新サイバー閑話(43)<よろずやっかい>⑨

加速する時間のやっかい

 今回のやっかいは、高速で動くコンピュータおよびインターネットの恩恵を受けながら、そのスピードがあまりに速いために私たちの日常的なリズムが追いつけないことに起因する。コンピュータを使いこなすというより、むしろそのスピードに振り回される「やっかい」である。

 その1つの例が、<よろずやっかい>⑥でふれた「等身大精神の危機」だろう。一瞬のケアレスミスが何百億円に上る被害をもたらしたわけで、軽い「引き金」が重大な「結果」を引き起こす高速コンピュータの〝暴走〟。これにどう対すればいいのか。

 個人的にはコンピュータの扱いにもっと慎重になる、画面の警告音を見逃さないという心構えが大事であり、社会工学的には、1つのアクションをより肉体感覚と連動するものにするといったシステム設計が必要になるだろう。

 コンピュータの誤作動を引き起こすバグはなくしてもらわないと困るが、そうでなくても、スマートフォンで住所録の他の宛名にひょっとふれて間違い電話をしてしまったり、翌日になれば怒りがおさまるほどの些細なことがらを感情の赴くままに書きつけ、そのまま送信して炎上という事態を招いたり……、電子の文化のスピードにはついていけないとつぶやく人(とくに高齢者)も多いはずである。やっかいと言えば、まことにやっかいである。

 サイバーリテラシーに引き寄せて言えば、コンピュータをどう使いこなすかという知識(スキル)だけでなく、コンピュータとはどういうものか、それを扱うにはどのような心構えが必要か、コンピュータにまかせない方がいい領域は何か、というリテラシー(基本素養)教育が必要ということにもなる。

 私は林紘一郎さんに誘われて、横浜の情報セキュリティ大学院大学の経壇に立ったことがあるが、当時、こういうことをすると危険である、それは法に違反するという「脅しのセキュリティ」だけでなく、こうすれば快適なIT生活が送れるという「明るいセキュリティ」も大事ではないか、という話をしたことを思い出す。

 このシリーズは「インターネット徒然草」と自認するエッセイ集みたいなものである。「つれづれなるまゝに、ひぐらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。そして、前回の⑧は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」という思いが強かったけれど、今回、念頭に浮かんだのは、芥川龍之介の『侏儒の言葉』の一節である。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

 対象が自然と技術の違いはあるけれども。インターネットを無視して生きていくことはできない。もっとも後段でこうも言っている。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

・『ネットスケープタイム』

 以下、コンピュータおよびインターネットがもたらした時間の変化、加速するスピードについて考えてみる。 

 インターネット初期に「ドッグイヤー」ということが言われた。IT企業1年の成長発展は従来の企業の7年分に相当するという意味である。今はもっと速くなっているかもしれない。

 1995年はインターネットが社会に普及したという意味で「インターネット元年」と呼ばれるが、そのころ活躍したジム・クラークという一起業家が書いた自伝的書物は、ITがもたらしたスピードの変化の生々しい記録である。

 インターネットで扱える情報を活字(テキスト)だけの世界から絵や動画まで拡大した閲覧ソフト、ブラウザーの発明こそインターネット飛躍の原動力だったが、最初のブラウザーはイリノイ大学の学生、マーク・アンドリーセンによって開発され、モザイクと名づけられた。

 クラークは、自分が創業したシリコングラフィックス社を退任に追い込まれた1994年、アンドリーセンの名を聞き、直ちにこの若者に電子メールを出して、2人で新会社を作る。モザイクという名は使えなくないので、同じようなブラウザーを開発してネットスケープと名づけた。マイクロソフトのビル・ゲイツもモザイクをもとにしたブラウザー、インターネット・エクスプローラーを開発して追撃、1995年は2つのブラウザーの機能拡張競争が繰り広げられた年でもあった。

 同年、私はインターネット情報誌『DOORS』を創刊し、付録CD-ROMに両ブラウザーのプラグインソフトを収録していたが、毎月、新たな機能追加が行われ、その対応にてんてこ舞いしたものである。最終的にネットスケープはエクスプローラーに負けてしまうが、クラークの本のタイトルはNetcapeTimeだった(邦題は『起業家 ジム・クラーク』水野誠一監訳、2000、日経BP社)。

 ネットスケープタイム。加速する時間こそが勝負だったわけで、彼は「我々のビジネスでは、安定性や安全は、スピードから生まれる。つまり、競争相手より早く製品を市場に出せということである」、「私の頭の中を占領していたのは、スピードそれ自体ではなく、加速のスピード、特に企業のライフサイクルのペースが加速していることであった」と書いている。

 彼によれば、創業から株主公開までの期間は以下のように短縮した。

ヒューレットパッカード 創業1939 株式公開1957(18年後)
マイクロソフト 創業1975 株式公開1986(11年後)
アップル 創業1976 株式公開(4年半後)
ネットスケープ 創業1994 株式公開1995(1年4ヶ月後)

 製品のバージョンアップについて、こんなことも書いている。「ソフトウェアに問題があっても、ちょっと改良したバージョンとして発表し、後はこれを繰り返せばいい。車が衝突すれば、人が死ぬが、ソフトがクラッシュしてもリスタート・ボタンを押せばよいだけなのだから」、「いつも火を噴くようなトースターを製造している家電メーカーは長く生き残ることはできない。だが、バグだらけで有名な製品を市場に送り出すことでマイクロソフト社は大成功を収めている。発展初期の段階にあるテクノロジーでは、その技術の新しさ故に不完全さの苦労が許される猶予期間があるものだ」。

 ビル・ゲイツには散々煮え湯を飲まされたらしく、「私は、個人的に、ビル・ゲイツは、その一見陽気なオタク的外見の下に、殺人的な本能と、飽くことのない攻撃性を抱いていると確信している。彼の反応は、常に凶暴性を帯びているからだ」、「他社より優れた製品をつくることで競争に勝つというやり方でマイクロソフト社がトップに立ったことは一度もない。なぜなら同社は他社より優れた製品を他に先駆けて世に出したことがほとんどないからである」などと非難している。「今日では、世界を変えようとするのでもなく、何か新しいエキサイティングなことを起こそうというのでもなく、マイクロソフト社に一日も早く買収されるという目的のみを持つスタートアップ企業が増えている」とも。

 このネットスケープタイムがIT企業のみならず、多くの企業のものになった。企業経営ばかりでなく、コンピュータシステムがそれこそ急速に社会に広まるにつれ、私たちの日々の生活もスピード化の波に呑み込まれた。実際、コンマ0秒をはるかに上回る電子の速度で金融取引が行われ、そこでは人間の判断が介入する余地さえない。時間がどんどんスピードアップするのはもはや止めようがない状況である。

・自然農と経頭蓋直流刺激装置

 現代IT社会における時間はいかにあり得るのか。一端に自然のリズムのままに生きる時間があり、他端にコンピュータのスピードと共生する生き方がある。

 本サイバー燈台で古藤宗治氏に「自然農10年」という連載を続けてもらっているが、自然農というのは土地を耕さず、肥料をやらず、ほとんど機械も使わず、土地が持っている本来のエネルギーのおすそ分けで作物を収穫する。生産量は限られているし、1年のサイクルに縛られる。それ以上のことを求めない生き方の典型が第10回で紹介されている。

 私もある初夏、畑を見せてもらったが、むんむんとする草いきれと、農作物のまわりを飛び交うチョウの群舞に懐かしい思いがした。弥生式農業以前の農業と言ってもいい。ここには現代においても経験できるのどかな時間がある。

 その対極にあるのが、コンピュータの力を借りたスピードの世界である。ハラリの『ホモ・デウス』に、米軍が訓練と実践の両方で兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるためにやっている実験が出ている。経頭蓋直流刺激装置という、いくつもの電極がついたヘルメットをかぶると、微弱な電磁場が生じ、脳の活動を盛んにさせたり抑制したりするのだという。

 某誌の記者がその実験を体験した話が出ている。

 最初はヘルメットをかぶらずに戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人がまっしぐらに向かってきて、「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者が武器を誇示しながらこちらに駆けてくるなか、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」、ほんの一瞬の出来事のように思われたが、すでに20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していた。

 コンピュータを使えば、通常の頭の回転スピードを上回る速度を獲得できるということだろう。こういう装置はどんどん開発が進み、私たちはそれらで武装し、いよいよ「ホモ・デウス(神の人)」になっていく、というのがハラリの予想だった(博学の発明家、レイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン」が典型的である)。

 コンピュータに限らず、文明の発展にともなって私たちの時間が加速しているのは間違いない。足で歩く→自転車に乗る→鉄道を利用する→車→飛行機と、交通手段の発達はまさにスピードアップの歴史であり、電信、電話などの通信手段もまた時間の克服に大きく貢献した。

 スティーヴン・カーンはTHE CULTURE OF TIME AND SPACE(1880-1918)(1983、翻訳は『時間の文化史』『空間の文化史』の2分冊、浅野敏夫他訳、法政大学出版局)で、「1881年頃から第1次大戦が始まる時期において、科学技術と文化に根本的な変化が見られた。これによって時間と空間についての認識と経験にかかわる、それまでにない新しい様態(モード)が生まれる。電話、無線、X線、映画、自転車、飛行機などの新しい科学技術が、この新しい方向づけの物的基盤となった。一方で、意識の流れの文学、精神分析、キュビズム、相対性理論といった文化の展開がそれぞれに、人の意識を直接形成することになった」と述べている。

 私は常々、サイバー空間の登場は人類史を2分できるほどの出来事である(BC=Before CyberspaceとAC=After Cyberspace)と述べてきたが、その最大の特徴は飛躍的スピードの増大にこそ求められるかもしれない。

・快適な時間とはどのようなものか

 IT社会を快適(幸福)に生きるためには、結局、高速化する社会(サイバー空間)との距離をうまく取る才覚が必要だということになりそうである。

 個人にとって快適な時間とはどのようなものか。

 のんびり屋、せっかちなどの性格にもよるし、年齢にもよる。年齢にはその人が生きてきた時代の時間が大きく影響しているだろう。若いころ感激し、あるいは血沸き肉躍る経験をしたハリウッド映画を見直してみると、やはりかったるい思いをする。私自身、学生時代に感激した『ウエストサイド物語』にそれを強く感じた。一方で、ゲームをしている孫の手の動きを見ていると、驚くほど速い。

 これは一部のSFファンの間では有名な話のようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』などの作者が提唱した「ダグラス・アダムスの法則」というのがある。

人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。

 年代区分はともかく、マーシャル・マクルーハン的な警句として興味深い。たしかに、インターネットはもはや大半の人には技術というより所与の環境になっている。この説に言及した「いまIT社会で」は異論も紹介しているが、これも時代とともに快適な時間が変わっていくことと関係しているだろう。

 個人差はあるけれど、個々の人間にとってそれぞれの快適な時間、速度(スピード)があるというのも確かだと思われる。

 たとえば、バイオレゾナンスというドイツ発祥の治療法では、病気の原因となる体内の気(エネルギー)には固有の周波数の波動があり、同じ周波数の波動で共鳴を起こすと、気の滞りが解消、病気が治ると言っている。「滞りと同じ周波数の波動による共鳴現象によって滞りが消えて再び気が活発に流れるようになる、これが健康を取り戻すということだ」(ヴィンフリート・ジモン『「気と波動」健康法』2019、イースト・プレス)。

 個人差もあり、それは日によっても異なるけれど、その人固有のリズムというものを大事にすることが、目まぐるしく変化するIT社会においてはとくに重要である。それが才覚である。そのためには、四六時中、つまりひぐらしパソコンやスマートフォンにかじりついて、サイバー空間の影響を受け続けるのではなく、一定の距離を置く。つまり、日々の生活の軸足を現実世界に置く意識を忘れない。そうすれば、インターネットの影響を少しは対象化して考えることもできよう。ファーストフードに対してスローフードの運動もあるように、人それぞれに自分にあうスピードを大事にするしかない。

 <よろずやっかい>➆の最後にふれたように、技術がもたらした問題の多くは技術によって解決できるはずである。サイバー空間と現実世界の接点における快適な時間の確保ということに関しても、秀逸な<よろずやっかい解決アイデア>が求められるとも言えよう。ノーベル賞級か、あるいはイグノーベル賞級の。

 ちょっと話がそれるが、この稿を書き上げたころ、友人が「最近の政治の動きは腹立たしいばかりで、ときどき藤沢周平の小説や小津安二郎の映画を見るようにしている」と言っていた。たしかに小津安二郎の映画にはゆっくりした時間が流れている。「君、どうなの?」、「どうってこともありませんわ」、「そうかねえ」、「そうですよ」なんていうセリフも懐かしい。

 当面は才覚で切り抜けるしかない、やっかい

 

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