「国葬強行」転じて日本再生のテコとする
B 安倍政治の8年余をふりかえれば、彼が政治的にも、経済的にも、社会的にも、日本を徹底的に破壊したことは明らかでしょう。その異常さは、彼がとりもった統一教会と自民党議員の抜き差しならぬ関係が明らかになったことで、ようやく多くの人の認識するところとなりました。反日を掲げる勢力と裏で手を組みながら、表では不必要なまでの韓国敵視政策をとり、アジアにおける日本の地位をいよいよ孤立させました。また「異次元金融緩和」を柱とするアベノミクスで見せかけの高株価を演出、実体経済をむしろ著しく損なったと言えます。もたらしたのは、政治の腐敗であり、経済の衰退であり、倫理道徳の崩壊でした。
我々が「アベノウイルス」と呼んできた腐臭芬々(ふんぷん)たる元首相およびその政権の体質が、7月8日の銃撃から9月27日の国葬に至る80日余の間に、徐々に明るみに出たことは一つの救いです。安倍政権の痛手を克服し、日本社会を改善していくという視点に立つとき、国葬の意味をきちんと総括することは不可欠です。国葬を強行した岸田政権が安倍路線の延長上で将来を考えているのは明らかだからです。
平成の30年間はひと口に「失敗の時代」だったと言われますが、それを最終段階で徹底的に推し進めたのが安倍政権だったわけで、岸田政権は国葬を強行したために国民の信を失い失墜したということにしないとダメだと思いますね。
A 安倍国葬は自民党(岸田政権)にとって「成功」と言えるのかどうか。新聞報道によれば、国内の参列者3400人は歴代首相の葬儀に比べても少なく、9番目と言います。国内6000人に招待状を出し、4割超が欠席したとも。弔問外交という点では、Gセブン現職首脳の出席はゼロ。安倍首相が「同じ夢を見ている」と仲良しぶりを吹聴したロシアのプーチン大統領はもとより、アメリカのトランプ元大統領、ドイツのメルケル元首相などは最初から出席の意向がなかったようですね(まあ、プーチンは当然だけれど)。
一般献花に2.5万人が訪れたことをもって成功と強弁する余地はあるかもしれないが、これも統一教会の動員ということかも。安倍政権の官房長官だった菅元首相の歯の浮くような弔辞は、誰が書いたのか知らないけれど、虫唾が走るもので、吐き気をもよおすというか、安倍政権の腐臭を感じさせられました。あんなものを全文、新聞に載せる必要があるのか。日本の恥さらしです。前の方しか読んでいないけれど‣‣‣。
B 国葬に反対する側としては、それを強行されたこと自体「敗北」とも言えるけれど、はたしてそうか。国葬までの間に次々に明るみに出た自民党議員と統一教会の癒着ぶり、国葬前夜の抗議行動、国葬をめぐるさまざまなシンポジウム開催、世論調査における反対の声の拡大と岸田政権の支持率低下など、少なくとも国民総意で弔意を示したと、政権側に言わせないだけの成果はあったと言えますね。
A 国葬問題でまともな国民がさすがに覚醒したのではないかとも思いますね。自民党改憲草案と統一教会の政治組織、国際勝共連合の見解が「緊急事態」や「家族条項」などでほとんど一致していることが公然と指摘されるようになったのも、馬鹿げた改憲に対する一定の歯止めになったとも言えますね。改憲するなら、もっとまともなたたき台を出してこい、ということです。憲法を時代にあわせてどう変えるのか、日本の安全保障をどう再構築するのか、それをきちんと議論する姿勢がまるでない。これは野党も含めてだけれど、国の最高法規をどう定めるのか、広い構想力が求められます。議論などどうでもいい、とにかく自衛隊という文字を憲法に入れようというような態度では憲法が泣く。インテリジェンスのかけらもない。
B いまが綱引きの正念場で、ここで手を緩めては相手の思うツボです。今後の課題として思いつくことを数点上げてみます。
①国葬は成功だったと吹聴(強弁)させない歯止めを常に指摘していく。
②山際、萩生田、下村、細田(衆院議長として一時的に党籍離脱)といった統一教会ズブズブの自民党議員に何らかの制裁を課す。個人的に言えば今回の参院選で、何の定見もないのに統一教会に支援されて東京選挙区で当選した女性タレント議員には「愚かだった私」という国民としての反省の弁がほしい。どこかの雑誌で手記をとってもらいたいですねえ。
③野田元首相が葬儀に参列することを許し、国会でも有効な反論もできなかった立憲民主党の出直し的改革。芳野友子という奇妙な女傑に牛耳られている連合とは縁を切るべきです。
A 当面の関心事は、五輪汚職捜査で検察庁がどこまで安倍政権下の膿を出し切れるかですね。注目されるのは森喜朗元首相と竹中平蔵元内閣府特命担当大臣です。金が動いていると噂されていた通り、あるいはそれ以上に五輪は金権まみれだったわけで、五輪を踏みにじられたスポーツ選手はもっと声を上げるべきです。政権に取り込まれた橋本聖子東京五輪組織委会長など情けないほどダメですね。正々堂々のスポーツマン(ウーマン)シップに反するというか。
B 安倍政権下の検察庁を覆っていた政治圧力の重しが突然外れたような捜査の進展です。逆に言うと、あれだけの威圧感を安倍元首相はなぜ持てたのか。中身は空洞なのに「大いなる暗闇」として君臨できた謎を解くカギは、本コラムで指摘した「アベノウイルス」しかないと思います。安倍政権との癒着が問題となった黒川弘務東京高検検事長、中村格警察庁長官などは姿を消していますが‣‣‣。傍若無人、何をするかわからない「金持ちのお坊ちゃん」的体質が政界、官界、経済界、さらにはメディアを金縛りにし、忖度に次ぐ忖度の輪を築かせ、それが途方もなく膨れ上がった。
A いまの検察には期待するところ大ですね!検察の正義を国民に示して欲しい。心からのエールを送りたいです。
B 今回の安倍銃撃から国葬に至る経過を、日本再生のきっかけにしなくては、日本の将来はいよいよ危うくなるでしょう。<折々メール閑話>はいつの間にか10回を超えました。最初は山本太郎とれいわ応援一色だったけれど、安倍銃撃、国葬と事態が目まぐるしく進展するにつれて、こちらも「安倍元首相銃撃事件と言論の力」、「『安倍国葬』」にみる現代日本の『明るい』闇」、「日本を深く蝕んでいた『アベノウイルス』」、「まともな人間を育てない『教育』」、「『まっとうな人間』を政治の世界に送る秋」と現代日本批判的な様相を強めてきました。というわけで、もう少し続けることにしましょう。

が51.9%で、「賛成」は25.3%です(添付のグラフは時事通信調査における支持・不支持率の推移です)。 岸田首相の国会での「丁寧な説明」もこれまでの繰り返しに過ぎず、逆効果だったようですね。

最初のころの顔ぶれには村瀬さん、おてもりさん、斎藤さん、編集部の宮脇、見沢両君、「あむ」の荒瀬君、小本さんなどの姿も見え、まさに『ASAHIパソコン』気勢会の趣で、当時の出版局次長、柴田鉄治さん、三浦君なども参加してくれている。その後はときに地元鎌倉の作家、井上ひさしさん、CGの大家、河口洋一郎君なども顔を見せた。雨の日に若い女性陣が気を利かせて持って来てくれたぬいぐるみで大いに盛り上がったこともある。明治大学の夏井高人さんも一度来て、しこたま酔っぱらって帰っていった。法政大学の白田秀彰さんが他の人とは群を抜いた伊達姿で若い女性と写っている写真も残っている。
私が『アサヒグラフ』編集部員の時で、徒歩で描き出した壮大な絵地図の作者を紹介してもらったのがきっかけだった。
りと並ぶ『ASAHIパソコン』を見せてくれたときは、ちょっと感激した。北九州から中国文学者の林田慎之介さんがやってきて、朗々たる歌声を披露してくれたこともある。林田さんとは『月刊Asahi』時代に三国志特集をするときに寄稿していただいて以来の仲だが、その縁で知り合った知泉書館の小山光夫さんも常連の花見仲間で、彼にはそ
の後、私のサイバーリテラシー3部作を出版していただくことにもなった。同書館の高野文子さんが一緒だったこともある。
コンもだんだん自分に似てくる」などとしゃれたことを言って私を喜ばせたのである。その日は偶然の再会を祝してすぐ食事に出かけ、乾杯した(写真は『アサヒグラフ』1981.4.17号)。
そんなことで昼過ぎになると、両グループはすっかり打ち解け、にぎやかな花見が始まった。梶原君は今でも「あのときほど酔っぱらったことはない」と回想している。我々は重い発動機を山に持ち上げ、レンタルのカラオケマシンで景気をつけたが、先方の飲み屋の女将が「花見にカラオケなんて無粋なものは持ち込んじゃダメ」と制止するのも聞かず、仲間から飛び入りも出て、花見は大いに盛り上がった。
たのが伊東君の長男、直基君である。若かった3人ももう50代半ばである。
好き、花見をすると言ったらさっそく、出演してくれることになった。我が家に衣装を持ち込んで身支度を整え、しゃなりしゃなりと山に登る。「よっ!桃太郎」と拍手喝采で、通行の花見客からおひねりも飛んだ。あいにく雨の日に、敏ちゃんがせっかく用意したのに、と夕方になって鶴岡八幡宮の段かずらまで繰り出したこともあった。
くれた西田雅昭さんである。彼はたしか2回目から最終回まで毎回、参加してくれたばかりか、コンピュータ仲間の黒岩潤司、久米正浩、市川剛、橘静枝、倉田彰敏、大江富夫、松島好則といったコンピュータやインターネットの猛者をどんどん誘い、それらの人びとがまた常連になって、花見グループの一大勢力を築くにいたった。みんな飲んベイかつうるさ型で、花見はいよいよ盛り上がった。『DOORS』を手伝ってもらった加藤泰子さんが顔を見せたこともある。
西田さんは現在、ライフワークとも言える『治安維持法検挙者の記録―特高に踏みにじられた人々』(小森恵著、西田義信編、文生書院)のデータベース作りに取り組んでおられる。恩師の小森恵さんが手がけた治安維持法検挙者のデータを引き継ぎ、2016年に大部の書物を刊行したが、そのデータをより完璧なものにすることにほとんど独力で取り組んでおられる。こういうことにこそ国(デジタル庁)の補助がほしいものだとつくづく思う。
た安田央、渡邊淳、新井健太郎、西岡恭史各君、やはりサイバーリテラシー研究所仲間の齊藤航君や藤岡福資郎君たちが参加するなど、メンバーも大きく移り変わったが、初期の参加者の輪はずっと続いた。ライターの吉村克己君や『月刊Asahi』で一緒だった高野博昭君は初期から参加してくれたし、朝日新聞の同期で大妻女子大学教授になった松浦康彦、『DOORS』で一緒だった鎌倉在住の角田暢夫両君も後半の常連だった。元NECの後藤富雄さんもその1人で、玄関にびっしり並んだ別人の靴を履いて帰ったこともある。

発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「
これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。
創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。
冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。
数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。
『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがない
し、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。
ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。
ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。
紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。
石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。
インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は
その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。
サ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で
、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。
このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。
私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。
ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。
『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。
創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。
目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。
ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。
ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。
アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。
「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。
MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。
またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。
1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。
『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。
とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。
ムックを出すと決まったとき、私たちがまずPC-98を取り上げようとしたのは、当時、パソコンと言えば、日本電気(NEC)のPC-98(キュウハチ)と相場が決まっていたからである。これからはパーソナル・コンピュータの時代だと、これまで大型コンピュータを作っていた日本の電機メーカーは、日本電気も富士通も東芝も日立もシャープも、そろってパソコンを出し始めたが、その中でPC-98は圧倒的シェアを誇っていた。その代表的機種がPC-9801シリーズだった。「パソコンと言えば98」の時代があったのである。
PC-9801シリーズは1983年10月に発売され、当初は29万8000円だった。メディア(記憶装置)は8インチのフロッピーディスクでハードディスクは内蔵されていなかった。85年のVMシリーズが普及機として有名で、ジャストシステムの日本語ワープロ、一太郎はこのころに出ている。86年5月に発売されたUV2からディスクドライブが5インチになった。
フト、販売会社、価格の順)、個別にソフトの本数をあげると、ワープロ16、表計算5、データベース10 、グラフィック8、通信7、エディターを初めとするユーティリティ11など、全部で約60本になる。これらのソフトを初心者、中級者、上級者、個人向け、オフィス向け、スペシャリスト向けなどのラベルとともに紹介した。
ムックの第2号は『おもいっきりネットワーキング』、ようやく盛んになりつつあったパソコン通信ガイドだった。ネットワークとして、PC-VAN(ピーシーバン)やアスキーネット、日経MIXなどを紹介している最中に、NIFTY-Serve(ニフティサーブ)が発足した。草の根ネットワークとして、地方のBBS(Bulletin Board System パソコンをホストにした小規模パソコン通信ネット)が個性的な活動を展開しつつあり、大分のC0ARA(コアラ)が話題になっていた。この号はネットワーキングの世界で精力的に活躍していた会津泉さんに協力してもらった。
他のムック、『おもいっきりワープロ』はまだ利用する人の多かったワープロ専用機のガイド、『おもいっきり電子小道具』はラップトップパソコンから電子手帳、電卓、多機能電話、時計、おもちゃにいたるまでの、まさに電子小道具全カタログである。『ワープロ』では脚本家のジェームス三木のワープロ生活を紹介したり、演出家、鴻上尚史に「はじめてのワープロ通信」に挑戦してもらったりしている。それぞれハードやソフトの徹底紹介が基本だが、それでもいろいろ読み物に工夫しているのは、いま振り返るとほほえましくもある。それらの編集作業にも尽きぬ思い出があるけれど、今回はここまで。また別の機会に紹介することもあるだろう。
多くの社外ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナーなどのおかげで、波乱万丈だったムックは5冊とも予定通り刊行できた。それは朝日新聞入社以来、私たちが一番よく働いたときだったのではないだろうか。各巻に「編集に協力してくださった主な人々」を紹介しているが、ほとんどが20代、30代である。40代はおそらく私だけだったと思う。ちなみに小田嶋君は30歳だった。みなさんにあらためて厚くお礼申し上げます。