林「情報法」(43)

秘密の法的保護

 前回までの議論を経て、嘘と秘密の間には微妙な関係があることが浮き彫りになりました。

 法学は嘘の方にもうまく対応できていませんが、秘密の方に至っては「ほとんど手つかず」の状態であると思われます。その原因は、秘密を守ること(言い換えれば「隠すこと」)に手を貸すことが、「正義を実現する」という法律の使命に沿わないと思われがちなことでしょう。これは世界に共通の傾向ですが、とりわけわが国では、2013年の特定秘密保護法により国家秘密を守る法律がやっと制定されたこと、しかもその法律には感情的とも思われる反対論が根強いことに、象徴的に示されています。

・情報の法的保護の区分:仮説としての「知財型と秘密型」

 拙著『情報法のリーガル・マインド』には、同じく『情報法』を冠する書物にはない幾つかの特色があります。中でも対象となる情報の法的保護の方法を、① 事前に権利(排他権)を付与するか、② 事後的に損害賠償で救済するだけか、と、a) 情報を公開して守るか、b) 情報を秘匿して守るか、という2つの軸で区分して、①+a) の代表格である知的財産型と、②+b) の典型である秘密型の2つ類型があると指摘した点が、他の書籍や論文にはない特色であると自負しています。

 このアイディアは、2017年の同書で初めて発表するものではなく、そこに至るには長い空白と悶々とした歴史がありました。まず前者については、学者になった当初(1997年)から著作権の研究を始めたため、比較的短時間で問題の核心に近づき、2001年の「『情報財』の取引と権利保護」(奥野正寛・池田信夫(編)『情報化と経済システムの転換』東洋経済新報社、所収)で、知財型保護のあり方と限界を論ずることができました。

 他方、秘密については情報セキュリティの3大要素がConfidentiality、Integrity、AvailabilityのCIAであるとする一般的理解に基づいて、まずはConfidentialityの法的な根拠を明らかにしようとして、2005年に「『秘密』の法的保護と管理義務―情報セキュリティを考える第一歩として」(富士通総研研究レポートNo. 243)をまとめました。しかしサブ・タイトルにもある通り、私の本業である「情報セキュリティ」の視点からアプローチしたため、知財型との接点を見出せないままでした。

 これでは前に進めないと思った私は、法学の初学者(当時私は経済学者から法学者に転向したばかりでした)には、「情報法」といった複合領域を論ずる資格がないことを自覚しつつも、ある種の「賭け」に出ました。2006年に、やや学問的な論稿として「『情報法』の体系化の試み」(『情報ネットワーク・ローレビュー』第5巻)を発表するとともに、日経新聞から執筆依頼を受けた機会を捉えて、一般の読者向けに「情報と安全の法制度」(「ゼミナール」欄にて12月に16回にわたって連載)を書きました。そして、これらの論稿を書くことで「情報法の一般理論」が存在し得ることと、拙いながらも私流の解釈ができるとの自信を得ました。

・思わぬ横槍とブレーク・スルー

 しかし他方で、思いもかけぬ妨害にも会いました。「今連載中の記事は、自分が既に書いたものの剽窃だ」という匿名の投書が編集部に舞い込み、私の筆を鈍らせると同時に、細部を知らぬ編集者に疑心暗鬼を招きました。この世界は狭いので、後刻投書者と思しき人物を突き止め、第三者立会いの下に「対決」しましたが、得るものはありませんでした。幸か不幸か、学者であった亡き父が同じような目にあったとき、「これで自分も相応の学者であることが証明された」と負け惜しみを言っていたことを思い出して、一人納得しました。

 しかし知財型と秘密型の二分論が、「個人情報」(私はこの用語が混乱を招く一因になっているとの認識から、講学上の概念としては「個人データ」という語に統一しています)の位置づけに役立たなければ、世間は納得しないでしょう。そこで私は2009年以降4年間の間に、「『個人データ』の法的保護:情報法の客体論・序説」(『情報セキュリティ総合科学』Vol.1 所収)を手始めに、主として『情報通信学会誌』への投稿(3回)を通じて、理論の精緻化を図りました。

 その集大成とも言うべきまとめは、2014年の「『秘密の法的保護』のあり方から『情報法』を考える」(『情報セキュリティ総合科学』Vol. 6)で、その結果「秘密型の情報保護」が存在し得ることも証明でき、やっと2つのタイプを対比的に統合するというブレーク・スルーに成功しました。

 その結果、拙著『情報法のリーガル・マインド』では「差止条件付き許諾権としての知的財産制度」「管理責任付き秘匿権としての秘密保護法制」として、両類型を分かり易く再類型化できたと思っています。しかし振り返れば、このテーマとの悪戦苦闘は15年以上に及んだことになります。

・知財型と秘密型の対比

 かくして類型化された知財型と秘密型の保護方式の違いは、同書の図表2-7.(p.91)にまとまられています。念のため、説明抜きで該当部分を再掲します。ここでは、この表以上に細かい説明はしませんので、疑問や関心をお持ちの向きは、直接拙著に当たってください。

図表2-7.知的財産(権利)型と秘密(利益)型の対比

区分

知的財産(権利)型*

秘密(利益)型*

情報の公開性

公開して守る

秘匿して守る

排他性と要式性

事前に禁止権(許諾権)を付与。著作権を除き方式主義

保護利益の侵害から事後的に救済。権利ではないので手続きは不要だが、事後的に裁判所から「利益」として認めてもらう必要がある.

法的効力

世間一般に対して(対世効)

関係当事者間において

排他性の限界あるいは自己責任

保護期間の有限性、強制許諾(特許権)・公正使用(著作権)など

法的な排他権がないので、情報の保有者に秘密を管理する責任が生ずる

救済、抑止手段

損害賠償、差止、刑事罰

損害賠償、(ごく一部について)刑事罰、差止は原則不可

 * 権利と利益の区分は,民法709条における「権利」と「法律上保護される利益」に対応
の区分は,民法709条における「権利」と「法律上保護される利益」に対応

・それでも敬遠される「秘密型」という概念

 こうして私の中では、「秘密の法的保護」の位置づけがクリアになったのですが、この理論が世間に受け入れられたかというと、残念ながらそうではありません。試しに、情報法関連の判例を参照するために「便利帳」として使わせていただいている、宍戸常寿(編) [2018]『新・判例ハンドブック[情報法]』(日本評論社)を見ると、以下の表のような分類を採用しています。ここでは知財型の判例が著作権を中心に多数収録されているのに対して、秘密型のものは営業秘密を含めて極めて少ない状況です。

 なお別の論点ですが、この表の末尾にある「情報と裁判過程」という分類は、私が強調した「情報法では実体法と同等かそれ以上に手続法が重要になる」という指摘と軌を一にする面があることにも、注目していただければと思います。表自体は、目次を転写したものに過ぎませんが、新しい分野であるだけに「分類それ自体が物語るファクトがある」という印象を持ちます。

宍戸常寿 [2018] における判例の分類

分類

サブ分類

情報流通の自由

知る権利、意見の表明、報道取材の自由、選挙過程

内容に着目した情報の規律

わいせつ、児童ポルノ、青少年保護、名誉毀損:社会的評価の低下等、同:公益性・公共性、同:真実性・相当性、同:公正な論評、同:救済、その他

プライバシー・個人情報

肖像権、表現の自由とプライバシー、個人情報の保護、労働関係、インターネット

知的財産法による情報の規律

著作権:著作物・著作者、同:著作者人格権、同:著作権の内容、同:権利制限規定、同:侵害と救済、同:著作権による保護を受けない情報、特許権の保護対象、パブリシティ権

情報流通の担い手

放送、通信、プロバイダ、情報流通の場

情報と経済活動

広告、独占禁止法、商標・不正競争、電子商取引、情報と金融

情報と行政過程

行政調査、行政機関と個人情報、情報公開、行政による情報提供

情報と刑事法

情報(システム)の保護、捜査と情報

情報と裁判過程

裁判の公開、取材源の秘匿、文書提出命令

 私としては、情報の法的保護の類型として「秘密型」があることをまず認識いただくと同時に、それには国家の秘密を守る特定秘密保護法や、企業の秘密を守る不正競争防止法、個人の秘密を守る個人データ保護法などが包摂されることを、理解していただきたいところです。

 また、秘密が法的に保護されるには、① 公知ではないこと(非公知性)、② 営業上または技術上有用であること(有用性)に加えて、③ 秘密として管理されていること(秘密管理性)、が必要です。これは営業秘密の3要件として確立された概念ですが、このうち ③ について「どのように管理すべきか」「情報へのアクセスにはどのような資格が必要か」については、これまで経済産業省が基準・ガイドラインとして示す「営業秘密管理指針」に委ねられ、行政庁もこれに準ずることとされてきました。

 しかし、前者については公文書管理法(2009年法律第66号)が、後者については特定秘密保護法(2013年法律第108号)が制定され、行政庁の文書管理と秘密情報へのアクセスについて、法的な手続きが明示されました。特に後者は「セキュリティ・クリアランス」を含むもので、これでやっと行政庁の情報保全(狭義のInformation Security = InfoSec)の制度が整ったことになります。

 今後は、営業秘密管理指針が行政庁にも準用されるというベクトルは修正され、行政庁の制度の方が民間企業へと浸透していくでしょう。ただし、秘密は「生もの」に似ていて賞味期限がありますから、秘密指定をするばかりで解除を怠ると、管理すべき対象が膨大になって漏えいのリスクが急激に高まることにも、留意しなければなりません。

 いずれにせよ私が主張する「秘密型」の情報保護が明確な形を取ったことになりますが、学界の反応は緩慢です。個人データ保護法の研究者が100人以上はいると思われるのに、特定秘密保護法をしっかり身につけた方は数えるほどしかいない現状は、世界標準から見れば「ガラパゴス状態」ではないかと思わざるを得ません。

林「情報法」(42)

嘘と秘密の間

 第40回の原稿を本サイトの運営者の矢野さんに送ったとき、「モームの『物知り博士』という短編は面白いですよ。岩波文庫『モーム短編選 (下) 』にあります。息抜きにどうぞ。」

というメールをいただいたので、読んでみました。連載を続ける中で、「嘘」をめぐる言説を検討していくと「秘密」との境目に近づいていくような気がしていたので、興味深く読みました。「嘘」は内容の真偽を問題にし、「秘密」は関係者の秘匿する意思を問題にする点で、全く交点は無さそうにも思えますが、嘘か本当かの「白黒をはっきりさせない」ためには秘密にしておくのが一番なので、実は両者は微妙な関係にあります。

・モームの「物知り博士」

 ケラーダ氏と太平洋航路で同室になった私は、「どうせ嫌な男だと決めてかかっていた。」彼は話し好きで「3日もすると船中の全員と知り合い」、あらゆる話題に薀蓄を披露するが、「自分が嫌われているなどとは決して考えたこともない」ため、皮肉を込めて「物知り博士」と呼ばれるようになる。

 ある日の夕食時に、天然真珠と養殖真珠を見分けることが出来るかをめぐって、神戸在住の米国外交官のラムゼイ夫妻を巻き込んだ大論争になった。夫人が着けている真珠はニューヨークで買った18ドルの安物だという夫に対して、ケラーダ氏が数万ドルもする高級品だと主張したからである。両者は賭けをすることになり、ケラーダ氏が真珠を鑑定すると言い出す。

 夫人は真珠を渡すのを嫌がるが、夫が外してケラーダ氏に手渡す。受け取った彼は、拡大鏡を出して子細に調べ、笑みを浮かべて真珠を返そうとするが、そのとき夫人の方をちらと見ると「真っ青で今にも気を失いそうだった。」ケラーダ氏は「顔を紅潮させ」「私が間違っていました」として、100ドル紙幣をラムゼイに渡す。「ケラーダ氏の手が震えていることに私は気づいた。」

「話はあっという間に船内全部に伝わり」「物知り博士が遂に尻尾を出したというのは、愉快な冗談だった」が、翌朝ドアの下からケラーダ氏宛の手紙が差し込まれる。出てきたのは100ドル札で、彼は赤くなった。「真珠は本物だったのですか」という私の問いに、「もし私に美人の女房がいたら、自分が神戸にいる間、ニューヨークで1年も1人にしておきませんよ」と彼が答える。「その瞬間、私はケラーダ氏が必ずしも嫌いではなくなった。」

 サマセット・モーム(Somerset Maugham, 1874-1965)は、イギリスの小説家・劇作家で『月と6ペンス』などの長編も有名ですが、短編にも優れた作品を残すほか、インテリジェンス業務にも従事した経歴の持ち主です。ただ不幸にして、私が最初に読んだのが受験英語の教材としての彼の作品であったためか、これまで何となく敬遠してきました。今回矢野さんの導きで、その良さを知ったので、私もモーム「食わず嫌い」を改めようと思いました。

・ポズナー教授のプライバシー感

 さて、このように文学作品では「嘘の効用」のニュアンスを伝えるものが多数あるのに対して、法学や「法と経済学」では、そのような人間臭さは捨象されているとお感じかもしれません。しかし、どのような分野であっても第一級の研究者は、人間臭さを忘れてはいないようです。

「法と経済学」の創始者の1人であり、自らも第7巡回区連邦控訴裁判所の判事として活躍しているリチャード・ポズナーは、「プライバシー」の背景には、「他人に裸を見られたくない」という動機と、「信用を失わせる事実を秘密にしておきたい」という望みの2つがあるとした上で、後者について以下のような観察をしています(『ベッカー教授、ポズナー教授のブログで学ぶ経済学』鞍谷・遠藤(訳)、東洋経済新報社、2006年)。これはモームの問題設定に近い発想です。

 プライバシーの第2の動機、すなわち信用を失わせる事実を秘密にしておきたいとの望みは、社会的観点から見て第1の動機よりも問題が多い。個人的取引(たとえばデートや、結婚や、親戚の遺言における指名など)の場合でも、商業的取引の場合でも、人々は自らに有利な取引をするために“できるだけ良い印象を与えよう”とする。この努力はしばしば、潜在的な取引相手が自分との取引を拒否することになるような情報、あるいは、より有利な条件を要求するようになる情報を隠すことを含む。そのように隠すことは、一種の不正行為である。だが、情報を隠すことはあまりに広く行なわれており、全体としては法的な処罰を必要とするほど有害なものではない(ただし例外的な場合はある)。そのうえ潜在的にそのような不正行為の犠牲になるおそれのある人々は、通常は自己防衛もできる(ただしコストもともなうが)。
 たとえば長々と展開する求婚過程は、将来に配偶者となる可能性がある人々が、暗黙あるいは明示的に表現される相手の人柄を互いに確認しあい、それによってロマンティックな恋愛関係にありがちな欺瞞をはがし本当の姿を知る一つの方法である。さらにまた(中略)すべての個人をあたかも証券取引委員会が規制する証券目論見書の発行人のように扱うことは、ささいではあるが人心を乱すような情報を社会に溢れさせるという弊害を生むであろう。
 だからと言って逆に、(あまり重要とは言えない)欺瞞を可能にしたり保護したりするために、法的強制力をともなう情報プライバシー権をわざわざ法が包括的に定めるべきであるということにはならない。

 これは人生の酸いも甘いも経験した人の言葉として聞くべきでしょう。プライバシー権にご執心の学者は、それが他の何物にも代えがたい基本権だと考える傾向があります。「自己情報コントロール権」という発想などは、その最たるものと言えましょうが、自分のこともあるところまで明らかにし、あるところを超えた部分を秘密にすることで、その人の魅力が醸成されると考えるべきでしょう。

 例えば詩人は、どの言語を使うかにかかわらず、そのあたりの微妙な心理を詠っています。わが国で言えば、「恋は終りね。秘密がないから」(なかにし礼・作詞作曲「知りすぎたのね」1967年)という逆説的な短いフレーズの中には、ポズナーの指摘を全部盛り込んだ感があります。

・「嘘」や「セキュリティ」の困ったところ

 しかし言うまでもないことですが、「嘘の効用」を認めることは「嘘の奨励」を意味するものではありません。特に注意を要するのは、1つの嘘が多くの嘘を誘発する「嘘の伝播効果」をどうやって防ぐかです。フェイク・ニュースの拡散に対して、その根拠を洗い出すファクト・チェックの活動が続けられていますが、情報の複製や伝播が容易でコストもさほどかからないのに対して、チェックには何倍もの時間とコストがかかり、しかも「後手に回る」ことが避けられないからです。

 このような状況は、サイバー・セキュリティの分野で最も顕在化しているように思われます。私自身は、この分野を研究しているので、問題の重要性が広く認識されていくのは喜ばしいと思う反面、費用対効果の面から見ると「セキュリティ対策費には上限があるのではないか」という疑念を禁じ得ません。例えば、年間売上高10億円の企業が年100万円のセキュリティ対策費(売上高比0.1%)を捻出できないとは思えませんが、1億円(同10%)必要だと聞けば、「何とか圧縮できないか」と考えるか、対策そのものを諦めるでしょう。

 しかし、トランプ大統領がフェイク・ニュースという「パンドラの箱」を空けてしまった(更にロシアが、外国の選挙に干渉するという禁じ手を使ってしまった)以上、ゲームのルールが変わって「対策費をケチった方が負け」という悪のスパイラルに陥ったように感じます。「嘘つきは泥棒の始まり」という牧歌的な倫理で社会の秩序が保たれていた時代は、もう戻ってこないのでしょうか?

林「情報法」(41)

情報の「法と経済学」の可能性

「嘘」を巡って人文科学から出発して、経済学と法学の両面から種々の分析を加えてきました。この辺りで、「情報の人文・社会科学」を今一歩前進させるためのヒントについて、私が援用する方法論である「法と経済学」を前提にしながら、まとめてみましょう。

・「情報の非対称性」の分析だけでは「情報の経済学」にならない

 これまでに検討してきた各種の仮説の中で一番有用と思われたのは、「情報の非対称性」に関する経済学的分析だったかと思います。経済取引が当事者間の合意だけで成り立つためには、明確な権利の設定・公平な市場のルールなどの法整備が大前提になり、財の確定性・限界費用逓増・外部性のなさ等とともに、両当事者が取引に必要な情報を持っていることが条件となります。ところが実際には、これらの条件を完全に満たすことは稀で、特に売手と買手の間の情報量に差があることが、問題とされるようになりました。

 この点に着目した「情報の非対称性」の分析は、取引の前提になる「価格」などの情報(つまり「取引手段としての情報」)が、当事者間で偏在しがちなことや、それが取引結果にどのような影響を与えるかを説明できるので、便利な道具として使われてきました。その結果、一部では「情報の非対称性の分析」=「情報の経済学」という誤解が生じたほどです。

 しかし、良く考えて見れば分かる通り、これは「取引費用の経済学」に発展することはあっても、「財としての情報」(「取引対象としての情報財」)そのものについての分析ではないため、「情報の経済学」の一部でしかありません。「取引手段としての情報」から「取引対象としての情報」へと、分析の重点を変えることは大いなる飛躍であり、ジャンプするのは容易ではありません。「財としての情報」を扱う情報産業は、日々新しい技術を生み、シュンペーターの言う「イノベーション」を繰り返しているからです。

 20世紀末に、評価の高いミクロ経済学の標準的教科書の著者であるハル・ヴァリアンがカール・シャピロとの共著Information Rules: A Strategic Guide to the Network Economy(1998年。邦題:「ネットワーク経済」の法則)を公刊して、これこそ「情報の経済学」の最初の書物であると注目されました。ところが、その後彼は学界を去り、Googleのチーフ・エコノミストになってしまいました。ビッグ・データを持っている所に行かないと、学問が出来ないことを暗示するような出来事でした

・「価値の不確定性」等がある限り「法学のみのアプローチ」では限界がある

 それでは、経済学の助けを借りず、法学だけで情報に関する規律を調えることは可能でしょうか? それは情報という対象に「価値の不確実性」が付きまとう限り、不可能とは言いませんが、非常に困難なことだと言わざるをえません。なぜなら、法学が規律を考えるに当たっては、一種の平均値管理をせざるを得ないからです。既に述べたように「合理的人間」というモデル化においても、「社会全体から見て平均的な感受性と判断能力を持ち、社会通念に沿った合理的な判断ができる個人」というように「社会通念」や「平均的な感受性」といった概念を導入するしかないからです。

 ところが情報の価値は、時と場所と態様によって、同一人においても千変万化します。例えば同じ私が、ある時重要だと思ったことが、数日も経たないうちに役立たずになったり、ある場面では不必要だった情報が別の場面では必要になったり、使い道次第で効用が180度変わったり、といったことはあり得ることですし、それを非難することはできません。これこそ、情報に固有の「価値の不確定性」という特質だからです。

 このような対象(法学的には「客体」)を扱う仕組みを、「平均値管理」が不可避な法の世界で成り立たせることは、これまでも経験したことの無い「事件」であり「不可能」と言いたいところです。しかし「情報法」を考える以上は、この問題を検討しないまま、入り口で排除することは出来ないと思います。喩えてみれば、量子論のように「生きているか死んでいるかを事前に決定できない。それぞれ50%の確率で生きているか死んでいるかのいずれかである」という、「シュレディンガーの猫」状態を是認せざるを得ないと思います。

「そんな夢物語を法学に持ち込むな」というお叱りは、もっともです。しかし量子コンピュータや量子暗号が実用に近づいている現代において、こうした「夢物語まがい」の事象を「入り口で排除する」ことは、学問の自殺行為になる恐れがあります。その際有効なのは「自分一人で考え込まない」「他の学問分野の知見を遠慮なく活用する」ということではないでしょうか? その場合、学問分野として近いのが経済学であることは言うまでもありません。

・行動科学的「法と経済学」なら役に立つか

 しかし「情報価値の不確定性問題」は、伝統的な経済学において克服されていませんし、行動経済学においても同じです。homo economics(経済合理的個人)の前提を緩め、実験経済学やゲーム理論を活用して「ほぼ合理的だが、時として非合理な判断をする」個人の行動分析に多くの貢献をしたことで、行動経済学の評価は高まったと思われます。それに意を強くして「法と経済学」の方法論も、「行動科学的法と経済学」へと変化しています。

 このように「経済人仮説」を柔軟に解釈したことは、一定の評価を与えても良いかと思いますが、経済学が「情報財」を経済分析の対象として認知し、他の財と比べてどんな特性があるかを深掘りしたかと問われれば、残念ながら答えは「ノー」と言わざるを得ません。不確実性の経済学・カオス理論といった分析道具の面で、期待を抱かせる仮説もありましたが、法学における「占有できない客体に対する権利設定」に比較し得る程度に、経済学の検討が進んでいるとは思えません。

 しかも、先に触れたとおり、最先端を走っていたヴァリアンがビジネスに転じたことで、逆に「学者の限界」を知らしめることになりました。新しい分析結果が、ビッグ・データを自由に利用できるGAFAのような超大企業からしか出てこないとすれば、学者が追跡調査する術もなく、結果だけを真似するしかありません。それは学問の発展にとって、最大の障害となる恐れがあります。

・歴史に学ぶことはできる

 しかし、希望がない訳ではありません。どんなに技術が深化しようが、社会の変化が激しくなろうが、過去に学ぶことの意義はなくならないことから、歴史研究から得るものがありそうです。中でも、情報化社会の進展とともに、歴史を「情報が果たした役割」の視点から見直そうとするアプローチは、意外なことを教えてくれます。

 例えば、近代ヨーロッパ経済史が専門の玉木俊明は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、わが国では人気のある仮説ですが、実はカトリックも資本主義の発達に寄与しなかった訳ではない点を強調しています(『<情報>帝国の興亡』講談社現代新書、2016年)。それどころか、両派の間はもちろん、言語の壁を超えて中国人やユダヤ人とも取引が行なわれたと言います。

 なぜなら、グーテンベルグの印刷革命によって、聖書が安くまた自国語訳で読めるようになり、宗教革命につながったのと同程度に、『商人の手引き』といったマニュアル(その代表例はフランス人サヴアリにより著され1675年から1800年まで実に11版を重ねた『完全なる商人』だと言います)による契約書の標準化や、商業新聞や『価格表』の普及による市場情報の迅速・正確な伝達が可能になったからです。

 これまでグーテンベルグ革命といえば、宗教改革と結びつきが強いものと考えられてきました。入試問題に出れば、両者を結び付ける線を引けば正解となるほど、両者の紐帯関係は強固なものだと思われたのです。ところが、それと同程度にグーテンベルグ革命が商業資本主義(あるいは重商主義)のインフラを提供していたとすれば、世の中を見る目を大きく変えることでしょう。このように「情報」という視点から、世界理解を見直すことから、意外な展開が期待できるかもしれません。

林「情報法」(40)

法学における嘘の扱い(3):フィクションという意味での「嘘」

 前2回における説明には法学の専門用語も出てきましたが、それでも「意思表示における嘘」は身近で分かり易かったと思います。ところが、法学は「フィクションの上に成り立っている」ものであり、条文に代表される「規定=フィクション」の解釈が決定的な影響を持つため、「法の解釈そのものが嘘かもしれない」という視点を欠かすことができません。前者が法そのものは与件として受け容れているのに対して、後者は法をメタ思考の対象としている点で対照的とも言えます。この世界に入り込むと何が起きるのか、恐る恐る覗いてみましょう。

・「合理的人間」モデルに見る経済学と法学のギャップ

 学問はすべて何らかのモデルを描いた上で、そのモデルの妥当性を検証するものですから、多かれ少なかれフィクション性を帯びています。私が学んだ経済学と法学は、ともに「合理的人間」をモデルにしていますが、前者は rational personを、後者は average reasonable personを念頭においている点で、実は(日本語では同じでも)「似て非なる」ものです。その両学問の差を対比的に表示すると、以下のようになるでしょう。ただし、ここでの法学とは主として「法解釈学」のことで、法社会学や「法と経済学」などは、除外しています。

 

経済学

法(解釈)学

①モデルとしての人間像

「自己の効用を最大化する」という意味で合理的な判断ができる個人(rational person)

社会全体から見て平均的な感受性と判断能力を持ち、社会通念に沿った合理的な判断ができる個人(average reasonable person)

②検証方法

経済現象の説明手段として有効か否かという定性的な検証のほか、現代では実験や統計による定量的検証も可能に

上記の想定に基づく政策判断や判決が、世間一般から支持されるか否かという視点での、定性的検証

③他のモデルの存立可能性

合理性の仮説を部分的に除いても、現象が説明できればモデルとして成り立つ

Average reasonable personの仮定を外すと、全体系が瓦解する恐れがある

④有力なモデル

Bounded rationalityモデルから発展した行動経済学のモデル

複雑系や行動経済学に対応したモデルを持ち得ていない(不可能?)

⑤専門家養成方法

自然科学や人文科学と変わらない(最高位はPh.D.)

専門職大学院であるlaw schoolにおける実践教育(LL.D.)

 この表のうち最も大きな差をもたらすのは、② と ③ ではないでしょうか。法学はaverage reasonable person(ARP) を前提として解釈運用されており、フィクションとしての法の規定の上に、解釈という別のフィクションが積み重なっていく構造になっています。その結論が正しいかどうかは、世間一般(社会通念)が認めてくれるかどうかにかかっており、(世論調査のような原始的な手段以外に)計量的に検証する手段がありません。つまり法学における「フィクション性」は経済学よりも強く、ましてや自然科学とは大きく隔たっていると言えます。

 このことは ⑤ の専門家育成方法に端的に表れています。わが国では法学部の上に法科大学院を作るという蛮行(?)がなされましたが、英米のlaw schoolは(medical schoolとともに)学部とはつながらないgraduate schoolで、わが国の専門職大学院に当たります。また学位(degree)も一般の大学院が出すPh.D.の系列ではなく、(MD = Medical Doctorと同様)LL.M.やLL.D.といった法学固有のものです。

 ところがわが国では、「法学と医学は実学で、リベラル・アーツやサイエンスとは区別される」という発想が理解されないため、すべての博士号を「博士(○○学)」に統一してしまいました。その結果、制度の変わり目である20世紀と21世紀にかけて2つの博士号をいただいた私は、「経済学博士(京都大学)」と「博士(法学、慶應義塾大学)」という表記を期待されています。しかし、この表記ではアメリカ人に分からないため、お叱りを受けるのを覚悟の上で、「Ph.D.(Economics)、LL.D.」と記載するしかありません。

・フィクションとしての法と、解釈や事実認定におけるフィクション

 このような法学の特殊性と限界を、大正年代に指摘した先駆者として末弘厳太郎がいます。「私は数年このかた『法律における擬制』(legal fiction)の研究に特別の興味を感じている」という独白を含むリード文で始まる「嘘の効用」(初出『改造』1922年7月号、『役人学三則』岩波現代文庫2000年に収録、青空文庫で読める)は、「擬制という意味での嘘」の機能を分析したユニークなエッセイです。

 末弘は、もともとドイツ流の概念法学の流れを汲んでいましたが、第1次世界大戦の勃発によりドイツではなく、アメリカに留学しました。帰国後、留学中に研究した社会学の成果を法解釈学に持ち込み、実生活に内在する「生きた法」と国家の制定した「法律」の乖離を理解すべきであるとして、民法判例研究会を設立しました。また両者にギャップがある代表例として、現実の労働問題に関心を持ち、日本で最初の労働法の講義を行ないました。加えて、欧米と異なる日本独自の「法」の現実を知るには、日本古来の農村を調査する必要があるとして、法社会学の基礎を築いたことでも有名です。

 このような経験と発想の持ち主である末弘から見ると、「嘘をついてはいけない」が最も基本的な戒律である一方、「この世の中には、種々雑多な嘘が無数に行なわれて」いる姿が映ります。その極限は、「生きた法」と「法律」の間に齟齬がある場合に、裁判官や法律家が行なう「擬制」、つまりは「嘘」だというのです。例えば、なぜ大岡越前守に人気があるかと言えば、「一言にしていうと、それは『嘘』を上手につきえたためだ、と私は答えたいと思います。」その背景について末弘は、次のように述べています。

 人間は「公平」を好む。ことに多年「不公平」のために苦しみぬいた近代人は、何よりも「公平」を愛します。(中略)いわゆる「法治主義」は、実にこの要求から生まれた制度です。
 法治主義というのは、あらかじめ法律を定めておいて、万事をそれに従ってきりもりしようという主義です。いわばあらかじめ「法律」という物差しを作っておく主義です。ところが元来「ものさし」は固定的なるをもって本質とするのです。「伸縮自在な物差し」それは自家撞着の観念です。(中略)
 ところが、それほど「公平」好きの人間であっても、もしも「法律」の物差しが少しも伸縮しない絶対的固定的なものであったとすれば、必ずやまた不平を唱えるに決まっています。人間は「公平」を要求しつつ同時に「杓子定規」を憎むものです。したがって一見きわめてわがままかってなことを要求するものだといわねばなりません。

 つまり大岡越前は、この「わがままかってな人間」が満足する解を「擬制」することが出来たからこそ人気があるのだと言います。そして彼は、法律の専門家らしく同種の具体例を挙げますが、その中には今日的には不適切な例もあるので、なお有効なものだけに絞ってみましょう。① nominal damage(名義上の損害賠償)を認める(実害がなくても不法行為であることを認定することによって、勝訴者という名誉を得、相手方に訴訟費用を負担させることができる)、② 協議離婚を認めない法律が多い中で、夫婦の間に虐待があったことを擬制して離婚を成立させる、③ 無過失責任の新法理の擬制:公害など近代的な企業の不法行為に対して、フランスでは「過失」の概念から主観的要素を希釈化して「違法」と違わないほどに換骨奪胎。

 もちろん彼は熟達した法律家ですから、③ についてフランス流の「見て見ぬふり」の効用を認めると同時に、ドイツでは「正面から堂々と無過失責任の理論を講究し論争して」いたことにも触れています。そして、「裁判官のこの際採るべき態度は、むしろ法を改正すべき時がきたのだということを自覚して、いよいよその改正全きを告げるまでは『見て見ぬふり』をし、『嘘』を『嘘』と許容することでなければなりません。」として、「嘘」を次善の策としているのです。

・インターネット時代への暗示

 「情報法」という新分野に取り組んでいる私から見ると、末弘の卓見は第11節(最後から2つ目の節)の次の件にあるように思えます。

 私の考えによると、従来の「法」と「法学」との根本的欠点は、その対象たる「人間」の研究を怠りつつ、しかもみだりにこれを「或るもの」と仮定した点にある。すなわち本来「未知数」たるものの価値を、十分実証的に究めずして軽々しくこれを「既知数」に置き換える点にあるのだと思います。(中略)従来の法学者や経済学者は本来Xたるべき人間をやすやすとAなりBなりに置き換えて、人間は「合理的」なものだとか、「利己的」ものだとか、仮定してしまいます。(中略)しかし人間は、合理的であるが、同時にきわめて不合理な方面をも具えて、また利己的であるが、同時に非利己的な方面をも具えている以上、かくして軽々しく仮定された「人間」を基礎として推論された「結果」が一々個々の場合について具体的妥当性を発揮しうるわけがないのです。(中略)
 さらばといって、XをXのまま置いたのでは学問になりがたい。なんとかしてそれを既知数化せねばならぬ。それがためにはまずできるかぎりXの中に既知数的分子たる a b c d などを求めなければなりません。しかし、それでもなお跡にはかなり大きな未知数が残ることを覚悟しなければなりません。

 実は私が、経済学から法学に転じた(再転向した?)のは、「インターネット・ガバナンス方程式」は未知数ばかりで、定数が無いかごく少ない。仮にあるとすれば、それは「法」ではないかと考えたからでした。私もゼミ生には先行研究の大切さを説いてきましたが、この一節をもっと早く知っていれば、と悔やむことしきりです。

林「情報法」(39)

法学における嘘の扱い (2): 消費者(保護)の視点から

 連載第36回で、経済学が開拓した「情報の非対称性」の理論を紹介しました。また経済学は「市場」を前提に議論するので、何らかの事情で「市場が失敗する」(法学的に言い直せば「契約が有効でない」に近い)事態を嫌います。その被害者の大部分は消費者ですから、法学が「嘘」から守る対象として「消費者」を第一に考えるのは当然とも言えます。このような分野の特別法の総体は、講学上「消費者法」と呼ばれますが、複合領域をカバーするので概説は容易ではありません。ここでは中田邦博・鹿野菜穂子(編)[2018]『基本講義 消費者法』(日本評論社)の諸論稿を中心に、最も分かり易い例を説明します。

・意思表示の特別法としての消費者(保護)法

 民法は一般法として、典型的・一般的な規定を定めるもので、それが十分でない場合には特別法が制定されることになります。大量生産・大量消費の時代を経て、サービスを含めた消費活動が活発化するにつれて、「情報の非対称性」等に影響された取引の弊害が目立つようになりました。そこで、A. 製品やサービスによる危害を防止する(安全)、B. 製品やサービスの表示を適正にする(表示)、C. 契約の形式や内容を公平にする(取引)の3局面で、新たな法的手当の必要性が生じました(第3章「消費者と行政法」中川丈久執筆)。

 このうち C. は、民法の意思表示の規定の特別法とも言える部分があるので、そこだけ説明しましょう。消費者が「契約は有効でない」と主張し得るケースとして、民法には、前回説明した ③ 錯誤、④ 詐欺、 ⑤ 強迫の3つ(以上、いずれも「取り消し得る」)に加えて、⑥ 公序良俗違反による無効(改正民法90条)、の4ケースが準備されています。しかし裁判結果を見ると、いずれも解釈論で取消や無効を証明することは難しく、「2000年における消費者契約法および特定商取引法の制定をはじめ、重要な特別法の制定や改正」が行なわれることになりました(第2章「消費者と民事法」鹿野執筆)。

 消費者契約法(2000年法律61号)は、上記C.のうち契約締結過程における民法の特別法として、消費者(原則として個人ですが、「事業として又は事業のために契約の当事者となる場合」は除かれます。同法2条1項)と事業者(同条2項では「法人その他の団体」か「事業として又は事業のために契約の当事者となる場合における個人」)間の取引(いわゆるB to C = Business to Consumer)には、民法より優先して適用されるものです(第6章「消費者契約法 (1) 総論・契約締結過程規制」鹿野執筆)。

 その第4条は、消費者が同条に規定される以下の4つのタイプの不当勧誘行為によって誤認または困惑して意思表示した際には、契約を取り消すことができるとしています。

     1) 重要事項の不実告知、不確実事項の断定的判断の提供(1項)、
  2) 重要事項等に関する不利益事実の不告知(2項。前項を含め民法の詐欺における「故意」を不要に)、
  3) 交渉の場からの退去意思の表明あるいは要請を無視した勧誘(3項。民法の強迫の要件を緩和)
    4) 通常の分量を著しく超える分量の勧誘(4項)。

 また特定商取引法(1976年法律57号)は、消費者トラブルの生じやすい訪問販売・通信販売・電話勧誘販売・連鎖販売取引・特定継続的役務提供・業務提供誘引販売取引・訪問購入の8つの取引形態だけを対象にするものですが、その限りでは民法に優先する規定を設けています。最も有名な例はクーリング・オフ(同法9条ほか。通信販売には適用されませんが、返品権という代替手段があります)と呼ばれ、「消費者が訪問販売などの不意打ち的な取引で契約したり、マルチ商法などの複雑でリスクが高い取引で契約したりした場合に、一定期間であれば無条件で、一方的に契約を解除できる制度」(国民生活センターのホーム・ページから)です。

 なお意思表示に関する一般原則は、有体物が中心の時代に制定されたものであるため、ネット取引の特性を反映して、修正されることがあります。例えば、電子商取引におけるクリックの間違いも表示行為の錯誤の一種ですが、「電子消費者契約及び電子承諾通知に関する民法の特例に関する法律」(2001年法律95号)によって、承諾の意思表示の錯誤に重過失があっても、表示行為に対応する内心的効果意思がなかった場合(同法3条1号2号の場合)には、原則(民法95条本文)どおり無効となる(3条本文)こととされています。ただし、事業者が承諾の意思表示を確認する措置を講じた場合や、消費者から事業者に対してそのような措置を講ずる必要はないという意思の表明があった場合には、表意者に重過失があれば表意者から無効を主張することはできません(3条但し書き)。

 これらの規定も民法の改正に連動して、法律名が「電子消費者契約に関する民法の特例に関する法律」となるほか、「無効」から「取り消し得る」ことに変更になり、新設される「動機の錯誤」には適用されず、「表示の錯誤」のみに適用されることになります。

・「消費者」に関する3つの見方

 それでは、消費者は「a. 専ら保護の対象」なのでしょうか? それとも「b. 賢い消費者」として、経済学の標準モデルであるrational personを具現化した存在と認識すべきでしょうか? さらには私自身の主張である「c. 誤り易い個人(Error-Prone Person = EPP)」に包摂されると考えるべきでしょうか? ここには、経済モデルとしての妥当性を超えて、「法学は消費者をどう捉えるべきか」という論点が潜んでいるように思えます。

 この点に関して前出の書籍の共編者である中田は、「甲 弱者としての消費者」「乙 自立した権利主体としての消費者(市場の主体としての消費者)」「丙 社会的弱者としての消費者(要保護性の高い消費者)」3つのモデルが鼎立していると分析しています(第1章「消費者法とはなにか」中田執筆)。

 甲 は、労働法が「弱者としての労働者の保護に重点がある」のと同じ考え方で、旧「消費者保護基本法(1968年制定)」の背景にあった発想と思われます。乙 は、それが2004年に大幅に改正され、名称から「保護」が削除されて「消費者基本法」となった時の発想に対応し、「保護から自立へ」がキーワードの1つになっています。丙 は、乙 を認めてもなお保護すべき対象(高齢者、18歳・19歳の若年成人、障碍者など)に対して、特別な扱いの必要性を説くものです。

 このような分析を私の分類と対応させると、a) と甲、b) と乙 はほぼ対応しますが、c) と丙 の関係は定かではありません。丙 では法学一般がモデルとする「合理的な判断ができる平均的個人(average reasonable person = ARP)」は原則的に除かれるのに対して、c) では適用の余地がある(一般人でも「時と場所と態様」によっては誤るので)という差があると思います。

 私としては、c) の「誤り易い個人」モデルをもっと広く理解してもらい、丙 におけるように特別扱いが必要な対象者だけではなく、一般人に対しても適用可能性を検討していただきたいところです。河上正二 [2018]「消費者法の来し方・行く末」『消費者法』第5号巻頭言 には、「平均的合理的人間から具体的人間へ」という表記がありますが、私の理解と同じかどうかは、なお見極める必要がありそうです。

  なお、このように消費者法では、権利の主体となるはずの「消費者」の定義が不明確である(法律によっては「購入者」「相手方」「顧客」などが主体であるとしつつ、「営業のために」した場合は除くと規定している)ことも反映してか体系的に論ずることが難しく、中田・鹿野(編)[2018] も、以下のように多くの法分野にまたがったものになっています。

  民法:例示した通り、消費者法は民法の特別法という性格を強く持っています。
  行政法:消費者庁・消費者委員会・国民生活センターのほか、公正取引委員会なども関係し、各種の行政規制・措置や課徴金の役割が高まっています。
  刑法:違反行為に対するサンクションとして刑事罰に期待する場面があり、刑事と民事の連携も生じています。
  経済法:独禁法の消費者保護法的な側面は、消費者法と相互補完の機能を持ちます。

・消費者問題は国際的問題

 インターネット取引には、国境がありません。また消費という活動は、万国に共通であるため国際的な運動論となる素地がありますから、消費者法については比較法的な視座を欠かすことはできません。食品安全におけるCODEX(ラテン語で「食品規格」の意)の役割、製造物責任法の国際的平準化、EUのデータ保護法制の域外適用による世界各国への影響等に見るように、消費者法の国際的伝播には注意が必要です。

 消費者運動の国際的組織であるCI(コンシューマーズ・インターナショナル)は、① 生活の基本的ニーズが満たされる権利、② 安全である権利、③ 知らされる権利、④ 選ぶ権利、⑤ 意見を反映される権利、⑥ 救済を受ける権利、⑦ 消費者教育を受ける権利、⑧ 健全な環境の中で働き生活する権利、の8つを消費者の権利として掲げています。

 消費者基本法制定50周年を記念した論文で、消費者委員会委員長である松本恒雄は、消費者被害の救済のしくみに関して、以下の3つの課題を指摘しています(「消費者政策の変遷と法整備」『国民生活』No.70、2018年5月)。

 ① 少額訴訟制度やADR によって個別被害の救済をもっとやりやすくする、
 ② 団体訴訟やクラスアクションによる集団的被害救済(2016年10月から施行されている「消費者の財産的被害の集団的な回復のための民事の裁判手続の特例に関する法律」(消費者裁判手続特例法)は、対象がかなり限定されている)、
 ③ 消費者保護執行機関、行政機関による消費者被害救済のための損害賠償訴訟(2006年の組織犯罪処罰法の改正と「犯罪被害財産等による被害回復給付金の支給に関する法律」の制定に基づく被害回復給付金支給制度があるが、消費者被害が「組織犯罪」に該当し、犯罪収益が没収・追徴されていることが前提と、要件が厳格である)。

・情報法との共通項

 以上、駆け足で「消費者法」を概観しました。いずれの特別法も、情報の量と質の面で見劣りし契約交渉力でも劣る「消費者」の立場を、民法の一般レベルよりも保護する立法(消費者取引法第1条の目的に相当)と言えるでしょう。しかも、意思表示を初めとして「情報法」の考察対象とかなりの重複がある点(情報が消費の対象になる場合と、情報が行為の基礎となる場合の両面で)に、お気づきになったのではないでしょうか。正直に言えば私自身も、この連載を通じて両者の交錯をより深く理解できるようになりました。

 消費者法の視点を持つことによって、情報の非対称性がある場合において、誰をどこまで保護する必要があるのか、あるいは保護だけに偏ってはいけないのか、が明確になるように思います。「消費者保護基本法」が「消費者基本法」に変わった歴史から見ると、個人情報保護法からも「保護」の文字が抜けて「個人データ法」となることも考えられます。また、中田・鹿野(編)[2018] は最も体系的な概説書ですが、前述の中川の A. B. C. 分類のうちC. の契約に重点があり、安全と表示に関する分析は相対的に薄いように思われます。

 このように、消費者法はまだまだ発展途上にあるという意味でも、情報法と共通項があるので、今後も両にらみの分析を続けていきたいと思います。しかしそのためには、私自身が消費者法をもっと深く理解する必要があると痛感した次第です。

林「情報法」(38)

法学における嘘の扱い(1):意思表示における「嘘」

 これまで「嘘」にまつわる種々の問題を、人文科学・経済学などの視点から見てきましたが、肝心の法学は「嘘」にどう対処しようとしているのでしょうか? ここには、人間の行為を規律する意味で基本となる「意思表示」をどう扱うかという日常的な問題と、それから派生する消費者保護のあり方、更には法律そのものが「虚構という嘘」の上に成り立っていることをどう考えるかというメタ思考的な問題、の3つの側面があります。それぞれを明確に分けた上で、逐次説明していきます。

・法学の基礎となる「意思表示」の扱い

 人間は日々膨大な情報を処理しています。英国の哲学者フロリディが、人間を「情報処理有機体(informational organism = Inforg)と呼ぶのも、もっともです。この情報処理行為のうち、特定の法律的効果をもたらすものを「法律行為」と呼びますが、その基本は個人の意思を他者に伝達する「意思表示」です。

 近代法の大前提は、「個人は合理的(reasonable)な判断能力を持っている」ということ(その能力を欠いた場合の扱いは、別途定める)ですから、意思表示は原則として尊重されなければなりません。どのような内容の契約であっても、一義的には(民法90条の公序良俗違反等の場合は別ですが)尊重されるという「契約自由の原則」は、その具体的現れです。しかし、その際には、取引が当事者間に閉じたものではないことにも配慮し、第三者の利益を害さないよう配慮する必要があります。   

 そのため民法は、表示された意思は原則として効果を持つものとし、例外的に効果をもたらさない場合だけを規定しています。民法93条から96条は、わずか4条に過ぎませんが、情報法の基本原理を示している、とさえ評価できます(4条以外にも重要な条文がありますが、ここでは省略)。以下、やや細かい法律論になって長くなりますが、「情報法とは何か」という原点に関係しますので、大筋だけでも理解してください。

 なお関係する条文は、民法の一部を改正する法律(2017年法律44号)によって改正されており、2020年4月1日から施行予定です。以下の説明は改正法を前提にしますので、『情報法のリーガル・マインド』のもの(pp.26-28)とは異なっていることに留意してください。ただし実際には、判例や学説で認められてきた要素を取り込むのが改正の主目的ですから、基本的な仕組みに変わりはありません。

・意思表示に問題がある5つのケース

 改正法に関する法務省民事局の説明資料「民法(債権関係)の改正に関する説明資料-主な改正事項-」(http://www.moj.go.jp/content/001259612.pdf)によれば、意思表示がそのまま受け入れられないケース(前節で言う「例外」)として5つを掲げています。これに若干のコメントを付加すれば、以表のようになります。

  内容 事例 改正の有無
①心裡留保(93条) わざと、真意と異なる意思を表明した場合 退職をする意思はなかったが、反省の意を強調する趣旨で、退職届を提出した 有(第三者保護規定の新設等)

②通謀虚偽表示
 (94条)

相手方と示しあわせて真意と異なる意思を表明した場合 財産を債権者から隠すために、土地について架空の売買契約をする なし
③錯誤に基づく意思表示 ③―1間違って真意と異なる意思を表明した場合(表示の錯誤) 売買代金として¥10000000(1000万円)と記載すべきところ¥1000000(100万円)と記載した契約書を作成してしまった(売主に錯誤) 有(③-2を明文化すると同時に要件を明確化し、「無効」ではなく「取り消し得る」こととして③~⑤を統一)
(95条) ③―2真意どおりに意思を表明しているが、その真意が何らかの誤解に基づいていた場合(動機の錯誤) 土地の譲渡に伴って自らが納税義務を負うのに、相手方が納税義務を負うと誤解し、土地を譲渡した(売主に錯誤)
④詐欺による意思表示 だまされて、意思を表明した場合 だまされて、二束三文の壺を高値で買わされた 有(第三者保護の要件の見直し等)
(96条)
⑤強迫による意思表示 強迫されて、意思を表明した場合 強迫されて、不必要な土地を買わされた なし
(96条)

・2020年4月からこう変わる

 上記のように整備された概念に対応する改正後の規定は、以下のようになります。アンダーラインの部分が、今回の改正箇所です。従来の「錯誤」の概念を明確にするとともに、「無効」とされてきた効果を「取り消し得る」こととして、詐欺・強迫による意思表示と同じように扱うようになることが読み取れます。

(心裡留保)
第93条
1 意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方がその意思表示が表意者の真意でないことを知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
2 前項ただし書の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
(通謀虚偽表示)
第94条
1 相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
2 前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
(錯誤)
第95条
1 意思表示は、次に掲げる錯誤に基づくものであって、その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるときは、取り消すことができる。
一 意思表示に対応する意思を欠く錯誤
二 表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する錯誤
2 前項第二号の規定による意思表示の取消しは、その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたときに限り、することができる。
3 錯誤が表意者の重大な過失によるものであった場合には、次に掲げる場合を除き、第1項の規定による意思表示の取消しをすることができない。
一 相手方が表意者に錯誤があることを知り、又は重大な過失によって知らなかったとき。
二 相手方が表意者と同一の錯誤に陥っていたとき。
4 第1項の規定による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。
(詐欺又は強迫)
第96条
1 詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
2 相手方に対する意思表示について第三者が詐欺を行った場合においては、相手方がその事実を知り、又は知ることができたときに限り、その意思表示を取り消すことができる
3 前2項の規定による詐欺による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。

・表意者の故意による意思と表示の乖離=心裡留保と通謀虚偽表示

 以上の諸規定は一見込み入っていますが、全体を鳥瞰してみると、例外処理が行なわれるのは意思と表示が異なる場合に限り、表意者が真意でないことを知っている場合(表意者の故意による意思と表示の乖離)と、何らかの他律的要因で表意者が間違った場合(意思表示に瑕疵がある場合の意思と表示の乖離)の2つがあることが分かります。

 まずは、表意者が意識して「嘘」を表明した時の扱いです。これには、① 表意者だけが「嘘」と知りつつ表明する場合と、② 相手方と通じている場合の2つのケースがあります。更に両者から派生して、「相手方が嘘と知るべきであった」場合(③)と、両当事者以外の第三者が「嘘」だと知っている場合(④)があります。

 民法93条(心裡留保、単独虚偽表示とも言います)は上記 ① のケースを想定したもので、意思と表示が食い違う場合は、取引の安全を図る必要から「表示を重視」し「意思は関係なし」とするものです。これまでの連載では、「表示の偽装」を、倫理的あるいは商慣習上許されないとしてきましたが、法律上も「表示を信頼せよ」としていることになります。

 ただし、相手方が表意者の真意を知っている(このことを、法学では「悪意」であると言います。世間一般の用語の悪意とは異なります)か、あるいは知ることができたとき(知ることについて「過失」があると言います)には、その意思表示は無効とされます(93条1項但し書き)。これは上記 ③ のケースに対応するものです。

 次に94条(通謀虚偽表示)では、「相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効」として、② のケースへの対応を規定しています(94条1項)。虚偽表示であることを知る立場にある相手方を、保護する必要がないことから、当然のことと思われるでしょう。ただし、この意思表示の無効は、善意(これは前述の「悪意」の反意語で、法的には「事情を知らない」ことを指し、善人であるとは限りません)の第三者に対抗することができません(94条2項)。④ のケースへの対応です。

「対抗することができる」も法律用語で、「法律的な主張が正当なものとして認められる」ことを示し、その条件は通常法律に書かれています(これを「対抗要件」と言います)。ここでは逆に「対抗することができない」ですから、「そのように主張しても法的に正当なものとして認められない」ことになります。2人が通謀して行なったことで、事情を知らない第三者に被害が及ばないようにするためです。

・意思表示に瑕疵があることに由来する意思と表示の乖離:錯誤・詐欺・強迫

 第2類型として、人間は時として間違いを犯すことを前提にすれば、意思表示に欠陥(瑕疵)があった場合のことも定めておかねばなりません。間違いは、⑤ 自分だけの問題であるケースもありますが、⑥ 他者から影響を受けた場合もあります。

 ⑤ について民法95条(錯誤)は、「意思表示は、次に掲げる錯誤に基づくものであって、その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるときは、取り消すことができる」として、「表示に対応する意思がない場合」と「表示をする動機に錯誤がある場合」を定めています。ただし、「表意者に重大な過失(重過失)があったときは、(更に例外的な場合を除き)取り消すことができない」(95条3項)など、細かな条件が付されています。

 ⑥ について民法96条は、瑕疵ある意思表示(詐欺・脅迫がある場合)として、以下のように定めています。まず詐欺による意思表示は、原則として取り消すことができます(96条1項)が、第三者が介入した場合は、相手方がその事実を知っていた(悪意の)場合に限られます(96条2項)。また、その取消しは、善意・無過失の第三者に対抗することができません(96条3項)。他方、強迫による意思表示は取り消すことができる(96条1項)だけでなく、これについては96条3項に対応する規定はなく、善意・無過失の第三者にも対抗できます。 

 条文の数は少ないのですが、「嘘」についての法の基本的な立場を規定していることが、お分かりになったかと思います。

 

林「情報法」(号外その2) 最終講義

 連載の途中ですが、去る4月20日に情報セキュリティ大学院大学で「最終講義」の機会をいただきましたので、「情報を生業にして56年:何が分かったか」と題して、1時間ほど漫談調の話をさせていただきました。この3月に修士課程を修了したばかりの若江さんに、レポートを書いていただきましたので、ご紹介します。

「情報を生業にして56年」を聴講して

卒業生・若江雅子(読売新聞編集委員)  

 「Eureka(エウレカ)」とは、発見を意味する古代ギリシャ語で、「Eureka Situation」 は、これまで解くことのできなかった問題を突然、理解した時の歓喜の状態を指すという。情報セキュリティ大学院大学で4月20日に開かれた、林紘一郎教授の最終講義で教えて頂いた。

 アルキメデスが入浴中、浴槽に入ると水位が上昇し、その上昇分の体積はお湯に浸かった自分の身体の体積と等しいと気づいて、「Eureka!(私は見つけたぞ!)」と叫んだという逸話からくるそうだ。ウィキペディアによると、アルキメデスはこのとき、喜びのあまり浴槽から飛び出して裸のまま町中を走り回ったという。林先生はこのような発見の歓喜をご自分でも何度か体験されたそうだ。もっとも先生が裸で走り回られたかどうかは定かではない。

 その発見の一つが、通信と放送の融合である。通信事業と放送事業の相互参入の動きは、今年になってNHKのインターネット常時同時配信の解禁が閣議決定されるなど、今でこそ当然の流れとして受け止められているが、林先生が「インフォミュニケーションの時代」(中公新書)の中でこの動きを「予言」されたのは、電電公社(現・NTT)在職中の1984年。まだインターネットの前身であるJUNETが一部の大学間でつながったばかりで、車載電話もようやく実用化が始まった頃であるから、驚くばかりだ。朝の4時頃に突然、目が覚めて思いついたとのことで、心の中で「Eureka!」と叫ばれたに違いない。

「予言力」とでもいうのか。先を見通すその力は、NTT退職後、慶応大学で法学博士を取得された後、まず著作権法に狙いを定めたところでも発揮されたように感じる。無体財である「情報」に対して、有体物を前提にした所有権のアナロジーを適用するのは無理があり、全く別なアプローチが必要になるーーと考えた先生は、まずはそのモデルを著作権法の世界に求められたのだという。

 情報財は「排他性(他人の利用を排除することができる)」と「競合性(自分が使っていると他の人は使えない)」を欠き、「公共財」に近い面がある。さらに、デジタル化により容易かつ安価に、しかも劣化することなく複製・拡散され、一度流出したら取り戻すことができないなどの特徴をもつ。これに対し著作権制度は強硬に従来型の所有権アナロジーで対抗しようとしており、いずれ混乱がくると予想した林先生は、その衝突の構図の中に情報法の抱える問題が浮き彫りになると判断されたのであろう。先生の予測から十数年を経て、現行の著作権制度が抱える矛盾と困難は、海賊版サイトを巡るブロッキングやダウンロード違法化・刑事罰化の騒動で露呈したのはご承知の通りである。

 最終講義で先生は繰り返し、ご自分が「実学」の研究者であることを強調されていた。「働きながら考え、仕事で吸収したことを書いてみてもう1回考え、理論化してまた仕事にフィードバックするというやり方をしてきた」。先を見通す卓越した能力は、実学の人ならではのものなのかもしれない。

 特に印象的だったのは、1947年にハーバート・サイモンが「Administrative Behavior」で提唱した「限定合理性」の概念を引用して、「人間が合理的に考えるとの前提は大間違い」として、それがサイバー・セキュリティ分野の理論構築の極意であるとおっしゃった点である。経済学と法学で博士号をもつ先生だが、「『人間は合理的な存在である』という経済学も、『人間は合理的な判断ができる』という法学も、近似解を与えるにすぎない」とされる。人間は「最適解」ではなく、「次善解」でやりくりすることで辻褄を合わせているもので、とりわけセキュリティ分野では、この「良い加減さ」を理論に組み込んでいかなければ現場に適用できないというのである。情報セキュリティ大学院大学で林先生の授業を受けた学生の多くは、サイバー・セキュリティの第一線で奮闘する社会人学生が多いが、腑に落ち、勇気づけられる言葉だったのではないだろうか。

 ところで、先生はこの日の最終講義のために、これまで発表した自身の著書、論文を洗い出してみたところ24本あり、その内訳は、経済学3、企画・経営学8、法学9、そしてセキュリティが4だったと披露された。セキュリティ分野での論文は2011年以降の共著の論文4本で、その比重が小さいことはご自身も意外だったようで、「セキュリティ分野の研究はまだまだやり足りない。この分野はまだ開拓可能である」と力強く抱負を述べられた。この先も先生がたびたび「Eureka!」と叫ばれるであろうことは間違いない。教え子である我々も、先生の後塵を拝しながら精進し、せめて1回ぐらいは「Eureka!」の快哉を叫びたいものである。

 

林「情報法」(37)

行動経済学と嘘

 前回は、伝統的な経済学が「嘘」について、どのような知見を与えてくれるかを説明しました。それはそれで有益な示唆を含んでいましたが、現代の行動経済学から見ると、一面的との批判が出るでしょう。なぜなら伝統的な経済学は、「常に自己の経済的利益を最大化することしか考えない」架空の人間を想定しているのに対して、行動経済学は「人間は合理的な点も多いが非合理なこともする」という、より「生身の人間」に近い見方をするからです。それでは、後者から得られる「嘘」に関する教訓は何でしょうか?

・「合理性」と「利己性」を疑う

  従来の経済学の人間観と、行動経済学以降のそれとの差を単純化すると、「合理性」と「利己性」を貫くか、「非合理」あるいは「不合理」(ここでは両者は互換的で、ともに「利他性」を含むとしておきます)を容認するか、という点になりそうです。

 伝統的な経済学に登場するのは、いついかなる場合にも「経済以外の要素は考えない」し、「常に自分の利益(期待効用)を最大化する」ことを目指す「経済人」(ラテン語ではhomo economicus、英語ではRational Person)です。これは経済学の登場人物と行動基準を限定し、単純な仮説に基づいて分析を進めるためには有効な設定でした。この単純化のために経済学が発展した、という側面もあったと思われます。

 しかし、あまりに単純化したモデルでは、現実の一面しか表すことができません。そのことは過去の経済学者も暗々裏に知っていたと思われますが、「非合理」な事象を把握することが出来ないし、仮に把握できたとしても分析する手段を持ち合わせていませんでした。ところが、経済学にゲーム理論や心理学の知見が生かされるようになり、信頼度の高い実験が可能になったことから、「非合理」を実証する事例が続出しました。行動経済学者の一部は、伝統的な「経済人」を「エコン」と略称(蔑称?)し、自分たちのモデルを「ヒューマン」と呼んで区別しています。

・Prospect Theoryと利他性の証明

 行動経済学の初期の発見として、心理学者のカーネマンが、故人となったトベルスキーとともに提唱した「プロスペクト理論」(Prospect Theory)があり、期待効用理論(Expected Utility Theory)を補うものとなっています。元となった実験は、カーネマンが「1つだけの質問による心理学(psychology of single questions)」と呼ぶ手法によるもので、例えば被験者に以下の2つの質問をします。

質問1: 以下の2つの選択肢のうち、どちらを好みますか?
A: 100万円が無条件で手に入る。
B: コインを投げ、表が出たら200万円が手に入るが、裏が出たら何も手に入らない。

質問2: あなたが200万円の負債を抱えている場合、以下の2つの選択肢のうち、どちらを好みますか?
A: 無条件で負債が100万円減額され、負債総額が100万円となる。
B: コインを投げ、表が出たら支払いが全額免除されるが、裏が出たら負債総額は変わらない。

 質問1は、どちらの選択肢でも手に入る金額の期待値は100万円ですが、一般的には、堅実性の高い「選択肢A」を選ぶ人が、圧倒的に多いとされています。質問2も両者の期待値は △100万円と同額です。質問1で「選択肢A」を選んだ人ならば、質問2でも堅実的な「選択肢A」を選ぶだろうと推測されますが、質問1で「選択肢A」を選んだほぼすべての人が、質問2ではギャンブル性の高い「選択肢B」を選ぶことが実証されています。

 上記の結果から「プロスペクト理論」は、「期待効用理論」に反する、以下のような含意を含んだものとされています。

・利得と損失の大きさが同じ場合、人間は得した喜びより、損した悲しみを避けるという「損失回避」(risk-averse)の行動をとる傾向がある。
・しかし損失額があまりに大きいと、大きな反応を示さなくなる。

 またゲーム理論の発展に伴って、「人は利己的に行動する」という仮説を覆す実験も行なわれるようになりました。今、被験者が1万円を手渡されて、見ず知らずの相手と好きなように分配しなさいと言われたら、どう行動するでしょうか。相手に分配額の拒否権がある時(ゲーム理論では「最後通牒ゲーム」)、理論的な答えは「1円あげれば十分」になります。なぜなら相手にとっては、拒否するより1円でも受け取る方が「合理的」だからです。

 ところが、生身の人間は4,000円程度を相手に分配することが多いという実験結果が、世界各国で報告されています。相手に拒否権がない(「独裁者ゲーム」と呼ばれる)時でさえ、相手に2,000円程度を分配するようで、人間は「思ったよりも利他的で、他人を思いやる存在だ」という理解が広まっています。

・Predictably IrrationalからNudgeへ

 カーネマンは第1世代の行動経済学者で、現代の主流は第2世代に移っているとされます。第2世代の特徴は、「実験から○○が分かった」という地点に立ち止まらず、「実験結果を生かせば社会的に望ましい方向に誘導できる」という実践を厭わないことです。特に経済学者のセーラーと法学者のサンスティンのペアは、nudge(居眠りしている人を肘でつついて気づかせる)ことに関心が強いようです(前者はオバマ政権で、それを主任務とするポストについていました)が、詳しい説明は以下の文献を参照してください。リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン、遠藤真美(訳)[2009]『実践 行動経済学』(日経 BP社。原題はNudgeですが、邦訳のタイトルも共著者の意図をうまく伝えています)。

 著者の2人は、政府の介入を嫌う「リバタリアン」を自認しつつ、「リバタリアン・パターナリズム」、つまり「政府の介入を嫌いながらnudgeが必要だと主張する自己撞着」という非難を気にしないようです。ついでながら、ダン・アリエリー、熊谷淳子(訳)[2008]『予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(早川書房)は、非合理でも予測可能な範囲(predictably irrational)であれば、nudge出来るという理解では共通の基盤に立っています。

 という訳で、行動経済学はかつての傍流から、今や主流の1つになりつつあります。共にノーベル経済学賞受賞者が書いた、ジョージ・A・アカロフ、ロバート・J・シラー、山形浩生(訳)[2017]『不道徳な見えざる手』(東洋経済新報社)まで現れて、アダム・スミスの「見えざる手」が合理的とは限らないことを、認める時代になっています。

 この書物の原題は Phishing for Phoolsですが、インターネット愛好者の間ではphはfの代用なので、Fishing for Fools と読み替えてください。すると、木村剛久氏の次の書評(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2017070600003.html)が指摘するように、nudgeは「見えざる手」を補う「思慮深い政府の手」として合理化されるのでしょうか。

市場はそれ自体が諸刃の剣だ。市場が不健全な状態になるのは、けっして外部要因によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と著者はいう。人びとがほんとうに求めているものと、人びとが買おうとするものとは異なる。消費者はいわばカモとみなされている。イメージづけされた商品を買わされているのだ。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことを指している。

・不正対策への応用と限界

 また本稿の文脈に戻れば、非合理或いは不合理の代表格である「嘘」という不正行為の防止にも、行動経済学が役立つのでしょうか? 上記の諸著作のうちで、このテーマに最も近いのはアリエリで、ずばり次のような著作を著しています。ダン・アリエリー、櫻井祐子(訳)[2014]『ずる――噓とごまかしの行動経済学』(早川書房)。

 彼が取りあげたのは「不正」よりも「ずる」と呼ぶにふさわしい、信号を無視したり、税の申告で経費を水増ししたりといった、誰にも心当たりのある (実際、皆がやっている) 些細な行為のことです。どういう状況で「ずる」が起こりがちなのかを検証し、「仕組み作り」をすることで、より深刻な不正事態につながるのを回避しようというのです。

「いつもトイレを綺麗にお使い頂きありがとうございます」の貼り紙があるだけで、清潔度が高まる反面、身につけているものが偽ブランド品だと「ずる」をしやすくなるという面白い研究結果も出てきます。ごまかしや不正は「感染」しやすいとも言います。「朱に交われば赤くなる」でしょうか。つきあう相手も、よく考えなければいけません。

 このような分析は、これまでの経済学には無かったもので、心理学や経営学の分野から参入した学者が活躍しています。しかし、今日までの考察結果は主として「個人」が対象です。「個人の不正を防止できなければ、法人の不正は防ぐことが出来ない」という命題は正しいように思えますが、「法人の不正は別の動機で起きる」のであれば、別の防ぎ方が必要かもしれません。この分野は、まだまだ発展途上の領域と言うべきでしょう。

林「情報法」(36)

「真偽不明」と「情報の非対称性」

 これまで数回にわたって、偽装やフェイク・ニュースといった故意の嘘、方便や無意識でつく(過失的な)嘘の両面を紹介し、情報はグレイで真偽不明の場合が多いため、故意に誤った情報を流したいと思っている人にとっては、「ヤリ得」の状況になっていることを指摘しました。このような事態が望ましくないことは、読者の皆さんも認めるところかと思いますが、事象を科学として分析し、その対策を曲がりなりにも考えたのは、経済学が最初だったと思います。そこで事例の説明は一旦止めて、「情報の経済学」が見出した理論的な知見について、考えてみましょう。

・「レモン」の市場

 市場における取引は、当事者双方が十分な情報を持ち、また合理的な判断ができるという暗黙の前提に基づいています。しかし、世の中にはそれらの条件が満たされないものも多く、このような疑似市場は、やがて機能しなくなる運命にあります(市場の失敗)。

 その代表例である「レモンの」市場について最初に取り上げたのは、ジョージ・アカロフです。彼は中古車市場で購入した車は故障しやすいといわれる現象のメカニズムを分析して、「情報の非対称性」という概念を経済学に根付かせました(Akerlof, George [1970] “The Market for Lemons: Quality Uncertainty and the Market Mechanism”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 84  No.3)。

 Lemonとは「欠陥品」を指し、俗語では質の悪い中古車を意味しています。中古車のように、実際に購入してみなければ真の品質を知ることができない財が取引されている「レモンの市場」では、売り手は取引する財の品質をよく知っているのに、買い手は財を購入するまでその品質を知ることが難しい状況にあります(情報の非対称性)。そこで、売り手は買い手の無知につけ込んで、悪質な財(レモン)を良質な財と称して販売する傾向があるため、買い手は良質な財を購入したがらなくなり、結果的に市場に出回る財はレモンばかりになってしまうという問題が発生します。

 そのメカニズムを単純な数値で説明すると、以下のようになります。いま市場には、高品質と低品質の2種の財しかなく、それぞれ半々の割合で存在しているとしましょう。売られている財の品質を熟知している売り手は、高品質の財は30,000ドル以上、低品質の財は10,000ドル以上ならば販売してもよいと考えているとします。

 しかし買い手にとっては、売られている財の正しい品質を判断することが困難なため、半分の確率で財が低品質であると推測することになります。この場合、買い手にとっての財の価値は、高品質な場合の30,000ドルと低品質な場合の10,000ドルの平均である20,000ドルとなり、買い手はそれ以上支払いたくありません。このことを予想する売り手は、20,000ドルより高い財を市場に出すことを諦め、それ以下の財だけが取引されるようになります。

 この結果、今度は買い手が支払ってもよいとする平均価格も15,000ドルまで低下し、売り手は15,000ドル以上の財を市場に出すことを諦めます。このような連鎖の結果、売り手は高品質の財を売ることができず、低品質の財ばかりが市場に出回る結果となり、社会全体の厚生が低下してしまいます。このような現象は、通常は良いものが選ばれ生き残るという選抜や淘汰の逆であるという意味で、「逆選抜」、「逆淘汰」と呼ばれます。

・逆選択とモラル・ハザード

 情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保有している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保有している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービス(レモン財)を良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとしたりするインセンティブが働きます。その結果、一般的に期待される市場機能が歪んでしまいます。

 歪みの1つである「逆選抜」は元々保険市場で使われる用語で、保険加入者が幅広い層に行き渡らずに特定の層(多くの場合、保険金支払いの確率が高い層)に偏ってしまう現象を指します。医療保険を例にとると、保険会社としては自身の健康や安全を心掛け、病気や事故と無縁の人物と契約するのが望ましいでしょう。しかし保険会社が、ある人物が健康に気を配っているのか、それとも全く気にしていないのかを判別できるとは限りませんので、こうした事情を考慮しない一般的な提供条件を示す以外にありません。

 そこで、保険会社が嫌がるような不健康な、あるいはリスクの多い生活を送る者は、その条件でも自分にとって得になると考え、その保険に加入するインセンティブを感じます。しかしそうではない人物、保険会社が本来想定するはずであろう人物は、加入しないかもしれません。このため保険会社の元を訪れる加入希望者は、本来保険会社が望まないであろう属性を有する人物らに偏っている可能性があります。

 もう1つ、経済学が発見した重要なテーマとして、「モラル・ハザード」がありますが、そこには3つの問題が混在しています。1つは保険におけるモラル・ハザードで、保険に加入することにより、リスクをともなう行動が生じること(例えば、火災保険に入っていると、火の取り扱いに関して十分な注意を払わないなど)を言います。

 2つ目は、経済学の言う「プリンシパル=エージェント関係」(「使用者と被用者の関係」など)において、情報の非対称性によりエージェントの行動についてプリンシパルが知りえない情報や専門知識がある(片方の側のみ情報と専門知識を有する)ことから、エージェントの行動に歪みが生じ、効率的な資源配分が妨げられる現象を言います。これは情報の非対称性に起因するものですが、時として「モラル・ハザード」とも呼ばれ、企業の不祥事を経済学的に説明する際の定本になっています。

 なお第3の意味として、わが国では、より広い意味で「倫理観や道徳的節度がなくなり、社会的な責任を果たさないこと(「バレなければよい」という考えが醸成されるなど)」を指す場合がありますが、米国を中心に発展した経済学では、この意味で用いることは稀で、わが国の理解はmoralという英語を正しく理解していないことから生じたものと思われます。

 因みに、著作者人格権の英語はmoral right ですが、ここでのmoralには倫理的な意味はありません。

・レモンの市場の是正策

 レモンの市場が、望ましい経済効果をもたらさないとすれば、それを是正する方法はあるのでしょうか。保険サービスを例に取ると、逆選択に関して、売手の方が情報量が多い場合は、第三者機関が審査・検定を行ない、買い手に対して財やサービスの品質を保証する方法が考えられます。保険業界に伝統的に適用されてきた約款規制は、このような視点からは支持されるでしょうが、近代の規制緩和の流れには逆行することになります。

 他方、買手の情報量が多い場合には、個人ではなく、企業やサークルなどの団体単位で保険への加入を促す方法があります。個人を中心に加入者を募集すると、早死にする確率の高い人が申請する可能性が高くなりますが、ある程度以上の規模を持つ企業やサークルに、病気がちな人ばかりが集まっているケースは極めて特殊です。全体の危険度は平均的な水準に落ち着くと予想されるので、保険会社は団体加入を優遇することによって、逆選抜の問題を回避できます。

 これを更に発展させて、法律で加入を義務づけ、選抜そのものを双方に不可能にする「強制保険」も考えられます。医療保険や社会保障制度はその代表例ですし、自動車損害賠償保障法に基づく自賠責保険(共済)制度が、モータリゼーションに果たした役割は無視できないでしょう。

 これらの動きを経済学では、シグナリングとスクリーニングと呼んでいます。 signalingとは、前者のように、私的情報を保有している者が情報を持たない側に情報を開示するような行動をとることを言い、情報を持たない者が情報を持つ者に情報を開示させるように選別を行うことをscreeningと言います。

 これらの概念は、経済的な取引の対象となる情報、つまり「財貨としての情報」を分析する上ではある程度の有効性を示してきました。しかし、それ以外の情報、例えばフェイク・ニュースにも適用できるかとなると悲観的です。思想も市場で取引可能ではないかという「思想の自由市場論」は、日本の憲法学者の間でも人気がありますが、それを支えたいのであれば、「言論の自由を保ちつつ、フェイク・ニュースは排除する」新しい仕組みを考える必要がありそうです。

・品質表示の重要性と情報の経済学の限界

 実は、今回紹介した記述は、本連載第12回「品質保証と『情報の経済学』」(2018年1月9日投稿)と第13回「品質保証の制度的枠組み」(2018年1月26日投稿)で述べたことと一部重複しています。重複を厭わず記述したのは、情報法における「品質表示の重要性」がそれだけ高い、と理解していただければ幸いです。

 なお、この点に世間の関心を引き付けたという限りでは、経済学の貢献は高く評価されるべきですが、少なくとも今日現在での「情報の経済学」は、より広義の「取引費用」の経済学の一部ではあっても、「財としての情報」の経済学ではないように思えます。この点についても、上記2回分の記述をお読みください。

林「情報法」(35)

「第三者」と「利害関係者を除く」の差

 毎月勤労統計の不正に端を発した一連の統計不正問題は、厚生労働省の監察委員会の追加報告書(2019年2月27日)、総務省の統計委員会の意見書(同3月6日)、第三者委員会報告書格付け委員会の結果報告(同3月9日)など、多くの判断材料が揃ったので、実態をできるだけ解明して再発を防いでもらいたいところです。しかし私からすると、「そもそも第三者とは誰か」という理解が共有されていない心配があるので、この点について若干掘り下げてみます。テレビ番組のサブ・タイトル風に言えば、「第三者」と「利害関係者を除く」、その差ってなんですか? となるでしょう。

・「自己契約と双方代理の禁止」にみる第三者性の出発点

 第32回の「基幹統計よ、お前もか!」で触れたように、厚生労働省の監査委員会については、当初からその「第三者性」に疑問が出されていました。不祥事の解明には当然のごとく登場する「第三者委員会」ですが、「第三者」とは、そもそも誰のことでしょうか? 単純な質問のように見えて、ここには意外に深い含意が隠されています。

 まず民法108条(自己契約及び双方代理)が、次のように定めていることが、議論の出発点になります。「同一の法律行為については、相手方の代理人となり、又は当事者双方の代理人となることはできない。ただし、債務の履行及び本人があらかじめ許諾した行為については、この限りではない。」これに違反した代理行為は権限のない代理となるので、本人に対して効力を生じませんが、本人が追認することはできます (民法113条)。

 こうした規定が置かれているのは、代理人自身が契約の相手方となったり(自己契約)、契約当事者両方の代理人となったり(双方代理)すると、代理人が本人の利益を犠牲にして自己の利益を図ったり、契約当事者の一方の利益のみを図ったりする危険性が内在するからです。つまり法は、本人と代理人との間で「利益相反」となる行為には、原則として法的な効力を認めないこととし、利害関係のない人を「第三者」と考えているのです。

 しかし杓子定規にこの規定を適用すると、些細な代理行為まで出来なくなってしまうので、但し書きで一定の行為を除外しています。代表的な事例として、不動産売買において「両手媒介(あるいは両手取引)」といって、宅地建物取引業者が売主と買主の間に立って取引を媒介することが、広く行なわれています。(公財) 不動産取引流通センターのサイドでは、これは本来「代理」ではなく「準委任」(民法656条)の問題であるとしていますが、後述する英国の建築確認の考え方と対比するまで、私の考えは保留としましょう。
https://www.retpc.jp/archives/1613/

・会社法における「社外取締役」と「独立取締役」

 個人が主体の契約に関しては、このような理解で十分かもしれませんが、企業という複雑な仕組みが関係する場合は、利害関係者の排除に関して、より厳しい視点が求められます。わが国でもグローバル経営の展開に歩調を合わせて、corporate governance に関して国際標準に合わせる動きが加速して、上場企業を中心に社外取締役の設置が義務付けられてきました。

 その際「社外」である要件として、会社法2条十五は、「イ当該株式会社又はその子会社の業務執行取締役(カッコ内略)若しくは執行役又は支配人その他の使用人(以下「業務執行取締役等」という。)でなく、かつ、その就任の前十年間当該株式会社又はその子会社の業務執行取締役等であったことがないこと。」ほかホまで5つの要件を定めていますが、いずれも「○○でないこと」と、「要件」というよりも「欠格事項」を上げています。

 その点は、東京証券取引所の有価証券上場規程436条の2に定める「独立性基準」と、それを受けた「上場管理等に関するガイドライン」や「独立役員の確保に係る実務上の留意事項」等になるとより明確になり、A – Eまでの「いずれかに該当し『利益相反』が疑われることが無い者」を「独立役員」と規定しています。そのAは「上場会社を主要な取引先とする者又はその業務執行者」です。

 このように見てくると、民法が主として念頭に置いている個人対個人の一時的な契約関係は別として、法人が関係する長期継続的な取引関係にあっては、「第三者性」とは「利益相反(と疑われること)が無いこと」という、より厳格な基準だと言い換える方が適切だと考えられます。つまり「社外取締役」ではあるが「独立取締役」には該当しない人が存在し得る、ということです。

(この節は、なるべく条文の細部に入らないよう工夫して表現しているため、厳密性を犠牲にしています。より詳しい説明は『情報法のリーガル・マインド』pp. 181-186を参照してください)。

・英国の発想

 このような発想は、ただでさえ「社外取締役」の必要数を満たすことが難しい、わが国の現状を無視した「学者の空論」だと思われるかもしれません。しかし私は、「表示と偽装」問題の発端になった、建築確認における構造計算書偽造事件(2005年)が起きた時、ある会合で聞いた、英国とわが国の考え方の差が頭から離れません。

 わが国で建築基準法上の建築物を建てようとする場合、着工前の「確認」(同法6条以下)と完成後の「完了検査」(同7条以下)の両方を受けねばなりません。建築確認とは、建築物などが建築基準関係規定に適合しているかどうかを、着工前に審査する行政行為で、着工後に法令違反を発見し是正を求めるよりも事前にチェックする方が合理的であることから行なうものとされています。建築確認や完了検査の審査を扱うのは、地方自治体の建築主事か、指定確認検査機関に属する建築基準適合判定資格者です。

 ここでは完了検査のみを取り上げると、建築主は工事完了の日から4日以内に、建築主事に到達するように完了検査を申請するか、指定確認検査機関に完了検査を引き受けさせなければなりません。建築主事あるいは指定確認検査機関は、受理日から7日以内に完了検査を行ない、問題がなければ建築主に検査済証を交付しなければなりません。ここで構造計算者などの重要な書類が偽造されていた場合は、不合格となるのは当然のはずです。しかし強度計算がコンピュータ処理されていたため疑われることが無かったなどの理由から、社会問題になるほど多数の建築物が、検査をすり抜けてしまいました。

 この問題を受けて多くのセミナーが開かれましたが、ある会合で英国の建築会社の役員をしている日本人がパネリストに名を連ねていたので、興味本位で参加しました。その席で彼が言ったことは、衝撃的でした。「日本では建築を請け負った業者が建築主に代わって完成検査を申請するが、それは『利益相反』だからやってはならない。建築主が雇った建築士に任せるべきで、英国ではそうなっている」と言うのです。

 なるほど、建築主と請負業者では、前者は少額の予算でなるべく多くの注文を実現してもらいたいのに対して、後者はなるべく少ない作業量で売り上げを伸ばしたい訳ですから、「利益相反」そのものです。その業者が「完成した」と言っても、注文主が「心から満足している」とは言えないと考えるのが、普通の発想でしょう。

・金銭的独立

 細かいことを言えば、更に問題があります。監査役の人件費を含む費用は、監査を依頼する株主が負担すべきでしょうが、株主から承認を得た会社が負担するのが一般的です。監査費用だけを抜き出して、配当等からチェック・オフすることも可能ですが、手数がかかる上、全株主に共通の費用ですから、会社の費用として計上しても不都合はないというのが一般的な理解でしょう。

 しかし、それは結果として「監査役が会社に雇われている」のと、類似の心証を生むことにつながります。ましてや社員から昇進した(?)監査役にとっては、その心証は強いと言ってよいでしょう。そうした弊害を除去する意味もあって、社外取締役よりもずっと前から、社外監査役が必置とされるようになっていますが、それで十分なのでしょうか? 

 世間では、こうした弊害に気づいている人もいて、「売り上げの一定比率を監査費用としてプールし、監査人は監査役協会から輪番制で派遣する」などの案を提案する人もいます。しかし、会社の業容が複雑化した現代では、ある程度社内事情に通じた監査人でないと、十分な監査が出来ない恐れもあります。

 同じような心配は、学者にもあります。私も研究者の端くれですから、研究費は多ければ多いほど歓迎ですが、同時にその提供者にも気を付けています。ある提供者から多額の委託調査などをいただくと、どうしてもその委託者の気持ちを忖度してしまう懸念が生ずるからです。学界では、こうした弊害を少しでも避けるため、委託研究や研究助成を受けた場合は、謝辞とともに資金源を明示する慣行があります。

 このような視点から見ると、先の宅建業者の「両手媒介」は便法ではあるものの、やはり本質的には双方代理の要素を内包していると言わざるを得ません。なぜなら、取引手数料が売買金額に比例している現状に照らせば、中立のはずの宅建業者も「高く売れる方が良い」というインセンティブを持つ限りで、売主側にバイアスがかかっていると疑うのが当然とも思われるからです。

 しかし、このようなことを心配し続けると、漱石の言う「知に働けば角が立つ」ことになるかもしれません。私の場合は、「経済学に傾きすぎて角が立つ」でしょうか?