新サイバー閑話(42)<よろずやっかい>⑧

日本社会特有のやっかい

 インターネットは世界同時に進行する情報革命だから、その影響もグローバルに現れるわけだが、やはりその国の従来の社会構造によって変化の態様は異なってくる。私はかつて「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」というタイトルで、インターネットが与える日本特有の影響について考えたことがある。そのとき念頭にあったのは、日本人とインターネットの相性は必ずしもよくないということだった。

 日本社会はインターネットによってどのように変化しつつあるのかを、日本社会をめぐる典型的な2つの見解、社会人類学者、中根千枝の「タテ社会」と、歴史学者、阿部謹也の「世間」を手がかりに考えてみよう。

 中根千枝は1967年に『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』(講談社現代新書、初出は「日本的社会構造の発見」雑誌『中央公論』1964年5月号所収)を発表し、日本社会は欧米などとは違うタテ型の人間関係によって成り立っていると述べた。「世間」は古くからある言葉だが、阿部謹也は『「世間」とは何か』(1995、講談社現代新書)、『「世間」論序説』(1999、朝日選書)、『日本人の歴史意識』(2004、岩波新書)などの著作で「世間」がいかに日本人の行動を規定してきたかを論じた。

 本稿のテーマは、その後のインターネット発達によって日本社会はタテ型からヨコ型(ネットワーク型)にシフトしつつあるのか。「世間」はインターネットによってどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか。そして、それらの事情が日本社会にどのような影響を与えているのか、ということである。

 結論的に言えば、日本社会はインターネットがもたらす変革の波に真正面から向き合ってこなかったために根底から揺るがされ、①その過程で社会の長所は失われ、逆に短所は増幅されている、②しかも変革の時代に対応する新しい社会システムはいまだ生み出されておらず、日本社会はいよいよ混迷の度を深めている、ということである。<よろずやっかい>⑥の最後に「古い秩序が持っていた長所もまた消えていく」と書いたけれど、その根はきわめて深い。ここに「日本社会特有のやっかい」がある。

・「タテ型」はだらしなくゆるんでいる

 欧米では(アジアのインドなどでも)「資格」が問題とされるのに対して、日本では「場」が問題とされる――これがタテ社会論の骨子である。タテにつながる序列が重視される結果、日本企業の終身雇用制、年功序列賃金、家族ぐるみの労務政策、企業内組合などの特徴が生まれた。

 『タテ社会の人間関係』には「一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資格者の間に溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離をちぢめ、資格による同類集団の機能を麻痺させる役割をなす」、(年功序列制に関係して)「個人の集団成員との実際の接触の長さ自体が個人の社会的資本となっている……、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる」という、ある程度年配の人なら(とくにタテ社会をヨコに生きようとした私の場合)身につまされる記述もある。

 この辺の事情は、当然のことながら、インターネットによって劇的とも言えるほどに変わった。いまや終身雇用制は崩れつつあり、転職する人は増え、ヘッドハンティングもめずらしくない。資格が重視されるようになった面もあり(資格取得が一種の流行ともなっている)、「枠」集団としての一族郎党、あるいは家の求心力は減退している。つい最近まで「社畜」だと揶揄されていた企業従業員も、いまでは非正規雇用が4割を占め、家族ぐるみの雇用形態はほとんど消えつつある。

 日本人を縛る「場」の力は明らかに弱まっている。転職すれば必ず給料が下がることもないし、上司が仕事帰りに部下を赤ちょうちんに誘う行為もときにパワハラであると非難される。会社主催の忘年会、新年会もだいぶ様子が変わってきた。

 日本社会がヨコ型にシフトしているのはたしかだが、問題は、タテ社会の絆が緩んだ割にはヨコ型の連携、あるいは競合が密になったようには思えないことである。タテ社会という基本構造(骨組みとしての枠)は残っているが、だらしなくゆるんで形骸化しつつある。その結果、組織のタガは緩み、働く人びとのアイデンティティは薄れがちである。

 内部はシロアリに食い尽くされながら外見は保っているマホガニーのドアのようで、一蹴りすれば一挙に崩れそうで、しかもなかなか崩れない。その間に食品の不当表示、製品の検査結果改竄などの企業不祥事が多発している。

 中根は、連帯性のない無数の大小の孤立集団を束ねるものとして中央集権的政治組織、いわゆる官僚機構に着目し、「日本社会における社会組織の貧困が政治組織の発達をもたらした」と述べているが、それを支える官僚たちの使命感はすっかり薄れ、省益と天下りと政権への忖度だけが幅を利かせている。タテ社会空洞化の象徴とも言えよう。

・「世間」という身の回りの世界

 日本社会の宙ぶらりんな現状は「世間」を通して、よりはっきり見えてくる。

 世間という言葉はもともと、移り変わる世をさす仏教用語だが、私たちの回りを取り囲むぼんやりとした集団として、万葉の昔から意識されていた。阿部謹也は「仕事や趣味や出身地や出身校などを通して関わっている、互いに顔見知りの人間関係」だと述べている。

 ひと昔風に言えば、地域の青年団だったり、学校共同体だったり、会社組織だったり、あるいは作家などの文壇だったり、企業内組合だったり、弁護士団体だったり……、私たちはいくつもの世間に取り囲まれて生活してきた。この世間という場がタテ社会を形づくってきたとも言えよう。

 個人(individual)も社会(society)も明治初年に外来語として輸入され、社会科(公民)教科書などでは、個人が集まって社会を構成するという西欧的な考えが教えられたけれど、それを教える教師も、教えられる生徒も、彼らの家族も、地域の人びとも、自分たちは世間を生きていると感じてきた。世間は学問の対象にならず、それゆえにかえって強い力を発揮した。

 世間の特徴の最たるものは、個人が存在しないこと、内と外を区別することである。身内にはやさしく、他人には冷たい(あるいはよそ者として無視する)。内と外に対しては異なった道徳が適用され、欧米流の個人は社会を作り、社会はどこまでも広がっていくという発想は育たなかった。世間は「差別の道徳」、内と外のダブルスタンダードである。また世間は生まれ落ちた時から身の回りにあり、したがってそれを変えるという発想も育たず、「長いものには巻かれろ」式の事大主義的発想が強かった。

 阿部は「日本人は一般的にいって、個人として自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、他の人間との関係の中に基準をおいている。それが世間である」と言っている。

 中根の本に、日本の学者が海外で同僚研究者に言及されたとき「彼は私の後輩である」と言ったとかいうエピソードが紹介されているが、彼もまた世間の住人だったわけである。

 世間論が話題になった二十数年前、阿部謹也や佐藤直樹のような人が強調していたのは、戦後日本においても世間は衰えるどころかかえって強固になって、高度経済成長を支えてきたということだった。

 さて、インターネットと世間はどう関係しているのだろうか。

 若い人が世間を意識することはあまりないと思うが、それでも「世間の目」とか、「世間体が悪い」とか、「世間に対して申し訳ない」というような言い方は聞いているだろう。ここに世間が残っている。

・「世間」が「社会」への目を曇らす

 1対多の関係で個人が社会と向き合わざるを得ないIT社会は、日本人が個としての主体性を確立できるチャンスかもしれないと私は思ってきたが、期待は裏切られたようである。ここに世間が強い影を落としている。

 問題は、グローバルに開かれているはずのインターネット上にも世間は存在するということである。むしろ、しぶとく生き残っていると言った方がいい。世間は主として顔見知りの人びとからなる比較的小さな集団だから、「サイバー空間における世間」というのは理屈の上でも、規模から見ても矛盾だが、サイバー空間上でいびつに変容した「世間」がその良さを失うととともに、日本人の「社会」への関心を曇らせている、というのが私の見方である。<よろずやっかい>➆でふれた「サイバー空間の行動様式が現実世界に逆流する」傾向のために、これが現実世界にも無視できない影響を及ぼしている。

 Web2.0でブログが話題になったころ、日本の多くのブログは必ずしも社会に向かって何かを発言し、それについて意見を交換するという構えをとらず、むしろ仲間うちのおしゃべり道具として使われた。「眞鍋かをりのココだけの話」というタイトルが象徴的だが、井戸端会議の延長のように考えられたのである。また、はてなとかニフティとかいったIT企業が日本人のために用意したブログサイトには、ネット上に「共同住宅(世間)の心地よさ」を保証する工夫もほどこされていた。人びとは原則的には開かれた場所で情報発信しながら、ある程度隔離された仲間内の空間にいる幻想を与えられたと言っていい。

 若い人の場合、ブログが社会に開かれているという意識すら希薄だった。文章も第三者が読んでもチンプンカンプンの場合が多く、仲間(身内)に伝わりさえすればいいので、もともと第三者(他人、よそ者)に読んでもらおうと思っていない。

 それは、インターネットというメディアに対する無知、あるいは無関心に基づいていたが、当の本人たちはそれでいっこう差し支えなかった。もちろんブログの性格はさまざまで、堂々たる論陣を張ったり、自分の知見を惜しげもなく公開したりして、多くの人に読まれている質の高いブログもある。また、仲間うちのおしゃべりがいけないわけでもない。<よろずやっかい>⑤で紹介した梅田望夫の「日本のWebは残念」という感想は、「サイバー空間における世間」によってもたらされたと言えるだろう。

 この「開かれたインターネット」上の「閉ざされた空間」という矛盾(というか幻想)は、日本社会に何をもたらしたか。

 第1は、世間がいびつに変容する過程で、身内だけに限られていたとはいえ、それなりに機能を果たしていた内なる道徳も失われたことである。外からの闖入者に対してまともに対応しない。あるいは外から傍若無人に侵入する。そこでは「炎上」は起こっても対話は行われない(村八分的ないじめはなお猛威をふるっている)。

 世間の内と外を区別するダブルスタンダードはなし崩し的に溶融し、スタンダードなしという無法状態が出現している。タテ型の仲間内の道徳は消え、しかもヨコ型の普遍的倫理は生まれない。そこでは、道徳的な身のこなしそのものが消えている。

 そして第2が、より重要だと思われるが、サイバー空間上に居座る「世間」が、日本人から「社会」に向かう視点をますます奪っていることである。そのため、グローバルな社会を生きていくための行動基準が生まれない。かくして「何をやってもよい、何も禁止されていない」という「何でもあり」社会が出現し、「禁止事項が破られ、事実上無法状態」に陥っている。

 社会心理学者の山岸俊夫は1998年の時点で『信頼の構造』(東京大学出版会)を書き、日本人は世間の中で「安心」を調達するのではなく、グローバル化する社会を生き抜くための「信頼」を勝ち取る生き方に踏み出すべきだと説いた。彼は「世間」という言葉は使っていないが、論旨は、世間という集団主義的な社会に生きる日本人に世間からの脱却を促したものと言っていい。そのブースター(推進力)として彼が力説したのが「信頼」という行為である。

 その主張はこうである。

集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する。日本人は内部の人間関係に安心を見出しているが、外部の人間は他者として排除する(信頼しない)。
流動性が高まるこれからの社会においては、安心という消極的な態度ではなく、信頼(する)というより積極的な態度をとることが賢明な生き方になる。このような社会の変化に直面して、どうしたら集団の枠にとどまらない広い一般的信頼を人々の間に醸成することができるかを考えることは、現在の社会科学あるいは人間科学に与えられた重要な課題の1つである。

 彼は、他人を信頼するという行為が所属する集団を離れた新しい人間関係を築くのに役立つという「信頼の解き放ち理論」も提唱した。日本人らしさは日本社会を生き抜くための戦略だったに過ぎず(「日本人は集団主義的な心の持ち主であるというのは「神話」である」)、だから社会システムを変えれば日本人の行動スタイルも変えられるとも主張した。

 その社会システムを変えようとする発想が日本社会からなかなか生まれない。世間はしぶとく生き残っているとも、すでに溶融しつつありながら、残滓(残骸)がなお威力を発揮しているとも言えるだろう。

 なぜ安倍首相は身内(世間)本位の政治を強行しながら、その異常さをたしなめる声が周辺(家族、派閥、支持者など)から上がらないのか、国民はなぜそのような政権をいまだに支持しているのか。ここに「世間」をめぐる日本社会の宙ぶらりんな状況が反映している。

 これは<よろずやっかい>④で取り上げた「人間フィルタリングの解体」とも関係するが、昨今の政治状況の混乱は、「変容する世間の悪影響」を通して考えないと、説明がつきににくい。

 ひと昔前まで不祥事を起こした企業経営者や政治家は記者会見で口をそろえて「世間を騒がせて申し訳ない」と謝った。自分の罪を認めるのではないが、新聞紙上で取り上げられたり、逮捕者が出たりして、世間(会社、派閥、役所など)に迷惑をかけた責任を取るという論法だった。ところが森友・加計問題、桜を見る会などの疑惑に関して、安倍首相から「世間を騒がせる」という表現すら聞いたことがない(「安倍首相」&「世間」で検索したかぎりでは、本人の発言と世間を結びつけるものはなかった)。「世間」にどっぷりつかった政治をしながら、頭の中では「世間」が消えているようなのだ。

 日本人論の古典、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、日本文化の型を「恥の文化」と規定した。欧米型の罪の文化は内面的な規範に従おうとするが、恥の文化は外面を保つことを優先すると言ったわけで、恥の文化を生んだのも世間だったと言える。しかしいま、一部の日本人から恥の文化も消えつつあるのは確かである。

 阿部謹也は世間の意義をそれなりに認め、世間を個人と社会の媒介項にできないかと提言したことがある。「現在、私たちは『世間』という観念を相対化しなければいけない状況にあります。『世間』のなかに個が縛られている状況を脱却しなければいけないと私は考えていますが、しかしそれと同時に『世間』が持っていたかつての公共性的機能を失うことなく保持することができるかどうかも大問題です」。残念ながら、世間は個人と社会の媒介項にはなりえなかったのではないだろうか。

 また、山岸は後に書いた『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(2008、集英社)で、「戦後日本で長らく続いてきた集団主義の『安心社会』はもはや時代遅れのものとなり、日本もまたアメリカのような開放的な『信頼社会』へと変化しつつあるという印象を受けます」と述べる一方で、「残念ながら、今の日本人は信頼社会にうまく適応できているとはとうてい言いがたい状況であると考えます」、「本来ならば、安心社会の崩壊は既得権益を持った大人たちの危機であり、信頼社会の成立は未来ある若者たちにとっての福音であるはずです。それなのに、その若者たちが信頼社会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での『平安』を求めているとしたら―これは日本の将来にとっても、また若者たち自身の未来にとってもゆゆしいことと言わざるを得ません」とも述懐している。

 まことに悩ましい日本の現状がここにある。

・「社会」に目を向けない政治

 世間も一つの社会資本(ソーシャルキャピタル)だと考えると、現下の政治や経済の動きは、従来世間が持っていた長所を積極的に解体しながら、それに代わる新たな社会資本は築こうとしない、というより深刻な問題が浮かび上がる。

 個人の視点で考えると、世間に包まれていた安心は無残に奪われ、IT社会に剥き出しで放り出されるようなものだが、皮肉なことに、こういう政治状況を私たちがむしろ支えているわけである。

 今春闘を前に経団連(経済団体連合会)が発表した「2020年版 経営労働政策特別委員会報告」は「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と述べている。 

 日本型雇用システムの見直しという提言自体、すでに新味がないとも言えるが、従来の企業経営が引き受けてきた従業員丸抱え雇用のくびきから解放されたいという思いが前面に出ている。メンバーシップ型(新卒者を定期採用して社内教育によって一人前に育てる)からジョブ型(すでにスキルを持っている人材を採用する)に変えようというのは、一見、時代の波に適合しているように見える。しかし会社ぐるみの教育や福祉政策は重荷なのでやめたいと言っているに等しく、それに代わる社会的な教育方法、労働市場、あるいは福祉政策をどう進めるかについては言及がほとんどない。

 国内労働力が不足なら安い外国人労働者を雇えばいいとか、かけ声だけの「一億総活用社会」とか「働き方改革」などみな同工異曲である。日本の古いしがらみ(社会資本)は捨てるけれど、IT社会の今後にどう取り組めばいいのか、新しい社会資本をどう築き上げるべきなのか、日本はグローバル時代をどう生きてくのか、といったことへの真摯な取り組みは見られない。

 自分の仲間だけが、あるいは自分の任期中(生きている間)さえよければいいという、まさに阿部の言う「歴史意識の欠如」がいよいよ如実である(「政治家達も日本の将来などと口にするが、決して日本の将来を自分の今日の行動の中で考えているわけではない。彼らが考えているのは彼らの『世間』の中で今日をどう生きるかということだけである)。

 冒頭でも述べたが、日本人はインターネットの波にうまく乗ろうとするだけで、それが日本社会にもたらす影響に真剣に対応してこなかった。私は「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」の最後を、「社会システム全体が『組織』から『個』へと大きくシフトするとき、この新しい道具(インターネットのこと:引用時注)は日本人の『個』を育てないのみならず、かえって全体の『空気』を一方的に拡大する奇妙な装置として働きかねない。ITを金儲けの道具や便利さ追求の観点のみで使っていると、そこに出現するのは、『オープンな道具を使った不寛容な日本』という悪夢である」と書いたけれど、日本社会はいよいよ混迷の度を深めていると言っていい。

 ハラリの言うデータ至上主義によって、私たちの「個」そのものがばらばらに解体され、西欧的な個人主義の考え方そのものが試練に立たされている今、私たち日本人は待ったなしの状況に追い込まれている。

         混迷の度をいよいよ深める、やっかい

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