林「情報法」(31)

有価証券報告書の虚偽記載は「微罪」か?

 『情報法のリーガル・マインド』をお読みいただいた方でも、第3章(全体の約4分の1)が「品質の表示と責任」に当てられていることに、気づいておられないかも知れません。しかし、「情報による品質保証の可能性と限界」というサブ・タイトルで示したように、私の中でこのテーマは「情報法が身近な現象として現れる典型例」という位置づけだったのです。ですから、日産のゴーン前会長の不祥事が発覚したとき、「いやはや、私の予言が悪い方に的中した」という複雑な気持ちになりました。事件は未だ決着していませんが、起訴という区切りを迎えましたので、今回から数回にわたって、「情報による品質保証」の問題を考えていきましょう。

・日産・ゴーン事件の概要

 2018年11月19日に東京地検特捜部が、日産のゴーン前会長とケリー前代表取締役を羽田空港で電撃逮捕して以来世間を騒がせてきた事件は、本年1月11日に地検が両者と日産を(追)起訴したことで1つの区切りを迎えました。

 逮捕当初、日産の西川社長が記者会見で明らかにしたゴーン容疑者の不正行為は、① 役員報酬の有価証券報告書への過少(虚偽)記載(金融商品取引法違反)、② 私的な投資資金を損失回避のため日産に付け替え、後刻協力者に日産から支払いをするなどの不正支出(会社法上の特別背任)、③ それ以外の経費の不正支出、の3種でした。

今回は、このうち ① についてゴーン・ケリー・日産の三者が、② についてゴーン被告が起訴されましたが、これで全容が明らかになったと考える人はいないでしょう。ゴーン被告は ① について「退職後に受け取る役員報酬の話はしていたが、金額は確定していない」と主張していますし、特に ② については「会社に実損を与えていない」と強く反発していますので、裁判結果については専門家の見方も割れているようです。

しかし、有価証券報告書に記載された役員報酬以外にも、日産・三菱・ルノーの三社連合で作ったオランダの統括会社が、さらに日産・三菱BV(オランダ法による非公開型の有限責任会社)とルノー・日産BVという二社を介して、ゴーン被告のみならずルノーの副社長にも不透明な報酬を支払ったという疑いが登場するなど、謎が深まっています。国際社会が注視する中で、わが国捜査当局の実力と(日本型の)プロセスの妥当性が試される案件ですから、検察の威信がかかっているといえます。

・法的根拠と論点の絞り込み

 上記の2つの嫌疑について、根拠となる法律の条文を掲げましょう。まず、有価証券報告書や四半期報告書について、「重要な事項につき虚偽の記載のあるもの」を提出した者に対しては、次のような金融商品取引法の中でも特に重たい刑事罰が科されています。(金融商品取引法 197 条1項一号、197 条の2六号)。以下、四半期報告書は省略し、年次報告書についてのみ記載します。

(有価証券報告書の虚偽記載)
10 年以下の懲役若しくは 1,000 万円以下の罰金に処し、又はこれらを併科する。
 更に、法人等の代表者・代理人・使用人などが、その法人等の業務・財産に関し、違反行為を行なった場合は、その違反者(個人)だけではなく、法人等に対しても次のような罰則が科されることとなります(金融商品取引法 207 条、両罰規定)。
(有価証券報告書の虚偽記載)7億円以下の罰金     
 なお、刑事罰のほかにも、内閣総理大臣(実際には金融庁長官に委任)による課徴金納付命令が下される場合もあります。具体的には、発行者が、「重要な事項につき虚偽の記載があり、又は記載すべき重要な事項の記載が欠けている」有価証券報告書等を提出した場合、次の金額の課徴金を国庫に納付することが命じられることとなります(金融商品取引法 172 条の4)。① 600 万円、または ② 発行する株券等の市場価額の総額×10 万分の6(0.006%)のうち、大きい金額

  一方、会社法960条の特別背任の罪は、以下のように定められています。これは刑法247条の背任罪(5年以下の懲役か50万円以下の罰金)の特別規定で、行為者が一定の責任ある地位にある場合を重く処罰するというものです。

1.次に掲げる者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は株式会社に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、当該株式会社に財産上の損害を加えたときは、10年以下の懲役若しくは1,000万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
    三 取締役、会計参与、監査役又は執行役 (他の号は省略)
2.(省略) 

 この事件には、多くの法的論点が含まれており、それを逐一検討できる段階ではありませんし、また本連載の趣旨を超えます。ここでは a) 嫌疑 ① については、確かに不正な行為には違いないが金銭を横領した訳ではなく、事実を曲げて記載しただけなので「微罪」に過ぎないのではないか、b) それぞれの国には倫理観の違いがあり、それが刑事制度に反映されている点は認めるが、「自白しなければ保釈されない」などの日本的慣行は、国際感覚から著しく逸脱しているのではないか、の2点だけを取り上げましょう。特別背任などが今後の裁判を待たねばならないのに対して、a) は本連載の主たるテーマであり、b) は国際関係の面で無視できないからです。

・「嘘つきは泥棒の始まり」

 最初の逮捕容疑であった有価証券報告書の虚偽記載(前述の ①、あるいは論点a))に関しては、「そんな微罪で世界的なビジネスマンを逮捕するのか」とか「日産社内の権力争いに巻き込まれた」などといった、ゴーン擁護の発言が多く聞かれました。しかしその後、ゴーン被告やその周辺の、日本人的感覚では理解しがたい「金銭への執着」が明らかになるにつれて、そのような擁護論は薄れていったように思われます。

 しかし、この点は議論が沈静化すれば済むような単純なものではなく、情報法の基本ともいうべき大切なものです。なぜなら、有価証券報告書は投資家(株主や債権者)に会社の真の姿を知らせる公式の報告書類ですから、その表記に誤りがあれば投資決定に直接影響するので、厳格な「真実性」を担保しなければならないからです。

 しかも、投資家がprincipal で経営者がagentだという見方(agent理論)によれば、principalは agent に対して圧倒的に情報量が少ないので(情報の非対称性)、これを是正するために十分な情報の入手機会を保証する必要があります。近年のcorporate governanceの動きの中で経営者の報酬の決め方や、その絶対額についても、従来にはない規制が導入されたのは、それなりの理由があるのです。その象徴的な例が、2010年3月期以降、年間1億円以上の報酬を受け取る役員の「氏名」と「報酬額」を開示しなくてはならなくなったことです。

 しかも前節で紹介したように、有価証券報告書の虚偽記載の罪は、「10 年以下の懲役若しくは 1,000 万円以下の罰金又はこれらの併科」「法人に対する両罰規定付き」という重いものです。10年以下の懲役は、「特定秘密の漏示」や「営業秘密の漏示」と同じ長期ですから、「手続き違反」「微罪」などといって済ませる訳にはいきません。

 なぜ、そのような厳罰が用意されているのでしょうか? 刑法の議論では出てこないかもしれませんが、情報法的に見れば、「嘘つきは泥棒の始まり」という古い格言が核心を突いているように思えます。そして現に、ゴーン事件の発覚に先行して日産では、2017年10月の無資格検査に始まる一連の品質検査の偽装が、問題になったことを思い出してください。経営者が腐れば部下も腐るのが通例で、会社としての日産の品質検査の偽装が、本件の虚偽記載と無縁であるとは言い切れないと思います。

 なお、燃費不正事件の関連で、消費者庁が日産に(三菱自動車から供給された軽自動車を日産が販売した際、燃費効率について有料誤認をさせたとして)科していた課徴金を取り消すこととしたのは、情報に関する措置が、その証拠となる情報の信頼性に依存していることを(当然のことながら)示すもので、情報法の難しさにつながる側面があることもまた、忘れてはならないでしょう。

・周回遅れの日本型システムの優位性

 論点b) についての私の立場は、積極的賛成と根本的に反対の両極端の指摘を含んでいます。積極的賛成は、「人質司法」と非難される「自白しないと釈放されない」という慣行は、人権重視の視点から全く是認されないものだから、直ちに改めてほしいという点です。これは、「身近な人が人質にされたことがある」という、個人的な経験を反映した側面があるかもしれませんが、おそらく大方の賛同が得られるでしょう。

 これに対して、「経営者は国際的な人材市場でスカウトされるものだから、ゴーン被告に年俸ウン十億円の値が付くのは当たり前で、それを受容できない日本は国際的に遅れている。今回の事件の背景には、こうした遅れた日本的慣行がある」という指摘には、全面的に反対です。

 私も小さいながら米国会社の社長も経験したので、欧米の経営者がどれほど稼ぎ、どれほど自己研鑽に励んでいるかは承知しています。彼らが何億稼ごうが、私の知ったことではありません。これに対して日本は、「社会主義国ではないか」と揶揄されるほど、経営者と一般社員の賃金格差が少ない国でした。グローバル化の波に乗って、この格差が欧米並みに近づきつつありますが、それは無条件に良いことでしょうか?

 ゴーン被告は、こうした事情を熟知し「こんな高給をもらったら、日本の社員や世論が納得しないだろう」と懸念したからこそ、姑息な迂回作戦を考えたのではないでしょうか? 「郷に入れば郷に従え」ですし、周回遅れの日本型システムは、グローバル化の行き過ぎが目立ち始める中で、見直されているのではないでしょうか? 私個人は、ハイパー・グローバル化への反動として、遅れたはずの日本型システムが、逆に優位性を発揮するのではないか、と考えています。

 

 

 

名和「後期高齢者」(24)

【悼辞】吉岡斉に

 この1月14日は吉岡斉の1周忌になります。昨年の9月末に「偲ぶ会」がありました。私は自身の体調不良のために参加できませんでしたが、下記の悼辞を寄せました。

 吉岡斉の名前を私が知ったのは1981年です。『朝日ジャーナル』の特集号「新コンピュータ・ショック」で、吉岡さんは総論を、私は各論を書いたのです。このときに吉岡さんは28歳、私は50歳でした。こんなに年齢差があるのに、その後、かれは私との対話を楽しんでくれたようです。もちろん私もかれとの対話を楽しみました。

 二人は公的、私的の研究会や科学ジャーナルの特集号で、繰り返し、互いの意見を交換するようになりました。かれは体制外の研究者であり、私は体制内の実務家であり、互いの立場は異なっておりましたが、デュアル・ユース・テクノロジー(民生・軍事のどちらにも利用できる先端技術―編集部注)には意見を同じくしておりました。

 その総決算が2015年にみすず書房から刊行した対話篇です。その本のタイトル『技術システムの神話と現実』は、吉岡さんの選んだものです。ボードリヤールの名著にあやかった、とかれは言っていました。

 この対話のために、吉岡さんはゴミ屋敷のような拙宅まで、数回、足を運んでくれました。超多忙なかれが退役ボケ老人の健康を慮ってくれたのです。私が重力場のなかで、思うように自分の身体を動かせなくなったためです。

 思いがけないメールを吉岡さんからもらったのは、2017年9月のことでした。そのメールは、自分の病状を俯瞰的に冷静に語るものでした。それは「復活の見通しは定かではありませんが、少なくとも数カ月は静養して、回復につとめたいと思っています」という言葉で結ばれていました。

 吉岡さんは、悠々自適の境地に達したときに、世間話の相手としての席を私に用意してくれていたと思うのですが、超多忙のなかに倒れてしまいました。年齢は私のほうが上であるのに。

吉岡斉・名和小太郎『技術システムの神話と現実 原子力から情報技術まで』みすず書房 (2015)
技術システムの神話と現実――原子力から情報技術まで

林「情報法」(30)

データ削除やポータビリティを世界戦略として見る

 前回紹介したデータ削除やポータビリティといった仕組みを、世界戦略の面から再点検してみましょう。EU域内では、GAFAと総称される米国企業群が寡占を享受していますが、これらの企業がEU国民の利用者情報を自由に利用していることに、EU諸国がプライバシーと産業政策の両面で懸念や苛立ちを感じていることは、ほぼ間違いないでしょう。自己情報の開示や訂正だけではなくポータビリティまで認めるのは、「何としてもアメリカの情報支配から脱したい」という気持ちの表れと考えられます。しかし、そのような図式に中国を加えると、全く違った風景が見えてきます。この3極構造に、わが国はどう対応すべきでしょうか。

・アメリカにおける「第三者法理」

 Facebook、Amazon、Apple、Netflix、GoogleなどGAFAやFAANGと総称されるOTT(Over-The-Top。通信ネットワークなどのインフラを所与として、その上にプラットフォーム的なサービスを展開する)企業群は、第一義的には企業設立の基礎である米国法の下で、グローバルにビジネスを展開しています。

 アメリカ企業は、「市場は自由であるべき」「コンピュータ関連産業は(IBMや旧AT&Tに対する独占問題を除き)一度も政府規制に服したことがなく、それ故に成長できた」と信じて疑いません。そのため「情報の自由な流通」を最大限尊重し、利用者が自ら進んでOTTに提供したデータは、「プライバシーの合理的期待」の枠外にあると考えてきました。これを「第三者法理」(Third Part Doctrine)と言いますが、この概念の発展には、不思議なことに第24回で紹介したKatz判決が寄与しています。

 Katz判決は、憲法補正4条の「不合理な捜査・押収」は「物理的な侵入」が対象だという理解を超えて、「通信の秘密」のような無体のものの場合にはreasonable expectation of privacyが保護対象になるという新しい解釈を打ち出したことで、画期的と評価されています。ところが、その同じ判決が「個人がサービス提供者などの第三者に任意に提供したデータには、プライバシーの合理的期待は及ばない」という制約を付したのです。

「第三者法理」はKatz判決(1967年)より前に、「おとり捜査」で犯人が告白した情報が証拠能力を有するかという議論から派生し、いずれも最高裁の判決であるOn Lee事件(1952年)、Lopez事件(1963年)、Lewis事件(1966年)、Hoffa事件(同年)などで、補正4条の保護は及ばないから、証拠として採用し得るとされてきました。そしてKatz事件から4年後のWhite事件の最高裁判決(1971年)で、改めて「① 自己に関する情報を他人とシェアしようとする者は当該情報にプライバシーを期待しえない、② 同人は当該情報が政府に手交されるリスクを負うべきである」と定式化されました。

 個人の権利、とりわけ「言論の自由」にうるさい米国で、このような法理があるのは不思議に思われるかもしれません。しかし「合意」を重視する契約法の理念(口約束では証拠力が弱いので文書化するのが一般的、給付と反対給付のバランスであるconsiderationが重視される)や、homo economicsを前提にした経済学(誰もが合理的な意思決定ができると想定されているので、契約の拘束力が強い)など、アメリカ的な価値観に貫かれたもの、つまり「純粋資本主義」の発想であると理解すれば、納得がいくでしょう。

 あるいは、著作権に人格権的要素を入れず、専ら経済関係として処理しようとする伝統と、整合的だという理解も成り立ちます。米国は1989年にベルヌ条約に加盟したので、もはや「わが国には著作者人格権はない」と主張することはできませんが、実際は映像作品などに関して著作権ではなく商標法や不正競争防止法等で守られることも多く、これらの諸法はすべて「無体財産権である」と割り切っているようにも見えます。

 こうした考えを個人データに拡大して、第三者法理を当然のこととする米国籍のOTTは、サービス開始時に提供を受けた利用者の属性データはもちろん、日々の取引から発生する膨大なデータもマーケティングに活用し、市場を席巻しています。いち早くデジタル化の利点を理解し、「データ中心の経済」(Data Centric Economy)の時代が来ると読んだ先見性は見事ですが、その陰に「第三者法理」が有効に作用してきたことも、また事実かと思います。

・人権重視のEUのアプローチ

 このように市場原理を中心に形成された米国型に対して、EUは度重なる域内諸国間の抗争、特にナチズムの悲惨な経験を繰り返さないことを主眼に構築された、地域的集団安全保障システムです。ですから、ユダヤ人が大量殺害された過去を持つドイツでは国勢調査が憲法違反とされ、他の加盟国でも人種差別につながりかねないプライバシーの侵害には敏感です。経済システムとしては、米国と同じ資本主義でありながら、「修正資本主義」か「第3の道」を歩んでおり、政府が特定の企業を支援したり介入したりするのは「例外だがあり得る」ことと捉えています。

 日産のゴーン事件(これについては、次回以降取り上げる予定です)で、ルノーの最大の出資者がフランス政府だったことに驚いた方もあったと思いますが、EUの主要国は何らかの形で産業の国有化を経験しています。つまり、現代の常識では「資本主義」と「社会主義」は対立項と捉えるのが普通ですが、第2次大戦後の一時期は、アメリカ以外の資本主義国がほとんど「第3の道」を選ぼうとしていたことも事実なのです。

 このようにEU型は経済の分野では柔軟ですが、その反面でフランス革命以来の伝統を継承し、基本的人権を最大限に尊重しているように見えます。アメリカ型も人権を重視する点でhuman rights に無関心ではありませんが、EUがfundamental rightsとして条約化し、強調する姿勢には同調していません。つまり人権の尊重にも、他の法益との比較衡量が働くと考えています。

 とりわけ米国は、事案が国家安全保障に関する限り、軍事力と経済力を総動員して、国際関係を自国優位に導こうとする意欲と能力が強い国です。サイバーセキュリティの分野でも、オバマ大統領の時代にこの方針が明確化され、2015年秋のオバマ=習近平会談で「国家は民間企業へのサイバー攻撃を実施せず・支援せず」を約束させました。

・中国のサイバー戦略

 こうした西欧の「情報の自由な流通」を第一義とする政策に対して、中国はインターネットによるグローバル経済よりも国家主権が優越するとして、折角のグローバル・ネットワークを国境で分断し「自国内最適化」を目指してきました。具体的には、反スパイ法(2014 年)、国家安全法(2015 年)、反テロリズム法(2015年)、国外 NGO 国内活動管理法(2016 年)、サイバーセキュリティ法(2016 年)、国家情報法(2017年)など、立て続きに関連法を制定し、国家による情報管理を強めてきました。

 これは一面では、国際社会での地位が高まるにつれて、政府の活動に法的根拠を与えようとする動きとして、歓迎すべきことかもしれません。事実、法律の条文に書いてあることだけを見れば、「アメリカもやっていることだけ」という中国側の弁明も成り立ち得ます。アメリカは民主主義国家のチャンピオンを自認しながら、スノーデン事件のような事態が起きたわけですから。

 しかし、国民の投票で選ばれた組織が決定することよりも、共産党の決定が上位にあるという政治体制が、世界で受け入れられる余地はありません。現にインターネットの世界で起きていることは、国内と国際通信を遮断する国家ファイヤウォールを設け、外国製品にはソース・コードの開示を求め、data localization(国民のデータを国外に置かない)を求め、やがてはほぼすべてのハードとソフトを内製することで、セキュリティ・リスクを極小化しようとしており、一種の「インターネット鎖国」です。

 ここで、セキュリティ・リスクを極小化する狙いは、国民の安全と安心を確保することではなく、共産党支配を強化することですから、Orwellの『1984年』が35年遅れで実現しつつあるかのようです。しかもヒトラーやスターリンの時代と違って情報技術は驚くべき進歩を遂げていますから、北京の公道を歩く人々のデータと顔認証システムを結びつけて、個人の「お行儀の良さ」を「格付け」するのではないかと懸念されています。

・わが国の進むべき道

 こうした動きに対して、西欧先進国は一体となって方向転換を促す必要があります。トランプ政権は、他の分野では「オバマ否定」を貫いていますが、さすがに国益に直結するサイバーの分野では前政権の仕組みを踏襲し、その上に貿易交渉まで動員した「対中対決姿勢」を明確にしています。ファーウェイやZTEの製品にバック・ドアが仕組まれているとか、大量の知的財産などの窃取に使われたなどの批判の末、イラン制裁に反する行動があったとしてファーウェイ社副会長兼CFOの孟晩舟氏の逮捕状を用意し、同氏がカナダで逮捕される事態になっています(現時点では、アメリカへの送還は未決)。同時に、同盟国に対して、同社製品を使わないよう協力要請をしています。

 わが国としては、「情報の自由な流通」という西欧が普遍的と考える価値を共有しない国家とは一線を画すしかないので、アメリカの要請に応えるべきでしょう。人権アプローチを採るEU諸国も、この点に関する限り異論はないと思いますが、EUに追随して個人の権利を強調しすぎる(わが国におけるGDPR=General Data Protection Regulation盲信には、この危険があります)と、ナショナル・セキュリティから目をそらす恐れがあることにも注意が必要です。

新サイバー閑話(7)

ユーチューバーの死

 正月5日の東京新聞社会面に「『アバンティーズ』エイジさん事故死 人気ユーチューバー」という1段の記事(顔写真付き)が出ていた。アバンティーズというのは動画投稿サイト、ユーチューブで活動する4人組みグループで、リーダー格のエイジさん(本名非公表、22)が、サイパンで高波にさらわれたのだという。新年早々の悲しい事故に哀悼の意を表しつつ、1ユーチューバーの死が新聞で報じられる時代になったのだという感慨も持った。

 記事によれば、中学時代から動画投稿サイト、ユーチューブに動画を投稿していた埼玉県出身の若者4人が2011年にグループとして活動を始め、いろんな試みに挑戦したり、どっきり企画、実験ものなどの動画を作成して投稿、人気を博しているのだという。

 昨今の子どもたちの何人かが、将来なりたい職業としてユーチューバーを上げるという話は、数年前から聞いていた。自分たちで動画を作成、ユーチューブにアップしてお金を稼げれば、それはそれで立派な職業である。歌手、ジャスティン・ビーバーも、もとはと言えばユーチューバーだった。最近では、<いまIT社会で>でもとりあげたピコ太郎の例がある。

・1再生=0.1円

 ユーチューバーはどのくらいの収入を得られるのだろうか。事情通が書いたウエブの記事によると、投稿した動画の再生回数が1万回に達し、企画審査にパスすると、広告が掲載されるようになる。動画内やサイドバーなどに掲載された広告がユーザーによってクリックされると収益が発生し、8000円以上になると、金額が指定口座に振り込まれるのだという。

 広告料は広告の種類にもよるが、クリックした人が実際に賞品やサービスを購入すれば、当然広告料も高くなる。一つの目安として1再生=0.1円というのがあるらしい。あなたが投稿した動画が1万回再生されれば1000円という計算である。動画の再生回数を見ると、何万回、何千万回というのがけっこうあるから、塵も積もれば山となる。ピコ太郎の記事では、ある時点での再生回数を9467万回と紹介している。彼の場合は、あっという間に人気者となり、テレビ出演や関連グッズ販売などの収入も大きかったはずだが、制作費10万円以下の動画で、広告収入だけで約1憶円稼いだわけである。

 人気ユーチューバーになると、月2000万円以上稼いでいるらしい。年収なら1億円以上(実際はもっと多いとか)になる。こうして動画サイトのユーチューブには、世界から興味深い、さまざまな動画が自然に集まってくる。ユーザーに「チャンネル登録」を求めているものも多い。登録数は直接収入に結びつかないが、登録者数が多ければ、企業案件と呼ばれる動画宣伝を依頼されやすくなるようだ。

 紙の週刊誌は軒並み部数減に悩まされ、かつてヘアヌードで読者獲得を競っていた『週刊ポスト』や『週刊現代』は、いまや健康法、病気予防など高齢者向けの記事にシフトしている。他の週刊誌も同じだが、むしろウエブ発信を精力的に行い、そこでの広告収入を合算してしのいでいる現状だという。

 こう考えると、〝負の遺産〟とも言うべき、紙のメディアを持たず、最初からウエブだけで勝負する方がはるかに有利とも言える。個人、あるいは数人のグループで、しかも安いコストで制作できる。しかし問題は、新しい投稿サイトの内容と従来の新聞、週刊誌の記事の質の違いである。これも程度の差と言えばそれまでだが、大きな傾向としては、社会的関心に基づいたジャーナリズム性は薄れ、日常の些事に焦点を当てた興味本位なものが増えてくる。第1回で取り上げた「小説投稿サイト」と文芸誌の違いにも共通する問題である。

名和「後期高齢者」(23) 年賀状

 今年も年賀状を頂戴した。私のような老いぼれにも関心をもってくださる方がたがおいでになりということだろう。かたじけない話である。今年いただいた数は229通。これが多いのか少ないのか私には不明だが、定年退職後やがて30年、年々単調減少はあるものの、私としては、よくぞ、まあ、とお礼をもうしあげたい。

 退役前は、1か年の無沙汰がハガキ1枚でチャラになるので、これを使わない手はない、などと不遜なことを考えていたが、80歳を越えると、さすがに賀状書きはシンドイ。年々、これで最後というご挨拶をいただくことが少なくないが、そのお気持ちは私にも身に染みて分かる。問題は、その辞めるときの口上だが、これが難しい。先年、ある技術者から「察して」という一語の賀状を頂戴し、これが最後となったことがあったが、これには心を打たれた。

 ところで、賀状はSNSの日常化とともに、多分、減少していることだろう。SNSに適応できないアナログ人間のみが使っているのかもしれない。賀状の愛好者は友達には挨拶をするが、友達の友達へとなると、つい、躊躇をせざるをえない。賀状の挨拶には、それぞれの個人情報が載っているから。

 いまアナログ人間といったが、それは宛名書きをみると一目瞭然。古いソフトを使っている。宛名書きはなにしろ年に1回の作業、だからソフトの更新などにコストをかけたくない。私など、古い宛名書きソフトだけを残している古いパソコンを持っている。

 ところで、賀状にはどんな情報が記載されるのか。まず、挨拶、ついで、近況報告、そして所感の吐露といったところか。挨拶には家族写真などが使われたりする。近況には、ボランテア活動への参加、旅行などポジティブなものと、病気、体調などネガティブなものがある。所感となると、ほぼ、経世の言ということになる。私はシステムが怖いので、所感は書かないことにしている。システムが怖いとは、最近、フェイスブックが示してくれた。

 と、あれこれ喋ったが、これで私の年賀状とさせていただく。自己矛盾に充ちた言説であることは、当人もよく自覚しているが、あとは「お察しください」。

新サイバー閑話(6) 謹賀新年

 あけましておめでとうございます。

 おとそ気分とはうらはらに、今年の年賀状にこう書きました。ちょっと無粋だったかな。

 いやな渡世だなあ――思わず座頭市のセリフが出てくる今日この頃です。いつのまにか、政権の思惑通りの発言や行動をすることが「中立」であり、政権に苦言を呈するような言動はすべて「政治的で偏っている」と封殺されがちです。政権批判の言動をチェックし、それにいちいち抗議するような網の目が全国津々浦々に張り巡らされ、どんどん強まっているようにも思われます。
 そういう流れに抵抗する声はあるにはあるが、どこか使い古された電池のようで、「明かりはつくが電圧は弱い」。高齢が身に沁みます。

 自ら保守主義者を名乗る中島岳志の『保守と大東亜戦争』は、現在の保守の体たらくに業を煮やして書いたものではないだろうか。彼によれば、竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、河合栄次郎、福田恒存、山本七平、会田雄次、林健太郎のような保守主義者こそ大東亜戦争に真底反対し、当時の軍部独裁、超国家主義体制に強い抵抗を示したのであり、彼らはそれ故にこそ、まるで裏を返したような、戦後の迎合的、根無し草的民主主義的風潮にも抵抗したのだと。

 たしかに現下の問題の一端は、まっとうな保守勢力の不在にあると言えるだろう。戦後民主主義教育の底の浅さを痛感する身としても、彼の主張はよくわかる。しかし、昨今の保守の退潮は、その拠り処となるはずの保守的心情そのものが根腐れした印象を与える。

 タレントが政権支持の発言をしても「政治的発言」とは言わないけれど、政権批判をすると「政治的発言」だと非難され、何かと話題にされる(自らは批判、非難をしないけれど、それを話題にすることが同じ役割をしていることが多い)。あるタレントによれば、そのために確実に仕事が減るのだと言う。

 昨秋、鎌倉市は護憲を訴えるデモの集合場所として申請のあった庁舎前庭の使用を「特定の政治的信条の普及を目的とする行為」であるとして認めなかった。「安倍改憲」に反対するから駄目だということらしい。同市はつい最近まではこれらの集会での使用を認めており、これぞ時代の「空気」に迎合したものではないだろうか。

 今夏には参議院議員選挙がある。その期に衆参同時選挙が行われるとの観測もあるらしい。選挙があるなら必ず投票する。一人区においては、有権者自らがその地区の有力候補2人を絞り、政党にとらわれず、よりましな(より悪くない)候補に投票するというのが小選挙区制での「投票リテラシー」である。国会における議席の数だけを武器に、反対意見を無視して法案をごり押しする政権に対抗するには、それしか方法はない。「野党は頼りない」、「選択肢がない」、「選挙に行く気がしない」、「今の政治そのものに関心がない」、などと言っている場合ではないと思われる。そういうリテラシー教育そのものが「政治的」だとして排斥されかねない現状をよく考えるべき年明けではないだろうか。

中島岳志『保守と大東亜戦争』(集英社新書、2018)
保守と大東亜戦争 (集英社新書)