新サイバー閑話(62)平成とITと私⑩

いざ鎌倉、源氏山大花見宴

 『ASAHIパソコン』創刊前の1988年春、外からの助っ人ばかりからなる編集部の気勢をあげるために、わが家の裏の源氏山で、「いざ鎌倉 大花見宴」を始めた。適当に酒と肴をもちより、家族や友人、知り合いを誘って、三々五々、毎年同じ桜のもとに集まる。紅白の垂れ幕を張って、粋な芸者?が歌って踊る、ちょっとドはでな花見だが、友が友を呼び、参加者が100人規模になることもあった。雨の日も最初から我が家で「花より酒」の宴を絶やさず、花見は2018年まで続いた。

 二十年見れども見れども桜かな

という小林一茶の句があったと思うが、まことに「三十年見れども見れども桜かな」の年月だった。花見は日曜と決めていたから、一週間日取りをあやまると、まだ五分咲きだったり、すでに花吹雪が舞ったり――、前日は満開だった桜が夜半の嵐で花の絨毯になってしまったこともある。花は真っ盛り、しかも晴天という年もけっこうあり、澄んだ青空をバックに桜が揺れるのを見ていると、新人として盛岡支局に赴任した翌5月1日、メーデー取材に同行して見た岩手公園のみごとな桜を思い出したりした。公園わきに石川啄木の、

 不来方のお城の草に寝転びて空にすはれし十五のこころ

の歌碑があった。春になると、何度も山に登って挙行日を決めるのは私の仕事だったが、そんなときは在原業平の、

 世中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

を思い出したりもした。

 冒頭の写真は2011年のもので、夕方だからすでに帰った人も結構いたが、ゴザや垂れ幕も片付けたあと、思い立って記念撮影したものである。

・花見宴実行委員会と若者3人組

 岡田明彦、熊沢正人の『ASAHIパソコン』創刊の大助っ人が花見でも実行委員となってくれ、熊沢さんは紅白の垂れ幕を用意し、パワーハウスの若手も動員、岡田君は地元の仲間たちを招いて大いに気勢を上げてくれた。家族が参加することもあった。我が家では近くの畳屋から大枚の畳表を調達、そのゴザが垂れ幕と並ぶシンボルになった。

 最初のころの顔ぶれには村瀬さん、おてもりさん、斎藤さん、編集部の宮脇、見沢両君、「あむ」の荒瀬君、小本さんなどの姿も見え、まさに『ASAHIパソコン』気勢会の趣で、当時の出版局次長、柴田鉄治さん、三浦君なども参加してくれている。その後はときに地元鎌倉の作家、井上ひさしさん、CGの大家、河口洋一郎君なども顔を見せた。雨の日に若い女性陣が気を利かせて持って来てくれたぬいぐるみで大いに盛り上がったこともある。明治大学の夏井高人さんも一度来て、しこたま酔っぱらって帰っていった。法政大学の白田秀彰さんが他の人とは群を抜いた伊達姿で若い女性と写っている写真も残っている。

 手元のノートに「週刊読書人」1999年2月5日号にライフワーク総合研究所の鈴木隆さんが書いた「わが交遊」というコラムのコピーが残っていた。花見宴を紹介したものだが、私が鈴木さんと知り合ったのは彼が大修館書店の編集者、私が『アサヒグラフ』編集部員の時で、徒歩で描き出した壮大な絵地図の作者を紹介してもらったのがきっかけだった。

 近所の井上ひさしさんのお宅を訪れた時、彼が「創刊以来のバックナンバーを揃えている」と合掌造りの2階の書棚にずらりと並ぶ『ASAHIパソコン』を見せてくれたときは、ちょっと感激した。北九州から中国文学者の林田慎之介さんがやってきて、朗々たる歌声を披露してくれたこともある。林田さんとは『月刊Asahi』時代に三国志特集をするときに寄稿していただいて以来の仲だが、その縁で知り合った知泉書館の小山光夫さんも常連の花見仲間で、彼にはその後、私のサイバーリテラシー3部作を出版していただくことにもなった。同書館の高野文子さんが一緒だったこともある。

 花見のアルバムを見ていると思い出はつきない。

 この花見で大活躍してくれたのが梶原巧、伊東文武、田村良作の若者3人組だった。彼らとの出会いは、ムック『おもいっきり電子小道具』のころに遡る。例によって助っ人探しに明け暮れていたころ、女性編集者が有能な学生がいると言って、連れてきたのが梶原君だった。

 彼は職場にやって来るなり、「もしかすると『アサヒグラフ』の矢野さんではないですか」と言った。手にはアサヒグラフ時代の私の名刺も持っていた。「そうだよ」、「やっぱりそうですか」。

 私が『アサヒグラフ』時代に取材したマイコン少年の1人が、まだ高校生だった彼だった。押し入れをマイコン部屋にしてゲームに興じていたが、「マイコンもだんだん自分に似てくる」などとしゃれたことを言って私を喜ばせたのである。その日は偶然の再会を祝してすぐ食事に出かけ、乾杯した(写真は『アサヒグラフ』1981.4.17号)。

 彼は工学院大学の学生で、すぐ仲間2人を連れてやってきて、3人の学生はそれ以後、『ASAHIパソコン』の強力な戦力になった。もちろん花見においても。

 最初の花見では前夜から泊まり込みで席取りになり、めざす一本の桜の下で寝ずの番までしてもらった。私が朝方山に登っていくと、隣に同じように寝転んでいる人がおり「ここは俺たちの陣地だ」と言った。「ほら、そっちの隅に靴が脱ぎ捨ててあるだろう。あっちには小枝がある」。「そんなに広い必要はないんじゃないの。半分譲ってくださいよ」と話は簡単についた。寝そべっていた人はすでに相当酒が入っていたが、すぐ仲間によって樽酒が届けられた。我々の方は昼まで酒はなく、ブルーシートの上に用意のゴザを強いたり、紅白の垂れ幕をかけたりと、花見ムードをつくりあげた。すると男性が「やっぱり花見はゴザじゃないとねえ」とやってきて、樽酒をふるまってくれた。鎌倉市内の飲み屋の仲間がやはり毎年、ここで花見をしているらしく、男性は高校の美術の先生で大変な酒好きだった。

 そんなことで昼過ぎになると、両グループはすっかり打ち解け、にぎやかな花見が始まった。梶原君は今でも「あのときほど酔っぱらったことはない」と回想している。我々は重い発動機を山に持ち上げ、レンタルのカラオケマシンで景気をつけたが、先方の飲み屋の女将が「花見にカラオケなんて無粋なものは持ち込んじゃダメ」と制止するのも聞かず、仲間から飛び入りも出て、花見は大いに盛り上がった。

 3人組はほぼ毎年花見に参加、そのうち彼女を連れてくるようになり、結婚して(私は2組の仲人をした)子どもが生まれ、家族ぐるみで参加するようになった。サイバー燈台の<Zoomサロン>ではOnline塾DOORSの履歴を紹介しているが、第14回にスピーカーとして出演してもらったのが伊東君の長男、直基君である。若かった3人ももう50代半ばである。

・花見に妍を添えた梅里桃太郎、そして西田グループ

 『ASAHIパソコン』創刊前だったと思うが、中江さんに六本木のピアノバーに連れてもらったとき、そこでピアノを引いていた梅里桃太郎こと芳賀敏さんに会った。音大ピアノ科出身で女装好き、花見をすると言ったらさっそく、出演してくれることになった。我が家に衣装を持ち込んで身支度を整え、しゃなりしゃなりと山に登る。「よっ!桃太郎」と拍手喝采で、通行の花見客からおひねりも飛んだ。あいにく雨の日に、敏ちゃんがせっかく用意したのに、と夕方になって鶴岡八幡宮の段かずらまで繰り出したこともあった。

 もう1人のVIPが入門講座や辛口コラムを書いてくれた西田雅昭さんである。彼はたしか2回目から最終回まで毎回、参加してくれたばかりか、コンピュータ仲間の黒岩潤司、久米正浩、市川剛、橘静枝、倉田彰敏、大江富夫、松島好則といったコンピュータやインターネットの猛者をどんどん誘い、それらの人びとがまた常連になって、花見グループの一大勢力を築くにいたった。みんな飲んベイかつうるさ型で、花見はいよいよ盛り上がった。『DOORS』を手伝ってもらった加藤泰子さんが顔を見せたこともある。

 そのうち岡田君が「春が源氏山の花見なら、正月はうちで新年会をやる」と言い出し、こちらも大井町で毎年3日に開かれ、花見を終えたあとまで続いたと思う。北海道出身の岡田君らしく炉に備えた石狩鍋が毎年の定番で、友人の劉宏軍さんが民俗笛の演奏をしてくれるなど、こちらもにぎやかな新年会だった。

 さらにある時、西田グループから夏は我々で合宿を計画するとの提案がなされ、黒岩さんのあっせんで高原の別荘で合宿したり、久米さんが地元の静岡の農家を借り切るなど、花見の輪は大きく広がりもしたのである。

 西田さんは現在、ライフワークとも言える『治安維持法検挙者の記録―特高に踏みにじられた人々』(小森恵著、西田義信編、文生書院)のデータベース作りに取り組んでおられる。恩師の小森恵さんが手がけた治安維持法検挙者のデータを引き継ぎ、2016年に大部の書物を刊行したが、そのデータをより完璧なものにすることにほとんど独力で取り組んでおられる。こういうことにこそ国(デジタル庁)の補助がほしいものだとつくづく思う。

 さて花見だが、我が家でも妻は敏ちゃんの着付けや定番となったタケノコと牛肉の煮物作りに忙しかったし、最初はまだ中小学生だった娘や息子も成人して社会人になり、家族で参加したり、友人を呼んできたりするようになった。いつの間にか、我々夫婦も「じいじ」、「ばあば」と呼ばれるようになっていた。

 後半には、サイバー大学の教え子で後にサイバーリテラシー研究所を助けてくれるようになった安田央、渡邊淳、新井健太郎、西岡恭史各君、やはりサイバーリテラシー研究所仲間の齊藤航君や藤岡福資郎君たちが参加するなど、メンバーも大きく移り変わったが、初期の参加者の輪はずっと続いた。ライターの吉村克己君や『月刊Asahi』で一緒だった高野博昭君は初期から参加してくれたし、朝日新聞の同期で大妻女子大学教授になった松浦康彦、『DOORS』で一緒だった鎌倉在住の角田暢夫両君も後半の常連だった。元NECの後藤富雄さんもその1人で、玄関にびっしり並んだ別人の靴を履いて帰ったこともある。

 30年の年月は重い。気持ちはあっても身体がままならぬ人も出て、山にまで登らず我が家に直行する人も増えた。お目当ての桜も老化し花ぶりも衰えたこともあり、2018年を最後に31年の幕を下ろした。この記録をきっかけに、Zoomで同窓会をするのもいいかと思ったりするが、花も酒もないような会ではだれも満足しないであろう(写真は2018年、最後の花見宴の一コマ)。

 

新サイバー閑話(61)平成とITと私⑨

私がインタビューした人びと

 創刊号から私は毎回、インタビューを続けてきた。パソコン発達に貢献した人びとの想像力と熱意あふれる話を聞いたり、パソコン使いの達人に極意を伺ったり、不自由な体でパソコンを駆使し新しい人生を切り開いた人の苦労話を聞いたり、パソコン通信を利用して二人三脚で小説を書く方法を尋ねたり、農家のパソコン利用について取材したりと、私自身がパソコンという道具について日ごろ考えていることを、その折々に来日した外国人も含めて、さまざまな分野の人に聞いたものである。有名人もいれば、無名の人もいた。

 写真を担当してくれたのは、かねてコンビの岡田明彦君である。かつて『アサヒグラフ』で全国の最先端技の現場を訪ねたように、私たちは月に2度、インタビューのために各地を回った。彼の人物の内面を映し出すようなすばらしい写真が紙面を飾ってくれた。この回に掲載した写真はすべて岡田君が当時撮影したものである。

・ニコラス・ネグロポンテが夢見た世界

 創刊号はかねて予定のニコラス・ネグロポンテ所長だったが、彼の「収縮する3つの輪」についてはすでに説明したので、ここではエピソードをいくつか紹介しておこう。

 彼はインタビュー前の講演で、こういう話をしていた。

 ウイズナー教授といっしょに、日本人実業家から箱根の別荘に招かれたとき、ウイズナー教授が、庭に飾られた彫刻を、その配置に触れながら具体的にほめたのに対し、当の実業家は「うーん」とだけ応えた。そうしたら通訳が、主人は、かくかくの点においてウイズナー氏の考えに賛成だといっております、とずいぶん長い英語に翻訳したので驚いた。コンピュータに「うーん」というと、私たちの感情をちゃんと解釈した言葉が出てくるようになることこそ、パーソナル・コンピュータの理想である、と。

  インタビューしたとき、彼はその話に触れて「通訳は主人のことがよく分かっていたので、発言の裏にある意味を汲み取って、具体的に相手に伝えた。パソコンはまだ月から突然やってきたみたいなもので、人間とは共通体験をほとんど持っていませんが、将来は、人間にとって親密な存在となり、通訳が会話の欠けていた部分を補ったように、あなたがコンピュータに『うーん』というと、そこに含まれた感情までも解釈して、相手に伝えてくれるようになるんですよ」と語った。

 私がテクノストレスなどの問題を持ち出して、コンピュータ社会の弊害に水を向けると、彼は「コンピュータが導入されると、人間が神経質になり、ストレスが増えるという考えも間違っています。現実はその反対で、コンピュータを使うことで生活を便利なものにし、そのおかげで、自分や家族のために使う時間を増やすことができるということなのです」と、いかにもコンピュータ伝道師らしい答えだった。

 彼は当時から、まだ重くはあったが、携帯パソコンを持ち歩いていた。コンピュータへの情熱がひと一倍強いからだろう、その将来にはきわめて楽観的だが、彼もまた明快なビジョンによって、メディアラボを引っ張り、パーソナル・コンピュータ発達史に大きな足跡を残した人である。雑誌『Wired(ワイアード)』創刊にも深く関わり、そこでコラムを書き続けている。

 ネグロポンテさんは、建築科の学生だったころ、よりよい設計のために建築家を助けるマシンがほしいと考え、アーキテクチャーマシン・グループを設立している。25歳でMIT教授に就任、メディアラボ所長になったのが32歳の時である。端正な顔立ち、スマートな物腰、やわらかな語り口、「先端的なコンピュータの仕事をしている科学者・学者というより、洗練され、成功したインターナショナル・エグゼクティブのよう」と言われていた。新分野に果敢に取り組む若い人たちの才能を見つけ出し、引き上げていく新人発掘の名手でもあった。

 後に『DOORS』時代、私はメディアラボ准教授である石井裕さんから、その具体例を聞いた。石井さんはNTTヒューマンインターフェース研究所でグループウエアを研究し、コンピュータとビデオと通信技術を利用した画期的な仮想共同作業システム「チームワークステーション」開発などで高い評価を受けていた。メディアラボに招かれる経緯はこうだった。

 94年に、それまで一面識もなかったアラン・ケイから電子メールで、コラボレーション(共同作業)をテーマにしたアトランタ会議への参加要請を受ける。会議にはネグロポンテ所長も来ていて、会議後、いきなり「メディアラボに来ないか」との誘いを受けた。アラン・ケイは口説き文句として、「メディアラボは、技術やシステムではなく、あなたのエステティックス(美学)を求めている」と言ったという。「日本では技術や開発だけが科学者の研究対象だとみなされて、コンセプトや美学・哲学の研究はあまり認められなかった。それをアラン・ケイが初めて評価してくれてたいへん感動した」。彼はこの申し出を受け翌95年、MITで面接試験代わりの講演をし、10月から准教授に就任した。

 MITは石井さんが発表する論文などを通して、その才能に目をつけ、デモをする機会を与え、合格となると、その場で彼を招聘してしまったのである。経歴重視や根回し本位の人事では、こういう芸当はできない。MITに多くの才能が集まる秘密の一端がそこにあるだろう。後にやはりネグロポンテさんの強い推挽でメディアラボ所長となった伊藤穣一君の場合は、本人から事情を聞く機会がなかったが、よく似た経緯だったのではないだろうか。

・梅棹忠夫「情報理論」の世界的先駆性

 創刊1周年を記念して満を持してインタビューしたのが、国立民族学博物館長だった梅棹忠夫さんである。専門の文化人類学はともかく、情報に関する分野で言えば、1969年に書いた『知的生産の技術』(岩波新書)が有名だが、それより前の1963年に発表した「情報産業論」は、短い論文ながら、世界に先駆けて情報社会の到来を予言した画期的なものである。

 そこにはこう書かれている。

 「情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上には出なかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化が進んだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、情報の産業化が進行するであろうという予感のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもいい」

 梅棹さんは、農業の時代、工業の時代、情報産業の時代という「産業史の3段階」を、有機体としての人間の機能の段階的な発展と関連づけ、それぞれ内胚葉産業の時代、中胚葉産業の時代、外胚葉産業の時代とも呼んでいる。「農業の時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官の機能充足の時代であり、その意味で、これを内胚葉産業の時代とよんでもよい」「工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物質とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる」「(最後は)外胚葉産業の時代であり、脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である」。そして、コンピュータは「外胚葉産業時代における脳あるいは感覚器官の機能の充足手段」として位置づけられ、その役割が期待されていた。

 発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「『情報産業論』1963/2017」』の一読をお薦めしたい)。

 『知的生産の技術』は、発売当時ベストセラーになったから、多くの説明はいらないと思うが、今の若い人で知っている人は少ないかもしれない。知的生産とは「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出すること」と定義されている。これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。

 『ASAHIパソコン』創刊号の特集は「めいっぱいパソコン情報整理術」だった。あのころに私たちが見た夢は、いまはスマートフォンではすでに当たり前になっている。情報を扱う技術の発達には、まことに時代の進化を痛感させられる。

 梅棹さんは、1986年3月に突然視力を失うという不幸に見舞われ、不自由な生活を強いられていたが、杖をつきながら民族学博物館を案内してくださった。そこで「知的生産の巨大技術の開発と実行」でもあった民族学博物館づくりの苦労話を聞いたのだが、巨大コンピュータ・システムに支えられた博物館を作る際、「『文科系の研究所になぜコンピュータがいるんだ』とよく言われました。それに対して私は『考え方が反対で、需要に応じて機械を入れるのでなく、まず機械を入れれば、需要が出てくる』といったんです。博物館自体がそうで、世論調査をいくらやっても、博物館を作れというニーズなんか出てきません。だけど作れば、喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こす。新しいものはすべてそうです」と話してくれたのが、とくに印象的だった。

・木村泉・森毅・佐伯眸

 創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。

 冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。

  先輩に会いに行くようなワクワクした気分で東京工業大学に木村教授を訪ねた日が、つい最近のように思い出される。「パソコン徹底入門」のさわりを聞きに行ったのである。

 「パソコンはワープロと比べて、まだ前もって説明しなければならないお流儀が、傷口として残っています。いろんなことができるんだが、それをなめらかに行うための工夫がない」「エムエスドスは傷口だらけとも言えます」という木村さんに「現段階ではパソコンよりもワープロの方が便利ですか」と恐る恐るたずねると、「これは、何をおっしゃるウサギさんでありまして、実はパソコン入門の本を書きたい」との答えで、私は大いに意を強くした。

 いろんなキーボードの話、文章を書く道具としてのワープロの利点などを聞いたが、「ソフトの違法コピーはどうしたらなくせるか」という私の質問に対して、木村さんは「よくわからないんだけれど、いままでの日本の国民性の中ではあり得るように思います。宮沢賢治の『オッペルと象』の象ではないけれど、世間さまに対して、ひとつ生きてる間は耕してがんばろうと、安楽とはいわないまでもそこそこ食えて、働いて、『ああつかれたな、うれしいな、サンタマリア』とオッペルの像が言うわけでしょう。あんな感じの雰囲気が常識になればいいと思いますね」と答えた。ソフトウエアを作る人は楽しみながらも一生懸命働く、それにユーザーがきちんと応えるような社会を期待しての発言だったのだが、さて、日本の現状はどうだろうか。

 数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。

 「バグなしの情報というのは無理なんでね。こっちもバグがあると思いながら付き合うよりしょうがないんじゃないかな。コンピュータ科学者たちと話していて感心したことがあるんです。プログラムにはバグは、虫はいるんやと。虫はおってもええけれども、あまり暴れたら困るんで、なるべく小さな所に関門があって、遠くまで影響を及ぼさないようにしておく。虫が異常発生して変なことが起こると、遠くからでも分かるようになってるのがいいプログラムやというんですね。コンピュータの虫のエコロジーです。われわれだって、適当に虫を飼いながら健康に生きとるわけで、うっかり抗生物質を使いすぎて虫がいなくなると、逆に変なことが起こったりします。今の比喩で言うと、健康であるよりしょうがないんですね」
 「虫がいる方がたぶん自然なんでしょうね。情報の世界を変な清潔幻想と同じ感じでとらえるのは無理じゃないかな。いま、教科書が非常につまらないのは、虫がいたらいけないことになってるからでね。それで、しょうもないところにうるさいんですよ。だけど、間違いを見つけた方にしてみれば、楽しいですからね。間違いぐらいあったっていいと思うんですよ。大学の教科書ぐらいになると、図々しいのがたまにあって、この本にあるミスプリを発見するのは諸君の勉学になるだろう、なんて書いてあります。情報とのつきあい方というのは、本来はそういうものだと思うんです。相手の権威を信用してはいけない。自分で判断せんといかんわけですね。短期的には、いろいろ規制せざるをえないかも分からないけれど、規制することがいいことだということになったら、これはもう情報自身と矛盾しますね」

 『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがないし、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。

 「ある分子構造だとか流体力学だとか、実際に手で触れるような経験ができないものをシミュレーションしていくのは分かるけれど、そうだとすれば、ある構造をどう探索しようとしているのか、どういう方向で意味を抽出しようとしているのか、いつもユーザーとインタラクションできるような構えがなくてはいけない。そのとき重要なのが『略図性』という概念です。略図では、裏にある意図、目的、方向づけなどがはっきり見えるからこそ、ユーザーとのインタラクションできるのです」

 佐伯さんは、「コンピュータを経験代行的に使うのではなく、さまざまな活動を触発するために使うことが大切」といい、教育現場で実際に行なわれている例をいくつかあげてくれた。また、コンピュータをグループ・インタラクションの媒体として利用するグループウエアが、これから教育現場でコンピュータを活用するための一つの方法だと話してくれた。

・ハイパーテキストとネルソン、そしてアトキンソン

 テッド・ネルソンはパーソナル・コンピュータ黎明期に『コンピュータ・リブ』と『ホームコンピュータ革命』を出版し、いち早くその知的ツールとしての可能性を予言、多くの人々に強力な影響を与えた。1989年9月、国際シンポジウムに出席するために来日した「伝説の人」に会った。

 ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。

  ハイパーテキストについて、ネルソンさん本人はこんなふうに語った。

 「ハイパーテキストの考え方は、さまざまな文書をいかにして相互に関係づけるかということです。あるテキストに出てくる言葉を知りたければ、すぐそちらに飛び、そこで出てくる動物を知りたいと思えば、またその絵が出てくるテキストに飛ぶ、といったふうに、一瞬にして相互に関連付けられるテキストです。ハイパーテキストは文章、映像、グラフィックスなど、どんな形式の情報でも取り込むことができるし、その情報を相互に関連付けることもできます」

 学生時代につけていた厖大なメモの山を前に、押しつぶされそうな気分になり、どうしたらそれらメモ同士を関連づけられるかを考える中で育まれたアイデアらしいが、「紙のメディアは文章を秩序だって整理するにはいいけれども、直線的で、硬直的である。もっと自由な発想、ひらめきがほしい」ということでもあった。

 ハイパーテキストという考えをはじめて提示した『コンピュータ・リブ』は、のちにアップデート版が市販され、私もそれを入手したが、その実験的試みとしてだろう、表紙が前と後の二つあり、どちらからでも読める、いや、本全体のどこからでも読めるという新しいテキスト形式の実験にもなっている。

 このハイパーテキストの考えを具体化するためのプロジェクトが「ザナドゥー(Xanadu)」である。人びとのさまざまな見方、考え方を一堂に集めた共通の場をつくるのがねらいで、「ザナドゥーでは、全世界の著作物をオンラインで結び、すべての人がそのシステムを利用して情報交換する」ことをめざした。ザナドゥーは、オーソン・ウエルズの映画『市民ケーン』に出てくる新聞王の大邸宅の名でもあるが、ネルソン氏によれば、「原典は、英国の詩人コールリッジの『クブラカーン』で歌われている桃源郷」なのだという。彼は「この詩はアメリカやイギリスではよく知られていて、表現が非常に美しいので、ザナドゥーという言葉を聞くと、みなが文学的響きを感じます」といって、その詩の一節を朗々と暗唱してくれた。

 ザナドゥーでは、著作権を保護するための仕組みも考えられ、全世界を情報ネットワークで覆おうという壮大なものだが、「世界で最も長いプロジェクト」とも呼ばれ、構想から4半世紀たった当時、なお実現のメドはたっていなかった。ネルソンさん自身、「このプロジェクトは、蒸気のような、上にのぼっていくけれど、どこに行くのかわからないベイパーウエア(Vaporware)です」と笑い、「アラン・ケイの『ダイナブック』、ニコラス・ネグロポンテの『アーキテクチャー・マシン』、私の『ザナドゥー』、この3つがベイパーウエアと呼ばれている」とつけ加えた。

 ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。

 私は、インタビューの前文で「ハイパーカードは、文書やグラフィックスばかりでなく、ビデオ、音声、アニメなどあらゆる情報を自由にコントロールできる新しい情報ツール・キットである。初心者が使いやすいように、さまざまな工夫もしている」と紹介している。ハイパーカードは、最初からマッキントッシュに標準装備(バンドリング)されており、すでにハイパーカードを使った「マルチメディアの新しい本」も発売されていた。

 アトキンソンさんは、「自転車のような道具が人間の肉体的な力を増大させたように、パーソナル・コンピュータは、創造力とか学習、記憶などの精神的な力を増大させてくれる。1984年に世に送り出したマッキントッシュのデザインの基本は、この『精神のための車(Wheels for the mind)』であり、わたしたちの夢の第2弾が、1987年に完成したハイパーカードだ」と語った。

 ハイパーカードを起動すると、ホームカードという最初のページが現れ、そこにカレンダー、予定表、住所録、電話帳といったアイコンが並んでいる。それぞれの項目に入力したデータは、「ボタン」によって相互に関連付けられるのが「ハイパーテキスト」的だったのである。

 私は「こういったシンプルで美しいプログラムは、どのようにして作られるのか」を聞いてみた。アトキンソンさんの答えは、なかなか感動的だった。

 「最初の一年間はたった1人の人間、すなわち、わたしが手がけました。アイデアを錬っていたんですね。その後で人びとが入ってきて約40人のチームになりましたが、プログラマーは5人程度です。あまり多くの人が1つのプログラムにかかわるとかえってだめになってしまいます。ビジョンを打ち立てるメインデザイナーは1人で、何人かのアシスタント・プログラマーと密接な関係をもって動くのが基本です」「ソフトウエアの開発は、自分のほしいもののおぼろげなアイデア、大きな霧のようなものからスタートします。それをしだいに雲のように輪郭を明らかにしていく。一歩下がって眺めているうちに、自分はこういうものを作っていたんだということを『発見』するのです。なるほどこれはあれだったのか、あれじゃだめだと、それを捨て去って、また最初から始めます。それを何度も繰り返す。作り上げたものを捨て去り、作りなおす過程で、作ろうとしているものがより明確に見えてくる。目指すものができあがると、テストしてもらう。予想通り動くかどうか調べてもらって、そこにいろんなものをつけ加えていく。それで形がデコボコになると、もっとシンプルなものに整えなおす。そうして、しだいによりシンプルになり、いよいよ本質に近づいていく。だからソフト開発はずいぶん時間がかかるし、試行錯誤が何度も繰り返されるのです」。

・知的生産の技術としてのパソコン―紀田順一郎・石綿敏男

 梅棹さんのところでふれたけれど、私の興味は知的生産の技術としてのパソコンだったから、文芸評論家ですでに『ワープロ考現学』、『パソコン宇宙の博物誌』などの著書もあった紀田順一郎さん、『電子時代の整理学』の著者で放送教育開発センター所長だった加藤秀俊さん、推理小説作家でパソコン通信をフル活用して作品を書き上げていた2人合作のペンネーム、岡嶋二人さん、能の権威ながら電子小道具の達人で『システム文具術』の著書もあった武蔵野女子大学教授、増田正造さん、『ウィザードリィ日記』、『怒りのパソコン日記』などで知られた翻訳家、作家の矢野徹さんなどにもインタビューしている。

 そのうち紀田順一郎さんと、横書きのカタカナ表記の基準を聞いた言語学者の石綿敏男茨城大学教授のさわりの部分だけ紹介しておこう。

 紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。

 当時、ワープロの辞書については2つの考えがあった。1つは梅棹忠夫さんに代表される「ワープロは何でもかんでも漢字に変換してしまうから、文章に漢字が増えた。すぐに漢字に変換しないソフトを作れ」という意見。もう1つは紀田さんのように「推挽、杜撰、憂鬱、冤罪、隔靴掻痒、一瀉千里など、ちょっと特殊な文字になると辞書に入っていないことが多い。もっと辞書を充実すべきだ」という意見。

 紀田さんは「日本文化のためには旧仮名遣いで変換する辞書を作れば、研究者や図書館員が助かるから、モード切替でやれるようにしてほしい」と述べ、私も「紀田順一郎の辞書」とか「大阪弁の辞書」があっていいなどと述べているが、この辺もまた時代の進歩はすさまじく、コンピュータ能力と記憶容量の飛躍的増加で、いまではほとんど解決されている。たとえばWordで自前の辞書を作るのは当たり前になっている。

 もっともこれは辞書作りや文字コードづくりに懸命に取り組んだ文科系、技術系の先達が取り組んだ苦闘の歴史を背景としている。文字コードの世界標準、ユニコード策定に貢献した小林龍生さんとは後に知り合い、別の機会にインタビューしているが、それは後述したい。小林さんは一時、一太郎で有名なジャストシステムに在籍し、そこで紀田さんたちと辞書作りに取り組んだ人でもある。

 石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。

 専門用語の扱い、とくに外国語のカタカナ表記は、常に頭の痛い問題で、エレベーターは音引きがあるのに、コンピュータがないのはどうしてか。メモリー、メーカー、メンバーはどうするか、スキャナ、ドライバは、となるとこれまた微妙で、5音以上は音引きなし、3音以下は音引きを入れる、4音は慣用による、などと校閲担当の大塚信廣さんと相談しながら「本誌のルール」を作ったりしたが、慣用の基準が時期がたつと変わったりで、なかなか始末が悪く、「最終的には編集長の気持ち次第」となったりもした。

 そこでコンピュータを使った自動翻訳のための自然言語辞書作りに取り組んでおられた石綿さんに、パソコン、ワープロなどの和製英語、フロッピーディスクドライブ、パブリックドメインソフトなどと3つの単語をつなげるときの・の入れ方、外来語と言語の意味のズレなどについて話を聞いたのである。

 結果は「基準を2つに分けた方がいいかもしれませんね。エスカレーターとかエレベーターとかいう、ふつうの言葉はふつうの表記法を尊重する。コンピュータ、ディレクトリなどは、専門知識を一般の人に伝える専門誌の立場として、専門用語、その述語の表記法を尊重する」という常識的な線におちついた。しかし、言葉は生き物である。コンピュータやインターネットの普及で、この種の専門用語もいつのまにか普通用語になっているし、言葉の基準作りはなかなか難しい。マイクロソフトのブラウザーは当初、エキスプローラと表記されていたが、後にエキスプローラーと変わったという具合である(もっともエキスプローラーは今ではエッジに変わっている)。

 インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。

 日本の電卓メーカーから米インテル社に派遣され、世界初のマイクロプロセッサ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。

 このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。

 このインタビューは、のちに『パソコンと私』(福武書店、1991)として出版された。装丁は熊沢さんで、美しくかつ重厚な本に仕立ててくれた。私の本格的著作の第1号でもある。1991年8月2日、仲間が『パソコンと私』出版と『月刊Asahi』異動をかねたパーティを開催してくれ、インタビューした人びとも含め多くの知人、友人から祝福を受けた。

新サイバー閑話(60)平成とITと私⑧

相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出

 やっと故三浦賢一君について話す時がきた。これまでも折々に彼のこと記してきたけれど、私がプロジェクト室でパソコン誌の準備を始めたとき、局長室がパソコンに詳しい三浦君を相棒としてつけてくれたのがまさに天の配剤で、『ASAHIパソコン』の成功はそのときに約束されたと言っていい。彼と過ごした3年半は、朝日新聞に入社以来最も忙しい日々だったけれど、一方でそれは、大袈裟に言えば、至福の期間でもあった。彼は頼りがいのある相棒であり、すぐれた科学ジャーナリストであり、たぐいまれな編集者だった(写真は仕事中の三浦君。創刊2年目を迎える前)。

 私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。

 三浦君は東北大学大学院理学研究科の出身である。本来なら学者の道をめざすはずだったのだろうが、途中で方針転換、朝日新聞に入社した。ごく普通に支局勤務を2つ経て、1979年に科学朝日編集部員に。その後、週刊朝日編集部を経て1986年秋に出版プロジェクト室に配属となった。

・すぐれた科学ジャーナリストにして卓越した編集者

 ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。

 『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。

 彼自身にもそのような広い視野への関心が強く、だから学者よりジャーナリストを選んだのだろうと、私は推測していた。すぐれた編集者、小宮山量平(理論社社長)は、編集者の心得として以下の3点を上げている(『編集者とは何か―危機の時代の創造―』日本エディタースクール出版部)

第1は、つねに総合的認識者という立場を持続できること。森羅万象にすなおに驚き感動する心をもち、しかも1つの専門にかたよらない、むしろ専門自体になることを拒否することで総合的認識の持続をつらぬく気概をもつこと。
第2は、知的創造の立会人という役割に徹すること。それはアシスタントであり、ときにアドバイザーでもある。そのためには、あらゆるものの存在理由について無限の寛容性をもつ「惚れやすさ」、著者の創造過程に同化しつつ、著者を励ます「聞き上手」、そして相対的批判者の立場から誉め批評ができる「ほめ上手」の3つの役割を、うまく果たさなければならない。
第3は、自分が制作する出版物を広く普及するため、特有の見識をそなえ、力倆を発揮しうること。

 編集という職業に惚れぬいた人の、思わず襟を正してしまう指摘だが、三浦君はまさに小宮山量平の望む編集者の資質をよく具えていた。初対面からウマがあった理由ではないかと思う。彼はあるとき、千葉支局時代に支局長から「簡単に出来ることではなく、むしろ出来そうもないことを考えろ」と言われた、と話したことがあった。困難に挑戦する気概が名著『ノーベル賞の発想』を生んだと言っていい。新聞記者にとって最初の4~5年、ほとんどの人が配属される支局勤務は、かつては「記者の学校」だった。私自身も新米時代に横浜支局や佐世保支局で新聞記者の原点とも言うべき多くのことを学んだ。

 作業はさっそく二人三脚で動き出した。意見が食い違うことはほとんどなく、忙しいけれども充実した、楽しくもあった数年だった。ムックのタイトルを「おもいっきり」にしようと提案したのも三浦君であり、ムック『おもいっきりPC-98』のところでも述べたが、実用情報誌の情報の扱い方についての基本フォーマットづくりにも貢献してくれた。

 私はパソコンガイド誌ではあっても、新聞社から出す以上、ジャーナリズム性を失ってはいけないと考えていた。新聞社内にはまだ新聞記者は大所高所から世界国家を論ずべきで、パソコンのガイド誌などもってのほかとの空気が強かったが、それは大きな勘違いだと私は思っていたのである。

 これはすでに述べたことだが、雑誌『日経ビジネス』の「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集がその例である。当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという鋭い洞察は、具体的な物を徹底的に分析することから生まれた。これぞジャーナリズムであり、編集マインドである。立花隆が1974年に文藝春秋で特集した「田中角栄の研究―その金脈と人脈」も同じである。メーカーの資料を丸写ししてただ並べるだけのガイドではなく、その並べ方や説明の仕方に工夫がほしい。記事の背後に記者の、編集者の目が光っているような実用情報を私は求めた。

・すべてはパロアルトから始まった

 創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。

 息抜きになったかどうかはわからない。しかしパークとその周辺を訪ね、ロバート・テイラーやアラン・ケイ、ダグラス・エンゲルバートなど、パソコン黎明期の伝説的人物にインタビューする旅は、けっこう楽しかったのではないかと私は想像している。『ASAHIパソコン』としてはぜひとも紹介しておきたい話だったし、読者にとっても興味深い読み物にもなったのではないだろうか。

 三浦君について今でも思い出すことが2つある。

 私は三浦君を便利に使いすぎているのではないかと思うことがときどきあったが、ある時カメラマンの岡田明彦君から「三浦君と雑談していた時、彼が「『矢野さんは僕を利用したが、僕もまた矢野さんを利用した』と言っていた」という話を聞いた。彼は彼で『ASAHIパソコン』で自分のやりたいことをやっていたんだなあ、と心和む思いがした。

 もう1つ、これは少し後の話だが、『DOORS』が廃刊になり、私が熊沢さんに愚痴とも怒りとも言えない感情をぶちまけていたとき、そばにいた三浦君がそっと寄ってきて、「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれた。そのときは思わず目頭が熱くなった。

 創刊2周年が近づいていたころ、三浦君は「そろそろ解放してほしい」との希望を示すようになった(前から言ってはいたけれど)。あれだけ働いてくれたのだから、それに応えない選択肢は、当時の私にはなく、局長室にかけあって彼の希望通り、当時動物シリーズを刊行していた週刊百科編集部への異動が実現した。しかし好事魔多し。異動直後に週刊百科が組合役員選出のローテーションにあたり、1年間、組合専従に出るめぐりあわせとなった。

 その後、『科学朝日』副編集長、『ASAHIパソコン』編集長、『アエラ』編集長代理などを経て、2000年暮れに『ASAHIパソコン』から生まれた超初心者向けの『ぱそ』編集長になった。『ぱそ』立て直しの期待を担っての人事らしいが、『ASAHIパソコン』創業の功績にも報いない、何をいまさらと思わされる人事である。三浦君のやさしい性格が災いしたと言うか。そして、あろうことか、そこでの心労が重なり、2001年5月に発作的とでもいうように、自死するに至った。

 火葬場で用務員の女性が「亡くなったのはどういう方だったんですか。骨がしっかりしていてどこも悪い所などなさそうですね」と言った。肉体的にはきわめて健康だったのである。

 そのころ私は出版局を外されて調査研究室勤務となっており、彼の死はまったく寝耳に水だった。異変に気づき相談に乗ることもできなかった境遇をうらめしくも思った。出版局執行部への新たな怒り、それと同時に、デジタル時代の出版活動にまるで無知な人材を天下り的に出版局に送り続けた社執行部に対する憤懣も湧き起った。

 メディア激変の時代における出版の可能性についての持論は、私の失敗も含めて後に『DOORS』の項で詳しくふれるが、ここにはデジタル時代に翻弄され本来のジャーナリズム性すら捨て去った社の歴史が凝縮されているだろう。まだまだやりたいことがあった私を出版局から外し、ほかにやりたいことがあった三浦君を無遠慮にデジタルに張り付けた。私が出版局に残っていれば、強引にでも阻止したものをと、まことに臍を噛む思いだった。

 そんなことなら最初から私の後任を「押しつけて」おけば、『ASAHIパソコン』のためにも、本人のためにも、社のためにも良かったのではないだろうか。彼にはその後もいろいろ協力してもらいたかったし、朝日新聞としても、まことに惜しい人材を失った。すまじきものは宮仕えではないが、悔やんでも悔やみきれない痛恨事である。

・アサヒパソコン編集部を去る

 少し話が先に進みすぎた。創刊1周年を迎える少し前、『ASAHIパソコン』とほぼ同じコンセプトで体裁も同じ、やはり月2回刊のパソコン初心者向け雑誌『EYE.COM(アイコン)がアスキーから発売された。またビジネス・ユース誌としては最大部数を誇る日本ソフトバンクの『Oh!PC』も月刊から月2回刊に切り替えた。パソコン誌の流れは「むつかしい専門用語が詰まった月刊のパソコン専門誌」から「だれもが読める月2回刊のやさしいパソコン情報誌」へと移り始めた。それこそ『ASAHIパソコン』が切り開いたパソコン誌の新しい流れで、私は「追随誌が現れてこそ本物」といささか鼻高々だったが、編集部の状態はあまり変わっていなかった。

 創刊1周年を祝うパーティが1989年10月16日夕、新聞社内レストラン「アラスカ」で開かれ、社内外から130人が集まった。「出版局報」に、その年8月に配属されたばかりの勝又ひろし君がそのレポートを書いている。要するに相変わらず忙しかったのである。社内のパソコン編集部を見る目は「パソコンオタクがそろう特殊技能ハッカー集団と見られがち」で、知人に局内を案内している人が「ここは人間より機会が威張っている所だから、近づかないようにしている」という声を聞いて反発もしている(ちなみに勝又君は創刊から20年近くたった2006年、パソコンガイド誌としての役目を終えて休刊したときの最後の『ASAHIパソコン』編集長である)。

 それから2周年を迎えるころにかけて鍛冶信太郎、藤井千聡、見沢康、福沢恵子といった人びとが編集部に参加している。見沢君は朝日広告社から出向してもらい後に正式部員となった。福沢さんは夫婦別姓の実践者かつ活動家で、激務をリゲインを飲んでしのいでいると「リゲイン福沢」を名乗っていた。出自も個性もさまざまな部員がとにもかくにも頑張ってくれていたのである。三浦君の後任として科学部から大塚隆君に来てもらった。彼にはちょっと回り道をさせてしまったが、後に科学部長に就任した報を聞いてほっとしたものである。

 創刊2周年を終えるころから、私はやるべきことはやったという思いが強くなり、1991年7月、後事を週刊朝日副編集長から来てもらった森啓次郎君に託して『ASAHIパソコン』を去り『月刊Asahi』に移った。

 

 

新サイバー閑話(59)平成とITと私⑦

『ASAhIパソコン』創刊、即日増刷

 1988年10月14日 (15日が土曜なので前日の金曜発売となった)、『ASAHIパソコン』創刊号(11月1日号)が発売された。この日は朝から雲一つない快晴で、ある先輩が「ついてるな。晴れてると雑誌は売れる」と言ってくれたのをよく覚えている。その予言通り、『ASAHIパソコン』は予想を上回る売れ行きで、創刊当日の夕方には増刷が決まり、数日後には3刷りをするなど、実に好調なスタートとなった。

 A4変形判、中綴じ。本文横組み、112ページ(カラー80ページ)。1日、15日発行の月2回刊。 定価340円だった。創刊号は16万3000部刷り、その日のうちに売れ切れる書店が続出した。

 特徴は、まずその薄さだった。これまでのパソコン誌はたいてい月刊で、しかも背表紙のある無線綴じ、厚いページに広告がいっぱい詰まっていた。『ASAHIパソコン』は、ページの真ん中をホッチキスで止める中綴じで、丸めれば手軽に持って歩ける軽装判、当時話題のニュース週刊誌『フォーカス』によく似た体裁にした。

 3人で雑談しているとき、三浦君がふと「月2回刊というのはどうかな」と言い、「それなら1回分の厚さを半分にできるねえ」と私、それに熊沢さんが「1日と15日の2回刊にするなら表紙のロゴを金赤と黒で色分けするのはどうか」と応じ、こうして「新しい酒を盛る新しい皮袋」ができあがった。

 表紙ロゴは、柔らか味を出すために『ASAhIパソコン』と、ASAHIのHだけを小文字にして、ASAhIを大きく、パソコンを小さく配して、その下に、ヒューマン・ネットワーキングの思いを込めて、男女が街角で立ち話をしているスナップ写真を扱った(とくにロゴを意識した場合以外、表記はこれまで通り『ASAHIパソコン』とする)。ロゴは金赤(15日号は黒)。従来のパソコン誌はコンピュータ・グラフィックスやイラストを使ったものが多く、パソコン本体や周辺機器を配するのが普通だったから、異色のパソコン雑誌と言えた。そこには、私たちがムック『ASAHIパソコン・シリーズ』を作りながら試行錯誤してきた新しいパソコン誌のあり方、大げさに言えば、哲学が具現化されていた。

 表紙写真はオリジナル写真を撮る経済的ゆとりがなかったための熊沢さん苦肉の策だった。私は『ASAHIパソコン』を通して雑誌作りにおけるアートディレクターの重要さを思い知った。ムックの『思いっきりPC-98』のグラビアでプロの女性モデルを起用するなど、彼に教えられたことは多い。折々に起用したイラストレーターもたいてい「熊さん」に紹介してもらったものである。三浦君に続いての熊沢さんの参加が『ASAHIパソコン』成功の大きな要因だった。いまその幸運を深く噛みしめている。

 彼は長年、ガンをわずらったあと2019年に他界した(<平成とITと私>①参照)。その死がこの記録の執筆を思い立たせたのだが、彼の常に笑みをたたえた物腰柔らかな姿が懐かしい。

・目玉は「村瀬康治の入門講座」

  創刊号の主な目次をならべてみよう。

特集 めいっぱいパソコン情報整理術
アプリ探検隊①「Z’sWORD JGでパンフレットを作る」  国友正彦
村瀬康治の入門講座①「ためらうことなんかありません さあ、ワープロから始めましょう
ハードディスクで世界が変わる  山田隆裕
インタビュー①ニコラス・ネグロポンテMITメディアラボ所長「コンピュータに『うーん』といえば あなたの思いを伝えてくれる」
海外リレーエッセー①グローバル・ネットワークの共有  室謙二
COMPUTER博物誌①
MPU電脳絵師養成講座①パソコンを画材に/自由な発想に期待  古川タク+岩井俊雄
ネットワーキング・フォーラム
    慈子のおしゃべりネット   高橋慈子
    九郎のネットワーキング讃  高橋九郎
PDSマインド  山田祥平
パソコン何でも相談  斎藤孝明
小田嶋隆の「路傍のIC」  小田嶋隆

 ほかに、ニュース、追跡「ついに発生、国産ウイルスの正体を追う」、ハードウエア、ソフトウエア、電子小道具、本、情報ページ、辛口時評。創刊をきっかけに片貝システム研究所の協力で電話無料相談も行い、その縁で片貝孝夫さんにコンピュータ業界全般を見渡した「辛口時評」もお願いすることになったのである。

 目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。

  当時のパソコンの主流は「16ビットMS-DOSマシン」だった。すでに述べたように、MS-DOS(エムエスドス)はマイクロソフトが開発した基本ソフトで、当時のパソコンのほとんどがMS-DOSを採用、ワープロとか表計算とかいったアプリケーション・ソフトは、この基本ソフトの上で動いていた。パソコンを動かすには最低、MS-DOSの知識が必要で、それがパソコンの垣根を高くしていたといえる。まだマウスでアイコンをクリックして操作できる時代でなく、ファイルの中味を見たいなら「DIR」、文書をコピーするなら「COPY」と、いちいちコマンドを打ち込まなくてはならなかった。

 だから、パソコン入門の筆者を、MS-DOSのガイドで定評のあった村瀬さんにお願いしたのである。創刊準備中のある日、私は三浦君をともなって村瀬さんの職場を訪ね、入門講座の執筆をお願いした。最初は「昼に仕事を持っている身であり、締め切りが定期的にやってくる雑誌への連載はしないことにしている」と丁寧に断わられたが、私たちが出そうとしている雑誌については、「これからは若者だけでなく、実際に仕事を持っている中年・実年の方々がパソコンを使うようになる時代。いま朝日新聞社がガイドブックを出すのはたいへんすばらしいことだ」と、まさに諸手を上げて賛成してくれた。

 私は話しているうちに「入門講座はこの人に頼むしかない」と強く思い込むようになり、村瀬さんも「仕事のことを考えると、月に1回ならともかく2回の原稿を書く余裕はない」というところまで軟化してくれたが、結局は確約を得られずに帰った。その後、村瀬さんから「やってみてもいい」という返事をもらったときの嬉しさは忘れられない。

 村瀬さんは、入門講座の対象読者を、パソコン初心者ではあるが、社会の一線で活躍する実務のプロと定めて、パソコンはどういう道具で、何ができるのか、パソコンを使うとはどういうことか、何をしてはいけないか、いまマシンは何を買うべきか、といったことを丁寧に、しかも村瀬さんの考えをはっきりと提示しつつ、分かりやすく説明してくれた。これも熊沢さんの紹介でおてもりのぶお(小手森信夫)さんにイラストを頼んだ。彼はこれまでパソコンに触ったこともない初心者だったが、テクニカルな話題を日常生活レベルに翻案して、美しく、大胆なタッチで、すばらしいカットを添えてくれた。この入門講座(写真は第1回の誌面)は、またたくうちに『ASAHIパソコン』の目玉企画になった。

 アプリ探検隊を率いてくれたのは国友正彦さんで、毎号、「ロータス1-2-3」のアドインソフト、「シルエット」でクリスマスカードを作る、「毛筆わーぷろ」で年賀状を書く、などさまざまなアプリケーション・ソフトを具体的用途に沿って丁寧にガイドしてくれた。それぞれハードな仕事で、これも目玉企画の一つだった。

 海外リレーエッセーを担当してくれた室謙二さんは『アサヒグラフ』時代の同僚に紹介したもらったが、会って『ASAHIパソコン』の話をした途端に、「それはすばらしい。必ず成功する。できるだけの協力をする」と言ってくれたのが忘れられない。室さんは市民運動の活動家としても知られていたが、早くからワープロやパソコンの電子道具に親しみ、すでに『室謙二 ワープロ術・キーボード文章読本』(晶文社)などの著書もあった(『メディアラボ』の訳者でもある)。米カリフォルニア州に生活の拠点をおき、日米をまたにかけて活躍する「コンピュータ・メディア界の風雲児」といった感じだった。室さんにはリレーエッセーでアメリカの最先端事情を書いていただくと同時に、編集部員たちがアメリカ取材するときの拠点として、さまざまな便宜をはかっていただいた。室さんのやわらかい文章が、パソコン誌の堅苦しさを補ってくれた面があったと思う。このリレーエッセーは西海岸から室さんに、東海岸からはMIT在籍中の服部桂君に交互で執筆してもらい、いい息抜きのコラムになったと思う。

 小さいながらも個性的だったコラムが、小田嶋隆の「路傍のIC」と山田祥平の「PDSマインド」だった。

 ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。

 ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。

 原稿取り立てはもっぱら私の仕事で、前にも書いたが、原稿を読みながら見出しをつけるのは、毎号の楽しみでもあった。当時から話はパソコンを離れがちで、それが私の意にも沿い、また魅力でもあった。筆者が描いたカットも添えられている。

 山田祥平君は、PDS(パブリックドメインソフト)という、ネットワーク上で、主として無料で提供されているソフトのあり方、その善意の文化に強い関心を示しており、毎回、広い視野のもとに、新しいPDSを紹介してくれた。ムック時代の「編集協力」者の肩書きに恥じぬ良好な出稿ぶりで、彼のパソコンに対する思い入れがすなおに受け取れる好読みものだった。

 後半のNetworking FORUMでは、パソコン通信などから拾った話題を紹介しつつ、当時すでにこの世界で有名人だった高橋慈子、高橋九郎の両高橋さんにエッセーをお願いした。本誌らしい企画として、情報ページには、小さいながら、高齢者のパソコン・ユーザーを紹介する「Silver」、パソコンが身体不自由者に福音を与える可能性を追求する「Handicap」のコーナーも設けた。中和正彦君はこのハンディキャップのコーナーを15年以上担当して、この分野における専門ライターに育った。

 創刊当時の誌面を眺めていると「あの人はああして口説いたんだ」、「彼にはずいぶん面倒をかけた」などなど思い出すことが多く筆が止まらなくなるが、とりあえずこの辺で止めておこう。

・修羅場に放り込まれた編集部員の奮闘

 雑誌と言えば、それまで週刊誌か月刊誌しかなかったところに、月2回刊という、しかもテーマがパソコンというまったく新しい雑誌が誕生したわけで、そこに有無を言わさず異動させられたというか、いきなり修羅場に放り込まれた若い部員たちの驚きは、いまになると十分想像できる。当時は忙しいばかりで、その辺への配慮が足りなかったのを申し訳なく思うほどである。

 アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。

 創刊直前の「出版局報」では、「『ASAHIパソコン』、やるっきゃないと、いざ船出」という2ページ見開きの記事が載っている。その一部を紹介しつつ、いくつか補足しておこう(写真も「出版局報」から)。

 デスク(副編集長)の三浦君は、創刊号の13ページ特集、「めいっぱいパソコン情報整理術」を何人かのフリーライターの協力のもとに精魂を込めて作り上げた。梅棹忠夫『知的生産の技術』ではないが、ここにはパソコンこそ知的生産の技術であるという私たちの思いが込められていた。彼が本誌の特集づくりの路線を敷いてくれたと言ってもいいが、そのねらいを説明しながら、「毎日、忙しい。『ラ・ボエーム』の公演は9月25日の日曜日だ」と結んでいる。オペラの大ファンで、ときどき来日するオペラ公演を見るのが数少ない息抜きだったようだ。

 宮脇君は編集部に配属になって初めてパソコンと付き合うことになったが、「パソコンは苦手、とおっしゃる方にはキーボードに対する拒否反応があると思います」、「私はキーボードにはほぼ3日で慣れました」と『入門講座』担当にふさわしい早速のパソコン伝道師ぶりで、最後は「『これから』組の方々が、次々とキーボードに取り組む姿を見ることが、われわれにとって何よりの励みになります」とすでに優秀なパソコン編集部員ぶりでもある。

 彼は部員の最年長だったが、その明るく穏やかな人柄、目配りの利く仕事ぶり、新しいことに挑戦する熱意と意欲で、あっという間に部員、と言うより部全体のまとめ役になると同時に、特集づくりにさまざまなアイデアを投入、誌面作りもリードしてくれる頼もしい存在だった。

 間島君はすでにかなりのパソコン・ユーザーだったらしい。学生時代には「制服少女図鑑」(?)とかいう雑誌だか単行本だかを出していたようで、すでに雑誌のプロでもあった。三浦君とは兄弟分のような親密さで、彼の参加もまた当編集部にとって大きな力になった。「出版局を見回すと、当編集部のほかには、いまだに2、3台しかパソコンが見られません。パソコンが1台あれば、情報収集や、データ整理などがずっと楽になります。各編集部に1台はほしいところです。信じられない方は編集部に遊びに来てください」と、こちらも仕事の忙しさはおくびにも出さない優等生ぶりである。

 工藤君は政策局から助っ人としてやってきたシステムエンジニアである。パソコンやワークステーションをそろえた編集支援システム構築に威力を発揮してくれた。「雑誌作りには携わる必要がない」と言われてきたらしいが、そのすぐれた編集マインドをたちどころに見抜いた我々が放っておくわけがなく、「PDSマインド」や「パソコン相談」の担当から特集づくりに至るまで予想を超えた仕事を押しつけられて「とにかく忙しい」、「目新しいことばかりで、無我夢中で毎日を送っている」と書いているが、「入社わずか2年目でこのような大きな仕事をさせていただき、非常にありがたいと思っています」と編集長を泣かせるようなことも書いている。

 西村さんは『ASAHIパソコン』創刊にあたって他のパソコン雑誌編集部からスカウトされ、慣れない環境にずいぶん心労もあったようだが、「Networking FORUM」担当として、「今日はPC-VAN、明日は地方のネットと、編集部を拠点として全国各地を飛び回っている」、「こうやって、通信にのめり込みながらも、『ASAHIパソコン』は10月14日創刊です』という宣伝を忘れない」と健気に書いてくれている。

 以上、スタート時の編集部員の横顔を紹介したが、誰も愚痴をこぼさず、『ASAHIパソコン』の成功と、社内への宣伝を忘れず、まことにすばらしい面々だった。部員にも恵まれたのである。もう1人、大事な人を忘れていた。編集部の庶務係として出版庶務部から派遣されてきたアルバイトの小本恵さんである。愛くるしい笑顔でてきぱきと事務を処理してくれる彼女の存在は、隣に陣取る編集長にとってはもちろん、すべての編集部員のマドンナだった。

 フリーの方々も例外ではなかった。何度もふれたデザイナーの熊沢さんと彼のプロダクション「パワーハウス」のデザイナーたち。特集づくりにあたっては、何度もレイアウトをやり直してもらうなど、本当に迷惑をかけた。多くのライター、岡田君をはじめとするカメラマン、おてもりさんなどのイラストレーターなどなど。本文レイアウトを手伝ってもらった荒瀬光治君と彼のプロダクション「あむ」の面々。『ASAHIパソコン』専属の校閲マンとして契約したフリーの校閲マン、大塚信廣君。後にも触れるが、横書きのローマ字表記の統一など、いっしょになって「『ASAHIパソコン』の表記基準」を作ったのも懐かしい思い出である。

 私は編集部員に対して、常々、「この編集部にいると他の部の2~3倍は忙しいが、年季が明ける時には4~5倍の実力がつく」などと言って発破をかけていたが、それにしてもずいぶんこき使ったものだと、今思い出しても冷や汗ものである。三浦君は相変わらず、冗談交じりに「この部は労働基準法どころか日本国憲法の保護下にもない」と言っていた。(写真は「出版局報」のものだからちょっと見にくいが、右から宮脇、西村、小本、三浦、矢野、2人おいて熊沢、間島、工藤)

・創刊当日のパーティと増刷の報

 創刊の日の夕方、社屋2階のロビーで開かれた創刊記念パーティには社内外から300人以上の人が集まってくれ、そこで創刊号増刷の決定が知らされた(写真は社内報の『朝日人』から)。多くの人から祝福され、それまでの苦労が、ともかくも報いられた瞬間だった。

 創刊号をあらためて手にとってみると、薄いわりに中味が詰まっているし、協力してくださった社外の方々の多彩さに改めて驚かされる。これだけの人が協力してくれたのは、まぎれもなく朝日新聞社のブランドの力だっただろう。新聞社がパソコン誌を出すことへの世間の期待が強かったということでもある。筆者の多くが老舗『アスキー』でも仕事をしていた関係から、これも三浦君と2人でアスキー本社に郡司明郎、西和彦、塚本慶一郎のトップスリーを訪ね、創刊の挨拶をしたこともあるが、彼らもまた大いに励ましてくれたのだった。

 当時の出版担当は『週刊朝日』の名編集長としてならした涌井昭治さん、出版局長は川口信行、局次長が柴田鉄治(編集)、安倍哲麿(業務)の各氏だったが、この執行部が『ASAHIパソコン』を世に送り出してくれたわけである。柴田さんは東京本社社会部長と科学部長を歴任したすでに名の知られたジャーナリストだったが、『ASAHIパソコン』創刊に率先して努力してくれた。広告(君島志郎部長)、販売(西村章部長)、刊行(山崎卓部長)といった業務各部の働きも目を見張るものだった。

 広告部はコンピュータ専門誌という朝日新聞としては異色の雑誌への広告集稿に取り組んだ。自らラップトップパソコンを購入した吉岡秀人君のような献身的働きもあった。販売は篠崎充君などが書店への売り込みに奮闘(担当は水沼裕明君)、宣伝企画課の久和俊彦君はキャッチコピーに頭をひねってくれた。刊行部は入社早々の朝田勝也君が月2回刊という新しい発行スタイル確立に努力してくれた。月2回刊は曜日単位で刊行スケジュールを組めないので、印刷を担当してくれた凸版印刷との交渉も大変だったようだ。業務各部との交渉も編集長の大きな仕事で、彼らとの侃々諤々の議論もまた懐かしい思い出である。

 創刊数か月後、私は前出版担当、中村豊さんから一通の手紙を受け取った。中村豊さんこそが『ASAHIパソコン』生みの親である。私がまだ出版局大阪本部にいてパソコン誌創刊の提案をしたとき、興味をもってより詳しい説明のために私をわざわざ上京させてくれたのだった。彼の配慮がなければパソコン誌の誕生もなかったし、これまでの社の前例を破って、言い出しっぺがそのまま編集長になることもなかったのだと思う。手紙では『ASAHIパソコン』の順調な滑り出しを喜んでくれる文面のあとに、「3年前の打ち合わせから、よくぞ、ここまで、周囲のケツをたたいて、引っ張ってきたものだと感心しています。この雑誌は、きみの情熱と力が生み出したものだと言ってよいでしょう」と書いてくれていた。この手紙は私の宝物である。

・ASAHIパソコン・ネット、俵万智のハイテク日記、西田雅昭の入門講座

  創刊時に、朝日新聞社内では、電子計算室の島戸一臣室長らが中心になってパソコン通信ネットを立ち上げる話があり、こちらも創刊と同時にネットワークを利用したいと思っていたので、相互に協力しあうことになった。このネットはほどなく朝日新聞社から独立したアトソン(島戸一臣社長)が経営するASAHIネットへと発展するが、当初はASAHIパソコン・ネット」として、『ASAHIパソコン』読者を対象に始まったのである。そのように社告でも告知、『ASAHIパソコン』誌上でも、「読者と編集部を結ぶASAHIパソコン・ネット」のコーナーを設けた。

 最初のスタートがよかったため、部数的には順調だったが、少人数の編集部は、相変わらず忙しかった。雑誌の売り上げを左右する特集の作り方には毎号苦労したが、編集部内での自由闊達な議論と何度かの試行錯誤の末に、夏と冬のボーナス時期にあわせた「パソコン買い方ガイド」、春、秋の「ゼロからのパソコン」シリーズなどが定番として確立された。1989年秋に、これまでのラップトップ型よりも一回り小型で軽量のブックパソコン(ブック型、あるいはノート型パソコン)が登場してからは、「これぞ『ASAHIパソコン』に対応したマシン、『思考のための道具』」とばかり、ブックパソコン・ガイドの連載を始めた。

 そんな日々の中で、思い出深い出来事が2つある。

  1つはベストセラー歌集『サラダ記念日』で一躍有名になった佳人、いや打ち間違った、歌人の俵万智さんがマッキントッシュに挑戦した記録を「俵万智のハイテク日記」として連載したことである。2年目から約2年間続いた。この見開きページだけは、やわらかいフォント(書体)を使い、縦組みにし、万智さんの写真を毎号、大きく扱った。

 「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。

 もう1つは西田雅昭さんとの出会いである。2年目に入ったとき、村瀬さんから「連載を続けてもいいが、月1回にならないか」と相談を受け、別の筆者による入門講座を併設、隔号ごとに掲載することになった。その筆者が西田さんだった。このころには勝又ひろし君が編集部に加わっており、彼が西田さんに白羽の矢を立て、快く引き受けていただいたのだが、実は私は西田さんとは旧知だった。「『おもいっきりネットワーキング』データ蒸発」事件の雑誌編集部で、編集長に紹介されたとき、まったく肩書のない名刺をもらったのでよく覚えていた。

 西田さんは、知る人ぞ知るパソコン界の大権威で、著書も多く、『パソコン救急箱』(技術評論社)、『プログラミング「基本」の本』(翔泳社)=いずれも共著=などがある。パーソナル・コンピュータの健全な普及を願う熱血漢、いやオールドボーイで、長らく都下の区営中小企業センターOA相談室で、中小企業の経営者たちのよきアドバイザー役をつとめておられた。

 タイトルを「西田雅昭のパソコン独立独歩」とし、パソコンの置き方、パソコンに向かう基本姿勢といった基本の基本からスタートした。西田さんの口癖はパソコミである。「パソコミは、パソコミは」と言うのだが、それは「マスコミにも劣るパソコン雑誌」という意味なのである。「パソコミは雑誌を売ることばかり考えて、メーカーのいいなりで、本当にユーザーが知りたいことを知らせない。まことにパソコミの罪は大きい」と、早い話が、私が叱られているのであった。「なるほど、もっとも」と思うことが多く、「じゃ、言いたいことを書いてください」とお願いして、後に「西田雅昭の直言・苦言・提言」という連載を始めたりした。「パソコン業界の常識は、世間の非常識」というのも西田語録の1つだった。

 「パソコミ」という蔑称は、「マスコミ」はまだしっかりしてるという前提で生まれているが、これもまた時代を感じさせられる話である。

・社長賞受賞と「天の時、地の利、人の和」

 『ASAHIパソコン』は創刊1周年後に、その功績により社長賞を受賞した。当時の社長は東京大学社会学科の先輩でもあった中江利忠さんだった。1983年に職場ローテーションの関係で『アサヒグラフ』から朝日新聞労組の本部書記長に担ぎ出されたとき、中江さんがたまたま労坦(労務担当重役)になり、労使の関係で緊張した1年を過ごした。その1年間は団体交渉の席以外ではいっさい接触しなかったが、任期を終えての懇親会のとき、初めて親しく話して、その後学科の同窓会の世話役をしたこともあった。その中江さんから社長賞をもらうことになっためぐりあわせも感慨深い。中江さんはカラオケの名手で90歳を超えた今も元気にカラオケに興じておられるとか。

 社長賞受賞は編集部員、関係者の頑張りへのご褒美であると大変うれしく、また晴れがましくもあったが、社長賞受賞挨拶の中でも人と金の手当てを執拗に要求しているのはいささか可愛げがなかった。

 私は『朝日人』に「天の時、地の利、人の和の三拍子そろって成功した」という一文を寄せた。「天の時」とは、「ビジネス・ユース一辺倒ではなく、パーソナル・ユースに的を絞った新しいパソコン雑誌」というコンセプトが読者に受け入れられたことである。「地の利」とは、朝日の看板である。誌名でも「朝日」を打ち出したが、朝日新聞社がパソコン初心者向けガイド誌を出すことへの好感があったと思われる。初心者でも読めそうだという安心感があり、またそれに応えられた。私としては、「朝日」のブランドと「パソコン誌」の親和性の高さが証明されて、賭に勝ったような気分だった。

 そして、最後は「人の和」。これこそが成功の最大要因である。このことについてはすでに述べたが、編集部員の頑張り。レイアウター、校閲マン、社外ライター、カメラマン、イラストレーターなどの献身的協力。そして出版局内の販売、広告、宣伝、刊行といった業務各部の熱気―いろんな人との折々の出来事が、今でも走馬燈の如く思い出される。局内ばかりではなく、電子計算室、ニューメディア本部、制作局など、社内の多くの人の世話にもなったのである。

 出版局大阪本部からプロジェクト室への人事が発令された直後、私は東大阪市に作家の司馬遼太郎さんを訪ね、転勤の挨拶をした。『週刊朝日』で長らく続いていた「街道をゆく」の前線本部としての縁があったからである。パソコン誌を出す準備をするという私の話を聞きながら、司罵さんは、「僕にはさっぱり分からん雑誌のようだが、思うところを大いにやるといい」と激励してくれながら、最後に、「新しいことをしようとすると、それはまず社内で潰される」とおっしゃった。いろんな出版社での見聞を踏まえての司馬さんの忠告だったが、この短い一言を、私は後に何度も思い出し、かみしめることになった。

 その詳細はともかく、いま少し距離を置いて言えば、大組織は動き出すまでは梃子でも動かぬところがあり、新しい芽を摘むことも多いが、いったん動き出すと、地力を発揮しすばらしい成果を上げる、といったところだろうか。

新サイバー閑話(58)平成とITと私⑥

パソコン黎明期の熱気と『ASAHIパソコン』

 ムックの好評を受け、1988年秋からパソコン誌が正式にスタートすることになったが、出版局内に編集部が発足するのは同年5月。それまでの間に三浦賢一君と2人で『ASAHIパソコン』の誌名、判型、刊行スタイル、基本コンセプトなどを検討する作業に入った。相談相手はムックに引き続いて雑誌のアートディレクターを担当してくれることになった熊沢正人さんであり、『アサヒグラフ』以来のカメラマン、岡田明彦君だった。朝日新聞社内のパソコン先駆者を訪ねたり、私が出版局に移る前に長く勤務していた西部本社の旧友にパソコン雑誌を出すことについての意見を聞いたりもした。

 かつての親友が「記者がワープロで原稿を書くようになって、机に向かうばかりで足で取材をすることがおろそかになっている。農業における農薬と同じで、新聞記者にとってはパソコンはむしろ害である。お前は農薬雑誌を作りたいのか」と鋭い意見を述べて、なるほどそういう面は否定できないと思ったこともあった。

 当時、ムックを作りながら、あるいは雑誌の準備の合い間に読んで、元気づけられた本が2冊あった。スチュアート・ブランド『メディアラボ』(室謙二、麻生九美訳、原著1987、福武書店、1988)と、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(栗田昭平監訳、原著1985、パーソナルメディア、1987)である。

・「収縮する3つの輪」の予言

  MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

 『メディアラボ』という本は、アメリカ・カウンターカルチャーの世界的ベストセラーとして有名な『ホールアースカタログ』の編集発行人でもあるスチュアート・ブランドが、パーソナル電子新聞、秘書の代わりをする留守番電話、パーソナル・テレビ、リアルタイムで動くアニメーション、バイオリンの伴奏をする自動ピアノなどなど、当時メディアラボで行なわれていた、活字、音声、映像、さらにはイベントといった、あらゆるメディアの領域に及んだ最先端研究を紹介したものだ。ここには黎明期のパーソナル・コンピュータをめぐる熱気が横溢していた。

 私の興味を惹いたのは、この書に掲載されていた次の図である。

 描かれた3つの輪は<放送・映画 Broadcast & Motion Picture>、<印刷・出版 Print & Publishing><コンピュータ Computer>からなり、これらは当初は独立した世界を築いていたが(1978年時点)、最近では相互に近付き、重なり合う部分が増えてきた。いずれは1つのメディアに統合され、その中心がコンピュータである、との説明がついていた。

  このメディアラボのトレードマーク、「収縮する3つの輪(three overlapping circles)」は、ネグロポンテ所長がひんぱんに言及するので、「ネグロポンテのおしゃぶり」と言われていたが、当時のメディア状況を考えると、まさにこの予言通りに事態は進んでいた。コンピュータという技術が、自らの姿を背後に隠しながら、そのことでかえって全メディアを大きく呑み込んでしまうというイメージで、それはまさに現在の状況を的確に表していた。私はこの図を見たとき、自分がつくろうとしている雑誌のバックボーンを見つけたようで、実に力強く思ったものである(将来の区切りが2000年というのが興味深い)。

・コンピュータは「思考のための道具」

 ラインゴールドの『思考のための道具』は、パーソナル・コンピュータを「人間の知性における最も創造的な局面を強化する」、「人びとがこれまで用いてきた思考、学習、および意思疎通の方法を決定的に変える」道具と位置づけ、「コンピュータとは数値の計算に用いられる装置」としか思われていなかった時代に、「人間とコンピュータを結びつける技術の創造に貢献した少数派」の思想を追った本である。スチュアート・ブランドと同じく、ラインゴールドもまたジャーナリストであり、偉大なる先達を足で訪ね、まとめ上げた取材力、構想力に私は舌をまいた。

 この本には、チャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、ジョン・フォン・ノイマン、ノーバート・ウィーナー、クロード・シャノンといったコンピュータや情報理論の巨人たち(開祖 patriarchs)も取り上げられているが、重点は、その後の「コンピュータを知的能力を飛躍させるための『てこ』にできないかと努力した」パーソナル・コンピュータのパイオニア(pioneers)と、現にいま、さまざまな試みに挑戦している若者たち(情報航海者 infonauts)に置かれている。

 パーソナル・コンピュータ発達史に興味のある人ならほとんどの人が知っているロバート・テイラー、J・C・R・リックライダー、ダグ・エンゲルバート、アラン・ケイいった逸材たちが続々と登場し、それぞれの夢と汗と涙の織りなす開発秘話が、興味深い写真とともに、愛情をこめて記述されていた。

 簡単に説明しておくと、リックライダーは、MITの実験心理学者から国防省の高等研究計画局(ARPA、アーパ)情報処理研究技術部長になり、人間とコンピュータの新しいコミュニケーションを可能にする「対話型コンピュータ」を実現すべく、多くの研究者に豊富な資金を提供し、コンピュータ・サイエンスを新たなレベルに持ち上げた先駆者である。

 エンゲルバートは、リックライダーの資金援助を受けた1人で、早くから思考増幅装置に興味を持ち、マウス、マルチウインドウ、電子メールなど、現在のパソコンの重要なインターフェースを開発した人として知られる。

 ロバート・テイラーは、リックライダーのあとを継いでアーパの情報処理研究技術部長になり、主流からは無視されていても、コンピュータ・システムの技術を飛躍的に押し上げるアイデアを持つ研究者の「ヘッド・ハンター」となった。そのため、多くのすぐれた人材がアーパに集まり、彼が責任者となって構築した「全国のコンピュータを接続する対話型コンピュータ・ネットワーク」システム、アーパネットは、のちのインターネットへと発展していく。

 彼は、1970年には西海岸のゼロックス社パロアルト研究センター(PARC、パーク)に移り、ここでもトップレベルのコンピュータ・システム設計者を集めたから、パークは一時、パーソナル・コンピュータ研究のメッカとなった。「コンピュータはメディアである」ことをいち早く見抜き、「パーソナル・コンピュータ」という考えを定着させた人として知られるアラン・ケイが活躍したのもパークである。

 アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。

 いま見ると、これはまさに子どもがタブレット端末で遊んでいるありふれた姿である。アラン・ケイは、MITメディアラボに在籍したこともあり、アップル社の研究フェローもつとめた。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは、彼のいかにも天才らしい発言である。

・メディアラボやシリコンバレーを見て回る

 私のパーソナル・コンピュータに対するイメージは、それらの本を読みながら、しだいにはっきりした形をとっていった。『ASAHIパソコン』創刊前の夏、ボストンで開かれたマッキントッシュのイベント「MACWORLD」に出席がてら、MITメディアラボを見学し、帰りに西海岸のシリコンバレーを駆け足で回った。

 ボストンはハーバード大学とMITをかかえた静かな学園都市である。MITでは、当時朝日新聞社からメディアラボに派遣されていた服部桂君に案内してもらって、最先端の研究現場をまわった。瀟洒なラボの建物と同時に、教授や学生たちが和気あいあいと進めている自由な研究風景に心を奪われた。「ハッカー」とは、俗に言われるようなコンピュータ犯罪者ではなく、コンピュータを愛する技術者集団、魅力的な若者たちの総称だということを身をもって体験した。私は創刊号インタビューで、ネグロポンテ所長を取り上げることに決めた。

 西海岸、サンフランシスコ湾の南に位置するシリコンバレーは、谷というよりも、小高い山に囲まれた平野だ。車で走ると、松林が続き、樫の木が茂る牧歌的な風景の中に、ハイテク企業群が蝟集していた。といって、狭い場所にひしめきあっているわけではない。クパチーノのアップル社などは、オフィスがいくつかの建物に別れていて、ビルもあるが、こじんまりした住宅のような建物も多く、それが新鮮な印象を与えていた。展示室で、小さなトランクにむき出しのワンボードマイコンが詰まった最初のアップル、ぐっとスマートになったアップルⅡ、そしてリサ、マッキントッシュと、さまざまなマシンやいくつかのデモビデオを見た

 バレー西部に広大な敷地を有するスタンフォード大学があり、その近くの小高い丘に、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)がある。パークの果たした役割についてはすでに述べたが、ゼロックスはそこで培ったノウハウをオフィス用ワークステーション「スター(Star))」開発に振り向けたが、パーソナル・コンピュータ市場には進出していかなかった。

 いま私たちがパソコンでやっている日常作業そのままが「スター」によって1981年の段階で提示されていたにもかかわらず、そのノウハウがパソコン開発へと進まなかったのは、それなりの理由があってのことだろうが、歴史の皮肉とも言えよう。企業経営の観点からすると、これは一種の「失敗」だと言っていい。パークが現在のパソコンを生み出したと言えなくもないのである。

・パソコン黎明期の天才、ジョブズとゲイツ

 パークはアルトを公開し、多くの人にデモを見せたが、その中にアップルのジョブズがいた。アルトに啓示を得たジョブズは、さっそく自分がリーダーになって新しいマシン開発に乗り出し、パークから技術者も引き抜いて、1984年にマッキントッシュを発売する。「電話帳の上に乗るパソコン」というジョブズの希望に沿った縦型の斬新なデザインだった。ビットアップ・ディスプレイを採用して、マウスでディスプレイ上のアイコンを操作すれば、初心者でもパソコンを手軽に扱えるようになっていた。

 このグラフィカル・ユーザーズ・インターフェース(GUI)は、まもなくビル・ゲイツのマイクロソフトが開発した基本ソフト、ウィンドウズにも採用される。私たちがムックで紹介したPC-98とはパソコンの姿が大きく変わったのである。とは言いながらウィンドウズ95が発売されるのは1995年であり、アップル・コンピュータは別にして、日本のパソコンは長らくMS-DOSの時代が続いた。

 GUIに関するおもしろいエピソードを紹介しておこう。

 ジョブズがウインドウズ・システムについて「アイデアをマックから盗んだ」と批判したとき、ゲイツは「いや、スティーブ、そうじゃないさ。むしろ、近所にゼロックスという金持ちがいて、そこに僕がテレビを盗みに入ったら、もう君が盗んだ後だったということじゃないかな」と言ったという。

 『アサヒグラフ』の項で紹介したように、パソコンはこれまでIBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受けて登場したが、その黎明期の天才がスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツだった。

 IBMも1981年にパーソナル・コンピュータに参入したことはすでに述べたが、そのときジョブズは「IBM、ようこそ(Welcome IBM Seriously)」と自信満々に迎え撃ったのだった。またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。

 ジョブズはアップルを巨大なものにするために、東部エスタブリッシュメント企業からペプシコーラ社長、ジョン・スカリーを「あなたは人生の残りの日々を、ただ砂糖水を売って過ごすんですか。世界を変えようというチャンスに賭ける気はないんですか」という殺し文句でCEOにスカウトするが、その後、スカリーにアップルを追われる。しばらく教育用ワークステーション、ネクスト(Next)の開発などに携わっていたが、その後、マイクロソフトからすっかり水をあけられたアップルに呼び戻される。

 ジョブズがやった復帰第1弾がしゃれたパソコン、アイマックiMAcの開発であり、CEOに返り咲いて以降、小型端末のiPod 、iPad、iPhoneを次々と市場に投入、パソコンからモバイル端末(スマートフォン)へとIT社会の歯車を大きく回転させる偉業を成し遂げる(これについては後にふれる機会があるだろう)。

 私はネクスト売り込みに来日した1989年7月、ジョブスに会っている。前日に幕張メッセで一大デモンストレーションを行ったときは、タキシード姿をばっちり決め、まさに達者なエンターテイナーぶりだったが、インタビューでは、ネクストの販促に関連しない質問には一切ノーコメントを通す徹底ぶりで、これに手を焼いて(?)、私は記事を断念したのを思い出す。

  よく言われるようにジョブズは、自らは技術者でなかったが、技術者を動かして自分の、そして彼らの夢を実現することができた「芸術家」だった。彼はパソコンを電話機の後釜的な存在だと考え、電話機をずっと見て暮らしたらしい。そして、電話機がたいてい電話帳の上に乗せられているのに気付き、ある日、技術者を集めて、「マックは電話帳に乗る大きさでなくてはいけない」と言ったのだそうである。

 1991年5月にはゲイツにも会った。ウインドウズ95に先立つMS-WINDOWS(ウインドウズ3.0)の㏚にやってきたときで、その画期的機能について丁寧に説明すると同時に、パークに関する私の不躾な質問にも、嫌な顔をせずに答えてくれた。発言、大略、こんなふうだった。

 「たしかにこの件でアップルと訴訟にはなっていますが、多くの面で協力しあっています。マイクロソフトがウインドウズ・システムを発表したのは1983年で、マッキントッシュより先でした。まあ類似点についていろいろ不平があったとしても、似ているところはすべてゼロックスから来ているわけです。彼の方が先に入っていろいろ取っていったとしても、あとから入った私に不満を言うとか、占有権を主張できるわけはないだろと言ったんですね。私はジョブズとは友好的な関係を保っていて、お互いにオープンでした」。彼もまたジョブズと同じように「技術者」ではないようだが、こちらはすでに才覚あふれる青年「実業家」の風貌を築きつつあった。

・『ASAHIパソコン』の基本コンセプト―パソコン誌の3段階理論

  いろんな本を読んだり、多くの人にあったりして、私は『ASAHIパソコン』の基本コンセプトを固めていった。当時、日本でもグラフィックデザインや出版分野でマッキントッシュの人気は高かったけれど、日本語化の問題もあり、趨勢はまだコマンドをキーボードから打ち込んで動かすMS-DOSの世界だった。

 雑誌としての定期化をめざす過程で、私が出版局内や広告代理店、取次などの書店関係者に新雑誌の構想を説明するとき、「ネグロポンテのおしゃぶり」よろしく繰り返していたのが、「パソコン雑誌の3段階理論」なるものだった。だいたい以下のようなことである。

 パソコン誌は、パソコンの社会的あり様にともなって変わる。 1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。

 『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。

 そして『日経パソコン』から5年後の1988年11月、『ASAHIパソコン』創刊。本誌はこれからはじまる、誰もが文房具としてパソコンを使うようになる時代の、便利でやさしい使いこなしガイドブックである。ソフトやハードのガイドはもちろん、より大きな視野から情報社会のあり方にも目配りしていきたい。これを私は、「ホビー・ユース」から「ビジネス・ユース」を経て「パーソナル・ユースへ」と呼んだ(象徴的マシンとして、私は創刊ほどなく発売されたノートパソコンを想定した)。

 もっとも、ムックから雑誌への道のりは、そう平坦ではなかった。パソコンのやさしいガイド誌というのが、ニュースを売り物にする新聞社の出版物としてはなじまない、と思われがちなのも事実だった。当時、社内はニュース週刊紙『アエラ』創刊の話で持ちきりだったし、『ASAHIパソコン』の直後には総合月刊誌『月刊Asahii』も創刊されている。

 「氷海を行く砕氷船の如く、悪戦苦闘の6ヶ月が過ぎたが、ともかくも動き始めた船が、果たして氷海を脱出できるのかどうか、乗り込んだ2人の船員にもまだ確たる見当がついていない」。ムック制作中にはこんな感慨も漏らしている。

 『ASAHIパソコン』創刊に反対する意見、あるいは態度の中で、私が興味深いと思ったのは、次の2つである。これも今となっては懐かしい思い出で、ことさら取り上げることもないのだが、おもしろいと思うので簡単に触れておこう。

  1つはこういう声だった。「矢野さんはパーソナル・ユース、パーソナル・ユースと言うけれど、いまは『日経パソコン』のようなビジネス・ユースの雑誌が主流である。パーソナル・ユースのパソコン誌に対するニーズがあるのなら、すでにどこかの社が出しているはずだ。そういう雑誌がないことが、すなわち需要のないことを証明している」。

 これだと、新しい雑誌は我が社からは永久に生まれない理屈だが、それでも、こういう意見を論破することは難しい。いや至難と言っていい。結果で勝負するしかないのだが、結果を出すのをあらかじめ拒否されているようなものだからだ。

 もう1つは、広告関係者が正直にもらした感慨である。「私たちはいま『週刊朝日』の広告を一生懸命にとっている。何でこの上、パソコンなどという扱ったこともない雑誌のために広告をとらなくてはならないのか。誰も、そんな雑誌なんかほしくないですよ」。

 私は、「これからもずっと『週刊朝日』に頼っていけるとは思えないから、頑張ってでも新しい雑誌を作ろうとしているのだ」と反論したけれど、彼らの本音は分からないでもなかった。

 新聞社内の人間を説得するためにもう一つ、私が言ったのは「社会部が作るパソコン雑誌」だった。パソコンはまだ扱うのが大変で、パソコン雑誌も専門用語が多く、素人には取っつきにくかった。技術解説ではなく、使う人を重視したパソコン雑誌をアピールしたくて、「科学部ではなく、社会部が作る雑誌」という言い方をしたのである。

 とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。

 ちょっと『ASAHIパソコン』創刊前後のIT事情をふりかえっておこう。

 ジョージ・オーウェルの有名なディストピア小説『1984年』が書かれたのは1949年という早い時期だったし、オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』はそれ以前の1932年である。コンピュータが普及するにつれて、その弊害を指摘する声も多く、有名なジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(1976)は1977年には邦訳されている。

 先にもふれたように、アルビン・トフラーの『第三の波』は1980年の発売、増田米二『原典・情報社会』は1985年だが、世界に先駆けて梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは1963年だった。ダニエル・ベルは1973年に『脱工業化社会の到来』を書き、来るべき「情報化社会」の出現を予言した(物の生産から情報の生産へ)。

 日本社会は、私たちが『ASAHIパソコン』を創刊した1980年代に情報社会から高度情報社会へと移行しつつあったと言える。当時は情報技術がもたらすバラ色の未来が喧伝されていたから、『ASAHIパソコン』はその波にうまく乗り、高度経済成長にも助けられて、高度情報社会を促進する役割を担ったと言えるかもしれない。

 ちなみに任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されたのは1983年である。我が家もそうだったが、子どもたちは、そして大人も、タッカタッカタッタカタッタカのロードランナーやスーパーマリオなどのゲームに興じ始めた。

 この記録<平成とITと私>は私の後半生を振り返りつつ、IT社会がどのように変遷して今に至ったかをできるだけ客観的に叙述したいと考えている。あえて名づければ『私家版・日本IT社会発達史―ASAHIパソコンからOnline塾DOORSまで』である。第1回で書いたように、『ASAHIパソコン』の創刊後ほどなく時代は昭和から平成に移り、平成の30年間はくしくも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、IT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。当座のタイトルを「平成とITと私」としたのもそのためである。

 Zoomサロン<Online塾DOORS>を主宰している2022年の時点から見ると、当初はアメリカ西海岸の若者たちのパーソナル・コンピュータにかけた熱気に深く同感しつつ、パソコンが切り開く未来に希望を求め、それをむしろ促進したいと夢見ていたと言えるが、その後のパソコンの歴史が必ずしもその夢のようにはならず、当時は思っても見なかった便宜、そしてそれとは裏腹の深い難題を人類に与えるようになった。私がIT社会を生きるための基本素養として「サイバーリテラシー」を唱えるようになるのは2000年初頭だが、IT技術の予想を上回る発展とそれに対する私見もおいおい述べていくつもりである。

 記述になるだけ客観性をもたせるため、当時の関係者の発言も記録に残っているものはそれを参照していくつもりだが、そうはいかない部分も結構あり、筆が主観に走ることもあるかもしれない。関係者の実名を記している点も含め、諸兄姉のご寛恕をお願いしたい。関係者にはすでに他界された方も多いが、特別な場合以外、その後の人生についてはふれていない。

 <平成とITと私>は本サイバー燈台の<新サイバー閑話>に収容されている。他の原稿との区別がなく時系列に並んでいるので、通しで見る場合は、サイトにアクセスした後、右側にあるサイト内検索の窓に「平成とITと私」と打ち込んでいただけると、記事一覧が表示されるので、そこから好みの項をお読みください。

 

新サイバー閑話(56)<平成とITと私>⑤

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊦

・『おもいっきりPC-98』で好スタート

 ムックを出すと決まったとき、私たちがまずPC-98を取り上げようとしたのは、当時、パソコンと言えば、日本電気(NEC)のPC-98(キュウハチ)と相場が決まっていたからである。これからはパーソナル・コンピュータの時代だと、これまで大型コンピュータを作っていた日本の電機メーカーは、日本電気も富士通も東芝も日立もシャープも、そろってパソコンを出し始めたが、その中でPC-98は圧倒的シェアを誇っていた。その代表的機種がPC-9801シリーズだった。「パソコンと言えば98」の時代があったのである。

 ちなみに国立科学博物館は2016年、科学技術(産業技術を含む)の発達に貢献した「未来技術遺産(重要科学技術史資料)」として9801を選んでいる。「日本で最も普及した16ビットパソコン」というのが選考理由である。

 コンピュータの頭脳部分であるCPU(中央演算処理装置)が16ビットで、ディスプレイは活字しか映し出せなかったし、もちろんマウスもなかった。それでもパーソナル・コンピュータがホビーマシンやビジネスツールから誰もが使える文房具へと変遷しつつある節目に登場、同時にその趨勢を大きくリードした名機だった。98は他社機種に対してサードパーティから提供されたソフトの豊富さで群を抜き、国民的機種としての地位を築いた。

 PC-9801シリーズは1983年10月に発売され、当初は29万8000円だった。メディア(記憶装置)は8インチのフロッピーディスクでハードディスクは内蔵されていなかった。85年のVMシリーズが普及機として有名で、ジャストシステムの日本語ワープロ、一太郎はこのころに出ている。86年5月に発売されたUV2からディスクドライブが5インチになった。

 私たちはこのVM2とUV2の2機種を購入して作業を始めた。まだパソコンが文章を書いたり編集したりする道具だとの認識が会社になく、会計用の「事務合理化ツール」という名目で予算請求したのが懐かしい。98シリーズが累計販売台数100万台に達したのは87年3月、まさにムック編集中の出来事だった(写真は最初のPC-9801。未来技術遺産選定時の資料から。

群小メーカーのソフトが妍を競う

 ムックおよびその後の雑誌『ASAHIパソコン』のコンセプトは「これからはだれもが鉛筆や万年筆のような文豪具としてパソコンを使うようになる。そのやさしい使いこなしガイドブック」というもので、ムックにもたくさんの実用情報を詰め込んだ。

 目次には「フレッシュマンもOLもエグゼクティブも今日からPCライフ」という巻頭カラー、98の先駆的利用者を訪ねた「98の現場」、当時のOS(基本ソフトだった)MS-DOS(エムエスドス)のガイド「MS-DOSこれで十分」などが並んでいるが、力を入れたのがアプリケーション・ソフトのガイド、「こんなときこのソフト 失敗しないソフト選び」だった。これは三浦君がフリーライターを動員しつつ、実際にそのソフトを使ってみて作り上げた苦労の作で、この実用情報の徹底紹介はその後の『ASAHIパソコン』の基本的な手法となった。

 当時はCD-ROMはまだ普及しておらず、ワープロ、表計算、データベースなどのソフトがそれぞれ独立して1MB(メガバイト)のフロッピーディスク(以下FD)に収納して市販されており、高価なものになると、FD何枚組かになっていた。

 そのとき扱ったソフトのうちワープロ、表計算、データベースのみ表示したが(ソフト、販売会社、価格の順)、個別にソフトの本数をあげると、ワープロ16、表計算5、データベース10 、グラフィック8、通信7、エディターを初めとするユーティリティ11など、全部で約60本になる。これらのソフトを初心者、中級者、上級者、個人向け、オフィス向け、スペシャリスト向けなどのラベルとともに紹介した。

 ほかにもハードウェアとしてメモリー拡張用のRAMディスク、外付けのハードディスク、通信用モデム、ディスプレイ、プリンタ(ドットプリンタやインクジェットが主流だったが、132万円のレーザープリンタも)なども細かく紹介しているから、便利な98ハンドブックになった。

 いまのスマートフォン・ユーザーには何の感慨もないだろうが、当時を知る人にとっては懐かしい名前ではないだろうか。ソフトメーカーは、ジャストシステム、アスキー、大塚商会、エー・アイ・ソフト、管理工学研究所、ダイナウェア、日本マイコン販売、ビー・エス・シー、ロータス ディベロップメント、マイクロソフト、ハドソンなど、これもなつかしい名前が並ぶ。ソフトウェアの世界はまだ寡占が出現せず、小さな会社が特色あるソフトを工夫して出していたのである。基本的にはFDに収容して用途別に市販され、ユーザーもそれらのソフトをディスクに差し替えて使うというまことに牧歌的な時代だった(ちなみに2022年現在のスマートフォンiPhoneの容量は64㎇から1TBまで。1TBは約1000㎇、1㎇は約1000MB。半導体の集積度に関する「ムーアの法則」の驚くべき結果である)。『PC-98』は、ムックとしては異例とも言える8万8000部を刷り、ほどなく増刷した。

 大型コンピュータの雄、IBMがパソコンに進出したのは1981年で、そのときの基本ソフト(OS)の開発を依頼されたビル・ゲイツがMS-DOSでその後のマイクロソフト隆盛の基礎を作ったのは有名である。IBMパソコンとの互換機はDOSVマシンと呼ばれ、次第に市場シェアを握ることになり、NEC、富士通、シャープなどが競い合っていた日本オリジナルのパソコンはグローバル化の波に取り残されていく。デザインの世界などで早くから人気のあったアップルのマック(マッキントッシュ)は、絵も活字と同じように扱えるビットマップディスプレイ、画面上のアイコン、マウスなどの体裁も整い、日本でもアート系の人びとに人気があったが、DOSVマシンもマイクロソフトが1995年にウィンドウズ95を発売するにともない、ユーザーにやさしいインターフェースの時代が花開く(前回ふれた小田嶋君が愛用していたマックSEは当時の人気機種だった)。

・ムック編集作業の舞台裏

 ムック製作は私たち2人だけの作業だったから、筆者から始まり、レイアウター、校閲、カメラマン、イラストレーター、デザイナーに至るまで、すべての人材を社外に頼ることになった。『PC-98』の巻末に「編集に協力してくださった主な方々」として15人の名を上げているが、当時『初めてのパソコン』という本を書いて売り出し中だったライター、山田祥平さんが「編集協力」として名を連ねている。彼にいろんなライターを紹介してもらったのが、私たちのスタートだったわけである(彼にはMS-DOSの解説も書いてもらっている)。全体のアートディレクションをパワーハウスの熊沢正人さんに頼んだが、彼には引き続き『ASAHIパソコン』を引き受けていただいた。『アサヒグラフ』以来の岡田明彦カメラマンには、人物ものからパソコンのキーボードの精密写真など何でもござれの活躍をお願いした。

 パソコン誌を作るのだから、雑誌づくりにパソコンを最大限に利用したいと、ライターの入稿から印刷会社への出稿まで、パソコン通信を使ってすべてを電子化しようとしたが、これは、実に便利でもあり、大変でもあった。

 当時はまだ紙に書いた原稿をレイアウト用紙とともに印刷会社に出稿、それを活字に組んでゲラをつくり、そこに筆者が朱を入れるというのが普通の雑誌作りだった。電子出稿となると、ライターの原稿を直すのに、紙に印字したハードコピーと電子ファイルの両方を直さなくてはならないし、印刷会社への通信での出稿は、過度期だけにいろいろ予期せぬトラブルがあった。夜中の午前2時ごろ、パソコンとパソコンをつないで筆者から原稿を受け取り、「深夜でも原稿が受け取られるのは便利だ」などと言いながら、その原稿を翌日午後4時までにレイアウトして印刷会社に出稿するような、非人間的な生活を送っていたのである。

 出版局プロジェクト室の他の人びとは夕方になるとほとんど引き上げてしまうので、広い部屋を自由に使えるのはありがたかった。夕方や夜になるとフリーライターが打ち合わせや入稿のためにやってきた。私たちは連日、ライターやカメラマンとのやり取りに忙しく、だいたい午前5時ごろ、掃除のおばさんがやってくるころに簡易ベッドにもぐり込み、午前10時にはもう席についていた(三浦君は、朝は私より遅く寝て、その午前中、私より早く起きる大車輪の働きぶりだったが、「この職場は労働基準法はおろか、日本国憲法の保護下にもない」と言うのが口癖だった。私は三浦君に何かことがあったら、ムック制作を諦めようと何度も思ったものである)。

 ムックの第2号は『おもいっきりネットワーキング』、ようやく盛んになりつつあったパソコン通信ガイドだった。ネットワークとして、PC-VAN(ピーシーバン)やアスキーネット、日経MIXなどを紹介している最中に、NIFTY-Serve(ニフティサーブ)が発足した。草の根ネットワークとして、地方のBBS(Bulletin Board System パソコンをホストにした小規模パソコン通信ネット)が個性的な活動を展開しつつあり、大分のC0ARA(コアラ)が話題になっていた。この号はネットワーキングの世界で精力的に活躍していた会津泉さんに協力してもらった。

 彼はネットワーキングデザイン研究所の看板を掲げて、すでに『パソコンネットワーク革命』などの著書があったが、黎明期のインターネットの発達(セルフ・ガバナンス)に尽くした業績は大変大きい。後には、スティーブ・ジョブズによってアップルに招かれながら彼を追放するという皮肉な役回りを演じたペプシコーラの元社長、ジョン・スカリーの伝記『スカリー』も翻訳している。

 COARAも彼の紹介で、大分での研究報告会を取材したり、事務局長の小野徹さんに寄稿してもらったり、三浦君の司会でCOARA会員たちの楽しいネット生活座談会をしたりと、13ページの「COARA白書」を作ったのも懐かしい思い出である。

・フロッピーディスクは、便利だがおっかない

 さて、三浦君が『PC-98』のソフト紹介などで奮闘しているころ、私はいろんな雑務をこなしながら、次に迫っている『ネットワーキング』の準備をしていた(食事をする暇も惜しくて、日曜などは食品売り場で2人分の弁当を買っていった。社に来るライターに買ってきてもらうこともあった。自宅から弁当を持参しても食べる時間がなくて、取材先や広告会社を訪ねる社のハイヤーの中で食べたりした)。

 各地の草の根ネット、BBSから主な百ネットを選び、そこでどんな会話が行なわれているかを紹介する、これも24ページ特集をすることにし、これをあるパソコン雑誌編集部に依頼することにした。締め切り1ヵ月以上前に都内にある編集部を訪ねて、人の良さそうな編集長に趣旨を話すと、気持ちよく承知してくれ、若い担当者も決めてくれた。「力仕事ですが宜しく」と頼んで、綿密な打ち合わせを行い、締め切りも決めて、それで私はやはり安心して他の仕事に没頭していた。

  途中で一、二度は電話連絡したが、すっかり任せきっており、いよいよ締め切りの日、原稿は届かなかった。翌日も、翌々日も。編集長に電話しても「いま担当者がいないもんで」と歯切れが悪かったが、真相は何と、担当者が突如、蒸発してしまったのだった。これまでの作業で蓄積した全データを入れた1枚のフロッピーディスクを持ったままである。当然あるべき予備のバックアップコピーもなく、独身のその担当者の部屋はカギがかかったままだった。

  1MBのFDにはざっと50万文字、400字詰め原稿用紙にして1250枚、ムック1冊の原稿がすっぽり収まってしまう。今とは比較にならないけれど、あの丸いペラペラのFDに24ページ分の記事と、1か月かけてのぞいたBBSの中味がすべて入っていて、それが一瞬にしてなくなったのは、まさに驚天動地の出来事だった。

  個人の扱える情報量が飛躍的に増えたという便利さがかえって新しい危険を生むという、情報社会の強烈なパンチをくらって、「パソコン誌構想も、ムック2号にして挫折か」と、しばらくは誰にも言えず、眠れぬ日々を過した。

  しかし、さすがに気がとがめたのか、担当者が深夜ひそかにFDを編集部の郵便受けに返してくれた。責任を感じた編集長氏が何日かの徹夜作業をしてくれ事なきを得た。のちに聞いたところによると、その担当者は前夜まで変わった様子はなく、「明日締め切りの仕事が残っているが進んでいない。これから徹夜だ」といって同僚と別れたという。家に帰ってパソコンに向かったが、一日の徹夜ぐらいではどうしようもない絶望的な仕事の進行状況に、あっけなくプッツン。善後策を検討するとか、上司に相談するとか、そういう行動は一切とらずに、はいさようなら、だったようだ。

  ちょうどそのころ、ソフトウェア会社の社長をしている友人から、「受注したプログラムを制作中、担当者が蒸発して、何千万円の借金を背負い込むことになった」という話も聞いたけれど、「パソコン業界はまだ若いだけに、おもしろくもあり、またおっかない」というのが私の感想だった。

 仕事で誌面に穴をあけて蒸発、会社をやめた当の担当者は、さぞかし心に大きな傷を負って、もはや再起不能、場末の飲み屋あたりで酒に溺れているだろうと、私はかってに想像していたのだが、ある日、その本人が大手ネットの掲示板にのんびりと書き込みをしているのを見つけた。メールを出してみたら、ちゃんと返事が来て、「その節は迷惑をおかけしたが、いまは新しいソフトハウスで働いている」とあっけらかんとしていたのには、また驚かされた。

 その特集「草の根ネット100」だが、「広島のラーメンはここが一番」、「太田貴子ファンによるボード・ミュージック」「核は地球を灰にする」などの話題をピックアップしながら、全国100のBBSネットを紹介しており、パソコン通信初期の熱気と自由な空気がみなぎる貴重な資料になったと自負している。「年内には1000局の大台に乗る」との予想も掲げているが、時代はそのようには動かず、今ではフェイスブック、ツイッターなど、それこそグローバルなコミュニケーション・ツールが真っ盛りである。

・「分からない人は読まなくていい」じゃ困る

 特集の中には、パソコンを使った「BBSの作り方」という4ページものもあったが、編集長氏もそこまでは手が回らないと、別の筆者を紹介してくれた。その原稿はほどなく出稿されたが、難しくて素人にはさっぱり分からなかった。「これじゃ、分からないよ」と私が言うと、彼は「技術に関する記事は、分かる人が読めばいいので、分からない人は読んでくれなくていい」と答えた。

 なるほど、そうなのだった。パソコン誌の記事は専門用語が並び、素人にはちんぷんかんぷん、とても読む気がしなかったが、書く方が「そういう人に読んでもらう必要はない」と考えていたのだ。科学技術の筆者には今でもその傾向があるように思われる。

  私は「これから出すムックは、専門家向けのものではない。パソコンの初心者でも分かるように書いてもらわないと困る」と言ったが、筆者はなかなか自説を曲げない。彼が「分かった。書き直す」と折れたのは、例によって深夜だった。「それはありがたい。ついては締め切りは明日の昼まで」と私は言い、さすがにこれは無理かなと思ったが、日曜昼にはすっかり見違えるほどの、すばらしい原稿が届けられた。

 納得しない限りテコでも動かないが、分かったとなると、誇りをもって仕事に取り組む若い筆者の姿に感激したが、先方も気持ちよく「今後の記事づくりのために、いい経験になった」と言ってくれ、お互い、目をしょぼしょぼさせながら、気持ちよく別れたのだった。

 他のムック、『おもいっきりワープロ』はまだ利用する人の多かったワープロ専用機のガイド、『おもいっきり電子小道具』はラップトップパソコンから電子手帳、電卓、多機能電話、時計、おもちゃにいたるまでの、まさに電子小道具全カタログである。『ワープロ』では脚本家のジェームス三木のワープロ生活を紹介したり、演出家、鴻上尚史に「はじめてのワープロ通信」に挑戦してもらったりしている。それぞれハードやソフトの徹底紹介が基本だが、それでもいろいろ読み物に工夫しているのは、いま振り返るとほほえましくもある。それらの編集作業にも尽きぬ思い出があるけれど、今回はここまで。また別の機会に紹介することもあるだろう。

 多くの社外ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナーなどのおかげで、波乱万丈だったムックは5冊とも予定通り刊行できた。それは朝日新聞入社以来、私たちが一番よく働いたときだったのではないだろうか。各巻に「編集に協力してくださった主な人々」を紹介しているが、ほとんどが20代、30代である。40代はおそらく私だけだったと思う。ちなみに小田嶋君は30歳だった。みなさんにあらためて厚くお礼申し上げます。

 その結果、定期雑誌『ASAHIパソコン』が翌1988年から創刊されることになったのである。

 

 

新サイバー閑話(54)平成とITと私④

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤

・小田嶋隆君の思い出

 軽妙洒脱な文章で世相を鋭利に切り取ることで人気があったコラムニスト、小田嶋隆さんが2022年6月24日、65歳で病没され、7月1日に送別会が行われ私も出席した。『アサヒグラフ』のあと出版局大阪本部に異動になり、そこでメディアとしてのパソコンをテーマとする新雑誌を構想、1986年から出版局プロジェクト室で準備を始めたが、そのとき小田嶋君(当時の呼び方に習い、以後「君」呼びさせていただきます)に会ったのだった。

 テクニカルライターふうではあるが、後年を思わせる達意の文章を書いているのに興味をもち、都内のアパートの一室に尋ねた35年前を今でもよく覚えている。たしか友人と同居していたが、アップルの最新機種、マッキントッシュSEが畳の上に無造作に転がっていた。

 <平成とITと私>はずいぶん間隔があいてしまったが、第4回は小田嶋君の死で突然蘇った辛く、懐かしく、また楽しかったムックの思い出を書くことにする。私よりははるかに年少の小田嶋君に先立たれるとは思ってもみなかったことである。

 アサヒグラフでコンピュータ取材をしたことをきっかけに私は「メディアとしてのパーソナル・コンピュータ」を対象とする新雑誌を構想、出版局プロジェクト室で同僚となった三浦賢一君(ずいぶん前に亡くなった)と2人で、『科学朝日』別冊として、5冊のムックを出すことになった。新しい分野にいきなり進出するよりは、まずムックを数冊つくって、販売、広告など業務も含めて、ならし運転しようというわけである。

 そのタイトルと刊行月日は以下の通りである。

『ASAHIパソコン・シリーズ』①おもいっきりPC-98(別冊科学朝日1987年5月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』②おもいっきりネットワーキング(別冊科学朝日6月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』③おもいっきりワープロ(別冊科学朝日7月号)
『ASAHIIパソコン・シリーズ』④おもいっきりデスクトップ・パブリッシング(別冊科学朝日10月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』⑤おもいっきり電子小道具(別冊科学朝日12月号)

・『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』

 これをたった2人で1987年4月から同年11月までの間に出した。社内にはパソコンに詳しい記者は皆無と言っていい状態だったから、私たちは編集者に徹して、執筆はほとんど社外のフリーライターに依頼することにした。このライターの1人が小田嶋君だった。

 このムックの売り上げが好調だったことが翌1988年からの『ASAHIパソコン』創刊に結びつくのだが、すでにマックに親しみパソコン通だっただけでなく、優秀な編集者にして科学ジャーナリストだった三浦君とシャカリキになって過ごした多忙な1年間はことさら思い出深い。先に記した熊沢正人さんも、このとき助っ人として参加してくれた。小田嶋君にまつわるほろ苦くも感動的な思い出は、4冊目の『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』をめぐってだった。

 いまはスマートフォンで音も映像も簡単に扱えるので、当時の状況はもはや想像するのも難しいが、1986年当時のパソコンは文字を編集するのが精いっぱいで、ようやく画像処理ソフトが市販され始めていた。パソコンにはまだ内臓ハードディスクがついておらず、画像ソフトもフロッピーディスクで提供されていたから、デスクトップ・パブリッシング(DTP、机上出版)という言葉はあったけれど、画像をそれなりに扱うためには大型コンピュータが必要だった。

 それでもパソコンの将来は画像処理が主役になるだろうという考えから、ムックの一環にデスクトップ・パブリッシングを取り上げたのだが、時代を先取りしすぎていたかもしれない。当時の有名な電子編集システムとしてEZPS(イージーピーエス、キアノン)を紹介しているが、パソコンより大型のワークステーションとレーザーコピア(レーザープリンタとイメージスキャナ)の組みあわせで598万円だった。

 さて、ムックをつくるにあたっては、市販のマシンやソフトを使って何ができるか、そのDTPサンプル集を目玉にすることにした。その作業を誰にまかせるか。いろいろ検討した結果、私たちが白羽の矢を立てたのが小田嶋君だった。彼はわりと簡単に「いいですよ。おもしろいですね」と請け合ってくれた。

 24ページの大特集を予定し、締め切り1か月前に発注した。私たちはそれで安心して他の作業に没頭していたのだが、締め切り日になっても原稿は来ず、電話すると、「1ページも書けていない」と言う。私は大いに慌てた。「すぐ社に来てほしい。これから24ページ作るのだから、1人じゃ無理だ。誰でもいいから、仲間を数人連れてくるように」。

 こうして小田嶋君は、3、4人の仲間を連れて編集部にやってきた。例によって、夜を撤しての突貫作業が始まったのである。ワイワイガヤガヤと話し合って、「一太郎と花子で作った短歌同人誌『蒼生』」、「EZPSで作った『足立銀河総合開発』会社案内」、「OASYSで作った『愛犬のDCブランド』広告企画書」、「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」、「NEWSで作った『ハイパーシャープペンシル』ユーザーズマニュアル」の5作品を、それぞれのシステムを紹介しながら作ることにした。

 仲間は入れ替わりがあったので正確な人数は覚えていないが、私は小田嶋君グループを「逃がさない」ことを第一義に、全員に社の簡易宿泊施設(2段ベッド)に泊まり込んでもらった。仮眠するときも警戒を怠ることなく(^o^)、3日ぐらい作業を続けたと思う。いまならブラック企業と批判されるところである。作業終了後、小田嶋君たちは不精ひげをはやしたまま、げっそりして帰っていったが、私たちとて同様だった。

  そして出来上がった作品は――、いずれもすばらしいものだったのである。私は小田嶋君およびその仲間の実力に心底感心した。本文の創作は言わずもがな、美しいカットやグラフ、写真、表をあしらった、立派なDTP文書が完成したのである。

 小田島君は「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」を担当してくれたが、本文、囲みインタビュー、イラストなどすべてに工夫が懲らされ、飲んべいの先輩記者が登場したり、怒ってばかりいる会長が登場したり、それは本人ふうであったり、編集者へのあてつけふうだったりしたが、なかなかの出来栄えでもあった。

・短歌同人誌『蒼生』

 私が感心したのは友人のK君が作った短歌同人誌『蒼生』だった。最初のページには、入道雲に朝顔をあしらったカットの下に「『蒼生』発刊の辞」がある。

   墨痕鮮やかという形容があります。私などは悪筆の方なので、人様から立派な書を見せて頂くのは大変嬉しいのですが、一筆お願いしますなどと頼まれると赤面せざるを得ません。
 歌は自身の内より湧き出てくるものですが、できればそこに詠み込んだ心のありかたというものを、人様にも知って頂きたい。そうすることで自らの感興をより深め、また歌として定着させることができる。
 今回、最先端技術であるデスクトップ・パブリッシングを採用して、町田短歌会同人誌『蒼生』を発刊しましたのは、より深く短歌を味わい、歌の心を知るためなのです。
 新しいモノ好きのお調子ものかもしれませんが、美しい文学、楽しい絵、美しい言葉を求めるのは当り前のことなのです。新しきを温ねて古きを知るというのも、決して無茶な話ではない。文化という範疇は広いですが、心と切り離して語ることはできないものなのです。

 いかにも短歌同人誌の主宰者が書きそうな文章で、しかもデスクトップ・パブリッシングという「課題」をうまく取り入れている。続いて、○○○○○選、▽▽▽▽▽選、歌枕再発見などが続くが、いずれも歌と選評が書かれている。その中の5首の項を紹介する。

五首 阪本耕平
 八月二十二日、勤めより帰りて深夜に読む。
 故郷ではもう草取りは終わりだと端末にむかい虫を取っている
 ぬばたまの闇夜となりて停電に書きかけの文の失われし
 ハンカチを濡らして瞼に乗せて冷やす熱暴走の葉月を過ぎて
 蝉の声にかぶさるようにディスク読む指先は湿るキーの固い冷たさ
 プログラム飛びし夕暮れ火もつけず我はひとつの80286となりぬ

選評 島原白山子
 藪入りは打ち水の道一人往く蝉しぐれにのみ送られて往く
 作者の阪本君は、大手コンピュータ会社のソフトウエア開発部門に勤務する弱冠二十三歳。当会には四カ月前より参加と、まだ経験は浅いが、歌に対する真摯な態度には古株の会員達からも好意が寄せられている。まだ歌の形を成していないと、彼の作首を切って捨てることは簡単だが、五音七音にはおさまらぬカタカナ言葉に囲まれた生活、日本語の外にある仕事と、日本人であるおのれとの溝を三十一文字によって埋めんと欲する創作態度には、歌上手の先輩達の失ってしまった必死の心が感じられる。
 ここで取り上げた五首は、納期の遅れのために盆休みも取れなかったという阪本君が、墓参り代わりに詠んだというもの。
 最初の一首を除いては、故郷への思いは直截には歌われず、仕事道具であるコンピュータとおのれとの間にふと生じる隙間を直視することで、その違和感の闇を故郷まで透視しようとしている。まだ十分に成功しているとは言えないが、刻苦勉励の跡を見るという意味で、今回取りあげた。これを励みに、より一層の努力を望みたい。
  なお最後の歌の80286は、コンピュータの中央演算処理装置の型番である由。破調もまた歌である。

   見事な芸に、私はほとほと感心してしまった。最後の編集後記はこうである。

 本誌は、老体に鞭打って、デスクトップ・パブリッシングなる手法を用いて、完璧なる編集実務OA化のもとに発刊を行うことと相成った。短歌が上代より時代の節目には必ず新たなる冒険を必要とした如く、同人誌も常に新たなる冒険に望まねばならない。また、これで今迄、何かと行き違いの多かった田中印刷所の面々にも、恩返しができたというものである。

 この横溢する遊び心。私は、DTPサンプル集の扉に「ご注意 サンプルの内容は、フィクションです。実在の個人、あるいは団体とはいっさい関係がありません」との断り書きを入れたが、発売後、編集部に「『蒼生』編集部の連絡先を教えてほしい」との問い合わせがあって、私を喜ばせたのだった。 そんなわけでムックづくりは、ほかにもハラハラドキドキの連続であり、体力的にはずいぶん辛い日々だったが、新しいことを始める創造的楽しさにも満ちており、たった2人の編集部ながら、社内外の多くの人びとに助けられ、何とか無事に乗り切ったのだった。他のムックについては次回に記す。

 小田嶋君の送別会の席で、奥さんに「『ASAHIパソコン』の初代編集長」と名乗ると、よく覚えていてくださり、「矢野さんにはたいへん迷惑をかけた、とよく言っていました」とのことだった。私は持参した『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』を見せながら思い出話をしたのだが、小田嶋君が「迷惑をかけた」と言ったのはこのムックのことではなく、その後創刊した『ASAHIパソコン』のことだと思う。

 月2回刊の『ASAHIパソコン』でも毎号コラムを書いてもらい、その秀逸な文章に見出しをつけるのが私の大いなる楽しみだったが、締め切りは基本的に守られなかった。そのたびに電話をかけて厳しく催促していたのである。そのため休載は一度もなかったけれど、私としてもいささか気になっており、後年、彼が有名になり朝日新聞紙上で大きく取り上げられたとき懐かしくなって思わず電話、「激しい催促で申し訳なかったねえ」と言うと、「何でこんなに怒られるのかと思ったが、今ではあれもよかったと思う」と言ってくれた。これが最後の対話になった。

 奥さんに『蒼生』の話をすると、Kさんは明日の葬儀に来るとかで、会えないのはちょっと残念だった。

 小田嶋隆のその後の活躍は多くのファンの知るところで、私も『わが心はICにあらず』、『仏の顔もサンドバッグ』、『ポエムに万歳!』など、単行本が出るたびに購入しては、にやにやしながら読んでいた。最近では『日経ビジネス』連載、<小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明>が秀逸だったが、2011年から20年に至る10年間のツイッター発言を集めた『災間の唄』(2020)」は、本人があとがきに書いているように、「芥川龍之介先生の『侏儒の言葉』以来の‣‣‣大傑作」だと、「今回ばかりは言わせてもら」っても、だれも文句は言わないだろう。私はツイッターをほとんどやらないが、ぱらぱらとページをめくるたびに、往年の朝日新聞夕刊の傑作コラム『素粒子』(筆者・斎藤信也)のような、「山椒は小粒でもピリッと辛い」冴えに感心しきりだった。本人はこれからもツイッターを続け、続集を刊行する予定だったらしい。反骨を小脇に抱え飄々と生きた名コラムニストの早すぎた死に、あらためて深く哀悼の意を表します。

新サイバー閑話(31) 平成とITと私③

最先端技術の世界に挑む

 『アサヒグラフ』のコンピュータ特集が好評だったことに気をよくした私たちはその後も、躍進するバイオテクノロジーの世界、コンピュータで武装するサイボーグ、進化するバーチャルリアリティとコンピュータ・ゲーム、巨大技術としてのロケット開発や核融合技術、がん治療最前線などの最先端技術の世界を立て続けに特集した。当時、ニュー・テクノロジーとかハイ・テクノロジーとかう言葉が盛んに喧伝されていた。

 全国の大学や民間の研究室、ロケット打ち上げ現場、国立がんセンターなどの病院をいろいろ取材したから、私と岡田カメラマンは一年中、全国を歩き回っていた。種子島宇宙センターにNⅠロケット打ち上げの取材に行って台風に遭遇、車を借りて〝強行取材〟、台風の写真で誌面を飾ったこともある。

 旅の先々でおいしそうなラーメン屋を勘で見つけて、ラーメン&餃子を食べるのが私たちの楽しみだった。しゃれた店構えや店頭に自動券売機を設置している店は避け、小さくて古い佇まいながら、これは良さそうだと思う店を選んで、それが成功したときは嬉しかったものである。

 巻頭カラーだけでなく、モノクロページでも、コンピュータ達人になった少年たち、町工場に進出しはじめたヒューマノイド・ロボット、土を忘れて〝翔ぶ〟農業(水耕栽培)、建設が急ピッチで進められる東北新幹線上野地下駅など、技術が変えていく社会の風景も取材した。

 これらの仕事は後にカラー版の旺文社文庫に『コンピューターの衝撃』(1983)、『現代医学の驚異』(同)、『巨大科学の挑戦』(1984)の三部作としてまとめられた。


 この取材を通して私は多くのことを学んだ。

 まず技術の目覚ましい躍進ぶりである。しかも技術現場のシステムは巨大化し、個々の技術者が全体を見ることはどんどん不可能になっていた。『巨大科学の挑戦』のあとがきでは「科学技術の営為が巨大プロジェクト化すればするほど、プロジェクト全体を掌握することは難しいし、また実際に現場の技術者たちは、自分たちに与えられた職務にのみ忠実で、その計画全体に思いをいたすことが少なくなっているようである」と書いている。

 当時、国家予算600億円を投じた原子力船「むつ」が放射能漏れ以来十年、東北―九州間を漂流したあげく廃船になるとのニュースが流れていた。

 もう一つは、技術の進歩は果たして人間を幸せにするだろうかという疑問だった。『現代医学の驚異』のあとがきで、がん取材でお会いしたある教授の言を紹介している。

「がんは簡単には撲滅できませんが、それでいいのかもしれません。もしがんが克服され、寿命が延びたとして、人類の未来はバラ色ですかね。ひとびとはますます子どもを産まなくなり、社会はそれだけ高齢化し、いよいよ活力がなくなるでしょう。それは灰色の世界かもわかりませんよ」

・日本情報社会の進展とパソコン

 最先端技術の世界を取材していたころは、日本が高度経済成長を謳歌していた時期であり、同時に社会が情報化へと向かう転換期でもあった。

 先にアルビン・トフラーの『第三の波』(1981)がコンピュータ取材を始めたきっかけだったことにふれたが、日本でも1980年以降、「高度情報化社会」という言葉が脚光を浴びるようになっていた。

 1980年には通産省(当時)産業構造審議会情報産業部会中間報告が「S家の一日」というエッセイ風の文書で、バラ色の情報社会の青写真を提示していたし(「団地」に代わって「ニュータウン」という言葉が登場していた。下図はそのイラスト)、雑誌『日経ビジネス』が「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集を組んだのは1982年だった。

 パソコン、ワープロ、電卓、軽自動車、携帯用ヘッドホンステレオ、ミニコンポステレオなど、当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという、鋭い洞察だった。

 日本情報社会論の古典とも言える増田米二『原典・情報社会 機会開発者の時代へ』(TBSブリタニカ)は1985年に出ている(サイバー燈台プロジェクト欄で小林龍生さんが梅棹忠夫『情報産業論』を読み解いているが、その1963年という発表年がいかに時代を先んじていたかは驚異的である)。

 情報社会出現を推進したのがコンピュータだったから、最先端技術シリーズの取材対象の中心には常にコンピュータがあった。特集「コンピューター」でもワープロ、パソコン、電卓を取り上げているが、パソコンはNECの8ビットマシン、8801シリーズであり、ワープロは小型化してきたとは言え、まだ50万円以上した。

 ちなみに私は1983年4月に富士通のワープロ、マイオアシスを86万1200円で買っている。「ザ文房具」というキャッチコピーで大相撲の高見山が宣伝していた機種である。これを月々1万5500円、ボーナス月6万5500円のリースにしていたのだが、ワープロもどんどん小型化、価格も安くなって、たしか85年ごろには1台10万円台の小型ワープロが登場、しかもより多機能になっていた。そのとき私のローン残高は20余万円、さすがに馬鹿らしくなって残金を一括で支払ってケリをつけた。コンピュータの小型化、それと同時の高機能化、低価格化を身をもって知った最初の出来事だった。

 さて海の向こうに話を移すと、世界最初のパーソナル・コンピュータは1974年に開発されたアルテアだと言われる。当時のアメリカは、ベトナム戦争をめぐって激しい反戦運動が巻き起こっていたころで、この小さなマシンは、IBMが君臨していた大型コンピュータ(官僚主義、大企業の権化)に対抗するカウンターカルチャーの強力な武器として、ヒッピー世代の若者たちの熱狂的歓迎を受け、そこからいくつかの成功物語が生まれた。

 学生だったビル・ゲイツと友人のポール・アレンは、アルテアを見て大いに驚くと同時に、大型コンピュータで使われている言語、BASICをアルテアでも使えるようにするビジネスを思いつく。同じころ、カリフォルニアのスティーブ・ウオズニアックとスティーブ・ジョブズという「2人のスティーブ」は、ガレージで「アップル」というパソコンを作り、1976年に同名の会社を起こした。

 大型コンピュータの雄、IBMも1981年にパーソナル・コンピュータIBM-PCを売り出し、時代はパソコンの時代へと移っていく。日本にも伝わっていたその一端を私は取材していたことになる。

・最先端技術シリーズとデスクの大崎紀夫さん

 ところで『アサヒグラフ』は週刊誌である。その1回の特集を作るために私たちは1カ月以上をかけて全国を取材した。当時のメディア業界、さらには朝日新聞という会社の鷹揚さを考えると隔世の感があるが、デスクにして名編集者だった大崎紀夫さんの存在なしには考えられない企画だった。

 彼はすでに大物編集者として社内外に知られた存在だったが、私たちのコンピュータ特集に巻頭25ページをあてがい、しかも大胆なレイアウトをしてくれたのである。社内モニターで高く評価されるなどの事情もあってシリーズ化へと結びついたけれど、いまでも彼には深く感謝している。

 編集局の出稿部(社会部)、整理部を経て、出版局『アサヒグラフ』にやってきた私は、希望して異動してきたとは言え、当初大いに戸惑った。新聞でももちろん写真は大きな力だが、やはり記事が中心だった。それがグラフでは「写真がつまらなければそれで企画は没」というふうに、記事と写真の関係は逆転した。大崎さんは常々「いい写真が撮れたらカメラマンの手柄。つまらない写真しか撮れなかったら編集者の責任」と言っていたが、写真と記事の関係ばかりでなく、私は大崎さんはじめアサヒグラフの先輩同僚から雑誌編集の基本を学んだ。

 記者と編集者とではまるで違う役割があることに気づかされたし、雑誌というメディアをどう作り上げていくかという編集ノウハウも学んだ。編集者としての私はアサヒグラフで、最先端技術シリーズで培われたのだった。

 日大全共闘の猛者だった岡田明彦カメラマンはずっと頼もしい相棒だった。「腰が痛い、腰が痛い」と言いながら、個々の対象物に鋭く迫って、豊穣なイメージを切り出す(紡ぎ出す)彼の写真が私は好きだった。シリーズ後半のころ、写真家団体の賞の新人賞候補になったと聞いたが、受賞を逸したのは少し残念だった。彼は無冠の帝王を標榜していたけれど……。

 こうして私は「メディアとしてのコンピュータ」をテーマにする雑誌を構想するようになる。

 

新サイバー閑話(30) 平成とITと私②

『アサヒグラフ』のコンピュータ特集

 これは平成というより昭和の話だが、私が『ASAHIパソコン』を構想するきっかけとなったのが『アサヒグラフ』のコンピュータ特集である。『ASAHIパソコン』前史として、このコンピュータ特集についてふれておきたい。

  1981年11月27日号で私は、大型コンピュータはもとより、登場しつつあったパーソナル・コンピュータ、さらにはすでに普及していた電卓まで、ハードウェアとしてのコンピュータのすべてを、全国の工場や店頭を隈なく取材して、巻頭25ページで特集した。

 パーソナル・コンピュータのもととなるIC(集積回路)の素材であるウエハーがシリコンの塊(インゴット)から作られる過程、小さなチップに複雑な回路が埋め込まれていく様子、そのチップの配線拡大図、されには使用済みコンピュータがうず高く積み上げられたコンピュータの墓場まで網羅したから、当時としては画期的なコンピュータ特集だったと自負している。トップページには、当時世界一計算が速いと言われたスーパーコンピュータ、クレイー1の写真を使った。当時のアサヒグラフは米誌「ライカ」のような大判だったから、裁ち落としの見開き写真が並ぶ巻頭25ページの特集は相当に迫力があった。

・後に日米特許紛争の舞台となったIBM3081

 技術には門外漢だった私がコンピュータを取材しようと思いたったのは、同じ年、アルビン・トフラーの『第三の波』 (1981年、NHK出版) が翻訳出版され、エレクトロニック・コテッジとかプロシューマ―という言葉が話題になるなど、これからはコンピュータが大きな力を発揮しそうだったからである。

 秋葉原には、「マイコンショップ」が雨後のタケノコのように開店し(当時はパソコンではなく、マイコンと呼ばれていた。マイクロチップ・コンピュータとマイ・コンピュータを掛け合わせたネーミングだった)、新宿では、中学生の講師が大人のサラリーマンにコンピュータの扱い方を教えていた。コンピュータにはたしかに世の中を変える力がありそうだった。「コンピュータって一体何なのか。物としてのコンピュータをきっちりカメラにおさめて、ずらりと並べてみたらイメージが湧いてくるのではないか」と思って取材を始めたのである。

 グラフ誌のメインは言うまでもなく写真である。その撮影をフリーカメラマンの岡田明彦さんに頼んだ。

 このコンピュータ特集にはいろんな思い出がある。そのいくつかを紹介しておこう。

 当時はまだメインフレーム(大型コンピュータ)の時代だった。その主力はIBMの3033シリーズで、最新機種として3081が売り出されていた。日本アイ・ビー・エムに取材を申し込むと「3081は受注生産を始めたばかりで企業秘密もあってお見せできません。ひとつ前の3033シリーズは、それこそ旧式で、お見せするほどのものではございません」とあっさり断られた。

 そこを粘って、「興味があるのはコンピュータそのもので、生産台数が分かる生産ラインなどは撮りませんから」と取材意図を説明して、結局、両機種とも見せてもらえることになり、我々はいそいそとIBMの滋賀県野洲工場に出かけた。

 雑誌には配線がびっしりと入り乱れた3033シリーズの中央演算処理装置や、逆にすべてがモジュール化されて金属の覆いが黒光りしている3081の中央演算処理装置が、ともに見開き写真として掲載されている。私たちは配線だらけの3033の方がいかにもコンピュータらしいと思っていたのだが、この3081はまさに最新機種で、後年、富士通との間で日米特許権争いが展開された機種だった。めくら蛇におじずというべきか、その核心部分を堂々と掲載していたのだが、もちろんハードウェアの写真だから、ソフトウェアは見えない(^o^)。

 ICチップ製作工程を熊本の九州日本電気で取材したのも楽しい思い出である。

 岡田君は別の仕事ですでに九州入りしており、当日午後1時に私が空路熊本に向かい、九州日本電気で落ち合うことにしていた。ところが当日は悪天候で熊本空港は閉鎖、私は福岡空港で下された。あわててタクシーを飛ばして現地に到着したのは午後3時である。簡単な打ち合わせはしてあったとは言うものの、何を撮るかまでは詰めてなかった。しかも共同取材を始めた初日である。結局、彼に2時間待ちぼうけをくわせることになった。

 いや、そう思っていたのだが、岡田君は広報担当者の案内で、どんどん撮影を進めていた。九州日本電気の鈴木政男社長のご協力もあり、撮影は私抜きでずいぶん進展していたのである。担当者が「ここの撮影は駄目です」と言う部屋にも、豪放磊落な社長決断で許可が下りたりした。最後の懇談の席で、鈴木社長が言った言葉が忘れられない。

「プロのカメラマンはさすがですねえ。私どもが見せたくないところの写真ばかり撮りたがるんですから」

 コンピュータ特集は岡田君と組んだ初めての仕事で、彼はそれこそコンピュータのコの字も知らなかった。彼の鋭いジャーナリスト感覚には私もすっかり感心、意気投合もして、その後、ずっと取材を続けるようになった。

・次いでソフトウェアに挑戦

 ハードウェアのコンピュータ特集が好評だったことを受けて、私たちは翌1982年4月30日号で、やはり巻頭25ページを使って、「特集コンピューター・イメージ 『幻視者』が生みだす衝撃の世界」を掲載した。

 前年は、三和銀行(当時)のベテラン女子行員がオンラインの端末を操作して1憶3000万円を詐取したのをはじめ、コンピュータを利用した犯罪が続発したため、雑誌もコンピュータ特集ばやり。単行本も続々刊行されていたが、ソフトの世界は絵になりにくく(写真に撮るのがむずかしく)、まともな写真はほとんどなかった。

「ソフトって何だ」
「プログラムのことだろう。計算式を撮ってもしょうがないなあ」
「ソフトってのはプログラマーの頭の中にあるんだから、プログラマーの頭のCT写真を撮れば、それがソフトだ」
「ソフトが、目に見えない『透明人間』だとしても、包帯を巻けば、見えてくるわけだなあ」

 などと言いながら、私たちは取材の焦点をコンピュータ・イメージに絞り、コンピュータが複雑な計算を経て作り出す画像の世界を見てまわることにした。

 取材を始めてみて驚いた。リモートセンシングの分野で、コンピュータ・グラフィックスやシミュレーションの世界で、あるいはがんなどの医療診断の最前線で、先端技術導入に意欲を燃やす技術者たちが、コンピュータを駆使して新しい画像を次々に作り出している最中だったのである。

 地球観測衛星ランドサットから見たカナダとアメリカの「国境」、日本列島の全容写真、気象衛星「ひまわり」が赤外線放射でみた地球の雲の動き、この年の台風1号の目、アンドロメダ大星雲、ようやく導入されつつあった航空自衛隊や日本航空のパイロット訓練用フライトシュミレータ、CT写真やサーモグラフィで見る人体などなど。

 今では日々の天気予報などでちっとも珍しくない写真だし、画面をそのままカラー印刷することもできる。しかし当時は、それらの画像をディスプレイに暗幕を張りつつ、アナログ写真に収めていたのである。しかし、これはこれで当時としては衝撃的で、けっこう話題にもなった。

 当時、日本電子専門学校の講師だった河口洋一郎さんのコンピュータ・グラフィックスも大々的に掲載した。彼はすでにわが国コンピュータ・グラフィックスの第一人者で、アメリカのSIGGRAPHで自己増殖する造形理論「グロースモデル(The GROWTH Model)」を発表し、話題になっていた。記事は「数学から美へ迫ろうというなんとも壮大な試みで、彼はコンピュータ―・グラフィックスを『画像表現の全過程を論理的に構築されたアルゴリズムに基づいて行う新しい芸術行為』と位置づけている」と書いている。

 後に川口氏本人が人懐こい笑顔に若干の口惜しさを交えて述懐したところによると、彼の作品を科学雑誌『ニュートン』が大々的に紹介してくれることになっていたのに、アサヒグラフに先行報道されたので、企画中止になったらしい。物心両面でずいぶん迷惑をかけた取材になった。

 活躍が日本でも評価されるにつれ、彼は筑波大学助教授、東京大学情報学環教授へと栄進した。2018年には東大教授を定年退官したというから、『アサヒグラフ』特集はずいぶん昔の話である。同誌は私が在籍中に判型が小振りになり、2000年には休刊している。

<新サイバー閑話>(24) 平成とITと私①

熊澤正人さんを悼む

 私が1988年にパソコン使いこなしブック『ASAHIパソコン』を創刊した際のアートディレクターで、それ以来の良き友であり、かけがえのない仕事仲間でもあった熊澤正人さんが2019年1月にがんのために亡くなり、彼の71歳の誕生日にあたる(はずだった)6月29日に家族、親族、デザイナー仲間、編集者などが集い「しのぶ会」が開かれた。 思えば、『ASAHIパソコン』創刊の翌年1月から平成が始まり、彼が去ったのは平成が終わる半年ほど前だった。彼とともに歩んだ平成という元号の区切りは、折しも、パソコンが普及し、インターネットが発達し、SNSが日常の通信手段になり、さらには端末がスマートフォンに代わるという、まさにIT社会大躍進、というより大激変の期間に重なる。

 しのぶ会で挨拶する機会があり、その弔辞を読みながら、『ASAHIパソコン』創刊以来ずっとIT社会の変容を見つめてきた私自身の記録を残しておくのも、少しは意味があるように思われた。というわけで、この<新サイバー閑話>でも折々に「平成とITと私」と題するコラムを書きつけておこうと思う。

・<弔辞>

 熊澤正人さん、こと熊さんにはじめてお会いしたのは、私が朝日新聞出版局でムック『ASAHIパソコン』シリーズを創刊するためのアートディレクターを探していた時でした。たしか出版局プロジェクト室の先輩に紹介していただいたのだと思います。

 1987年初めでしたから、かれこれ30年も前のことです。そのときの熊さんのやさしい笑顔、穏やかな物腰は、その後の年月を通じて、がんに冒されて辛い闘病生活を続けた後年においても、ほとんど変わりませんでした。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 最初はムックの第1号だけを引き受けてもらうことになっていたのですが、無理を言って5巻全部を担当してもらい、さらには、ムック成功を受けて創刊することになったパソコン使いこなしガイドブック『ASAHIパソコン』のデザイン全般もお願いすることになりました。その後、『月刊Asahi』、『DOORS』とおつきあいはずっと続いて、私が朝日新聞を去ってからも著書の装丁などでお世話になりました。

 『ASAHIパソコン』創刊の気勢を上げるために自宅裏の源氏山ではじめた花見宴も30年続きましたが、そこでも世話人として参加していただきました。その間に桜の木も参加者も老齢化し、花見は去年ではおしまいになりましたが、最初の年に熊さんが持って来てくれた紅白の垂れ幕が花見のシンボルとなり、今でも大事に保管してあります。

 さながら 

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

 というふうな面倒見のいい熊さんを、朝日新聞社の雑誌部門や書籍部門の人も頼りにするようになり、朝日新聞での輪もずいぶん広がったようでした。がん発症を聞いたのは8年半前で、すでに末期的だというのでたいへん驚きましたが、それからは果敢にがんと向き合うと同時に、オフィス、パワーハウスの運営にあたって来られました。ここでもイツモシヅカニワラッテヰル姿が印象的でした。

 装丁の最後の仕事は平成天皇御即位30年記念記録集『道』でしたが、2019年(平成31年)3月20日の刊行になっています。『ASAHIパソコン』創刊は1988年(昭和63年)11月1日号で、翌1989年1月から平成が始まりました。

 折しも神田川の桜が満開のころ、仏前にご挨拶にお伺いしたとき、身内の方が書かれたたという詩句が捧げられ、そこに「最も田舎の心を持つ弟」とあるのが目に止まりました。まったくそうだったと思います。「都会のマンションに住んでいる」とも書かれていましたが、そのマンションの外でも満開の桜が風に舞っていました。

 それにしても、長い闘病生活でした。いまは安らかな地で安住しておられることでしょう。ほぼ平成の期間とダブった30年をともに歩んだ思い出を噛みしめつつ。

2019年6月29日
 サイバーリテラシー研究所代表(元『ASAHIパソコン』編集長) 矢野直明

・目黒の旧宅に65人が集う

 会は目黒に残る旧宅を借りて、約65人の参加のもとに行われた。

 そこには『ASAHIパソコン』や『月刊Asahi』、『DOORS』の表紙ばかりでなく、熊さんが装丁した多くの書籍の写真が並べられていた。奥さんやご子息、親族、パワーハウスの面々も列席され、あるいは忙しそうに働いていたが、オフィス、パワーハウスは奥さんを中心として今後も活動を続けていかれるという。

 会場には歴代の『ASAHIパソコン』編集長や当時、世話になったデザイナー、イラストレーターなどの懐かしい顔もあり、熊さんの穏やかな人柄があらためてしのばれた。