新サイバー閑話(58)平成とITと私⑥

パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』

 ムックの好評を受け、1988年秋からパソコン誌が正式にスタートすることになったが、出版局内に編集部が発足するのは同年5月。それまでの間に三浦賢一君と2人で『ASAHIパソコン』の誌名、判型、刊行スタイル、基本コンセプトなどを検討する作業に入った。相談相手はムックに引き続いて雑誌のアートディレクターを担当してくれることになった熊沢正人さんであり、『アサヒグラフ』以来のカメラマン、岡田明彦君だった。朝日新聞社内のパソコン先駆者を訪ねたり、私が出版局に移る前に長く勤務していた西部本社の旧友にパソコン雑誌を出すことについての意見を聞いたりもした。

 かつての親友が「記者がワープロで原稿を書くようになって、机に向かうばかりで足で取材をすることがおろそかになっている。農業における農薬と同じで、新聞記者にとってはパソコンはむしろ害である。お前は農薬雑誌を作りたいのか」と鋭い意見を述べて、なるほどそういう面は否定できないと思ったこともあった。

 当時、ムックを作りながら、あるいは雑誌の準備の合い間に読んで、元気づけられた本が2冊あった。スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二、麻生九美訳、原著1987、福武書店、1988)と、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(栗田昭平監訳、原著1985、パーソナルメディア、1987)である。

・「収縮する3つの輪」の予言

  MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

 『メディアラボ』という本は、アメリカ・カウンターカルチャーの世界的ベストセラーとして有名な『ホールアースカタログ』の編集発行人でもあるスチュアート・ブランドが、パーソナル電子新聞、秘書の代わりをする留守番電話、パーソナル・テレビ、リアルタイムで動くアニメーション、バイオリンの伴奏をする自動ピアノなどなど、当時メディアラボで行なわれていた、活字、音声、映像、さらにはイベントといった、あらゆるメディアの領域に及んだ最先端研究を紹介したものだ。ここには黎明期のパーソナル・コンピュータをめぐる熱気が横溢していた。

 私の興味を惹いたのは、この書に掲載されていた次の図である。

 描かれた3つの輪は<放送・映画 Broadcast & Motion Picture>、<印刷・出版 Print & Publishing><コンピュータ Computer>からなり、これらは当初は独立した世界を築いていたが(1978年時点)、最近では相互に近付き、重なり合う部分が増えてきた。いずれは1つのメディアに統合され、その中心がコンピュータである、との説明がついていた。

  このメディアラボのトレードマーク、「収縮する3つの輪(three overlapping circles)」は、ネグロポンテ所長がひんぱんに言及するので、「ネグロポンテのおしゃぶり」と言われていたが、当時のメディア状況を考えると、まさにこの予言通りに事態は進んでいた。コンピュータという技術が、自らの姿を背後に隠しながら、そのことでかえって全メディアを大きく呑み込んでしまうというイメージで、それはまさに現在の状況を的確に表していた。私はこの図を見たとき、自分がつくろうとしている雑誌のバックボーンを見つけたようで、実に力強く思ったものである(将来の区切りが2000年というのが興味深い)。

・コンピュータは「思考のための道具」

 ラインゴールドの『思考のための道具』は、パーソナル・コンピュータを「人間の知性における最も創造的な局面を強化する」、「人びとがこれまで用いてきた思考、学習、および意思疎通の方法を決定的に変える」道具と位置づけ、「コンピュータとは数値の計算に用いられる装置」としか思われていなかった時代に、「人間とコンピュータを結びつける技術の創造に貢献した少数派」の思想を追った本である。スチュアート・ブランドと同じく、ラインゴールドもまたジャーナリストであり、偉大なる先達を足で訪ね、まとめ上げた取材力、構想力に私は舌をまいた。

 この本には、チャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、ジョン・フォン・ノイマン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノンといったコンピュータや情報理論の巨人たち(開祖 patriarchs)も取り上げられているが、重点は、その後の「コンピュータを知的能力を飛躍させるための『てこ』にできないかと努力した」パーソナル・コンピュータのパイオニア(pioneers)と、現にいま、さまざまな試みに挑戦している若者たち(情報航海者 infonauts)に置かれている。

 パーソナル・コンピュータ発達史に興味のある人ならほとんどの人が知っているロバート・テイラー、J・C・R・リックライダー、ダグ・エンゲルバート、アラン・ケイいった逸材たちが続々と登場し、それぞれの夢と汗と涙の織りなす開発秘話が、興味深い写真とともに、愛情をこめて記述されていた。

 簡単に説明しておくと、リックライダーは、MITの実験心理学者から国防省の高等研究計画局(ARPA、アーパ)情報処理研究技術部長になり、人間とコンピュータの新しいコミュニケーションを可能にする「対話型コンピュータ」を実現すべく、多くの研究者に豊富な資金を提供し、コンピュータ・サイエンスを新たなレベルに持ち上げた先駆者である。

 エンゲルバートは、リックライダーの資金援助を受けた1人で、早くから思考増幅装置に興味を持ち、マウス、マルチウインドウ、電子メールなど、現在のパソコンの重要なインターフェースを開発した人として知られる。

 ロバート・テイラーは、リックライダーのあとを継いでアーパの情報処理研究技術部長になり、主流からは無視されていても、コンピュータ・システムの技術を飛躍的に押し上げるアイデアを持つ研究者の「ヘッド・ハンター」となった。そのため、多くのすぐれた人材がアーパに集まり、彼が責任者となって構築した「全国のコンピュータを接続する対話型コンピュータ・ネットワーク」システム、アーパネットは、のちのインターネットへと発展していく。

 彼は、1970年には西海岸のゼロックス社パロアルト研究センター(PARC、パーク)に移り、ここでもトップレベルのコンピュータ・システム設計者を集めたから、パークは一時、パーソナル・コンピュータ研究のメッカとなった。「コンピュータはメディアである」ことをいち早く見抜き、「パーソナル・コンピュータ」という考えを定着させた人として知られるアラン・ケイが活躍したのもパークである。

 アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。

 いま見ると、これはまさに子どもがタブレット端末で遊んでいるありふれた姿である。アラン・ケイは、MITメディアラボに在籍したこともあり、アップル社の研究フェローもつとめた。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは、彼のいかにも天才らしい発言である。

・メディアラボやシリコンバレーを見て回る

 私のパーソナル・コンピュータに対するイメージは、それらの本を読みながら、しだいにはっきりした形をとっていった。『ASAHIパソコン』創刊前の夏、ボストンで開かれたマッキントッシュのイベント「MACWORLD」に出席がてら、MITメディアラボを見学し、帰りに西海岸のシリコンバレーを駆け足で回った。

 ボストンはハーバード大学とMITをかかえた静かな学園都市である。MITでは、当時朝日新聞社からメディアラボに派遣されていた服部桂君に案内してもらって、最先端の研究現場をまわった。瀟洒なラボの建物と同時に、教授や学生たちが和気あいあいと進めている自由な研究風景に心を奪われた。「ハッカー」とは、俗に言われるようなコンピュータ犯罪者ではなく、コンピュータを愛する技術者集団、魅力的な若者たちの総称だということを身をもって体験した。私は創刊号インタビューで、ネグロポンテ所長を取り上げることに決めた。

 西海岸、サンフランシスコ湾の南に位置するシリコンバレーは、谷というよりも、小高い山に囲まれた平野だ。車で走ると、松林が続き、樫の木が茂る牧歌的な風景の中に、ハイテク企業群が蝟集していた。といって、狭い場所にひしめきあっているわけではない。クパチーノのアップル社などは、オフィスがいくつかの建物に別れていて、ビルもあるが、こじんまりした住宅のような建物も多く、それが新鮮な印象を与えていた。展示室で、小さなトランクにむき出しのワンボードマイコンが詰まった最初のアップル、ぐっとスマートになったアップルⅡ、そしてリサ、マッキントッシュと、さまざまなマシンやいくつかのデモビデオを見た

 バレー西部に広大な敷地を有するスタンフォード大学があり、その近くの小高い丘に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)がある。パークの果たした役割についてはすでに述べたが、ゼロックスはそこで培ったノウハウをオフィス用ワークステーション「スター(Star))」開発に振り向けたが、パーソナル・コンピュータ市場には進出していかなかった。

 いま私たちがパソコンでやっている日常作業そのままが「スター」によって1981年の段階で提示されていたにもかかわらず、そのノウハウがパソコン開発へと進まなかったのは、それなりの理由があってのことだろうが、歴史の皮肉とも言えよう。企業経営の観点からすると、これは一種の「失敗」だと言っていい。パークが現在のパソコンを生み出したと言えなくもないのである。

・パソコン黎明期の天才、ジョブズとゲイツ

 パークはアルトを公開し、多くの人にデモを見せたが、その中にアップルのジョブズがいた。アルトに啓示を得たジョブズは、さっそく自分がリーダーになって新しいマシン開発に乗り出し、パークから技術者も引き抜いて、1984年にマッキントッシュを発売する。「電話帳の上に乗るパソコン」というジョブズの希望に沿った縦型の斬新なデザインだった。ビットアップ・ディスプレイを採用して、マウスでディスプレイ上のアイコンを操作すれば、初心者でもパソコンを手軽に扱えるようになっていた。

 このグラフィカル・ユーザーズ・インターフェース(GUI)は、まもなくビル・ゲイツのマイクロソフトが開発した基本ソフト、ウィンドウズにも採用される。私たちがムックで紹介したPC-98とはパソコンの姿が大きく変わったのである。とは言いながらウィンドウズ95が発売されるのは1995年であり、アップル・コンピュータは別にして、日本のパソコンは長らくMS-DOSの時代が続いた。

 GUIに関するおもしろいエピソードを紹介しておこう。

 ジョブズがウインドウズ・システムについて「アイデアをマックから盗んだ」と批判したとき、ゲイツは「いや、スティーブ、そうじゃないさ。むしろ、近所にゼロックスという金持ちがいて、そこに僕がテレビを盗みに入ったら、もう君が盗んだ後だったということじゃないかな」と言ったという。

 『アサヒグラフ』の項で紹介したように、パソコンはこれまでIBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受けて登場したが、その黎明期の天才がスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツだった。

 IBMも1981年にパーソナル・コンピュータに参入したことはすでに述べたが、そのときジョブズは「IBM、ようこそ(Welcome IBM Seriously)」と自信満々に迎え撃ったのだった。またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。

 ジョブズはアップルを巨大なものにするために、東部エスタブリッシュメント企業からペプシコーラ社長、ジョン・スカリーを「あなたは人生の残りの日々を、ただ砂糖水を売って過ごすんですか。世界を変えようというチャンスに賭ける気はないんですか」という殺し文句でCEOにスカウトするが、その後、スカリーにアップルを追われる。しばらく教育用ワークステーション、ネクスト(Next)の開発などに携わっていたが、その後、マイクロソフトからすっかり水をあけられたアップルに呼び戻される。

 ジョブズがやった復帰第1弾がしゃれたパソコン、アイマックiMAcの開発であり、CEOに返り咲いて以降、小型端末のiPod 、iPad、iPhoneを次々と市場に投入、パソコンからモバイル端末(スマートフォン)へとIT社会の歯車を大きく回転させる偉業を成し遂げる(これについては後にふれる機会があるだろう)。

 私はネクスト売り込みに来日した1989年7月、ジョブスに会っている。前日に幕張メッセで一大デモンストレーションを行ったときは、タキシード姿をばっちり決め、まさに達者なエンターテイナーぶりだったが、インタビューでは、ネクストの販促に関連しない質問には一切ノーコメントを通す徹底ぶりで、これに手を焼いて(?)、私は記事を断念したのを思い出す。

  よく言われるようにジョブズは、自らは技術者でなかったが、技術者を動かして自分の、そして彼らの夢を実現することができた「芸術家」だった。彼はパソコンを電話機の後釜的な存在だと考え、電話機をずっと見て暮らしたらしい。そして、電話機がたいてい電話帳の上に乗せられているのに気付き、ある日、技術者を集めて、「マックは電話帳に乗る大きさでなくてはいけない」と言ったのだそうである。

 1991年5月にはゲイツにも会った。ウインドウズ95に先立つMS-WINDOWS(ウインドウズ3.0)の㏚にやってきたときで、その画期的機能について丁寧に説明すると同時に、パークに関する私の不躾な質問にも、嫌な顔をせずに答えてくれた。発言、大略、こんなふうだった。

 「たしかにこの件でアップルと訴訟にはなっていますが、多くの面で協力しあっています。マイクロソフトがウインドウズ・システムを発表したのは1983年で、マッキントッシュより先でした。まあ類似点についていろいろ不平があったとしても、似ているところはすべてゼロックスから来ているわけです。彼の方が先に入っていろいろ取っていったとしても、あとから入った私に不満を言うとか、占有権を主張できるわけはないだろと言ったんですね。私はジョブズとは友好的な関係を保っていて、お互いにオープンでした」。彼もまたジョブズと同じように「技術者」ではないようだが、こちらはすでに才覚あふれる青年「実業家」の風貌を築きつつあった。

・『ASAHIパソコン』の基本コンセプト―パソコン誌の3段階理論

  いろんな本を読んだり、多くの人にあったりして、私は『ASAHIパソコン』の基本コンセプトを固めていった。当時、日本でもグラフィックデザインや出版分野でマッキントッシュの人気は高かったけれど、日本語化の問題もあり、趨勢はまだコマンドをキーボードから打ち込んで動かすMS-DOSの世界だった。

 雑誌としての定期化をめざす過程で、私が出版局内や広告代理店、取次などの書店関係者に新雑誌の構想を説明するとき、「ネグロポンテのおしゃぶり」よろしく繰り返していたのが、「パソコン雑誌の3段階理論」なるものだった。だいたい以下のようなことである。

 パソコン誌は、パソコンの社会的あり様にともなって変わる。 1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。

 『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。

 そして『日経パソコン』から5年後の1988年11月、『ASAHIパソコン』創刊。本誌はこれからはじまる、誰もが文房具としてパソコンを使うようになる時代の、便利でやさしい使いこなしガイドブックである。ソフトやハードのガイドはもちろん、より大きな視野から情報社会のあり方にも目配りしていきたい。これを私は、「ホビー・ユース」から「ビジネス・ユース」を経て「パーソナル・ユースへ」と呼んだ(象徴的マシンとして、私は創刊ほどなく発売されたノートパソコンを想定した)。

 もっとも、ムックから雑誌への道のりは、そう平坦ではなかった。パソコンのやさしいガイド誌というのが、ニュースを売り物にする新聞社の出版物としてはなじまない、と思われがちなのも事実だった。当時、社内はニュース週刊紙『アエラ』創刊の話で持ちきりだったし、『ASAHIパソコン』の直後には総合月刊誌『月刊Asahii』も創刊されている。

 「氷海を行く砕氷船の如く、悪戦苦闘の6ヶ月が過ぎたが、ともかくも動き始めた船が、果たして氷海を脱出できるのかどうか、乗り込んだ2人の船員にもまだ確たる見当がついていない」。ムック制作中にはこんな感慨も漏らしている。

 『ASAHIパソコン』創刊に反対する意見、あるいは態度の中で、私が興味深いと思ったのは、次の2つである。これも今となっては懐かしい思い出で、ことさら取り上げることもないのだが、おもしろいと思うので簡単に触れておこう。

  1つはこういう声だった。「矢野さんはパーソナル・ユース、パーソナル・ユースと言うけれど、いまは『日経パソコン』のようなビジネス・ユースの雑誌が主流である。パーソナル・ユースのパソコン誌に対するニーズがあるのなら、すでにどこかの社が出しているはずだ。そういう雑誌がないことが、すなわち需要のないことを証明している」。

 これだと、新しい雑誌は我が社からは永久に生まれない理屈だが、それでも、こういう意見を論破することは難しい。いや至難と言っていい。結果で勝負するしかないのだが、結果を出すのをあらかじめ拒否されているようなものだからだ。

 もう1つは、広告関係者が正直にもらした感慨である。「私たちはいま『週刊朝日』の広告を一生懸命にとっている。何でこの上、パソコンなどという扱ったこともない雑誌のために広告をとらなくてはならないのか。誰も、そんな雑誌なんかほしくないですよ」。

 私は、「これからもずっと『週刊朝日』に頼っていけるとは思えないから、頑張ってでも新しい雑誌を作ろうとしているのだ」と反論したけれど、彼らの本音は分からないでもなかった。

 新聞社内の人間を説得するためにもう一つ、私が言ったのは「社会部が作るパソコン雑誌」だった。パソコンはまだ扱うのが大変で、パソコン雑誌も専門用語が多く、素人には取っつきにくかった。技術解説ではなく、使う人を重視したパソコン雑誌をアピールしたくて、「科学部ではなく、社会部が作る雑誌」という言い方をしたのである。

 とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。

 ちょっと『ASAHIパソコン』創刊前後のIT事情をふりかえっておこう。

 ジョージ・オーウェルの有名なディストピア小説『1984年』が書かれたのは1949年という早い時期だったし、オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』はそれ以前の1932年である。コンピュータが普及するにつれて、その弊害を指摘する声も多く、有名なジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(1976)は1977年には邦訳されている。

 先にもふれたように、アルビン・トフラーの『第三の波』は1980年の発売、増田米二『原典・情報社会』は1985年だが、世界に先駆けて梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは1963年だった。ダニエル・ベルは1973年に『脱工業化社会の到来』を書き、来るべき「情報化社会」の出現を予言した(物の生産から情報の生産へ)。

 日本社会は、私たちが『ASAHIパソコン』を創刊した1980年代に情報社会から高度情報社会へと移行しつつあったと言える。当時は情報技術がもたらすバラ色の未来が喧伝されていたから、『ASAHIパソコン』はその波にうまく乗り、高度経済成長にも助けられて、高度情報社会を促進する役割を担ったと言えるかもしれない。

 ちなみに任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されたのは1983年である。我が家もそうだったが、子どもたちは、そして大人も、タッカタッカタッタカタッタカのロードランナーやスーパーマリオなどのゲームに興じ始めた。

 この記録<平成とITと私>は私の後半生を振り返りつつ、IT社会がどのように変遷して今に至ったかをできるだけ客観的に叙述したいと考えている。あえて名づければ『私家版・日本IT社会発達史―ASAHIパソコンからOnline塾DOORSまで』である。第1回で書いたように、『ASAHIパソコン』の創刊後ほどなく時代は昭和から平成に移り、平成の30年間はくしくも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、IT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。当座のタイトルを「平成とITと私」としたのもそのためである。

 Zoomサロン<Online塾DOORS>を主宰している2022年の時点から見ると、当初はアメリカ西海岸の若者たちのパーソナル・コンピュータにかけた熱気に深く同感しつつ、パソコンが切り開く未来に希望を求め、それをむしろ促進したいと夢見ていたと言えるが、その後のパソコンの歴史が必ずしもその夢のようにはならず、当時は思っても見なかった便宜、そしてそれとは裏腹の深い難題を人類に与えるようになった。私がIT社会を生きるための基本素養として「サイバーリテラシー」を唱えるようになるのは2000年初頭だが、IT技術の予想を上回る発展とそれに対する私見もおいおい述べていくつもりである。

 記述になるだけ客観性をもたせるため、当時の関係者の発言も記録に残っているものはそれを参照していくつもりだが、そうはいかない部分も結構あり、筆が主観に走ることもあるかもしれない。関係者の実名を記している点も含め、諸兄姉のご寛恕をお願いしたい。関係者にはすでに他界された方も多いが、特別な場合以外、その後の人生についてはふれていない。

 <平成とITと私>は本サイバー燈台の<新サイバー閑話>に収容されている。他の原稿との区別がなく時系列に並んでいるので、通しで見る場合は、サイトにアクセスした後、右側にあるサイト内検索の窓に「平成とITと私」と打ち込んでいただけると、記事一覧が表示されるので、そこから好みの項をお読みください。

 

東山「禅密気功な日々」(14)先生に聞く③

気をなめらかに動かす

朱剛先生の気功三部作

 気功には動功と静功があり、動功の基本功法が築基功ですね。その具体的練習法はのちに詳しくお聞きしますが、その基本中の基本、体内の気を「なめらかに動かす」ことについてお聞きします。

――気は体内の総合的なエネルギーです。このエネルギーを活性化するための練習が気の練習、気功になります。中国では気功イコール瞑想です。80年代は気功という言葉が多く使われましたが、現在では禅修(瞑想)という言葉の方が多く使われています。この瞑想に動功と静功があるわけです。
 動功の流派はたくさんありますが、各流派には秘密の動き方(動功)があって、この動功に従って練習すれば、秘密のエネルギーを動かすことができると言っています。しかしながら各流派の動功をみると、それらの共通点は秘密の神秘的な動きではなくて、有酸素運動です。
 有酸素運動は血液中の酸素濃度を高め、全身の組織、細胞、内臓器官に、より多くの酸素濃度の高い血液を送ることができます。有酸素運動をすると、運動中の酸素の消費と供給のバランスが良くなり、同時に体内の新陳代謝も良い状態になります。有酸素運動の特徴は、運動の強度は強くないけれど、長時間継続して行えることです。これは健康にとって非常に優れた方法と言われています。

 日本でふつうに有酸素運動というと、歩いたり、泳いだり、エアロビクスをしたり、という感じですが、動功もまた効果的な有酸素運動ということですね。

――禅密気功の動功は背骨の運動法で、名前は築基功といいます。築基功は背骨を通して全身を動かす動功です。この運動の特徴は、普段こりやすいところ、例えば首、肩、背筋、腰を動かすことです。

 背骨を前後、左右に動かし、あるいはひねる――、ただこれだけの運動だけれど、その効果はすばらしいと日々、実感しています。身軽に動ける服装だけしていれば、何の道具もいらないのが大いなる利点です。屋内でも戸外でも、さして場所も取りませんし……。外出自粛が叫ばれる今日このごろ、自宅で築基功に励みましょう(^o^)。

――背骨運動法の他のメリットは脳髄液の循環に刺激を与え、内臓をあんまして、新陳代謝が良くなることです。背骨の前に動脈があり、背骨を動かすことによって、動脈が動くので、循環器に良い刺激を与えることができます。

 背骨がポイントですね。動かし方にはコツがあり、激しく、力を入れるのではなく、ゆっくり、なめらかに動かすと。

――築基功という背骨運動法は背骨をゆっくり柔らかく、大きく持続して繰り返し動かします。この運動法により気持ちを落ち着かせることができて、より愉快でリラックスした気持ちになります。

 教室では「円緩軽柔」と教わりました。全身を蛇のように動かす、あるいは波のように動かすとも言われますが、リラックスのためには気持ちをゆったり持つことが大事ですね。先生は「彗中を開いて無限の空を見る」ことを勧めておられます。私は与謝蕪村の俳句を思い出したりしています。

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

――築基功には、肉体的な運動だけではなく、気を流す方法も含まれています。体を動かすことで体内の気も動かすわけです。背骨を動かす時に、単に背骨を動かすだけではなく、気を動かすように意識して練習すると、身体の重力が無くなって、気の世界にふわふわと浮かんでいるような気持になります。そういう訓練をすると、心を整える効果がより高くなります。

 先生はよく、「白く、ねばっこい気を動かす」ともおっしゃいますが、たしかに気には粘りがあるようですね。

――一方、静功は狭い意味での瞑想のことで、基本的に大事なポイントは外部の刺激を受けないようにして、微妙な感覚を追求して見守ることです。静功を練習していくと、心身の奥、芯までリラックスさせることができます。
 現代社会は生活リズムがすべて早く、イライラして病気になることが多いです。「病は気から」という言葉がありますが、気持ちから病気になることも多いですね。静功では瞑想を通して、心の緊張感、傷をほぐして、病を治し、元気になることができます。皆さん忙しいので、瞑想の時間を取るのはいよいよ難しくなっていますが、こういう時代こそ瞑想は重要です。瞑想は農業時代から伝わってきた素晴らしい養生法です。これからも続けて伝えられていくと思います。

 これは「禅密気功な日々」で書いたことですが、『ホモ・デウス』、『サピエンス全史』という世界的ベストセラーを書いたイスラエルの歴史家、ユヴァル・ノア・ ハラリはヴィバッサーナ瞑想の修行を十数年続けており、1日2時間の瞑想をしていると言います(『21 Lessons』、河出書房新社)。『ホモ・デウス』の謝辞では「(ヴィパッサナー瞑想の)技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィパッサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平安と洞察なしには、本書は書けなかっただろう」と書いています。

・練習は一つの生き方、一つの生活

 ――瞑想という練習をより効果的にするには、日々の生活、生き方も大事です。例えば暴飲暴食を避け、早寝早起きを心掛け、社会の誘惑はたくさんありますが、自分の意志でそれを避け、規則的でシンプルな生活を守ることが大切です。なるべく無意味なトラブルを避けましょう。
 瞑想をすると、どうやって人生をより良く過ごすかということを考えます。もちろん、生活の経済的な安定は必要です。ですがそれだけはなく、その上に穏やかな気持ちを持っていれば、一番良い人生になるのではないかという考え方が出てきます。
 瞑想すると良い気持ちが浮かんできて、それを見守ると非常に幸せになります。だから練習の体験と日々の生き方をあわせると、練習していない時も練習と同じ気持ちになります。人生は総て練習です。

 修行ですね。私もすでに禅密気功十数年、練習には限りがないというか、日々の練習がすなわち新しい発見でもあります。江戸幕府の基礎を作った徳川家康は「人の一生は、重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし」と言いましたが、まさに人生は死ぬまで永遠に続く道を歩み続ける修行で、気功は取り組むに不足のない(?)、それにふさわしい功法だと思っています。

――練習は一つの生き方、一つの生活です。

 気には、「外気」と「内気」があり、それは常に交流していると言われますが、体のどこを通して往来しているのでしょうか。

――気はエネルギーのことで、外と内の区別は実はありません。一般的には皮膚の外は外気、内は内気と言っていますが、気はそんなふうに分かれているわけではありません。
 しかしながら練習する時は、たしかに基礎としては、先ず体の中の気を養う、充実させて、そのあと外の気を取り入れて一体感をめざします。内気と外気の交流の仕方は、流派によりそれぞれ功法があります。私達の功法では5つの入り口を通して、気を交流させています。

 5つの入口とは?

――密処、天頂、彗中、手のひら、足のうらです。

  密処は身体の真ん中の一番下、肛門と生殖器の真ん中。
  天頂は頭の真ん中の一番上のところ。
  慧中はひたいの、第三の目と言われるところ。
  手のひらは中央やや上、指の付け根の労宮(ろうきゅう)と言うツボの辺り。
  足のうらは土踏まずの前の方、湧泉(ゆうせん)と言うツボの辺り。

 とくに手のひらと彗中を通して交流させることが大事です。もっと練習すると気が身体全体を通して、入ったり出たりして、しだいに外と内、関係なく一体になります。

 たしかに手のひらは大事なようですね。日本語には「手当て」という表現もありますし、患部に手をかざして傷をいやすといったことは日常的に行われています。鍼灸で言うツボも交流のポイントみたいですね。先生は教室で両手を近づけて指の間を往来する気を見る〝実験〟を披露してくれたこともあります。「天然の気」という言葉を聞いたことがありますが、これはどういう意味ですか。

――一番自然なエネルギーという道家の考え方です。例えば、大自然のエネルギー、生まれたままの赤ん坊のエネルギーのことです。

 先生は外気治療(外治療)もおやりになりますね。会報などを読むと、外気治療のおかげで胸椎骨折の痛みが消えたとか、手術の前後に治療を受けたら痛みも少なかったし予後もよかったとか、いう報告があります。
 体内の気を活性化し、それを外気と交流させながら、まさに自然とともに生きていくのが気功ですね。

 

古藤「自然農10年」(11)

新型コロナウイルスの札幌へ一人旅

 新型コロナウイルスが「フリーズ!」の警告を発したように日本中の自由な動きを止めている。そんな3月6日(2020年)、感染者が群を抜いて増える北海道へ3泊の旅へ出た。幸い異状なく帰宅したが、妻からみれば要警戒の保菌容疑者。当分は家でもマスク、仲間の集まりにも出席がはばかられる身になった。

 何故そんな旅になったか、1年前、元上司の偲ぶ会に出席して上京したことに始まる。折角の機会だと東京の次男だけでなく山形の長男にも声をかけて都内で飲んだ。わが家の男だけで飲むは初めてだが意外に盛り上がった。

 気をよくして農閑期の行事にし、今年の会場は札幌に決めた。長男は札幌生まれだが、生後間もなくの私の転勤以来、再び北海道に戻る機会がなかった。それで、雪まつりの混雑を避けて3月最初の週末、すすきの集合にした。

 そこに、この新型コロナ騒ぎだ。直前の2月27日に全国の小中高はすべて休校せよと安倍首相が要請した。その翌日、道知事は緊急事態宣言を出して3人会を予定した週末は外出を控えよと全道民に要請したのである。

 長男は周りの主婦たちから何でこの時期に札幌へ、と迫られて楽しむ気分も萎えたのか、最初に降りた。保菌者で帰れば確かに迷惑をかける。次男も後に続いて、3人会は中止になった。

 札幌の人口は190万人、北海道の感染者数が国内で一番多いとはいえ、道内あちこちに66人の散在だ(当時)。行けば即感染というわけでもなかろう、キャンセルなしの早割航空券を捨てるのも勿体ないと、一人出かけることにした。

 福岡から新千歳に向かう飛行機はがらがら。とくに年寄りは私だけだった。前日までの寒波が去ったすすきの繁華街は、汚れた雪解け道を歩く人がまばら。小樽では観光客が9割減と人力車の脇で客待ちのお兄さんがあきらめ顔だった。

 有難くも昔の仲間が集まってくれて賑やかな5人会が開けたが、わが家の男だけ3人会はこうして消し飛んだ。

3月7日、人もまばらな小樽運河

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 前回、人類がウイルスなどの微生物の世界をいかに知らないか、を書いた。集団感染が新型コロナウイルスによるものと中国が1月9日に公表したことにもふれたが、中国の感染対策が本格化するのは、人から人への感染を正式に認めて、習近平国家主席が直接、陣頭指揮に乗り出した1月20日からのようだ。

 これ以降は、延べ20億人が動くといわれる春節(旧正月)の移動に大ブレーキが掛けられた。武漢は封鎖状態になり国内外への団体旅行が禁止された。中国の感染拡大はその後も続くが、日本の観光地に大打撃を与えたこの封じ込め強硬策が結果的に日本への飛び火を救ったと思われる。

 周辺国では陸続きの北朝鮮が真っ先に動き、1月22日から中国観光客の入国をすべて拒否、台湾も同日、武漢からの団体客を受け入れないと発表した。しかし、奈良の観光バス運転手と添乗員が国内での感染者となった1月29日、日本政府はまだ動かない。運転手らは出国が禁止される前の武漢からのツアー客を乗せていた。

 WHOが1月30日、新型肺炎は世界的拡大と緊急事態宣言を出した。その翌日、日本政府は湖北省滞在者に限定して入国を拒否すると発表、渡航は抑制というゆるい要請だった。アメリカは同じ日、中国全土への渡航禁止を勧告した。

 2月13日には神奈川の80歳女性が新型肺炎で死亡したが、中国への渡航歴はなく感染経路は全く不明だった。死亡の前日にウイルス検査を受け、陽性と確認されたのは死亡後だった。渡航歴がなく肺炎患者との接触も確認されない感染者が他にも3人見つかり、水際防疫がすり抜けになっていることは明らかになった。

 結局、中国からの入国者はウイルス潜伏期間の14日間、指定場所に待機させるという事実上の入国阻止を発表したのは、国賓として4月に迎える習主席の来日を五輪以降と正式に延期した同じ3月5日だった。

 こうして見てくると、安全保障の強化を旗印に憲法改正へ前のめりの安倍政権だが、国民の命と健康に直結する防疫、感染症対策では危機管理の体制や十分な備えを用意しているとはとても思えない。首相周辺の場当たり的な判断で迷走したように思う。

 自然農の農業者としては、食の安全や食糧自給率も心配だ。欧米に比べ無いに等しい農薬、添加物の使用基準。種子は国際企業に独占され、一朝ことあればどうなることか。国民の命と健康に直結する問題として新型ウイルスと同じくらい心配している。

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 上の原稿をサイトの主宰者、矢野直明さんへ送ったら「なぜ、こうまで北海道にこだわったのかを書き加えて」とメールをいただいた。

 私は1978年(昭和53年)夏、朝日新聞西部本社から北海道支社へ交流人事で転勤した。それまで西部整理部で4年間ご一緒だったのが矢野さんである。私はきれいに忘れていたが、フェリーで旅立つのを見送った思い出があると、同じ矢野さんのメールにあった。

 読みながらジーンと胸が熱くなった。ミスばかりする拙い部員だった私を先輩たちが温かく見守ってくれていたことが改めて思い出された。

 そうだった。車に妻と幼い長女を乗せ、小倉の港からフェリーを乗り継いで札幌へ向かった。今回、原稿につける写真を何気なく小樽運河の風景にしたが、敦賀から日本海を渡って最初に足を踏み入れたのが小樽港だったのだ。

 根っからの九州人にとって初めての北海道は毎日が楽しい別天地。その札幌で長男を授かったが、わずか2年で東京整理部に転勤、3年後にそこで次男が生まれた。ろくに子育てをしていない父親が息子との3人会を札幌で、とふっと思いついたのは、はるか昔の深いご縁につながっていた。頭が下がるばかりだ。

新サイバー閑話(2)

「表現と言論の自由」のパラドックス

 米東部ペンシルベニア州ピッツバーグにあるシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で10月27日午前10時ごろ、46歳の男が銃を乱射、11人が死ぬという痛ましい事件があった。容疑者はSNSに反ユダヤ主義的な書き込みをしていたが、30日のニューヨークタイムズ電子版によると、ピッツバーグ事件後、写真投稿サイトのインスタグラムには反ユダヤ主義的な写真や画像があふれているという(インスタグラムはフェイスブックの傘下)。

 犯人が利用していたSNSは開設してから2年、約80万人のユーザーがいるらしい。同社は事件後、テロや暴力には反対だとの声明を発表したが、過去に極右の著名人や陰謀論者に発言の場を提供していると批判もされていたらしい。

 ニューヨークタイムズの記事が指摘しているのは、SNSはこれまで社会の片隅に止まっていた極端な意見をメインストリームに引き出し、それがいま深刻な影響を与えるまでになったということである。

 だれにも発言の機会を与えた「福音」のツールのマイナス面が無視できないくらい大きくなりつつあるが、この点についてのIT企業の自覚はきわめて薄い。一般の反応もまた鈍いと思われる。

 問題のSNSサイトは「表現と言論の自由」が使命だと宣言しているけれど、かつては誰もがその価値を疑わなかった「表現と言論の自由」を文字通りには擁護できない逆転現象があるというのがきわめて現実的な問題である。

・ロングテールとヘイトスピーチ

 かつてアマゾンの黎明期にオンラインショッピングのあり方として「ロングテール」(長いしっぽ)ということが言われたが、その『ロングテール』という本を書いたクリス・アンダーソンは、こんなことを言っている。

 アメリカにはインド人が推定で170万人住んでおり、インドは毎年800点を超える長編映画を製作しているが、それらの映画はほとんどアメリカでは上映されない。なぜなら、映画館の客は周辺住民だけであり、そこでヒットするためには、みんなに喜ばれるハリウッド大作である必要があり、「地理的にばらばらと分散した観客は、いないも同じになってしまう」。ところが、インド映画のオンデマンド販売、あるいは上映になると、170万人は「顕在化」するわけである。

 つまり、どこかで反ユダヤ集会が開かれ、それが各地で同時開催されていたとしても、それは地域の壁に阻まれて、大きく広がることはなかった。これがサイバー空間にはない「現実世界の制約」であり、それが自ずからなる秩序を保っていた(サイバーリテラシー第1原則「サイバー空間には制約がない」)。少数の人が何を主張しようと、それは「言論および表現の自由」として保障されていたわけである。

 ニューヨークタイムズの記事によれば、「過去においては、彼らは自分たちの毒を味わう観客を見つけることができなかった。いまやそのアイデアを多くに人に広めるツールを得た」。

 政治の世界でも、かつてなら傍流にいた人びとがいま主流にのし上がっている例が多いが、その背景にはこういった社会システムの変化がある。

・在特会デモはネット活動の延長

 日本では2016年にヘイトスピーチ規制法(解消法とも呼ばれる。罰則なし)が成立して、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会)の活動はいまどうなっているのか、よくわからないが、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』には、興味深い在特会の事情が記されている。

 現実世界で鬱積した不満を抱えている人びとが、ネットの書き込みを見て在特会を知り、その主張をそのまま信じて、ネットの仮名のままでデモに参加、やはりネットで罵詈雑言を浴びせるのと同じように、街頭でののしっていると。彼らは「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というかつながりはほとんどない。大半はユーチューブなどの動画を見て、おもしろそうだと思った人々が集まっているらしい。デモをして、過激、かつ下劣なシュプレヒコールを上げ、それで溜飲を下げている。後に「なんで在日韓国人があんなに憎いと思ったのか、自分でもわからない」と述懐している人もおり、かつて『IT社会事件簿』で取り上げたネットの誹謗中傷事件が、そのまま街頭にあふれてきたと言えるだろう。

 こういう現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、今度は逆に現実世界に流れ出て、大きな力になっている。あるいはなっているように見え、それが現実世界を実際に動かすようになっている。

 ここへ来てIT社会の矛盾が爆発的に拡大してきたと言っていい。

クリス・アンダーソン『ロングテール』(早川書房、2006)
ロングテール‐「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社、2012)
ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)
矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー携書、2015)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書)

名和「後期高齢者」(21)

「弘法は筆を選ぶ」か?

 知人に筆まめの美学者がいる。その人を私はひそかに迷亭さんと呼んでいる。(だからといって、私は自分を寒月であると擬するわけでない。寒月先生の孫弟子ではあるのだが。)

 その迷亭さんが「弘法は筆を選ぶ」という手紙を送ってきた。本人の説明によれば、迷亭さんは4本のモンブラン万年筆をもっており、それを使い分けているという。さらに、その手紙をみると、みずからがザインした便箋に書かれている。後日、当人に確かめたら、原稿用紙も自家製だという。

 なぜ、こんな手紙を送ってきたのか。私が、迷亭さんの手書きはヒエログリフのようだ、と評したことへの反応らしい。私は褒め言葉のつもりだったが。

 迷亭さんの「弘法は筆を選ぶ」だが、それは巷間いわれている「弘法は筆を選ばず」という諺の逆命題になっている。迷亭さんが弘法ではないことは確実だから、どちらかの主張が間違っていることになる。私は「“クレタ人は嘘をつかない”とクレタ人はいった」という文章を読んだときのように、幻惑のなかに放りこまれた。

 私の場合はどうか。改めて考えると「弘法ではないのに筆を選ばない」という惨状である。念のために言えば、私の筆はPC。入出力ともに、カタカナでも、ひらがなでも、ローマ字でも使える。さらに、筆がなくとも、語りかけるだけでも、使える。

 ところでIT技術者は「弘法は筆を選ばず」をどう表現するのかな。「弘法はネズミ(マウス)を選ばず」かな。

 ここで私は「ユニバーサル・デザイン」という言葉を思い出した。これは「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザイン」にすること、だという。とすれば、鉛筆とPCとのどちらが「ユニバーサル・デザイン」の意にかなっているのか、にわかには判断できない。なお、「ユニバーサル・デザイン」はデザイン対象を障害者に限定していない点が「バリア・フリー」とは異なる。ほかにも「ノーマライゼーション」という上から目線の概念があった。

 ここで私が「ユニバーサル・デザイン」という言葉を想起したのは、PCにはよく不具合が生じ、そのトラブル・シューティングが、孤立しがちな高齢者には難儀だからである。多くの高齢者に頼りになるのは、家族や現役時代の仲間だろうが、その人たちがインターネットの「犬の歩み」に追いついているか否かは疑わしい。付言すれば、トラブル・シューティングについては、いつもマーフィーの法則が現れる。それは

 「何でも間違いうるものならば、間違うことになる。」

という経験則である。

 つい先週も、私の契約しているプロバイダーから「緊急・警告」というメッセージが跳びこみ狼狽した。まず、そのメッセージの真偽を確認しなければならない。さっそく電話をしてみたが、その番号は存在しないという電話会社の回答。こんなことが月に1回はある。これに比べて、代表的な筆である鉛筆であれば、こんなことは皆無といってよい。ただし、万年筆は保守に若干の手間はかかるかな。

  いっぽう、PCには重いという弱点がある。近ごろの現役世代はその重いPCを鞄に放り込んで仕事をしている。先日もSNSで悲鳴を上げている活動家がいた。脊椎を痛めたという。私も似た経験をもっている。くわえて、筆には欠かせない紙も重いね。ただし、こちらは後期高齢者にならなければ気付かない。

 思い出したことがある。90年代だったか、工業標準化調査会で21世紀の標準化の在り方について議論したことがある。そのときに、私はマン・マシン・インタフェイスについて1通りであるべきと主張した。独りものの遭遇するトラブル・シューティングが念頭にあったからである。

 だが、多くの委員の意見は違った。それは、個々のユーザーに特化したマン・マシン・インタフェイスが望ましい、というものであった。この意見はたぶんバリア・フリーを意識したものだったかとも思う。

 いまになって思えば、私の意見と他者の意見とは矛盾するものではなかった。私の主張は、ユニバーサル・デザインに関する7原則のうち、第3原則と第5原則と第6原則を強調したものであった。その7原則とは、ウィキペディアによれば、(1)公平な利用、(2)利用における柔軟性、(3)単純で直感的な利用、(4)認知できる情報、(5)失敗に対する寛大さ、(6)少ない身体的な努力、(7)接近や利用のためのサイズと空間、を指すという。

 ところで、「弘法も筆の誤り」という言葉もありますね。ユニックス・ユーザーは、コマンド嫌いのマック・ユーザーに対して、「悪いユーザーは自分の道具をけなす」というらしい。

【参考資料】
R.L.ウェーバー編(橋本英典訳)『科学の散策』, 紀伊国屋書店(1981)
科学の散策
(2)Wikipedia「ユニバーサルデザイン
(3)オースティン・C・トラビス(倉骨彰訳)『マックの法則』、BNN (1994)
マックの法則―Macにはまった馬鹿なやつら

小林「情報産業論」(6)

シャノンとウィーナー

最小の情報とはふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p46)

 過日、矢野さんに声をかけていただいて、林紘一郎さんともども、名和小太郎さんのお宅にお邪魔した。その帰路、地下鉄の牛込神楽坂の駅に向かいながら、林さんがこのサイバー灯台に書かれた原稿の話になった。

ちょっと長くなるが、そのまま引用する(号外「大川出版賞を受賞して」から)。

 振り返ってみると、私は情報理論の先駆者であるシャノンとウィーナーが開拓した産業分野で、55年間も仕事をしてきたことになります。両者とも1940年代末のコンピュータの黎明期に登場した理論家ですが、シャノンの方は、情報の処理・伝送・蓄積という全過程を0 1 のビット列で捉え、「情報量」もビットで測れることを示したことで、今日の情報科学の基礎を築きました。いわば情報から「意味」を捨象して、専ら「構文」として扱うことで、ICT(Information and Communications Technology)の飛躍的発展に貢献したと言えます。

 他方ウィーナーは、通信と制御は別々のものではなく両者合わせて「制御システム」であると理解し、心の働きから生命や社会までをダイナミックに、かつ統一的に捉えることが出来る概念として「サイバネティックス」を提唱したことで知られています。これは、シャノンが捨象した「意味」の方を、より重視した発想であるとも言えますが、当時のコンピュータでそのような高度な判断を実行することはできなかったので、忘れられた存在のように理解されているかもしれません。

 しかし、1948年の『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』の第2版の邦訳(1962年、岩波書店)が、文庫化されるに際して、初版の4名の共訳者のうち唯一存命中の戸田巌氏は、「ウィーナーの提唱したサイバネティックスは、通信と制御の観点から機械、生体、社会を統一して扱おうという学問分野である。この50年で、数学、工学の観点からのサイバネティックスの評価は確立したといってもよい。社会学的および生理学的にどう位置付けるかが問題である。」(文庫版あとがき)と述べています。

 そして、戸田氏の要請を受けて [解説] を書いた社会学者の大沢真幸氏が、「本書の書名そのものが新しい学問分野を創成し、自然科学分野のみならず、社会科学の分野にも多大な影響を与えた。現在でも、人工知能や認知科学、カオスや自己組織化といった非線形現象一般を解析する研究の方法論の基礎となっている」と評しているのは、私にとって励みになりました。

 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。

引用してみて、しまったと思った。ぼくが、今回書こうと思っていたことが、過不足なく見事に書かれている。まあ、だからこそ、路上での会話にもなったのだろう。

この会話は、それぞれが乗る電車が逆方向だったために中断を余儀なくされたが、ぼくが林さんとお話ししたかった主眼は、まさに、この最後のパラグラフに関わることだった。

一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

梅棹の情報産業論が、今でも、情報と社会の関係を考える上で古典中の古典であり続ける所以も、また、この点にこそある。

冒頭に引いたとおり、梅棹は、シャノンが規定したビットの概念を、正確に理解している。その上で、テレビ・ドラマを例に挙げて、その情報量が何ビットであるかという議論がまるで意味をなさないことを指摘している。林さんの言を俟つまでもなく、ビットの概念からは捨象された「意味」にこそ、価値の軽重が論じられなければならない。しかし、そのような「意味の価値」は、人により、時と場合により、さまざまに変化する。

「お代はみてのおかえり」(p48)

梅棹は、この言葉を情報産業のインチキ性を示すものとして、捉えていると読める。

しかし、ぼくには、ここでのこの言葉の含意は、ずっと広く深いもののように思われる。

梅棹と同世代の社会学者吉田民人に、『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社)というこれまた古典的名著がある。副題に「エヴォルーショニストのウィーナー的自然観」とあるのも、また因縁めいたものを感じるが、この中で、吉田は、情報を、flowとstock、factとevaluative、instructiveという都合6つのメトリックス(例によって吉田の本が手元に見当たらないので、名称はぼくの言い換えになっている)で分類している。

たしかに、梅棹が論じる情報の中には、一方で、競馬の勝馬予想や株のインサイダー情報のように、一度聞いてしまえば、対価を支払うのをためらってしまう情報や、「立ち読みお断り」のマンガや週刊誌のように、まさに立ち読みしてしまえば、用が足りてしまう情報もあれば、文学や哲学の古典、名作映画、音楽の名演奏など、滋味豊かで幾度となく再受容される情報もある。おっと、急いで補足しておくが、マンガや週刊誌の記事の中にも、後々まで古典として読み継がれていくものがあることも、忘れてはならない。

「お代は見てのおかえり」でなくとも、たとえその情報受容体験が一過性のものであっても、その体験に深い感銘が伴えば、その感銘を投げ銭のような形に変えて表すことも考えられる。「お代は見てのお帰り」という言葉には、その情報受容体験が、客すなわち情報受容者にとってインチキと思えるものではなく、充分以上に満足感を与えるものである、という情報提供者側の自負が込められているとともに、情報の価値がその受容者によってさまざまに変容しうるものであるという含意もある。

近来、オープンソースのソフトウェアの一部に、ドネイションウェアと呼ばれるものが散見されるようになっているが、このような情報受容者ごとによる情報価値の多様性を認めた上で、情報受容体験による満足感をドネイションという形で表す方策は、もっと考えられてもいいように思われる。

吉田民人の分類を援用した上で、「お代は見てのおかえり」的情報のあり方について、再考することも必要なのではないか。