新サイバー閑話(36)<よろずやっかい>③

情報発信が金になるやっかい

 情報発信が金になるのがなぜやっかいなのだろうか。

 情報社会を成り立たせているのは商品としての情報と言ってもいい。情報を提供することで対価を得ること自体はふつうに行われてきた。新聞もそうだし、テレビもそう、出版活動も例外ではない。新聞はニュースを提供することで購読料を得、その大部数ゆえの広告収入も得てきた。テレビは企業からの広告料だけで成り立っている。そして作家たちはベストセラーを書けば、膨大な印税を得ることができた。

 だから普通の人がインターネットで情報を発信して、対価を得たとしても、それ自体は従来となんら変わらない。だれもが情報発信できる道具を得て、才覚のある人が、テレビ会社や出版社という既存のメディア産業と縁のないところで、ユニークな動画を配信したり、おもしろいブログを書いたりして、金を稼いでどこが悪いのか。悪いことなどあるわけがない、はずである。

・ケータイ小説・ユーチューバー・ピコ太郎

 2007年前後にケータイ小説ブームがあった。ケータイの投稿サイトで書きつけた若者の小説が人気になり、それを出版する業者が現れた。そのなかの『恋空』(美嘉、2006、スターツ出版)などは上下2冊で200万部を売り、映画にもなった。だれもが作家になれる時代が来たと言えなくもない。

 動画投稿サイトのユーチューブで人気の動画をアップすると、閲覧回数に応じて相応の収入を得ることができる。基準は1再生=0.1円とも言われ、ユーチューブの動画収入だけで生活する「ユーチューバー」が話題になったのも、もう「昔」のことである。月2000万円以上、年にすると1億円以上稼いでいる人もいるらしい。動画の再生回数を見ると、何万回、何千万回というのがけっこうあるから、塵も積もれば山となる計算だ。そのほかに自分のブログや動画に添付された広告収入も入る。

 サイバー燈台の<いまIT社会で>では、「ペンパイナッポーアッポーペン」(PPAP)という動画で世界的ブームを起こしたピコ太郎を紹介しているが、ある時点での再生回数は9467万回だった。彼の場合は、あっという間に人気者となり、テレビ出演や関連グッズ販売などの収入も大きかった。制作費10万円以下の動画で、1億円以上は雄に稼いだはずである。人気アーチストのジャスティン・ビーバーのように、ユーチューバーからメジャーに躍り出た人もいる。

 広告王手の電通が毎年2月に発表している「日本の広告費」によると、2018年は、毎年増え続けているインターネット広告が1兆7589億円で、テレビとほぼ拮抗するまでになった。既存マスコミ4媒体の中のラジオ、雑誌を抜き、ついで新聞を抜き、いまやテレビも凌駕する趨勢である。この広告費がクリック連動型広告などによって情報発信する個人にも配分されているのだが、これが「やっかい」な問題を生んでいる。

・広告のために事実をあっさり曲げる

 前回、匿名発言に関連して、2つの事例を紹介したけれど、両者には大きな違いがある。最初の例では、発信者は他人の発言を信じ、うっぷん晴らしに、それに輪をかけた激しい書き込みをしていた。それだけと言えば、それだけである。後者の場合には金がからんでいた。摘発された3人は警察の調べに対して、「広告収入を得るためだった」、「ブログを読んでほしかった」と述べたのである。

 ブログのアクセス数を高めることで、広告収入を稼いだり、ブログ運営者からの見返り収入を期待したりする背景がここに示されている。多くの人に読んでもらおうとすれば、事実よりも話題性に関心が向かう。だから週刊誌の記事では匿名だった人物を勝手に西田敏行と断定したように、どうしても表現は過剰になり、極端な場合、嘘でもいい。フェイクニュースが頻発する原因はこういう事情にもよる。

 既存雑誌などのイエロージャーナリズムとの境界をどこで引くかという問題はあるけれど、出版社やテレビ会社が社(組織)の責任において情報をコントロールしようとするのと、何もチェックする者がない個人との間ではどうしても差が出る。新聞で1本の記事が掲載されるまでには、筆者、デスク、整理部、校閲部など多くの人の目が通っており、それなりに正確さや文章などがチェックされている。

 今回も2つの事例を上げよう。

 2016年のアメリカ大統領選挙の際、ヨーロッパの小国マケドニアで10代の少年がつくったサイトが話題になった。彼がトランプ大統領に関するいい加減な記事を自分のウェブにアップしてフェイスブックにリンクを張ったら、思いのほかの反響があり、グーグルのオンライン広告でいくらかの収入も得た。これに味を占めた少年はサイトの名前もそれらしいものにして、トランプ支援の右派サイトから適当に記事をカットアンドペースト(コピペ)するようになる。大統領選が過熱していた16年8月から11月の4カ月間で、マケドニアの平均月収の40倍以上、16000ドルの収入を得たという。

 実情をルポした記事によれば、彼は「トランプが勝とうとクリントンが勝とうと興味はなかった。ただ車、時計、スマートフォンを買うお金やバーの飲み代がほしかった」と述べている。他国の話だから当然とも言えるが、それではなぜトランプ支援を選んだのか。そちらの方がアクセス数を稼げた、すなわち金になったからである。コピペする材料には事欠かなかったから、英語の能力が貧弱でも支障はなかったのだとか。

 次は国内、キュレーションサイトをめぐる事件である。

 ここでキュレーションサイト(まとめサイト)というのは、医術、健康、ファッションといったジャンルごとにインターネット上にあふれている情報を適当にまとめて読者の便宜をはかろうとするサイトで、2016年にDeNAが閉鎖した10サイトの実態を見ると、インターネット上で書くことがいかに事実、あるいは真実とかけ離れた行為だったかがよくわかる。

 記事の眼目は読者に正しい情報を届けるところにはなく、インターネット上の情報を適宜つなぎあわせた記事を量産して検索エンジンの上位に表示させ、そのことで莫大な広告料を稼ぐことだった。

 紙の新聞などでは記事と広告は分離されており、あくまで記事が中心、広告はサブ的扱いだけれど、インターネットでは当初から記事と広告は同居していた。キュレーションサイトはそれをさらに推し進め、記事は広告を集めるための手段にすぎず、だから情報の真偽はほとんど問題にされなかった。

 記事の多くを書いたフリーライターは、「知識のない人でもできる仕事です」としてクラウドソーシング(インターネットを通した求人)を通じて集められた。彼らは取材するよりもインターネット上の情報を適当に張り合わせることに専念、原稿料は異常なほど安く、比較的単価の高い医療系でも1文字当たり0.5円程度だったという。まるで記事を大量生産するブロイラー工場のようで、誤りも散見されたし、著作権侵害も頻発していた。それでも〝頑張る〟ライターの中には月収30万円という人もいたらしい。

 ここでは、かつてメディアというものが漠然とではあるが持っていた「正しい事実を伝える」といった姿勢そのものが消えている。それまでいわゆる「メディア産業」とは縁のなかったインターネット・ベンチャー大手、DeNAは、これら広告本位のサイトを有望事業と考えて大金を投じて買収、運営していた。個人のみならず、IT企業そのものも、インターネット上の情報が陥りやすい危険を体現していたことになる。

・「書く」という行為の変遷

 ネットの大半がどのような情報で占められているかは、たとえば中川淳一郎『ネットは基本、クソメディア』(2017、角川新書)に具体的事例をあげて紹介されている。

 ちょっと対象が限定されるけれど、彼によると、それほど知られていない某芸能人ってどういう人なのか、グーグルで検索すると、まず出てくるのが公式サイト、公式ブログというPRページであり、ついでウィキペディア、最近のニュースの順になる。そのあとにずらりと出てくるのが、彼が「勝手サイト」と名づける「『とにかく人々の興味を持ちそうなネタを網羅し、検索上位に表示させよう』といった意図を持ったサイト群」である。

 要は金稼ぎが目的で、従来の記事づくりが「足で稼ぐ」ものだったとすれば、これはインターネット上の情報をコピペするだけの「コタツ」記事だと彼は言っている。こうしてコピペ転がしの類似情報が氾濫する(中川の初期の著作は『ウェブはバカと暇人のもの』という直截的なものだった)。

 一時「ブログの女王」と言われたタレントの眞鍋かをりが「眞鍋かをりのココだけの話」というブログを始めたのが2004年、有吉弘行のツイッターフォロワー数が孫正義を抜いて日本1位になったのが2012年である。タレント、芸能人がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム、あるいはサービス)を使っていっせいに情報発信を始め、それへの応答が増えたことが、ネットの風景をだいぶ変えたのも確かなようだ。

 かつて清水幾太郎は「書く」という行為について、以下のように語っていた(清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書)。

読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことである。書こうと身構えたとき、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことができる。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。対象と精神とがそれぞれの深いところで触れ合う。書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある。

 ケータイやスマートフォンの書き込みは、書き言葉ではなく話し言葉で、文章は短く、断片的、断定的になりがちである。その極限が絵文字で、隠語めいたものもある。書くという行為の内実がずいぶん変わってきたわけで、こういうやりかたでコミュニケーションしていれば、思考方法もまた変わってくるだろう。そこに安易に金が稼げるという事情が覆いかぶさり、表現をめぐる状況自体が大きく変わってきた。

 フェイクニュースが量産されるのもやっかいだが、美しい文章への心配りが失われていくのもまたやっかいである。昔は一定年齢になると、『文章読本』などで書き方を学んだものだが、今はそういう教育はどうなっているのだろうか。

 これはたしかに、やっかい

新サイバー閑話(35)<よろずやっかい>②

「1人1票」のやっかい

 1人1票というのは選挙の基本である。男も女も、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、賢者も愚者も、すべての人に平等に1票が与えられる。これは民主主義の前提でもある。

 インターネットのおかげですべての人が自ら情報発信できるようになった。それ以前は、日本人の多くが年賀状ぐらいしか文章を書かず、自分の意見は新聞に投書するしかなかったことを考えると、画期的変化である。老人や子どもなどの例外はあるとはいえ、すべての人が情報発信できるということは、インターネット上(サイバー空間)でも「1人1票」が保証されるわけで、これはめでたいことである。

 いや、めでたいはずだった、というべきだろう。これまでの社会システムの不備やコミュニケーション不足をインターネットが是正してくれるだろうという多くの人の期待は、たしかに飛躍的にかなえられたが、その背後で新たな「やっかい」な問題を生んでいる。

 めでたさも中ぐらいなりインターネット

 「1人1票」のやっかいは、端的に言えば、考え抜かれた責任ある言論と無責任な付和雷同型意見、さらにはためにする書き込みや虚偽情報(フェイクニュースなど)の間の区別がつかない、あるいはつきにくいことに由来する。

・匿名発言に意義を見出す試み

 問題はやはり、インターネットの匿名性(ハンドル、仮名を含む)にある。

 かつて1990年代初頭、まだパソコン通信の時代に、ネットでの匿名発言に高い意味を認めようとした試みがあった。場所はニフティの「現代思想」フォーラムで、参加者の討議を経て作られ、フォーラムで公開された議論のためのルール(えふしそのルール)は、きわめて格調高いものだった。

 議論の原則は「自由に発言し、議論し、そしてその責任を個々の会員が自己責任として担う」ものとされ、発言はハンドルという愛称のもとに行われた。本名は名乗らない匿名主義を採用した理由は、「どこの誰の発言であるか」ではなく、「いかなる発言であるか」が重要だと考えられ、「議論内容を離れて、発言者の性別・門地・社会的身分等々を畏れたり侮(あなど)ったりする態度は、思想と最も遠いもの」とされたからである (ニフティ訴訟を考える会『反論』2000、光芒社)。

 匿名だからこそ、現実世界の権威などから離れた真摯な議論が可能だとする考えは、いま思うと、目がくらくらするほどの真摯さである。だが、このフォーラムの議論が名誉棄損訴訟に発展した経緯を見ても、その意図は当初から波乱含みだったし、パソコン通信というなかば閉じられた言語空間だからこそ実現可能な試みだったとも言える。理屈の上ではグローバルに展開するインターネット上で、このような思いで匿名発言する人は、少なくとも日本では、ほとんどいないだろう。

 もう一つ、インターネット初期には、匿名による発言に積極的な意味を認めようとする意見もあった。匿名だからこそ、現実世界のしがらみの中で抑えられがちな社会の底に鬱屈した意見をすくい出してくれるのだ、と(森岡正博『意識通信』1993、筑摩書房)。

 しかし現実は、面と向かっては言えない心の叫びが浮き彫りにされるのとはけた違いの規模で、匿名情報の毒があふれ、社会が窒息しかねない状況にある。

・無責任な匿名発言の氾濫

 ネットの匿名発言は、自分は安全な場所に身を隠して他人を攻撃するために使われることが多い。とりあえず、2つの事件を上げよう。

 2009年2月、お笑いタレントKさんのブログに「殺す」などと書き込んでいた女性会社員(29)ら19人が脅迫や名誉棄損の疑いで警察に摘発された。彼らは20年も前に起きた都内の女子高生コンクリート詰め殺人事件にKさんが関与したと決めつけて、インターネットの掲示板やKさんのブログに「人殺し」、「犯人のくせに」などと悪質な中傷記事を書き込んでいた。地域も年齢もさまざまな人びとで、半数近くは30代後半の男性だったが、女性も含まれていた。

 書き込みは「××(芸名を名指し)、許さねぇ、家族全員、同じ目に遭わす」、「××鬼畜は殺します」といった過激なもので、23歳の女性のものは、「てめーは いい死に方しねーよ 普通に死ねても 確実に地獄行き 一人の女を無惨に殺しておいて、てめーは行きつけのキャバクラかスナックで人殺しの自慢してたんだよな てめー人間としてどうなんだよ 人殺しを自慢してそれで何になんの? おしえろや おまえ狙ってんのたくさんいるぜ」という凄まじいものだった。

 身元がわかると思っていなかった彼女は警察の調べにびっくり仰天、「掲示板の書き込みを本気で信じてしまい、人殺しが許せなかった」と話し、さらに追及されると、「妊娠中の不安からやった」と供述した。摘発された19人は氷山の一角で、多くの同じような書き込みがKさんを恐怖に陥れたのである(矢野直明『IT社会事件簿』2013、ディスカヴァー21)。

 2017年には俳優の西田敏行さんが覚せい剤で近く逮捕されるという偽情報を流していた3人の立派な大人(40代から60代の男女)が、偽計業務妨害の容疑で書類送検されている。彼らは週刊誌記事の匿名容疑者を勝手に西田敏行と断定して、自分たちのブログに書き込んでいた。

 警察がこの種の事件を捜査、摘発すること自体がきわめて珍しいわけで、インターネット上にはこのような無責任な発言があふれている。もちろん顕名、あるいは匿名で、専門研究や趣味の分野で中身の濃い情報がアップされており、それが有益な役割を果たしているのも確かである。考えるべきなのは、匿名による無責任な発言の数の多さである。

・見ないですませるのは無理

 部屋が汚れているのが気になって仕方がないと悩む潔癖症の女性に高僧が「ゴミなど見なければいいのだ」と言ったという話があるが、サイバー空間では、見ないでいようとしても、あるテーマに沿った意見集約ということになると、それらのデマ情報も、付和雷同的な意見も、考え抜かれた専門家の意見も、一つのデータとして、1票は1票として集計されがちである。

 それらの意見の格付けをすることは難しいし、そういうことをやろうとすれば、その基準をめぐってより深刻な事態が発生するだろう。というわけで、暇な人に金を払って賛成、あるいは反対意見をどんどん投稿してもらおうとする人が出てくるし、それが技術の力で量産されたりもする。いろんなIDを作って「1人何票」の人もいるし、他人に成りすましている人もいる。そういうメカニズムの増幅作用で、これまでなら社会の片隅に潜んでいた極端な意見が主流に引き出され、大きな力になって社会を動かす。見ないですませておくのも無理なのである。

 行方昭夫『英文翻訳術』(DHC)の暗記用例文集に’That all men are equal is a proposition to which, at ordinary times, no sane human being has ever being given his assent’というのがあった。訳はこうである。「ひとはみな平等だという命題は、普通は、まともな人なら誰一人認めたことのないものです」。

 人間はみんな平等であるというのは、フランス革命の人権宣言でも、アメリカ独立宣言でも、日本国憲法においても、高らかに宣言されている。一方で、この例文にあるように、建て前や原則はそうであり、それは尊重すべきものではあるにしても、個々の人びとを見た場合、やはりすべて平等というわけはないという実感、というか暗黙の了解もまた多くの人が認めるところであろう。

 言葉の背後にある、曰く言いがたい暗黙の了解(含意)が社会を円滑に動かす妙薬というか潤滑油、英国風に言えば、コモンセンスだった。碩学や専門家の意見には一目置く。自分も勉強して一歩でも尊敬する人に近づく努力をする。立派な人が醸し出すオーラに接して、見習いたいと思う……。これは現実世界にただようエトスであり、明文化されてはいないものの、それなりに規範として機能していた。

 この妙薬、潤滑油がヒエラルキー秩序のないフラットな世界ではなかなか働かない。考え抜かれた碩学の言であろうと、専門知識に基づいた深い理解であろうと、自分では何も考えず、他人に付和雷同して叫んでいる書き込みであろうと、「1票の価値」は変わらない。顕名であろうと、匿名であろうと、1票は1票である。そして機械的に集計される時、そのデータ(票数)のみが大きな意味を持つ。

 情報の質的変化も見逃せない。「電子の文化」では、言葉に表せない意味やニュアンスは「文字の文化」(活字の文化)以上にこぼれ落ちていく。2019年のノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんがインタビューで「なまじネット社会になったことで、表面的な情報はみんなが共有しているけど、肝心な情報は意外とつかめていない。『世間ではこう言われているけど、実はこうなんだよ』というような情報を得られていない」と言ったあとで、「情報を出す側は差し障りのない情報は出すけれど、ひそかに自分で考えているアイデアなんて、絶対に出さないですよね。もし出すとしたら、夜の席でワインを傾けながらでしょう」とつけ加えているのは、この辺の機微を指しているだろう(朝日新聞 2019.12.4 朝刊)。肉体的コミュニケーションの重みである。

現代の特徴は、凡俗な人間が、自分は凡俗であることを知りながら、完全と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。

 100年近く前、スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが勃興する「大衆」を前に語った言葉である (『大衆の反逆』、1930、桑名一博訳、白水社)。これをそのままインターネット上の匿名発言に適用するつもりはないけれど、かつての哲学者が恐れた事態がサイバー空間上でより先鋭に現出しているのはたしかではないだろうか。

なにはともあれ、これぞ、やっかい

 これからインターネットにまつわるやっかいな現象をとりあげていく。やっかいとは厄介と書き、『広辞苑』によれば、もともとは「①他家に食客になっていること」を指すが(たとえば「厄介になる」というふうに)、ここでは、もっと一般的な「④面倒なこと。手数のかかること。迷惑なこと」くらいの意味で使っている。

 2002年に本サイトに掲げた「サイバーリテラシーの提唱」は今でもそのまま通用するし、サイバー空間のアーキテクチャーとしての「サイバーリテラシー3原則」もまた変更の必要を認めない。

サイバー空間には制約がない
サイバー空間は忘れない
サイバー空間は「個」をあぶり出す

 当初喧伝されたインターネットの長所はWeb2.0を通じて飛躍的発達を遂げ、私たちの生活はもはやインターネットなしでは考えられないが、一方で、それがもたらすメリットが無視できない悪影響を社会に及ぼすようになっている。2015年ころからそれが加速しているというのが私の見立てで、それを仮にWeb3.0と呼んでいる。長年、IT社会とつきあってきた身にとっては、「こんなはずではなかった」と当惑することも多い。

 便利さと不都合が表裏一体になって展開しているのが「やっかい」なのである。そして、本シリーズではインターネットの負の部分に焦点があてられる。「サイバーリテラシー」は、IT社会をインターネット上の情報環境(サイバー空間)と現実の物理的環境(現実世界)との相互交流する姿と捉えることで豊かなIT社会を実現しようという試みである。その原点を踏まえて、これからいくつかの問題を取り上げていきたい。解決策は容易には見いだせない。それが「やっかい」のやっかいなところである。

新サイバー閑話(34) <インターネット万やっかい>①

はじめに

 これから始めるシリーズ<インターネット万(よろず)やっかい>は、サイバーリテラシー提唱以来念頭にありながら、取り扱う範囲があまりに広く、浅学菲才の身ではとてもカバーできないと、長らく放置してきたものである。どこかの財団あたりが総力を上げて取り組んでしかるべき課題でもあると思うが、『ホモ・デウス』を読んだ時は一時的に大いに発奮し、サイバーリテラシー協会を組織し、ハラリを顧問に迎えたいなどと夢想したものでもある(ホモ・デウス⑭)。

 それぞれのテーマは複雑にからみあっており、いずれも個々の研究分野、あるいは専門家の見解としてはすでに指摘され、改善策が必要だともされているようだが、具体的な制度設計になると、どこからどう手をつけていいのか、関係者の意見もさまざまで、とりあえず問題の指摘だけに終わっている(問題を先送りにしている)ことも多いのではないだろうか。

 その現状を断片的ではあるが、俯瞰して提示できれば、少しは意味があるのではないかと、ぼつぼつ書き始めることにした。拙著『インターネット術語集』的な、エッセイに毛が生えた程度の読み物で、古風な表現を使えば一老書生の手慰みだが、コメント欄などを通して、最新事情にもとづくご意見なり、ご感想なりいただければ、大変ありがたく、また議論を深めることもできるだろうと思う。

 取り上げるのは以下のようなことがらである。

 それ自体は結構なことだけれど、それによって生じた新たな矛盾を解決できないことがら。
 技術(インターネット)が現実世界の長所を失わせ、矛盾を拡大することがら。
 本来取り組むべき課題がよく見えないために、あるいはあまりに多忙な日々の作業の中で、身近な小さな矛盾解消でお茶をにごしがちなことがら。
 地球温暖化のように個別に対応できず、また早急に対応しなくても当面生きていけるという安心感から、とかく等閑視されがちなことがら。
 既存の秩序に安住していても自分の代は大丈夫だろうと、支配層が真剣に取り組もうとしないことがら。
 サイバー空間(ネット)の行動様式が現実世界に持ち込まれ、既存の秩序が混乱していることがら。

<はじめに>

 2000年ごろのWeb2.0をインターネットが持っていた潜在的可能性が花開いた画期だとすると、2015年ごろ以降はインターネットの抱える潜在的問題点が顕在化しつつある時代と言えるのではないだろうか。本シリーズでは、これをWeb3.0と呼ぶことにする。

 2.0ではIT企業主導でインターネットのプラス面が強調されたが、3.0ではむしろインターネットが社会にもたらすマイナス面を見極め、それにどう対処すべきなのかを、周知をあげて考えるべき時だと思われる。

 2.0をあえて上からの動きだと考えれば、3.0は下からの動き、突き上げが必要になってくるだろう。巨大IT企業がいよいよ躍進する中で、社会に、学者や研究者や技術者に、あるいは現場で奮闘する人びとやユーザーである私たちに、3.0を遂行する力があるのかどうか。

 これはイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で提起した問題とも重なる。本シリーズでは、折々の出来事を振り返りながら、IT社会のやっかいな問題とは何か、私たちはそこでどう生きればいいのかを少しずつ考えていきたい。