新サイバー閑話(59)平成とITと私⑦

『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷

 1988年10月14日 (15日が土曜なので前日の金曜発売となった)、『ASAHIパソコン』創刊号(11月1日号)が発売された。この日は朝から雲一つない快晴で、ある先輩が「ついてるな。晴れてると雑誌は売れる」と言ってくれたのをよく覚えている。その予言通り、『ASAHIパソコン』は予想を上回る売れ行きで、創刊当日の夕方には増刷が決まり、数日後には3刷りをするなど、実に好調なスタートとなった。

 A4変形判、中綴じ。本文横組み、112ページ(カラー80ページ)。1日、15日発行の月2回刊。 定価340円だった。創刊号は16万3000部刷り、その日のうちに売れ切れる書店が続出した。

 特徴は、まずその薄さだった。これまでのパソコン誌はたいてい月刊で、しかも背表紙のある無線綴じ、厚いページに広告がいっぱい詰まっていた。『ASAHIパソコン』は、ページの真ん中をホッチキスで止める中綴じで、丸めれば手軽に持って歩ける軽装判、当時話題のニュース週刊誌『フォーカス』によく似た体裁にした。

 3人で雑談しているとき、三浦君がふと「月2回刊というのはどうかな」と言い、「それなら1回分の厚さを半分にできるねえ」と私、それに熊沢さんが「1日と15日の2回刊にするなら表紙のロゴを金赤と黒で色分けするのはどうか」と応じ、こうして「新しい酒を盛る新しい皮袋」ができあがった。

 表紙ロゴは、柔らか味を出すために『ASAhIパソコン』と、ASAHIのHだけを小文字にして、ASAhIを大きく、パソコンを小さく配して、その下に、ヒューマン・ネットワーキングの思いを込めて、男女が街角で立ち話をしているスナップ写真を扱った(とくにロゴを意識した場合以外、表記はこれまで通り『ASAHIパソコン』とする)。ロゴは金赤(15日号は黒)。従来のパソコン誌はコンピュータ・グラフィックスやイラストを使ったものが多く、パソコン本体や周辺機器を配するのが普通だったから、異色のパソコン雑誌と言えた。そこには、私たちがムック『ASAHIパソコン・シリーズ』を作りながら試行錯誤してきた新しいパソコン誌のあり方、大げさに言えば、哲学が具現化されていた。

 表紙写真はオリジナル写真を撮る経済的ゆとりがなかったための熊沢さん苦肉の策だった。私は『ASAHIパソコン』を通して雑誌作りにおけるアートディレクターの重要さを思い知った。ムックの『思いっきりPC-98』のグラビアでプロの女性モデルを起用するなど、彼に教えられたことは多い。折々に起用したイラストレーターもたいてい「熊さん」に紹介してもらったものである。三浦君に続いての熊沢さんの参加が『ASAHIパソコン』成功の大きな要因だった。いまその幸運を深く噛みしめている。

 彼は長年、ガンをわずらったあと2019年に他界した(<平成とITと私>①参照)。その死がこの記録の執筆を思い立たせたのだが、彼の常に笑みをたたえた物腰柔らかな姿が懐かしい。

・目玉は「村瀬康治の入門講座」

  創刊号の主な目次をならべてみよう。

特集 めいっぱいパソコン情報整理術
アプリ探検隊①「Z’sWORD JGでパンフレットを作る」  国友正彦
村瀬康治の入門講座①「ためらうことなんかありません さあ、ワープロから始めましょう
ハードディスクで世界が変わる  山田隆裕
インタビュー①ニコラス・ネグロポンテMITメディアラボ所長「コンピュータに『うーん』といえば あなたの思いを伝えてくれる」
海外リレーエッセー①グローバル・ネットワークの共有  室謙二
COMPUTER博物誌①
MPU電脳絵師養成講座①パソコンを画材に/自由な発想に期待  古川タク+岩井俊雄
ネットワーキング・フォーラム
    慈子のおしゃべりネット   高橋慈子
    九郎のネットワーキング讃  高橋九郎
PDSマインド  山田祥平
パソコン何でも相談  斎藤孝明
小田嶋隆の「路傍のIC」  小田嶋隆

 ほかに、ニュース、追跡「ついに発生、国産ウイルスの正体を追う」、ハードウエア、ソフトウエア、電子小道具、本、情報ページ、辛口時評。創刊をきっかけに片貝システム研究所の協力で電話無料相談も行い、その縁で片貝孝夫さんにコンピュータ業界全般を見渡した「辛口時評」もお願いすることになったのである。

 目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。

  当時のパソコンの主流は「16ビットMS-DOSマシン」だった。すでに述べたように、MS-DOS(エムエスドス)はマイクロソフトが開発した基本ソフトで、当時のパソコンのほとんどがMS-DOSを採用、ワープロとか表計算とかいったアプリケーション・ソフトは、この基本ソフトの上で動いていた。パソコンを動かすには最低、MS-DOSの知識が必要で、それがパソコンの垣根を高くしていたといえる。まだマウスでアイコンをクリックして操作できる時代でなく、ファイルの中味を見たいなら「DIR」、文書をコピーするなら「COPY」と、いちいちコマンドを打ち込まなくてはならなかった。

 だから、パソコン入門の筆者を、MS-DOSのガイドで定評のあった村瀬さんにお願いしたのである。創刊準備中のある日、私は三浦君をともなって村瀬さんの職場を訪ね、入門講座の執筆をお願いした。最初は「昼に仕事を持っている身であり、締め切りが定期的にやってくる雑誌への連載はしないことにしている」と丁寧に断わられたが、私たちが出そうとしている雑誌については、「これからは若者だけでなく、実際に仕事を持っている中年・実年の方々がパソコンを使うようになる時代。いま朝日新聞社がガイドブックを出すのはたいへんすばらしいことだ」と、まさに諸手を上げて賛成してくれた。

 私は話しているうちに「入門講座はこの人に頼むしかない」と強く思い込むようになり、村瀬さんも「仕事のことを考えると、月に1回ならともかく2回の原稿を書く余裕はない」というところまで軟化してくれたが、結局は確約を得られずに帰った。その後、村瀬さんから「やってみてもいい」という返事をもらったときの嬉しさは忘れられない。

 村瀬さんは、入門講座の対象読者を、パソコン初心者ではあるが、社会の一線で活躍する実務のプロと定めて、パソコンはどういう道具で、何ができるのか、パソコンを使うとはどういうことか、何をしてはいけないか、いまマシンは何を買うべきか、といったことを丁寧に、しかも村瀬さんの考えをはっきりと提示しつつ、分かりやすく説明してくれた。これも熊沢さんの紹介でおてもりのぶお(小手森信夫)さんにイラストを頼んだ。彼はこれまでパソコンに触ったこともない初心者だったが、テクニカルな話題を日常生活レベルに翻案して、美しく、大胆なタッチで、すばらしいカットを添えてくれた。この入門講座(写真は第1回の誌面)は、またたくうちに『ASAHIパソコン』の目玉企画になった。

 アプリ探検隊を率いてくれたのは国友正彦さんで、毎号、「ロータス1-2-3」のアドインソフト、「シルエット」でクリスマスカードを作る、「毛筆わーぷろ」で年賀状を書く、などさまざまなアプリケーション・ソフトを具体的用途に沿って丁寧にガイドしてくれた。それぞれハードな仕事で、これも目玉企画の一つだった。

 海外リレーエッセーを担当してくれた室謙二さんは『アサヒグラフ』時代の同僚に紹介したもらったが、会って『ASAHIパソコン』の話をした途端に、「それはすばらしい。必ず成功する。できるだけの協力をする」と言ってくれたのが忘れられない。室さんは市民運動の活動家としても知られていたが、早くからワープロやパソコンの電子道具に親しみ、すでに『室謙二 ワープロ術・キーボード文章読本』(晶文社)などの著書もあった(『メディアラボ』の訳者でもある)。米カリフォルニア州に生活の拠点をおき、日米をまたにかけて活躍する「コンピュータ・メディア界の風雲児」といった感じだった。室さんにはリレーエッセーでアメリカの最先端事情を書いていただくと同時に、編集部員たちがアメリカ取材するときの拠点として、さまざまな便宜をはかっていただいた。室さんのやわらかい文章が、パソコン誌の堅苦しさを補ってくれた面があったと思う。このリレーエッセーは西海岸から室さんに、東海岸からはMIT在籍中の服部桂君に交互で執筆してもらい、いい息抜きのコラムになったと思う。

 小さいながらも個性的だったコラムが、小田嶋隆の「路傍のIC」と山田祥平の「PDSマインド」だった。

 ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。

 ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。

 原稿取り立てはもっぱら私の仕事で、前にも書いたが、原稿を読みながら見出しをつけるのは、毎号の楽しみでもあった。当時から話はパソコンを離れがちで、それが私の意にも沿い、また魅力でもあった。筆者が描いたカットも添えられている。

 山田祥平君は、PDS(パブリックドメインソフト)という、ネットワーク上で、主として無料で提供されているソフトのあり方、その善意の文化に強い関心を示しており、毎回、広い視野のもとに、新しいPDSを紹介してくれた。ムック時代の「編集協力」者の肩書きに恥じぬ良好な出稿ぶりで、彼のパソコンに対する思い入れがすなおに受け取れる好読みものだった。

 後半のNetworking FORUMでは、パソコン通信などから拾った話題を紹介しつつ、当時すでにこの世界で有名人だった高橋慈子、高橋九郎の両高橋さんにエッセーをお願いした。本誌らしい企画として、情報ページには、小さいながら、高齢者のパソコン・ユーザーを紹介する「Silver」、パソコンが身体不自由者に福音を与える可能性を追求する「Handicap」のコーナーも設けた。中和正彦君はこのハンディキャップのコーナーを15年以上担当して、この分野における専門ライターに育った。

 創刊当時の誌面を眺めていると「あの人はああして口説いたんだ」、「彼にはずいぶん面倒をかけた」などなど思い出すことが多く筆が止まらなくなるが、とりあえずこの辺で止めておこう。

・修羅場に放り込まれた編集部員の奮闘

 雑誌と言えば、それまで週刊誌か月刊誌しかなかったところに、月2回刊という、しかもテーマがパソコンというまったく新しい雑誌が誕生したわけで、そこに有無を言わさず異動させられたというか、いきなり修羅場に放り込まれた若い部員たちの驚きは、いまになると十分想像できる。当時は忙しいばかりで、その辺への配慮が足りなかったのを申し訳なく思うほどである。

 アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。

 創刊直前の「出版局報」では、「『ASAHIパソコン』、やるっきゃないと、いざ船出」という2ページ見開きの記事が載っている。その一部を紹介しつつ、いくつか補足しておこう(写真も「出版局報」から)。

 デスク(副編集長)の三浦君は、創刊号の13ページ特集、「めいっぱいパソコン情報整理術」を何人かのフリーライターの協力のもとに精魂を込めて作り上げた。梅棹忠夫『知的生産の技術』ではないが、ここにはパソコンこそ知的生産の技術であるという私たちの思いが込められていた。彼が本誌の特集づくりの路線を敷いてくれたと言ってもいいが、そのねらいを説明しながら、「毎日、忙しい。『ラ・ボエーム』の公演は9月25日の日曜日だ」と結んでいる。オペラの大ファンで、ときどき来日するオペラ公演を見るのが数少ない息抜きだったようだ。

 宮脇君は編集部に配属になって初めてパソコンと付き合うことになったが、「パソコンは苦手、とおっしゃる方にはキーボードに対する拒否反応があると思います」、「私はキーボードにはほぼ3日で慣れました」と『入門講座』担当にふさわしい早速のパソコン伝道師ぶりで、最後は「『これから』組の方々が、次々とキーボードに取り組む姿を見ることが、われわれにとって何よりの励みになります」とすでに優秀なパソコン編集部員ぶりでもある。

 彼は部員の最年長だったが、その明るく穏やかな人柄、目配りの利く仕事ぶり、新しいことに挑戦する熱意と意欲で、あっという間に部員、と言うより部全体のまとめ役になると同時に、特集づくりにさまざまなアイデアを投入、誌面作りもリードしてくれる頼もしい存在だった。

 間島君はすでにかなりのパソコン・ユーザーだったらしい。学生時代には「制服少女図鑑」(?)とかいう雑誌だか単行本だかを出していたようで、すでに雑誌のプロでもあった。三浦君とは兄弟分のような親密さで、彼の参加もまた当編集部にとって大きな力になった。「出版局を見回すと、当編集部のほかには、いまだに2、3台しかパソコンが見られません。パソコンが1台あれば、情報収集や、データ整理などがずっと楽になります。各編集部に1台はほしいところです。信じられない方は編集部に遊びに来てください」と、こちらも仕事の忙しさはおくびにも出さない優等生ぶりである。

 工藤君は政策局から助っ人としてやってきたシステムエンジニアである。パソコンやワークステーションをそろえた編集支援システム構築に威力を発揮してくれた。「雑誌作りには携わる必要がない」と言われてきたらしいが、そのすぐれた編集マインドをたちどころに見抜いた我々が放っておくわけがなく、「PDSマインド」や「パソコン相談」の担当から特集づくりに至るまで予想を超えた仕事を押しつけられて「とにかく忙しい」、「目新しいことばかりで、無我夢中で毎日を送っている」と書いているが、「入社わずか2年目でこのような大きな仕事をさせていただき、非常にありがたいと思っています」と編集長を泣かせるようなことも書いている。

 西村さんは『ASAHIパソコン』創刊にあたって他のパソコン雑誌編集部からスカウトされ、慣れない環境にずいぶん心労もあったようだが、「Networking FORUM」担当として、「今日はPC-VAN、明日は地方のネットと、編集部を拠点として全国各地を飛び回っている」、「こうやって、通信にのめり込みながらも、『ASAHIパソコン』は10月14日創刊です』という宣伝を忘れない」と健気に書いてくれている。

 以上、スタート時の編集部員の横顔を紹介したが、誰も愚痴をこぼさず、『ASAHIパソコン』の成功と、社内への宣伝を忘れず、まことにすばらしい面々だった。部員にも恵まれたのである。もう1人、大事な人を忘れていた。編集部の庶務係として出版庶務部から派遣されてきたアルバイトの小本恵さんである。愛くるしい笑顔でてきぱきと事務を処理してくれる彼女の存在は、隣に陣取る編集長にとってはもちろん、すべての編集部員のマドンナだった。

 フリーの方々も例外ではなかった。何度もふれたデザイナーの熊沢さんと彼のプロダクション「パワーハウス」のデザイナーたち。特集づくりにあたっては、何度もレイアウトをやり直してもらうなど、本当に迷惑をかけた。多くのライター、岡田君をはじめとするカメラマン、おてもりさんなどのイラストレーターなどなど。本文レイアウトを手伝ってもらった荒瀬光治君と彼のプロダクション「あむ」の面々。『ASAHIパソコン』専属の校閲マンとして契約したフリーの校閲マン、大塚信廣君。後にも触れるが、横書きのローマ字表記の統一など、いっしょになって「『ASAHIパソコン』の表記基準」を作ったのも懐かしい思い出である。

 私は編集部員に対して、常々、「この編集部にいると他の部の2~3倍は忙しいが、年季が明ける時には4~5倍の実力がつく」などと言って発破をかけていたが、それにしてもずいぶんこき使ったものだと、今思い出しても冷や汗ものである。三浦君は相変わらず、冗談交じりに「この部は労働基準法どころか日本国憲法の保護下にもない」と言っていた。(写真は「出版局報」のものだからちょっと見にくいが、右から宮脇、西村、小本、三浦、矢野、2人おいて熊沢、間島、工藤)

・創刊当日のパーティと増刷の報

 創刊の日の夕方、社屋2階のロビーで開かれた創刊記念パーティには社内外から300人以上の人が集まってくれ、そこで創刊号増刷の決定が知らされた(写真は社内報の『朝日人』から)。多くの人から祝福され、それまでの苦労が、ともかくも報いられた瞬間だった。

 創刊号をあらためて手にとってみると、薄いわりに中味が詰まっているし、協力してくださった社外の方々の多彩さに改めて驚かされる。これだけの人が協力してくれたのは、まぎれもなく朝日新聞社のブランドの力だっただろう。新聞社がパソコン誌を出すことへの世間の期待が強かったということでもある。筆者の多くが老舗『アスキー』でも仕事をしていた関係から、これも三浦君と2人でアスキー本社に郡司明郎、西和彦、塚本慶一郎のトップスリーを訪ね、創刊の挨拶をしたこともあるが、彼らもまた大いに励ましてくれたのだった。

 当時の出版担当は『週刊朝日』の名編集長としてならした涌井昭治さん、出版局長は川口信行、局次長が柴田鉄治(編集)、安倍哲麿(業務)の各氏だったが、この執行部が『ASAHIパソコン』を世に送り出してくれたわけである。柴田さんは東京本社社会部長と科学部長を歴任したすでに名の知られたジャーナリストだったが、『ASAHIパソコン』創刊に率先して努力してくれた。広告(君島志郎部長)、販売(西村章部長)、刊行(山崎卓部長)といった業務各部の働きも目を見張るものだった。

 広告部はコンピュータ専門誌という朝日新聞としては異色の雑誌への広告集稿に取り組んだ。自らラップトップパソコンを購入した吉岡秀人君のような献身的働きもあった。販売は篠崎充君などが書店への売り込みに奮闘(担当は水沼裕明君)、宣伝企画課の久和俊彦君はキャッチコピーに頭をひねってくれた。刊行部は入社早々の朝田勝也君が月2回刊という新しい発行スタイル確立に努力してくれた。月2回刊は曜日単位で刊行スケジュールを組めないので、印刷を担当してくれた凸版印刷との交渉も大変だったようだ。業務各部との交渉も編集長の大きな仕事で、彼らとの侃々諤々の議論もまた懐かしい思い出である。

 創刊数か月後、私は前出版担当、中村豊さんから一通の手紙を受け取った。中村豊さんこそが『ASAHIパソコン』生みの親である。私がまだ出版局大阪本部にいてパソコン誌創刊の提案をしたとき、興味をもってより詳しい説明のために私をわざわざ上京させてくれたのだった。彼の配慮がなければパソコン誌の誕生もなかったし、これまでの社の前例を破って、言い出しっぺがそのまま編集長になることもなかったのだと思う。手紙では『ASAHIパソコン』の順調な滑り出しを喜んでくれる文面のあとに、「3年前の打ち合わせから、よくぞ、ここまで、周囲のケツをたたいて、引っ張ってきたものだと感心しています。この雑誌は、きみの情熱と力が生み出したものだと言ってよいでしょう」と書いてくれていた。この手紙は私の宝物である。

・ASAHIパソコン・ネット、俵万智のハイテク日記、西田雅昭の入門講座

  創刊時に、朝日新聞社内では、電子計算室の島戸一臣室長らが中心になってパソコン通信ネットを立ち上げる話があり、こちらも創刊と同時にネットワークを利用したいと思っていたので、相互に協力しあうことになった。このネットはほどなく朝日新聞社から独立したアトソン(島戸一臣社長)が経営するASAHIネットへと発展するが、当初はASAHIパソコン・ネット」として、『ASAHIパソコン』読者を対象に始まったのである。そのように社告でも告知、『ASAHIパソコン』誌上でも、「読者と編集部を結ぶASAHIパソコン・ネット」のコーナーを設けた。

 最初のスタートがよかったため、部数的には順調だったが、少人数の編集部は、相変わらず忙しかった。雑誌の売り上げを左右する特集の作り方には毎号苦労したが、編集部内での自由闊達な議論と何度かの試行錯誤の末に、夏と冬のボーナス時期にあわせた「パソコン買い方ガイド」、春、秋の「ゼロからのパソコン」シリーズなどが定番として確立された。1989年秋に、これまでのラップトップ型よりも一回り小型で軽量のブックパソコン(ブック型、あるいはノート型パソコン)が登場してからは、「これぞ『ASAHIパソコン』に対応したマシン、『思考のための道具』」とばかり、ブックパソコン・ガイドの連載を始めた。

 そんな日々の中で、思い出深い出来事が2つある。

  1つはベストセラー歌集『サラダ記念日』で一躍有名になった佳人、いや打ち間違った、歌人の俵万智さんがマッキントッシュに挑戦した記録を「俵万智のハイテク日記」として連載したことである。2年目から約2年間続いた。この見開きページだけは、やわらかいフォント(書体)を使い、縦組みにし、万智さんの写真を毎号、大きく扱った。

 「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。

 もう1つは西田雅昭さんとの出会いである。2年目に入ったとき、村瀬さんから「連載を続けてもいいが、月1回にならないか」と相談を受け、別の筆者による入門講座を併設、隔号ごとに掲載することになった。その筆者が西田さんだった。このころには勝又ひろし君が編集部に加わっており、彼が西田さんに白羽の矢を立て、快く引き受けていただいたのだが、実は私は西田さんとは旧知だった。「『おもいっきりネットワーキング』データ蒸発」事件の雑誌編集部で、編集長に紹介されたとき、まったく肩書のない名刺をもらったのでよく覚えていた。

 西田さんは、知る人ぞ知るパソコン界の大権威で、著書も多く、『パソコン救急箱』(技術評論社)、『プログラミング「基本」の本』(翔泳社)=いずれも共著=などがある。パーソナル・コンピュータの健全な普及を願う熱血漢、いやオールドボーイで、長らく都下の区営中小企業センターOA相談室で、中小企業の経営者たちのよきアドバイザー役をつとめておられた。

 タイトルを「西田雅昭のパソコン独立独歩」とし、パソコンの置き方、パソコンに向かう基本姿勢といった基本の基本からスタートした。西田さんの口癖はパソコミである。「パソコミは、パソコミは」と言うのだが、それは「マスコミにも劣るパソコン雑誌」という意味なのである。「パソコミは雑誌を売ることばかり考えて、メーカーのいいなりで、本当にユーザーが知りたいことを知らせない。まことにパソコミの罪は大きい」と、早い話が、私が叱られているのであった。「なるほど、もっとも」と思うことが多く、「じゃ、言いたいことを書いてください」とお願いして、後に「西田雅昭の直言・苦言・提言」という連載を始めたりした。「パソコン業界の常識は、世間の非常識」というのも西田語録の1つだった。

 「パソコミ」という蔑称は、「マスコミ」はまだしっかりしてるという前提で生まれているが、これもまた時代を感じさせられる話である。

・社長賞受賞と「天の時、地の利、人の和」

 『ASAHIパソコン』は創刊1周年後に、その功績により社長賞を受賞した。当時の社長は東京大学社会学科の先輩でもあった中江利忠さんだった。1983年に職場ローテーションの関係で『アサヒグラフ』から朝日新聞労組の本部書記長に担ぎ出されたとき、中江さんがたまたま労坦(労務担当重役)になり、労使の関係で緊張した1年を過ごした。その1年間は団体交渉の席以外ではいっさい接触しなかったが、任期を終えての懇親会のとき、初めて親しく話して、その後学科の同窓会の世話役をしたこともあった。その中江さんから社長賞をもらうことになっためぐりあわせも感慨深い。中江さんはカラオケの名手で90歳を超えた今も元気にカラオケに興じておられるとか。

 社長賞受賞は編集部員、関係者の頑張りへのご褒美であると大変うれしく、また晴れがましくもあったが、社長賞受賞挨拶の中でも人と金の手当てを執拗に要求しているのはいささか可愛げがなかった。

 私は『朝日人』に「天の時、地の利、人の和の三拍子そろって成功した」という一文を寄せた。「天の時」とは、「ビジネス・ユース一辺倒ではなく、パーソナル・ユースに的を絞った新しいパソコン雑誌」というコンセプトが読者に受け入れられたことである。「地の利」とは、朝日の看板である。誌名でも「朝日」を打ち出したが、朝日新聞社がパソコン初心者向けガイド誌を出すことへの好感があったと思われる。初心者でも読めそうだという安心感があり、またそれに応えられた。私としては、「朝日」のブランドと「パソコン誌」の親和性の高さが証明されて、賭に勝ったような気分だった。

 そして、最後は「人の和」。これこそが成功の最大要因である。このことについてはすでに述べたが、編集部員の頑張り。レイアウター、校閲マン、社外ライター、カメラマン、イラストレーターなどの献身的協力。そして出版局内の販売、広告、宣伝、刊行といった業務各部の熱気―いろんな人との折々の出来事が、今でも走馬燈の如く思い出される。局内ばかりではなく、電子計算室、ニューメディア本部、制作局など、社内の多くの人の世話にもなったのである。

 出版局大阪本部からプロジェクト室への人事が発令された直後、私は東大阪市に作家の司馬遼太郎さんを訪ね、転勤の挨拶をした。『週刊朝日』で長らく続いていた「街道をゆく」の前線本部としての縁があったからである。パソコン誌を出す準備をするという私の話を聞きながら、司罵さんは、「僕にはさっぱり分からん雑誌のようだが、思うところを大いにやるといい」と激励してくれながら、最後に、「新しいことをしようとすると、それはまず社内で潰される」とおっしゃった。いろんな出版社での見聞を踏まえての司馬さんの忠告だったが、この短い一言を、私は後に何度も思い出し、かみしめることになった。

 その詳細はともかく、いま少し距離を置いて言えば、大組織は動き出すまでは梃子でも動かぬところがあり、新しい芽を摘むことも多いが、いったん動き出すと、地力を発揮しすばらしい成果を上げる、といったところだろうか。

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