新サイバー閑話(5)

「ジャーナル・ノベル」の試み第4弾

 7月の西日本豪雨をはじめ、たびかさなる台風襲撃、6月の大阪北部地震など、今年は大きな災害が日本列島を襲った。集中豪雨の特別警報で気象庁は「かつて経験したことのない大雨」といった表現を使うし、ゲリラ豪雨という呼び方もすっかり定着した。地球の生態系にかつてない異変が生じているのは明らかで、異常気象は今後も激しさを増すと覚悟すべきである。その原因は地球の温暖化であり、その元凶こそ化石燃料が生み出す二酸化炭素(温暖化ガスの最たるもの)である。

 しかし、自分たちの小さな行動が大きな結果に結びつく「リスク社会」の危険を肌身で感じることは難しい。それを避けるために何を心がけるべきなのか。その対策は国際会議などで検討されているとはいうものの、漠然とした数値基準で個々の人びとを具体的行動へと駆り立てることは至難である。「総論賛成、各論反対」、「現実の利益追求が第一」などと言っているうちに事態はどんどん悪化していく。

 ジャーナリストの畏友、北沢栄が11月下旬、『南極メルトダウン』という本を出した。地球温暖化の影響としては、北極の氷面積の縮小などがよく話題になるが、南極は大陸である。北極の氷はその9割がすでに海中にあるのに対し、南極大陸の上に乗っている数千メートルの氷の柱が海に流れ込めば、海面上昇に与える影響は甚大だろう。南極大陸の広さは日本の37倍ともいう。本書は、その南極の氷棚が次々と崩壊し、大津波が世界の沿岸部諸都市を襲うというアポカリプス(黙示、最後の審判)をテーマにしている。

 帯に「ジャーナル・ノベル―事実に基づく小説スタイル」とある。地球温暖化による破滅的危機が、ほとんどの人に見えない南極で静かに進行していることに警鐘を鳴らすのが本書のねらいである。その方便として小説の形を借りているが、背景説明などに使用した温暖化指標などのデータはすべて事実で、科学的な根拠に裏付けられているという。

 実はこの著者には、以前にも中小企業小説『町工場からの宣戦布告』(2013)、『小説・特定秘密保護法 追われる男』(2014)、『小説・非正規 外されたはしご』(2016、いずれも産学社)という連作がある。順にメインバンクの貸し渋り・貸し剥がしによる中小企業経営者の悪戦苦闘、特定秘密保護法が持つ危険性、新格差社会における青年たちの闘いというふうに、現代日本が直面する問題を扱っている。

 小説の語り口を借りることで、複雑な問題をやさしく理解できるための工夫をしているわけだが、私が感心するのは、広範なジャンルに一人で立ち向かっている雄々しきチャレンジ精神である。

 リスク社会の提唱者、ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックは2015年に亡くなったが、その遺稿『変態する世界』で、「『変態』は、現代社会の昔ながらの確実性がなくなって、新しい何かが出現してきているという、もっと急進的な変容を意味する」と書き、気候変動で言えば、「海面上昇は、不平等の新たな景観を生み出しつつある。従来の国家間に引かれた境界線ではなく、海抜何メートルかを示す線が重要になる新たな世界地図を描き出しつつあるのだ。それによって、世界を概念化する方法も、その中で私たちが生き残る可能性も、これまでとはまったく異なるものになる」と述べている。

 実は私も、サイバーリテラシーの提唱で「毛虫がみずからの内部諸器官をいったんどろどろに溶かしてサナギとなり、一定期間をへたあとチョウへと変身するように、現代社会もまた時代の転換点にある」と書いたけれど、現代社会の諸問題はそれぞれ複雑に絡み合っており、近視眼的な国家単位の弥縫策ですませられるものでは決してない。

北沢栄『南極メルトダウン』(産学社、2017)
南極メルトダウン
ウルリッヒ・ベック『変態する世界』(岩波書店、2017)
変態する世界

町工場からの宣戦布告小説・特定秘密保護法 追われる男小説・非正規 外されたはしご

林「情報法」(29)

データ消去やポータビリティをめぐる「情報は誰のものか」

 広義の「情報」に関する法的扱いを議論する際には、データ・情報・知識という3分法が有効です。ここでデータとはシャノン流に「意味を捨象した生データ」のことで、これに解釈を加えるとウィーナー的な「情報」に変り、それが広く共有されると「知識」となり、これら三者を含めて「広義の情報」と呼ぶのが一般的かと思います。

 そこで「(広義の)情報は誰のものか」という議論をするには、最も単純な「生データ」の側面から見るのが、第一歩ということになります(これも、レイヤ構造的発想です)。その意味で、データ保護に熱心なEUが個人に「データ消去」や「データ・ポータビリティ」という権利を生み出したことは、重要な手掛かりになるでしょう。

・GDPRにおけるデータ消去の権利

 かねてから「個人データ」(わが国のように「個人情報」といった曖昧な言葉は使いません。「情報」だと、人によって解釈が違ってくるからです)の保護に熱心なEUでは、2018年5月からGDPR(General Data Protection Regulation)が施行されました(data protectionであって、information protectionでないことを確認してください)。regulationは、加盟国がそれぞれに国内法を整備するための指針となるdirectiveとは違って、EUの定めがそのまま国内にも効力を及ぼすので、規範力が強まったことになります。

 新しいregulationでは、個人データ取得には「目的を明示した同意」が必要になること等は従前と同じですが、データ漏えいに関しては72時間以内に監督官庁に届け出ること、違反企業には最大で全世界の売上高の4%か、2千万ユーロ(約26億円)のいずれかが科されるという、事業者に厳しい内容になっています。しかし事業者規制と同時に、データ消去やポータビリティという「個人の権利」にも、新しい仕組みが導入されました。

 「忘れられる権利」とした話題になった「データ消去権」は、GDPRの17条1項に、right to erasureとして以下のように規定されています。

The data subject shall have the right to obtain from the controller the erasure of personal data concerning him or her without undue delay and the controller shall have the obligation to erase personal data without undue delay where one of the following grounds applies: (以下の要件に関する部分は省略)

 ここでdata subject(データ主体)とは、あるデータが指し示すと思われる者(自然人)を、controller(データ管理者)とは、当該データを管理している者を意味します。「忘れられる権利」(right to be forgotten)という語はカッコ書きのサブタイトルとして登場しますが、条文そのものには出てきません。それには激しい論争があったようですが、「忘れよ」と自然人に命ずれば「内心の自由」を侵すことになるし、キャッシュやログに保存されたものまで消去することは技術的にも不可能なので、当然のことかと思います。因みにright to erasureは「削除権」や「抹消権」といった訳もあり得ますが、実際は削除せず、単に検索エンジンで表示されないようにするのが精一杯かと思いますので、ここでは「消去権」としました。

・データ・ポータビリティの権利

 一方、データ・ポータビリティに関するGDPRの20条1項は、以下のように定めています。なお第2項によって、技術的に可能であれば、事業者間で直接受け渡しするよう求めることもできます。

The data subject shall have the right to receive the personal data concerning him or her, which he or she has provided to a controller, in a structured, commonly used and machine-readable format and have the right to transmit those data to another controller without hindrance from the controller to which the personal data have been provided, where:(以下の要件に関する部分は省略)

 これらの規定を受けて第29条作業部会(European Data Protection Board=EDPB発足前の準備部会)が作成したガイドラインでは、対象となる個人データの範囲は、次のようにコメントされています。

 1) personal data concerning the data subjectの規定により、匿名データやデータ主体に関係がないものは対象にならない(ただし、データ主体に紐づけることが可能な仮名化データは対象になる)。
 2) data provided by the data subjectの規定により、データ主体が意識しかつ積極的に提供するものが典型例だが、データ主体の行動を観察して得られる行動履歴(検索履歴、音楽の再生回数等)も含まれる。
 3) 20条4項の規定により、データ・ポータビリティの権利は、他人の権利や自由に不利な影響を与えてはならない。

 これらの規定から、ある特定のサービスに利用されている個人データに関して、データ主体がデータ管理者に対して、当該データの開示を請求できる(ここまでなら、わが国も同じです)だけでなく、丸ごと他の者に移転するよう指示する権利があることになります。携帯電話の場合のローミングはこれを自動的に行なっている訳ですが、利用者の意思でキャリアを変える際、番号を変更することもなく、加入者データやアプリなども移転請求できると考えれば、分かり易いでしょう。

・ガイドラインでも分かりにくいケース

 しかし、データの範囲を正確に規定するのは容易ではありません。前述のガイドラインには第3コメントの「他人の権利や自由に不利な影響を与えてはならない」の判断に関して、以下のような例が載っています。

 ① ウェブ・メールの場合、データ主体の接触先・友人・親戚、更に広い交流関係が生み出されるので、データ主体の要求があれば、データ管理者は発信および受信メールのディレクトリ全体を移転するのが妥当である。
 ② 同様に、データ主体の銀行口座には自身のデータだけでなく、送金先の個人のデータなども含まれるが、データ主体の要求でこれらの情報を全部移転しても(連絡先やデータ主体の履歴が本人によって利用される限り)、他人の権利や自由に不利な影響を与える可能性は低いので、全部移転しても良い。
 ③ 他方、データ管理者がデータ主体の連絡先アドレスにある他の個人のデータをマーケティングに使うなどすれば、第三者の権利と自由が尊重されていないことになる。

 ここまでは常識的に理解できますが、次の例はどうでしょうか?

 ④ データ管理者は、データ主体が他のデータ管理者へのデータの移転を希望するような場合に備えて、移転を容易にするための同意メカニズムを用意すべきである。こうした先駆的試みはソーシャル・ネットワーク・サービスなどで生じようが、最終的な決定権はデータ管理者にある。

 最後の ④ までくると、EUが「データ流通を促進するため」にこの制度を設けたという説明が、建前としては理解できるものの、結局建前だけに終わってしまうのではないかという懸念が生じます。なぜなら資本主義を標榜する限り、EUといえどもデータ管理者に移転を強制することはできないからです。この点を突き詰めていくと、アメリカのように発想の違う国や、さらには中国など国の成り立ちが違う場合に、どのような問題が生ずるかを検討しなければなりません。しかし、このテーマは大きいので、次回にまとめて議論することにしましょう。

・情報財は占有できない

 その代り、ここでは次の点を明確にしておきましょう。EUの「データ消去権」や「ポータビリティ権」は、個人の権利を拡張することによって、「自分の情報は自分でコントロールしたい」という要請に、ある程度応えたものであることは間違いありません。しかし、その実効性、つまり厳密な法学的な意味での「権利」としてどの程度有効であるかは、未知数と言わざるを得ないと思われることです。それはEUの努力不足を意味しません。むしろ「広義の情報」の不確定性に由来することで、未だ人類は情報にふさわしい法制度を見出していないということに尽きると思います。

 情報財を経済学の視点から見れば、私的財となる要素と公共財的な要素が混在しており、これを法学の文脈で言い直すと、「情報財は占有できない」ことになるからです。特許として国家の審査を受けている情報財は、「請求項」(クレイム)の範囲で私的財となり得ますが、所有権と同じ強度の排他性は生じません。同じ情報を営業秘密として守っている場合に、有体物に関する所有権に準じて「占有訴権」(民法198条~200条)で守ることはできません。不正競争防止法の助けを借りることはできますが、「秘密として管理している」こと等が求められます。また情報の流通は不可逆的ですので、有体物の窃盗のように取り戻すわけにいきません。

 これらの教訓をデータ消去やポータビリティに移し替えれば、これが「自己情報コントロール権」を認めた画期的な規定だという見方は、早計に過ぎるように思えます。ドイツの憲法裁判で認められた「情報自己決定権」や、アメリカ発でわが国でも信奉者が多い「自己情報コントロール権」は、概念自体は検討に価しますが、技術的な裏付けがないと「空論」に終わってしまう恐れがあります。「(広義の)情報を管理する」ことは意外に難しいので、理論より前に、技術的な実装を検討するのが地道な方法でしょう。

 

 

小林「情報産業論」(9)

梅棹が情報産業の未来に見たもの

変化の時代にあっては経済もまた変化する。(p56)

情報産業の時代を、まさに文明史的な視座から画したうえで、いよいよ梅棹は、情報産業時代の経済学の分野に打って出る。すなわち、情報価値論。おっと、この言葉は、もしかしたらぼくの造語かもしれない。

梅棹の情報価値論の中核に、お布施理論があることは言を俟たないが、情報産業論の掉尾を飾るお布施理論に至る梅棹の論の進め方は、まるでロッシーニオペラ幕切れのストレッタを思わせるものがある。

ぼくは、1995年ごろからミレニアムの境をまたいで、アメリカの西海岸、いわゆるシリコンバレーに頻繁に出向いていた。そんな折、役得で、勤めていた会社のPR誌に連載を持っておられた紀田順一郎さんの米国IT業界取材に便乗して、サンノゼにあるウィンチェスターミステリーハウスを見に行った。サンフランシスコから、リムジンをハイヤーしてね。

ウィンチェスターミステリーハウスというのは、ウィンチェスター銃で巨万の富を築いたかのオリバー・ウィンチェスター未亡人が、心の病を得てから生涯に渡って作り続けたまさに世にも奇妙な建物だ。見事に歪んでいるとはいえ、ウィンチェスターが武器製造で得た富の大きさをうかがわせて余りある。

そのころ、カーネギー・メロン大学も、何度か訪問した。ニューヨークのカーネギーホールには、行ったことはない。いずれにしても、今のアメリカの文化や学問が、梅棹の言葉を借りると、中胚葉産業の遺産によって支えられていることに、疑いを挟む余地はない。そこに、以前触れた、アール・ゴア・シニアによるインターステイト・スーパー・ハイウェイを加えてもいいだろう。

しかし、そのころのベイエリアは、そういった中胚葉的産業から、外胚葉産業への移行が急速に進んでいた。1939年創業のヒューレッド・パッカード社を嚆矢とし、ゼロックス社のパロアルト研究所やアップルコンピューター、サン・マイクロシステムズ等々。マイクロソフトも本拠地は、ワシントン州のレッドモンドに置いていたが、ベイエリアにも巨大なキャンパスを持っていた。

そのころから、日本でも、バブルの崩壊とインターネットの爆発的な普及とを契機として、産業の外胚葉化は急速に進んでいった。2004年楽天が、2012年にはDeNAがプロ野球の球団を持った。かつては、プロ野球のオーナーといえば、新聞社か電鉄会社がその多くを占めていたが。DeNAが球団を持とうとした時、楽天のオーナーが、ゲーム会社が球団を持つ資格はない云々といった妄言を口にして、世の失笑を買ったことは記憶に新しい。

そのような時代の変化を、梅棹は、情報と産業との関係から、どのように捉えたのか。

一言で述べれば、情報の価値をどう捉えるか。

先回りして、弁明しておくと、ぼくは、《価値》という言葉と《価格》という言葉を、少し異なった層で捉えている。

その上で、まずは、議論を《情報の価格》に絞ろう。

この種のものは、さきにものべたように、そもそも軽量化できない性質のものだし、原則としておなじものがふたつとないのだから、限界効用もへちまもないのである。(p57)

梅棹の問題提起は、まず、需要と供給の関係を基礎とする価格決定プロセスに対する疑義から始まる。情報の唯一無二性に立脚すると、需給バランスの議論が成立しない、云々。ぼく自身は、むしろ、情報の(技術的には超安価な)複製可能性に立脚して、需給バランスの議論が無力なことに力点を置きたいが。

いずれにせよ、需給バランスを前提とした価格決定メカニズムでは、世界に二つと無い芸術作品などは価格が高騰し、安価な複製が可能な情報資産は価格が限りなく低下する。

もう一つの論点を。

以前、ケインズの近代経済学の要諦は、局所バランスの可能性を前提とするところにある、といった話を仄聞したことがある。議論の詳細は詳らかにしないが、直感的には、モノや情報の偏在が、経済活動の原動力となる、といった意味で捉えることが出来よう。

では、情報が即時に地球上を覆い尽くす今の時代、ケインズ的な経済理論は、まだ、有効なのだろうか。はたまた、ケインズ的局所均衡議論とは全く異なる形での、たとえば、ナッシュ均衡のような、情報の即時伝播性と、その阻害(情報の秘匿または断絶)の鬩ぎ合いを前提とした議論に取って代わられたのだろうか。もしくは、この両者には、深い関わりがあるのだろうか。

ともあれ、梅棹は、情報の価格決定が、モノの価格決定メカニズムでは解決できないことを、例によっての鋭い直感で見抜いていた。

その上で、梅棹は、外胚葉産業時代の価格決定メカニズムを、《一物多価》(この言い方は後の名和小太郎による梅棹経済学の読み直しに負っている)という問題に収斂させる。

そして、《一物多価》の代表として、僧侶と檀家の間でのお布施額決定のメカニズムを取り上げる。すなわち、僧侶の格と檀家の格とのトレードオフ。お布施理論の誕生である。

情報の価格が、お布施と同じようなメカニズムで決定される、と聞けば、多くの日本人は、直感的に、なるほど、と納得する。しかし、本当にそれだけなのだろうか。ぼくは、一方で至極納得した思いを抱きながら、どこかえもいわれぬはぐらかされ感がぬぐいきれない。梅棹のお布施理論は、ある方向感としては、至極納得できるものの、議論を尽くしているとは言い難い。梅棹は、お布施理論の先に何を見ていたのだろう。

情報産業論劈頭で、梅棹は、歌比丘尼や吟遊詩人を情報業者の一角に位置付けて、読者を瞠目させた。

そして、同じ情報産業論掉尾での、このお布施理論。情報産業論執筆時点で、梅棹の研究対象は発生学から文化人類学に大きく方向を変えていた。そんな梅棹ならばこそ、情報産業を歌比丘尼や神社仏閣、温泉などの民衆の生活との関わりで捉える視座が得られたに違いない。

では、情報業者としての歌比丘尼は、どのようにして糊口をしのいでいたか。門付けか投げ銭か。ぼくは、その委細を詳らかにはしない。しかし、それが、広い意味での喜捨、ドネーションによるものであったことは、言を俟たないだろう。

もう10年以上前、ひつじ書房の松本功さんに触発されて、電子書籍などの少額課金制度に投げ銭の考え方が援用できないかと、考えていたことがある。そのころ、マルセル・モースを中心に贈与論に関わる論考をいくつか読んだ。

・オープンソースとドネーション

随分後になって、オープンソースソフトウェアの周辺で、ドネーションウェアといった言葉が出現してきた。最近では、SNSを中心に、《いいね》ボタンの功罪が云々されている。

このような現代的な情報社会での動向も含め、モース的な意味では、贈与とは、まさに記号の交換である。

アメリカ先住民族のポトラッチから、銀座のクラブの新装開店の店頭を飾る胡蝶蘭に至るまで、物品の贈与(時には毀損)が、送る側と送られる側の関係性を象徴する記号として機能している、と捉えるのが、贈与論の要諦だとすれば、歌比丘尼への喜捨も僧侶へのお布施も、広い意味での謝意を象徴する贈与そのものと見ることが出来よう。すなわち、喜捨もお布施も、なんらかのサービス(情報)に対する対価ではなく、謝意を表象する記号なのである。であれば、あるサービスや情報の価値判断が、情報の受け取りようによって異なることも、ごく自然のことであろう。さらに、その価値判断の差が、記号として表象されることも、また自然なことだろう。

ちなみに、胡蝶蘭が、(特に企業間などのビジネスの世界で)贈答品として重宝がられるのは、その価格が高値安定しており、一目で支払われた金額を推測することができるからだ、と仄聞したことがある。

このような贈与論の視座のもとで、歌比丘尼や吟遊詩人、琵琶法師から白拍子などの異能の情報提供業者の社会との関わりを捉え直してみると、このような人々が、自らの才能に依って民衆にサービス(情報)を提供し、そのサービスへの謝意(対価ではなく)を表象する行為としてのドネーションが行われていたのは、近代位以前においては、日本に限らず、洋の東西を通して、かなり普遍的なことだったように思われる。そして、そのようなタレントの中でも、特に才能豊かな人物に、為政者や富豪がパトロンとなることも、また洋の東西に共通のことだった。

梅棹的な外胚葉産業は、まさに、人々の心と精神の豊かさに寄与するがゆえに、その存在が社会全体にとって不可欠なものと受け止められ、社会全体として、ドネーションを通して、それら異能の人々の生活を下支えする、というシステムが成立していたのだった。梅棹の謂を藉りれは、近代以前においては、情報業者は、社会の文化を支える、まさに公共人材として遇されていたのではなかったか。

このように見てくると、オープンソースにおけるドネーションウェアのありかたも、全く同型のものと考えられる。

お布施理論として、梅棹が提唱したかった情報産業時代の経済学というのは、じつは、贈与論的記号交換の社会的メカニズムの解明ではなかったか。

そしてそれは、近代の礎となった中胚葉的産業を超克したポストモダーンの豊穣なコミュニケーションを下支えするメカニズムそのものではなかったか。梅棹が情報産業の未来に見ていたのは、彼がフィールドワークで出会った近代以前の社会の豊穣さの復権ではなかったか。

 

 

 

 

 

新サイバー閑話(4)

ゲームおたくがアスリートになる日

 新聞に2024年パリ五輪組織委員会委員長が「eスポーツを追加種目には提案しない」と語ったという記事が出ていた。eスポーツとはエレクトロニック・スポーツ(electronic sports)のことで、会場に設けられた大きなディスプレイに映し出されるコンピュータゲームの〝闘い〟を観戦するものである。

 たしか今年はじめだったと思うが、eスポーツという言葉を最初に聞いた時は違和感をもった。陽光のもと、屋外で全身の筋肉を使って体力の限界に挑戦するのがスポーツとすれば、コンピュータゲームは暗い室内でただひたすら指だけを動かしているに過ぎない。そんなものをスポーツと呼べるのだろうか。

 しかし、あるゲームが行われ、それを多くの観客が入場料を払って観戦、多額の賞金も発生すれば、それは立派な「スポーツ」かもしれない。要は定義の問題で、「フィジカル(肉体の)スポーツ」に対して、チェス、ポーカー、囲碁、マージャンなどを「マインド(思考の)スポーツ」と呼ぶ例もあるから、「e(電子)スポーツ」があっていいということになる。

 1990年代後半から2000年代初頭にかけてオンライン上で対戦するゲームソフトが増えるにつれ、北米を中心とした海外で、eスポーツがブームになった。プロゲーマーの中には大会の賞金だけで年間数億円も稼ぐ人が大勢いるとか。ソフトとしては『Dota 2』(ドータ・ツー)という、2チームが5対5に分かれて戦うゲームが有名らしい。毎年8月にシアトルのキーアリーナで世界最高賞金額の大会が開かれている。会場の真ん中に設置されたディスプレイの巨大さは圧巻である。

 eスポーツはアメリカ、中国、韓国で盛んだというのも興味深い。今年ジャカルタで開かれたアジア大会ではデモ競技として実施され、サッカーゲームの部で日本チームが優勝している。次回の中国大会では正式競技に採用されるという。日本eスポーツ連合が2月に設立されている。今年秋からは地上波テレビもeスポーツ関連の番組を流し始めた。eスポーツという言葉は、2018年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選ばれている。

 eスポーツをオリンピック競技に加えようという動きもあるが、トーマス・バッハ、オリンピック委員長は「オリンピックのプログラムに暴力や差別を助長する競技が入ることはありえません」と、今年9月に述べている。冒頭の話はパリ大会でもeスポーツ採用はないことを示唆したものである。

 しかし、しかし。

 自分の部屋にとじこもり、ゲームばかりしているやせ細った少年が、その後eスポーツのアスリート(スポーツマン)となり、野球選手やサッカー選手のような大金を稼ぎだす日も遠くなさそうである。

肉体に依存しなくとも、身体『脳』力  はアスリートの才能なのだ

新サイバー閑話(3)

改憲をめぐる風景

 安倍首相の執念とも言うべき憲法改革もまた今国会の焦点である。国の将来に大きな影響を与える改憲においてすら、政権側からの丁寧な説明がなく、国会で十分な議論も行われないままに、また数の力で押し切られる恐れが強い。

 いずれ実現する可能性のある国民投票を前に、国民一人ひとりが国の基本法たる憲法についてよく考えるべきときである。そういう思いから、サイバー燈台・プロジェクトコーナーでジャーナリストの森治郎氏に「日本国憲法の今」という連載をお願いした。第5回では「この際の憲法読書案内」も掲載している。これらの本をいくつか読んでくれることを願っている。

 さて、それらの作業を通じて、私がイメージした日本国憲法の今をめぐる風景は、以下のようなものである。

 眼前に「安倍改憲川」が流れている。上流に一つ、大きなダムがあり、そこでは長い間「原理主義的護憲派」が頑張っていたが、「非立憲政権」の上からのクーデターと、そこに「ポスト真実」的な世界的潮流も加わって、ダムそのものがほぼ崩壊しつつある。ダムの下流には小舟がいくつか浮かんでいるが、その一つに「護憲的改憲論者」が乗っている。それは呉越同舟、侃々諤々の趣でなかなか意見はまとまりそうにない。もう一つの舟に「修正主義的護憲派」が乗り、船頭は、次第に急になってくる流れに掉さしてバランスを取ろうと懸命に努力しているが、舟自体は川下に流されていく。

 川にはいろんな小舟が浮かんでいるが(「読書案内」参照)、川そのものにまったく無関心な人や、日々の生活に忙しくそれどこではないと思っている人も多い。岸から不安そうに眺めている人もいる。波を搔き立てて流れを楽しんでいる舟もあるけれど、今の流れを食い止めようとしている舟の方が多い。しかし、狂暴化する「安倍改憲川」の濁流を防ぐ有効策を探し得ず、舟はおしなべて下流へ下流へと流されていく。

 その下流に最後のダム、「国民投票」が待ち構えている。国民投票は果たしてこの流れを食い止められるのだろうか。あるいは、もっとうまい流れを作り上げるには、国民は何をすればいいのだろうか。濁流を生みだした安倍政権は、先手を打って、国民投票ダムそのものを自己に都合のいいように変えようとしている。

 現在、ダムの上にはあまり多くの姿が見えず、最後のダムが決壊する可能性もある。この局面でどう行動するかは国民一人ひとりの判断だが、今必要なのは、自分たちが近い将来そのダムの上に立たざるを得ないこと、そこでは大きな決断をせざるを得ないことを認識することではないだろうか。(「原理主義的護憲派」、「修正主義的護憲派」、「護憲的改憲論」といった用語の意味は、第5回の原稿をご覧ください)

 

新サイバー閑話(2)

「表現と言論の自由」のパラドックス

 米東部ペンシルベニア州ピッツバーグにあるシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で10月27日午前10時ごろ、46歳の男が銃を乱射、11人が死ぬという痛ましい事件があった。容疑者はSNSに反ユダヤ主義的な書き込みをしていたが、30日のニューヨークタイムズ電子版によると、ピッツバーグ事件後、写真投稿サイトのインスタグラムには反ユダヤ主義的な写真や画像があふれているという(インスタグラムはフェイスブックの傘下)。

 犯人が利用していたSNSは開設してから2年、約80万人のユーザーがいるらしい。同社は事件後、テロや暴力には反対だとの声明を発表したが、過去に極右の著名人や陰謀論者に発言の場を提供していると批判もされていたらしい。

 ニューヨークタイムズの記事が指摘しているのは、SNSはこれまで社会の片隅に止まっていた極端な意見をメインストリームに引き出し、それがいま深刻な影響を与えるまでになったということである。

 だれにも発言の機会を与えた「福音」のツールのマイナス面が無視できないくらい大きくなりつつあるが、この点についてのIT企業の自覚はきわめて薄い。一般の反応もまた鈍いと思われる。

 問題のSNSサイトは「表現と言論の自由」が使命だと宣言しているけれど、かつては誰もがその価値を疑わなかった「表現と言論の自由」を文字通りには擁護できない逆転現象があるというのがきわめて現実的な問題である。

・ロングテールとヘイトスピーチ

 かつてアマゾンの黎明期にオンラインショッピングのあり方として「ロングテール」(長いしっぽ)ということが言われたが、その『ロングテール』という本を書いたクリス・アンダーソンは、こんなことを言っている。

 アメリカにはインド人が推定で170万人住んでおり、インドは毎年800点を超える長編映画を製作しているが、それらの映画はほとんどアメリカでは上映されない。なぜなら、映画館の客は周辺住民だけであり、そこでヒットするためには、みんなに喜ばれるハリウッド大作である必要があり、「地理的にばらばらと分散した観客は、いないも同じになってしまう」。ところが、インド映画のオンデマンド販売、あるいは上映になると、170万人は「顕在化」するわけである。

 つまり、どこかで反ユダヤ集会が開かれ、それが各地で同時開催されていたとしても、それは地域の壁に阻まれて、大きく広がることはなかった。これがサイバー空間にはない「現実世界の制約」であり、それが自ずからなる秩序を保っていた(サイバーリテラシー第1原則「サイバー空間には制約がない」)。少数の人が何を主張しようと、それは「言論および表現の自由」として保障されていたわけである。

 ニューヨークタイムズの記事によれば、「過去においては、彼らは自分たちの毒を味わう観客を見つけることができなかった。いまやそのアイデアを多くに人に広めるツールを得た」。

 政治の世界でも、かつてなら傍流にいた人びとがいま主流にのし上がっている例が多いが、その背景にはこういった社会システムの変化がある。

・在特会デモはネット活動の延長

 日本では2016年にヘイトスピーチ規制法(解消法とも呼ばれる。罰則なし)が成立して、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会)の活動はいまどうなっているのか、よくわからないが、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』には、興味深い在特会の事情が記されている。

 現実世界で鬱積した不満を抱えている人びとが、ネットの書き込みを見て在特会を知り、その主張をそのまま信じて、ネットの仮名のままでデモに参加、やはりネットで罵詈雑言を浴びせるのと同じように、街頭でののしっていると。彼らは「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というかつながりはほとんどない。大半はユーチューブなどの動画を見て、おもしろそうだと思った人々が集まっているらしい。デモをして、過激、かつ下劣なシュプレヒコールを上げ、それで溜飲を下げている。後に「なんで在日韓国人があんなに憎いと思ったのか、自分でもわからない」と述懐している人もおり、かつて『IT社会事件簿』で取り上げたネットの誹謗中傷事件が、そのまま街頭にあふれてきたと言えるだろう。

 こういう現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、今度は逆に現実世界に流れ出て、大きな力になっている。あるいはなっているように見え、それが現実世界を実際に動かすようになっている。

 ここへ来てIT社会の矛盾が爆発的に拡大してきたと言っていい。

クリス・アンダーソン『ロングテール』(早川書房、2006)
ロングテール‐「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社、2012)
ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)
矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー携書、2015)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書)

新サイバー閑話(1)

小説投稿サイトから将来、傑作は生まれるだろうか

 インターネット上で小説を投稿できるサイト「小説投稿サイト」で発表され、読まれている作品はウエブ小説、ネット小説などと呼ばれている。2007年にブームになった「ケータイ小説」の系譜を引くもので、題材は恋愛、異世界、ファンタジー、魔界転生、ゲーム、宇宙など多岐にわたるが、どちらかというとライトノベル系のものが多いようである。

 読むのも投稿するのも無料だが、人気のある作品は、書籍化、ゲーム化、ドラマ化への道も開かれており、一部で有名になったものもある。

 その代表的サイトが「小説家になろう」で、運営開始は2004年というから結構な〝歴史〟である。小説掲載数60万点を超え、小説を読みたい人、アマチュア作家、プロ作家、出版社の編集者など登録者数は137万人に及ぶという。このサイトから「なろう小説」という言葉も生まれている。ほかにも大手出版社であるKADOKAWAとインターネットサービス、はてなが共同で運営している「カクヨム」など多数のサイトがある。

 人びとはウエブ上で(スマートフォンから)これらの無料小説を読んでいる。いわゆる文芸誌(「文学界」、「新潮」、「群像」、「すばる」など)は、出版不況を反映して、いずれも実売1万部を切る中で、ワンクリックも計算のうちとは言え、この閲覧部数は脅威的である。

 読者の中に出版社の編集者が含まれているのも興味深い。かつての編集者はさまざまなアンテナを張り巡らして新人を発掘、その新人を一人前の小説家に育て上げた。いまは投稿サイトに目配りして、そこから大魚を釣り上げようとしている。

『読者の心をつかむ WEB小説ヒットの方程式』といった指南書も売られているが、手っ取り早くアクセス数を稼ぐためのノウハウで、「小説とは何か」、「何を書くのか」といった〝純文学〟的な問いかけは、当然ながらない。

 これとは性格がだいぶ違うが、かつて<いまIT社会で>の「今様メディア百鬼夜行」で取り上げたDeNAによるキュレーションサイト閉鎖事件(2016年暮れ)を思い出す。あそこには、ものを書き一般に提供するとはどういう意味を持つのかといった表現行為に対する思い入れは一切なく、かつてメディアというものが漠然とながら持っていた文化的な営みとのイメージは完全に消えていた。

 ここには、ユーチューブなどの動画投稿、インスタグラムなどの写真投稿ともならぶ、いわゆる「投稿サイト」としての新しい潮流が生まれていると言えるだろう。かつて書くことが、あるいは井戸端会議的な話題がそのまま「金稼ぎ」に結びつくことはなかった。いまはそれらの投稿がビジネスになる。表現する行為の意味がすっかり変わった。

 ところで、将来、小説投稿サイトから大作、名作、傑作が生まれる時代が来るのだろうか。もちろん可能性はゼロとは言えないし、多数の人がそこに押しかければ、量が質に転嫁することは起こり得るけれど、ウエブ小説は直接的、短期的な読者の関心を引こうとするものである。傑作が生まれる可能性は低いと私には思われる。

二匹目のドジョウを目指して、皆同じ方向に昇っていく『文豪』たち