今様メディア百鬼夜行(第138回、2017/7号)&(第139回、2017/8号)

 
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138、139回を「今様メディア百鬼夜行」としてまとめた。秀逸なイラストに少し引っ張られて(^o^)
138回のイラストで暗躍跋扈しているのは、名もない(匿名)ライターとその記事……そこから得体の知れない者→妖怪と繋がり、妖怪が暗躍跋扈する姿として「百鬼夜行」にたどり着きました
139回はこの私的メディア跋扈で従来の公的空間がぐにゃぐにゃになってしまったことがテーマです。「公」が「私」に侵されている現状は、世界規模でのサイバーリテラシー欠如でもあるねえ
この回は妖怪繋がりで、閻魔様と地獄の愉快な(?)仲間たちです。閻魔様を妖怪と言っていいか分かりませんけど……。それにしても、大統領、総理、大臣、知事、著名な俳優――メディアの発展というところもあるんでしょうけど、最近は公人の公私混同も目につきます
耳目に刺激的なスキャンダルをまき散らすのはマスコミのあり様でもあるけれど、最近は公人であることへの心構えがすっかり薄れてしまった。古いものが崩壊するのは自然の理でもあり、歓迎すべき面も多いけれど、いまはまさにカオス、さなぎ状態から何が生まれるのか
まさにサイバーリテラシーの出番です。現代の魑魅魍魎にも声が届くように、気さくに話しかけなければなりませんね
そのこころは?
なんか妖怪?…なんつって
……お後が宜しいようで

< ML楽屋話 >


Kan

 トランプ大統領のCNN記者殴打動画、小林真央のブログ、松居一代のユーチューブと、まさに私的メディア花盛りです。その情報の「フラット化」は既存のヒエラルキー秩序を突き崩していますが、危惧されるべきは、既存秩序の支配層が自分たちの社会的立場を忘れ、社会的責任を放棄しつつあることです。

 138回はウエブの「サイバーリテラシーとは」に掲げている「サイバー空間と現実世界の交流史」をふり返りながら、キュレーションサイトに代表されるメディアの混沌を通して、既存の思考枠組みが揺らいでいることにふれました。139回では私的空間が公的空間になだれ込んだ結果として、既存秩序の、ひいては社会の空洞化が進みつある状況を取り上げています。というわけで、138、139回あわせての掲載です。


Sic

 138回のコンセプトは、「魑魅魍魎の跋扈するキュレーションサイト」です。私はブログ記事作成代行などのアルバイトをやったことがありますが、これらの仕事は単価が非常に安く、納期もかなり短いです。 二束三文とはよく言ったもので、数をこなさないと小遣いにもならないような仕事ですが、在宅ででき、納品もメールで可能なのは便利です。

 少し前に下流工程の開発者を「IT土方」などと表現することがありましたが、これらの仕事は「IT日雇い人夫」といったところでしょうか。中にはSEO対策のためコメント記入を依頼されるような仕事もありました。

 イラストは室町時代に描かれたという百鬼夜行絵巻(作者不詳)をベースにしてみました。魑魅魍魎が大挙して「原稿」を持ち寄っています。ところどころには烏がいますが、これは「烏合の衆」を表しています。その中の1羽は風で飛ばされた鬼の原稿を掠め盗っていますが、これは盗作が跋扈するキュレーションサイトを表現しています。

 この烏は足が3本あります。いわゆる八咫烏で、日本神話では神(あるいは天皇)の使いとされ、とても神聖な象徴です。しかし、八咫烏は太陽の化身でもあるため、しばしば農業地域の昔話では日照り(水不足)の悪者として登場したりもします。Jリーグのマークにも採用されましたね。ここでは善悪や信仰云々ではなく、「烏合の衆」の中でも賢い者……という程度です。

 画面中央には、象(のジョウロ)が原稿を持って並んでいます。これは有象無象の例え(ダジャレ)です。画面中央やや左下には馬の頭蓋骨がいます。これは「どこの馬の骨かも分からぬ…」馬の骨です。合わせて、キュレーションサイトのライター→魑魅魍魎、烏合の衆、有象無象、どこの馬の骨かも分からぬ者→素性の知れぬ非ジャーナリスト……という風刺のつもりです。

 キュレーションサイトは情報量がスゴイので参考にすることもありますが、いい加減な情報も少なくないので、必ず裏付けは取るようにしています。本来は、(ライターの質から言っても)その程度に留めておくべきサイトだと思うのですが、中には鵜呑みにしてしまう人もいるんでしょう。でなければ、キュレーションサイトがここまで成長し、問題になることもなかったでしょうから。

 画面右側に原稿を持ってくるもの、左側に原稿と引き換えに報酬を得たものと、対比して描いています。掲げている報酬は小銭です。だから右側に並ぶ者は、質より量といわんばかりに、準備もそこそこ、大量の原稿をもっています。画面下中央では、推敲もろくにしていない原稿に対して、機械的に(コンビニのレジのように)報酬を支払っています。そこに判断はありません。受け取った原稿の管理も、積み上げているだけです。

 受付のすぐ前では、褌一丁(無一文)の猫を馬の骨があざ笑っています。キュレーションサイトの側面でもある、ワーキングプアはまさにこんな状況かなと……。画面右下にいるキャラクターは百鬼夜行絵巻にも登場しますが、2006年、2ちゃんねるで有名になったキャラクターです。釣神様といい、古紙に描いた絵を「家に伝わる恐ろしい古文書」として盛大に騙した(釣った)、ある意味伝説的な出来事でした。

 そう考えてみると、そもそも情報なんてものはネットに限らず、信ぴょう性の疑わしいものがほとんどです。今に限らず、テレビでも新聞でも嘘や圧力がまかり通っていたし、世論操作は近世に限らず太古の昔からありました。


Kik

 キュレーションサイトには複雑な思いがあります。とくにニュース系のキュレーションサイト。コンテンツ(ニュース記事)を作っているのは、ほとんどが新聞社や雑誌社なのに……ユーザの多くはそんなこと意識しないですからね。「ネットがあるから新聞なんて要らない」となる。新聞社が潰れたらニュースキュレーションも成立しないのに。

 インターネットは情報を集約するのに適したテクノロジーだし、情報を集約するだけでビジネスになるのもインターネットならでは。便利だけど、コンテンツへの「ただ乗り」が多いのも事実。一つのコンテンツを作るために、どれだけの人員と時間と金(ついでに言えば汗と涙)が費やされているかを考えると、あっさり無料で使い回されているのを見るのは哀しいです。昔からインターネットを軽視、あるいは敵視して、新しいメディアとして認識してこなかった新聞(マスコミ)側の自業自得でもありますが……。

 


Kan

 以前から事実確認を新聞(雑誌、テレビ)などのマスメディアに頼ることが多かったけれど、その引用にあたっては、クレジットを明記する、あくまで本文が主で引用する部分は従である、など著作権上の決まりごとがあったわけですね。キュレーションサイトではクレジットもなければ、本文そのものが引用の束で成り立っており、これは従来の記事のあり方そのものを否定しています。サイトの運営者が引用の作法を教えていたとは思えないし、運営者そのものが著作権などほとんど念頭になかったように思われます。

 ともかく、そういうメディアを作れてしまうというのが現実です。これに対して、たとえば新聞社はどういう対策をとれるのかというのは悩ましい問題ですね。キュレーションサイトもグーグルの検索順位を上げて広告収入を稼ぐことが主目的だったわけだけれど、この広告費収入を得られるということが、新たなメディアを跋扈させていますね。

 最近、俳優の西田敏行さんが覚せい剤で近く逮捕されるというガセネタを流していた3人の立派な大人(40代から60代の男女)が、偽計業務妨害の容疑で書類送検されました。彼らは週刊誌記事の匿名容疑者を勝手に西田敏行と断定して、自分たちのブログに書き込んだわけです。

 2009年のお笑いタレント、スマイリー・キクチ氏に対する中傷事件を思い出させる話で、両事件の加害者はともに自分の素性が割れるなどとはつゆ思わず、警察に摘発されたときは大いに驚き、あわてて謝罪したようです。

 このよく似た事件で違うのは、その動機です。スマイリー・キクチ氏の場合は、ほとんど面白半分で、他人の書き込みを誇張して書いていたわけです。20代の女性は「妊娠中の不安からやった」と述べています(『IT社会事件簿』「グーグルサジェストの悲劇」参照)。

 今回の3人は警察の調べに対して、「広告収入を得るためだった」「ブログを読んでほしかった」と述べたようです。ここにブログで広告収入を稼ぐ、あるいはアクセス数を高めることで、ブログ運営者からの見返り収入を期待するという動機が示されています。広告収入を得るためには、記事内容はなるべく耳目を集めるものが望まれるわけで、極端な話、事実はどうでもいいからアクセスが高まるもの、というふうになりがちです。かくして、インターネット上にはいよいよ破廉恥な内容や事実無根の内容がはびこることになります。まさに「今様メディア百鬼夜行絵巻」です。

 


Sic

 キュレーションサイトの横行は、日本における配信元クレジット表記の曖昧さも一役買っているような気がします。最近は画像転用の際のルールとして、転用元を明記するようになってきましたが、本来は情報ソースにこそ必要だと思うんですけどね。 


Kan

 サイバー空間と現実世界のアメーバー的混沌の中で、現実世界の旧秩序がいよいよ空洞化しているというのが139回のテーマでした。


Sic

 今回のコンセプトは、「責任者不在の地獄」です。登場人物(?)は、右側から閻魔大王、ハデスとケルベロス(ギリシャ神話)、オシリス(エジプト神話)、エレシュキガル(メソポタミア神話)、ミクトランテクートリ(アステカ神話)となっており、それぞれ地獄、冥界、死の世界の王(最高責任者)です。

 それぞれが分からなくとも、骸骨、死人、悪魔、餓鬼として、閻魔大王とその仲間達……というようなイメージでもよいかなと。それぞれのキャラクターの特徴的な部分はそのままですが、みんな温泉の浴衣を着ています。背景には雪洞が浮かび上がり、ハデスは自撮り棒で記念撮影をしています。つまり彼らは休暇中なのですが、各国の地獄(冥界)の代表が一斉に休んでしまっているので、現場(地獄)は責任者不在の状態であろうことが予想されます。

 責任者(たしなめる者)が不在なので、きっと現場は混沌としていることでしょう。色々な神話からの登場は、この責任者不在の状況が世界規模(世界共通の問題)であるということの表現です。

 それぞれのキャラクターにも意味があります。閻魔大王は、ピコ太郎=古坂大魔王からの連想で、地獄関連のアイディアに繋がりました。閻魔のエピソードでは「嘘をつくと舌を抜かれる」というのが有名ですが、トランプ大統領とCNNの舌戦に引っ掛けています。

 ハデスは、ギリシャ神話の神の中ではシャイな一面があります(比較対象がゼウスなので、普通の思考なのかも知れませんけど)。後に妻となるペルセポネを文字通り略奪婚するのですが、その後は仲睦まじく、時に頭が上がらないほど優しく、非常に人間臭い一面があり、冥界の王なのにゼウスよりもよっぽど親しみを感じる神様です。オシリスは、弟セトにバラバラにされて殺されますが、妻イシスが(男根を除く)体を集めて蘇生し、その後冥界の王となります。

 エレシュキガルは、冥界(死)を司る女神ですが、生を司る妹イシュタルとの生活の違いを妬み、嫉妬深く性格がねじ曲がっています。一方で一途な面もあり、純愛や悲恋のモチーフとしても様々なバリエーションがあります。疫病をまき散らすとも。ハデス、オシリス、エレシュキガルはそれぞれ異性間トラブルのエピソードがあり、船越夫婦間トラブルの風刺としました。(あの動画は、まさしく「まき散らす」という表現がピッタリだと思ったので……)。

 上記4人(柱)の神を調整しながら配置していたのですが、ちょっとスペースが余ってしまったので、同じ冥界の王である、ミクトランテクートリを追加しました。本来もうちょっと骸骨寄りのビジュアルなのですが、アステカ展で展示された像がなんか可愛かったので、外見はそちら寄りです。

 小ネタですが、浴衣には「別府」とあります。別府温泉といえば地獄巡りが有名ですが、彼らの職場は本物(?)の地獄です。それなのに、休暇で形骸化(観光化)された地獄を巡っているという、本文にある「形骸化された社会」の風刺でもあります。

 自撮り棒は「私的メディア」の象徴的なアイテム(メタファー)でもあります。もともと地獄や冥界は恐ろしい場所の象徴でした。その王である彼ら神(王)も畏怖の対象でありました。その畏怖の対象が、温泉に入って、浴衣を着て、自撮りし、(可愛い:kawaii)ポーズをとっています。地獄の番犬は単なる散歩中のワンコと化しています。これは本文にある、権威の弱体化、あるいは空洞化、社会の劣化です。公→私の境がなくなりつつある(フラット化)とも言えますね。

 ちなみに、別府温泉にこのような雪洞はありません。元ネタは某アニメの雪洞祭りから来ています。浴衣も別府温泉のものではありません。別府温泉には行ったことないので、近くのスーパー銭湯の浴衣をモデルに、文字を入れました。本当なら、美術館へ「地獄絵展示会」に取材に行く予定だったんですが、天気が悪かったので止めてスーパー銭湯に行ったという、涙なくしては語れないエピソードもあって、イラストにはそんな怨念も籠っています(^o^)。

 


Kan 若者たちは現代の政治状況というか社会(現実世界)の混乱にあまり関心がないみたいですね。ただ古いものが滅びていくだけで、僕らは別の処で生きている、というような。


Sic

 私は、単に「若者」という括りに限らず、世の中の情報の在り方(の変化)が強く影響していると考えます。かつての学生運動に憧れ、狂信的にデモ行為を行っていたSEALDsのメンバーは、ほぼ全員の実名、学校、住所、家族構成までもがリストとして残っているそうです。

 携帯を使えば番号が、PCを使えばIPが残ります。公共の情報機器を使ったとしても、その時間帯の周囲の情報から特定することは、今ではとてもたやすくなりました。相当慎重な対策をしていない限り、ネットの匿名なんてのは簡単に暴かれます。

 不用意な発言で大変なことになった事例は枚挙に暇がありませんし、そういった人たちのその後を知れば、よっぽどの不勉強な人間でない限り、それらのリスクを差し置いて自己主張したいと思う人はいないでしょう。

 言い換えれば、発言のリスクでしょうか。そして、もしそれらのトラブルに遭遇した場合、永久にその傷が残ってしまうのはサイバーリテラシー3原則にある通りです。だから、賢い人ほど不用意な発言や主張は回避しているのだと思います。そういった風潮に乗っかって、何も主張しないことが賢いという体裁で、本当に何も考えていない人もいますけど。

 情報のソースも多様化しました。厳密にはソース自体の数は変わっていないんでしょうが、それを発信するメディアが多様化しました。とくに、ネットの情報ソースは記者の意見がモロに反映するために、非常に偏ったものが多いです。(テレビはスポンサーありきの偏向報道で偏っていますが)。キュレーションサイトはその筆頭みたいなもんですよね。そういったフィルターまみれの情報で、どう扱っていいか分からないというのもあると思います。

 人のあり様は、実はそんなに変わってないと私は思います。ただ、周りの状況、とくに情報のあり様は以前に比較対象がないほどに様変わりしました。バカッターと揶揄される若者の写真や動画など、どうしても目立つ情報が目についてしまいますが、現在も慎重に情報を見ている人は少なくないと考えます。そういった「まとも」な意見が、多数派の意見に紛れて目立たなくなってしまうのも、昔から変わらない点なんですけど。


Kik

 どの国のどの時代でも、若者の多くは、それほど政治に関心を示さないですよね。ただ、個人的には、日本の若者は意外と関心を持っているけど、「関心への向き合い方」が、ちょっと特殊かな、と考えています。

 諸外国で若者がデモをしたり、政治的発言をしたりするシーンがよく報道され、「それに比べて日本の若者は…」という反応もよく耳にしますが、そこにはお国柄というか、構造的な差異があるように思えます。

「日本の若者」の政治(社会)への関心が、他国の若者より低いのか、という疑問に関して、以下のような調査があります。21年版(現状最新)の「世界青年意識調査」(内閣府)によれば、自国の政治に興味を持っている若者の比率は、日本58.0%、アメリカ54.5%、韓国49.7%、フランス42.6%、イギリス33.2%の順でした。つまりこの5カ国の中では、日本の若者が断トツ1位で、政治(社会)に関心を持っていることになります。

 では、なぜそうした意識が政治行動…端的には「投票行動」に現れないのか。総務省が出している、「国政選挙における年代別投票率について」を見てみると、昭和42年の衆院選挙で20歳台の投票率が66.69%、直近の平成26年は32.58%となっており、確かに差が大きくなっているように見えます。

 昭和42年といえば、学生運動全盛の時代。当時の「学生」は「エリート」であり、まさに若者が自分たちで国を変えられると本気で信じていた時代でしたから、ここを基準にするのはどうかと思いますが(^_^;)。とはいえ、当時であっても、他の世代と比べると(70歳代以上を除くと)、20歳台の投票率は最も低い数字なんですよね。(全体が73.99%の投票率で、20歳台は66.69%)

 そんな「時代の熱」も冷め、経済成長も一段落した昭和61年(の選挙の)頃から、若者の投票率はますます下がっていきます。が、全体投票率と、20歳台の投票率との差を見ていると、あることに気付きます。

 当然、全体投票率が下がれば(社会全体が投票しなくなってくれば)、20歳台の投票率も(それに比例して)下がります。(大人が投票しないでいて、若者だけが投票するなんて考えられませんので)。ただ、平成5年の(全体投票率と20歳台の投票率の差は)約20%、8年が約23%、12年が約24%、17年が約21%、19年が約20%、21年が約21%、24年が約24%、26年が約20%と、実はほとんど差がないのです。

 昔から若者の投票率はどの世代よりも低いこと、そしてその比率で見れば、少なくとも四半世紀前の若者と比べても、現在の若者が特段、低いとは言えないことが分かります(むしろ直近の26年は良い方かと)。

 ならば、「世界の中でも政治や社会に関心が高く」、「投票比率も昔と大差ない」日本の若者が、なぜ(政治的に)目立たないのか。勿論、そこには少子高齢化で若者そのものが少なかったり、日本の若者が置かれている社会的・経済的立場の低さだったりも大きな要素でしょう。

 今でもアメリカで選挙ボランティアといえば学生が中心だし、台湾では「ひまわり学生運動」、香港では「雨傘革命」が起き、スペインでは「ポデモス」が政局のキャスティングボートを握る中、日本の若者は、どうも元気がないように見えます。SEALDsには一瞬期待しましたが、政治の中に直接入り込もうとせず、いつしか解散してしまいました。

 その一方で、今の日本では、社会起業家を目指したり、NPOやNGO活動、ボランティアに参加する若者が、確実に増えています。社会の問題に、「個」や「仲間」のレベルで関わろうとする。社会を良くするために、(政治ではなく)自分に出来ることを直接やってみる。LGBT、福祉、新しい農業、観光、伝統文化、教育、災害復興支援、さまざま分野に、若者たちが、新しい形で参入しています。彼らにとっては、社会とは「国家」ではなく、価値観を共有できる、緩やかなつながりです。

 これこそが最初に指摘した、ちょっと特殊な日本の若者の「関心への向き合い方」ですね。つまり、日本の若者は、大上段に構えた『政治』には、関わりたくないのだと思います。『政治』は信用できないので。

 理由は人それぞれでしょうが、最大の理由は、我々、大人でしょう。バブル崩壊から長引く不景気。党利党略だけの政党政治。汚職だらけの腐敗政治。長年の自民一党独裁。壊すだけ壊して何も作らず、勝手に始めて勝手に挫折していった団塊の世代。その世代が日本の個人資産の半分を独占し、教育ローンに追われる若者たちは、就職難も重なって新たな貧困層に。社会に出ればブラック企業で過労死。政治に託そうにも、何も考えずに投票する大人や、巨大な組織票の前では、彼らの1票に(大人が言うような)「重さ」なんて、これっぽっちもありません。頑張ってデモに参加すれば嘲笑され、大人に向かって政治的発言をすれば生意気だと怒られるか、「難しいことは分からない」と、大人のほうがよほどバカであると知らされるだけ。

 こんな時代に、政治不信になる若者が多くて、彼らに何の咎があるでしょう。そして、そんな時代を作ったのは、いや、そんな時代を許してきたのは、我々、大人です。叱られるべきは、本来、我々ですね(マスコミも含めて)。

 若者が、かぎかっこ付きの『政治』に信を置かず、社会の様々な問題に、自ら直接的に関わろうとする流れには、そうした背景があるように思います。「考える」土壌が少ないために稚拙ではあるものの、インターネットを駆使し、自分たちの手で新しい社会を模索している彼らに、僕は少し、未来を感じてもいます。

 しかし、そうした彼らの活動は、先生の原稿にあるような、社会全体に関わるような大きな問題と関わりづらいのがネックです。また、現政権のような強権政治が、数の力で社会の根幹を変えてしまおうとすることに対して(国家としての滅びの道に対して)、大きな抑止力にもなれません。そこが悩ましいところです。

 でも。まずは我々大人が「サイバー倫理」を身につけましょう。若者は大人の背中を見ているのですから。と、長くなったので本日はここまでで失礼いたします(タクシー待たせてるので帰ります^^;)。


Kan

 Sicさん、Kikさん、貴重なご意見どうもありがとう。実は、次回でIT社会の生き方としての「サイバー倫理」(従来の「情報倫理」改め)について書こうとしているのだが、たいへん参考になりました。

 日本社会の基本部分はあまり変わっていないんだと僕も思います。ただこの動きのない部分はなかなか見えにくいというのが気になる第一点、次に、これは安田さんも書いていることだけれど、社会の表層で進む混乱に掉さす動きが出てきにくいというのが第二点です。

 新井さんも書いているけれど、素性がすっかり割れてしまう時代の心理的影響も無視できないですね。しかし、せっかくそこに影響を与える力を持っているのに、それを発揮しないでいる状況が何とも歯がゆい。ヒトラーの例もあるように、トランプや安倍政権の暴政を許しておくのか、と、ここは老ジャーナリストの余計なお世話かもしれないけれど……(^o^)。


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“今様メディア百鬼夜行(第138回、2017/7号)&(第139回、2017/8号)” への1件の返信

  1. Kan

     本文でふれている『朝日総研リポート』所収の「『表現の自由』の現代的危機について」を本ウエブにアップしました。「アーカイブ→連載記事など」から検索してください。けっこう長い文章ですが、「表現の自由」をめぐる古典的議論の整理としては参考になるかもしれません。「サイバーリテラシー」という言葉を公の場で最初に使った論考です。2000年刊行の『インターネット術語集』(岩波新書)では「サイバーリテラシー」に一項を立て、「サイバースペースの構造や仕組みを理解することで、私たちの生活をより豊かなものにしていきたいという思いを込めた、メディアリテラシーにならった造語である」と説明しています。

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