小林「情報産業論」(6)

シャノンとウィーナー

最小の情報とはふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p46)

 過日、矢野さんに声をかけていただいて、林紘一郎さんともども、名和小太郎さんのお宅にお邪魔した。その帰路、地下鉄の牛込神楽坂の駅に向かいながら、林さんがこのサイバー灯台に書かれた原稿の話になった。

ちょっと長くなるが、そのまま引用する(号外「大川出版賞を受賞して」から)。

 振り返ってみると、私は情報理論の先駆者であるシャノンとウィーナーが開拓した産業分野で、55年間も仕事をしてきたことになります。両者とも1940年代末のコンピュータの黎明期に登場した理論家ですが、シャノンの方は、情報の処理・伝送・蓄積という全過程を0 1 のビット列で捉え、「情報量」もビットで測れることを示したことで、今日の情報科学の基礎を築きました。いわば情報から「意味」を捨象して、専ら「構文」として扱うことで、ICT(Information and Communications Technology)の飛躍的発展に貢献したと言えます。

 他方ウィーナーは、通信と制御は別々のものではなく両者合わせて「制御システム」であると理解し、心の働きから生命や社会までをダイナミックに、かつ統一的に捉えることが出来る概念として「サイバネティックス」を提唱したことで知られています。これは、シャノンが捨象した「意味」の方を、より重視した発想であるとも言えますが、当時のコンピュータでそのような高度な判断を実行することはできなかったので、忘れられた存在のように理解されているかもしれません。

 しかし、1948年の『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』の第2版の邦訳(1962年、岩波書店)が、文庫化されるに際して、初版の4名の共訳者のうち唯一存命中の戸田巌氏は、「ウィーナーの提唱したサイバネティックスは、通信と制御の観点から機械、生体、社会を統一して扱おうという学問分野である。この50年で、数学、工学の観点からのサイバネティックスの評価は確立したといってもよい。社会学的および生理学的にどう位置付けるかが問題である。」(文庫版あとがき)と述べています。

 そして、戸田氏の要請を受けて [解説] を書いた社会学者の大沢真幸氏が、「本書の書名そのものが新しい学問分野を創成し、自然科学分野のみならず、社会科学の分野にも多大な影響を与えた。現在でも、人工知能や認知科学、カオスや自己組織化といった非線形現象一般を解析する研究の方法論の基礎となっている」と評しているのは、私にとって励みになりました。

 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。

引用してみて、しまったと思った。ぼくが、今回書こうと思っていたことが、過不足なく見事に書かれている。まあ、だからこそ、路上での会話にもなったのだろう。

この会話は、それぞれが乗る電車が逆方向だったために中断を余儀なくされたが、ぼくが林さんとお話ししたかった主眼は、まさに、この最後のパラグラフに関わることだった。

一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

梅棹の情報産業論が、今でも、情報と社会の関係を考える上で古典中の古典であり続ける所以も、また、この点にこそある。

冒頭に引いたとおり、梅棹は、シャノンが規定したビットの概念を、正確に理解している。その上で、テレビ・ドラマを例に挙げて、その情報量が何ビットであるかという議論がまるで意味をなさないことを指摘している。林さんの言を俟つまでもなく、ビットの概念からは捨象された「意味」にこそ、価値の軽重が論じられなければならない。しかし、そのような「意味の価値」は、人により、時と場合により、さまざまに変化する。

「お代はみてのおかえり」(p48)

梅棹は、この言葉を情報産業のインチキ性を示すものとして、捉えていると読める。

しかし、ぼくには、ここでのこの言葉の含意は、ずっと広く深いもののように思われる。

梅棹と同世代の社会学者吉田民人に、『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社)というこれまた古典的名著がある。副題に「エヴォルーショニストのウィーナー的自然観」とあるのも、また因縁めいたものを感じるが、この中で、吉田は、情報を、flowとstock、factとevaluative、instructiveという都合6つのメトリックス(例によって吉田の本が手元に見当たらないので、名称はぼくの言い換えになっている)で分類している。

たしかに、梅棹が論じる情報の中には、一方で、競馬の勝馬予想や株のインサイダー情報のように、一度聞いてしまえば、対価を支払うのをためらってしまう情報や、「立ち読みお断り」のマンガや週刊誌のように、まさに立ち読みしてしまえば、用が足りてしまう情報もあれば、文学や哲学の古典、名作映画、音楽の名演奏など、滋味豊かで幾度となく再受容される情報もある。おっと、急いで補足しておくが、マンガや週刊誌の記事の中にも、後々まで古典として読み継がれていくものがあることも、忘れてはならない。

「お代は見てのおかえり」でなくとも、たとえその情報受容体験が一過性のものであっても、その体験に深い感銘が伴えば、その感銘を投げ銭のような形に変えて表すことも考えられる。「お代は見てのお帰り」という言葉には、その情報受容体験が、客すなわち情報受容者にとってインチキと思えるものではなく、充分以上に満足感を与えるものである、という情報提供者側の自負が込められているとともに、情報の価値がその受容者によってさまざまに変容しうるものであるという含意もある。

近来、オープンソースのソフトウェアの一部に、ドネイションウェアと呼ばれるものが散見されるようになっているが、このような情報受容者ごとによる情報価値の多様性を認めた上で、情報受容体験による満足感をドネイションという形で表す方策は、もっと考えられてもいいように思われる。

吉田民人の分類を援用した上で、「お代は見てのおかえり」的情報のあり方について、再考することも必要なのではないか。

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