新サイバー閑話(2)

「表現と言論の自由」のパラドックス

 米東部ペンシルベニア州ピッツバーグにあるシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で10月27日午前10時ごろ、46歳の男が銃を乱射、11人が死ぬという痛ましい事件があった。容疑者はSNSに反ユダヤ主義的な書き込みをしていたが、30日のニューヨークタイムズ電子版によると、ピッツバーグ事件後、写真投稿サイトのインスタグラムには反ユダヤ主義的な写真や画像があふれているという(インスタグラムはフェイスブックの傘下)。

 犯人が利用していたSNSは開設してから2年、約80万人のユーザーがいるらしい。同社は事件後、テロや暴力には反対だとの声明を発表したが、過去に極右の著名人や陰謀論者に発言の場を提供していると批判もされていたらしい。

 ニューヨークタイムズの記事が指摘しているのは、SNSはこれまで社会の片隅に止まっていた極端な意見をメインストリームに引き出し、それがいま深刻な影響を与えるまでになったということである。

 だれにも発言の機会を与えた「福音」のツールのマイナス面が無視できないくらい大きくなりつつあるが、この点についてのIT企業の自覚はきわめて薄い。一般の反応もまた鈍いと思われる。

 問題のSNSサイトは「表現と言論の自由」が使命だと宣言しているけれど、かつては誰もがその価値を疑わなかった「表現と言論の自由」を文字通りには擁護できない逆転現象があるというのがきわめて現実的な問題である。

・ロングテールとヘイトスピーチ

 かつてアマゾンの黎明期にオンラインショッピングのあり方として「ロングテール」(長いしっぽ)ということが言われたが、その『ロングテール』という本を書いたクリス・アンダーソンは、こんなことを言っている。

 アメリカにはインド人が推定で170万人住んでおり、インドは毎年800点を超える長編映画を製作しているが、それらの映画はほとんどアメリカでは上映されない。なぜなら、映画館の客は周辺住民だけであり、そこでヒットするためには、みんなに喜ばれるハリウッド大作である必要があり、「地理的にばらばらと分散した観客は、いないも同じになってしまう」。ところが、インド映画のオンデマンド販売、あるいは上映になると、170万人は「顕在化」するわけである。

 つまり、どこかで反ユダヤ集会が開かれ、それが各地で同時開催されていたとしても、それは地域の壁に阻まれて、大きく広がることはなかった。これがサイバー空間にはない「現実世界の制約」であり、それが自ずからなる秩序を保っていた(サイバーリテラシー第1原則「サイバー空間には制約がない」)。少数の人が何を主張しようと、それは「言論および表現の自由」として保障されていたわけである。

 ニューヨークタイムズの記事によれば、「過去においては、彼らは自分たちの毒を味わう観客を見つけることができなかった。いまやそのアイデアを多くに人に広めるツールを得た」。

 政治の世界でも、かつてなら傍流にいた人びとがいま主流にのし上がっている例が多いが、その背景にはこういった社会システムの変化がある。

・在特会デモはネット活動の延長

 日本では2016年にヘイトスピーチ規制法(解消法とも呼ばれる。罰則なし)が成立して、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会)の活動はいまどうなっているのか、よくわからないが、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』には、興味深い在特会の事情が記されている。

 現実世界で鬱積した不満を抱えている人びとが、ネットの書き込みを見て在特会を知り、その主張をそのまま信じて、ネットの仮名のままでデモに参加、やはりネットで罵詈雑言を浴びせるのと同じように、街頭でののしっていると。彼らは「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というかつながりはほとんどない。大半はユーチューブなどの動画を見て、おもしろそうだと思った人々が集まっているらしい。デモをして、過激、かつ下劣なシュプレヒコールを上げ、それで溜飲を下げている。後に「なんで在日韓国人があんなに憎いと思ったのか、自分でもわからない」と述懐している人もおり、かつて『IT社会事件簿』で取り上げたネットの誹謗中傷事件が、そのまま街頭にあふれてきたと言えるだろう。

 こういう現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、今度は逆に現実世界に流れ出て、大きな力になっている。あるいはなっているように見え、それが現実世界を実際に動かすようになっている。

 ここへ来てIT社会の矛盾が爆発的に拡大してきたと言っていい。

クリス・アンダーソン『ロングテール』(早川書房、2006)
ロングテール‐「売れない商品」を宝の山に変える新戦略 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社、2012)
ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)
矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー携書、2015)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書)

名和「後期高齢者」(21)

「弘法は筆を選ぶ」か?

 知人に筆まめの美学者がいる。その人を私はひそかに迷亭さんと呼んでいる。(だからといって、私は自分を寒月であると擬するわけでない。寒月先生の孫弟子ではあるのだが。)

 その迷亭さんが「弘法は筆を選ぶ」という手紙を送ってきた。本人の説明によれば、迷亭さんは4本のモンブラン万年筆をもっており、それを使い分けているという。さらに、その手紙をみると、みずからがザインした便箋に書かれている。後日、当人に確かめたら、原稿用紙も自家製だという。

 なぜ、こんな手紙を送ってきたのか。私が、迷亭さんの手書きはヒエログリフのようだ、と評したことへの反応らしい。私は褒め言葉のつもりだったが。

 迷亭さんの「弘法は筆を選ぶ」だが、それは巷間いわれている「弘法は筆を選ばず」という諺の逆命題になっている。迷亭さんが弘法ではないことは確実だから、どちらかの主張が間違っていることになる。私は「“クレタ人は嘘をつかない”とクレタ人はいった」という文章を読んだときのように、幻惑のなかに放りこまれた。

 私の場合はどうか。改めて考えると「弘法ではないのに筆を選ばない」という惨状である。念のために言えば、私の筆はPC。入出力ともに、カタカナでも、ひらがなでも、ローマ字でも使える。さらに、筆がなくとも、語りかけるだけでも、使える。

 ところでIT技術者は「弘法は筆を選ばず」をどう表現するのかな。「弘法はネズミ(マウス)を選ばず」かな。

 ここで私は「ユニバーサル・デザイン」という言葉を思い出した。これは「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザイン」にすること、だという。とすれば、鉛筆とPCとのどちらが「ユニバーサル・デザイン」の意にかなっているのか、にわかには判断できない。なお、「ユニバーサル・デザイン」はデザイン対象を障害者に限定していない点が「バリア・フリー」とは異なる。ほかにも「ノーマライゼーション」という上から目線の概念があった。

 ここで私が「ユニバーサル・デザイン」という言葉を想起したのは、PCにはよく不具合が生じ、そのトラブル・シューティングが、孤立しがちな高齢者には難儀だからである。多くの高齢者に頼りになるのは、家族や現役時代の仲間だろうが、その人たちがインターネットの「犬の歩み」に追いついているか否かは疑わしい。付言すれば、トラブル・シューティングについては、いつもマーフィーの法則が現れる。それは

 「何でも間違いうるものならば、間違うことになる。」

という経験則である。

 つい先週も、私の契約しているプロバイダーから「緊急・警告」というメッセージが跳びこみ狼狽した。まず、そのメッセージの真偽を確認しなければならない。さっそく電話をしてみたが、その番号は存在しないという電話会社の回答。こんなことが月に1回はある。これに比べて、代表的な筆である鉛筆であれば、こんなことは皆無といってよい。ただし、万年筆は保守に若干の手間はかかるかな。

  いっぽう、PCには重いという弱点がある。近ごろの現役世代はその重いPCを鞄に放り込んで仕事をしている。先日もSNSで悲鳴を上げている活動家がいた。脊椎を痛めたという。私も似た経験をもっている。くわえて、筆には欠かせない紙も重いね。ただし、こちらは後期高齢者にならなければ気付かない。

 思い出したことがある。90年代だったか、工業標準化調査会で21世紀の標準化の在り方について議論したことがある。そのときに、私はマン・マシン・インタフェイスについて1通りであるべきと主張した。独りものの遭遇するトラブル・シューティングが念頭にあったからである。

 だが、多くの委員の意見は違った。それは、個々のユーザーに特化したマン・マシン・インタフェイスが望ましい、というものであった。この意見はたぶんバリア・フリーを意識したものだったかとも思う。

 いまになって思えば、私の意見と他者の意見とは矛盾するものではなかった。私の主張は、ユニバーサル・デザインに関する7原則のうち、第3原則と第5原則と第6原則を強調したものであった。その7原則とは、ウィキペディアによれば、(1)公平な利用、(2)利用における柔軟性、(3)単純で直感的な利用、(4)認知できる情報、(5)失敗に対する寛大さ、(6)少ない身体的な努力、(7)接近や利用のためのサイズと空間、を指すという。

 ところで、「弘法も筆の誤り」という言葉もありますね。ユニックス・ユーザーは、コマンド嫌いのマック・ユーザーに対して、「悪いユーザーは自分の道具をけなす」というらしい。

【参考資料】
R.L.ウェーバー編(橋本英典訳)『科学の散策』, 紀伊国屋書店(1981)
科学の散策
(2)Wikipedia「ユニバーサルデザイン
(3)オースティン・C・トラビス(倉骨彰訳)『マックの法則』、BNN (1994)
マックの法則―Macにはまった馬鹿なやつら

小林「情報産業論」(6)

シャノンとウィーナー

最小の情報とはふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p46)

 過日、矢野さんに声をかけていただいて、林紘一郎さんともども、名和小太郎さんのお宅にお邪魔した。その帰路、地下鉄の牛込神楽坂の駅に向かいながら、林さんがこのサイバー灯台に書かれた原稿の話になった。

ちょっと長くなるが、そのまま引用する(号外「大川出版賞を受賞して」から)。

 振り返ってみると、私は情報理論の先駆者であるシャノンとウィーナーが開拓した産業分野で、55年間も仕事をしてきたことになります。両者とも1940年代末のコンピュータの黎明期に登場した理論家ですが、シャノンの方は、情報の処理・伝送・蓄積という全過程を0 1 のビット列で捉え、「情報量」もビットで測れることを示したことで、今日の情報科学の基礎を築きました。いわば情報から「意味」を捨象して、専ら「構文」として扱うことで、ICT(Information and Communications Technology)の飛躍的発展に貢献したと言えます。

 他方ウィーナーは、通信と制御は別々のものではなく両者合わせて「制御システム」であると理解し、心の働きから生命や社会までをダイナミックに、かつ統一的に捉えることが出来る概念として「サイバネティックス」を提唱したことで知られています。これは、シャノンが捨象した「意味」の方を、より重視した発想であるとも言えますが、当時のコンピュータでそのような高度な判断を実行することはできなかったので、忘れられた存在のように理解されているかもしれません。

 しかし、1948年の『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』の第2版の邦訳(1962年、岩波書店)が、文庫化されるに際して、初版の4名の共訳者のうち唯一存命中の戸田巌氏は、「ウィーナーの提唱したサイバネティックスは、通信と制御の観点から機械、生体、社会を統一して扱おうという学問分野である。この50年で、数学、工学の観点からのサイバネティックスの評価は確立したといってもよい。社会学的および生理学的にどう位置付けるかが問題である。」(文庫版あとがき)と述べています。

 そして、戸田氏の要請を受けて [解説] を書いた社会学者の大沢真幸氏が、「本書の書名そのものが新しい学問分野を創成し、自然科学分野のみならず、社会科学の分野にも多大な影響を与えた。現在でも、人工知能や認知科学、カオスや自己組織化といった非線形現象一般を解析する研究の方法論の基礎となっている」と評しているのは、私にとって励みになりました。

 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。

引用してみて、しまったと思った。ぼくが、今回書こうと思っていたことが、過不足なく見事に書かれている。まあ、だからこそ、路上での会話にもなったのだろう。

この会話は、それぞれが乗る電車が逆方向だったために中断を余儀なくされたが、ぼくが林さんとお話ししたかった主眼は、まさに、この最後のパラグラフに関わることだった。

一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

梅棹の情報産業論が、今でも、情報と社会の関係を考える上で古典中の古典であり続ける所以も、また、この点にこそある。

冒頭に引いたとおり、梅棹は、シャノンが規定したビットの概念を、正確に理解している。その上で、テレビ・ドラマを例に挙げて、その情報量が何ビットであるかという議論がまるで意味をなさないことを指摘している。林さんの言を俟つまでもなく、ビットの概念からは捨象された「意味」にこそ、価値の軽重が論じられなければならない。しかし、そのような「意味の価値」は、人により、時と場合により、さまざまに変化する。

「お代はみてのおかえり」(p48)

梅棹は、この言葉を情報産業のインチキ性を示すものとして、捉えていると読める。

しかし、ぼくには、ここでのこの言葉の含意は、ずっと広く深いもののように思われる。

梅棹と同世代の社会学者吉田民人に、『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社)というこれまた古典的名著がある。副題に「エヴォルーショニストのウィーナー的自然観」とあるのも、また因縁めいたものを感じるが、この中で、吉田は、情報を、flowとstock、factとevaluative、instructiveという都合6つのメトリックス(例によって吉田の本が手元に見当たらないので、名称はぼくの言い換えになっている)で分類している。

たしかに、梅棹が論じる情報の中には、一方で、競馬の勝馬予想や株のインサイダー情報のように、一度聞いてしまえば、対価を支払うのをためらってしまう情報や、「立ち読みお断り」のマンガや週刊誌のように、まさに立ち読みしてしまえば、用が足りてしまう情報もあれば、文学や哲学の古典、名作映画、音楽の名演奏など、滋味豊かで幾度となく再受容される情報もある。おっと、急いで補足しておくが、マンガや週刊誌の記事の中にも、後々まで古典として読み継がれていくものがあることも、忘れてはならない。

「お代は見てのおかえり」でなくとも、たとえその情報受容体験が一過性のものであっても、その体験に深い感銘が伴えば、その感銘を投げ銭のような形に変えて表すことも考えられる。「お代は見てのお帰り」という言葉には、その情報受容体験が、客すなわち情報受容者にとってインチキと思えるものではなく、充分以上に満足感を与えるものである、という情報提供者側の自負が込められているとともに、情報の価値がその受容者によってさまざまに変容しうるものであるという含意もある。

近来、オープンソースのソフトウェアの一部に、ドネイションウェアと呼ばれるものが散見されるようになっているが、このような情報受容者ごとによる情報価値の多様性を認めた上で、情報受容体験による満足感をドネイションという形で表す方策は、もっと考えられてもいいように思われる。

吉田民人の分類を援用した上で、「お代は見てのおかえり」的情報のあり方について、再考することも必要なのではないか。