が表意者の真意でないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
2 前項ただし書の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
(通謀虚偽表示)
第94条
1 相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
2 前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
(錯誤)
第95条
1 意思表示は、次に掲げる錯誤に基づくものであって、その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるときは、取り消すことができる。
一 意思表示に対応する意思を欠く錯誤
二 表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する錯誤
2 前項第二号の規定による意思表示の取消しは、その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたときに限り、することができる。
3 錯誤が表意者の重大な過失によるものであった場合には、次に掲げる場合を除き、第1項の規定による意思表示の取消しをすることができない。
一 相手方が表意者に錯誤があることを知り、又は重大な過失によって知らなかったとき。
二 相手方が表意者と同一の錯誤に陥っていたとき。
4 第1項の規定による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。
(詐欺又は強迫)
第96条
1 詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
2 相手方に対する意思表示について第三者が詐欺を行った場合においては、相手方がその事実を知り、又は知ることができたときに限り、その意思表示を取り消すことができる
3 前2項の規定による詐欺による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。

・表意者の故意による意思と表示の乖離=心裡留保と通謀虚偽表示

 以上の諸規定は一見込み入っていますが、全体を鳥瞰してみると、例外処理が行なわれるのは意思と表示が異なる場合に限り、表意者が真意でないことを知っている場合(表意者の故意による意思と表示の乖離)と、何らかの他律的要因で表意者が間違った場合(意思表示に瑕疵がある場合の意思と表示の乖離)の2つがあることが分かります。

 まずは、表意者が意識して「嘘」を表明した時の扱いです。これには、① 表意者だけが「嘘」と知りつつ表明する場合と、② 相手方と通じている場合の2つのケースがあります。更に両者から派生して、「相手方が嘘と知るべきであった」場合(③)と、両当事者以外の第三者が「嘘」だと知っている場合(④)があります。

 民法93条(心裡留保、単独虚偽表示とも言います)は上記 ① のケースを想定したもので、意思と表示が食い違う場合は、取引の安全を図る必要から「表示を重視」し「意思は関係なし」とするものです。これまでの連載では、「表示の偽装」を、倫理的あるいは商慣習上許されないとしてきましたが、法律上も「表示を信頼せよ」としていることになります。

 ただし、相手方が表意者の真意を知っている(このことを、法学では「悪意」であると言います。世間一般の用語の悪意とは異なります)か、あるいは知ることができたとき(知ることについて「過失」があると言います)には、その意思表示は無効とされます(93条1項但し書き)。これは上記 ③ のケースに対応するものです。

 次に94条(通謀虚偽表示)では、「相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効」として、② のケースへの対応を規定しています(94条1項)。虚偽表示であることを知る立場にある相手方を、保護する必要がないことから、当然のことと思われるでしょう。ただし、この意思表示の無効は、善意(これは前述の「悪意」の反意語で、法的には「事情を知らない」ことを指し、善人であるとは限りません)の第三者に対抗することができません(94条2項)。④ のケースへの対応です。

「対抗することができる」も法律用語で、「法律的な主張が正当なものとして認められる」ことを示し、その条件は通常法律に書かれています(これを「対抗要件」と言います)。ここでは逆に「対抗することができない」ですから、「そのように主張しても法的に正当なものとして認められない」ことになります。2人が通謀して行なったことで、事情を知らない第三者に被害が及ばないようにするためです。

・意思表示に瑕疵があることに由来する意思と表示の乖離:錯誤・詐欺・強迫

 第2類型として、人間は時として間違いを犯すことを前提にすれば、意思表示に欠陥(瑕疵)があった場合のことも定めておかねばなりません。間違いは、⑤ 自分だけの問題であるケースもありますが、⑥ 他者から影響を受けた場合もあります。

 ⑤ について民法95条(錯誤)は、「意思表示は、次に掲げる錯誤に基づくものであって、その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるときは、取り消すことができる」として、「表示に対応する意思がない場合」と「表示をする動機に錯誤がある場合」を定めています。ただし、「表意者に重大な過失(重過失)があったときは、(更に例外的な場合を除き)取り消すことができない」(95条3項)など、細かな条件が付されています。

 ⑥ について民法96条は、瑕疵ある意思表示(詐欺・脅迫がある場合)として、以下のように定めています。まず詐欺による意思表示は、原則として取り消すことができます(96条1項)が、第三者が介入した場合は、相手方がその事実を知っていた(悪意の)場合に限られます(96条2項)。また、その取消しは、善意・無過失の第三者に対抗することができません(96条3項)。他方、強迫による意思表示は取り消すことができる(96条1項)だけでなく、これについては96条3項に対応する規定はなく、善意・無過失の第三者にも対抗できます。 

 条文の数は少ないのですが、「嘘」についての法の基本的な立場を規定していることが、お分かりになったかと思います。