林「情報法」(46)

多元化と相対化を急いで要約する「○か×か」

 お盆休み中に本棚の整理をしていたら、私の恩人の一人である庄司薫(福田章二)氏が早くも1973年(つまり約半世紀前)に、なぜ「ぼくたち」が二者択一に走るのかを喝破していたことを再発見しました(庄司薫『狼なんてこわくない』中公文庫、pp.167-168)。ここで「恩人」と言ったのは、「成長とは自らの持つ可能性が結局は不可能性にしか過ぎない」(福田章二『喪失』あとがき、中央公論社、1959年)ことを教えてくれた、と私が「片思い」しているだけの話で、他にも存在する多くの「恩人」と同じく、直接の面識はありません。

・約半世紀前の指摘

 ○×式が持つ社会的な意味を「多元化と相対化を急いで要約するため」と、半世紀も前に的確に記述していたのは、庄司氏以外にいないと思います。

(前略)価値基準が多元化し相対化していく一方で、選択処理しなくてはならない情報が洪水のように増大するという、本来なら「要約」することの最も困難な状況の中で、そのあまりの困難のゆえにかえって不安に耐えきれず、性急な「要約」を、○×式要約を求めるという風潮が、現代の矛盾した社会全体の「方法」になっている。おかしいことは分かっていても、「他にしょうがないじゃないか」というその瞬間瞬間の「必要悪」としての「要約」が、歯どめを持たぬままどこまでも浸透しつつある。

 そして「恩人」のすごい所は、この現象の背後にある人間の本性にも触れていることです。前の文章には、直ちに次の分析が続きます。

しかもこの場合注目すべきことは、これがたんなる時代の「風潮」というのではなく、ぼくたち人間の本能的ともいうべき欲求に基づいている、という点にある。すなわちぼくは、民主主義という最大の知的フィクションを含むおよそあらゆる価値の相対化は、根本的にぼくたちの本能に反する性格を持っていると考える。たとえば、自分の「正しさ」を信じられる場合にも、なお無数の他者の「正しさ」を寛容に許すなどということは、ぼくたちにとって極めて不自然な「抑圧」とならざるを得ないのだ。そしてその不自然さは、言いかえれば、ぼくたち人間は、およそ敵味方がはっきりしない状況の中では本能的に不安でたまらない、という事実に対応するのは明らかにちがいない。ぼくたちは、明確な○×に代わる無数の「?」には本能的に耐えがたい。ぼくたちは、一刻でも早く敵味方を識別したい、少なくとも敵だけでも知っておきたい。たとえ粗雑な○×式に拠ろうとも、そしてまたそれが多くの誤解や偏見を含む危険があろうとも、ぼくたちはとにかく○と×を、いや×だけでもさっさとつけて自分の不安から逃れたい——。

 この分析は、現代の主要国リーダーの多く(あるいはほぼ全員)に当てはまることに驚きます。そして彼の直感から出た分析が、その後の学問的実験で証明されたことに、改めて驚きます。シーナ・アイエンガ―は、リーダーではない一般人においても、「選択肢が多いことが必ずしも歓迎されるとは限らない」ことを発見しました(桜井裕子訳『選択の科学』文春文庫、2010年)。

 その実験では、「24種類のジャムの売り場と、6種類のジャムの売り場では、前者は後者の10分の1しか売れなかった」といいます。科学的証明までは成されていないものの、チームやグループの構成メンバーは、最大でも7人、できれば5人か6人が良いという経験則とも合致します。

・情報の不確定性と「あれかこれか」の危険性

 恩人の指摘は「デジタル・トランスフォーメーション」が避けがたい現代では、さらに深刻になっているようです。デジタル世界では、1か0かを単位(bit = binary digit)として情報を表現するのが基本です。これは、情報の「意味」を考えることをとりあえず止めて、ビットで計算可能な「情報量」に基づいて、「形式」面だけに着目して情報を伝達・処理しようという、シャノンの「情報理論」に基づくものです。

 このようなデジタル的発想には、何でも「あれかこれか」の二者択一で考える誘因が潜んでいますが、世の中の事象がすべて「1か0か」で分類できるわけではありません。特に「言論の自由」が係るような「多元性の世界」では、「あれかこれか」の危険は常に強調しリマインドしておく必要があります。

 直近の例を見ても、漫画村に代表される著作権侵害サイトをネット上から削除(その実はアクセス不能化)すべきか否か、「言論の不自由展」といった企画を誰がどのように運営すべきかといった「際どい」事案については、慎重な判断が求められます。

 繰り返すようですが、情報の価値は時と場所と態様によって変化するもので、その「不確定性」こそ情報の本質なのですから、これを一刀両断に切り分けるのは至難の業であることを忘れないで欲しいと思います。

・「秘密保護のあり方」に適用した場合

 以上の懸念を情報法に適用した場合、わが国において秘密の保護法制が未整備の中で、EUの個人データ保護規制が先行するため、「バスに乗り遅れるな」とばかり、プライバシー保護優先主義が、無意識のうちに醸成されていることが心配です。さらに、その方法論がEUの影響を強く受けて「自己情報コントロール権」といった「基本権」あるいは「絶対的排他権」として議論されていて、英米法的プラグマティズムから離れていくことも懸念材料です。そこには、複雑に入り組んだ「二値的発想」の弊害が見て取れます。

 まず、人格権のような「不可侵の権利」と捉えれば、人格権の一種→絶対的排他権→差止命令、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)自己陶酔に陥る危険があります。ここでは、人格権から始まったはずなのに、前回紹介した所有権から始まる三段論の場合の、所有権類似→絶対的排他権→差止命令、といった三段論法と「うり二つ」になっていることにお気づきでしょう。

 第2の「二値的発想」は、プライバシーの保護がそれ以外の秘密の保護とは異質なものとされ、「特別な保護に値する」ものとされていることです。具体的に言えば、秘密の保護法制においては、a) 私人のプライバシー保護に資する「個人データ」の保護法制、b) 企業の秘密を保護する営業秘密の保護法制、c) 国家の機密を保護する特定秘密保護法制、の三者が適度のバランスをもって整備されるべきところ、a) だけが突出していることに警鐘を鳴らす人が少ないのです。

 営業秘密の3要件(① 非公知性、② 有用性、③ 秘密管理性)は、a) ~ c) の三種の秘密にほぼ共通ですが、特に② の「有用性」は「保有者が秘密だと思う情報はすべて保護される」のではなく、「保護されるには有用な情報であるという客観性が必要」という要件を課す点で重要です。つまり「主観秘」は保護の対象ではなく、「客観秘」であることが必要で、そのためにも ③ の管理性が必須になってきます。

 営業秘密と特定秘密はこうした要件を備えているのが普通ですが、プライバシーだけは主観的要素が強いので、より複雑な処理が必要になるのは避けられません。ところが現実は、そのプライバシー保護に「二者択一」を適用しているように見えます。私が「二者択一から三択になっただけでも大ジャンプ」と言うのは、こうした現象を念頭においてのことです。

 

東山「禅密気功な日々」(1) 会報から①

はじめに

待て、而して希望せよ。

 友の裏切りによって絶海の孤島の牢獄につながれて十数年。マルセイユの若い船乗りエドモン・ダンテスが、命をかけた脱獄のあと、譲り受けた莫大な財宝のもとに壮大な復讐をとげる『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ作)は、世にある小説の中で一、二を争うおもしろさだと私は思うが、最後はこの言葉で終わっている。

 若いころは、すべてを成就したモンテ・クリスト伯が、愛人となった、若く、美しい元奴隷エバとともに新しい人生に向かう帆船上の姿を、羨望の念で思い浮かべたものだが、いまは別の感慨のもとにこの言葉を噛みしめている。

 それは私が闘病の過程で禅密気功と出会い、それなりの修行の間、何度も噛みしめた言葉だった。気功を始めたからと言ってすぐ具体的効果がでることは少ないかもしれないが、希望を失わずに訓練を続ければ、それは莫大な富以上のもの、健康を与えてくれるのではないだろうか。だから、こう書きかえてもいい。

希望をもって待て、と。

病んで知る禅密気功のありがたさ

 私が禅密気功教室を見学するために、鎌倉芸術館をはじめて訪れたのは2005年7月30日だった。その前年の2004年夏、南方海上からだらだらと迷走しながら北上してきた台風10号をきっかけに風邪が悪化(私は気圧アレルギーだった)、1カ月以上の闘病を強いられた。翌05年2月、ハワイに寒さを逃れたつもりが、そこで突然、耳鳴りに襲われた。最初は冷蔵庫のモーター音のようなブンブンという小さな音だったが、しだいに大きくなり、寝ていても突然頭が割れるように痛くなり、飛び起きたりした。さらに私は1998年暮れに膀胱がんを発症、その時点までに4度の手術を受けていた。

 長年の疲れがどっと出たようで、このころの私の体調は絶不調、ハワイや鎌倉の鍼灸師、指圧師、泌尿科医、耳鼻咽喉科医、内科医などを転々とする状態だった。

 鎌倉気功教室はインターネットで見つけ、世話人の菅井一美さんに連絡した上で出かけた。教室に通い、朱剛先生の話を聞き、築基功を中心とする功法を習いながら、自分の体調不良が気の乱れのせいだということはすぐわかった。当時、鎌倉教室では、渡部悌子さんが教室開始前に初心者指導をしてくれており、ときどき行われる合宿へも誘ってくださった。

 そんなふうにして私は鎌倉教室に通い、湯河原や山中湖での合宿、中国の黄山、蘇州への研修旅行にも参加、多くの先達からいろんなことを教わり、少しずつ気功に親しんでいった。とくに黄山合宿は楽しく、いまでも何人かの〝猛者〟の顔を懐かしく思い出す。東京・江戸川橋の本部道場で行われる瞑想教室や各種功法の集中コースにも通った。

 長年の苦難の旅、我が「耳鳴りオデュッセイア」については、ここでは触れないけれど、気功13年でようやく見えてきた気についての自分なりの考えを、浅薄さを棚に上げて、記してみようと思う。

①    人は体内に滓をためながら生きている。

 私の家系にはがんは無用である。なぜ私だけががんになったのか、については大いに思い当たる節があった。会社員時代、ひどいストレス状況に追い込まれ、そのいらいらを下腹部に押し込めて何とか日々を過ごしているのを、自分でも十分意識していたからである。だからがんと言われたとき、これはストレスのためだと直感した。

 そこで私はこう考えた。

 人間はだれでもストレスをため込んで生きているのではないか。怒り、悲しみ、嫉み、妬みといったマイナス感情を、体内にためず、すぐ発散できる人がいるのもたしからしいが、多くの人はそれを少しずつ体内にためていく。「酒は愁えを掃う玉箒」と言うから、適度の飲酒は悪くないと思うが、当時の私は酒の飲み方も悪かったから、かえって愁えはたまったように思われる。

 それらのストレスをため込みながら、なんだかんだと言っても、倒れることもなく、それなりに健康で生きてきたということが、考えようによってはすごいことだと思われた。逆に言えば、人間の体はすごい潜在能力を持っていると言えるのではないだろうか。

②    還暦はまさに曲がり角である。

 がんが見つかったのは2年後に60歳の定年を迎えるころだった。そこで私はまた考えた。ストレスを体内にため込む能力の限界に達したために、不具合が顕在化してきたのではないか。これが還暦の意味ではないだろうか、と。

 人間、だれしもこの歳になると、体の異常を訴えるものである。不具合や病気がどこに出てくるかは人さまざまで、そこには長年たずさわった仕事の性質、日々の姿勢、食習慣、心のありようなど、その人の長い人生が反映されているように思われる。病気もまた個性的であらざるを得ない。私の場合、主なる病巣は下腹部にあり、だから後年の2007年には胆嚢結石の開腹手術もしている。

③    スムーズに流れなくなって、はじめて「気」づく。

 なぜ多くの人はストレスを体内にため込んでしまうのだろうか。それは気の流れが滞るためだと、私は気功をしながら強く思うようになった。滞るというより、滞らせるからで、気がスムーズに流れていれば、このように体内に滓がたまることはない(はずである)。

 気とは何か。それはエネルギーである。粒子のようでもあり、波のようでもある、などと言われるけれど、私には気が実在するのは明らかなように思われる。なぜ西洋医学的に気の実在を証明できないのか。それは証明する気がないから、あるいは簡単には証明できないから、とりあえず保留されているのかもしれない。現段階では、いろんな計器がその片鱗を拾うことはあっても、それを雑音(ノイズ)として捨て去っているのではないかと私は思っている(バイオレゾナンスという治療法は、これらのノイズを拾おうとする努力ではないだろうか)。

 もっとも、健康な人は気をあまり感じないようである。気は、その流れが妨げられて初めて「気」づくのかもしれない。耳鳴りはもちろん三半規管など器官の損傷によるものも多いだろうが、私の場合、頭にたまりすぎた気が痙攣する音だった気がする。今でも耳鳴りようの音はときどき聞こえるが、気の流れる音だと思うとあまり「気」にならない。

④ リラックスして気の流れを整え、体のごみを出す。

 だから全身をリラックスして気の流れを整えることが、健康維持に不可欠である。そのための優れた功法こそ「禅密気功」と言っていい。

 しかしすでに大量にため込んだ滓を除去することはできないのだろうか。何度も膀胱がん(と言ってもポリープ用のもの)が再発するのにうんざりしていたころ、医者が「膀胱のまわりにはタケノコの根っこみたいに、がんの素がびっしり張り巡らされているのだから、何回でも出てきますよ」と言った。なるほど、がんそのものよりタケノコの根っこが問題なのだ。

 このタケノコの根っこを退治するにはどうすればいいのか。また、なぜ胆嚢や腎臓に石が出来るのだろうか。石をつくる作用が体に必要だとすれば、それは骨づくりのためである。その造骨作用が脱線して他の臓器に及ぶのはまことに不思議である。意識してやれることではもちろんない。医学的には、がんも含めて、これらの疾病は遺伝子の先天異常あるいは突然変異だと説明されるようだが、この遺伝子突然変異もまた気の流れと関係しているのではないか、と私はひそかに、というか、勝手に〝睨んで〟いる。だから、気功でがんが消えることもあっておかしくない。

 アメリカの科学記者が長命科学の最先端をルポした『寿命1000年』という本によると、老化は生物に避けられない「宿命」ではなく、ただの「病気」だという。病気なら直せるわけで、本書に登場する一奇才は、「老化は基本的には体の細胞にゴミがたまることで起きる。だからそのゴミを除去することができれば、969歳まで生きたとされる旧約聖書メトセラの夢を実現できる」と言っているらしい。

⑤    滓を解凍して気を放散する。

 さて、タケノコの根っこである。気功修行の試行錯誤の中で、私は患部に意念を強く当てることで、体の滓を解凍する技を会得しつつあると思っている。滓とは体内のごみだけれど、とくに内臓や筋肉の内部、あるいは周辺にたまった気のわだかまりである。滓は細胞レベルでたまっている。滓が解凍すると、気がほぐれて出てくる。解放された気はすみやかに体外に出してやらないと、かえって体に害を及ぼす。

 閉じ込められている良性腫瘍と外に出てきたがんとの違いに似ている。そうであれば、滓はほぐさない方がいいかというと、それは違う。老化を促進するだけである。滓の堆積こそが老化と言えるのではないだろうか。東洋医学では虚実補瀉、「まず病邪の実を瀉す、ついで正気の虚を補う」と言う。

 私の修行の大半は、日々の気功で体の気をうまく流してやりつつ、同時にすでに蓄積してしまった滓を解凍放散することに費やされた。4年ほどがんは再発しなかったのに、2007年に5度目の手術をして、それからまた頻繁に再発、2016年には2度の手術をした。これは正直言って辛かった。医者には「気功なんかで治るわけがない。抗がん剤を使った方がいい」とも言われたが、抗がん剤には抵抗があり、別の病院で免疫療法をしてもらった。これはこれで厳しい治療だったけれど、その後2年間は再発せずに過ごしている。免疫療法の効果だけではなく、タケノコの根っこがほぐれつつあるように思われる。

 後年、がんが頻発したのはよく言われる好転反応だと思う。解凍で発生した気をうまく排斥できなかったため、それがかえって悪さをしたのだろう。

⑥ 「待つ」ことが大切である。

 体を動かして、どこかひっかかるところに滓がたまっている。右に回す時はスムーズだが、左周りの時にひっかかるということもある。首筋、肩の関節、脊柱など、ボリボリ、ギシギシなるのも滓のせいであることが多い。筋肉や関節を取り巻く滓のせいでもあるし、筋肉そのものが膠やビーフジャーキーのようにひからびてしまった場合もある(この場合は音すらしないわけである)。私も、長い間、左肩と左肘がギシギシして、動かすと痛くもあり、これは治らないかもしれないと思ったけれど、数年たつと消えていた。時間はかかるが、ここは待たなくてはいけない。

 筋肉トレーニング前のストレッチで、インストラクターが「筋肉が緩むのを待つ」と指導しているのを見て、大いに納得した。ストレッチにも緊張は禁物、無理に緩めようとするのではなく、緩むのを「待つ」わけである。気のわだかまりも、それほど大きくなければ、青空に浮かぶ雲が次第に薄くなって消えていくようにほぐれていく。

待て、而して希望せよ


会報から①
会報から②
会報から③

古藤「自然農10年」(1)

命あふれる棚田、私の花粉症も消えた

 今年の猛暑は山すその私の棚田にも容赦なく押し寄せたが、お盆が過ぎて急に秋の気配がただようになった。モズがけたたましく鳴き、朝露を含んだ畦道は秋の虫が元気に跳ねる。青々と繁る稲をかき分けて進むと、舞い上がる羽虫を食べるのか、アキアカネが空いっぱいに群れ飛び、私の後を追う。

 農薬を使わない田畑は元気な命にあふれている。自然農に出会って10年、メタボ気味だった体重は十数キロ軽くなり、足腰は強くなった。基準を超えていたコレステロール、尿酸値も現役時代がうその様におさまり、飲み薬と目薬が手放せなかった花粉症まですっかり消えた。

 畑にした棚田では、里芋が雨に恵まれて今年はよく育った。初めて安納芋を植えたサツマイモ畑は畑一杯に葉が広がる。タマネギ、ジャガイモは春に1年分を収穫、お米は自給以上で余分は「健康玄米」として売っている。トマト、キュウリ、ナスなど毎日の食材は、たいてい庭の畑でまかなえる。

 自然農の米や野菜は、健康な命の味と香りがする。養殖と天然の魚の違いが分かる人は同じように自然農の味の違いが分かるだろう。ナスは小さく傷があっても身がしまって甘い。タマネギは、おいしいだけでなく軒下につるすと腐らずに1年、保存できる。こうした命の力あふれる実りを手にできただけでなく、思いもしていなかった大きな恩恵があった。

 一つは、カエルやミミズ、ムカデまでも可愛いと眺める目になったことだ。田畑の生き物は食べたり食べられたり、いつも懸命に生きている。その強さ、はかなさ、ひた向きさは人の命と変わるところがない。ブヨやアブは人を刺しに飛んでくるが、ムカデは頭に這い上がって来た時も逃げるのに必死で刺すことはない。私はひたすら逃げるムカデの額に流れる脂汗を想像することが出来る。

 周辺の森に住むカラスは、しゃがんで畑の手入れをしていると様子をのぞきにやって来る。夕方は、いろいろ声音を変えて林の中で会話を交わし、雨の気配が近づくと静まって休む。キツツキが小気味よく木をたたき、フクロウは夕方が近づくと間のびした声で教えてくれる。

 だから一日、人がやって来ない棚田で孤独を感じることはない。すべての命と一緒に大自然に包まれ、生かされている実感が、やすらぎと安心を与えてくれる。命のあるかぎり自然農で暮らすことにした選択は間違っていなかった。今、少しも迷い、不安がない。充足感を持って余生を暮らせていることが、何よりも大きなもう一つの恩恵である。

・土地を耕さず、農薬も使わない

 それに使った農具は鍬、スコップ、手鎌のわずか3つ。自然農は、のちに詳しく説明するように、肥料を使わないばかりか、土地も耕さない。中古で購入した軽トラックに草刈り機とこの3つを積めば道具はすべてすむ。自然農が耕すことをやめた恩恵はとてつもなく大きいのだ。農耕が文化となって1万年ともいわれる人類史で、大逆転の革命ではなかろうか。耕さず、農薬、肥料を使わなくても自然が豊かな恵みをもたらすのは、ただ野山を見るだけで十分である。

 山と同じように耕さない畑は、刈った草や生き物の排泄物、死骸が積み重なり、おびただしい微生物の働きで自然に豊かになる。田畑を繰り返して耕す現代農業は、固くやせた土にして大量の化学肥料が必要になり、病気がふえて農薬も欠かせない悪循環に陥っているのではないか。大型農機を作るために投入される全エネルギーを考えれば壮大な無駄だと思われる。

 政治家は永続可能な農業や国民を豊かにする国土づくりに興味を示さず、儲かる農業、自らの票につながる農政に走る。農学部の研究も利益を生むバイオテクノロジーの分野が脚光を浴び、本来の田畑の研究は脇に追いやられている。私の様な老人初心者が、いとも簡単に大きな恵みと健康を手にできた自然農は、こうした日本農業の現状に鋭い問いを突き付けているように思えてならない。

 

 

林「情報法」(45)

二者択一と三択問題

 テレビのクイズ番組を見ていると、「AかBか」という二択問題が多いように感じます。朝方、同姓の林修さん(親戚ではありません)が登場する「ことば検定」は青・赤・緑の三択ですが、緑は番組スタッフが作る「選択肢もどき」(これもfakeの一種?)ですから、実質は二択です。これはなぜでしょうか? デジタル化やトランプ現象と関係があるのでしょうか? あまりに外気が暑いので、少し気楽に考えてみましょう。なお本テーマは、次回に続きます。

・法律は網羅的とは限らない

 前回述べたとおり、公開と秘匿の間は連続的なスぺクトラムとなっており、両極端だけを見ていたのでは、対処しきれない部分が出てきます。ところが、これまでの立法は、とりあえず中間的なグレイゾーンは後回しにして、典型的な例だけを扱うことが多かったように思います。前回は、公開と秘匿に加えて、真実か虚偽かというマトリクスを考えましたが、今回は後者の代わりに「情報の保有者が政府機関か民間企業か」という軸を使って、代表的な法律を示すと、以下の図表のようになります。

 この図表を一見しただけでは、それぞれの領域ごとに代表的な法律が揃っていて、よく整備されているように見えるかもしれません。しかし、個々の法律の適用範囲を子細に見ていくと、公開と秘匿や公的・私的保有者のスぺクトラムうち、重要な部分がいくつも抜け落ちていることに気づきます。

 最も新しい法である特定秘密保護法を例に取ると、これは長らく空白であった「行政機関の情報で秘匿すべきもの」について規定することで、法の欠缺(不存在)を補完するものです。しかし、それでもなお「行政機関以外の政府機関」(国会や裁判所)に関する立法は欠けたままです。ましてや政府と民間の協働による組織(Public-Private Partnership = PPP)や、公開と秘匿の境目にある情報の扱いなどは、カバーされていません。

・Controlled Unclassified Information

 公開と秘匿の中間があるなんて信じられないかもしれませんが、米国でCUI = Controlled Unclassified Information(秘密情報に分類されないが、なお取扱いに制限が課せられる情報)という矛盾に満ちた名前で呼ばれているものは、9.11でテロの事前抑止に失敗した教訓として注目されるようになった概念です。従来の Need-to-Know の原則に加え(場合によっては、それに代えて)、 Need-to-Share の必要性を指摘するものだからです。

 テロの教訓を踏まえて発出された大統領令(Executive Order)13556 は、情報を区分(classify)し、アクセスできる「有資格者」を制限すること(security clearance)も大切だが、インテリジェンス機関等で情報を共有することも、それに劣らず大事だという、ある種の意識改革を伴うものです。ご承知のように、情報は秘密と区分されるもの(classified information)とそうでないもの(unclassified)に明確に分けられ、前者はさらにtop secret・secret・confidentialに三分されます。

 ところが、こうした厳密な仕組みも、現場ではその通りには運用されていませんでした。9.11テロ以前から、unclassified情報の中にも、連邦政府の各機関でSBU(Sensitive But Unclassified)とか FOUO(For Official Use Only)という名称で、アクセスや配布が制限されてきた情報が100 種類以上あったとされます。これらを改めて、CUIという形で統一的に扱う方針を定めたのが上記の大統領令なのです。いわば「生活の知恵」として運用されてきた方法を、追認し正規化したという側面もあるのです。

 大統領令を受けて国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration)が政府部門のおける実施方針を策定し(2015 年 12 月 32 CFR 2000)、国立標準技術研究所(National Institute of Standard and Technology)が非政府部門への展開指針を定めています(2015 年 6 月 NIST 800-171)。特にわが国の企業が注目しているのが、政府調達との関連です。民間企業といえども、米国政府の仕組みと同等のルールを定め遵守していないと、「調達先として不適格」にされる(つまり米国政府の調達から除外される)リスクがあるからです。

 この問題は根深いもので、ファーウェイ事件などとも底流でつながっており、学者としては以下の諸点を解明する必要があると思っています。① なぜ CUI が必要なのか、② 連邦機関横通しの手続きはどこまで可能か、③ 従来のシステムからの移行はスムーズに進むのか、④ 移行費用や格付け担当者の育成はどうするのか、⑤ 情報の秘匿と共有のバランスはどうとるのか、⑥ 情報公開法(FOIA)との関連はどうか。

 しかし、とりあえず本稿との関連では、あれほどインテリジェンスに敏感な米国においても、情報を一意に分類することがいかに難しいかを示す事例として、理解していただければ良いかと思います。

・二択から三択への大ジャンプ

 さてわが国に戻って、ごく最近になって二択択一ではなく三択を前提にした法律が登場したので、私も驚きました。それは、7月1日から施行されたばかりの、改正不正競争防止法において導入された「限定提供データ」という概念です。従来から「営業秘密」として保護されるための3要件は、① 非公知性(公然とは知られていないこと)、② 有用性(法的に保護する利益があること)、③ 秘密管理性(情報の保有者が秘密として管理していること)と規定されています。

 これは秘密保護法の一般原則となり得る要件ですが、同法の規律対象は従来、同一社内の情報だけと考えられてきました。しかし現代の企業は、他社と対等な持ち分で合弁会社を持ったり、長期の供給契約で提携したり、コンソーシアムに参加したりと多様なビジネスを展開しており、上記の3要件が同一社内だけでなく、サプライ・チェーンの関係者の間等もカバーして欲しいとの要望が強くなってきました。データの共有が事業成功の要になる傾向が高まってきたため、「情報共有」に基づく事業展開が円滑に進められないと困るという訳です。

 そこで、「限定提供データ」という概念が導入されたのです。これは「業として特定の者に提供する情報として電磁的方法により相当量蓄積され、及び管理されている技術上又は営業上の情報(秘密として管理されているものを除く。)」をいうとされています(法第2条第7項)。条文のカッコ内が従来の「営業秘密」で、改正された部分は「それを超える」ものになります。

 本稿の文脈から見た限定提供データの画期性は、「データ」とりわけ電子化されたデータに着目した点も然ることながら、「公有(あるいは公開)と私有の間に限定共有という第3類型を認めた」点にあると思われます。一見すると大した工夫ではなさそうですが、実は法学は「二値的分類」を基本論理としているので、「二択が三択になった」だけでも、革命的な変化ともいえます。

 二択しかないとすれば、私が「所有権アナロジー」と呼んでいる現象、つまり情報という占有できない対象に関しても何らかの支配権が必要だと考え、「限りなく所有権に近い扱い」をしようとする誘因が生じます。現行法を変える必要もなく、所有権類似―>絶対的排他権―>差止命令可能、といった具合に、手持ちの法技術で問題が簡単に解決できる(ように見える)からです。「二択の魅力」に魂を奪われた結果と言えるかもしれませんが、これを三択に変えるだけでも、法律に対する見方が違ってきます。

 なお「限定提供データ」を私の専門分野との関連で見ると、サイバー・インシデント情報の共有は、立法事実としては挙げられていませんが、今後この制度を利用する可能性があるかどうか、慎重に見守って行きたいと思います。そこから再び「革命的」なアイディアが出現するかもしれません。

新サイバー閑話(27) 令和と「新選組」②

まかり通る理不尽 

 テレビ朝日が開局60周年夏の傑作選と銘打って、平成19(2007)年に制作したドラマ『点と線』の特別編集版(8月4日放映)を見た。松本清張の社会派推理小説の傑作で、制作当時も大いに感心したが、今回はまた別の意味で大いに考えさせられた。わずか十数年前にはテレビ局もこのような重厚な傑作を生みだしていたということである。原作、脚本、演出、鳥飼刑事を演じたビートたけしをはじめとする豪華出演陣、すべてにおいて今昔の感がある。その底には、巨悪を憎む市井の人々の素直な怒りがたぎっているように思われた。

 政官界の汚職を隠蔽するため、事情を知っている下級役人が心中と見せかけて殺される。警察の執拗な捜査で事が明るみに出そうになった時、殺人の実行犯は自殺するが、その間に隠蔽失敗の責任を問われて、某官庁局長が青酸カリで自殺することを迫られるシーンがあった。それを見ながら、森友疑惑で決裁文書を改竄したとされる財務省の佐川宣寿局長(その後国税庁長官)も怖い目にあったのではないかと想像していたら、今朝(8月10日)の新聞に大阪地検特捜部が佐川元国税庁長官らを再度不起訴にしたとの報道があった。これで佐川氏は司法的な責任追及を免れたわけである。 

「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止に関連しては、企画展の芸術監督をつとめたジャーナリストの津田大介氏が参加するという理由だけで、神戸市の外郭団体が企画していたシンポジウムが、やはり抗議を受けて中止に追い込まれている(9日)。

 理不尽なことへの怒りの声が市井からも衰退していくように思われる令和である。

新サイバー閑話(26) 令和と「新選組」①

幕開けは風雲急

 かつての新撰組は幕藩体制維持を掲げたが、れいわ新選組は安倍政権打倒を旗印としている。新撰組は剣を武器としたが、れいわ新選組はSNSというコミュニケーションツールを駆使する。声の広がりが武器である。山本代表は、「命をかけている」、「本気だ」という意思を「新選組」に託したのだろう。

 先日、れいわ新選組に寄付をしたとき、メッセージに「れいわ新選組は日本の希望です」と書いた。

 名古屋の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、開催3日で中止に追い込まれた事件は、名のある文士がお先棒を担ぎ、大物市長が騒ぎ、自治体の長や政権がここぞとばかりに同調するという、いかにも戦前の思想統制を思わせる不気味な事態である。ここで脅かされているのは、言うまでもなく「表現の自由」である。にもかかわらず、世論調査では安倍政権支持がむしろ増えているのだという(メディアも、何かあると、それに直接対決するよりも、民意は奈辺にありやと、世論調査をやって報道していればいいと安穏と構えている場合ではないように思われる)。

 悲憤慷慨メール 鳴きやまぬ 老いの夏(^o^)                                           

 

林「情報法」(44)

公開と真実の間

「嘘と秘密」の間に微妙な関係があることから類推すると、「公開と真実」の関係も一筋縄ではいかないようです。「公開情報」というと信ぴょう性が高そうに聞こえますが、その推定は意外に不確かであることが、フェイク・ニュースの氾濫で明らかになったからです。とすると、「情報が公開されれば真実に近づける」というのも限界があり、私たちは「公開と秘匿」と「真実と虚偽」のマトリクスの中で、嘘を見抜く力を身につけていく必要がありそうです。これこそ、サイバー・リテラシーの核心でしょうか。

・情報の公開と説明責任

 情報が社会生活にとって必要不可欠であることは、今さら言うまでもないでしょうが、学問の領域でそのことがしかと認識されたのは、「情報化」がかなり進んでからです。もちろん情報科学の分野では、コンピュータの実用化と同じ時期、つまり1940年代末から自覚されていました。しかし社会科学の分野では、1963年のケネス・アローの論文「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care」が最初とされ、何度も紹介した経済学の「情報の非対称性」の分析が、これを継いだと思われます。

 その後はあらゆる学問分野で、情報の重要性が説かれてきましたが、身近なのは、情報が不足したり歪んでいたりすることが経済取引にどう影響するかを考える経済学と、同じ状況で民主主義が可能かどうかを考える政治学の分野でしょう。特に後者は、「言論の自由」や「知る権利」を基礎づけることになるので、少なくとも民主主義国家では「基本中の基本」の理念となっています。

 しかし、その理念が実務手続として結実し、行政機関や民間企業が「情報を公開する」ことが、組織の社会的責任の一環とされるようになったのは、スエーデンなどの例を別にすれば、ごく最近のことです。情報の公開は関係者の請求を待って行なわれることもあります(受け身の情報公開)が、時代の加速化とともに、記者会見やホーム・ページでの発信、SNSへの投稿(積極的な情報開示)など、より迅速で手軽な手段へとシフトしています。トランプ大統領などは、その代表格と言えそうですが、当の本人が「フェイク・ニュース」の発信源でもあるのは何とも皮肉です。  

また直近の例では、話芸の才があるタレントを多数抱えた吉本興業の社長が、「こんな記者会見をしてはいけない」という反面教師になったのは、痛ましい感じさえします。情報化の時代には「沈黙は金」ではなく、「話さなければわからない」のは事実ですが、「話す量が多ければ効果も高い」し「洗いざらい話すのがベスト」とも言えないところがあります。

・公開―秘匿の軸と、真実―虚偽の軸

 それでは、情報の公開―秘匿の軸と、真実―虚偽の軸とを組み合わせてみると、どのような知見が得られるでしょうか? 次の表はそれを簡潔にまとめたものです。

 この表が教えてくれるのは、ITなどの技術進歩に伴って情報の公開が容易になる反面、情報を秘匿する手続が面倒になってコストがかかるため、公開情報の比率が高まって行く、という傾向のようにも思えます。確かに、技術進歩により従来とは桁違いの個人データが流通し蓄積されていくため、プロファイリングに伴うプライバシー侵害の危険が増大している、と心配する向きがあるのはもっともです。

 しかし、それは物事の一面にしか過ぎません。公開情報が増えれば、逆に私が「あなただけ情報」と呼んでいる、特定の相手にしか開示しない秘匿情報の価値も上昇するからです。インターネットの普及で過剰ともいえる情報が氾濫すると、「どれを信じて良いかわからない」状況になりますので、会員制の情報交換の場や会員制のチャットなど、さらには「永田町だけで流通する情報」など、限られた範囲だけで共有される情報の重要性も、高まってくるからです。

 しかも情報の価値には、2つのパラドクスがあります。第1のパラドクスは「誰もが知っている情報は価値が低い」と同時に、「誰も知らない情報」は同様に「価値が低い」か「極端に価値が高い」かの両極端に分かれるということです。最後の「極端に価値が高い」例は、すぐには思いつかないかもしれませんが、企業の秘密である営業秘密の例でいえば「コカコーラの原液の配合比率と配合手順」を、国家の秘密である「特定秘密」の例でいえば「金正恩の最新の健康状態」を想定してください。これらの情報が公開の場に出ることは少なく、如何に情報化が進んでも「特定少数者の間で共有されるだけ」に留まるのが通例です。

 そこで、情報の価値のスぺクトラムを次のように描けば、左端の価値は低く、右端の価値は低いものと極端に高いものに分かれ、中間の価値はそれなりに高いということになりそうです。

 ここで本稿の分類との関連では、「誰もが知っている」を「公開」と、「誰も知らない」を「秘匿」と結びつけるのは自然のことでしょう。すると、仮に倫理的にいえば「情報社会においては、なるべく多くの情報を公開すべきである」という命題が正しいとしても、経済学的には「情報は秘匿して価値を高めるのが良い」というインセンティブは消すことができないことになります。更に、倫理的には全く推奨できないにもかかわらず、「秘匿情報の中に嘘を混ぜておく」という作戦が、後を絶たないことになります。

 拙著において(そして本稿においても)、知財型情報の保護を論ずるとともに、それと同程度の密度を持って、秘密型情報の保護と管理方式を論じなければならないと力説しているのは、こうした理解に基づくものです。

・公開・秘匿と情報の価値

 しかし、以上の説明と若干矛盾するかもしれませんが、そもそも「情報の価値」は測定可能か、という第2のパラドクスがあります。物理的な財貨でも、設計者の意図とは違った利用法が市場で発見され、大ヒット商品に化けるということが、たまには起こり得ます。しかし情報の場合には、たまに起こるのではなく、それが常態になり「情報の不確定性」と呼ばれています。

 不確定になるのは、情報の価値が「時と場所と態様」によって、大きく変化するからです。「時」の変化とは、同じ私が同じ情報を得た場合にも、ある決断の前では大変な価値があるが、決断後には無意味になってしまう、といった例を想定してください。「場所」の変化としては、同じ情報を元にした提案書の社内会議をしても、イギリス支社では歓迎されたが、日本の本社では嫌われた、といった例を想定してください。「態様」は、同じ情報を上司に伝える場合と部下に伝える場合、さらには記者会見で公表する場合では、訴求点を変えないとアピールしない、といった例を考えていただけると良いかと思います。

 このような情報の特質は、量子論における「不確定性」(「シュレディンガーの猫」の比喩が有名です)と通ずるものがあるので、私はこの語を使っているのですが、「不確実性」とどう違うのかを未だに上手に説明できません(英語では両者ともuncertaintyです)。それどころか、理系の研究者からは「むやみに不確定性と言わない方が良い」という、親切な忠告も受けています。そこで、これ以上の深入りは止め、このような世界で生きていくためには、どのようなリテラシーが必要かを考えてみましょう。

・サイバー・リテラシーの核心

 情報化の深化、とりわけインターネットの登場以前には、「権威」が存在したと思います。ある分野の専門家、特定の技能や資格を持った人、創造力に富んだ表現者、政治家として尊敬を集まる人、などなど。こうした「権威」はある種「近寄りがたい」もので、事実直接面談することや、ノウハウを取得することは不可能に近い状態でした。

 ところが、インターネットに代表される情報技術の登場は、こうした「権威」を形式知化して伝達・理解可能なものに転換してしまいました。今後もAIの普及によって、形式知化と伝達・アクセス可能性は、ますます拡大していくでしょうから、この傾向はしばらく止まることはないと思われます。これは「権威の消滅」と理解することもできますが、その実は権威を解体して、「誰でも権威になれる」可能性を開いたともいえます。インターネットでは才能ある少数者だけが情報を発信するのではなく、誰でも発信者になれるからです。

 しかし、こうして情報量が飛躍的に伸びていく中で、権威が衰退していくと、頼るのは自分だけになってしまいます。これまでなら、マスメディアの言説は「一応信頼できる」として、それに頼ることができましたが、今日では誰が最も信頼できるのかは、極めて流動的になってしまいました(先の「情報の不確定性」につなげれば、「権威の不確定性」となるでしょうか)。

「自己責任」という言葉がしばしば聞かれるようになったのは、このような「権威なき社会」では、最終的には「自分を頼りにするしかない」からだと思われます。考えてみれば「情報処理有機体」(フロリディの用語では Informational Organism = Inforg)である人間が過酷な状況を生き延びてきたのは、「環境に対応するように情報処理を巧みに実践してきた」からかもしれません。その基本はリテラシーと呼ばれることが多いと思いますが、サイバー時代にふさわしい「サイバー・リテラシー」の核心は、「情報の真偽と価値を見抜く力」であろうと思われます。