新サイバー閑話(93)平成とITと私⑭

『DOORS』突然の強制終了

 先にも書いたが、『DOORS』は1997年5月号で突然休刊になった。有無を言わせずの強制終了である。最終号の目次が「休刊」のお知らせで、表紙には「ゼロから始めるウエブサーバー作り」の記事紹介もある。牧野さんの「今月の怒る弁護士」は「社会は変動する。かつての経済先進国日本は今急速に凋落する。未来を展望できない国家は、大きく衰退するのが歴史的必然だ」と書いている。私には『DOORS』休刊決定そのものが朝日新聞凋落の予告のようにも思われた。今は亡き三浦賢一君が「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれたのは、突然の休刊を告げられた夜のことである。

 敗軍の将、兵を語らずと言う。『DOORS』休刊の責任は編集長にあり、それを認めるにやぶさかではない。しかし、その背後にあった社のメディア政策との確執、突然、降って湧いたような花田問題の波紋についてはきちんと記録しておきたい。

 『DOORS』は私が小世帯の出版局でインターネットに取り組んだ最初のプロジェクトだったが、その直後に社が電子電波メディア局という新たな組織をつくり、インターネットに向けて全社的な取り組みを始めたのが『DOORS』にとっての不運だった。先行プロジェクト『DOORS』は邪魔者として排除されたのである。電子電波メディア局を立ち上げる前に、デジタル出版部をその一部に取り込もうとする考えがあったのはたしかで、実際に私は社幹部からその打診も受けていた。幹部の某氏は「君のやりたいことは所帯の小さい出版局では無理だから」とも言ってくれた。だが私には電子電波メディア局がやろうとしているasahi.comの事業がどうしてもうまく行くとは思えなかった。先にもふれたが、小さな組織でいろんな実験に挑みながら、成功しそうなプロジェクトを伸ばしていくのがいいと思っていたのである。

 今にして思えば、あのとき電子電波メディア局に編入されたうえでasahi.comとOPENDOORSを併存させつつ『DOORS』プロジェクトを遂行する方法もあったかもしれない。大組織に抗って潰されるよりは良かったとも言えるが、成否は私の政治的手腕次第で、その点で自信がなかっということでもある(当時、社のメディア政策に関与していた友人の話では、そういう併存の目はもともとなかったらしい)。山本博出版局次長の考えもあり、出版局独自の路線を選ぶことになったのである。

 ここは微妙なところで、当時の出版局は桑島久男担当、山本局次長という体制で、局長は担当兼務だった。後に担当の意向でK局長が着任したが、桑島、K、山本いずれも編集局社会部の出身で、だから団結力があったわけではなく、むしろ個性の強い社会部記者の三すくみに近い状態だった(出版局の植民地支配の典型と言ってもいい)。

 私は雑誌づくりに憧れ、自ら希望して編集局から出版局にやってきた。出版局は編集局に比べて辺境だと思われていたから、「デスクになって天下りするまで辛抱しろ」などと言われたりもしたが、そういう考えが私には理解できなかった。皮肉なことに、そのことで出版局側からは奇妙な人事と思われたりもした。最初は新聞とは違う雑誌というメディアになじめず苦労したが、平池芳和、木下秀男、大崎紀夫など個性的で魅力的な編集者がたくさんいた。最先端技術特集をしながら、周りの仲間にいろいろ教わり、『ASAHIパソコン』創刊までこぎつけたのである。だからレイトカマーではありながら、出版局への愛着はひときわ強かった。『アサヒグラフ』時代には、ローテーションとして朝日新聞労組書記長に担ぎ出されたりもしている(労組時代の1年は、それこそすばらしい仲間に恵まれ、貴重な経験をし、同窓会は今でも健在である)。

 ここで山本博氏について少し説明しておこう。彼は北海道新聞からスカウトされた途中入社組ながら、横浜支局デスク時代のリクルート報道で名をはせた朝日新聞社会部きっての特ダネ記者だった(平和相互銀行事件、KDD事件、談合キャンペーンなどの調査報道に携わり、新聞協会賞も2度受賞している。『朝日新聞の調査報道』=小学館=の著書がある)。柴田鉄治さんは朝日新聞改革案として「山本博君をリーダーとする調査報道部門を作るべきだ」と常々言っていたが、ともに編集局中枢から外されていた。朝日新聞という会社は、特ダネ記者を名古屋社会部長、販売局次長と適当に処遇しながら、次いで出版局次長にしたのである。

 私が接した山本さんは、特ダネ記者とは別の進取の気性に富む良き管理者で、インターネットにも興味をもち、よく「矢野さん、いまメールしたから」とわざわざ局長室から伝言しに来たりした。彼とはウマが合い、いろいろ相談しながら対応していたが、後に聞くところによると、局内からはYY路線と揶揄されていたらしい。

 DOORSとasahi.comとの路線対立が、結局、『DOORS』廃刊に結びつく。彼らにとって『DOORS』は目の上のたんこぶだったのである。

 1つのエピソードがある。

 OPENDOORSが日本のマスメディア最初のホームページとして新聞協会のパンフレット『1997日本の新聞』に記されていることはすでに述べた。時代は突然、現在に飛ぶが、主宰しているOnline塾DOORSで友人、森治郎さんのミニコミ誌『探見』との共催で阿部裕行・多摩市長の話を聞いたことがある。

 阿部さんは当時たまたま新聞協会事務局に勤務しておられたが、OPENDOORSの認定に関しては、asahi.comの関係者から「あれは出版局がやっているもので朝日新聞の正式のものではない」と異論が出たらしい。小さな手柄を誇示するようだが、この出来事に当時の電子電波メディア局の『DOORS』を〝敵視〟する様子がうかがえるので、記しておく。

 『DOORS』廃刊にはもう1つ、伏線があった。先にふれた『ウノ』創刊(花田問題)である。新雑誌を創刊するのはいい、外部から編集長を招くのは、局員としては不満だが、これもあっていいだろう。しかし、なぜ花田氏なのか、というのが問題だった。

 社内でも、私の組合時代の畏友、社会部出身の鈴木規雄氏などは公然と批判していたが、当の出版局部長会ではっきりと抗議の意思を表示したのは私だけだった。部長会が終わったあと、某氏がそっと近づいてきて「いい発言だった」とつぶやいたが、当の本人は部長会の席ではだまっていたわけである。

 『ウノ』問題を機に着任してきたK局長が私の総合研究センター送りを画策したのである(K氏と山本氏は社会部以来の犬猿の仲で有名だった。山本氏は当時、私にこんなことを言った。「Kと私はふだん顔をあわせても挨拶しないが、桑島さんの前だと、Kは私に百年の知己のように話しかけてくる。私はそれに対して1000年の知己のように答える」)。もちろん私は異動を拒否した。と言うより、総研センター自体はかつて論説委員並みの待遇で、優秀な記者が処遇されて行くところでもあったから、行くにあたっては「自分は何をやりたいか」の提案書が前提だと聞かされ、私はそれを書かないことで抵抗していたのである。

 ところが私のあずかり知らぬところで私の研究レポートが出されたために、人事が発令されてしまった。K局長になってから局次長が増員され、雑誌編集の実績がほとんどなく業務関係の部長だったN氏が出版局懐柔策として局次長に一本釣りされたが、そのN氏が私に無断で代作したのだった。後に私が詰問したところ、彼はこれを認め、「K局長には局次長にしてもらった恩義がある」と言った。

 実は、私の総研センター行きはM社長や当時のH総研担当役員から「一時的だから、しばらく好きなようにしていればいい」と言われていた。しかし、しかし。私も含めて出版局再生のためにポスト桑島として着任を要請して実現した、これもN新担当は、思惑に反して、私を出版局に戻さなかった。彼は「君を戻せば自分の身が危ういと、上層部の先輩から言われている」と言った。出版局プロパーに裏切られたという苦々しさが残った。

 総研センター時代、私はときどき、中島敦の小説『李陵』を思い出した。

 まだ紀元前の中国、漢の武帝の時代。匈奴征伐の際に、善戦およばず捕虜となった李陵は、匈奴単于(ぜんう)に厚遇される。李陵は自己弁護をせず、漢民族の誇りも失わず、匈奴の軍事指南は拒否した。ところが不運なことに、同じ李を名乗る別の人物が匈奴に迎合、それが武帝の耳に達する。怒った武帝は李陵の家族、一族をことごとく殺した。李陵は匈奴と一定の友好を保ちつつも、悲運のうちに異郷の地に没する。一方、匈奴に順うのを潔しとせず僻地に放逐されていた蘇武は、苦節19年の末、祖国に戻った。

 高校の教科書で読んだとき、「襤褸をまとうた蘓武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐憫の色を、豪華な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた」という簡潔で凛とし、しかも深い憂愁をかかえたこの名文が妙に記憶に残った。

 ちなみに、武帝の前で李陵の行動をただひとり弁護、そのために宮刑(去勢)という恥ずべき刑を受けたのが有名な『史記』の作者、司馬遷だった。中島敦は司馬遷に関して、「彼は、今度程好人物というものへの腹立を感じたことは無い。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、一層けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない」。

 すでに社を離れていたと思うが、柴田さんが何かの折に、「戦国時代なら戦いに敗れれば、首をはねられてもしょうがないところだ」と妙に慰めてくれたことを思い出す。

 総研センターは、さすがに往年の面影が残り、気心の知れた友人もいて、台頭するインターネットの現場を取材したり、共同レポートを書いたり、それはそれで楽しく過ごした。同時に、ここでもインターネットに翻弄される新聞社の混乱ぶりを見ることになった。朝日新聞社は2008年、出版局を朝日新聞出版として分社化したが、それは2023年6月の『週刊朝日』廃刊へと結びつく。私が総研センターで見たのは出版局が滅びに向かうみじめな姿でもあった。

 それはともかく、私が総研センターに行った1997年は平成9年で、平成という時代は3分の1を経たところだった。インターネット史で言えば、まだWeb2.0以前である。