新サイバー閑話(40)<よろずやっかい>⑥

既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失のやっかい

 トランプ米大統領の突然のイラン攻撃とかカルロス・ゴーン元日産自動車会長の劇的日本脱出などに比べると、話は一気に小さくなるが、新年20日の通常国会での安倍晋三首相の施政方針演説はひどかった。

 昨年後半の大きな政治問題となった首相主催の「桜を見る会」に関しては、年をまたいでも関連文書の廃棄をめぐり内閣府の歴代担当者が処分されるなど紛糾しているのに、これに関して一切ふれず、政権が成長戦略の柱に位置づけてきたカジノを含む統合型リゾート施設(IR)に関しても、元内閣府副大臣(衆院議員)らが汚職をめぐり逮捕、起訴されているのに、これにもいっさいふれなかった。

 多くの国民が桜を見る会の首相説明は不十分と考え、IR推進に関しては強い異論もあるのだから、まずこのことにふれ、真相究明への努力を約束するなり、混乱に対する責任に言及するなり、何らかの態度を表明するのが一国の首相としてやるべきことだと思われる。

 安倍首相は、それをしない。

 その代わりに、今夏開催される東京オリンピック、パラリンピックを成功させようと訴え、日米安全保障条約署名60年の節目にふれて、日米同盟の強いきずなを誇示した。あとは政権のスローガンを羅列しただけとも言えるが、最後に改憲にふれている。意外なほどのわずかな分量だが、意欲が減退したと言うよりも、大事なことをさりげなく、かつ電撃的に、あっさり強行する「衣の下の鎧」が透けていると見るべきだろう。しかもそこで、あろうことか「未来に向かってどのような国を目指すのか。その案を示すのは国会議員の責任ではないでしょうか」と、野党議員の〝奮起〟を促した。

 盗人猛々しいと言うべきだろう。

 国会を無視、とまで言わなくても、軽視してきた当の本人が、自らの「悲願」である改憲に関してのみ、国会議員の責任を果たせなどと言う神経は常人には理解できないことである。

 安倍政権は発足以来、既存制度に組み込まれていた、民主主義を健全に運営するためのチェック機能を解体し、多くの憲法学者が違憲とする集団的自衛権容認を閣議決定するなど、自らの政策を強引に推し進めてきた。一方で森友、加計問題などの不祥事に関しては、のらりくらりと他人ごとのような答弁を繰り返し、挙句の果ては、肝心の証拠書類を官僚に改竄させている(官僚が勝手にやったことになっているけれど、忖度の任を果たした彼らにはその後の処遇で応えた)。こういった政権のあり方を「『非立憲』政権によるクーデター」と批判した石川健治東大教授の論考については、本<新サイバー閑話>の別稿でふれたのでそちらを参照してほしい。

 盗人猛々しいと言えば、自民党が昨年暮れ税制改正大綱を提示したとき、三木義一・青山学院大学長は、桜を見る会で税金の使い方が問題にされているときだっただけに、「税を公正に使ったことを証明できない人たちが税制を『改正』する」ことの不条理を指摘していた(東京新聞2019.12.13)。

 問題はこういうことではあるまいか。

 平気で嘘をつき、国会での野党質問に誠実に答えないような人物がなぜ総理大臣なのか、さまざまな不祥事にもかかわらず、なぜいまだに独裁的な力を誇示できているのか、安倍政権の閣僚たる人びとはなぜ「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」「安倍首相の妻・昭恵氏は公人ではなく私人」などという奇妙な閣議決定を連発しているのか、官僚たちはなぜ唯々諾々と政権の意向を忖度し、それに従うのか。野党の反撃はなぜかくも手ぬるいのか、メディアはなぜ問題の所在を的確に報道しないのか。それより何より、なぜ今なお、かなり多くの人びとが安倍政権を支持し、これでいいのだと思い続けているのか。

 この現代日本の深い病根の背景にも「デジタルの影」がある、というのが今回の<よろずやっかい>のやっかいなテーマである。

 ここにはインターネット発達以来、現実世界と並行するように、あるいはこれと入り混じるように成立したサイバー空間が既存秩序を突き崩しつつある現状が反映されている。もちろんその崩壊には、改善されてしかるべきものも多かったが、一方で人びとが長い間の生活で守り育ててきた地道でまっとうな生き方もまた同時に失われた。安倍政権をめぐる政治状況はその象徴のように思える。

 これは必ずしも日本だけの話ではない。世界中で、倫理観など持ち合わせていないような指導者が権力を私物化し、政治の理念を語るより権力闘争に明け暮れている。大国の指導者の中には安倍首相のお手本になりそうな人もいる。

 前回にも引用したカナダのメディア研究家、マーシャル・マクルーハンは、ラジオというメディアがなかったら、ヒットラーは歴史の舞台に登場しなかっただろうと言った(「ヒットラーの統治下にテレビが大規模に普及していたら、彼はたちまち姿を消していたことだろう。テレビが先に登場していたら、そもそもヒットラーなぞは存在しなかったろう」『メディア論』、原著1964、栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)。そのひそみに倣えば、トランプ大統領も安倍首相もインターネットがなければ、現在のような〝活躍〟はできなかなかったように思われる。

 もちろん、彼らがインターネットをうまく利用して権力を握ったとだけ言っているわけではない(たしかにトランプ大統領はツイッターをよく使うけれど)。インターネットが人びとに与えた衝撃(驚きや歓喜だったり、逆に当惑と失望だったりしたけれど)がもたらしたかつて経験したことのない変化のうねりが私たちの足元を洗い、思わずふらついたその不意を突くような形で、現代の政治状況は成立しているのではないだろうか。

・「何でもあり」の風潮

 ここではその当惑と失望についてふれたい。パチンと割れる風船というよりも、音もなく消えてしまうシャボン玉に似て、ほんのかすかなものであろうと、それは全世界の片隅で、四六時中起こっている。そして塵も積もれば山となり、コロナウイルのように私たちを襲いつつあるのではないだろうか。以下はその塵の一部を素描したものである。

 私がまだ新聞社に在籍していたころの経験だが、1999年3月、広告会社・電通の発案で新聞の全国紙、ブロック紙、地方紙91紙を使って「意見広告キャンペーン」、題して「ニッポンをほめよう」キャンペーンが行われた。全国・ブロック紙では2ページ見開きで、左側に吉田茂元首相の顔写真が大きく載り、右側には「ニッポンをほめよう。」との大きな活字。本文は「『ニッポンをほめよう』は、わたしたち60の企業が発信する、共同声明です」で終わっており、59の企業名の最後に、朝日新聞には朝日新聞社、読売新聞には読売新聞社、日経新聞には日経新聞社というふうに、それぞれの掲載紙の会社名が載った。

 本文にはこう書いてあった。「政治が悪い、官僚が悪い、上司が悪い、教育が悪いと、戦犯さがしに明けくれるのは、もうよそう。ダメだダメだの大合唱からは、何も生まれはしないのだから」。

 まるでジャーナリズムを否定するかのような文言が含まれている意見広告に新聞社自らが名を列ねていることに対しては、当然、私の職場でも異論が出された。そのとき社員の1人から「今は何でもありだから」という発言を聞いた。折しも新聞産業はネットなどの新興メディアに押されて、部数も広告も減少しつつあった。発言の裏には「こんなうまい(おいしい)広告はめったにない」という気持ちが込められていただろう。今は何でもあり、できることは何でもして生き延びるしかないという諦観でもあったと思う。

 私は社外にも公表しているレポートで「現下のマスメディアに顕著に見られるのが『アイデンティティの喪失』である。多メディア化は、一方では新しいメディア企業による娯楽、スポーツ、生活情報など『売れる実用情報』提供を促進しつつ、他方では既存マスメディアにおけるジャーナリズム精神を衰退させているが、残念ながらその構図は、巨大資本の攻勢にたじたじとなり、あるいはそれに煽られて、マスメディアがジャーナリズム性を手放しつつある姿と捉えられるのかもしれない」と書いた(『表現の自由』の現代的危機について―インターネット規制と『サイバーリテラシー』」『朝日総研リポート』1999.6 NO.138)。

 インターネットが既存社会を破壊していくことに対しては、プラスマイナスの両面があるだろう。シュンペーターではないが、創造的破壊を通して経済(社会)は発展する。まず創造があって、ついで破壊が行われるのである。しかしインターネット(コンピュータ)という強力なイノベーションは、内部的な「創造」の契機が生ずるより先に、既存産業の「破壊」をもたらす。メディアに関して言えば、各企業はジャーナリズム機能を拡充するためのITを自ら開発するというよりも、シリコンバレー出来合いの技術を何とか利用して生きのびることしか考えるゆとりがなかった。

 外部からやってきた思わぬ破壊に直面した企業が、当の外部技術であるITを使って延命をはかろうとすれば、ITが持つ力にすがるのが精いっぱいで、自らのアイデンティティを保ちつつ、真の創造的発展を達成するのは難しい。そこではITの専門家、技術コンサルタントがもてはやされるばかりである。これは、多かれ少なかれ、他の産業の技術革新や異分野転出にも言えるのではないだろうか。

 ちなみに「何でもあり」という言葉は一般の辞書には載っていないようだが、オンラインで見つけた「実用日本語表現辞典」には「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」と説明されている。

・「等身大精神」の危機

 2005年に起きたみずほ証券の株誤発注事件も象徴的である。同証券の社員が人材派遣会社株の売り注文を「61万円で1株」とすべきところを「1円で61万株」と入力ミスしただけで、みずほ証券は約400億円の損害を受けた。

 ここで特筆すべきなのは、ほんのちょっとした、だれにでも起こりがちなコンピュータ入力ミスで、あっという間に会社に400億円の損害を与えてしまった社員はどう責任をとればいいのかということである。会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 一方で誤発注を奇禍とした投資会社は多いところで120億円という大儲けをした。個人で20億円儲けた人もいた。20億円といえば、これまたサラリーマンが一生に稼ぐ額の十数倍である。

 かつてエコロジーの世界で、「等身大の技術」ということが言われた。過剰な技術によって自然を破壊するのではなく、ほどよい技術を使うことが大事だという考えで、たとえば、大型船でマグロを一網打尽にするのではなく、食べるに必要な分だけ一本釣りしながら自然のおすそわけにあずかるという共生の知恵だった。

 いまはコンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちの知能の限界を打ち破る途方もない世界をもたらしている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくる。そこでは「等身大の精神」、別の表現を使えば、人間的なまっとうな生き方が危機に瀕していると言っていい。

 同じ年に起こったマンション耐震強度偽装事件は、設計の中核部分である「構造計画書」の数値が偽造され、震度5程度の地震がくれば倒壊の危険があるマンションやホテルが全国規模で建てられていたことが発覚したものだが、ここでも、一つの行為がもたらす結果があまりに膨大なために、建築士にしても、欠陥マンション量産業者にしても、犯した罪の責任をとりようがない状況が生まれている。

 逆に言うと、責任のとりようのないことを何の痛痒も感じずに行える状況に置かれている。両事件に共通するのは、「引き金の軽さ」と、それがもたらす「結果の重さ」である。

・盥の水といっしょに赤子を流す

 制度設計された当初の意図が空洞化し、恣意的に運営されがちな例は今に始まったことではない。問題はそのタガが完全に外れ、恣意的運営でどこが悪いというほどの野放図なものになっていることである。

 2つの事例を通して浮かび上がるやっかいな「塵」は、安倍政権、およびその周辺、さらには私たちにも大量に降りかかっている。

 先に上げた「何でもあり」の説明、「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」は、いかにも〝安倍〟的である。また「重大な結果」を熟議もせず、国民の声も聞かずに決めてしまう「引き金の軽さ」もまた安倍政権に特徴的である。

「サイバーリテラシーの提唱」で私は「毛虫がみずからの内部諸器官をいったんどろどろに溶かしてサナギとなり、一定期間をへたあとチョウへと変身するように、現代社会もまた時代の転換点にある」と書いた。既存秩序の崩壊は歴史が進むべきサナギ化の過程であるのは確かだが、問題はいま現代、どこにもチョウへと変身するきっかけが見えないことである。

 為政者、官僚、あるいは経営者、企業従業員、さらにはメディア企業、教育現場に至るまで、これまで営々と築いてきた価値を臆面もなくないがしろにする傾向が見られる。「決める政治」も、規制改革やイノベーションも、「盥の水といっしょに赤子を流す」結果になりがちで、古い秩序が持っていた長所もまた消えていく。

気が重い、我らが内なるやっかい

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