新サイバー閑話(85)<折々メール閑話>㉝

踏みにじられた「広島」 (核廃絶)の心

A 5月下旬に行われたGセブン広島サミット(先進7か国首脳会議)は、大方の新聞論調とは違い、惨憺たる結果に終わったと思います。「広島」出身を売り物にして意欲満々で取り仕切った(?)岸田文雄首相だが、実際は、核廃絶の象徴「広島」への背信行為だったのではないでしょうか。れいわ新選組の山本太郎代表が支持者との集会で「残念な結果になった」と、おとなしい表現ながら、鋭い意見を述べていました。聞いていて、胸がスカッとしました。彼が総理になってからのサミットを観たい!

 ウクライナのゼレンスキーも来ましたが、ほんとは来てほしくなかったですね。来るならプーチンとセットで来いというか。平和都市広島において、今行われている戦争停止に向けてテーブルを作るということなら、たとえゼレンスキーは来たけれど、プーチンは来なかったということがあったとしても、日本という国がいまある戦争を止めようとして仲介を果たそうとしているメッセージを世界に届けられたはずなんですよ。しかしそういう場にしなかった。
 もちろん戦争をはじめたのはロシアだけれど、そうは言いながらも、殺し合いは止めなければならない。その止めるためのカードとして日本が仕事をする、広島サミットはそういう場にふさわしかったと思うけれど、そうはならなかった。逆に言えば、むしろあおりに出た。一方でアジア諸国は冷静に判断している。アメリカ、中国、どっちにつくのかというようなことやめろよ、アジアでそんな騒ぎ起こさないで、というようなアジア諸国に対して、日本だけがアメリカの尻馬に乗って、イケイケになっちゃってる。これはもうサミットをビジネスチャンスと考えていると捉えるしかない。
 ほんとに迷惑です。というのはね、Gセブンは終わるんですよ、残されるのは私たちじゃないですか。ここまで最大限、アジアの緊張を高めるようなことを、最後にゼレンスキーまで来て、この後、どうして話し合いしていくの。戦争は終わらせられないし、逆に言えば、さらなる火種というものが生まれかねない。ほんとに残念な集まりだったな、と思います。

B 前回の米タイム誌のインタビューもそうだけれど、岸田首相はアメリカの言いなりになって、日本の軍事大国化をめざしているけれど、これが戦後一貫して平和主義を掲げてきた日本への裏切りであることは明白ですね。問題は、岸田首相にそのことがほとんどわかっていないように思われることです。ふつうの神経なら、西側諸国一体になって軍備強化を進めようという思惑のもとに、戦後日本の平和主義の象徴である「広島」を利用するなどできないはずです。このノンシャランなところがまさに岸田流と言うべきか。「広島に謝りなさい」と言いたいですね。

A 「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」というのは、まったくの作文でしかない。これについては日本共産党の志位和夫委員長が「被爆地から核に固執する宣言は許しがたい」との談話を発表しています。要旨は、①「核兵器のない世界」を言葉では述べているが、それは「究極の目標」と位置づけられ、永久に先送りされている、②核兵器そのものが非人道的な兵器であるという批判や告発は一言もなく、核の効用を認める核抑止力論を公然と宣言している、③90を超える諸国が署名している核兵器禁止条約について一言の言及もない。まことに正論だと思います。

B メディアはおしなべてG7の成功をほめたたえていますね。いまさらとは言うものの、批判精神の欠如もここに極まれりという感じがします。もっとも、地元の中国新聞の社説(オンライン)はまっとうです。

・討議の成果としてまとめた核軍縮に関する「広島ビジョン」が、多くの原爆死没者が眠る広島の地名を関するにふさわしいとは思えない。
・ビジョンが核兵器禁止条約に触れていないことは許しがたい。
・われわれは条約への署名、批准を政府、国会に改めて迫る必要がある。少なくとも年内にある第2回締約国会議にはオブザーバー参加をするべきだ。

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のメンバーは「核抑止論や核の傘で戦争をあおるような会議になって怒りを覚える。核兵器廃絶への希望を完全に打ち砕かれた」と述べたといい、東京新聞によると、サミットの拡大会合に参加したブラジルのルラ大統領は記者会見で、「バイデン大統領はロシアへの攻撃をけしかけている」と批判しつつ、「ウクライナ問題はロシアと敵対するG7の枠組ではなく、国連で議論すべきだ。グローバルサウスは和平を見出したいが、ノースはそれを実現しようとしない」と非難したようです。

・松岡洋右にも学ぶべき点がある

A なぜ岸田首相は主催国議長として、Gセブンを広島で開催するにふさわしいものにすることができないんでしょうね。たまたま総理になっただけの人物が何の信念も無く、ただただアメリカの言いなりになって、高揚している怖さを感じます。日本は本当に危険な状態だと思わざるを得ません。

B 真の同盟、あるいは友好関係を築こうとするなら、お互いの立場を認めつつも、言うべきことを言う態度が必要だと思いますが、戦後の日本外交は、からっきしだらしがない。
 戦犯として有罪になった悪名高き元外相、松岡洋右に関する興味深いエピソードがウイキペディアに紹介されています。敗戦後のある日、出入りしていた新聞記者が「アメリカ人はどういう人間か」と聞くと、彼は以下のように答えたと言います。

 野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君達は鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。そうやってしばらく、互いに睨み逢っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてポカンときみの横っつらを殴ってくるよ。さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通して見給え。この次からは、そんな道で出会えば、彼は必ずものもいわずに殴ってくる。それが一番効果的な解決手段だと思う訳だ。しかし、その一回目に、君がヘコタレないで、何くそッと相手を殴り返してやるのだ。するとアメリカ人はビックリして君を見直すんだ。コイツは、ちょっとやれる奴だ、という訳だな。そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる。(出典は三好徹『松岡洋右-夕陽と怒濤』学陽書房)。

A 戦後の日本外交はほとんど殴られっぱなしだった。

B もうひとつエピソードを紹介しておきましょう。
 松田武『自発的隷従の日米関係史』(岩波書店、2022)という本に「スマート・ヤンキー・トリック」という言葉が紹介されています。南北戦争時にも使用され、第26代大統領、セオドア・ルーズベルトの行動を説明するときにも用いられたと言いますが、その意味はこうです。「ある国が相手国から何かを得たい、手に入れたいと思う時には、まず相手国にその旨を伝え、外交手段や時には力づくで欲しいものを手に入れていくというのが常道」だが、「『スマート・ヤンキー・トリック』の場合は、あらゆる手管を使って根回しをし、最終的には相手国から差し出される、場合によっては懇願されるという形で、欲しいものを相手国から手に入れるという方法である」。
 こういう手法は日常生活のレベルでは、とくに男女関係においては、よくあることだと思いますが(^o^)、これがアメリカ外交の基本に組み込まれていたと言うんですね。自発的隷従は日本の卑屈な態度の結果だと思ってきたのだが、そしてそれはその通りでもあると思うけれど、そこにはアメリカの巧妙な外交戦略があった、と。

A ゼレンスキー大統領の突然の登場で、今回のGセブンの思惑がかえって鮮明になりました。SABEJIMA TIMESが、これを画策したのはバイデン陣営ではないかと推測していましたが、サミットを奇禍としてウクライナにF16戦闘機を供与する道も開かれたようです。広島サミットは平和を追求するよりも、西側陣営の軍事的結束を強めるデモンストレーションだったように思えます。

B それにしてもメディアの扱いはひどいですね。戦前の戦争賛美の論調そのものではないですか。国民もそれにあおられて岸田内閣の支持率が上がったりしているわけですね。

新サイバー閑話(84)<折々メール閑話>㉜

米誌タイムの「慧眼」とれいわ新選組の「本気

A 岸田文雄首相は5月19日から地元広島で開かれるG7サミットに意欲満々なようですが、米誌タイムの5月22・29日号がその岸田首相を表紙に取り上げ、「日本の選択」というキャッチのもとに「岸田首相は数十年にわたる平和主義を放棄し、日本を真の軍事大国にしたいと望んでいる。Prime Minister  Fumiko Kishida wants to abandon decades of pacifism ‐and make his country a true military power」と紹介しました。
 記事は、「世界第3位の経済大国を、それに見合うだけの軍事的影響力のある大国に戻そうとしている」としつつ、日本の防衛力の増強が地域の安全保障状況を悪化させかねないとか、「核兵器のない世界」を目指すとする岸田氏の理念と相いれないのでは、などの意見も紹介しています。
 この記事がオンライン版で紹介されると、政府は「記事内容と見出しに乖離がある」などと反発、オンライン版は「平和主義だった日本に、国際舞台でより積極的な役割を与えようとしている。Prime minister Fumio Kishida is giving a once  pacifist Japan a more assertive role on the global stage」と変更されました。タイム本誌の表紙タイトルは変えようがないと思いますが‣‣‣。

B 日本の最近の動向をすなおに見ると「慧眼」と言うか、当然、そのように受け取られるタイトルだったと思いますね。それに政府が反発し、メディアも政府が見出しに異議を伝えた部分を強調して記事にしています。「退却」を「転進」と言い換えた戦前の発想を思い出させられるし、メディアの追随はまさに大政翼賛的でもあります。

A 「赤旗」はきちんと報道していましたね。大政翼賛的と言えば、国会がまさにそうですね。日本の針路を平和主義から軍事大国へ大きく変えようとする問題法案が次々衆院を通過、これから参院で審議入りします。健康保険法改正案は5月12日の参院で通過、すでに成立しました。防衛財源確保法案は現在、衆院財務金融委員会で審議中で、日本共産党と立憲民主党が委員長解任動議を出して抵抗していますが、いずれ委員会を通過、衆議院も通過すると見られています。
 こんな型通りの抵抗ではどうしようもないと思っていた矢先、れいわ新選組の大石あき子議員が、衆院本会議場でその野党の態度に異議を唱えました。「大量の売国棄民法案を廃案にするためにもっと本気で戦う野党の復活を」(写真)と訴えたわけです。
 れいわ新選組は同日、<「闘わない野党」への檄(げき)– 財務金融委員長解任決議案の否決を受けて>とする声明を発表、山田太郎代表と大石あき子共同代表が記者会見もしました。

・「ちょっとは闘いました」アピールの野党ではダメ

 れいわも委員長解任動議には賛成したようですが、こんな形式的な反対では法案を廃案に追い込めるとは思えない、もっと本気の抵抗が必要だという強い決意が表明されたわけですね。
 声明のさわりを採録しておきます。

 ・委員会や本会議で反対を延べる一般的な手法では、どうやっても(法案を)止められない。与党や太鼓持ちの衛星政党まで合わせれば圧倒的多数となるため、入り口に立ってしまえば(委員会の法案審査などが始まれば)、出口(委員会・本会議での採決)が見えることになる。会期延長まで視野に入れれば、全て法案は成立してしまう。
 ・現在の与野党のパワーバランスでは、正攻法では太刀打ちできない。選挙で勝って議席を増やし、与野党の議席を拮抗させてあらがえるようになるまでは、どれだけ酷い法律が作られても仕方がない、とあきらめるのか。私たちは、そのような政治家のメンタリティや永田町仕草が、日本をここまで破壊に導いたと考える。「ちょっとは闘いました」アピールの野党では、悪法の増産は止められない。話にならない。
 ・数が足りないなら身体をはって徹底的にあらがい、法案の審議入りを遅らせる。採決を阻止するための戦術を重層的に展開し、国会を不正常化させてでも、悪法の中身をメディアが世間に説明をしなければならない状態を作り出し、法案の廃案を国会の外の世論に対してうったえる。そんな、野党のゲリラ戦法が必要だ。
・1人であらがってバカだ、意味がない、と思う人もいるだろう。私たちも人の子。できればこのような行動は、やりたくないのが本音だ。けれども、与野党茶番の中、粛々と破滅に向かう状況で、最後まであきらめずにあらがう議員がたった1人でも存在することが重要であり、それが人々から託された議員の使命でもある。
・現在、日本の壊国に全力で取り組む政権のねらいを国民に提供するメディアは数少ない。一方、現在の日本が邁進する姿をシンプルに伝えているのが、海外のメディアである。

B 必死で戦おうとしているれいわには大きな拍手を送りたいし、我々としてもその危機感を共有すべきだと思います。問題法案とその審議状況を同声明から引用して表にすると以下の通りです。

A 声明の最後は悲壮感が漂っていますね。<今からでも遅くない。「闘う野党」の再生を私たちは国会の内外に向けてうったえる。れいわ新選組は、仮にそのような決意を野党第一党が新たにするのであれば、その戦線の一角に喜んで参加し、自公政権(そして維新、国民民主党)などの主導する大政翼賛会化を食い止めるために闘う>。

B それにしても現在、野党第一党の立憲民主党は何とかならないですかねえ。統一選挙で惨敗し、いま衆院を解散されて選挙になれば、日本維新の会が躍進、立憲は野党第一党の座から滑り落ちるのは火を見るよりも明らかですが、泉健太代表は何の対策も講じず、「次期衆院選で議席が150議席を割ったら辞任する」などと言っています。次期衆院選後の辞任は決まったとは言うものの、問題は今何をするかで、今こそ辞任すべき時だと思いますね。

A ユーチューブの動画「一月万冊」で佐藤章さんが岸田政権への舌鋒鋭い批判をしていますが、何よりもキツイと思ったのは、「国民が選挙で自民党を選んでいる結果なのだからしようがない」というコメントでした。

・今の政治家から消えた「ハマのドン」の男気

B 話は変わりますが、横浜の映画館、ジャック/ベティで『ハマのドン』と『妖怪の孫』を同時に見てきました。

A 2本同時に鑑賞できるとは羨ましい。文化の地域格差ですね~。「妖怪の孫」は6月20日に伊勢の新冨座でやっと観ることが出来ますが、「ハマのドン」は大阪まで出かけないと観られません。東海地区での上映館は皆無ですよ。

B なるほど。羨ましがらせるわけでは、もちろんあるが(^o^)、ちょっと紹介しましょう。『ハマのドン』は横浜へのカジノ誘致に反対して市民とも連携、最終的に本懐を遂げた横浜港湾界のボス、「ハマのドン」藤木幸夫さん(91)のドキュメントです。
 保守政界のドンでもあり、古くからの自民党員、菅義偉首相の育ての親的な存在でもあったようですが、港湾の仲間たちをカジノの犠牲にしてはいけないと反対運動に立ち上がり、推進を強行しようとした菅首相とも全面対決、2022年の横浜市長選で市民運動家たちが擁立した山中竹春横浜市大医学部教授の圧倒的勝利でついにカジノ誘致を中止させました。
 古き良き保守政治家の典型のような人で、人間的にも魅力に富み、しかも「亡き父や港湾の仲間が私にカジノ反対を叫ばせているのではないかと思うときがある」、「人生の引き際をきれいにしたいという思いもあった。これで世を去った先輩たちに顔向けができる」などと語る藤木さんの言葉は多くの人の心を打つでしょう。
 監督はテレビ朝日の報道ステーション・プロデューサーだった松原文枝さん。藤木さんの男気に共鳴してアメリカ在住のカジノ設計家、村尾武洋さんが助太刀として来浜するなど、ドラマチックな展開も描かれています。藤木さんという存在がなければ、時の最高権力、菅首相が保守候補としてカジノ反対を封印してまで押した小此木八郎候補を破ることはできなかったでしょう。同時にこの記録は、立派なリーダーを持てば市民の力を結集して時の政権に対抗、政策を覆せることができるという実例でもありますね。藤木さんは貴君にとっては早稲田の先輩ですよ。
 藤木さんは「戦前と同じような自由にものを言えない世になっている」と述べていましたが、勝利後に自民党の古い仲間から「あなたが最後は妥協してカジノ賛成に回ってくれると思っていたんだが、最後まで態度を変えないんで困ったよ。菅さんに顔向けできない」などと言われて、にこやかに笑いつつ、「今の自民党は悪すぎる」と言っていました。終焉後、観客から自然に拍手が起こったのも印象的でした。

・安倍元首相の存在のあまりの軽さ

 『妖怪の孫』は岸信介元首相の孫、安倍晋三元首相のやはりドキュメントですが、藤木さんのどっしりした存在感に比べると、安倍元首相のいかに薄っぺらなことか。彼はアベノミクスに対して、「やってる感だけだせればいいんだ」と、もはや驚くこともないけれど、これが首相の言かと思うようなことを平気で言っていました。
 番組に協力している古賀茂明さんの司会で霞が関の若手官僚が覆面インタビューに応じており、「今の霞が関は官邸に完全に支配されている」、「入省するまでに勉強した法律の知識と180度違うことが進められているので戸惑ってしまう」などと言い、メディアに関しての古賀さんの質問に、「かつてはネタを提供して記事にしてもらうということもあったが、いまはネタを提供して、たとえ記者が書こうとしても上から潰される」、「記者の方と話した内容が上司に筒抜けになったりするので、マスコミは怖くて話もできない」と語っているのは衝撃的でした。ナレーションに「野党とメディアの機能不全」という言葉がありましたが、まったく日本の重苦しい現状を告発する映画でした。

 A 映画の観客から拍手が起こるのは昨今、あまりないことでは? 健さんが全盛期には観客からかけ声が飛びましたけど(^o^)。それだけ岸、安倍、岸田現政権に対するマグマが溜まっているのかも。
 藤木さんには以前からその男気、人間的魅力に大変惹かれていました。まさに早稲田的ですね! 日本凋落の元凶、アベと比較するも愚かですよね~。タイプはちょっと違いますが、山本太郎にはその素質が充分にあると思いますね。
 松原文枝さんもテレ朝で冷遇されていても全然めげずにこういう作品を製作する。男勝りですね~。それにしても古賀さんのインタビューに答える霞が関官僚の言葉には慄然とします。志を持った、反骨の官僚はいないものですかね。平野貞夫さんの「3ジジ放談」での言葉、「政治家も悪いが官僚も悪い」を思い出しました。

 残念ながら、多くのマスコミもね。三すくみの中で頑張っているのはれいわだけです。多くの人びとがれいわの危機感を自らのものとして、ともに戦ってくれるのを期待したいです。

新サイバー閑話(83)<折々メール閑話>㉛

76年目の憲法記念日に想う日本の針路

 A 今年のゴールデンウィークはコロナ禍がひと段落したせいか、ずいぶんにぎわったようですね。先日、ビデオニュースドットコムの冒頭で神保哲生さんが「ゴールデンウィーク前に様々な悪法が成立してしまったわけですが、国民はそれどころじゃないみたいですね」と皮肉まじりに言っていました。フランスではメーデーに230万人が参加し、年金・公教育を守れと訴えたそうで、内田樹さんの「パワークラシー」という言葉も思い出しました。
 これからの国会も問題法案が目白押しです。前回にも話題にした原発の稼働延長をめざすGX脱炭素電源法案やマイナンバー法案はすでに衆院を通過し、参院での審議が本格化しますし、入国難民法改正案はこれから衆院本会議で取り上げらる予定です。国内軍需産業を強化するための軍需産業支援法案、防衛力強化資金の創設などを盛り込んだ軍拡財源法案など、名前を聞いただけでも、おどろおどろしい法案が続々審議入り、大政翼賛会政治で国会を通過しようとしています。まさに危機的状況で、今の政治家たちは先の大戦から何も学んでいないように思えます。歴史から学ばない国は滅びますね。

B いずれも岸田内閣が昨年末に閣議決定した安保関連3文書(国家安全保障戦略、国家防衛戦略、防衛力整備計画)に基づくものです。そこでは、いわゆる敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有や、防衛費の大幅増を明記しており、岸田首相自身、これは「戦後民主主義の大転換」だと言っています。
 その背景にはウクライナ戦争、中国の台頭、北朝鮮の挑発行動など、世界情勢がきわめて不安定になっている状況があり、武器の性能向上で、敵がミサイルを撃ち込む前に敵基地をたたくのもやむを得ないという考えが強く反映しています。
 国際情勢が緊迫しているのは確かですが、それを武力によって防衛しようという考えが、日本国憲法の平和主義や国際連合憲章に違反するのは明らかです。憲法9条は「武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、これを永久に放棄する」と謳い、国際連合憲章2条は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力による行使は、いかなる国の領土又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と宣言しているわけです。
 両者の文言がよく似ているのは、第二次世界大戦終了直後の「もう戦争はコリゴリだ」、「これからは国際連合を中心に平和な世界を築いていこう」という世界の人びとの夢が託されていたからです。その平和希求の思いが、戦争の記憶の風化とともに、国際的に希薄になっていますが、その中で日本はアメリカ戦略に追随しながら、同じ軍拡の道を歩んでいこうとしているわけです。
 唯一の被爆国として、いまこそ憲法の平和主義を高く掲げて、むしろ世界をリードしていくべきではないかと思うけれど、事態はまるで逆行しており、それを岸田首相は「戦後民主主義の大転換だ」とむしろ前進だと強弁しているわけです。ここに現代日本の由々しき問題があると思いますね。
 しかもその大転換が国会での審議も十分行われずに進められているのが大問題です。前回もふれたけれど、国会そのものが国民の半数と無縁な状態で、その国会における審議すら十分に行われていない事態です。

・前川喜平さんの講演をユーチューブで見る

A 今年は憲法施行76年。平和憲法の精神から、ずいぶん遠くへ来たものです。報道によれば、5月3日の憲法記念日の護憲派集会に東京・江東区の有明防災公園で2万5000人が参加したようで、自分も参加したかったと、80年の人生で初めて思いました。

B 数年前、横浜で開かれた集会に参加したことがあるけれど、当時は作家の大江健三郎さんが激しい安倍首相批判をしていました。彼も今は亡く、坂本龍一さんも他界と、平和主義陣営にも一抹の寂しさを感じる状況です。

A 元文部科学省次官の前川喜平さんが4月29日に高知県の「県民の集い」で講演した内容がユーチューブにアップされています。前半は森友、加計、統一教会について語っていますが、時に当事者でもあったわけで、この人ならではの分析は興味深いものでした。森友問題での文書改竄は菅官房長官が主導し、それを受けて財務省の佐川宣寿理財局長が行ったもので、菅官房長官はもちろん安倍首相にこのことを報告、たぶん「恩を売った」のではないか、と言っていました。
 統一教会問題では、関係が疑われた自民党議員も先の統一地方選挙ではほとんど影響を受けなかったけれど、統一教会は自民党に選挙協力しつつ、①解散命令を出さない、②刑事事件で捕まえない、③自分たちの政策を自民党の政策として実現する、などをずっと要求してきたようですね。安倍政権下の文科相は1人を除いてすべて安倍派(下村、萩生田など)で、岸田政権はいま統一教会に対して質問権を行使しているけれど、岸田首相は統一教会に解散命令は出さないだろうと予想していました。「出さないとは言わないけれど、出すための行動はとらず、国民が忘れてくれるのを待っているのだ」と。

B 講演会のタイトルは「戦争を回避する道すじ 武力で平和は守れない」だったけれど、政権の政策は憲法条文を変えることだけが関心事で、現実的な改憲は閣議決定による解釈改憲でどんどん進めてしまっているわけです。その山場がただいま現在なのだということですね。
 武器輸出3原則は、基本的に武器(兵器)の輸出や国際共同開発を認めず、必要のたびに例外規定を設けて運用する内容だったのを防衛装備移転3原則として、武器の輸出入を基本的に認め、その上で禁止する場合を規定するように逆転しました。アメリカ並みとは言えないまでも産軍複合体を作ろうとしており、最近の学術会議会員任命拒否は、そこに大学、研究機関も含めた産軍学複合体を作ろうという、まったく戦前の動きに回帰しようとしているわけです。

A 前川さんは、現在の憲法問題を深く、かつ分かりやすく話してくれる第一人者ですね。多くのことを教えられ、つくづく憲法を守る日本の知性だと思いました。話も分かりやすく、ユーモアを交えた話し方も上手いし、滑舌もいい。1時間40分ありますが、全然飽きさせない。バランス感覚に優れた当代有数の論客だと思います。れいわから立候補してもらいたいが、本人は政治家には絶対にならないと断言していますから無理ですね(^o^)。

B 日本も世界も、国際連合憲章などすっかり忘れて平和を追求する意欲がなくなっているようにみえますが、唯一の被爆国であり、平和憲法をもつ日本がこれでいいのか。いずれ近く改憲発議が行われることが予想される今こそ、憲法はいかにあるべきかをみんなで考え直すチャンスだと思います。
 これは恒例だが、憲法記念日に各党が談話を発表しますが、その中でれいわ新選組、山本太郎談話がやはり出色でした。

▽れいわ新選組(山本太郎代表談話)コンスタントに憲法審査会を開こうとする多数派の思惑は改憲へと進めるためだ。国家権力の暴走を止める鎖である最高法規、憲法を、最高権力者である国民が為政者たちから守る局面に来ている。今ある憲法を守れ。話はそれからだ。

 今の違憲状態をまず改善すべきだというのは正論ですね。いつまでも今の憲法条文を維持すべきだとは思わず、むしろ時代にあわせて変えていくのがいいと思っているのだけれど、ではどういう憲法にするのか。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という柱はしっかり引継ぎ、その上にアップデートしていくべきで、そういう憲法理念がまっとうに議論されていないですね。山本太郎が言うように、改憲に向けて審議したというアリバイ作りに使われているように思われます。
 実は5年前、安倍政権によって集団的自衛権を認める閣議決定がされ、その後に安保関連法が成立したのを受け、当サイバー燈台のプロジェクト欄でジャーナリストの森治郎さんに「日本国憲法の今」という連載をしていただき、そのときに付録として<この際の憲法読書案内>を掲載しました。30点以上あります。今でも十分通用する内容なので、興味のある方はその中の何冊かを読んでいただければ‣‣‣。
 サイバー燈台→プロジェクト欄→森治郎「日本国憲法の今」→【この際の憲法読書案内】

・れいわの党名について

A れいわ新選組は統一地方選でも擁立候補の半数以上が当選するなど、少しずつ躍進しており、共同通信の世論調査ではれいわ支持率が3%を上回りました。
 内訳は、自民39.4 、立憲7.6 、維新12.2、公明3.4、共産3.8、国民民主2.0、れいわ3.2、社民1.1、政治家女子0.5、参政党1.2、無党派層23.4。維新が伸びて、立憲は下落、公明は案外低い。そのなかでれいわ3.2%は上り調子を感じさせます。
 ところで、政権を取るには名前を変えた方がいいという意見がありますね。れいわ新選組というのは、山本太郎が一人で政党を立ち上げる時に名乗ったそれこそエッジの利いた先鋭な名前です。それを変える必要はあまり感じないのだけれど‣‣‣。

B その必要を今は感じないけれど、将来的には必ず議論になることだと思います。それを見越して、おせっかい的な意見を述べると、僕の考えはこうです。
 まず、政権を取るために、それにふさわしい名にした方が支持が広がるという甘言に惑わされないことが大事です。改名と同時に「いつまでも山本太郎商店ではダメだ」という意見も聞きますが、それには「山本太郎商店で何が悪い」、「山本太郎の精神を薄めることはれいわをむしろ殺す」と反論したいですね。映画『ゴッドファーザー』ではないけれど、ビトー・コルレオーネが死ぬ直前、息子のマイケルに「俺が死ねば必ず他のボスとの和解話を持ってくる奴がいる。それが裏切り者だ」と言いますね。親切ごかしの提案には注意が必要です。鳩山由紀夫氏や佐藤章氏の善意を疑うわけではないけれど。甘言には得てしてれいわを潰そうとする敵が入り込んでくる可能性がある。

A 山本太郎が警戒しているのは、そういうことだと思いますね。

B それはそれとして、新党名に1つのアイデアがあります。「れいわ新世党」というのはどうですか。新生党ではありませんよ。新世という言葉は、少なくとも『広辞苑』(第6版)には載っていません。比較的最近唱えられた地質学上の新しい年代区分です。
 ウィキペディアの人新世に関する解説は以下の通りです。

人新世(じんしんせい、ひとしんせい、英: Anthropocene)とは、人類が地球の地質や生態系に与えた影響に注目して提案されている地質時代における現代を含む区分である。人新世の特徴は、地球温暖化などの気候変動(気候危機)、大量絶滅による生物多様性の喪失、人工物質の増大、化石燃料の燃焼や核実験による堆積物の変化などがあり、人類の活動が原因とされる。

 経済学者の斎藤幸平が『人新世の「資本論」』(集英社新書)を書き、ベストセラーになったので有名にもなりました。地質時代をおもな生物種族の生存期間に基づいて区分、普通は動物の進化が規準にされ、古いほうから順に、始生代、原生代、古生代、中生代、新生代と続くけれど、その最近区分として「人新世」を加えようという、地球45億年の歴史を背景に持つ壮大な考え方です。
 新世=新世紀、新世界、新世直し。新しい時代を切り開こうという、れいわにふさわしい名前だと思いませんか。れいわ新選組と語感は似ているし、略称は今まで通り「れいわ」。今は改名問題に深入りしない方がいいとも思いますが、他党に取られないように唾をつけておいた方がいいのではないかとも(^o^)。

新サイバー閑話(81)<折々メール閑話>㉚

選挙が機能していない政治と新しい息吹

B 4月に行なわれた統一地方選をふりかえるとき、最初に襲われるのは、結局、何も変わらなかった、というどうにもやるせない徒労感、倦怠感ですね。この国の政治において選挙というものがほとんど機能していない。
 投票率は41道府県議選の平均投票率41.85%、過去最低だった前回の44.02%からずいぶん下がりました。後半の市町村議員と町村長選でも過去最低、市長選と東京区長選、区議会議員選挙では前回を上回ったけれど、これも50%以下です。都道府県知事選の投票率は平均46.8%、やはり50%以下で前回を下回っています。町村議選では約3割が無投票当選だったとも言います。
 半数以上、場合によっては6割近い人びとが実質的に選挙に参加していないし、しかもその割合が多くのケースで前回より増えています。選挙前には統一教会がらみで自民党議員の票がぐっと減るだろうと予想されていましたが、そういうふうにも民意は動かなかった。

A 脱力感ですね。

B 社会思想家の内田樹氏が東京新聞のコラム「時代を読む」(2023.4.23付)で、<統一教会のことも、防衛費増強のことも、増税のことも、インボイス制度のことも‣‣‣みんな『政府が好きにしていいよ。オレは興味ないから』という有権者が60%近くを占めているのである。これはかなり深刻な病態と言ってよいと思う>と述べたうえで、これを「パワークラシー(powercracy)」が日本に定着した兆候だと見立てています。「パワークラシー」は貴族政治(aristocracy)、民主政治(democracy)などの類推による内田氏の造語で、これは<「権力支配」という意味である。ふつうは王政であれ、貴族政であれ、民主政であれ、主権者はおのれの地位を正当化する何らかの理由づけをする。「神から授権された」とか「民意を負託された」とか、あるいは端的に「賢明だから」とか。パヮークラシーは違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っていること」だからである。‣‣‣。「権力者は正しい政策を掲げたのでその座を得たのであり、その座にある限り何をやってもその政策は正しい」という循環構造がその特徴である。‣‣‣。パワークラシーには「出口」がない。私たちはそんな社会にしだいに慣れ始めている>と言うのだが、心情としてはよくわかりますね。
 徒労感の要因はもう1つあります。同時に行われた国政選挙、千葉5区、和歌山1区、山口2区と4区の各衆院補選と大分の参院補選で、自民が4勝、和歌山は維新が獲得しました。大分では立憲民主党が擁立し、共産、社民が推薦した元社民党首が自民党の新人、「銀座のママ」に敗れました。

・立憲民主党の背信とれいわ新選組の躍進

A 自民が圧勝したわけではなく、むしろ辛勝、立憲民主党のふがいなさだけが目立ちました。山口2区は立民が平岡秀夫を公認しなかったわけですね。一説によれば無所属で出ることで共産党の票を獲得出来ると読んでいたそうですが、また一説では原発反対派の平岡を公認すると連合のご機嫌を損ねるからだとも。立民のだらしなさ、無責任さのおかげで〝家系図候補〟で何の実績もない岸信千代が勝った。
 日本維新の会は関西を中心に大躍進ですね。大阪知事、大阪市長選で圧勝したばかりか、奈良県知事選でも自民候補を破っています。

B 維新の本質は自民党とあまり変わらないわけで、やはり特筆すべきは立憲民主党の惨敗です。そもそも候補擁立の段階からほとんど野党共闘が成立せず、勝たねばならない選挙区でも苦杯を喫しました。泉健太執行部の責任であることは明らかです。野党として闘う姿勢を喪失したことで多くの人の失望を買い、投票に行く意欲までも失わせたと言えるでしょう。この「背任」に対する総括をしない以上、立憲民主党の将来はないし、日本の政治の前途はいよいよ暗い。ユーチューブの動画「一月万冊」で佐藤章が立民は辻元清美を党首に立て、しっかりした野党として出直し、そのうえで共産党、社会民主党、れいわ新選組などとの共闘を考えるしかないと言っていたけれど、まったくそうだと思いますね。
 これも東京新聞の「本音のコラム」(4.27付)で青学大名誉教授、三木義一氏が投票率に関して、洒脱な問答を載せています。

「低投票率の原因は?」
「わしが思うに、政党が日本丸の航路を照らす灯標の役割を失ってきたのだ。特に左側の灯標の多くが壊れかけておる」
「なるほど。それで、右にしか進めなくなっているんだ!」

A れいわの山本太郎代表も本気で立民を乗っ取る行動に出てほしいです。

B 60%の有権者を枠外において行われている選挙は、いよいよ自民党や日本維新の会の思うがままです。この40%だけの政治が実際に世の中を動かしていることは指摘しておかないとね。

A つい最近の国会を見ても、27日の衆院本会議で60年超運転を可能にする「GX脱炭素電源法案」が自民、公明、日本維新の会、国民民主党などの賛成で可決、健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化するマイナンバー法も同日、衆院を通過しました。また自民、公明、日本維新の会、国民民主党は入国難民法改正案の修正で合意しています。立憲民主党は法案に反対したりはしているようだけれど、形だけ反対しているにすぎず、何の迫力もありません。

B 選挙制度は落ちるところまで落ち、その中で政治は与党の思うがままに行われている、とまあ言えなくはないのだけれど、細かく見ていくと、新しい動きがないわけでもないですね。
 まず東京区長選や地方の議員選では女性の進出が目立った(女性の比率は14.0%、これでも1割台です)。自民党、公明党などは区議会議員選挙では票を減らしています。維新はここでも票を伸ばしましたが、れいわは区議選14、全国市議選25の公認候補を当選させました。

A 地方に40の拠点を得たことは、今後のれいわにとって大きいのではないですか。れいわは擁立した候補の半数以上が当選したようで、結党4年目でここまで進出できたことを良しとすべきだと思いますね。

・選挙に無関心の6割の内訳と新しい息吹

B 以下では、投票しなかった60%のことを少し考えてみたいと思います。なぜ投票しないか、それは選挙にも政治にもまったく無関心だというのが一つのグループです。日々の生活に追われて政治のことを考える余裕がないとか、「竹林の七賢」のように韜晦を決め込み、独自の世界を生きている人びと、それと、これがいちばん多いと思うけれど、内田樹氏の「パワークラシーにゆらぐ葦」とでもいう、なんとなく日々の生活を生きている人びとです。しかし政治はいやおうなくそれらの人をも巻き込んでしまう。山に籠っても、衛星やドローン、あるいは最新兵器で補足されてしまうわけだし、為政者にとっては、むしろありがたい人びとです。
 もう1つは政治そのものには関心も持ち、自らの人生のこともよく考えているが、現代政治そのものには絶望して参加意欲を失い、NPO法人とかボランティア活動、あるいは自分の身の回りで理想の社会を実現しようとしているグループです。むしろまっとうな人びとで、しかも、けっこうな人数がいるように思われます。とくに若者の中に。これらの人びとと政治をつなぐチャンネルになれるのは、立憲民主党ではなく、れいわ新選組だと我々は思い、また期待もしているわけですが、いまはまだ必ずしもリンクできていないですね。
 たとえば最近、友人に勧められて孫泰造『冒険の書  AI時代のアンラーニング』(日経BP、2023)を読みました。孫泰造氏はいろんなITベンチャー企業に投資してきた企業家で、ソフトバンク創業者、孫正義氏の弟です。本書は、思索としての冒険の書であると同時にAI時代の生き方指南書でもあります。
 AI時代にはこれまでの教育で培ってきた実務知識はコンピュータによって代替されるようになる。そこで生き抜くためには、もっと根源的な学びの哲学が必要になってきます。AIに脅かされている時代が、教育本来の意味を浮かび上がらせてくれるという逆説がここにあります。
 著者が古今東西の教育者、思想家を通して学んだことは、結局、「教育は本来の意図とは別に、まったき人間を育てることよりも産業社会、資本主義に都合のいい人材を育てるものになってしまった」、「子どもを保護しなくてはいけないという善意の考えが子どもを型にあてはめ、かえって子ども本来の可能性をそぎ落としてきた。学校教育そのものがいびつなものになり、だからいじめや不登校といった適応障害も起こっている」ということです。
 彼は「自ら『優秀な機械』になろうとする人間は、遅かれ早かれ『メリトクラシーの最終兵器』である人工知能にとってかわられる」とも書いています。メリトクラシー(meritocracy)は実力主義、能力主義といった意味です。アンラーニングとは、「自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びに取り組み、すべてを組み替えるという『学びほぐし』の態度」であり、「『社会が自分を変えるための場』であった学校を『自分が社会を変えるための場』へと意味を逆転させるイノベーション」です。
 本の注目度から推測して、このラディカルな考え方を支持する若者がけっこういるのだと思います。この本で驚くのは、アニメの1シーンを思い出させるようなイラストの中に、タイトルが小さく配されている本の斬新なデザインでもあります。あとがきに多くの協力者の名前があがっていますが、この本を読みながら、ここに結集している若々しいエネルギーと現代日本の政治的停滞はどう関連するのだろうか、ということを考えたわけです。老人の余計なおせっかいと思われるのを覚悟して言えば、なぜれいわ新選組および山本太郎への支持へとつながらないのか、と。

A  僕も最近、上間陽子『海をあげる』(筑摩書房、2020)という本を読んで感激しました。著者は沖縄在住の琉球大学教育学研究科教授で、この本は2021年の「本屋大賞ノンフィクション本大賞」と第14回「(池田晶子)わたくし、つまりNobody賞」を受賞しています。池田晶子ファンとしてこの本に出合いました。「ここは海だ。青い海だ。珊瑚礁のなかで、色とりどりの魚やカメが行き交う交差点、ひょっとしたらまだどこかに人魚も潜んでいる」。いまその沖縄の海(辺野古)が米軍基地建設のために赤い土で埋められている。「この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる」。
 沖縄の人たちが、何度やめてと頼んでも、海に今日も土砂が入れられる。これが差別でなくてなんだろう。見たくないものを沖縄に押しつけて知らん顔。現在、上間さんは琉球大学で教えるかたわら、若年出産女性を調査、支援する活動を続けています。エッセイの中にも10代で母になった女性が登場しますが、問題の背後にあるのも本土との経済格差だと思います。いまの政治家は沖縄に誠実に向き合っているとも思えない。
 先の大戦で沖縄の人たちに大きな借りがある、申し訳ないという気持ちを強く持っていましたが、現状はそんな生易しいものではない。国が沖縄の地を、人たちをまた蹂躙している。

B ここには生活に打ちひしがれて政治に無縁な人びともいるし、辺野古の埋め立てに抗議してハンガーストライキをしている先鋭な人びともいます。前者は選挙には行かないだろうし、後者の人はもちろん行っているでしょうね。そういう人間模様を包み込みながら、全体では半分以上の人が選挙には行かない。
 以前にもインドの哲人、ガンジーの言葉を引用したことがあるけれど、『冒険の書』を読みながら、彼の別の言葉、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないためである」を思い出しました。
 <折々メール閑話・もともな人間を育てない「教育」>でも言及しましたが、いまの教育の基本がおかしくなっているために、高学歴者の中に人間的にどうかと思うような人がけっこう育っているわけです。孫さんの言葉を借りると、選挙を「自分が社会を変えるために行く」ものにしていきたいと思いますねえ。

新サイバー閑話(80)<折々メール閑話>㉙

『通販生活』の特集に納得しました

A 選挙応援演説中の岸田首相に向って爆発物がまた投げ込まれる事態となり、社会に不穏な空気が漂い始めましたが、その間、ドイツでは2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけに宣言した脱原発政策が完了したというニュースがありました。唯一の被爆国であり、原発事故にも見舞われた日本ではなぜ、脱原発に踏み込めないのか。それ自体、大いに疑問ですが、それよりももっと問題なのは、脱原発に対する真摯な議論が起きていないことですね。

B 4月18日の東京新聞によると、15日に最後の原子炉3基が発電を停止、2030年までに電力消費の8割を再生エネルギーで賄う計画とか。達成までの道は険しく、「ロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー価格高騰や供給不安で運転延長を求める声が高まる中、政府は事故のリスクや放射性廃棄物の問題を重視し、約60年に及ぶ原発利用に終止符を打った」と言います。ここには確たる決断と、それを実行に移す政治があると思いますね。

A それに比べて、日本の政治はまったくお粗末です。今回の爆発事件でも、テロを警戒して警備を強化しようという方向でしか話が進まず、テロを生み出す温床は何か、といった本質的な議論はほとんどないですね。

B 安倍政権以来とみに、民主主義の基盤である既存制度やそれを支える精神をあっけらかんと破壊、しかも国会という議論の場も軽視して、政権(閣議)だけで勝手にことを進めるファッショ的な風潮が強まっています。小西議員が問題提起した放送法の公平性問題も、高市元総務相の地元奈良での自民敗退は痛いとか、小西議員のサル失言はけしからんとか、瑣末な問題に論点がすり替えられ、本筋の議論は国会でも、メディアでもほとんどスルーされています。こういう空洞化現象はいよいよ深まっています。

A いまのところ、絶望的な状況下の青年による孤独な爆発物テロという感じですが、これまた新聞・メディアの騒ぎようは異常だと思います。

B ところで、最近、ちょっと嬉しいニュースが2つありました。
 1つは妻宛に届いているカタログ雑誌『通販生活』2023年夏号に「岸田首相の〝聞く力〟は、誰の言葉を聞いているのだろうか」という緊急特集があり、<「敵基地攻撃能力の保有」に反対する12人の女性の声をぜひ聞いてください>として、上野千鶴子(社会学者)、上原公子(元国立市長)、落合恵子(作家)、加藤陽子(東京大学大学院教授)、斎藤美奈子(文芸評論家)、澤地久枝(ノンフィクション作家)、田中優子(法政大学前総長)、中島京子(作家)、浜矩子(エコノミスト、同志社大学大学院教授)、三上智恵(映画監督)、安田菜津紀(フォトジャーナリスト)、山本章子(琉球大学人文社会学部准教授)の声を掲げていました。

A 堂々たる顔ぶれですね。しかも女性ばかり。ひと昔前なら朝日新聞にでもありそうな特集がカタログ雑誌で行われているのも驚きです。もはや朝日には無理とも思える企画です。

B 特集前文は以下の通り。これがまた立派です。

昨年の臨時国会(2022年10月3日~12月10日)で、岸田内閣は「敵基地攻撃能力の保有」について、ひと言の問題提起も行なわなかった。
ところが国会閉幕を待っていたように、6日後の12月16日、いきなり「敵基地攻撃能力の保有」を閣議決定し、国会(国民)に説明する前に、年明け早々の1月13日、訪米してバイデン大統領に報告した。もしかして報告させられたの?と邪推したくなるようなタイミング。
国会(国民)への説明は帰国後の1月25日(施政方針演説)だったが、「防衛問題だから手の内は明かせない」と国会での本格議論は一向に進まない。これまでの「専守防衛」や「憲法九条」とどう折り合いをつけるつもりなのか、国民(自民党支持者含めて)には全く説明なし。岸田首相の国会(国民)軽視、プーチン氏や習近平氏とあまり変わらないように思えてしまう。

 本文では、それぞれがしっかりした見解を表明していますが、ここでは歴史学者の加藤陽子さんの全文だけ上げておきます。

 今を生きる人々に、昭和戦前期にあった大本営政府連絡(連絡会議)の構成員が誰か間いても知る人はいないだろう。だが昨年12月、国家安全保障戦略・国家防衛戦略・防衛力整備計画の3文書が決定された場として、閣議のほかにもう一つ名が上がった会議、国家安全保障会議(NSC)の構成員を知らないのはかなリマズい。
 戦前の連絡会議で、陸海軍軍務局長ら軍人が専横を極めたことで、国民は存亡の危機に立たされた。ところが今回のNSCでは、首相・外相・防衛相・内閣宣房長官、たった4人の判断で、1976年以降改訂されてきた防衛計画の大綱、が完全に書き変えられてしまうこととなった。
 予算と法律の審議によって、国会での入念な議論と国民の叡智を結集する機会を設けることもなく、NSCの大臣会合を支える極めて少数の安全保障担当者の限定的な判断力と恣意的な判断によって、国家と国民の将来の存亡が委ねられてしまってよいはずはない。
 国民は政治に向き合おう。まだ間に合う。

 ちなみに加藤陽子さんは中高生向けに講義した内容をまとめた『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社、2009、小林秀雄賞受賞)などで有名ですが、2020年に菅義偉政権によって学術会議会員への任命を拒否された6人の中の1人でもあります。

A 拒否された6人はいずれも人文科学、社会科学の分野の学者で、しかも安保法制や特定秘密保護法、共謀罪など、安倍政権下の政策に異議を唱えた人たちばかりですね。政府が検討中の学術会議法改正案では、会員選考に第三者の選考諮問委員会を関与させようとしており、17日開かれた学術会議総会でも、会員から反対意見が続出したといいます。

B まことに戦前を思い出しますが、学問への露骨な干渉が進み、これについての反対意見というか反対運動がそれほど盛り上がらない。加藤さんじゃないけれど、国民はいまこそ戦前の歴史に学ぶべきです。
加藤陽子の別の本(『戦争まで』)によると、19世紀の軍事思想家、クラウゼヴィッツは『戦争論』で、「戦争は政治的交渉の一部であり、従ってまたそれだけでは独立に存在するものではない」と言っている。以前にも紹介した昭和史および漱石の研究家、半藤一利が『昭和史』(平凡社ライブラリー)かどこかでふれていましたが、夏目漱石も「人びとはとかく大事件に注目するが、それ以前の小さな出来事の意味が大きい」といったことを書いているとか。
 いまや世界的に戦争をあおる空気が強いけれど、戦争以前の外交努力こそが大事だと言えますね。ウクライナ問題を考える時、大いに腑に落ちる話でもあります。ロシアのウクライナ侵攻は非難されるべき暴挙であるけれど、それ以前にアメリカを中心とした西側陣営がNATOのロシア包囲網を進めた事実、侵攻後はウクライナに武器を供与、むしろ戦いを続ける要因になっていることなどを無視できないですね。
 歴史の教訓ということを考えると、先にも言ったけれど、唯一の被爆国であり、つい最近、悲惨な原発事故も経験、しかも平和憲法を奉ずる日本がなぜ、戦争回避や世界平和への努力をほとんどせず、安保法制強化、軍備増強、原発延長、学術会議任命拒否など重要政策の転換を、まっとうな議論抜きで強行できているのか、現代日本政治の異常さを感じざるを得ません。そういう日々の中で『通販生活』の特集にいささか救われる思いがしたと(^o^)。

A もう1つの嬉しいニュースとは。

B そうそう、それを忘れていました。先日夜、もう40年も前、組合活動を1年間ともにした旧友から突然、電話がありました。「酔っぱらった勢いで電話しました」との前置きのあと、「サイバー燈台の連載コラムをずっと読んできましたが、統一地方選で初めてれいわに1票を投ずることにしました」と言ってくれたんですね。酔っぱらっての夜分の電話という行為もすでに十分懐かしいのに、内容が内容だけに、嬉しさもひとしおでした。

A それは嬉しいですね。もっともれいわが候補を立てないと、投票はできません。

B 神奈川県知事選など、その問題はあると思うけれど、気分をよくしたところで、今日はおしまい(^o^)。

新サイバー閑話(79)<折々メール閑話>㉘

小西議員の発言は「サルに失礼です」

B 元朝日新聞記者・鮫島浩氏のSAMEJIMA TIMESが毎週続けている動画「ダメダメトップ10」は、近ごろ大手メディアでは聞けない正論が堂々と展開されていて、常々愛聴していますが、とくに4月10日の放送には感心しました。
 例の放送の公平性問題で高市総務相を追及した立役者、立憲民主党の小西洋之議員が衆議院憲法審査会の議論を「毎週開催するなんてサルのやることだ」などと批判したことで、当の立憲民主党から参院憲法審査会の野党筆頭幹事を更迭され、党参院政審会長も辞任することになりました。いろいろ開いた口がふさがらない事態です。
 小西議員はせっかくの功をフイにしかねない言動をしたわけで、まことに浅慮、残念だったと言えますが、一方で、立憲民主党が他党の批判攻撃から小西氏を守ることなくそそくさと処分し、せっかくの放送法をめぐる論議に自ら蓋をしてしまったのは、敵に塩を送るようなもので、最大野党としての闘争姿勢を大いに疑わせました。
 そういう中でSAMEJIMA TIMESがこの問題をダメダメトップ2に位置づけた理由は立憲民主党のふがいなさです。しかもそこで山本太郎の参院憲法審査会の発言を取り上げたところに、ジャーナリストの慧眼を見た思いですね。
 山本発言は一部しか紹介されていませんが、要旨は以下の通りです。

これ、たしかに問題発言なんですね。サルに対して失礼であり、サルに対して謝罪すべきだと(思います)。サルは高度に社会性のある動物で、群れの明確なルールを守り、実力者が裏でこそこそルール変更したりしません。力にものを言わせた政治支配とも無縁と言えます。いま一部与野党の国会議員がやっているような姑息な火事場泥棒的なルール変更をサルは画策したりはしない、これらの国会議員たちと同列に置くのは、サルに対する冒涜です。
憲法審査会を毎週開くのが問題であるわけではないです。いま日本にはびこるさまざまな違憲状態、憲法に定められた国民の権利を無視した政策をチェックし、改善するための議論に集中するなら、週何回開催されてもたりないくらいです。‣‣‣。自公政権は生活保護基準引き下げを進め、憲法25条が定める最低限の生活を壊してきました。‣‣‣。同じ群れの中で、生殖の権利を奪い、飢え死にするところまで追いやるなどサルならば絶対にやらない。最近の憲法審査会では、国民の権利をさらに制限しようとする改憲提案ばかり議論し、回数を重ねたことを口実に国民が望んでいない改憲案を発議しようという意図が見え見え、本国会の衆議院憲法審査会では内閣に国会の賛成が不要な緊急政令制定権、政府の裁量で予算執行する緊急財政処分権限を付与する提案が出されている。国民が経済的に疲弊し、コロナから立ち直れないうちに戦前の法体系に戻そうとする動きです。こんな姑息なルール変更はサルはやらない。ほんとうにサルに申し訳ない限りです。小西議員にはすべてのサルに対する真摯な謝罪を求めたいと思います。

 サルへの謝罪にことよせ、自民党の改憲審議のやり方を批判しているわけです。もう少しましな議論をしないようでは憲法論議が泣くというように、小西議員の舌足らずな失言、と言うより暴言を丁寧にフォローして、ある意味で小西援護を行ったとも言えます。この山本演説に対する立憲民主党などの政界、さらにはメディアの鈍感な対応も含めてダメダメ2にランク付けしたようです。
 遠い昔、中国は三国志の時代、蜀の丞相、諸葛孔明は作戦に失敗した部下の首を泣いて斬った。「泣いて馬謖を斬る」という諺の由来だけれど、泉健太立憲民主党代表のいつもニコニコというかニタニタ笑っている表情には闘う野党代表の表情は見られないですね。
 鮫島記者によると、立憲民主党内で堂々と小西議員を擁護したのは原口一博議員程度で、参議院憲法審査会に出ている護憲派の雄(?)、辻元清美議員は発言なしだったと言います。一人気を吐いた山本太郎代表に言及したSAMEJIMA  TIMESの意図は、山本太郎の正論に対する敬意だと思いました。

A 参院憲法審査会をリアルタイムで見ましたが、途中で馬鹿々々しくなりました。各議員が原稿を読み合わせるだけで、読み終われば散会ですよ! 学芸会かよ! こんな状況では、まったく自公の思うがままですね。
 山本代表の小西議員のサル発言を逆手にとった政権批判はまことに見事でした。短い時間なのでやむをえないとは思いますが、原稿読みではいつもの舌鋒鋭い論調とはちょっと物足りない気もしたが、まあ、これは贅沢過ぎますね(^_^;)。共産党の山添拓さんと仁比聡平さんは、やはり原稿読みでしたが、共に正論でした。

B 審議の場数を増やして長時間審議したように見せかけ、それを既成事実に自民案を一方的に押しつけようとするやり方に、野党はなぜなすすべもなく呑み込まれてしまうのか。まことにふがいないと思います。
 社会民主党の福島瑞穂議員が言及していたけれど、戦前の帝国議会でも斎藤隆夫議員の「反軍」演説のような立派な意見陳述が行われた歴史があるけれど(1940年、この演説の結果、斎藤議員は衆議院議員を除名されている)、いまの国会の論議はまことに情けない。気迫も知力も戦前にすら及ばない状況です。
 この山本発言は名演説の一つに加えていいと思いますね。山本太郎には斎藤孝夫に匹敵する勇気と気概があると思います。メディアは例によって、この問題を正面から論じないし、その見識もなさそうに見えるけれど、メディアについては前回ずいぶん言及したので、いまさら論ずる気も起りません(^o^)。

・れいわはなぜ神奈川に候補を擁立しなかったのか

A 統一地方選の前半(知事選、県議選など)が終わりましたが、維新だけが躍進、共産党はだいぶ票を減らしました。問題はやはり立憲民主党の不振ですね。奈良や徳島の知事選では保守分裂になりましたが、奈良では維新候補が当選、徳島では3分裂の中で自民候補が当選しました。大阪で知事、市長ダブル当選、しかも圧勝した維新は、関東でも勢力を拡大しました。こういう報道に接すると脱力感しかないですね。

B 神奈川は選挙期間中に黒岩祐治知事のスキャンダルが報じられましたが、残念ながら対立候補が共産党ではやはり勝てませんでした。今の立憲民主党には政権交代をめざす気力がまったく見えません。もはや滅びるしかない印象すら受けます。
 れいわはなぜ神奈川で候補を立てなかったのか、というのが僕の大いなる疑問です。れいわは今回、1議席も獲得できずに終わったわけですね。それはそれでやむを得ないとも思いますが、SAMEJIMA TIMESも選挙総括でふれていましたが、もし神奈川で名もある立派な候補を立てていれば、黒岩スキャンダルの影響もあって少しは票を獲得できた、というより、勝てた気もするわけです。
 れいわの選挙戦略には山本太郎の演説のような冴えが見られない。現体制のけっこう深刻な欠点ではないかと思います。

A 山本代表は統一地方選後半に向けて意気軒高なところを見せていますが……。共産党が議席を減らしたのは委員長公選制要求に対する党本部の威圧的な態度が影響したとも言われるけれど、野党で上り調子なのは、自民よりタカ派の維新だけという状況はまことに情けない。その責任はどこにあるかというと、結局、立憲民主党のふがいなさ、闘争意欲喪失に帰着せざるを得ないですね。まったく笑っている場合じゃないですね。

新サイバー閑話(78)<折々メール閑話>㉗

メディアの根底を突き崩した安倍政権

 A 放送の中立性という「表現の自由」にも関わる重要な問題が、「文書捏造だ」、「捏造という言葉はきついかもしれないが、文書は不正確である」、「私の言うことが信用できないなら、質問しないでください」などという高市元総務相の頓珍漢なやりとりで、参議院予算委員会は迷走気味だけれど、この件をきっかけに、2014年当時の安倍政権、というより安倍晋三首相その人の強引なメディア介入の実態が改めて浮かび上がっています。

B 一部は前回の繰り返しになるけれど、2014年から2016年の前後におよぶ安倍政権とメディアにからむ出来事を整理してみました。

2013
 2013/9/8           アルゼンチンで開かれた2020年夏季オリンピック開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会で、安倍首相は東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題について「(汚染水の)状況は制御できている。東京には今までもこれからも何のダメージもない」と説明。
2014
 2014/1/25         新任のNHK籾井勝人会長が就任記者会見で、領土問題に関して「政府が『右』と言うものを『左』と言うわけにはいかない。政府と懸け離れたものであってはならない」と述べた。2013年11月には作家の百田尚樹氏らがNHK経営委員に任命されている。
 2014/3/21       安倍首相、フジテレビのバラエティ番組「笑っていいとも!」に出演。
 2014/8/5        朝日新聞が慰安婦報道で訂正記事を掲載。
 2014/11/18     安倍首相がTBSの「ニュース23」に出演中、街頭インタビューの視聴者の声がアベノミクス批判ばかりだとして、「おかしいじゃないですか」と発言。
 2014/11/20     自民党が「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書(萩生田光一副幹事長などの名)を在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛に出す。①出演者の発言回数と時間の公平を期すること、②ゲスト出演者等の選定も公平、公正を期する、③テーマについて特定の立場からの意見の集中がないようにする、④街角インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、特定の立場が強調されないようにする、など番組制作の細部に介入するものだった。  
 2014/11/21     衆院解散。12/14投票、自公両党で議員総数の3分の2を確保。
2015
 2015/3/27       テレビ朝日「報道ステーション」降版に際し、コメンテイターの古賀茂明氏がI am not  ABE のフリップを掲げる。同氏は1月13日の段階で中東政策に関する政権批判として、日本国民は世界に向けてI am not  ABEであると主張すべきだとの発言をしていた。
 2015/5/12       高市総務相が参議院総務委員会で「一つの番組でも放送法に抵触する場合がある」と答弁。
 2015/9/19       安倍政権が安全保障関連法を強行成立させる。
2016
 2016/2/8        高市総務相が衆議院予算員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命ずる可能性もある」と答弁。
 2016/2/12       総務省が「政治的公平性の解釈について」政府統一見解を出す。「一つの番組のみでも、たとえば、①選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合。②国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたりくり返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合 といった極端な場合においては、一般論として『政治的に公平であること』を確保しているとは認められない」。総務省ではこの見解を「『番組全体を見て判断する』というこれまでの解釈を補充的に説明、より明確にしたもの」と説明した。
 2016/8/21       リオデジャネイロ五輪閉会式に安倍首相、ゲームキャラクターのスーパー・マリオに扮して赤いボールを手に登場(写真)。
[その後]
 2019/4/20       安倍首相、吉本新喜劇「なんばグランド花月」にサプライズ出演、大阪で6月に開かれるG20サミットについて協力を呼びかける。
 2020/9/16       安倍内閣総辞職、安倍首相辞任。
 2020/12/21     安倍首相が「桜を見る会」懇親会をめぐって国会で行った答弁のうち、検察の捜査に関する情報と食い違う答弁が少なくとも118回あったことが衆議院調査局の調査で明らかになる。別に森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改竄問題でも安倍政権が行った国会答弁のうち、事実と異なる答弁が計139回あったとも。
 2021/7/23       東京オリンピック開催(8/8まで)。
 2022/7/8        安倍元首相、参議院選挙の応援演説中、銃撃され死亡。
   2022/8/17       東京地検特捜部は東京オリンピックをめぐる汚職事件で、高橋治之大会組織委理事(元電通専務)を受託収賄容疑で逮捕。

 こうして並べてみると、安倍首相は自らメディアに積極的に登場して大衆の支持を獲得しつつ、一方で自分の意に沿わない放送局や新聞には徹底的に圧力をかけ続けてきたことがはっきりします。そのピークが奇しくも2014年から2016年だったと言えるでしょう。

A 今になって、その当時の出来事が改めて脚光を浴びています。
 2014年に古賀茂明氏がテレビ朝日の「報道ステーション」でI am not  ABEのフリップを掲げた時、菅官房長官の秘書官から直接、番組関係者に「古賀は万死に値する」というメールが入って、番組の裏方は大騒ぎになったそうです。本人のユーチューブの発言によると、その秘書官は中村格氏で、彼は伊藤詩織さん「レイプ事件」で逮捕状が出ていた被疑者の逮捕執行を見合わせた警視庁刑事部長、後に警察庁長官となった人です。
 これは完全な「報道の自由」への介入であり、憲法に反する行為と言ってもいいと思いますが、そんなことが許され、現場は混乱したけれども、社としてはとくに抗議もせず、むしろ政権に対してもモノ申そうとするキャスターやゲスト、さらには番組制作責任者の降版や更迭が行われていたわけです。同「報道ステーション」では古賀さんに続いて、「報道ステーション」の屋台骨を支えてきたプロデューサーの松原文枝さんも更迭されています。

・「言論機関」よ、さようなら 「広告代理店」よ、こんにちは

B 結局、安倍元首相はテレビを自分の都合のいいように徹底的に利用しつつ、反対する報道などを禁じようとしてきたわけで、それはメディアを私物化することでした。心あるキャスター、ジャーナリストたちは、当時も反対声明などを出して抗議しましたが、テレビ局の大勢は完全に政権追随色を強めていったわけです。
 これを一言で表現すると、<「言論機関」よ、さようなら。「広告代理店」よ、こんにちは>ということになりますね。政権に批判的な「報道」を封殺するばかりか人事にも介入しつつ、一方では金を出せば都合のいい「宣伝」をしてくれる電通のような広告代理店を重用したわけです。

A 2019年の参院選でのれいわ街宣に登壇した前川喜平さんが、「自民党は資金潤沢だから憲法改正の国民投票になった時、その資金を使って大量のコマーシャルで国民を誘導するだろう」と警告していたのを思い出します。

B 安倍政権はメディアの基盤を解体しつつ、安保法制成立といった懸案を推し進めた。その間、以前にも何度も取り上げた統一教会や日本会議などとの関係を深めていったわけでもあります。報道機関の表現の自由は著しく狭められ、ジャーナリズム機能は弱まりました。
 これは本欄で以前書いたことだけれど、たとえば2022年参院選で山本太郎が衆議員の椅子を投げ出して参議院選挙に出馬する過程などもずいぶんドラマチックな話だけれど、これをそういう観点から報道するメディアは皆無に近かった。これは総務省見解「①選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合」に該当するからで、これでは興味深い選挙報道はできるわけがない。かつてなら選挙を野次馬的関心から面白がって報道するようなことはふつうにあったわけですね。放送ばかりか新聞もその制約に習ったように思われます。同選挙でれいわに対する報道が少なかったのもむべなるかな、というか、少数者あるいは弱者は切り捨てられる構造になっている。これでは社会はなかなか進歩しない。
 対立する見解を天秤にかけて過不足なく報道することが「公正中立」だと考えれば、それは権力にとって有利であり、ジャーナリズムの基本である「権力の監視」など絵にかいた餅になります。言論機関の矜持において何を報道すべきか、何がおもしろいかを独自に判断するのが「表現の自由」の醍醐味だと思いますね。今回、ネット上で雑誌『創』のバックナンバー(2016年8月号)が再掲されているけれど、そこでキャスターの岸井成格さんの言っていることは、まことに正論だと思います。

安保法制と原発に関して批判的な報道をすることは許さんと、そういう基本方針が政府にはあったし、今もそれはあるんじゃないかと思っています。私が先輩から受け継いだジャーナリズムの基本というのは「権力は必ず腐敗し、時に暴走する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」ということです。これを見誤ってしまうと、後々になって取り返しのつかないことになる。そういうことを、我が国は経験してきている。しかもその中に、メディアは積極的に参加してきてしまっているんです。これだけは二度と繰り返してはならないということは、メディアの使命だと思うんですね。ですから、権力の腐敗とか暴走というものに、どうやってブレーキをかけるか、つまり権力の監視役というのがどれだけできているのか、ということがメディアやジャーナリズムにとっての生命線なんです。これが、だんだん崩れているというのが今の状況です。

 そもそも安倍首相は放送法の理念とか、民主主義社会における「表現の自由」の重要さなどに関してほとんど無知、無関心だったように思えます。自分の意向を忖度して動いてくれる磯崎陽輔補佐官のような人を官邸に集めて、既存の秩序や手続きも無視して官邸主導でことを運んだ。それに官僚たちも忖度しつつなびいて行った。この構造は安保法制成立のころに石川健治東大教授が言った「非立憲政権によるクーデーター」そのものでした。

A その結果、生まれたのが汚職まみれの東京オリンピックでもあったわけだけれど、検察当局の捜査もその膿を出すまでは至らなかったですね。日本は根底から破戒されたとも言えます。新聞社は軒並みオリンピックのスポンサーになるなど、自らのジャーナリズム性を放棄しました。
 最近公開された映画『妖怪の孫』はまだ見ていませんが、安倍政権のメディア制覇の実態や覆面官僚による赤裸々な告発もあるようです。

B 僕はかつて『総メディア社会とジャーナリズム 新聞・出版・放送・通信・インターネット』(知泉書館、2009、大川出版賞受賞)という本を書いたことがあります。インターネット以前は、メディアと言えばいわゆるマスメディアだけでした。しかも新聞、出版、放送などのメディア企業は、ふつうの企業とは違う一種の「文化産業」とみなされ、そこでは不十分ながらも、「表現の自由」や「権力監視」といったい言論機関の役割が自覚されていたわけです。
 放送は公共の電波を使用する制約上、電波法や放送法によって規制されていましたが、一方で、放送の公正中立性も保証されていました。本書は、インターネットの発達でマスメディアとパーソナルメディアが錯綜するようになった社会を「総メディア社会」と呼び、そこにおける民主主義を守る基盤としてのジャーナリズムのあり方を考察したものです。
 昨今の状況を見ていると、マスメディアはジャーナリズム機能を急速に失いつつありますね。安倍政権は時代の流れをうまく利用する形で、新聞、放送をほぼ完全に骨抜きにしました。
 それは「表現の自由」や「ジャーナリズム」という公共的役割を担う言論機関を敵視し、自らの都合のいいことを宣伝してくれる「広告代理店」を活用したと言えるわけです。「表現の自由」は民主主義社会を維持するための大切な権利であり、ジャーナリズムは表現の自由を行使する社会的活動だと認識されていたわけですが、昨今の国会審議などを見ても、「表現の自由」を正面から議論するような雰囲気はありませんね。

A かえってインターネット上に骨のある番組があるのでは。

・インターネットと「表現の自由」の危機

B ここには、インターネットの発達ですべての人が「表現の自由」を行使する手段を得た時、その表現の自由はどう変質するか、という大きな問題があります。たしかに、ユーチューブには我々もよく見ている『一月万冊』、『SAMEJIMA TIMES』といった硬質、かつ良質なコンテンツがありますが、一方で、政権ヨイショものも多いわけです。
 基本的には通信であるインターネットには現在のところ、電波法も放送法も適用されませんし、グーグルが開発した検索連動型広告に象徴的なように、「記事」と「広告」の区別もありません。新聞ももちろん広告収入に依存していましたが、大部数を持ち影響力がある媒体として広告を集めるけれど、あくまでも報道記事が主であるとの認識があり、それを「編集権の独立」とも呼んでいました。記事と広告は、少なくともタテマエとしては独立していたわけです。記事と広告の境界線が薄れたこともインターネット時代の情報の質を大きく変えました。
 またSNSに特徴的ですが、閲読率(ビューポイント)を高めるために記事をゆがめたりする傾向(針小棒大、意図的な虚偽情報)もありますし、政権が都合のいい情報をアルバイトやそのための専門業者を使って故意に書かせることはもはや日常的ですらあります。
 これもすでに触れましたが、インターネットという仕組み自体が、知りたい情報はどんどん集まるが、それに対抗するような情報からは自然に隔離されてしまう制度的特徴があります(『山本太郎が日本を救う』P21)。またユーチューブの硬派番組を支えているのは旧マスメディアから飛び出した人が多く、マスメディアが骨抜きにされた後はどうなるのか、これはこれで心配な状況でもありますね。

A 今日はれいわファンの知人宅を訪問、最新ポスターを分けてもらったのですが、岸田首相夫人の単独米国訪問計画や最近の内閣支持率上昇に憤懣やるかたない感じでした。放送法問題の火付け役、立憲民主党の小西洋之議員のツイッター上のバッシングも話題になり、「裏で金が動いているのではないか」と疑念を呈していました。

B 『総メディア社会とジャーナリズム』の巻頭に、以下の言葉を掲げたのですが、現状はまことにお寒い。

21世紀の自由社会では、数世紀にもわたる闘いの末に印刷の分野で確立された自由という条件の下でエレクトロニック・コミュニケーションが行なわれるようになるのか、それとも、新しいテクノロジーにまつわる混乱の中で、この偉大な成果が失われることとなるのか、それを決定する責任はわれわれの双肩にかかっている。(イシエル・デ・ソラ・プール『自由のためのテクノロジー』堀部政男監訳、東京大学出版会)

 今回の出来事で総務省は放送の公平について安倍(高市)以前の見解に復帰するような答弁をしたようですが、放送局自らの力によって押し戻したというわけではなく、むしろ完全に既成事実に屈服しているのが現状ですね。新しいメディア環境の中で、表現の自由を守るためにはどうすればいいのか、これが本書の課題だったのだけれど、技術の目まぐるしい進歩に幻惑されたのか、それを利用した権力側の攻勢にメディア側がただ追随し、まさに屈服しつつあるのか。だからこそIT社会の本質を洞察する基本素養(サイバーリテラシー)が必要だと僕は長年、提唱しているわけです。
 この機会にそういった問題への議論が喚起されることを願わざるを得ないですね。

新サイバー閑話(77)<折々メール閑話>㉖

なお安倍政権の腐臭漂う高市問題

B このところ国会で続いている高市早苗元総務大臣(現経済安全保障担当大臣)をめぐる放送の「政治的公平」にからむ質疑にはまったくうんざりしますね。このような人が大臣として国の安全保障を担っている岸田政権のお粗末さを感じざるを得ません。

A 参議院予算委員会で立憲民主党の小西洋之議員が、安倍政権当時の2014年から16年にかけて首相官邸と総務省の担当者が協議したとされる文書を示しながら、「個別の放送番組に圧力をかける目的で従来の法解釈を変えた経緯が示されている」と追及したのが発端です。
 総務省は従来、テレビ放送などの政治的公正に関し「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」との見解を示していましたが、2015年5月、当時の高市総務相が「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」と答弁、その後、政治的公平を欠く放送を繰り返した放送局への電波停止を命じる可能性にも言及しています。小西議員の提示した文書には、この法解釈変更を推進したのが当時の磯崎陽輔首相補佐官であり、高市答弁には安倍首相の意向が反映していることをうかがわせるものでした。
 この辺の経緯は当時から安倍政権の放送(マスコミ)への介入として話題になり、実際、テレビで政権に批判的なスタンスをとっていたキャスターや出演者が徐々に姿を消していきました。「報道の自由」という観点からは由々しき事態でもあったわけですが、テレビ局も正面から批判反論するようなことはなく、なんとなく政権側に「押し切られた」というのが実態です。
 今回の小西議員の追及は、総務省の内部文書をもとに、この間の政権側の動きを明るみに出したもので、これに対して答弁を求められた高市前総務相が、どういうわけか「その文書は捏造だ」と居丈高に反論し、小西議員が「もし本当なら大臣も国会議員も辞めるのか」とただすと、「結構ですよ」と答弁したんですね。
 文書は総務省の行政文書であることが確認されると、今度はそこに書かれている総務省と大臣とのやり取りに関わる文書が「不正確である」と論点をすり替えました。その後の国会質疑は、高市氏の支離滅裂と言ってもいい対応で迷走を始めたので詳しくはふれませんが、自分が総務大臣のときの議論を時系列で整理したメモを「不正確だ」と反論するのも妙だし、それで「捏造文書でないとわかったら大臣も議員も辞める」と言った答弁が覆されるわけでもないのに、なお国会は紛糾、当時の関係者を喚問しようという流れになっているわけです。

B 文書を素直に読めば、政権に批判的な声を「封殺」したい安倍首相の意向を受けて、磯崎補佐官が総務省に圧力をかけようとした、当初総務省や高市総務大臣も躊躇気味だったのが、しだいに官邸側に押されて、大臣の国会答弁につながった経緯は明らかなように思えます。
 それをなぜ高市氏は「捏造だ」などと言って、否定しようとするのか。高市氏は放送法の解釈変更、さらには電波停止の可能性といった強硬発言をしたけれども、それが安倍首相の意向を反映したものであることをどうも認めたくないらしい。その思惑はいろいろ憶測されています。

A 安倍首相に取り入る高市氏の戦略(忖度)だったと思うけれど、いまや彼女を守ってくれるだろう安倍元首相はこの世に存在しません。彼女が安倍首相の何を守ろうとしているのかもよくわかりません。
 一方で、岸田首相が高市大臣を首にすればいいだけだとも思うけれど、それが出来ない。腹立たしい気持ちが収まらないですね。問題がこれだけ長引くのは、政権側の意図ではないかとすら思いたくなります。

B <折々メール閑話⑧日本を深く蝕んでいた「アベノウイルス」>で提起した「アベノウイルス」の腐臭が、今なお自民党を深く覆っているということでしょう。当時も総務省見解としては、放送の政治的公平に対する考えは、「解釈の変更ではなく、これまでの解釈を補充的に説明し、より明確にしたもの」と説明、現在でもその通りだとしているけれど、一連の出来事を通じて実際に起こったことが、放送局の番組をより「規制」するものだったのは確かです。そのころ放送現場では国谷裕子(NHKクローズアップ現代)、古舘伊知郎、古賀茂明(テレビ朝日報道ステーション)など、わりとはっきりものを言っていたキャスターやコメンテイターの降版が相次いでいます。それぞれ理由はついているけれど。

A 高市氏のやけ気味の発言につられて迷走している質疑には、木を見て森を見ず、の感が強いですね。本質的な問題が論議されていない。
 また高市大臣の答弁を見ていると、往生際が悪いというか、まことに見苦しい。こういう人物をのさばらせてきた国民にも責任があると言えますね。

20年前のNHK番組改編事件

B 安倍亡きあとのアベノウイルス罹患者の断末魔、というと言いすぎかな。この事件で思い出すのはもう20年前、安倍政権誕生以前の2001年に起こったNHK番組のシリーズ「戦争をどう裁くか」の第2回、「問われる戦時性暴力」をめぐる番組改編問題です。
 政治家の放送番組介入として大きな話題になり、またさまざまな余波を生んだ出来事ですが、NHKに働きかけた政治家として登場するのが、自民党の中川昭一、安倍晋三の両議員です。当時、中川氏は経済産業相、安倍氏は内閣官房副長官で、2人は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の代表、および事務局長でした。
 当該番組が放送されたのが2001年1月30日で、戦時下の慰安婦問題の政治責任を問う報道姿勢に対して番組制作の過程から右翼からの抗議が行われていたようですが、これが大きな社会問題になったのは4年後の2005年1月12日に朝日新聞に政治家が「番組内容が一方的である」とNHK幹部を呼んで内容を「改変」するよう圧力をかけたという記事が載ったのがきっかけです。その後、NHK幹部や両政治家の反論、それに反論する形でのNHKディレクターの告発会見、取材を受けた側からの「番組が不当に改変された」という提訴など、さまざまな波紋を呼びました。後にこの問題を告発したNHK永田浩三プロデューサーによれば、安倍議員はNHK放送総局長に対して、「ただではすまないぞ。勘ぐれ」と言ったといいます。なかなかドスの利いたセリフです。
 そして結果は、事実はあいまいなまま、最高裁では原告敗訴、朝日新聞が細かい事実の誤りをお詫びするというしりすぼみの結果に終わっています。たしかなことは、NHKがより一層の政権寄り姿勢を強めたことです。
 安倍政権下でメディア規制はいよいよ激しくなったわけですが、2014年と言えば、朝日新聞が慰安婦報道の誤りを認めて謝罪、急速に力を失っていく年でもあります。

A この出来事は、ウィキペディアに「NHK番組改変問題」として、詳しい経過が出ていますね。

B 放送は、公共の電波を使用することで、電波法によってかなりの制約を受けていますが、放送法によってもいくつかの制約が課せられています。
 第1条で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」をうたい、第3条では「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と、放送番組編集の自由を認めていますが、一方で第3条の2①で、「放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」として、以下の4つを上げています。

①公安及び善良な風俗を害しないこと
②政治的に公平であること
③報道は事実をまげないですること
④意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること

 これが一般に「放送番組準則」と呼ばれるもので、その理由としては、放送が有限の資源である電波を独占的に使用することと同時に、その社会的影響力の大きいことが上げられています。この番組編成準則は、放送局の公共性を保つための、あるいは一般視聴者がそれを要求するための盾となってきた面がありますが、他方で、権力が放送内容に介入する口実となってきたわけです。
 そして2014年の事例は、安倍政権のメディア規制をめぐる内幕を暴露するものだということになりますね。

A イギリスの国営放送BBCをめぐり最近、こういう報道がありました。サッカー元イングランド代表主将のゲーリー・リネカー氏が政府批判の発言をしたことで、BBCが同氏を看板サッカー番組の司会者から降版させたところ、視聴者から抗議が殺到したために、BBCは同氏を復帰させると発表したというのですね(2023年3月13日)。この決定には野党の批判や同氏を支持する解説者が番組出演を拒否したといった事情も反映しているようで、同氏は「復帰を非常に誇りに思う」とツイートしたそうです。日本の現状からは考えられない話です。

B 言論の自由(報道の自由)の擁護を目的としたジャーナリストによる非政府組織「国境なき記者団」が毎年発表している世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)の2022年調査では、日本はなんと71位、もちろんG7で最低です。その理由として「記者クラブの存在」や「特定秘密保護法」などを上げているようですが、もっと根源的な理由があると思いますね。
 戦前もマスコミは大政翼賛体制をむしろ積極的に推進する側だったわけで、戦後は占領軍(GHQ)の意向を受けて民主主義的傾向を強めたけれど、その後また、どんどん体制順応的な姿勢になっています。
 山本七平が『「空気」の研究』という本で、日本人には「臨在感的把握」という対象にべったりのめり込んでしまう傾向があり、すべてがその場を覆う「空気」によって決められる、と指摘しています。あのときはそういう空気だったからしょうがなかったと、安易に既成事実に屈服してしまう。それは同時に責任回避にもつながるわけですね。
 問題はその「空気」を醸し出しているものに対する洞察力です。山本七平は戦前の軍部、戦後の公害追及などを俎上に上げていますが、空気は右にも左にも大きく揺れます。
 戦前は第一線の軍人が勝手に(確信犯的に)暴走し、既成事実に弱い上層部がそれを追認、抵抗し難い「空気」に流されるように戦争に突き進んだわけだけれど、安倍政権の政策決定は、政権トップである首相の突撃モードを周囲の人間が忖度するかたちで成立していました。これが安倍政権の「空気」であり、アベノウィルスの培養器です。
 今回の文書はこの間の事情を明るみに出したことに意味がありますね。あいかわらず責任の主体が、個人の中にも、組織にもない。高市大臣はそういう政権の実態を隠したいのかもしれません。そして岸田首相も、安倍政権の手法を踏襲しているわけです。
 したがって、今回の出来事は、番組準則の意味とか「報道・表現の自由」のあり方について議論するいい機会だと思いますが、そういう「空気」はまるでありませんね。およそ瑣末な話に堕しているのが、まことに情けない。
 若者の間で「空気を読む・読まない」が流行語になっているのは皮肉でもありますね。

A 最近の山本太郎の街頭演説の一節を紹介しておきます。

 徹底的に抗う人たち、空気を読まない人たちの数を一人でも多くしなけりゃ、ほんとに地獄みたいな社会が広がっていくだけだと考えて、4年前に旗揚げしたのがれいわ新選組です。バックに宗教もない、企業もない。私のバックはあなたなんですよ。あなたが1人から2人に広げて、3人に広げたという結果、4年で8人の国会議員が生まれた、これって権力側が一番怖がるんです。
 私たちは屋台村なんです。それぞれが引いて行った屋台で公園に集合して、これから海渡ろうぜ、って言ってるんです。自民党が海渡るときは軍艦、野党第一党が渡るときは豪華客船、私たちが渡るときは手作りの筏です。これで太平洋を渡ろうぜ、という無茶苦茶なプランなんですよ。でもあなたの力があればできる、ここまで地獄を深めることができたんだったら、その逆もできる!

B 「山本太郎が日本を救う」。着地ぴったりですね(^o^)。

新サイバー閑話(76)<折々メール閑話>㉕

訪れた春を愛でつつ、つれづれ閑話

A 近くの梅園に行ってみました。春ですねえ。

B 訪れた春に背いて、世の中、暗い話題が多いですね。

A 山本太郎の3月2日の参議院質問を車の中で全身耳と目状態で視聴しました。超絶かっこいい! すでに総理の風格。一方の現総理大臣の、知識も信念も気概もない答弁は惨めの一言です。
 周到に準備し、官僚をこき使い、自論の正しさを証明させるなんて、まさに水際立った質問で、共産党の小池書記局長も霞んでしまうほどです。国の存立の根幹に係わる防衛問題から説き起こし、官僚が国連の敵国条項は死文化していると無駄な抵抗をするのを粉砕、最後は現政権が国民のための経済政策をまったくやってないことを明らかにして、退陣を迫りました。「自民党政権は退陣以外にない、骨のない野党の経済政策に超絶積極財政をビルトインさせて政権交代、日本経済を復活させるのは私たちれいわです」。

B 大石あき子、櫛渕万里も2月28日の衆議院本会議で予算案に反対して牛歩戦術をとりました。れいわの本気度というものが、国民の間に徐々に浸透していくといいですね。
 もう一つ、山本太郎の発言で感心したのがあります。沼津おしゃべり会で、かつてれいわに期待したけれど、いまは離れていっている人もいるという聴衆の質問(叱責)に対して、「政治は自動販売機のボタンを押したら出てくるような『消費する』ものではない。ある程度、いっしょに伴奏してもらわないと」と答えながら、最後にこう言いました。

去る人は追わない、けれども、どうせならいっしょにやろうよ。そういう気持ちなんですよ。だって、(世の中)変えられるもん、かなうかどうかわからないけど、絶対やってやるからなって、気概を持ってみんな集まってんですよ。議員になる人も、候補者になる人も、支援者も。私たちは皆さんの期待に応えられるように、ない頭絞りながら頑張っていく、全力でやる、これは約束する。しかし、やっぱり(みんなに)育ててもらわなあかん、もっと強いれいわに、もっと強い山本太郎にしてもらうためには、みなさんも山本太郎もいっしょに成長していきながら前に進んでいくしかない、そう思っています。

 まだ出来たてで〝不完全〟なれいわを完成品として「チェック」するのではなく、ともに伴走してほしい、そしてみんなで成長していこうではないか、という訴えですね。最後には聴衆から拍手も起こりました。

A 別件でウィキペディアを見ているとき、半藤一利さんに関する以下の記述を見つけました。

日本近代史の歴史観において、「40年史観」を提唱している。その主張は、明治以降の日本は40年ごとに興廃を繰り返しており、明治政府樹立から40年後である日露戦争で軍事大国化し、その40年後の第二次世界大戦で大敗し、さらに40年後にはバブル期の経済的絶頂をむかえ、バブル崩壊後の40年後には再び没落するという予測。その理由として、戦争による悲惨さを経験した世代が入れ替わる期間が40年ほどであるためとしている 。

 まことに説得力のある史観かと。後藤田正晴はもちろん、田中角栄も戦争経験者が居なくなった時の政治を危惧していました。

B 半藤一利は昭和史研究家で「歴史探偵」を自認していた人ですね。出典は彼の著書、『歴史に「何を」学ぶのか』(ちくまプリマ―新書、2017)でした。以下のようになりますか。

1865 幕藩体制崩壊(⤴)
1905 日露戦争勝利(⤵)
1945 敗戦(⤴)
1985 高度成長、Japan as No1(⤵)
2025 ?

 上昇の頂点は下降の始まりであり、完全崩壊が上昇の契機にもなっています。さて2025年に底を迎えるとして、その後に上昇に転ずる可能性はどのくらいあるのか、ということですね。

A 現下の状況には悲観的にならざるを得ません。菅義偉は、言うにこと欠いて、自分は戦後生まれだから沖縄の歴史は知らないとうそぶく。老害連中は当の戦争経験者なのに、まるで知らん顔、私利私欲のみで国民のことなど眼中にない。

B たしかに現下の日本は没落に向っている気がします。日露戦争当時、夏目漱石は『三四郎』で広田先生に「日本は滅びるよ」と言わせたわけだけれど、このセリフが生々しく響きます。
 半藤一利は2年前(2021年)に惜しくも亡くなりましたが、この本を書いたのが87歳の時です。我々もいい歳になってはいるが、残された時間はまだ少しはあるということでもありますね。「日残リテ暮ルルに未ダ遠シ」と言えるかどうかはともかく。
 最近、新聞社の同期で「戦後民主主義の申し子」を自認していた親友の硬骨漢が亡くなりました。長生きとは親しき人を失う悲哀に耐えることである、と痛感した次第です。
 彼は<サイバー燈台>を熱心に読んでくれていた読者でもあり、比較的最近もらったメールには、「れいわ新選組への肩入れには驚かされました。その裏にある思いを推察しました。『ASAHIパソコン』創刊からその後の奮闘ぶりももちろん、読んでいます。‣‣‣『明るい闇』には共感したので、仲間のMLでも紹介しました」などと書いてくれていました。「明るい闇」というのは、<折々メール閑話>への言及です。

A 『三屋清左衛門残日録』の最終章を思い出しますねえ。

衰えて死がおとずれるそのときは、おのれを生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終わればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ。

 もっとも藤沢周平さんは、この文章に照れを感じていたみたいです。気負い込み過ぎたという意味の言葉を何かで述べられていた記憶があります。そこがまた藤沢周平らしい。

B 『藤沢周平全集』もお持ちの藤沢ファンなんですよね。『三屋清左衛門残日録』のそのくだりは僕の印象にも強く残りました。

A 作家の藤沢周平、哲学者の池田晶子、俳優の高倉健、これさえあれば、生きていけます(^o^)。

B 貴兄の「三種の神器」にまつわる話はいずれ聞くこともあろうかと思います。僕はインドの哲人、政治家のガンジーの次の言葉をモットーとしています。
 Live as if you were to die tomorrow, learn as if you were to live forever(明日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい)

A テレビはまったく見ないので、成田悠輔とかいうイエール大学の若手経済学者がテレビで「日本の難題を解決するには高齢者が集団自決するしかないのでは」などと語ったのは知らなかったのだけれど、たまたまネットで「切腹はファッションだと思う」と発言していることを知り、怒り心頭です! しかも武士道に造詣が深いとの注釈付き。

B 成田某の発言は大いに問題だし、老人としての怒りも感じるけれど、このような過激発言の裏には日本の政界、財界、いや社会全体を覆う老人の「不当な居座り」に対する怒りがあるのは確かですね。
 ミャンマー国軍から名誉称号と勲章を贈られて喜んでいる自民党の麻生太郎副総裁など典型です。いっしょに勲章をもらった日本ミャンマー協会の渡辺英央会長も元郵政相で、授与式に出席し「ミャンマー発展と国軍の地位のために努力する」と述べたと報じられています。日本政府はクーデター後、公的には、民主的な政治体制への復帰を求め、国軍支配を認めていないのに、それを完全に反故にすることが一方で、平気で行われているわけです。
 岸田首相にしても、このところ安保法制の重要な変更を閣議決定したり、原発再稼働へ強引に舵を切ったりしながら、国会ではほとんど何の説明もしていない。表面的には安倍元首相のような強引さを見せないけれど、実際は、それ以上とも言える問答無用ぶりです。
 若い人から見ると、老人の跋扈する現代日本の政治、社会のしくみは許せないと思いますよ。大企業でも年長者は年功序列の残滓にすがりついて、けっこう高給を取っているわけで、若い人は非正規雇用を強いられている。しかも、そういう実態について何の説明も、対策もないわけです。今や組合も同じ構造の中にあります。
 そのあおりが若者の怒りとなって、その刃が〝善良〟なる我々に及んできているとも言えますね。若い人も選挙で投票するなり、若い人の代表を立てたりすればいいと思うけれど‣‣‣。

A 岸田首相は異次元の少子化対策などと言葉遊びばかりしているけれど、何を今ごろ寝ぼけたことを言っているのか! 30年続くデフレ、そこへコロナがやってきて物価高。親友に日本共産党三重県南部委員会の幹部がいますが、彼のところへ来る生活苦を訴える相談は、このところ倍増しているそうです。明日食べるものが無いという悲痛な叫びまで。この現状を知りもしないで、異次元の少子化対策などクソくらえですね。
 2022年の出生数が初めて80万人を切ったというニュースもありました。金をやるから子どもを産めという発想は、人間を労働力としてしか見ていないということ。そんな国は滅びてしまえ!と思ったりしますねえ。根本的なところで何かが欠けている。仁義礼智信は今いずこです。

B 友人に聞いたのだが、その人の知り合いで退職後はコミュニティとしての喫茶店を経営している人が、岸田首相がやけに力を入れている5月の広島サミットに向けて、1つの提案をしているようです。

<提案:5 月 19 日から 21 日にかけて広島で開かれる G7 サミットの議長とし て、岸田文雄首相が、プーチン・ロシア大統領、習近平・中国国家主席、金正恩・朝鮮労働党総書記の3人も招待することを求める>

 仲間内にメールを送り、賛同者には拡散を依頼している程度のようで、提案を公開したウエブはありません。荒唐無稽な話を外交の場に持ち出すべきではないと反論する人もいるし、当の本人の思惑はよくわからないところもありますが、おとぎ話的なアイデアとしては、ちょっと意表を突く斬新なところがありますね。それぐらいのことを頭の隅ででも考えるような日本の首相であってほしいという願いも感じます。

A おもしろい提案ですね。

B 世界はいま地震、火山爆発、集中豪雨による河川の氾濫、洪水、それとは真逆の干ばつ、と気候変動による災害のニュースであふれています。半藤説による2025年の日本の没落は政治、経済などの人的要素によるのか、あるいは大地震襲来、富士山爆発といった天変地異によるのか、それはわからないけれど、それにも関わらず、未来に向けての希望をもちたい。そのために、我々としては山本太郎およびれいわ新選組に賭けたい気持ちが強いということですね。
 安倍政権以降、日本は満州事変を契機に太平洋戦争へと突き進んでいった昭和10年代の空気に非常に近づいていますね。いま何が起こっているのか、これを丁寧に記録しておくことは、本<折々メール閑話>の役割だと言えるかも。

A タモリが「新しい戦前」と言ったのは、そのことでしょうね。なかなかセンスがいいと感心しました。

新サイバー閑話(75)<折々メール閑話>㉔

『山本太郎が日本を救う』に込めた思い

B <折々メール閑話>の内容を一冊にまとめて『山本太郎が日本を救う』を刊行してから1か月近くになりました。その間、友人知人やメディア関係者、われわれが言及してきた識者の方々に何部か送本しましたが、知人以外はほとんど何の反応もありません。山本太郎やれいわ新選組も含めて。
 これはなぜでしょうね。友人のジャーナリストから「山本太郎べったりのところが、癒着(プロパガンダ)の疑いを生む」と言われて、なるほど、妙な政治文書と見られて敬遠されているのかもしれないとも思いました。

A 反応がないのは、1つにはれいわファンなら誰でも知っている街宣の文字起こしに過ぎないととらえられているのかな?と。もう1つは、我々の往復メールには何ら政治的背景はなく、山本太郎を応援したいという純粋な思いに充ちているだけなのだが、そうは受け取ってもらえないのか、それともそんなゴタクは読みたくもないのか?
 手紙を添えたり、メールで案内したりして送本した人からも何の反応もないのは、皆さんお忙しいのかなと思ったりしますが、返信がないので追っかけメールを出したりしている小生としては、憮然たる感もありますね。『山本太郎が日本を救う』というタイトルは秀逸だと思いましたが‣‣‣。

B タイトルも大げさすぎると言われました。「特定の政治家への全面的な信頼と期待は、現状への失望と期待から来る一種の幻想にすぎず、危うい」とも書いてありました。なるほどジャーナリストの慧眼です。だけど、我々はれいわべったりというわけではなく、あくまで是々非々、あれは一種の酔人問答的な作品でしかない。そんなわけで、あの本出版の企図について、ここで説明しておこうと思います。これを「あとがき」に書くべきだったかもしれないと、後智慧で思いました。
 論旨は、3つあります。

①これは非政治的な市井の老人2人の、昔ふうに言えば、床屋談義ふうの放談で、とくに政治的な背景はない。日本の将来を考えて山本太郎に声援を送ると同時に、彼のことをもっと多くの人に知ってもらいたいという願いを込めた山本太郎応援集である。いわばロートル〝勝手連〟の小品であり、本でもふれているように、山本太郎ファンの努力の結晶(コラボレーション)でもある。『山本太郎が日本を救う』という大げさなタイトルはその気持ちを素直に表明したものと受け取ってもらいたい。
②取り上げた情報はメディアを通じた間接的なもので、インターネット、とくにユーチューブの情報に多くを負っている。とくにPARTⅠがそうで、我々が直接山本太郎に会いインタビューしたものではない。事前に何らかの接触をしたわけでもない。インターネット上の情報を取捨選択したところに編集の冴えがあると考えており、そういう意味ではインターネットの情報は使い方によってはきわめて有効だと言える。それを証明する試みが本書と受け取っていただけるとありがたい。
③この本はネクパブオーサーズプレスというサービスを使って、原稿執筆、レイアウトをすべて個人で行った。販路はアマゾンとごく一部の書店(神田の三省堂本店など)に限定されているが、取次経由でなくても店頭に置いてくれる書店では販売できるように図書コード(ISBN)も取得し、表示している。記事はすでに電子情報としてサイバー燈台で掲載したものだが、それをあらためて本という紙のメディアとして出版したことに意味があると考えている。電子のメディアと紙のメディアとは違うわけで、このメディアの両方の長所を生かした出版活動(メディアミックス)は、矢野が30年ほど前に創刊したインターネット情報誌『DOORS』以来の試みであり、本書の編者がサイバーリテラシー研究所となっているところにその意図が表明されている。

 山本太郎としても、この本を送られてきても、どう対応していいかわからなかったということはあると思いますね。れいわファンにとっては新味がなく、若い人にとっては古臭いゴタクを並べてあるだけで面白くないというのはわかります。だから、あくまで高齢者向き、れいわの存在は気にしているがよくは知らない人向けのガイドブックみたいなものだけれど、肝心のそういう人たちに届く可能性はきわめて低いというジレンマもあるかも。

A 話は変わりますが、日曜日に本屋で雑誌『月刊日本』と適菜収『それでもバカとは戦え』を購入しました。適菜さんは以前からファンです。
 その2冊の本の中で、なるほどと思う箇所がありました。1つは、『月刊日本』での政治家、山崎拓さんの言葉、「日本が再び国力を取り戻すには、見識と実行力のあるリーダーが不可欠です。そういう政治家が現れるかどうか、日本の将来はそこに懸っていると思います」。もう1つは、適菜さんの言葉、「国が危機にさらされた時、政治家は体を張らねばならない。それには危険が伴う。しかしその大義を忘れ、自分の次の選挙のことしか考えられないのなら、今度こそ国民から完全に見放されるだろう」。
 まさにその期待される政治家こそが山本太郎!と思いました。

B 『月刊日本』は保守系の雑誌だと思うけれど、適菜さんや白井聡さんも寄稿しているスタンスの広い雑誌ですね。適菜収は僕も一時期、けっこう読みました。『平成を愚民の時代にした30人のバカ』なんてタイトルの本もありますね。ニーチェ崇拝者のようです。安倍元首相批判として「ああいう立ち居振る舞いを見ていると、やはりひと前には出してはいけない人だったのだなと思います。冷静でまともな議論ができない。総理の器ではありません」などと書いてあり、「問題は安倍個人より今の世の中に蔓延る『安倍的なもの』である。安倍を引きずり下ろしたところで、社会が病んでいれば、この先も同じようなものが持ち上げられるだけだ」とも言っていました。
 たしかに安倍以後の菅、岸田政権を見ていると、野党も含めて、そう感じますね。もっとも、彼は「選挙には行きません」と公言しています。野党に入れても同じだと思っているからでしょうが、我々としては、ちょっと残念なところですね(^o^)。

A 例のれいわのローテーション問題は依然として賛否さまざまなようですが、AERA dot.に長谷川うい子さんのインタビュー記事が掲載されています。
 彼女の話だと、昨年暮れにZoom会議で今回のローテーションの対象となる5人が招集され、山本代表からローテーションの話を始めて聞いたようです。「山本代表は『水道橋博士から議員を辞任する意向を聞いた。もし、そうなった場合はローテーション制の導入を考えている』と説明されました。「突然のことだったので、みんな顔を見合わせながら驚いていました。ただ、私はかつてドイツの緑の党でローテーション制が採用されたことは以前から知っていましたので、これは面白い試みだと思いました」と言っています。「会議では『それでいいんじゃないか』という意見が多数でした。大島さんは本来なら5年の任期があったわけですから、いささか疑問があったかもしれません。ですが、度量の広いことに『比例代表は党の議席だから』と受け入れておられました」とも語っています。
 彼女は「私たちは、選挙制度にも一石を投じたい。ローテーション制もやってみなければわかりません。参院選は非拘束名簿式になりましたが、はたしてそれがいい選挙制度なのかという問いかけにもなると思います」とも冷静に述べていました。

B 前回、奇策の考案者は山本太郎本人ではないかと述べていますが、ブレーンの存在はともかく、どうもそうらしいですね。

A 大島さんは立派です。さっそく参院で質問している姿をテレビで見て、拍手を送りました。

B 岸田首相の右旋回というか、変質はまことに急ですね。適菜さんではないけれど、いよいよ末期的になってきた印象です。去年、惜しくも世を去った名コラムニストの小田嶋隆さんは、駆け出しのころからよく知っていて、その才能を高く評価していたのだけれど(彼については、<平成とITと私④ムック『ASAHIパソコン・シリーズの刊行』㊤>で出会いのきっかけなどを回想している)、彼が2011年から2020年に至る10年間にツイッターでしゃべったものを別の人が編集した『災間の唄』(サイゾー、2020)という本があります。
 その切り口、包丁さばき、まさに一流の職人の腕で、その中に「自分の頭で考えてものを言う人は、周囲の顔色を読んで発言する人間と比べて、浮いた言葉を発する確率が高い。でも、世の中が混乱しているとき、指針となるのはそういう人の言葉なのだと思う♦狂った時代において、空気を読んで発言する常識人の言葉は、圧力しかもたらさない。狂った時代を打開できるのは、自分の頭で考えて発信する狂った人間の言葉だけだ(2015.6.17)というのがあります。
 これも同趣旨の発言ですね。歴史家、アーノルド・トインビーではないけれど、日本文明は明らかに衰退期にさしかかっていると思います。衰退期特有の特徴が各所に現れている。他のアジア諸国に先駆けて、脱亜入欧とばかりに近代化に成功、戦後も高度経済成長に乗ってジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたこともあるけれど、いまは他のアジア諸国が躍進し、西洋文明に代わる東洋文明の時代がやってくるとさえ言われているときに、日本だけが衰退していくというのはまことに皮肉です。
 だからこそ、その再生を山本太郎に賭けたい、というのがロートル勝手連の応援席からの願いということになりますね。『山本太郎が日本を救う』は未熟な自己満足の本かもしれないけれど、我々の初心としては、それでいいわけでもあります。本書でも引用したガンジーの言葉があらためて頭に浮かびますが、今後も言いたいことを言っていきましょう(^o^)。