新サイバー閑話(6) 謹賀新年

 あけましておめでとうございます。

 おとそ気分とはうらはらに、今年の年賀状にこう書きました。ちょっと無粋だったかな。

 いやな渡世だなあ――思わず座頭市のセリフが出てくる今日この頃です。いつのまにか、政権の思惑通りの発言や行動をすることが「中立」であり、政権に苦言を呈するような言動はすべて「政治的で偏っている」と封殺されがちです。政権批判の言動をチェックし、それにいちいち抗議するような網の目が全国津々浦々に張り巡らされ、どんどん強まっているようにも思われます。
 そういう流れに抵抗する声はあるにはあるが、どこか使い古された電池のようで、「明かりはつくが電圧は弱い」。高齢が身に沁みます。

 自ら保守主義者を名乗る中島岳志の『保守と大東亜戦争』は、現在の保守の体たらくに業を煮やして書いたものではないだろうか。彼によれば、竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、河合栄次郎、福田恒存、山本七平、会田雄次、林健太郎のような保守主義者こそ大東亜戦争に真底反対し、当時の軍部独裁、超国家主義体制に強い抵抗を示したのであり、彼らはそれ故にこそ、まるで裏を返したような、戦後の迎合的、根無し草的民主主義的風潮にも抵抗したのだと。

 たしかに現下の問題の一端は、まっとうな保守勢力の不在にあると言えるだろう。戦後民主主義教育の底の浅さを痛感する身としても、彼の主張はよくわかる。しかし、昨今の保守の退潮は、その拠り処となるはずの保守的心情そのものが根腐れした印象を与える。

 タレントが政権支持の発言をしても「政治的発言」とは言わないけれど、政権批判をすると「政治的発言」だと非難され、何かと話題にされる(自らは批判、非難をしないけれど、それを話題にすることが同じ役割をしていることが多い)。あるタレントによれば、そのために確実に仕事が減るのだと言う。

 昨秋、鎌倉市は護憲を訴えるデモの集合場所として申請のあった庁舎前庭の使用を「特定の政治的信条の普及を目的とする行為」であるとして認めなかった。「安倍改憲」に反対するから駄目だということらしい。同市はつい最近まではこれらの集会での使用を認めており、これぞ時代の「空気」に迎合したものではないだろうか。

 今夏には参議院議員選挙がある。その期に衆参同時選挙が行われるとの観測もあるらしい。選挙があるなら必ず投票する。一人区においては、有権者自らがその地区の有力候補2人を絞り、政党にとらわれず、よりましな(より悪くない)候補に投票するというのが小選挙区制での「投票リテラシー」である。国会における議席の数だけを武器に、反対意見を無視して法案をごり押しする政権に対抗するには、それしか方法はない。「野党は頼りない」、「選択肢がない」、「選挙に行く気がしない」、「今の政治そのものに関心がない」、などと言っている場合ではないと思われる。そういうリテラシー教育そのものが「政治的」だとして排斥されかねない現状をよく考えるべき年明けではないだろうか。

中島岳志『保守と大東亜戦争』(集英社新書、2018)
保守と大東亜戦争 (集英社新書)

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