新サイバー閑話(94)

<平成とITと私①『ASAHIパソコン』そして『DOORS』>8月8日発売

 本新サイバー閑話で連載していた「平成とITと私」が<平成とITと私①『ASAHIパソコン』そして『DOORS』>としてサイバー燈台叢書第4弾として8月8日に発売予定です。アマゾンおよび三省堂本店など一部書店で購入できます。定価1350円(税込み1485円)です。

 私がパソコン黎明期にパソコンのやさしい使いこなしガイドブック、『ASAHIパソコン』を創刊したのはすでに35年前、1988年10月でした。翌1989年から元号の平成が始まります(1989年はベルリンの壁崩壊の年)。インターネット台頭期にその情報誌、『DOORS』を創刊したのは1995年、平成7年でした。
 私は2000年代には、IT社会を生きるための基本素養、サイバーリテラシーを提唱し、その後もIT社会を継続的にウオッチしてきましたが、本書は「私家版・日本IT社会発達史」として『ASAHIパソコン』および『DOORS』の経過を記したものです。
 日本の平成はひと口に「失敗の時代」として総括され、それはたしかに日本が経済的にも、政治的にも衰退していく時代でしたが、コンピュータの視点から見ると、パソコンがだれもが親しむ「文房具」になり、ノートパソコンからスマートフォンへと端末は高機能化、小型化、しかも低価格化していき、インターネットが社会を激しく変えた時代でした。1995年に普及し始めたインターネットはその後、爆発的に発達、今では社会の基本インフラになっています。インターネットのない社会はもはや考えられないですね。
 この間に私が何をしてきたかを記録しつつ、その間のパソコンやインターネットの発達史を振り返る形になっているので、あのころのパソコンはどんな形でいくらしたのか、どんなソフトが使われていたのか、コンピュータ、およびインターネットの発達に貢献したのはどんな人だったのか、などIT社会進展の生きた記録になっていると自負しています。
 目次は以下の通りです。

PARTⅠ 『ASAHIパソコン』まで
<1>熊澤正人さんを悼む
<2>『アサヒグラフ』のコンピュータ特集
<3>最先端技術の世界に挑む

PARTⅡ 『ASAHIパソコン』の栄光
<4>ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤
<5>ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊦
<6>パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』
<7>『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷
<8>相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出
<9>私がインタビューした人びと
<10>いざ鎌倉、源氏山大花見宴

PARTⅢ 『DOORS』の不運
<11>インターネット誌『DOORS』創刊
<12>『DOORS』は3Dメディア
<13>短命の中の豊穣
<14>突然の強制終了

 本書にご登場いただいた方は120人を超えます。折々に話を聞いたこの道の権威、『ASAHIパソコン』などで協力いただいた多くの先達・仲間、その間、続けてきた花見の常連客―。「私家版・日本IT社会発達史」と名乗りはしても、きわめて個人的な懐旧談に名前を記載させていただいたご無礼をどうかご寛容ください。すでに鬼籍に入られた方々、いまは連絡もできない方々も含め、みなさん、いろいろお世話になりました。また、本来ならあらためてご挨拶するなり、送本させていただくなりすべきでしょうが、これもコロナ禍など諸般の事情で思うにまかせぬ状況です。この点もよろしくご推察ください。

 私が朝日新聞出版局に在籍した平成の前半3分の1の出来事が本書に収録されており、その中心が『ASAHIパソコン』と『DOORS』の創刊でした。その後も朝日新聞総合研究センター、明治大学や情報セキュリティ大学院大学、サイバー大学などを経つつ、持論のサイバーリテラシーを通して、IT社会の出来事をウオッチしてきました。令和に入ってからは、コロナ禍を契機にZoomサロンOnline塾DOORSを主宰、2023年夏までに65回を数えました。この<平成とITと私>シリーズは平成末年まで続ける予定です。

 

新サイバー閑話(93)平成とITと私⑭

『DOORS』突然の強制終了

 先にも書いたが、『DOORS』は1997年5月号で突然休刊になった。有無を言わせずの強制終了である。最終号の目次が「休刊」のお知らせで、表紙には「ゼロから始めるウエブサーバー作り」の記事紹介もある。牧野さんの「今月の怒る弁護士」は「社会は変動する。かつての経済先進国日本は今急速に凋落する。未来を展望できない国家は、大きく衰退するのが歴史的必然だ」と書いている。私には『DOORS』休刊決定そのものが朝日新聞凋落の予告のようにも思われた。今は亡き三浦賢一君が「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれたのは、突然の休刊を告げられた夜のことである。

 敗軍の将、兵を語らずと言う。『DOORS』休刊の責任は編集長にあり、それを認めるにやぶさかではない。しかし、その背後にあった社のメディア政策との確執、突然、降って湧いたような花田問題の波紋についてはきちんと記録しておきたい。

 『DOORS』は私が小世帯の出版局でインターネットに取り組んだ最初のプロジェクトだったが、その直後に社が電子電波メディア局という新たな組織をつくり、インターネットに向けて全社的な取り組みを始めたのが『DOORS』にとっての不運だった。先行プロジェクト『DOORS』は邪魔者として排除されたのである。電子電波メディア局を立ち上げる前に、デジタル出版部をその一部に取り込もうとする考えがあったのはたしかで、実際に私は社幹部からその打診も受けていた。幹部の某氏は「君のやりたいことは所帯の小さい出版局では無理だから」とも言ってくれた。だが私には電子電波メディア局がやろうとしているasahi.comの事業がどうしてもうまく行くとは思えなかった。先にもふれたが、小さな組織でいろんな実験に挑みながら、成功しそうなプロジェクトを伸ばしていくのがいいと思っていたのである。

 今にして思えば、あのとき電子電波メディア局に編入されたうえでasahi.comとOPENDOORSを併存させつつ『DOORS』プロジェクトを遂行する方法もあったかもしれない。大組織に抗って潰されるよりは良かったとも言えるが、成否は私の政治的手腕次第で、その点で自信がなかっということでもある(当時、社のメディア政策に関与していた友人の話では、そういう併存の目はもともとなかったらしい)。山本博出版局次長の考えもあり、出版局独自の路線を選ぶことになったのである。

 ここは微妙なところで、当時の出版局は桑島久男担当、山本局次長という体制で、局長は担当兼務だった。後に担当の意向でK局長が着任したが、桑島、K、山本いずれも編集局社会部の出身で、だから団結力があったわけではなく、むしろ個性の強い社会部記者の三すくみに近い状態だった(出版局の植民地支配の典型と言ってもいい)。

 私は雑誌づくりに憧れ、自ら希望して編集局から出版局にやってきた。出版局は編集局に比べて辺境だと思われていたから、「デスクになって天下りするまで辛抱しろ」などと言われたりもしたが、そういう考えが私には理解できなかった。皮肉なことに、そのことで出版局側からは奇妙な人事と思われたりもした。最初は新聞とは違う雑誌というメディアになじめず苦労したが、平池芳和、木下秀男、大崎紀夫など個性的で魅力的な編集者がたくさんいた。最先端技術特集をしながら、周りの仲間にいろいろ教わり、『ASAHIパソコン』創刊までこぎつけたのである。だからレイトカマーではありながら、出版局への愛着はひときわ強かった。『アサヒグラフ』時代には、ローテーションとして朝日新聞労組書記長に担ぎ出されたりもしている(労組時代の1年は、それこそすばらしい仲間に恵まれ、貴重な経験をし、同窓会は今でも健在である)。

 ここで山本博氏について少し説明しておこう。彼は北海道新聞からスカウトされた途中入社組ながら、横浜支局デスク時代のリクルート報道で名をはせた朝日新聞社会部きっての特ダネ記者だった(平和相互銀行事件、KDD事件、談合キャンペーンなどの調査報道に携わり、新聞協会賞も2度受賞している。『朝日新聞の調査報道』=小学館=の著書がある)。柴田鉄治さんは朝日新聞改革案として「山本博君をリーダーとする調査報道部門を作るべきだ」と常々言っていたが、ともに編集局中枢から外されていた。朝日新聞という会社は、特ダネ記者を名古屋社会部長、販売局次長と適当に処遇しながら、次いで出版局次長にしたのである。

 私が接した山本さんは、特ダネ記者とは別の進取の気性に富む良き管理者で、インターネットにも興味をもち、よく「矢野さん、いまメールしたから」とわざわざ局長室から伝言しに来たりした。彼とはウマが合い、いろいろ相談しながら対応していたが、後に聞くところによると、局内からはYY路線と揶揄されていたらしい。

 DOORSとasahi.comとの路線対立が、結局、『DOORS』廃刊に結びつく。彼らにとって『DOORS』は目の上のたんこぶだったのである。

 1つのエピソードがある。

 OPENDOORSが日本のマスメディア最初のホームページとして新聞協会のパンフレット『1997日本の新聞』に記されていることはすでに述べた。時代は突然、現在に飛ぶが、主宰しているOnline塾DOORSで友人、森治郎さんのミニコミ誌『探見』との共催で阿部裕行・多摩市長の話を聞いたことがある。

 阿部さんは当時たまたま新聞協会事務局に勤務しておられたが、OPENDOORSの認定に関しては、asahi.comの関係者から「あれは出版局がやっているもので朝日新聞の正式のものではない」と異論が出たらしい。小さな手柄を誇示するようだが、この出来事に当時の電子電波メディア局の『DOORS』を〝敵視〟する様子がうかがえるので、記しておく。

 『DOORS』廃刊にはもう1つ、伏線があった。先にふれた『ウノ』創刊(花田問題)である。新雑誌を創刊するのはいい、外部から編集長を招くのは、局員としては不満だが、これもあっていいだろう。しかし、なぜ花田氏なのか、というのが問題だった。

 社内でも、私の組合時代の畏友、社会部出身の鈴木規雄氏などは公然と批判していたが、当の出版局部長会ではっきりと抗議の意思を表示したのは私だけだった。部長会が終わったあと、某氏がそっと近づいてきて「いい発言だった」とつぶやいたが、当の本人は部長会の席ではだまっていたわけである。

 『ウノ』問題を機に着任してきたK局長が私の総合研究センター送りを画策したのである(K氏と山本氏は社会部以来の犬猿の仲で有名だった。山本氏は当時、私にこんなことを言った。「Kと私はふだん顔をあわせても挨拶しないが、桑島さんの前だと、Kは私に百年の知己のように話しかけてくる。私はそれに対して1000年の知己のように答える」)。もちろん私は異動を拒否した。と言うより、総研センター自体はかつて論説委員並みの待遇で、優秀な記者が処遇されて行くところでもあったから、行くにあたっては「自分は何をやりたいか」の提案書が前提だと聞かされ、私はそれを書かないことで抵抗していたのである。

 ところが私のあずかり知らぬところで私の研究レポートが出されたために、人事が発令されてしまった。K局長になってから局次長が増員され、雑誌編集の実績がほとんどなく業務関係の部長だったN氏が出版局懐柔策として局次長に一本釣りされたが、そのN氏が私に無断で代作したのだった。後に私が詰問したところ、彼はこれを認め、「K局長には局次長にしてもらった恩義がある」と言った。

 実は、私の総研センター行きはM社長や当時のH総研担当役員から「一時的だから、しばらく好きなようにしていればいい」と言われていた。しかし、しかし。私も含めて出版局再生のためにポスト桑島として着任を要請して実現した、これもN新担当は、思惑に反して、私を出版局に戻さなかった。彼は「君を戻せば自分の身が危ういと、上層部の先輩から言われている」と言った。出版局プロパーに裏切られたという苦々しさが残った。

 総研センター時代、私はときどき、中島敦の小説『李陵』を思い出した。

 まだ紀元前の中国、漢の武帝の時代。匈奴征伐の際に、善戦およばず捕虜となった李陵は、匈奴単于(ぜんう)に厚遇される。李陵は自己弁護をせず、漢民族の誇りも失わず、匈奴の軍事指南は拒否した。ところが不運なことに、同じ李を名乗る別の人物が匈奴に迎合、それが武帝の耳に達する。怒った武帝は李陵の家族、一族をことごとく殺した。李陵は匈奴と一定の友好を保ちつつも、悲運のうちに異郷の地に没する。一方、匈奴に順うのを潔しとせず僻地に放逐されていた蘇武は、苦節19年の末、祖国に戻った。

 高校の教科書で読んだとき、「襤褸をまとうた蘓武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐憫の色を、豪華な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた」という簡潔で凛とし、しかも深い憂愁をかかえたこの名文が妙に記憶に残った。

 ちなみに、武帝の前で李陵の行動をただひとり弁護、そのために宮刑(去勢)という恥ずべき刑を受けたのが有名な『史記』の作者、司馬遷だった。中島敦は司馬遷に関して、「彼は、今度程好人物というものへの腹立を感じたことは無い。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、一層けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない」。

 すでに社を離れていたと思うが、柴田さんが何かの折に、「戦国時代なら戦いに敗れれば、首をはねられてもしょうがないところだ」と妙に慰めてくれたことを思い出す。

 総研センターは、さすがに往年の面影が残り、気心の知れた友人もいて、台頭するインターネットの現場を取材したり、共同レポートを書いたり、それはそれで楽しく過ごした。同時に、ここでもインターネットに翻弄される新聞社の混乱ぶりを見ることになった。朝日新聞社は2008年、出版局を朝日新聞出版として分社化したが、それは2023年6月の『週刊朝日』廃刊へと結びつく。私が総研センターで見たのは出版局が滅びに向かうみじめな姿でもあった。

 それはともかく、私が総研センターに行った1997年は平成9年で、平成という時代は3分の1を経たところだった。インターネット史で言えば、まだWeb2.0以前である。

新サイバー閑話(92)平成とITと私⑬

『DOORS』短命の中の豊穣

 『DOORS』のタイトルについても思い出がある。雑誌『アエラ』の命名者、コピーライターの真木準さんに知恵を借りに出かけた時、真木さんはこう話してくれた。

 タイトルの要諦は、明・短・強である。

 明るく、短く、強い。これが条件なのだという。コピーライターたちはタイトルを考えるとき、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語など、あらゆる辞書を最初から1ページずつ丁寧に読んでいき、ふさわしい言葉を探すらしい。私も休暇を利用して南の島に国語辞典、漢和辞典、英語辞典、ことわざ事典などを携帯、それを読破しつつ、DOORSのタイトルを考えついた。

 それを商標登録しようと、刊行部で調べてもらったら、すでに登録されていた。ソニー・ミュージックエンタテインメントがロックバンドの「ドアーズ」関連書籍を出そうとしたことがあるらしく、10年近く前に商標登録していたのである。私は、『DOORS』という誌名をどうしても諦めきれず、ソニー・ミュージックエンタテインメントに出かけて趣旨を説明したら、先方でもインターネットやマルチメディア関連の雑誌を出す可能性はいくらもあるのに、気持ちよく譲ってくださった。学生時代の寮の先輩がその会社の幹部をしていた幸運もあったが、先方の関係者の実に爽やかな対応は、今でもありがたく、また嬉しく思っている。

 創刊当初、「なぜDOORSなんですか」とよく聞かれた。「ロックバンドの名にあやかった音楽雑誌かと思ったら、インターネットの雑誌なんでびっくりしました」と言ってきた若い女性もいる。実際、『DOORS』が音楽ジャンルの書棚に置かれたこともある。私は「オルダス・ハックスリの『知覚の扉』からとったんですよ」と答えたり、Windows95にからめてDOORS are bigger than Windowsと笑ったりしていたが、その『DOORS』をきちんと育てられなかったのは、まことに心苦しい。

・伊藤穣一・村井純・浜野保樹

 さて、本題である。わが社にとっても、また私たちにしてもまだインターネットをよく知らなかったわけで、社外の何人かに助言を頼んだ。それは相当たる顔ぶれだった。

 すでにインターネットの寵児と目されていた伊藤穣一さんは当時まだ30歳になっていなかったと思うが、『DOORS』創刊前にデジタルガレージという会社も立ち上げ、林郁社長とともに、インターネット・ビジネスを牽引しつつあった。

 彼は両親とともに幼少時代に渡米、米国タフツ大学でコンピュータ・サイエンス、シカゴ大学で物理学を専攻、インターネット関係の事業をいくつか立ち上げると同時にインターネット関連のイベントなどをプロデュースしていた。日本語よりも英語が得意の、どちらかというとアメリカ人で、日本のインターネット爆発と同時に、一躍、時の人となった。エレクトロニック・コマースやデジタル・キャッシュの将来を熱っぽく、しかも理論的に説く彼自身の存在が、インターネットの体現者と思われた面もある。各方面から執筆や講演依頼と引っ張りだこだったが、創刊号からChaos(混沌)とOrder(秩序)を組み合わせた造語「ChaOrdix(ヒエラルキーからネットワークへ)」というタイトルで連載してもらった(後年、彼はMITメディアラボ所長になった)。

 林さんも30代半ば、穣一君の言わば兄貴分で、もともとの専門である広告やイベントの分野で協力してもらった。彼らはインターネットには詳しいがメディア(雑誌)には不慣れ、私たちは雑誌のプロだがインターネットには不慣れ、というわけで、デジタルガレージと〝二人三脚〟で、インターネットの荒波に漕ぎ出したのである。編集部員も彼らの会社を訪問、新しい息吹に直接ふれる経験をした。林さんには創刊イベントなどで協力していただいたころが懐かしい。デジタルガレージにはサーバー管理をお願いしたし(当時はエコシスとも名乗っていた)、OPENDOORSやCOOLDOORSの中味(コンテンツ)を、ともに試行錯誤しながら作った。若い人たちとの共同作業は、教えられたり、教えたり、楽しい思い出である。

 日本でのインターネットの父とも言われる村井純さんには、当然のことながら、さまざまにお世話になった(伊藤、村井両氏の写真は1996年のインターロップで)。

 彼については、説明の必要もないだろう。日本のインターネットを牽引してきた人であり、『インターネット』、『インターネットⅡ』、『インターネット新時代』(いずれも岩波新書、1995、1998、2010)などの著書もある。彼はインタビュー(1996年6月号)で「これからは技術者ではなく、社会の第一線で活躍している実務のプロがインターネットを始めるときである」と、インターネットの伝道師らしく、熱っぽく語っている(当時は慶応義塾大学助教授だったが、その後教授になり、現在は内閣官房参与、デジタル庁顧問なども努めている)。

 浜野保樹さんはメディア論を専攻している研究者(国立放送教育開発センター助教授)だったが、象牙の塔の人と言うより、マルチメディア関係のイベントにコーディネーターとして関わったり、各種の研究会に引っ張り出されたり、この業界ではすっかり「顔」だった。にもかかわらず、利害渦巻く業界の垢にまみれぬ、毅然としたと身の処し方が、きわめてさわやかな印象だった。オーソン・ウエルズとスタンリー・キューブリックを敬愛する元映画青年は、時代の最先端で忙しく動き回りながら、メガネの奥に光る柔和な目で、メディア社会の行く末を見つめ、すでに『ハイパーメディア・ギャラクシー』(福武書店、1988年)などを世に問うていた。

   浜野さんには、創刊号からインターネットの歴史に関する連載をしていただいたし(後に『極端に短いインターネットの歴史』=晶文社、1997年=として出版された)、折々の特集などでも知恵をお借りした。彼はその後、東大教授になったが、2014年に62歳で夭折したのはまことに残念である(写真は『ASAHIパソコン』インタビュー時のもの)。

 そのほか、「ゼロから始める入門講座」担当の吉村信さん、創刊号以来、「オープン&クローズ」を連載していただいた哲学者の中村雄二郎さん、インターネットの現状に対する不満を投稿してくれたのを機に「今月の怒る弁護士」というコラム連載をお願いすることになった弁護士の牧野二郎さんなど、多くの人が懐かしく思い出される。牧野さんは当時、インターネット弁護士協議会設立に奮闘していた。

・メディアとしてのCD-ROM

 情報のデジタル化で大部の本1冊分の情報が1枚のロッピーディスクにまるまる入り、そのためにムック制作中に遭遇した思わぬトラブルについてはすでに述べた。フロッピーディスクの容量は約1MB(メガバイト)だが、CD-ROM1枚にその500倍、500MB以上の情報が入る。そのCD-ROMを雑誌の付録につけることで、より多くの情報を読者に提供しようというのが『DOORS』プロジェクトのねらいでもあった。

 当時、パソコンの処理能力だけでなく、回線速度も、記憶容量も猛烈な勢いで進化していた。これはひとえにパソコンを構成している半導体の集積度の高まりにより、1枚のチップに組み込まれる回路もIC(Integrated Circuit,集積回路)、LSI(Large Scale Integration,大規模集積回路)、超LSIという具合に稠密になり、コンピュータパワーは増強,逆に価格は安くなっていた。

 ICの進化については、半導体メーカーのインテル社社長,ゴードン・ムーアが1965年の時点で,「一定のシリコン上にエッチングできるトランジスタの数は18カ月ごとに倍になる」という予測をし、ムーアの法則と言われている。一般に「コンピュータパワーは1年半で2倍になる」というふうに言われていたが、物理的制約はやはりあり、最近ではムーアの法則の限界もささやかれている。もっとも、2006年4月の段階でインテルは「ムーアの法則は生きている」と発表した。1995年時点はまさにすべてが高機能化、低価格化するという激変の時代だった(ちなみに今、小さなUSBでもMBの1000倍の㎇、さらにその1000倍のTBの情報が入るが、主流は記憶媒体を離れてネットワークに移っている)。

 そういう中でメディアとしてのCD-ROMが脚光を浴びていたのである。『DOORS』1997年4月号では浜野さんに選考委員長をお願いし、「CD-ROMベスト100」を選んでいる。

内訳は、

①ゲーム(25) MYST日本版、GADGET、Dの食卓、The Tower、DOOM、ジャングルパーク、Sim Cityなど。
②エンターテイメント(25) Alice、L-ZONE、世界の車窓から、笑説・大名古屋語事典、Sesame Street、The Manholeなど。
③アート・文藝(15) YELLOWS、A Hard Day’s Night、南伸坊の顔遊びなど。
④教養(13) ヒロシマ・ナガサキのまえに、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ハイパー京都ガイド、書を捨てよ町へ出ようなど。
⑤実用(22) キネマの世紀、The Complete OZU、デジタル歌舞伎、Microsoft Encarta、世界大百科事典、理科年表、マルチメディア人体、新潮文庫の100冊、朝日新聞記事データベースなど。

 草創期以来の膨大なタイトルの中から厳選したものだが、各種プロダクションや出版社、新聞社まで、CD-ROMを使って何ができるか、さまざまに実験していた熱気が感じられるラインアップである。「笑説・大名古屋語事典」は名古屋出身の作家、清水義範が名古屋弁普及に取り組んだもの、「The Complete OZU」は映画監督、小津安二郎紹介。

 だいたい1万円未満だが、1万円以上のものもある。岩波書店の『広辞苑』は第4版で1万4420円、平凡社の『世界大百科事典』は31巻の大百科事典が検索ソフトを含めて数枚のCD-ROMに収められ、14万5000円だった(私は1998年に発売された『広辞苑第5版』1万1100円と、同年発売の『世界大百科事典』第2版、5枚組で5万9000円を買った。『世界大百科事典』まさに高機能化、低価格化していたが、結局、あまり使わず、紙の『世界大百科事典』と同じ運命をたどった)。

 CD-ROM製作の仕掛け人として、青空文庫で有名なボイジャーの萩野正昭さん、シナジー幾何学の粟田政憲さんが登場しているのも懐かしい。粟田さんは後に述べる「GADGET」をプロデュースした人である。

・インタビュー「ポスト日本人」

 私は『DOORS』でも毎号、インタビューを続けた。伊藤穣一、村井純さんにもご登場いただいているから当然、インターネットの将来、およびそれが社会に与えるインパクトが最大の関心事だったが、そのほかに2つ、私の興味を引いていたテーマがあった。1つはメディアとしてのCD-ROMの威力と効能であり、もう1つはコンピュータが新しいタイプの若者を生み出しているという発見だった。両者は微妙に重なり合い、「ポスト日本人」の人選にも影響していた。

 タイトルを「ポスト日本人」としたことについて雑誌でこういうことを書いている(福井コンピュータ『cyber Architect』 1996年秋号)。

 最初にインタビューしたのがフューチャー・パイレーツの高城剛さんで、彼がそのとき「ポスト日本人」という言葉を使った。「パスポートの色で識別される、世界が見る日本人ではなく、自分のアイデンティティを持った新しい日本人」という意味で、この言葉を使い、「僕もそういうポスト日本人でありたい」と言ったのである。
  パソコンの発達が新しい創造活動を可能にしたことで、グローバルな活躍を始めた若者が続々誕生しつつある、という問題意識でスタートした連載にぴったりの登場者を得て、私は「ポスト日本人」をタイトルに借用し、以来、独占的に使用している。
 「ポスト日本人」の特徴は、偏差値教育と無縁なことである。村井純・慶応大学環境情報学部助教授、石井裕・MIT准教授などの学者・研究者や服部裕之・BUG社長など実業家の一部を除くと、ほとんどの人がいわゆる有名大学を出ていない。受験勉強などしたことがないという人が多いし、大学もきわめていいかげんに受けている。
 高城氏にしてからが、高校時代にロサンゼルスに出かけて2年ほどブラブラした後、ふらりと日大に入ったのだし、今、東大教養学部で「国際おたく大学」なるゼミを持っている元ガイナックス代表の岡田斗史夫氏は小学生の頃からSFに凝って、SF研究会のある大学を選び、授業には一切出ないまま退学している。25歳にしてゲーム『Dの食卓』を世に問うた飯野賢治氏は、高校時代にすでに落ちこぼれた。
 音楽好きというのも共通で、独自の画像圧縮技術開発で脚光を浴びるゲン・テック代表の宮沢丈夫氏は、一時はプロのドラマーをめざした人である。飯野氏、格闘技ソフト「バーチャファイター」で有名なセガ・エンタープライゼズ取締役の鈴木裕氏など、皆、バンド活動をやっている。「ガジェット」で世界的にCD-ROM作家として有名になった庄野晴彦氏はメカ少年だった。
 皆、お仕着せの受験教育から自然にはみ出て、好きなことを好きなようにやってきた。ひと昔前なら確実に社会から落ちこぼれてよさそうなのに、そうならなかったのはパーソナル・コンピュータのおかげである。
 20万円も出せば一式がそろう今のパソコンが、つい最近までは何億円もした大型コンピュータ並みの機能を持ち、その中に独自の世界を作り上げられるようになった。こういった分野で活躍する若者たちが、大会社に入り出世階段を登っていくことを前提に作り上げられた偏差値教育とはまるで違う社会の片隅から誕生しつつあるのは、きわめておもしろい現象といえるだろう。「ポスト日本人」の”冒険”とその意味を、近く一冊の本にまとめたいと考えているところである。

 残念ながら本にするチャンスは逸した。ここではその中の庄野晴彦、飯野賢治のご両人のみ紹介しておく。庄野晴彦さんは『ガジェット(GADGET)』、飯野賢治さんは『Dの食卓』と、それぞれの代表作を世に問うた直後に話を聞いている。

  『ガジェット』は、日本よりも海外で高い評価を受けた。ユーザーがマウスを操作しながら、インタラクティブな物語の中に入っていく点では、たしかにゲームだが、より深い一つの世界を築き上げている。ゲームは、7人の科学者が発明した洗脳装置センソラマをめぐって、帝国と共和国、その双方のスパイが暗闘を繰り広げる形で展開する。プレーヤーは、帝国のスパイの役割を与えられ、科学者たちの身辺を探りながら、いつしか不思議な狂気の世界へ迷い込む。最後にどんでん返しも仕組まれており、海外で6万枚、日本で5万枚を売るヒットとなった。この作品は93年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞した。アメリカの各メディアで激賞され、95年2月27日号の『ニューズウィーク』誌は、彼を「未来を動かす50人」の1人に選んだ。
 『ガジェット』はCD-ROM作品にとどまらない広がりを持ち、物語の全貌を記したビジュアルブック(すなわち紙の本)『Inside Out with GADGET』、物語の中核をなす装置センソラマの体験を映像化したビデオ&レーザーディスク『GADGET Trips』を合わせた3部作が、全体としての『ガジェット』の世界である。1997年4月にはアメリカのSF作家による小説『GADGET THIRD FORCE』も発刊されている。CD-ROMから小説が生まれたのである。
  1960年、長崎県生まれ。九州産業大学芸術学部デザイン科を卒業したあと、筑波大学大学院へ。「映画ではスタンリー・キューブリックやリドリー・スコットなどが好きです。子どもの頃はハリウッドの分かりやすいエンターテインメント映画を見ていましたが、学生になると、興味はヨーロッパ映画に移り、タルコフスキーや実験映画にのめり込んでいきました。コミックでは大友克洋のような絵のうまい人が好きで、かなりコミックの影響を受けているかもしれません」、「テクノロジーがあって、僕の表現が成り立っているのは確かですね。コンピュータがなかったら、グラフィック・デザインのような分野に進んでいたかもしれません。僕たちはコンピュータを使って作品を作り始めた最初の世代で、いわばビデオとコンピュータの中間に位置しています。音楽にも映画にもビデオにも興味があって、それをテクノロジーやコンピュータが埋めてくれる。だからいろいろなことができるんです」。

 飯野賢治さんは、インタビュー当時、まだ25歳だった。処女作のアドベンチャーゲーム『Dの食卓』で脚光を浴びていたころで、大きな体、いかつい風貌、それに似合わぬやさしい笑顔、同じ25歳で映画『市民ケーン』を作ったオーソン・ウエルズを彷彿させるところがあった。
『Dの食卓』は、95年に家庭用ゲーム機のソフトとして発売され、たちまち評判を呼んだ。セガのサターン版、ソニーのプレイステーション版などがあり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツでも発売され、合計80万本は売れたとか。
 95年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞している。その後、発表した『エネミーゼロ』、絵のないゲーム『リアルサウンド』は、いずれも評判を呼んだ。最近『ゲーム Super 27years Life』(講談社)という本を書いた。
 『Dの食卓』の舞台はロサンゼルス。名医として知られたリクター・ハリスが突然、殺人鬼と化し、自らが院長を務める病院内で大量殺人を引き起こす。入院患者を人質に院内に立てこもるリクターの謎を解明するために、一人娘のローラが単身、病院に乗り込んでいく。ローラを待っていたのは父親の想念が作り出した異世界。プレーヤーは、ローラとともに、中世ヨーロッパふうの屋敷を徘徊しながら、暖炉の隅などに隠されている扉の鍵や、必要な道具を見つけ出して、謎解きを進めていく。プレーは2時間の制限つきで、その間にすべての謎が解けなければ、プレーヤーの負けだ。高品質のグラフィックスが不思議な雰囲気をかもし出しており、ポリゴン(三次元CGを描くための微少な多角形の画素)で作られた主人公ローラが、プレーヤーの指示通りに行動して、さまざまな表情を見せる。
 1970年、東京生まれ。ゲーム制作会社で働いたり、ソフト受注会社を経営したりしたあと、94年にソフト開発会社ワープを設立した。『Dの食卓』では企画、シナリオ、監督、作曲と、ほとんどすべてを担当した。  「物語の舞台はロサンゼルスですが、裏側に流れる悪魔の血の物語はヨーロッパが舞台です。イタリア、ルーマニア、フランス、ドイツなどを取材しましたが、そこでの最大の収穫は『空気』です。僕らがイメージする中世の城・屋敷と現実は違うということを思い知らされました。例えば、本物の屋敷にはすべての部屋に暖炉があります。暖炉がなければ冬場は使えないですから。何も知らないと、CGで暖炉なしの部屋を描いてしまう。煉瓦の積み方一つとっても、ドイツとフランスでは違います。ドアのノブや開き方、天井の高さなど、実際に見なければ分かりませんね。映画でも絵画でも現場を取材するのだから、ゲームでもディテールにこだわるのは当然です」、 「デジタル世代は人生にリセット・スイッチがあると思い込んでますから、ゼロからスタートして自分たちが格好いいと思うソフトを作り、自分たちで発売まで手がけてしまおうと、ワープを設立したのです」、「コンピュータの世界は年齢も、身分も関係ないということです」、「僕の中には国境はまるでありません。社員たちも、次の作品が売れなかったら、会社がつぶれることは分かっている。会社の全員14人がバンドの構成員だと思うんです。それぞれが曲を持ち寄って、音を合わせて、手直ししていく。お互いのいいところを取り込んで曲を作り上げていくんです。バンドなんだから、次の曲が売れなければ解散という気持ちは、みなが自然に持っていると思いますよ」

 映画制作は、多くの人と、大きな設備と、莫大な費用を投じて初めて可能で、監督になるまでには、それなりの修行時代も必要だった。それと同じような世界を、いまは、才能さえあれば、パソコンと向かい合うだけで、一人でも作り上げることができる。すべてがコンピュータ・グラフィックスだから、俳優も自前である。パーソナル・コンピュータの発達が、個人に強力なメディアを与えたのである。

 もはやゲームは、ただのゲームではない。庄野晴彦さんにとっては、一つの壮大な作品世界だし、斎藤由多加さん(プレーヤーがオーナーになってビルを建設、運営管理し、最終的に百階建ての超高層ビルをつくりあげる、The Towersの作者)にとっては、世の中のしくみを明かす装置でもある。

 CD-ROMというメディアは、私たちの創造活動のあり方を大きく変えた。音と映像を取り込み、双方向性を活用した新しいメディアが誕生したともいえる。それはまた、いまは回線容量などの制約で、画像や音を十全には扱えないウエブがいずれ行きつく姿でもあった。

  東京大学社会情報研究所の水越伸助教授(当時、後に教授)は、「新しいメディア表現者の登場と日本のジャーナリズム」という論考の中で、「虚実入り交じったメディアの星雲の中で、私が、唯一といってよいほどリアリティを持つことができるのは、新しいメディアとの関係において立ち上がりつつある人間の存在である。マス・メディアのオーディエンスでしかなかったこれまでの自らのあり方から踏み出て、コンパクトな高度情報機器を携え、メディア・リテラシーを身につけ、自らの意見や思想、感覚を表現することの意義や効用に覚醒した人々が、社会のさまざまな領域から現れはじめている。ここでは、彼らのことをメディア表現者と呼ぶことにしたい。メディア表現者は、情報を享受もする。しかしこれまでほとんどの市民が端からあきらめていた表現活動に自らのアイデンティティをかけ、受容と表現の循環性を回復する中で、結果としてコミュニケーション活動をめぐる全体性を再獲得するような営みを行っている」と期待を込めて語っていた。

新サイバー閑話(91)平成とITと私⑫

『DOORS』は3Dメディア

 1995年3月10日、朝日新聞出版局のホームページ、OPENDOORSが店開きした。日本の大手マスコミが開設した初めてのホームページだった。私は編集長挨拶として、ホームページの冒頭で以下のように述べた。

 ギリシャ神話に題材をとったジャン・コクトーの映画『オルフェ』では、鏡がこの世と黄泉の国を結ぶ扉でした。詩人である主人公オルフェは、死んだ妻を取り戻すために、不思議な手袋の助けを借りて鏡を通り抜け、黄泉の宮殿にたどりつきます。
 いまパソコンのディスプレイは、私たちを未知の世界へと誘ってくれる鏡、新しい扉です。マウスやプログラムの力を借りて、インターネットで結ばれた多くの扉を次々に開けば、瞬時に世界中を飛び回ることができます。いずれは個人個人が自分たちの扉を作って相互に情報を交換することができるでしょう。「生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける」とわが国の歌人はうたいました。「おぼしき事いはぬははらふくるるわざなり」と書いた人もいます。みなが自分のメディアを持って、自由に歌をうたい、ものをいうためのツール、それがインターネットです。新しいメディアの実験『OPENDOORS』の扉を開いてみてください。

 その少し前、OPENDOORS開設を知らせる社告が朝日新聞本紙の一面に大きく載った。初めての横組み社告だったはずである。全体が3段組みで、「OPENDOORS10日開設」の横カットがあり、縦に「初の本格的『ネットワーク・マガジン』」のカット、真ん中に「DOORS」のロゴが入った。骨子はこんな内容だった。

 新しい情報インフラとしてのインターネットの普及を受けて、朝日新聞社は今秋9月、インターネットとマルチメディアを対象とする月刊誌『DOORS』を創刊します。また、それに先立ち3月10日からインターネット上にホームページOPENDOORSを立ち上げます。
 雑誌のコンセプトは「情報社会の賢いナビゲータ」。OPENDOORSはそのネット版で、「わが国初の本格的ネットワーク・マガジン」として、ホームページの標準スタイルを築き上げたいと思っています。http://www.asahi-np.co.jp/経由で、どうぞアクセスしてみてください。

  お分かりのように、OPENDOORSは秋に発売される雑誌DOORSと連動したホームページだった。これから進展するマルチメディア化に対応するために、祇の雑誌、インターネット上のホームページ、雑誌の付録CD-ROM、の3つのDOORSのメディアミックスこそが、当プロジェクトのねらいだったが、それについては後述する。紙のメディアより先にホームページを開設する、それも日本マスコミ業界の先陣を切って、というのが私のねらいだった。

加速する時間に悪戦苦闘

  『DOORS』は『ASAHIパソコン』の土台の上に築き上げられるべきメディアだったが、実際にはふたたび「ガレージからの出発」となった。

 今度の相棒は、MITへの留学経験もある服部桂君と社外から来てもらった京塚貢君、後に林智彦、角田暢夫、久保田裕君などが加わった。多くは例によって社外協力者に頼った(『ASAHIパソコン』以来の知己、西田雅昭さんの紹介で加藤泰子さんが、今でいえば、契約社員として編集部に常駐してくれた。学生アルバイトの諸君にはたいへん助けられた)。とくに今回は大日本印刷に制作をお願いするにあたって、大日本印刷の社員2人(K、S君)が編集部に常駐するという破格の対応をしてくれた。

 5月には出版局の組織改革でデジタル出版部長が置かれることになり、私がデジタル出版部長兼ドアーズ編集長になった。したがって、私に才覚があれば、デジタル出版部全体を束ねるきちんとした組織にできたはずだが、新設された電子電波メディア局との対応や日々の誌面作りに忙殺され、『DOORS』さえ成功すれば道が開けるという思いも強く、当面の組織づくりはおろそかになった。最終的には『DOORS』廃刊、私自身の出版局更迭という事態に終わり、関係したすべての人びとにまことに申し訳ない結果になった。とくに加藤さんや大日本印刷の2人には、苦労ばかり強いて何の好結果も産めず、まことに慚愧に絶えない(桑島出版担当は『DOORS』創刊にあたって、私の要請を受けて、編集局科学部から服部桂君を引き抜く剛腕も発揮してくれた。その意味で当初の出版局の期待に応えられなかった非力は認めなくてはならない)。

 それはともかく、 私の構想は以下のようなものだった。

  これからはメディアミックスの時代である。紙のメディア、ホームページ、CD-ROM、そういった異なるメディアを組み合わせて新しいメディアを作り上げていかなければ、マスメディアの前途は多難である。最初は、紙のメディア「雑誌」で収支をとりながら、ホームページやCD-ROMを育て上げる準備をしたい。編集局とは違って小世帯で小回りがきく上に、印刷会社、取次、各種プロダクションなど外部組織とのつきあいも深い出版局は、これからのメディア開発のパイロットとして、勇猛果敢に新規プロジェクトに取り組んでいくべきである。

 その主力の紙のメディアがさっぱり売れなかったのが最初にして最大の躓きだった。

 『DOORS』創刊号(11月号)は、1995年9月29日に発売された。A4変形判、136ページ、今度は無線綴じで、CD-ROM付きで定価1480円だった。売りものは「3Dメディア」である。雑誌『DOORS』、CD-ROMのCOOLDOORS、ホームページOPENDOORSの三位一体であり、3つのDOORSという意味で、3Dメディアと呼んだ(3D=Three Dimensionでもあった)。創刊直後のある会合で、私は『DOORS』のコンセプトを敷衍して次のように話した。

 創刊号の特集は「デジタル・キャッシュの衝撃」。インターネットの普及につれてネットワーク上でのビジネスが盛んになりつつありますが、そこでの決済手段として電子のお金が使われます。欧米で進められているデジタル・キャッシュの先駆的実験を紹介しつつ、貨幣の本質にも迫ろうという企画ですが、DOORS創刊と同時に模様替えするOPENDOORSでも、この特集を全面展開します。
 雑誌に掲載した記事や写真をオンラインで流すのをはじめ、取材で撮影した8ミリビデオの映像も取り込みます。双方向メディアの特性を生かして、読者の意見を聞いたり、雑誌本体の定期購読の申し込みを受け付けたりもします。余力があれば、英語版も製作し、世界に向けて情報発信していきたいと思っています。
 インターネットは、回線容量やソフトウェアの関係で、実際には、映像や音を快適に受発信できるようになるのはまだ先の話です。その点をカバーすべく、映像などはむしろCOOLDOORSに収録することにしました。本誌の「ゼロから始める入門講座」で取り上げたソフトウェアの一部やWWWサーバーを見るためのブラウザー「ネットスケープ」日本版も期限付きながら収録することができました。入門講座につける用語解説もCOOLDOORSやOPENDOORSに収録し、これらは回を追うにしたがって増やしていく積み上げ方式で、いずれは立派な用語事典にするつもりです。 
 創刊号のCOOLDOORSには、週刊朝日編集部が製作した『’96大学ランキング』のデジタル・データも採録しました。検索できるので、紙のメディアとは一味違った利用ができるはずです。

 いま振り返っても、その意図や良し、というべきだが、小規模所帯である立場をわきまえず、あれもこれもに手を出して、いずれも中途半端だったと、正直に認めざるを得ない。それよりも私たちにとって誤算だったのは、冒頭でも述べたように、インターネットの普及ぶりがあまりに急激だったことである。

 ジム・クラークはインターネットの未来にかけて、ブラウザー開発者、マーク・アンドルーセンに接触し、短期間で新ブラウザー、ネットスケープを提供、脚光を浴びた人である。『DOORS』を創刊したころは、マイクロソフトのインターネット・エキスプローラと熾烈なシェア争いを続けていたころで、毎月、無料で提供される新しいアドインソフトを付録COOLDOORSに収録する作業だけでも大わらわだった。こうしてブラウザーは日に日に使いやすく便利なものになり、インターネットが拓く世界はそのたびに大きく姿を変えていった。

 そのクラークが前半生を振り返って書いた自伝がNETSCAPE TIME(邦題『起業家ジム・クラーク』(日経BP社、2000)である。彼は「わが社は全プロジェクトを3カ月で見直す」と言ったが、まさに「加速するスピード」こそがネットスケープタイム=インターネットタイムだったのである。このスピードは当時、「ドッグイヤー」とも呼ばれていた。

 私たちはそのスピードに負けたと言っていい。コンセプト上の混乱もあった。「デジタル・キャッシュの衝撃」という特集が象徴しているように、紙面作りの中心は、インターネットをめぐる欧米最先端事情の掘り下げた紹介・解説に置かれていた。「ゼロからはじめる入門講座」も用意していたから、これからインターネットを始めようとする初心者を対象にしていなかったわけではないが、日本でインターネットをやるのは、まだ一部の限られた人である、という認識が強く、当初の想定読者は、どちらかというと、一部専門家の方にシフトしていた。だから表紙も、専門誌的だったし、雑誌の価格も、他の雑誌と同じように、高かった。

 ここには、インターネットにはガイド誌より、メディアとしての本質を掘り下げた記事が求められるのではないかという私の思いが反映していた。だから、創刊前に発行したムックは『インターネットの理解(Understanding Internet)』だった。MIT時代にインターネット最先端を精力的に取材、人脈も築いていた編集委員、服部桂君が全身全霊を打ち込んだ、インターネットの解説本としては他に例を見ない傑作だったと今でも思っている。タイトルがマー シャル・マクルーハンの『メディア論』(Understanding Media)をもじっているように、インターネット黎明期のアメリカの最新事情を丁寧に紹介すると同時に、インターネットの預言者と呼んでもいいマクルーハンについても詳しく紹介した。巻頭ではジム・クラークやマーク・アンドルーセンなどにもインタビューし、アメリカでのインターネットの熱気について伝えている。

 ところが、このムックが予想に反してまったく売れなかったのである。

 アメリカではインターネットが切り拓く新しい社会や文化を紹介した雑誌『Wired』が評判になっていたが、日本の読者はそういう記事より、やはり初心者向けガイドを求めているのだろうか。しかし、ハードウェアとしてのパソコンにはガイド誌が成立しても、ソフトウェアとしてのインターネットにはガイド誌は成立しないのではないか。というわけで、インターネット事情とそのガイド情報という両天秤をうまく塩梅できないままに、『DOORS』は廃刊に追い込まれていったとも言えるだろう。インターネットというオンラインメディアと紙のメディアを共存させようとする試みそのものが、とくに日本においては、難しいということだったかもしれない。

 ムック刊行直後から、さまざまに軌道修正を試みたが、作り上げた仕掛けを直すのに戸惑うわ、釣り糸はこんがらがるわ、餌はなくなるわ――、初心者ガイドに力を入れると、今度は当初の最先端情報への目配りが足りなくなるといった悪循環で、日々のあまりの多忙さもあって、軌道修正はスムーズに進まなかった。一方、世の中は降って湧いたようなインターネット雑誌の創刊ブームで、1996年6月には、初心者向けガイドに撤した『日経ネットナビ』(日経BP社)も創刊された。老舗の『インターネット・マガジン』(インプレス)と新手の『ネットナビ』に挟まれて、『DOORS』はずっと苦戦を強いられたが、「3Dメディア」としての実績は、少しづつ築かれつつあったとも自負している。主なものを整理すると、以下のようになる(写真は1996年7月号の3DOORS案内)。

①出版業界の先陣を切っての出版案内開設(96.2)
  出版局発行の各種雑誌の案内や書籍の新館案内などをOPENDOORSで行い、ASA(朝日新聞販売店)、取次につぐ第3の販売ルート開拓をめざした。『週刊朝日』連載と連動した村上春樹の『村上朝日堂』ホームページはたいへんな人気だった。
②OPENDOORS及びCOOLDOORSでの「プロバイダー・パワーサーチ」の開始(96.9)
  全国で続々誕生しつつあったプロバイダーの紹介は、当初は本誌で行っていたが、その数が増えるにつれて、誌面の制約が生じ、それをCD-ROMやホームページ上に移し、かつサービス別、地区別などで検索できるようにした。
③「進学の広場」開設(97.4)
  出版局内の大学班と協力して、朝日新聞の強みを生かした教育ホームページのたち上げをめざした。
④イベントへの協力
  広告局の企画するイベント、「インターロップ」や事業開発本部の「朝日デジタル・エンターテインメント大賞」など、朝日新聞社主催のイベントにも協力して、マルチメディア部門への進出をめざした。

 めくら蛇に怖じずで、よくもまあ、いろんなことをやろうとしたものだと、列記しつつ、その〝蛮勇〟に我ながら恐れ入るが、 OPENDOORSは1ヵ月に200ヒット近く、出版業界のホームページとしては屈指のアクセス数を得た。そして、創刊1周年を迎えたころには、編集部態勢も整い、DOORSらしい誌面作りも軌道に乗り出した。部内にはシステムエンジニア、編集者、デザイナーなどからなるOPENDOORS作業班もできて、いよいよこれからという時、『DOORS』は突如として休刊を宣告され、1997年5月号という中途半端なタイミングで、短い命を終えた。

新サイバー閑話(90)平成とITと私⑪

インターネット誌『DOORS』創刊

 私は『月刊Asahi』の3代目編集長となり、総合月刊誌の新しいスタイルを確立したいと悪戦苦闘したが、結局はうまく行かず、A4変型判から従来の総合月刊誌のA5判、いわゆる「弁当箱」スタイルに移行するなどの経過を経たのち、その休刊に立ち会うことになった。『20世紀日本の異能・偉才100人』(1992.7号)など発売直後に完売する特集をしたなどの思い出もあるが、ITと直接関係がないので、ここではその後、取り組むことになったインターネット情報誌『DOORS』に話を移したい。

 『DOORS』は結論を言えば、失敗した。責任はひとえに私の非力にある。それは編集者としての力量にも関連するが、より多くは編集長としての部内統率力、および社内政治力の不足にあった。これから書き進めるにあたって、そのことをまず認めておきたい。

 『ASAHIパソコン』のように成功した雑誌を語るときは、関係者の懐かしい顔も浮かび、微笑ましくも楽しいけれど、失敗について語るのは辛い。その折々に浮かぶ関係者に対しては申し訳ない思いが先立つし、逆に今更ながらに怒りを噛みしめることもある。  

 また『DOORS』の経過には、インターネット時代に翻弄された朝日新聞社のネット戦略の混乱と、出版局を一貫して軽視した姿勢が大きく影を落としている。私自身は、小規模所帯でさまざまな実験が行える出版活動の方がむしろインターネットと相性があると考えて、その実験プロジェクトとして『DOORS』を創刊、その過程で折にふれて要路の人びとにそう提言もしてきた。しかし、インターネットの台頭に驚いて長期計画も見識もなく、新聞紙面をそのまま電子化すればいいと、asahi.comをあたふたと立ち上げた社幹部にとって、それに抗おうとする『DOORS』と私自身が気に入らなかったのだろう、『DOORS』はこれからというときにいきなり休刊となり、私は出版局を外され、総合研究センターに〝放逐〟された。それが当時の出版局の幹部連中の利益でもあったらしい。彼らは率先してその動きを〝支援〟、私はその後、出版局に戻ることなく退社した。

 それは、出版局が文藝春秋社から花田凱紀氏を招いて新女性誌『ウノ』を創刊した出来事とも複雑に絡んでいた。編集局から天下り的に送り込まれた桑島久男出版担当によって強行されたものだが、花田氏は文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』でユダヤ人虐殺の「ガス室はなかった」という記事を掲載、その結果として同誌は廃刊、編集長を更迭された人物である。彼はその後、朝日新聞批判を続けると同時に、安倍政権応援とでも言うべき『Hanada』や『WiLL』などの編集長をしている。この「異例の決断」が朝日新聞にとって何の益もなかったことは歴史的に証明されている。

 折りしも2023年5月末日、創刊1922年で「日本最古の総合週刊誌」を誇った『週刊朝日』が6月9日号で休刊した。まことに象徴的な出来事である。『DOORS』創刊と休刊、asahi.comスタート、『ウノ』創刊、このころに朝日新聞出版局、それと同時に朝日新聞本体も滅びの道を歩み始めたと私は思っている。大きく見れば、インターネットの発達によってマスメディアが衰退していく過程のできごとだが、ときに「失敗の時代」ともいわれる平成という時代の苦難を背負っているとも言えよう。私はその激動の渦中にあり、その波に翻弄され、そして挫折した。この点については最後で振り返ることにして、まずは『DOORS』について述べておこう。

・1995年はインターネット元年

 最初に、私が『ASAHIパソコン』を去った1991年から『DOORS』を創刊した1995年までのインターネットの発達史を概観しておこう。

 インターネットは東西冷戦下のアメリカで構想され、そのアイデアは、核戦争によってネットワークがずたずたにされても、生き残ったコンピュータがいくつかのルートをたどりながらコミュニケーションできるように、ネットワークを管理する中枢を置かず、すべてのコンピュータを平等に結んでいくことだった。そのため、各コンピュータに固有のアドレスを割りふり、メッセージは小さな固まり(パケット)に分けて複数のルートで送り、到達した時点で組み立て直すという方式が採用された。

 1968年、アメリカ国防総省の高等研究計画局(ARPA)が全米4大学にノード(拠点)を置いて、ホストコンピュータの接続実験を始めたのがインターネットの初めである。しだいに全米各地の大学、研究機関、さらには外国からもアーパネットへの接続が行われ、ノード間は高速回線で結ばれ、幹線のバックボーンが整備されていく。その後、運営は全米科学財団(NSF)に引き継がれ、TCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol)がインターネット標準プロトコルに指定された。

 1993年に発足した米クリントン政権はインターネットを重視したNII(National Information Infrastructure 全米情報基盤)構想を発表、「情報スーパーハイウエイ」という言葉とともに、インターネットが広く流布されることになった。軍事用、学術用に発展したインターネットは、しだいに商用利用へと道を開き、1995にはつながれたホスト数で、学術関係よりもビジネス関係の方が多くなっている。同年にはNSFネットのバックボーンも民間ネットワーク・プロバイダーへ移された。日本で初期のインターネット普及に取り組んだのがJUNET(Japan University Network)であり、それが発展したWIDE(Widely Integrated Distributed Environments)プロジェクトで、その中心人物が村井純氏だった。

・WWWとブラウザーの発明

 私たちがネットワーク・マガジンOPENDOORSを立ち上げ、後に雑誌DOORSを創刊した1995年こそ、「インターネット爆発」の年だった。私は1994年夏ごろから、新しいネットワーク雑誌に取り組むことになった。当時はクリントン政権(とくにゴア副大統領)の音頭で「情報ハイウエイ」構想が喧伝されていたが、インターネットという言葉はまだほとんど知られていなかった。だから同年末に発足した編集部は「情報ハイウェイ編集部」を名乗った。最初は誌名も『情報ハイウエイ』にしようと商標登録もとったが、インターネットがまたたく間に普及すると、「情報ハイウエイ」という言葉はすっかり古びてしまい、結局は使わなかった。このとき私はインターネットの普及の激しさを実感したが、事態はそんな生易しいものではなかったのである。

 出版局を去った後の1998年に出した『マス・メディアの時代はどのように終わるか』(洋泉社)のデータをもとに、1995年の状況を再現してみよう(本書は絶版となっている。『ASAHIパソコン』および『DOORS』について丁寧に振り返っており、本<平成とITと私>前半の記述の多くは本書に寄っていることをお断りしておく)。

「インターネット」という言葉を含む記事が朝日新聞紙面に扱われた件数の推移を年別に見ると、以下のようになる(ASAHIネットの朝日新聞記事データベースから)。

1991          6 
1992          8
1993         10
1994       105
1995       676
1996     2381
1997     2487

 1996年から格段に増えているのが一目瞭然である。それより数年前に遡るが、技術専門家のためのものだったインターネットを飛躍的に普及させる原動力になった開発が2つあった。

 1つはWWW(World Wide Web、ワールドワイドウエブ、ダブリュ・ダブリュ・ダブリュとかスリーダブリュなどと呼ばれる)である。1992年、スイスのセルン(欧州合同原子核研究機関)に勤務していたティム・バーナース=リーが、ネットワークで結ばれたコンピュータ内の情報を相互に関連付け、参照できるソフトを開発した。これによって、いったんWWWに載せられた文書は、インターネットを通じてリンクを張ることで、世界中の文書やプログラムと連動できるようになった。ユーザーはまさに「クモの巣」内に取り込まれたさまざまなデータを、瞬時にしかも自由に利用できるようになった。『ASAHIパソコン』の項で述べたテッド・ネルソンの「ハイパーテキスト」構想はWWWによって実現されたともいえよう。WWW用に使われる言語がHTML(エッチティエムエル、Hyper Text Markup Lunguage)である。

 そして、もう1つの発明が、今もふつうに使われているブラウザー(閲覧ソフト)だった。1993年、イリノイ大学の学生だったマーク・アンドルーセンによって開発された。WWWにビジュアル要素を取り込み、テキストばかりでなく、音も映像も扱えるようにしたものだ。技術者の間に広まっていったインターネットを万人向けの道具に変えたキラー・アプリケーションだった。

・Windows95発売、インターネットが流行語となる

 アメリカを中心に世界的に進んだインターネットの急成長が、ほとんど同時に日本に押し寄せてきたというのが1995年の状況だった。この年に日本で何が起こったかを整理してみると、

①阪神淡路大震災で、災害に強い情報手段として注目される
 この年1月に起こった阪神大震災(写真は高石町会のウエブから)で、パソコン通信とともに、インターネットでの情報伝達が、被害速報、被災者の安否の確認、地域に密着した活動報告などで、大いに貢献したことが注目され、インターネットへの社会的関心が一挙に高まった。
②ネットスケープ・ナビゲータがインターネット商用化に拍車
 3月にブラウザーNetscape Navigatorの発売元ネットスケープ・コミュニケーションズ社の日本法人が設立され、日本のインターネット商用化に拍車がかかった。
③さまざまなレベルでのWWWサービスが始まる
 マスメディア、大手メーカー、商事会社、銀行、公共機関、経営団体、地方自治体、さらには個人まで、さまざまなレベルで、WWWを使った製品紹介、求人情報などの実験的サービスが始まった。
④関連雑誌の創刊ラッシュ
 インターネット関連雑誌で一番早かった『インターネット(INTERNET magazine)』(インプレス)の創刊は1994年だが、月刊化したのは1995年6月。日本版『ワイアード(WIRED)』、『DOORS』などみなこの年の創刊。雑誌ばかりでなく、インターネットをタイトルにつけた単行本も百冊以上刊行された。
⑤低価格の商用プロバイダーが続々誕生
 比較的簡単に開業できることから、個人経営や地方自治体経営など、雨後のタケノコのようにプロバイダーが誕生し、その紹介がインターネット雑誌の一つの柱になった。
⑥Windows95発売とパソコン狂騒
 マイクロソフトが開発したグラフィカル・インターフェースを備えたパソコン用基本ソフト、Windows95が、アメリカに続いて日本でも11月に発売され、パソコン・ブーム、インターネット・ブームに拍車がかかる。騒ぎに煽られてパソコンを買う人が増え、暮の東京・秋葉原はさながらお祭りの様相を呈した。「超初心者」目当てのガイドブックも多数発売された。
⑦インターネット、流行語になる
 年末恒例の「日本新語・流行語大賞」のトップテンに「無党派」「NOMO」「官官接待」などと並んで、「インターネット」が選ばれた。喫茶店に置いたパソコンでインターネットを体験できるインターネット・カフェも各地の流行現象となった。

    こうして見ると、これまで一部専門家のツールだと思われていたインターネットが突然、誰もが興味を持つ情報ツールに変貌した年だったことがよく分かる。

 

新サイバー閑話(62)平成とITと私⑩

いざ鎌倉、源氏山大花見宴

 『ASAHIパソコン』創刊前の1988年春、外からの助っ人ばかりからなる編集部の気勢をあげるために、わが家の裏の源氏山で、「いざ鎌倉 大花見宴」を始めた。適当に酒と肴をもちより、家族や友人、知り合いを誘って、三々五々、毎年同じ桜のもとに集まる。紅白の垂れ幕を張って、粋な芸者?が歌って踊る、ちょっとドはでな花見だが、友が友を呼び、参加者が100人規模になることもあった。雨の日も最初から我が家で「花より酒」の宴を絶やさず、花見は2018年まで続いた。

 二十年見れども見れども桜かな

という小林一茶の句があったと思うが、まことに「三十年見れども見れども桜かな」の年月だった。花見は日曜と決めていたから、一週間日取りをあやまると、まだ五分咲きだったり、すでに花吹雪が舞ったり――、前日は満開だった桜が夜半の嵐で花の絨毯になってしまったこともある。花は真っ盛り、しかも晴天という年もけっこうあり、澄んだ青空をバックに桜が揺れるのを見ていると、新人として盛岡支局に赴任した翌5月1日、メーデー取材に同行して見た岩手公園のみごとな桜を思い出したりした。公園わきに石川啄木の、

 不来方のお城の草に寝転びて空にすはれし十五のこころ

の歌碑があった。春になると、何度も山に登って挙行日を決めるのは私の仕事だったが、そんなときは在原業平の、

 世中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

を思い出したりもした。

 冒頭の写真は2011年のもので、夕方だからすでに帰った人も結構いたが、ゴザや垂れ幕も片付けたあと、思い立って記念撮影したものである。

・花見宴実行委員会と若者3人組

 岡田明彦、熊沢正人の『ASAHIパソコン』創刊の大助っ人が花見でも実行委員となってくれ、熊沢さんは紅白の垂れ幕を用意し、パワーハウスの若手も動員、岡田君は地元の仲間たちを招いて大いに気勢を上げてくれた。家族が参加することもあった。我が家では近くの畳屋から大枚の畳表を調達、そのゴザが垂れ幕と並ぶシンボルになった。

 最初のころの顔ぶれには村瀬さん、おてもりさん、斎藤さん、編集部の宮脇、見沢両君、「あむ」の荒瀬君、小本さんなどの姿も見え、まさに『ASAHIパソコン』気勢会の趣で、当時の出版局次長、柴田鉄治さん、三浦君なども参加してくれている。その後はときに地元鎌倉の作家、井上ひさしさん、CGの大家、河口洋一郎君なども顔を見せた。雨の日に若い女性陣が気を利かせて持って来てくれたぬいぐるみで大いに盛り上がったこともある。明治大学の夏井高人さんも一度来て、しこたま酔っぱらって帰っていった。法政大学の白田秀彰さんが他の人とは群を抜いた伊達姿で若い女性と写っている写真も残っている。

 手元のノートに「週刊読書人」1999年2月5日号にライフワーク総合研究所の鈴木隆さんが書いた「わが交遊」というコラムのコピーが残っていた。花見宴を紹介したものだが、私が鈴木さんと知り合ったのは彼が大修館書店の編集者、私が『アサヒグラフ』編集部員の時で、徒歩で描き出した壮大な絵地図の作者を紹介してもらったのがきっかけだった。

 近所の井上ひさしさんのお宅を訪れた時、彼が「創刊以来のバックナンバーを揃えている」と合掌造りの2階の書棚にずらりと並ぶ『ASAHIパソコン』を見せてくれたときは、ちょっと感激した。北九州から中国文学者の林田慎之介さんがやってきて、朗々たる歌声を披露してくれたこともある。林田さんとは『月刊Asahi』時代に三国志特集をするときに寄稿していただいて以来の仲だが、その縁で知り合った知泉書館の小山光夫さんも常連の花見仲間で、彼にはその後、私のサイバーリテラシー3部作を出版していただくことにもなった。同書館の高野文子さんが一緒だったこともある。

 花見のアルバムを見ていると思い出はつきない。

 この花見で大活躍してくれたのが梶原巧、伊東文武、田村良作の若者3人組だった。彼らとの出会いは、ムック『おもいっきり電子小道具』のころに遡る。例によって助っ人探しに明け暮れていたころ、女性編集者が有能な学生がいると言って、連れてきたのが梶原君だった。

 彼は職場にやって来るなり、「もしかすると『アサヒグラフ』の矢野さんではないですか」と言った。手にはアサヒグラフ時代の私の名刺も持っていた。「そうだよ」、「やっぱりそうですか」。

 私が『アサヒグラフ』時代に取材したマイコン少年の1人が、まだ高校生だった彼だった。押し入れをマイコン部屋にしてゲームに興じていたが、「マイコンもだんだん自分に似てくる」などとしゃれたことを言って私を喜ばせたのである。その日は偶然の再会を祝してすぐ食事に出かけ、乾杯した(写真は『アサヒグラフ』1981.4.17号)。

 彼は工学院大学の学生で、すぐ仲間2人を連れてやってきて、3人の学生はそれ以後、『ASAHIパソコン』の強力な戦力になった。もちろん花見においても。

 最初の花見では前夜から泊まり込みで席取りになり、めざす一本の桜の下で寝ずの番までしてもらった。私が朝方山に登っていくと、隣に同じように寝転んでいる人がおり「ここは俺たちの陣地だ」と言った。「ほら、そっちの隅に靴が脱ぎ捨ててあるだろう。あっちには小枝がある」。「そんなに広い必要はないんじゃないの。半分譲ってくださいよ」と話は簡単についた。寝そべっていた人はすでに相当酒が入っていたが、すぐ仲間によって樽酒が届けられた。我々の方は昼まで酒はなく、ブルーシートの上に用意のゴザを強いたり、紅白の垂れ幕をかけたりと、花見ムードをつくりあげた。すると男性が「やっぱり花見はゴザじゃないとねえ」とやってきて、樽酒をふるまってくれた。鎌倉市内の飲み屋の仲間がやはり毎年、ここで花見をしているらしく、男性は高校の美術の先生で大変な酒好きだった。

 そんなことで昼過ぎになると、両グループはすっかり打ち解け、にぎやかな花見が始まった。梶原君は今でも「あのときほど酔っぱらったことはない」と回想している。我々は重い発動機を山に持ち上げ、レンタルのカラオケマシンで景気をつけたが、先方の飲み屋の女将が「花見にカラオケなんて無粋なものは持ち込んじゃダメ」と制止するのも聞かず、仲間から飛び入りも出て、花見は大いに盛り上がった。

 3人組はほぼ毎年花見に参加、そのうち彼女を連れてくるようになり、結婚して(私は2組の仲人をした)子どもが生まれ、家族ぐるみで参加するようになった。サイバー燈台の<Zoomサロン>ではOnline塾DOORSの履歴を紹介しているが、第14回にスピーカーとして出演してもらったのが伊東君の長男、直基君である。若かった3人ももう50代半ばである。

・花見に妍を添えた梅里桃太郎、そして西田グループ

 『ASAHIパソコン』創刊前だったと思うが、中江さんに六本木のピアノバーに連れてもらったとき、そこでピアノを引いていた梅里桃太郎こと芳賀敏さんに会った。音大ピアノ科出身で女装好き、花見をすると言ったらさっそく、出演してくれることになった。我が家に衣装を持ち込んで身支度を整え、しゃなりしゃなりと山に登る。「よっ!桃太郎」と拍手喝采で、通行の花見客からおひねりも飛んだ。あいにく雨の日に、敏ちゃんがせっかく用意したのに、と夕方になって鶴岡八幡宮の段かずらまで繰り出したこともあった。

 もう1人のVIPが入門講座や辛口コラムを書いてくれた西田雅昭さんである。彼はたしか2回目から最終回まで毎回、参加してくれたばかりか、コンピュータ仲間の黒岩潤司、久米正浩、市川剛、橘静枝、倉田彰敏、大江富夫、松島好則といったコンピュータやインターネットの猛者をどんどん誘い、それらの人びとがまた常連になって、花見グループの一大勢力を築くにいたった。みんな飲んベイかつうるさ型で、花見はいよいよ盛り上がった。『DOORS』を手伝ってもらった加藤泰子さんが顔を見せたこともある。

 そのうち岡田君が「春が源氏山の花見なら、正月はうちで新年会をやる」と言い出し、こちらも大井町で毎年3日に開かれ、花見を終えたあとまで続いたと思う。北海道出身の岡田君らしく炉に備えた石狩鍋が毎年の定番で、友人の劉宏軍さんが民俗笛の演奏をしてくれるなど、こちらもにぎやかな新年会だった。

 さらにある時、西田グループから夏は我々で合宿を計画するとの提案がなされ、黒岩さんのあっせんで高原の別荘で合宿したり、久米さんが地元の静岡の農家を借り切るなど、花見の輪は大きく広がりもしたのである。

 西田さんは現在、ライフワークとも言える『治安維持法検挙者の記録―特高に踏みにじられた人々』(小森恵著、西田義信編、文生書院)のデータベース作りに取り組んでおられる。恩師の小森恵さんが手がけた治安維持法検挙者のデータを引き継ぎ、2016年に大部の書物を刊行したが、そのデータをより完璧なものにすることにほとんど独力で取り組んでおられる。こういうことにこそ国(デジタル庁)の補助がほしいものだとつくづく思う。

 さて花見だが、我が家でも妻は敏ちゃんの着付けや定番となったタケノコと牛肉の煮物作りに忙しかったし、最初はまだ中小学生だった娘や息子も成人して社会人になり、家族で参加したり、友人を呼んできたりするようになった。いつの間にか、我々夫婦も「じいじ」、「ばあば」と呼ばれるようになっていた。

 後半には、サイバー大学の教え子で後にサイバーリテラシー研究所を助けてくれるようになった安田央、渡邊淳、新井健太郎、西岡恭史各君、やはりサイバーリテラシー研究所仲間の齊藤航君や藤岡福資郎君たちが参加するなど、メンバーも大きく移り変わったが、初期の参加者の輪はずっと続いた。ライターの吉村克己君や『月刊Asahi』で一緒だった高野博昭君は初期から参加してくれたし、朝日新聞の同期で大妻女子大学教授になった松浦康彦、『DOORS』で一緒だった鎌倉在住の角田暢夫両君も後半の常連だった。元NECの後藤富雄さんもその1人で、玄関にびっしり並んだ別人の靴を履いて帰ったこともある。

 30年の年月は重い。気持ちはあっても身体がままならぬ人も出て、山にまで登らず我が家に直行する人も増えた。お目当ての桜も老化し花ぶりも衰えたこともあり、2018年を最後に31年の幕を下ろした。この記録をきっかけに、Zoomで同窓会をするのもいいかと思ったりするが、花も酒もないような会ではだれも満足しないであろう(写真は2018年、最後の花見宴の一コマ)。

 

新サイバー閑話(61)平成とITと私⑨

私がインタビューした人びと

 創刊号から私は毎回、インタビューを続けてきた。パソコン発達に貢献した人びとの想像力と熱意あふれる話を聞いたり、パソコン使いの達人に極意を伺ったり、不自由な体でパソコンを駆使し新しい人生を切り開いた人の苦労話を聞いたり、パソコン通信を利用して二人三脚で小説を書く方法を尋ねたり、農家のパソコン利用について取材したりと、私自身がパソコンという道具について日ごろ考えていることを、その折々に来日した外国人も含めて、さまざまな分野の人に聞いたものである。有名人もいれば、無名の人もいた。

 写真を担当してくれたのは、かねてコンビの岡田明彦君である。かつて『アサヒグラフ』で全国の最先端技の現場を訪ねたように、私たちは月に2度、インタビューのために各地を回った。彼の人物の内面を映し出すようなすばらしい写真が紙面を飾ってくれた。この回に掲載した写真はすべて岡田君が当時撮影したものである。

・ニコラス・ネグロポンテが夢見た世界

 創刊号はかねて予定のニコラス・ネグロポンテ所長だったが、彼の「収縮する3つの輪」についてはすでに説明したので、ここではエピソードをいくつか紹介しておこう。

 彼はインタビュー前の講演で、こういう話をしていた。

 ウイズナー教授といっしょに、日本人実業家から箱根の別荘に招かれたとき、ウイズナー教授が、庭に飾られた彫刻を、その配置に触れながら具体的にほめたのに対し、当の実業家は「うーん」とだけ応えた。そうしたら通訳が、主人は、かくかくの点においてウイズナー氏の考えに賛成だといっております、とずいぶん長い英語に翻訳したので驚いた。コンピュータに「うーん」というと、私たちの感情をちゃんと解釈した言葉が出てくるようになることこそ、パーソナル・コンピュータの理想である、と。

  インタビューしたとき、彼はその話に触れて「通訳は主人のことがよく分かっていたので、発言の裏にある意味を汲み取って、具体的に相手に伝えた。パソコンはまだ月から突然やってきたみたいなもので、人間とは共通体験をほとんど持っていませんが、将来は、人間にとって親密な存在となり、通訳が会話の欠けていた部分を補ったように、あなたがコンピュータに『うーん』というと、そこに含まれた感情までも解釈して、相手に伝えてくれるようになるんですよ」と語った。

 私がテクノストレスなどの問題を持ち出して、コンピュータ社会の弊害に水を向けると、彼は「コンピュータが導入されると、人間が神経質になり、ストレスが増えるという考えも間違っています。現実はその反対で、コンピュータを使うことで生活を便利なものにし、そのおかげで、自分や家族のために使う時間を増やすことができるということなのです」と、いかにもコンピュータ伝道師らしい答えだった。

 彼は当時から、まだ重くはあったが、携帯パソコンを持ち歩いていた。コンピュータへの情熱がひと一倍強いからだろう、その将来にはきわめて楽観的だが、彼もまた明快なビジョンによって、メディアラボを引っ張り、パーソナル・コンピュータ発達史に大きな足跡を残した人である。雑誌『Wired(ワイアード)』創刊にも深く関わり、そこでコラムを書き続けている。

 ネグロポンテさんは、建築科の学生だったころ、よりよい設計のために建築家を助けるマシンがほしいと考え、アーキテクチャーマシン・グループを設立している。25歳でMIT教授に就任、メディアラボ所長になったのが32歳の時である。端正な顔立ち、スマートな物腰、やわらかな語り口、「先端的なコンピュータの仕事をしている科学者・学者というより、洗練され、成功したインターナショナル・エグゼクティブのよう」と言われていた。新分野に果敢に取り組む若い人たちの才能を見つけ出し、引き上げていく新人発掘の名手でもあった。

 後に『DOORS』時代、私はメディアラボ准教授である石井裕さんから、その具体例を聞いた。石井さんはNTTヒューマンインターフェース研究所でグループウエアを研究し、コンピュータとビデオと通信技術を利用した画期的な仮想共同作業システム「チームワークステーション」開発などで高い評価を受けていた。メディアラボに招かれる経緯はこうだった。

 94年に、それまで一面識もなかったアラン・ケイから電子メールで、コラボレーション(共同作業)をテーマにしたアトランタ会議への参加要請を受ける。会議にはネグロポンテ所長も来ていて、会議後、いきなり「メディアラボに来ないか」との誘いを受けた。アラン・ケイは口説き文句として、「メディアラボは、技術やシステムではなく、あなたのエステティックス(美学)を求めている」と言ったという。「日本では技術や開発だけが科学者の研究対象だとみなされて、コンセプトや美学・哲学の研究はあまり認められなかった。それをアラン・ケイが初めて評価してくれてたいへん感動した」。彼はこの申し出を受け翌95年、MITで面接試験代わりの講演をし、10月から准教授に就任した。

 MITは石井さんが発表する論文などを通して、その才能に目をつけ、デモをする機会を与え、合格となると、その場で彼を招聘してしまったのである。経歴重視や根回し本位の人事では、こういう芸当はできない。MITに多くの才能が集まる秘密の一端がそこにあるだろう。後にやはりネグロポンテさんの強い推挽でメディアラボ所長となった伊藤穣一君の場合は、本人から事情を聞く機会がなかったが、よく似た経緯だったのではないだろうか。

・梅棹忠夫「情報理論」の世界的先駆性

 創刊1周年を記念して満を持してインタビューしたのが、国立民族学博物館長だった梅棹忠夫さんである。専門の文化人類学はともかく、情報に関する分野で言えば、1969年に書いた『知的生産の技術』(岩波新書)が有名だが、それより前の1963年に発表した「情報産業論」は、短い論文ながら、世界に先駆けて情報社会の到来を予言した画期的なものである。

 そこにはこう書かれている。

 「情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上には出なかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化が進んだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、情報の産業化が進行するであろうという予感のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもいい」

 梅棹さんは、農業の時代、工業の時代、情報産業の時代という「産業史の3段階」を、有機体としての人間の機能の段階的な発展と関連づけ、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代、外胚葉産業の時代とも呼んでいる。「農業の時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能充足の時代であり、その意味で、これを内胚葉産業の時代とよんでもよい」「工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物質とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる」「(最後は)外胚葉産業の時代であり、脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である」。そして、コンピュータは「外胚葉産業時代における脳あるいは感覚器官の機能の充足手段」として位置づけられ、その役割が期待されていた。

 発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「『情報産業論』1963/2017」』の一読をお薦めしたい)。

 『知的生産の技術』は、発売当時ベストセラーになったから、多くの説明はいらないと思うが、今の若い人で知っている人は少ないかもしれない。知的生産とは「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出すること」と定義されている。これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。

 『ASAHIパソコン』創刊号の特集は「めいっぱいパソコン情報整理術」だった。あのころに私たちが見た夢は、いまはスマートフォンではすでに当たり前になっている。情報を扱う技術の発達には、まことに時代の進化を痛感させられる。

 梅棹さんは、1986年3月に突然視力を失うという不幸に見舞われ、不自由な生活を強いられていたが、杖をつきながら民族学博物館を案内してくださった。そこで「知的生産の巨大技術の開発と実行」でもあった民族学博物館づくりの苦労話を聞いたのだが、巨大コンピュータ・システムに支えられた博物館を作る際、「『文科系の研究所になぜコンピュータがいるんだ』とよく言われました。それに対して私は『考え方が反対で、需要に応じて機械を入れるのでなく、まず機械を入れれば、需要が出てくる』といったんです。博物館自体がそうで、世論調査をいくらやっても、博物館を作れというニーズなんか出てきません。だけど作れば、喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こす。新しいものはすべてそうです」と話してくれたのが、とくに印象的だった。

・木村泉・森毅・佐伯眸

 創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。

 冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。

  先輩に会いに行くようなワクワクした気分で東京工業大学に木村教授を訪ねた日が、つい最近のように思い出される。「パソコン徹底入門」のさわりを聞きに行ったのである。

 「パソコンはワープロと比べて、まだ前もって説明しなければならないお流儀が、傷口として残っています。いろんなことができるんだが、それをなめらかに行うための工夫がない」「エムエスドスは傷口だらけとも言えます」という木村さんに「現段階ではパソコンよりもワープロの方が便利ですか」と恐る恐るたずねると、「これは、何をおっしゃるウサギさんでありまして、実はパソコン入門の本を書きたい」との答えで、私は大いに意を強くした。

 いろんなキーボードの話、文章を書く道具としてのワープロの利点などを聞いたが、「ソフトの違法コピーはどうしたらなくせるか」という私の質問に対して、木村さんは「よくわからないんだけれど、いままでの日本の国民性の中ではあり得るように思います。宮沢賢治の『オッペルと象』の象ではないけれど、世間さまに対して、ひとつ生きてる間は耕してがんばろうと、安楽とはいわないまでもそこそこ食えて、働いて、『ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア』とオッペルの像が言うわけでしょう。あんな感じの雰囲気が常識になればいいと思いますね」と答えた。ソフトウエアを作る人は楽しみながらも一生懸命働く、それにユーザーがきちんと応えるような社会を期待しての発言だったのだが、さて、日本の現状はどうだろうか。

 数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。

 「バグなしの情報というのは無理なんでね。こっちもバグがあると思いながら付き合うよりしょうがないんじゃないかな。コンピュータ科学者たちと話していて感心したことがあるんです。プログラムにはバグは、虫はいるんやと。虫はおってもええけれども、あまり暴れたら困るんで、なるべく小さな所に関門があって、遠くまで影響を及ぼさないようにしておく。虫が異常発生して変なことが起こると、遠くからでも分かるようになってるのがいいプログラムやというんですね。コンピュータの虫のエコロジーです。われわれだって、適当に虫を飼いながら健康に生きとるわけで、うっかり抗生物質を使いすぎて虫がいなくなると、逆に変なことが起こったりします。今の比喩で言うと、健康であるよりしょうがないんですね」
 「虫がいる方がたぶん自然なんでしょうね。情報の世界を変な清潔幻想と同じ感じでとらえるのは無理じゃないかな。いま、教科書が非常につまらないのは、虫がいたらいけないことになってるからでね。それで、しょうもないところにうるさいんですよ。だけど、間違いを見つけた方にしてみれば、楽しいですからね。間違いぐらいあったっていいと思うんですよ。大学の教科書ぐらいになると、図々しいのがたまにあって、この本にあるミスプリを発見するのは諸君の勉学になるだろう、なんて書いてあります。情報とのつきあい方というのは、本来はそういうものだと思うんです。相手の権威を信用してはいけない。自分で判断せんといかんわけですね。短期的には、いろいろ規制せざるをえないかも分からないけれど、規制することがいいことだということになったら、これはもう情報自身と矛盾しますね」

 『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがないし、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。

 「ある分子構造だとか流体力学だとか、実際に手で触れるような経験ができないものをシミュレーションしていくのは分かるけれど、そうだとすれば、ある構造をどう探索しようとしているのか、どういう方向で意味を抽出しようとしているのか、いつもユーザーとインタラクションできるような構えがなくてはいけない。そのとき重要なのが『略図性』という概念です。略図では、裏にある意図、目的、方向づけなどがはっきり見えるからこそ、ユーザーとのインタラクションできるのです」

 佐伯さんは、「コンピュータを経験代行的に使うのではなく、さまざまな活動を触発するために使うことが大切」といい、教育現場で実際に行なわれている例をいくつかあげてくれた。また、コンピュータをグループ・インタラクションの媒体として利用するグループウエアが、これから教育現場でコンピュータを活用するための一つの方法だと話してくれた。

・ハイパーテキストとネルソン、そしてアトキンソン

 テッド・ネルソンはパーソナル・コンピュータ黎明期に『コンピュータ・リブ』と『ホームコンピュータ革命』を出版し、いち早くその知的ツールとしての可能性を予言、多くの人々に強力な影響を与えた。1989年9月、国際シンポジウムに出席するために来日した「伝説の人」に会った。

 ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。

  ハイパーテキストについて、ネルソンさん本人はこんなふうに語った。

 「ハイパーテキストの考え方は、さまざまな文書をいかにして相互に関係づけるかということです。あるテキストに出てくる言葉を知りたければ、すぐそちらに飛び、そこで出てくる動物を知りたいと思えば、またその絵が出てくるテキストに飛ぶ、といったふうに、一瞬にして相互に関連付けられるテキストです。ハイパーテキストは文章、映像、グラフィックスなど、どんな形式の情報でも取り込むことができるし、その情報を相互に関連付けることもできます」

 学生時代につけていた厖大なメモの山を前に、押しつぶされそうな気分になり、どうしたらそれらメモ同士を関連づけられるかを考える中で育まれたアイデアらしいが、「紙のメディアは文章を秩序だって整理するにはいいけれども、直線的で、硬直的である。もっと自由な発想、ひらめきがほしい」ということでもあった。

 ハイパーテキストという考えをはじめて提示した『コンピュータ・リブ』は、のちにアップデート版が市販され、私もそれを入手したが、その実験的試みとしてだろう、表紙が前と後の二つあり、どちらからでも読める、いや、本全体のどこからでも読めるという新しいテキスト形式の実験にもなっている。

 このハイパーテキストの考えを具体化するためのプロジェクトが「ザナドゥー(Xanadu)」である。人びとのさまざまな見方、考え方を一堂に集めた共通の場をつくるのがねらいで、「ザナドゥーでは、全世界の著作物をオンラインで結び、すべての人がそのシステムを利用して情報交換する」ことをめざした。ザナドゥーは、オーソン・ウエルズの映画『市民ケーン』に出てくる新聞王の大邸宅の名でもあるが、ネルソン氏によれば、「原典は、英国の詩人コールリッジの『クブラカーン』で歌われている桃源郷」なのだという。彼は「この詩はアメリカやイギリスではよく知られていて、表現が非常に美しいので、ザナドゥーという言葉を聞くと、みなが文学的響きを感じます」といって、その詩の一節を朗々と暗唱してくれた。

 ザナドゥーでは、著作権を保護するための仕組みも考えられ、全世界を情報ネットワークで覆おうという壮大なものだが、「世界で最も長いプロジェクト」とも呼ばれ、構想から4半世紀たった当時、なお実現のメドはたっていなかった。ネルソンさん自身、「このプロジェクトは、蒸気のような、上にのぼっていくけれど、どこに行くのかわからないベイパーウエア(Vaporware)です」と笑い、「アラン・ケイの『ダイナブック』、ニコラス・ネグロポンテの『アーキテクチャー・マシン』、私の『ザナドゥー』、この3つがベイパーウエアと呼ばれている」とつけ加えた。

 ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。

 私は、インタビューの前文で「ハイパーカードは、文書やグラフィックスばかりでなく、ビデオ、音声、アニメなどあらゆる情報を自由にコントロールできる新しい情報ツール・キットである。初心者が使いやすいように、さまざまな工夫もしている」と紹介している。ハイパーカードは、最初からマッキントッシュに標準装備(バンドリング)されており、すでにハイパーカードを使った「マルチメディアの新しい本」も発売されていた。

 アトキンソンさんは、「自転車のような道具が人間の肉体的な力を増大させたように、パーソナル・コンピュータは、創造力とか学習、記憶などの精神的な力を増大させてくれる。1984年に世に送り出したマッキントッシュのデザインの基本は、この『精神のための車(Wheels for the mind)』であり、わたしたちの夢の第2弾が、1987年に完成したハイパーカードだ」と語った。

 ハイパーカードを起動すると、ホームカードという最初のページが現れ、そこにカレンダー、予定表、住所録、電話帳といったアイコンが並んでいる。それぞれの項目に入力したデータは、「ボタン」によって相互に関連付けられるのが「ハイパーテキスト」的だったのである。

 私は「こういったシンプルで美しいプログラムは、どのようにして作られるのか」を聞いてみた。アトキンソンさんの答えは、なかなか感動的だった。

 「最初の一年間はたった1人の人間、すなわち、わたしが手がけました。アイデアを錬っていたんですね。その後で人びとが入ってきて約40人のチームになりましたが、プログラマーは5人程度です。あまり多くの人が1つのプログラムにかかわるとかえってだめになってしまいます。ビジョンを打ち立てるメインデザイナーは1人で、何人かのアシスタント・プログラマーと密接な関係をもって動くのが基本です」「ソフトウエアの開発は、自分のほしいもののおぼろげなアイデア、大きな霧のようなものからスタートします。それをしだいに雲のように輪郭を明らかにしていく。一歩下がって眺めているうちに、自分はこういうものを作っていたんだということを『発見』するのです。なるほどこれはあれだったのか、あれじゃだめだと、それを捨て去って、また最初から始めます。それを何度も繰り返す。作り上げたものを捨て去り、作りなおす過程で、作ろうとしているものがより明確に見えてくる。目指すものができあがると、テストしてもらう。予想通り動くかどうか調べてもらって、そこにいろんなものをつけ加えていく。それで形がデコボコになると、もっとシンプルなものに整えなおす。そうして、しだいによりシンプルになり、いよいよ本質に近づいていく。だからソフト開発はずいぶん時間がかかるし、試行錯誤が何度も繰り返されるのです」。

・知的生産の技術としてのパソコン―紀田順一郎・石綿敏男

 梅棹さんのところでふれたけれど、私の興味は知的生産の技術としてのパソコンだったから、文芸評論家ですでに『ワープロ考現学』、『パソコン宇宙の博物誌』などの著書もあった紀田順一郎さん、『電子時代の整理学』の著者で放送教育開発センター所長だった加藤秀俊さん、推理小説作家でパソコン通信をフル活用して作品を書き上げていた2人合作のペンネーム、岡嶋二人さん、能の権威ながら電子小道具の達人で『システム文具術』の著書もあった武蔵野女子大学教授、増田正造さん、『ウィザードリィ日記』、『怒りのパソコン日記』などで知られた翻訳家、作家の矢野徹さんなどにもインタビューしている。

 そのうち紀田順一郎さんと、横書きのカタカナ表記の基準を聞いた言語学者の石綿敏男茨城大学教授のさわりの部分だけ紹介しておこう。

 紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。

 当時、ワープロの辞書については2つの考えがあった。1つは梅棹忠夫さんに代表される「ワープロは何でもかんでも漢字に変換してしまうから、文章に漢字が増えた。すぐに漢字に変換しないソフトを作れ」という意見。もう1つは紀田さんのように「推挽、杜撰、憂鬱、冤罪、隔靴掻痒、一瀉千里など、ちょっと特殊な文字になると辞書に入っていないことが多い。もっと辞書を充実すべきだ」という意見。

 紀田さんは「日本文化のためには旧仮名遣いで変換する辞書を作れば、研究者や図書館員が助かるから、モード切替でやれるようにしてほしい」と述べ、私も「紀田順一郎の辞書」とか「大阪弁の辞書」があっていいなどと述べているが、この辺もまた時代の進歩はすさまじく、コンピュータ能力と記憶容量の飛躍的増加で、いまではほとんど解決されている。たとえばWordで自前の辞書を作るのは当たり前になっている。

 もっともこれは辞書作りや文字コードづくりに懸命に取り組んだ文科系、技術系の先達が取り組んだ苦闘の歴史を背景としている。文字コードの世界標準、ユニコード策定に貢献した小林龍生さんとは後に知り合い、別の機会にインタビューしているが、それは後述したい。小林さんは一時、一太郎で有名なジャストシステムに在籍し、そこで紀田さんたちと辞書作りに取り組んだ人でもある。

 石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。

 専門用語の扱い、とくに外国語のカタカナ表記は、常に頭の痛い問題で、エレベーターは音引きがあるのに、コンピュータがないのはどうしてか。メモリー、メーカー、メンバーはどうするか、スキャナ、ドライバは、となるとこれまた微妙で、5音以上は音引きなし、3音以下は音引きを入れる、4音は慣用による、などと校閲担当の大塚信廣さんと相談しながら「本誌のルール」を作ったりしたが、慣用の基準が時期がたつと変わったりで、なかなか始末が悪く、「最終的には編集長の気持ち次第」となったりもした。

 そこでコンピュータを使った自動翻訳のための自然言語辞書作りに取り組んでおられた石綿さんに、パソコン、ワープロなどの和製英語、フロッピーディスクドライブ、パブリックドメインソフトなどと3つの単語をつなげるときの・の入れ方、外来語と言語の意味のズレなどについて話を聞いたのである。

 結果は「基準を2つに分けた方がいいかもしれませんね。エスカレーターとかエレベーターとかいう、ふつうの言葉はふつうの表記法を尊重する。コンピュータ、ディレクトリなどは、専門知識を一般の人に伝える専門誌の立場として、専門用語、その述語の表記法を尊重する」という常識的な線におちついた。しかし、言葉は生き物である。コンピュータやインターネットの普及で、この種の専門用語もいつのまにか普通用語になっているし、言葉の基準作りはなかなか難しい。マイクロソフトのブラウザーは当初、エキスプローラと表記されていたが、後にエキスプローラーと変わったという具合である(もっともエキスプローラーは今ではエッジに変わっている)。

 インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。

 日本の電卓メーカーから米インテル社に派遣され、世界初のマイクロプロセッサ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。

 このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。

 このインタビューは、のちに『パソコンと私』(福武書店、1991)として出版された。装丁は熊沢さんで、美しくかつ重厚な本に仕立ててくれた。私の本格的著作の第1号でもある。1991年8月2日、仲間が『パソコンと私』出版と『月刊Asahi』異動をかねたパーティを開催してくれ、インタビューした人びとも含め多くの知人、友人から祝福を受けた。

新サイバー閑話(60)平成とITと私⑧

相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出

 やっと故三浦賢一君について話す時がきた。これまでも折々に彼のこと記してきたけれど、私がプロジェクト室でパソコン誌の準備を始めたとき、局長室がパソコンに詳しい三浦君を相棒としてつけてくれたのがまさに天の配剤で、『ASAHIパソコン』の成功はそのときに約束されたと言っていい。彼と過ごした3年半は、朝日新聞に入社以来最も忙しい日々だったけれど、一方でそれは、大袈裟に言えば、至福の期間でもあった。彼は頼りがいのある相棒であり、すぐれた科学ジャーナリストであり、たぐいまれな編集者だった(写真は仕事中の三浦君。創刊2年目を迎える前)。

 私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。

 三浦君は東北大学大学院理学研究科の出身である。本来なら学者の道をめざすはずだったのだろうが、途中で方針転換、朝日新聞に入社した。ごく普通に支局勤務を2つ経て、1979年に科学朝日編集部員に。その後、週刊朝日編集部を経て1986年秋に出版プロジェクト室に配属となった。

・すぐれた科学ジャーナリストにして卓越した編集者

 ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。

 『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。

 彼自身にもそのような広い視野への関心が強く、だから学者よりジャーナリストを選んだのだろうと、私は推測していた。すぐれた編集者、小宮山量平(理論社社長)は、編集者の心得として以下の3点を上げている(『編集者とは何か―危機の時代の創造―』日本エディタースクール出版部)

第1は、つねに総合的認識者という立場を持続できること。森羅万象にすなおに驚き感動する心をもち、しかも1つの専門にかたよらない、むしろ専門自体になることを拒否することで総合的認識の持続をつらぬく気概をもつこと。
第2は、知的創造の立会人という役割に徹すること。それはアシスタントであり、ときにアドバイザーでもある。そのためには、あらゆるものの存在理由について無限の寛容性をもつ「惚れやすさ」、著者の創造過程に同化しつつ、著者を励ます「聞き上手」、そして相対的批判者の立場から誉め批評ができる「ほめ上手」の3つの役割を、うまく果たさなければならない。
第3は、自分が制作する出版物を広く普及するため、特有の見識をそなえ、力倆を発揮しうること。

 編集という職業に惚れぬいた人の、思わず襟を正してしまう指摘だが、三浦君はまさに小宮山量平の望む編集者の資質をよく具えていた。初対面からウマがあった理由ではないかと思う。彼はあるとき、千葉支局時代に支局長から「簡単に出来ることではなく、むしろ出来そうもないことを考えろ」と言われた、と話したことがあった。困難に挑戦する気概が名著『ノーベル賞の発想』を生んだと言っていい。新聞記者にとって最初の4~5年、ほとんどの人が配属される支局勤務は、かつては「記者の学校」だった。私自身も新米時代に横浜支局や佐世保支局で新聞記者の原点とも言うべき多くのことを学んだ。

 作業はさっそく二人三脚で動き出した。意見が食い違うことはほとんどなく、忙しいけれども充実した、楽しくもあった数年だった。ムックのタイトルを「おもいっきり」にしようと提案したのも三浦君であり、ムック『おもいっきりPC-98』のところでも述べたが、実用情報誌の情報の扱い方についての基本フォーマットづくりにも貢献してくれた。

 私はパソコンガイド誌ではあっても、新聞社から出す以上、ジャーナリズム性を失ってはいけないと考えていた。新聞社内にはまだ新聞記者は大所高所から世界国家を論ずべきで、パソコンのガイド誌などもってのほかとの空気が強かったが、それは大きな勘違いだと私は思っていたのである。

 これはすでに述べたことだが、雑誌『日経ビジネス』の「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集がその例である。当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという鋭い洞察は、具体的な物を徹底的に分析することから生まれた。これぞジャーナリズムであり、編集マインドである。立花隆が1974年に文藝春秋で特集した「田中角栄の研究―その金脈と人脈」も同じである。メーカーの資料を丸写ししてただ並べるだけのガイドではなく、その並べ方や説明の仕方に工夫がほしい。記事の背後に記者の、編集者の目が光っているような実用情報を私は求めた。

・すべてはパロアルトから始まった

 創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。

 息抜きになったかどうかはわからない。しかしパークとその周辺を訪ね、ロバート・テイラーやアラン・ケイ、ダグラス・エンゲルバートなど、パソコン黎明期の伝説的人物にインタビューする旅は、けっこう楽しかったのではないかと私は想像している。『ASAHIパソコン』としてはぜひとも紹介しておきたい話だったし、読者にとっても興味深い読み物にもなったのではないだろうか。

 三浦君について今でも思い出すことが2つある。

 私は三浦君を便利に使いすぎているのではないかと思うことがときどきあったが、ある時カメラマンの岡田明彦君から「三浦君と雑談していた時、彼が「『矢野さんは僕を利用したが、僕もまた矢野さんを利用した』と言っていた」という話を聞いた。彼は彼で『ASAHIパソコン』で自分のやりたいことをやっていたんだなあ、と心和む思いがした。

 もう1つ、これは少し後の話だが、『DOORS』が廃刊になり、私が熊沢さんに愚痴とも怒りとも言えない感情をぶちまけていたとき、そばにいた三浦君がそっと寄ってきて、「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれた。そのときは思わず目頭が熱くなった。

 創刊2周年が近づいていたころ、三浦君は「そろそろ解放してほしい」との希望を示すようになった(前から言ってはいたけれど)。あれだけ働いてくれたのだから、それに応えない選択肢は、当時の私にはなく、局長室にかけあって彼の希望通り、当時動物シリーズを刊行していた週刊百科編集部への異動が実現した。しかし好事魔多し。異動直後に週刊百科が組合役員選出のローテーションにあたり、1年間、組合専従に出るめぐりあわせとなった。

 その後、『科学朝日』副編集長、『ASAHIパソコン』編集長、『アエラ』編集長代理などを経て、2000年暮れに『ASAHIパソコン』から生まれた超初心者向けの『ぱそ』編集長になった。『ぱそ』立て直しの期待を担っての人事らしいが、『ASAHIパソコン』創業の功績にも報いない、何をいまさらと思わされる人事である。三浦君のやさしい性格が災いしたと言うか。そして、あろうことか、そこでの心労が重なり、2001年5月に発作的とでもいうように、自死するに至った。

 火葬場で用務員の女性が「亡くなったのはどういう方だったんですか。骨がしっかりしていてどこも悪い所などなさそうですね」と言った。肉体的にはきわめて健康だったのである。

 そのころ私は出版局を外されて調査研究室勤務となっており、彼の死はまったく寝耳に水だった。異変に気づき相談に乗ることもできなかった境遇をうらめしくも思った。出版局執行部への新たな怒り、それと同時に、デジタル時代の出版活動にまるで無知な人材を天下り的に出版局に送り続けた社執行部に対する憤懣も湧き起った。

 メディア激変の時代における出版の可能性についての持論は、私の失敗も含めて後に『DOORS』の項で詳しくふれるが、ここにはデジタル時代に翻弄され本来のジャーナリズム性すら捨て去った社の歴史が凝縮されているだろう。まだまだやりたいことがあった私を出版局から外し、ほかにやりたいことがあった三浦君を無遠慮にデジタルに張り付けた。私が出版局に残っていれば、強引にでも阻止したものをと、まことに臍を噛む思いだった。

 そんなことなら最初から私の後任を「押しつけて」おけば、『ASAHIパソコン』のためにも、本人のためにも、社のためにも良かったのではないだろうか。彼にはその後もいろいろ協力してもらいたかったし、朝日新聞としても、まことに惜しい人材を失った。すまじきものは宮仕えではないが、悔やんでも悔やみきれない痛恨事である。

・アサヒパソコン編集部を去る

 少し話が先に進みすぎた。創刊1周年を迎える少し前、『ASAHIパソコン』とほぼ同じコンセプトで体裁も同じ、やはり月2回刊のパソコン初心者向け雑誌『EYE.COM(アイコン)がアスキーから発売された。またビジネス・ユース誌としては最大部数を誇る日本ソフトバンクの『Oh!PC』も月刊から月2回刊に切り替えた。パソコン誌の流れは「むつかしい専門用語が詰まった月刊のパソコン専門誌」から「だれもが読める月2回刊のやさしいパソコン情報誌」へと移り始めた。それこそ『ASAHIパソコン』が切り開いたパソコン誌の新しい流れで、私は「追随誌が現れてこそ本物」といささか鼻高々だったが、編集部の状態はあまり変わっていなかった。

 創刊1周年を祝うパーティが1989年10月16日夕、新聞社内レストラン「アラスカ」で開かれ、社内外から130人が集まった。「出版局報」に、その年8月に配属されたばかりの勝又ひろし君がそのレポートを書いている。要するに相変わらず忙しかったのである。社内のパソコン編集部を見る目は「パソコンオタクがそろう特殊技能ハッカー集団と見られがち」で、知人に局内を案内している人が「ここは人間より機会が威張っている所だから、近づかないようにしている」という声を聞いて反発もしている(ちなみに勝又君は創刊から20年近くたった2006年、パソコンガイド誌としての役目を終えて休刊したときの最後の『ASAHIパソコン』編集長である)。

 それから2周年を迎えるころにかけて鍛冶信太郎、藤井千聡、見沢康、福沢恵子といった人びとが編集部に参加している。見沢君は朝日広告社から出向してもらい後に正式部員となった。福沢さんは夫婦別姓の実践者かつ活動家で、激務をリゲインを飲んでしのいでいると「リゲイン福沢」を名乗っていた。出自も個性もさまざまな部員がとにもかくにも頑張ってくれていたのである。三浦君の後任として科学部から大塚隆君に来てもらった。彼にはちょっと回り道をさせてしまったが、後に科学部長に就任した報を聞いてほっとしたものである。

 創刊2周年を終えるころから、私はやるべきことはやったという思いが強くなり、1991年7月、後事を週刊朝日副編集長から来てもらった森啓次郎君に託して『ASAHIパソコン』を去り『月刊Asahi』に移った。

 

 

新サイバー閑話(59)平成とITと私⑦

『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷

 1988年10月14日 (15日が土曜なので前日の金曜発売となった)、『ASAHIパソコン』創刊号(11月1日号)が発売された。この日は朝から雲一つない快晴で、ある先輩が「ついてるな。晴れてると雑誌は売れる」と言ってくれたのをよく覚えている。その予言通り、『ASAHIパソコン』は予想を上回る売れ行きで、創刊当日の夕方には増刷が決まり、数日後には3刷りをするなど、実に好調なスタートとなった。

 A4変形判、中綴じ。本文横組み、112ページ(カラー80ページ)。1日、15日発行の月2回刊。 定価340円だった。創刊号は16万3000部刷り、その日のうちに売れ切れる書店が続出した。

 特徴は、まずその薄さだった。これまでのパソコン誌はたいてい月刊で、しかも背表紙のある無線綴じ、厚いページに広告がいっぱい詰まっていた。『ASAHIパソコン』は、ページの真ん中をホッチキスで止める中綴じで、丸めれば手軽に持って歩ける軽装判、当時話題のニュース週刊誌『フォーカス』によく似た体裁にした。

 3人で雑談しているとき、三浦君がふと「月2回刊というのはどうかな」と言い、「それなら1回分の厚さを半分にできるねえ」と私、それに熊沢さんが「1日と15日の2回刊にするなら表紙のロゴを金赤と黒で色分けするのはどうか」と応じ、こうして「新しい酒を盛る新しい皮袋」ができあがった。

 表紙ロゴは、柔らか味を出すために『ASAhIパソコン』と、ASAHIのHだけを小文字にして、ASAhIを大きく、パソコンを小さく配して、その下に、ヒューマン・ネットワーキングの思いを込めて、男女が街角で立ち話をしているスナップ写真を扱った(とくにロゴを意識した場合以外、表記はこれまで通り『ASAHIパソコン』とする)。ロゴは金赤(15日号は黒)。従来のパソコン誌はコンピュータ・グラフィックスやイラストを使ったものが多く、パソコン本体や周辺機器を配するのが普通だったから、異色のパソコン雑誌と言えた。そこには、私たちがムック『ASAHIパソコン・シリーズ』を作りながら試行錯誤してきた新しいパソコン誌のあり方、大げさに言えば、哲学が具現化されていた。

 表紙写真はオリジナル写真を撮る経済的ゆとりがなかったための熊沢さん苦肉の策だった。私は『ASAHIパソコン』を通して雑誌作りにおけるアートディレクターの重要さを思い知った。ムックの『思いっきりPC-98』のグラビアでプロの女性モデルを起用するなど、彼に教えられたことは多い。折々に起用したイラストレーターもたいてい「熊さん」に紹介してもらったものである。三浦君に続いての熊沢さんの参加が『ASAHIパソコン』成功の大きな要因だった。いまその幸運を深く噛みしめている。

 彼は長年、ガンをわずらったあと2019年に他界した(<平成とITと私>①参照)。その死がこの記録の執筆を思い立たせたのだが、彼の常に笑みをたたえた物腰柔らかな姿が懐かしい。

・目玉は「村瀬康治の入門講座」

  創刊号の主な目次をならべてみよう。

特集 めいっぱいパソコン情報整理術
アプリ探検隊①「Z’sWORD JGでパンフレットを作る」  国友正彦
村瀬康治の入門講座①「ためらうことなんかありません さあ、ワープロから始めましょう
ハードディスクで世界が変わる  山田隆裕
インタビュー①ニコラス・ネグロポンテMITメディアラボ所長「コンピュータに『うーん』といえば あなたの思いを伝えてくれる」
海外リレーエッセー①グローバル・ネットワークの共有  室謙二
COMPUTER博物誌①
MPU電脳絵師養成講座①パソコンを画材に/自由な発想に期待  古川タク+岩井俊雄
ネットワーキング・フォーラム
    慈子のおしゃべりネット   高橋慈子
    九郎のネットワーキング讃  高橋九郎
PDSマインド  山田祥平
パソコン何でも相談  斎藤孝明
小田嶋隆の「路傍のIC」  小田嶋隆

 ほかに、ニュース、追跡「ついに発生、国産ウイルスの正体を追う」、ハードウエア、ソフトウエア、電子小道具、本、情報ページ、辛口時評。創刊をきっかけに片貝システム研究所の協力で電話無料相談も行い、その縁で片貝孝夫さんにコンピュータ業界全般を見渡した「辛口時評」もお願いすることになったのである。

 目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。

  当時のパソコンの主流は「16ビットMS-DOSマシン」だった。すでに述べたように、MS-DOS(エムエスドス)はマイクロソフトが開発した基本ソフトで、当時のパソコンのほとんどがMS-DOSを採用、ワープロとか表計算とかいったアプリケーション・ソフトは、この基本ソフトの上で動いていた。パソコンを動かすには最低、MS-DOSの知識が必要で、それがパソコンの垣根を高くしていたといえる。まだマウスでアイコンをクリックして操作できる時代でなく、ファイルの中味を見たいなら「DIR」、文書をコピーするなら「COPY」と、いちいちコマンドを打ち込まなくてはならなかった。

 だから、パソコン入門の筆者を、MS-DOSのガイドで定評のあった村瀬さんにお願いしたのである。創刊準備中のある日、私は三浦君をともなって村瀬さんの職場を訪ね、入門講座の執筆をお願いした。最初は「昼に仕事を持っている身であり、締め切りが定期的にやってくる雑誌への連載はしないことにしている」と丁寧に断わられたが、私たちが出そうとしている雑誌については、「これからは若者だけでなく、実際に仕事を持っている中年・実年の方々がパソコンを使うようになる時代。いま朝日新聞社がガイドブックを出すのはたいへんすばらしいことだ」と、まさに諸手を上げて賛成してくれた。

 私は話しているうちに「入門講座はこの人に頼むしかない」と強く思い込むようになり、村瀬さんも「仕事のことを考えると、月に1回ならともかく2回の原稿を書く余裕はない」というところまで軟化してくれたが、結局は確約を得られずに帰った。その後、村瀬さんから「やってみてもいい」という返事をもらったときの嬉しさは忘れられない。

 村瀬さんは、入門講座の対象読者を、パソコン初心者ではあるが、社会の一線で活躍する実務のプロと定めて、パソコンはどういう道具で、何ができるのか、パソコンを使うとはどういうことか、何をしてはいけないか、いまマシンは何を買うべきか、といったことを丁寧に、しかも村瀬さんの考えをはっきりと提示しつつ、分かりやすく説明してくれた。これも熊沢さんの紹介でおてもりのぶお(小手森信夫)さんにイラストを頼んだ。彼はこれまでパソコンに触ったこともない初心者だったが、テクニカルな話題を日常生活レベルに翻案して、美しく、大胆なタッチで、すばらしいカットを添えてくれた。この入門講座(写真は第1回の誌面)は、またたくうちに『ASAHIパソコン』の目玉企画になった。

 アプリ探検隊を率いてくれたのは国友正彦さんで、毎号、「ロータス1-2-3」のアドインソフト、「シルエット」でクリスマスカードを作る、「毛筆わーぷろ」で年賀状を書く、などさまざまなアプリケーション・ソフトを具体的用途に沿って丁寧にガイドしてくれた。それぞれハードな仕事で、これも目玉企画の一つだった。

 海外リレーエッセーを担当してくれた室謙二さんは『アサヒグラフ』時代の同僚に紹介したもらったが、会って『ASAHIパソコン』の話をした途端に、「それはすばらしい。必ず成功する。できるだけの協力をする」と言ってくれたのが忘れられない。室さんは市民運動の活動家としても知られていたが、早くからワープロやパソコンの電子道具に親しみ、すでに『室謙二 ワープロ術・キーボード文章読本』(晶文社)などの著書もあった(『メディアラボ』の訳者でもある)。米カリフォルニア州に生活の拠点をおき、日米をまたにかけて活躍する「コンピュータ・メディア界の風雲児」といった感じだった。室さんにはリレーエッセーでアメリカの最先端事情を書いていただくと同時に、編集部員たちがアメリカ取材するときの拠点として、さまざまな便宜をはかっていただいた。室さんのやわらかい文章が、パソコン誌の堅苦しさを補ってくれた面があったと思う。このリレーエッセーは西海岸から室さんに、東海岸からはMIT在籍中の服部桂君に交互で執筆してもらい、いい息抜きのコラムになったと思う。

 小さいながらも個性的だったコラムが、小田嶋隆の「路傍のIC」と山田祥平の「PDSマインド」だった。

 ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。

 ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。

 原稿取り立てはもっぱら私の仕事で、前にも書いたが、原稿を読みながら見出しをつけるのは、毎号の楽しみでもあった。当時から話はパソコンを離れがちで、それが私の意にも沿い、また魅力でもあった。筆者が描いたカットも添えられている。

 山田祥平君は、PDS(パブリックドメインソフト)という、ネットワーク上で、主として無料で提供されているソフトのあり方、その善意の文化に強い関心を示しており、毎回、広い視野のもとに、新しいPDSを紹介してくれた。ムック時代の「編集協力」者の肩書きに恥じぬ良好な出稿ぶりで、彼のパソコンに対する思い入れがすなおに受け取れる好読みものだった。

 後半のNetworking FORUMでは、パソコン通信などから拾った話題を紹介しつつ、当時すでにこの世界で有名人だった高橋慈子、高橋九郎の両高橋さんにエッセーをお願いした。本誌らしい企画として、情報ページには、小さいながら、高齢者のパソコン・ユーザーを紹介する「Silver」、パソコンが身体不自由者に福音を与える可能性を追求する「Handicap」のコーナーも設けた。中和正彦君はこのハンディキャップのコーナーを15年以上担当して、この分野における専門ライターに育った。

 創刊当時の誌面を眺めていると「あの人はああして口説いたんだ」、「彼にはずいぶん面倒をかけた」などなど思い出すことが多く筆が止まらなくなるが、とりあえずこの辺で止めておこう。

・修羅場に放り込まれた編集部員の奮闘

 雑誌と言えば、それまで週刊誌か月刊誌しかなかったところに、月2回刊という、しかもテーマがパソコンというまったく新しい雑誌が誕生したわけで、そこに有無を言わさず異動させられたというか、いきなり修羅場に放り込まれた若い部員たちの驚きは、いまになると十分想像できる。当時は忙しいばかりで、その辺への配慮が足りなかったのを申し訳なく思うほどである。

 アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。

 創刊直前の「出版局報」では、「『ASAHIパソコン』、やるっきゃないと、いざ船出」という2ページ見開きの記事が載っている。その一部を紹介しつつ、いくつか補足しておこう(写真も「出版局報」から)。

 デスク(副編集長)の三浦君は、創刊号の13ページ特集、「めいっぱいパソコン情報整理術」を何人かのフリーライターの協力のもとに精魂を込めて作り上げた。梅棹忠夫『知的生産の技術』ではないが、ここにはパソコンこそ知的生産の技術であるという私たちの思いが込められていた。彼が本誌の特集づくりの路線を敷いてくれたと言ってもいいが、そのねらいを説明しながら、「毎日、忙しい。『ラ・ボエーム』の公演は9月25日の日曜日だ」と結んでいる。オペラの大ファンで、ときどき来日するオペラ公演を見るのが数少ない息抜きだったようだ。

 宮脇君は編集部に配属になって初めてパソコンと付き合うことになったが、「パソコンは苦手、とおっしゃる方にはキーボードに対する拒否反応があると思います」、「私はキーボードにはほぼ3日で慣れました」と『入門講座』担当にふさわしい早速のパソコン伝道師ぶりで、最後は「『これから』組の方々が、次々とキーボードに取り組む姿を見ることが、われわれにとって何よりの励みになります」とすでに優秀なパソコン編集部員ぶりでもある。

 彼は部員の最年長だったが、その明るく穏やかな人柄、目配りの利く仕事ぶり、新しいことに挑戦する熱意と意欲で、あっという間に部員、と言うより部全体のまとめ役になると同時に、特集づくりにさまざまなアイデアを投入、誌面作りもリードしてくれる頼もしい存在だった。

 間島君はすでにかなりのパソコン・ユーザーだったらしい。学生時代には「制服少女図鑑」(?)とかいう雑誌だか単行本だかを出していたようで、すでに雑誌のプロでもあった。三浦君とは兄弟分のような親密さで、彼の参加もまた当編集部にとって大きな力になった。「出版局を見回すと、当編集部のほかには、いまだに2、3台しかパソコンが見られません。パソコンが1台あれば、情報収集や、データ整理などがずっと楽になります。各編集部に1台はほしいところです。信じられない方は編集部に遊びに来てください」と、こちらも仕事の忙しさはおくびにも出さない優等生ぶりである。

 工藤君は政策局から助っ人としてやってきたシステムエンジニアである。パソコンやワークステーションをそろえた編集支援システム構築に威力を発揮してくれた。「雑誌作りには携わる必要がない」と言われてきたらしいが、そのすぐれた編集マインドをたちどころに見抜いた我々が放っておくわけがなく、「PDSマインド」や「パソコン相談」の担当から特集づくりに至るまで予想を超えた仕事を押しつけられて「とにかく忙しい」、「目新しいことばかりで、無我夢中で毎日を送っている」と書いているが、「入社わずか2年目でこのような大きな仕事をさせていただき、非常にありがたいと思っています」と編集長を泣かせるようなことも書いている。

 西村さんは『ASAHIパソコン』創刊にあたって他のパソコン雑誌編集部からスカウトされ、慣れない環境にずいぶん心労もあったようだが、「Networking FORUM」担当として、「今日はPC-VAN、明日は地方のネットと、編集部を拠点として全国各地を飛び回っている」、「こうやって、通信にのめり込みながらも、『ASAHIパソコン』は10月14日創刊です』という宣伝を忘れない」と健気に書いてくれている。

 以上、スタート時の編集部員の横顔を紹介したが、誰も愚痴をこぼさず、『ASAHIパソコン』の成功と、社内への宣伝を忘れず、まことにすばらしい面々だった。部員にも恵まれたのである。もう1人、大事な人を忘れていた。編集部の庶務係として出版庶務部から派遣されてきたアルバイトの小本恵さんである。愛くるしい笑顔でてきぱきと事務を処理してくれる彼女の存在は、隣に陣取る編集長にとってはもちろん、すべての編集部員のマドンナだった。

 フリーの方々も例外ではなかった。何度もふれたデザイナーの熊沢さんと彼のプロダクション「パワーハウス」のデザイナーたち。特集づくりにあたっては、何度もレイアウトをやり直してもらうなど、本当に迷惑をかけた。多くのライター、岡田君をはじめとするカメラマン、おてもりさんなどのイラストレーターなどなど。本文レイアウトを手伝ってもらった荒瀬光治君と彼のプロダクション「あむ」の面々。『ASAHIパソコン』専属の校閲マンとして契約したフリーの校閲マン、大塚信廣君。後にも触れるが、横書きのローマ字表記の統一など、いっしょになって「『ASAHIパソコン』の表記基準」を作ったのも懐かしい思い出である。

 私は編集部員に対して、常々、「この編集部にいると他の部の2~3倍は忙しいが、年季が明ける時には4~5倍の実力がつく」などと言って発破をかけていたが、それにしてもずいぶんこき使ったものだと、今思い出しても冷や汗ものである。三浦君は相変わらず、冗談交じりに「この部は労働基準法どころか日本国憲法の保護下にもない」と言っていた。(写真は「出版局報」のものだからちょっと見にくいが、右から宮脇、西村、小本、三浦、矢野、2人おいて熊沢、間島、工藤)

・創刊当日のパーティと増刷の報

 創刊の日の夕方、社屋2階のロビーで開かれた創刊記念パーティには社内外から300人以上の人が集まってくれ、そこで創刊号増刷の決定が知らされた(写真は社内報の『朝日人』から)。多くの人から祝福され、それまでの苦労が、ともかくも報いられた瞬間だった。

 創刊号をあらためて手にとってみると、薄いわりに中味が詰まっているし、協力してくださった社外の方々の多彩さに改めて驚かされる。これだけの人が協力してくれたのは、まぎれもなく朝日新聞社のブランドの力だっただろう。新聞社がパソコン誌を出すことへの世間の期待が強かったということでもある。筆者の多くが老舗『アスキー』でも仕事をしていた関係から、これも三浦君と2人でアスキー本社に郡司明郎、西和彦、塚本慶一郎のトップスリーを訪ね、創刊の挨拶をしたこともあるが、彼らもまた大いに励ましてくれたのだった。

 当時の出版担当は『週刊朝日』の名編集長としてならした涌井昭治さん、出版局長は川口信行、局次長が柴田鉄治(編集)、安倍哲麿(業務)の各氏だったが、この執行部が『ASAHIパソコン』を世に送り出してくれたわけである。柴田さんは東京本社社会部長と科学部長を歴任したすでに名の知られたジャーナリストだったが、『ASAHIパソコン』創刊に率先して努力してくれた。広告(君島志郎部長)、販売(西村章部長)、刊行(山崎卓部長)といった業務各部の働きも目を見張るものだった。

 広告部はコンピュータ専門誌という朝日新聞としては異色の雑誌への広告集稿に取り組んだ。自らラップトップパソコンを購入した吉岡秀人君のような献身的働きもあった。販売は篠崎充君などが書店への売り込みに奮闘(担当は水沼裕明君)、宣伝企画課の久和俊彦君はキャッチコピーに頭をひねってくれた。刊行部は入社早々の朝田勝也君が月2回刊という新しい発行スタイル確立に努力してくれた。月2回刊は曜日単位で刊行スケジュールを組めないので、印刷を担当してくれた凸版印刷との交渉も大変だったようだ。業務各部との交渉も編集長の大きな仕事で、彼らとの侃々諤々の議論もまた懐かしい思い出である。

 創刊数か月後、私は前出版担当、中村豊さんから一通の手紙を受け取った。中村豊さんこそが『ASAHIパソコン』生みの親である。私がまだ出版局大阪本部にいてパソコン誌創刊の提案をしたとき、興味をもってより詳しい説明のために私をわざわざ上京させてくれたのだった。彼の配慮がなければパソコン誌の誕生もなかったし、これまでの社の前例を破って、言い出しっぺがそのまま編集長になることもなかったのだと思う。手紙では『ASAHIパソコン』の順調な滑り出しを喜んでくれる文面のあとに、「3年前の打ち合わせから、よくぞ、ここまで、周囲のケツをたたいて、引っ張ってきたものだと感心しています。この雑誌は、きみの情熱と力が生み出したものだと言ってよいでしょう」と書いてくれていた。この手紙は私の宝物である。

・ASAHIパソコン・ネット、俵万智のハイテク日記、西田雅昭の入門講座

  創刊時に、朝日新聞社内では、電子計算室の島戸一臣室長らが中心になってパソコン通信ネットを立ち上げる話があり、こちらも創刊と同時にネットワークを利用したいと思っていたので、相互に協力しあうことになった。このネットはほどなく朝日新聞社から独立したアトソン(島戸一臣社長)が経営するASAHIネットへと発展するが、当初はASAHIパソコン・ネット」として、『ASAHIパソコン』読者を対象に始まったのである。そのように社告でも告知、『ASAHIパソコン』誌上でも、「読者と編集部を結ぶASAHIパソコン・ネット」のコーナーを設けた。

 最初のスタートがよかったため、部数的には順調だったが、少人数の編集部は、相変わらず忙しかった。雑誌の売り上げを左右する特集の作り方には毎号苦労したが、編集部内での自由闊達な議論と何度かの試行錯誤の末に、夏と冬のボーナス時期にあわせた「パソコン買い方ガイド」、春、秋の「ゼロからのパソコン」シリーズなどが定番として確立された。1989年秋に、これまでのラップトップ型よりも一回り小型で軽量のブックパソコン(ブック型、あるいはノート型パソコン)が登場してからは、「これぞ『ASAHIパソコン』に対応したマシン、『思考のための道具』」とばかり、ブックパソコン・ガイドの連載を始めた。

 そんな日々の中で、思い出深い出来事が2つある。

  1つはベストセラー歌集『サラダ記念日』で一躍有名になった佳人、いや打ち間違った、歌人の俵万智さんがマッキントッシュに挑戦した記録を「俵万智のハイテク日記」として連載したことである。2年目から約2年間続いた。この見開きページだけは、やわらかいフォント(書体)を使い、縦組みにし、万智さんの写真を毎号、大きく扱った。

 「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。

 もう1つは西田雅昭さんとの出会いである。2年目に入ったとき、村瀬さんから「連載を続けてもいいが、月1回にならないか」と相談を受け、別の筆者による入門講座を併設、隔号ごとに掲載することになった。その筆者が西田さんだった。このころには勝又ひろし君が編集部に加わっており、彼が西田さんに白羽の矢を立て、快く引き受けていただいたのだが、実は私は西田さんとは旧知だった。「『おもいっきりネットワーキング』データ蒸発」事件の雑誌編集部で、編集長に紹介されたとき、まったく肩書のない名刺をもらったのでよく覚えていた。

 西田さんは、知る人ぞ知るパソコン界の大権威で、著書も多く、『パソコン救急箱』(技術評論社)、『プログラミング「基本」の本』(翔泳社)=いずれも共著=などがある。パーソナル・コンピュータの健全な普及を願う熱血漢、いやオールドボーイで、長らく都下の区営中小企業センターOA相談室で、中小企業の経営者たちのよきアドバイザー役をつとめておられた。

 タイトルを「西田雅昭のパソコン独立独歩」とし、パソコンの置き方、パソコンに向かう基本姿勢といった基本の基本からスタートした。西田さんの口癖はパソコミである。「パソコミは、パソコミは」と言うのだが、それは「マスコミにも劣るパソコン雑誌」という意味なのである。「パソコミは雑誌を売ることばかり考えて、メーカーのいいなりで、本当にユーザーが知りたいことを知らせない。まことにパソコミの罪は大きい」と、早い話が、私が叱られているのであった。「なるほど、もっとも」と思うことが多く、「じゃ、言いたいことを書いてください」とお願いして、後に「西田雅昭の直言・苦言・提言」という連載を始めたりした。「パソコン業界の常識は、世間の非常識」というのも西田語録の1つだった。

 「パソコミ」という蔑称は、「マスコミ」はまだしっかりしてるという前提で生まれているが、これもまた時代を感じさせられる話である。

・社長賞受賞と「天の時、地の利、人の和」

 『ASAHIパソコン』は創刊1周年後に、その功績により社長賞を受賞した。当時の社長は東京大学社会学科の先輩でもあった中江利忠さんだった。1983年に職場ローテーションの関係で『アサヒグラフ』から朝日新聞労組の本部書記長に担ぎ出されたとき、中江さんがたまたま労坦(労務担当重役)になり、労使の関係で緊張した1年を過ごした。その1年間は団体交渉の席以外ではいっさい接触しなかったが、任期を終えての懇親会のとき、初めて親しく話して、その後学科の同窓会の世話役をしたこともあった。その中江さんから社長賞をもらうことになっためぐりあわせも感慨深い。中江さんはカラオケの名手で90歳を超えた今も元気にカラオケに興じておられるとか。

 社長賞受賞は編集部員、関係者の頑張りへのご褒美であると大変うれしく、また晴れがましくもあったが、社長賞受賞挨拶の中でも人と金の手当てを執拗に要求しているのはいささか可愛げがなかった。

 私は『朝日人』に「天の時、地の利、人の和の三拍子そろって成功した」という一文を寄せた。「天の時」とは、「ビジネス・ユース一辺倒ではなく、パーソナル・ユースに的を絞った新しいパソコン雑誌」というコンセプトが読者に受け入れられたことである。「地の利」とは、朝日の看板である。誌名でも「朝日」を打ち出したが、朝日新聞社がパソコン初心者向けガイド誌を出すことへの好感があったと思われる。初心者でも読めそうだという安心感があり、またそれに応えられた。私としては、「朝日」のブランドと「パソコン誌」の親和性の高さが証明されて、賭に勝ったような気分だった。

 そして、最後は「人の和」。これこそが成功の最大要因である。このことについてはすでに述べたが、編集部員の頑張り。レイアウター、校閲マン、社外ライター、カメラマン、イラストレーターなどの献身的協力。そして出版局内の販売、広告、宣伝、刊行といった業務各部の熱気―いろんな人との折々の出来事が、今でも走馬燈の如く思い出される。局内ばかりではなく、電子計算室、ニューメディア本部、制作局など、社内の多くの人の世話にもなったのである。

 出版局大阪本部からプロジェクト室への人事が発令された直後、私は東大阪市に作家の司馬遼太郎さんを訪ね、転勤の挨拶をした。『週刊朝日』で長らく続いていた「街道をゆく」の前線本部としての縁があったからである。パソコン誌を出す準備をするという私の話を聞きながら、司罵さんは、「僕にはさっぱり分からん雑誌のようだが、思うところを大いにやるといい」と激励してくれながら、最後に、「新しいことをしようとすると、それはまず社内で潰される」とおっしゃった。いろんな出版社での見聞を踏まえての司馬さんの忠告だったが、この短い一言を、私は後に何度も思い出し、かみしめることになった。

 その詳細はともかく、いま少し距離を置いて言えば、大組織は動き出すまでは梃子でも動かぬところがあり、新しい芽を摘むことも多いが、いったん動き出すと、地力を発揮しすばらしい成果を上げる、といったところだろうか。

新サイバー閑話(58)平成とITと私⑥

パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』

 ムックの好評を受け、1988年秋からパソコン誌が正式にスタートすることになったが、出版局内に編集部が発足するのは同年5月。それまでの間に三浦賢一君と2人で『ASAHIパソコン』の誌名、判型、刊行スタイル、基本コンセプトなどを検討する作業に入った。相談相手はムックに引き続いて雑誌のアートディレクターを担当してくれることになった熊沢正人さんであり、『アサヒグラフ』以来のカメラマン、岡田明彦君だった。朝日新聞社内のパソコン先駆者を訪ねたり、私が出版局に移る前に長く勤務していた西部本社の旧友にパソコン雑誌を出すことについての意見を聞いたりもした。

 かつての親友が「記者がワープロで原稿を書くようになって、机に向かうばかりで足で取材をすることがおろそかになっている。農業における農薬と同じで、新聞記者にとってはパソコンはむしろ害である。お前は農薬雑誌を作りたいのか」と鋭い意見を述べて、なるほどそういう面は否定できないと思ったこともあった。

 当時、ムックを作りながら、あるいは雑誌の準備の合い間に読んで、元気づけられた本が2冊あった。スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二、麻生九美訳、原著1987、福武書店、1988)と、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(栗田昭平監訳、原著1985、パーソナルメディア、1987)である。

・「収縮する3つの輪」の予言

  MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

 『メディアラボ』という本は、アメリカ・カウンターカルチャーの世界的ベストセラーとして有名な『ホールアースカタログ』の編集発行人でもあるスチュアート・ブランドが、パーソナル電子新聞、秘書の代わりをする留守番電話、パーソナル・テレビ、リアルタイムで動くアニメーション、バイオリンの伴奏をする自動ピアノなどなど、当時メディアラボで行なわれていた、活字、音声、映像、さらにはイベントといった、あらゆるメディアの領域に及んだ最先端研究を紹介したものだ。ここには黎明期のパーソナル・コンピュータをめぐる熱気が横溢していた。

 私の興味を惹いたのは、この書に掲載されていた次の図である。

 描かれた3つの輪は<放送・映画 Broadcast & Motion Picture>、<印刷・出版 Print & Publishing><コンピュータ Computer>からなり、これらは当初は独立した世界を築いていたが(1978年時点)、最近では相互に近付き、重なり合う部分が増えてきた。いずれは1つのメディアに統合され、その中心がコンピュータである、との説明がついていた。

  このメディアラボのトレードマーク、「収縮する3つの輪(three overlapping circles)」は、ネグロポンテ所長がひんぱんに言及するので、「ネグロポンテのおしゃぶり」と言われていたが、当時のメディア状況を考えると、まさにこの予言通りに事態は進んでいた。コンピュータという技術が、自らの姿を背後に隠しながら、そのことでかえって全メディアを大きく呑み込んでしまうというイメージで、それはまさに現在の状況を的確に表していた。私はこの図を見たとき、自分がつくろうとしている雑誌のバックボーンを見つけたようで、実に力強く思ったものである(将来の区切りが2000年というのが興味深い)。

・コンピュータは「思考のための道具」

 ラインゴールドの『思考のための道具』は、パーソナル・コンピュータを「人間の知性における最も創造的な局面を強化する」、「人びとがこれまで用いてきた思考、学習、および意思疎通の方法を決定的に変える」道具と位置づけ、「コンピュータとは数値の計算に用いられる装置」としか思われていなかった時代に、「人間とコンピュータを結びつける技術の創造に貢献した少数派」の思想を追った本である。スチュアート・ブランドと同じく、ラインゴールドもまたジャーナリストであり、偉大なる先達を足で訪ね、まとめ上げた取材力、構想力に私は舌をまいた。

 この本には、チャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、ジョン・フォン・ノイマン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノンといったコンピュータや情報理論の巨人たち(開祖 patriarchs)も取り上げられているが、重点は、その後の「コンピュータを知的能力を飛躍させるための『てこ』にできないかと努力した」パーソナル・コンピュータのパイオニア(pioneers)と、現にいま、さまざまな試みに挑戦している若者たち(情報航海者 infonauts)に置かれている。

 パーソナル・コンピュータ発達史に興味のある人ならほとんどの人が知っているロバート・テイラー、J・C・R・リックライダー、ダグ・エンゲルバート、アラン・ケイいった逸材たちが続々と登場し、それぞれの夢と汗と涙の織りなす開発秘話が、興味深い写真とともに、愛情をこめて記述されていた。

 簡単に説明しておくと、リックライダーは、MITの実験心理学者から国防省の高等研究計画局(ARPA、アーパ)情報処理研究技術部長になり、人間とコンピュータの新しいコミュニケーションを可能にする「対話型コンピュータ」を実現すべく、多くの研究者に豊富な資金を提供し、コンピュータ・サイエンスを新たなレベルに持ち上げた先駆者である。

 エンゲルバートは、リックライダーの資金援助を受けた1人で、早くから思考増幅装置に興味を持ち、マウス、マルチウインドウ、電子メールなど、現在のパソコンの重要なインターフェースを開発した人として知られる。

 ロバート・テイラーは、リックライダーのあとを継いでアーパの情報処理研究技術部長になり、主流からは無視されていても、コンピュータ・システムの技術を飛躍的に押し上げるアイデアを持つ研究者の「ヘッド・ハンター」となった。そのため、多くのすぐれた人材がアーパに集まり、彼が責任者となって構築した「全国のコンピュータを接続する対話型コンピュータ・ネットワーク」システム、アーパネットは、のちのインターネットへと発展していく。

 彼は、1970年には西海岸のゼロックス社パロアルト研究センター(PARC、パーク)に移り、ここでもトップレベルのコンピュータ・システム設計者を集めたから、パークは一時、パーソナル・コンピュータ研究のメッカとなった。「コンピュータはメディアである」ことをいち早く見抜き、「パーソナル・コンピュータ」という考えを定着させた人として知られるアラン・ケイが活躍したのもパークである。

 アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。

 いま見ると、これはまさに子どもがタブレット端末で遊んでいるありふれた姿である。アラン・ケイは、MITメディアラボに在籍したこともあり、アップル社の研究フェローもつとめた。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは、彼のいかにも天才らしい発言である。

・メディアラボやシリコンバレーを見て回る

 私のパーソナル・コンピュータに対するイメージは、それらの本を読みながら、しだいにはっきりした形をとっていった。『ASAHIパソコン』創刊前の夏、ボストンで開かれたマッキントッシュのイベント「MACWORLD」に出席がてら、MITメディアラボを見学し、帰りに西海岸のシリコンバレーを駆け足で回った。

 ボストンはハーバード大学とMITをかかえた静かな学園都市である。MITでは、当時朝日新聞社からメディアラボに派遣されていた服部桂君に案内してもらって、最先端の研究現場をまわった。瀟洒なラボの建物と同時に、教授や学生たちが和気あいあいと進めている自由な研究風景に心を奪われた。「ハッカー」とは、俗に言われるようなコンピュータ犯罪者ではなく、コンピュータを愛する技術者集団、魅力的な若者たちの総称だということを身をもって体験した。私は創刊号インタビューで、ネグロポンテ所長を取り上げることに決めた。

 西海岸、サンフランシスコ湾の南に位置するシリコンバレーは、谷というよりも、小高い山に囲まれた平野だ。車で走ると、松林が続き、樫の木が茂る牧歌的な風景の中に、ハイテク企業群が蝟集していた。といって、狭い場所にひしめきあっているわけではない。クパチーノのアップル社などは、オフィスがいくつかの建物に別れていて、ビルもあるが、こじんまりした住宅のような建物も多く、それが新鮮な印象を与えていた。展示室で、小さなトランクにむき出しのワンボードマイコンが詰まった最初のアップル、ぐっとスマートになったアップルⅡ、そしてリサ、マッキントッシュと、さまざまなマシンやいくつかのデモビデオを見た

 バレー西部に広大な敷地を有するスタンフォード大学があり、その近くの小高い丘に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)がある。パークの果たした役割についてはすでに述べたが、ゼロックスはそこで培ったノウハウをオフィス用ワークステーション「スター(Star))」開発に振り向けたが、パーソナル・コンピュータ市場には進出していかなかった。

 いま私たちがパソコンでやっている日常作業そのままが「スター」によって1981年の段階で提示されていたにもかかわらず、そのノウハウがパソコン開発へと進まなかったのは、それなりの理由があってのことだろうが、歴史の皮肉とも言えよう。企業経営の観点からすると、これは一種の「失敗」だと言っていい。パークが現在のパソコンを生み出したと言えなくもないのである。

・パソコン黎明期の天才、ジョブズとゲイツ

 パークはアルトを公開し、多くの人にデモを見せたが、その中にアップルのジョブズがいた。アルトに啓示を得たジョブズは、さっそく自分がリーダーになって新しいマシン開発に乗り出し、パークから技術者も引き抜いて、1984年にマッキントッシュを発売する。「電話帳の上に乗るパソコン」というジョブズの希望に沿った縦型の斬新なデザインだった。ビットアップ・ディスプレイを採用して、マウスでディスプレイ上のアイコンを操作すれば、初心者でもパソコンを手軽に扱えるようになっていた。

 このグラフィカル・ユーザーズ・インターフェース(GUI)は、まもなくビル・ゲイツのマイクロソフトが開発した基本ソフト、ウィンドウズにも採用される。私たちがムックで紹介したPC-98とはパソコンの姿が大きく変わったのである。とは言いながらウィンドウズ95が発売されるのは1995年であり、アップル・コンピュータは別にして、日本のパソコンは長らくMS-DOSの時代が続いた。

 GUIに関するおもしろいエピソードを紹介しておこう。

 ジョブズがウインドウズ・システムについて「アイデアをマックから盗んだ」と批判したとき、ゲイツは「いや、スティーブ、そうじゃないさ。むしろ、近所にゼロックスという金持ちがいて、そこに僕がテレビを盗みに入ったら、もう君が盗んだ後だったということじゃないかな」と言ったという。

 『アサヒグラフ』の項で紹介したように、パソコンはこれまでIBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受けて登場したが、その黎明期の天才がスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツだった。

 IBMも1981年にパーソナル・コンピュータに参入したことはすでに述べたが、そのときジョブズは「IBM、ようこそ(Welcome IBM Seriously)」と自信満々に迎え撃ったのだった。またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。

 ジョブズはアップルを巨大なものにするために、東部エスタブリッシュメント企業からペプシコーラ社長、ジョン・スカリーを「あなたは人生の残りの日々を、ただ砂糖水を売って過ごすんですか。世界を変えようというチャンスに賭ける気はないんですか」という殺し文句でCEOにスカウトするが、その後、スカリーにアップルを追われる。しばらく教育用ワークステーション、ネクスト(Next)の開発などに携わっていたが、その後、マイクロソフトからすっかり水をあけられたアップルに呼び戻される。

 ジョブズがやった復帰第1弾がしゃれたパソコン、アイマックiMAcの開発であり、CEOに返り咲いて以降、小型端末のiPod 、iPad、iPhoneを次々と市場に投入、パソコンからモバイル端末(スマートフォン)へとIT社会の歯車を大きく回転させる偉業を成し遂げる(これについては後にふれる機会があるだろう)。

 私はネクスト売り込みに来日した1989年7月、ジョブスに会っている。前日に幕張メッセで一大デモンストレーションを行ったときは、タキシード姿をばっちり決め、まさに達者なエンターテイナーぶりだったが、インタビューでは、ネクストの販促に関連しない質問には一切ノーコメントを通す徹底ぶりで、これに手を焼いて(?)、私は記事を断念したのを思い出す。

  よく言われるようにジョブズは、自らは技術者でなかったが、技術者を動かして自分の、そして彼らの夢を実現することができた「芸術家」だった。彼はパソコンを電話機の後釜的な存在だと考え、電話機をずっと見て暮らしたらしい。そして、電話機がたいてい電話帳の上に乗せられているのに気付き、ある日、技術者を集めて、「マックは電話帳に乗る大きさでなくてはいけない」と言ったのだそうである。

 1991年5月にはゲイツにも会った。ウインドウズ95に先立つMS-WINDOWS(ウインドウズ3.0)の㏚にやってきたときで、その画期的機能について丁寧に説明すると同時に、パークに関する私の不躾な質問にも、嫌な顔をせずに答えてくれた。発言、大略、こんなふうだった。

 「たしかにこの件でアップルと訴訟にはなっていますが、多くの面で協力しあっています。マイクロソフトがウインドウズ・システムを発表したのは1983年で、マッキントッシュより先でした。まあ類似点についていろいろ不平があったとしても、似ているところはすべてゼロックスから来ているわけです。彼の方が先に入っていろいろ取っていったとしても、あとから入った私に不満を言うとか、占有権を主張できるわけはないだろと言ったんですね。私はジョブズとは友好的な関係を保っていて、お互いにオープンでした」。彼もまたジョブズと同じように「技術者」ではないようだが、こちらはすでに才覚あふれる青年「実業家」の風貌を築きつつあった。

・『ASAHIパソコン』の基本コンセプト―パソコン誌の3段階理論

  いろんな本を読んだり、多くの人にあったりして、私は『ASAHIパソコン』の基本コンセプトを固めていった。当時、日本でもグラフィックデザインや出版分野でマッキントッシュの人気は高かったけれど、日本語化の問題もあり、趨勢はまだコマンドをキーボードから打ち込んで動かすMS-DOSの世界だった。

 雑誌としての定期化をめざす過程で、私が出版局内や広告代理店、取次などの書店関係者に新雑誌の構想を説明するとき、「ネグロポンテのおしゃぶり」よろしく繰り返していたのが、「パソコン雑誌の3段階理論」なるものだった。だいたい以下のようなことである。

 パソコン誌は、パソコンの社会的あり様にともなって変わる。 1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。

 『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。

 そして『日経パソコン』から5年後の1988年11月、『ASAHIパソコン』創刊。本誌はこれからはじまる、誰もが文房具としてパソコンを使うようになる時代の、便利でやさしい使いこなしガイドブックである。ソフトやハードのガイドはもちろん、より大きな視野から情報社会のあり方にも目配りしていきたい。これを私は、「ホビー・ユース」から「ビジネス・ユース」を経て「パーソナル・ユースへ」と呼んだ(象徴的マシンとして、私は創刊ほどなく発売されたノートパソコンを想定した)。

 もっとも、ムックから雑誌への道のりは、そう平坦ではなかった。パソコンのやさしいガイド誌というのが、ニュースを売り物にする新聞社の出版物としてはなじまない、と思われがちなのも事実だった。当時、社内はニュース週刊紙『アエラ』創刊の話で持ちきりだったし、『ASAHIパソコン』の直後には総合月刊誌『月刊Asahii』も創刊されている。

 「氷海を行く砕氷船の如く、悪戦苦闘の6ヶ月が過ぎたが、ともかくも動き始めた船が、果たして氷海を脱出できるのかどうか、乗り込んだ2人の船員にもまだ確たる見当がついていない」。ムック制作中にはこんな感慨も漏らしている。

 『ASAHIパソコン』創刊に反対する意見、あるいは態度の中で、私が興味深いと思ったのは、次の2つである。これも今となっては懐かしい思い出で、ことさら取り上げることもないのだが、おもしろいと思うので簡単に触れておこう。

  1つはこういう声だった。「矢野さんはパーソナル・ユース、パーソナル・ユースと言うけれど、いまは『日経パソコン』のようなビジネス・ユースの雑誌が主流である。パーソナル・ユースのパソコン誌に対するニーズがあるのなら、すでにどこかの社が出しているはずだ。そういう雑誌がないことが、すなわち需要のないことを証明している」。

 これだと、新しい雑誌は我が社からは永久に生まれない理屈だが、それでも、こういう意見を論破することは難しい。いや至難と言っていい。結果で勝負するしかないのだが、結果を出すのをあらかじめ拒否されているようなものだからだ。

 もう1つは、広告関係者が正直にもらした感慨である。「私たちはいま『週刊朝日』の広告を一生懸命にとっている。何でこの上、パソコンなどという扱ったこともない雑誌のために広告をとらなくてはならないのか。誰も、そんな雑誌なんかほしくないですよ」。

 私は、「これからもずっと『週刊朝日』に頼っていけるとは思えないから、頑張ってでも新しい雑誌を作ろうとしているのだ」と反論したけれど、彼らの本音は分からないでもなかった。

 新聞社内の人間を説得するためにもう一つ、私が言ったのは「社会部が作るパソコン雑誌」だった。パソコンはまだ扱うのが大変で、パソコン雑誌も専門用語が多く、素人には取っつきにくかった。技術解説ではなく、使う人を重視したパソコン雑誌をアピールしたくて、「科学部ではなく、社会部が作る雑誌」という言い方をしたのである。

 とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。

 ちょっと『ASAHIパソコン』創刊前後のIT事情をふりかえっておこう。

 ジョージ・オーウェルの有名なディストピア小説『1984年』が書かれたのは1949年という早い時期だったし、オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』はそれ以前の1932年である。コンピュータが普及するにつれて、その弊害を指摘する声も多く、有名なジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(1976)は1977年には邦訳されている。

 先にもふれたように、アルビン・トフラーの『第三の波』は1980年の発売、増田米二『原典・情報社会』は1985年だが、世界に先駆けて梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは1963年だった。ダニエル・ベルは1973年に『脱工業化社会の到来』を書き、来るべき「情報化社会」の出現を予言した(物の生産から情報の生産へ)。

 日本社会は、私たちが『ASAHIパソコン』を創刊した1980年代に情報社会から高度情報社会へと移行しつつあったと言える。当時は情報技術がもたらすバラ色の未来が喧伝されていたから、『ASAHIパソコン』はその波にうまく乗り、高度経済成長にも助けられて、高度情報社会を促進する役割を担ったと言えるかもしれない。

 ちなみに任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されたのは1983年である。我が家もそうだったが、子どもたちは、そして大人も、タッカタッカタッタカタッタカのロードランナーやスーパーマリオなどのゲームに興じ始めた。

 この記録<平成とITと私>は私の後半生を振り返りつつ、IT社会がどのように変遷して今に至ったかをできるだけ客観的に叙述したいと考えている。あえて名づければ『私家版・日本IT社会発達史―ASAHIパソコンからOnline塾DOORSまで』である。第1回で書いたように、『ASAHIパソコン』の創刊後ほどなく時代は昭和から平成に移り、平成の30年間はくしくも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、IT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。当座のタイトルを「平成とITと私」としたのもそのためである。

 Zoomサロン<Online塾DOORS>を主宰している2022年の時点から見ると、当初はアメリカ西海岸の若者たちのパーソナル・コンピュータにかけた熱気に深く同感しつつ、パソコンが切り開く未来に希望を求め、それをむしろ促進したいと夢見ていたと言えるが、その後のパソコンの歴史が必ずしもその夢のようにはならず、当時は思っても見なかった便宜、そしてそれとは裏腹の深い難題を人類に与えるようになった。私がIT社会を生きるための基本素養として「サイバーリテラシー」を唱えるようになるのは2000年初頭だが、IT技術の予想を上回る発展とそれに対する私見もおいおい述べていくつもりである。

 記述になるだけ客観性をもたせるため、当時の関係者の発言も記録に残っているものはそれを参照していくつもりだが、そうはいかない部分も結構あり、筆が主観に走ることもあるかもしれない。関係者の実名を記している点も含め、諸兄姉のご寛恕をお願いしたい。関係者にはすでに他界された方も多いが、特別な場合以外、その後の人生についてはふれていない。

 <平成とITと私>は本サイバー燈台の<新サイバー閑話>に収容されている。他の原稿との区別がなく時系列に並んでいるので、通しで見る場合は、サイトにアクセスした後、右側にあるサイト内検索の窓に「平成とITと私」と打ち込んでいただけると、記事一覧が表示されるので、そこから好みの項をお読みください。