東山「禅密気功な日々」(1) 『会報から』①

はじめに

待て、而して希望せよ。

 友の裏切りによって絶海の孤島の牢獄につながれて十数年。マルセイユの若い船乗りエドモン・ダンテスが、命をかけた脱獄のあと、譲り受けた莫大な財宝のもとに壮大な復讐をとげる『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ作)は、世にある小説の中で一、二を争うおもしろさだと私は思うが、最後はこの言葉で終わっている。

 若いころは、すべてを成就したモンテ・クリスト伯が、愛人となった、若く、美しい元奴隷エバとともに新しい人生に向かう帆船上の姿を、羨望の念で思い浮かべたものだが、いまは別の感慨のもとにこの言葉を噛みしめている。

 それは私が闘病の過程で禅密気功と出会い、それなりの修行の間、何度も噛みしめた言葉だった。気功を始めたからと言ってすぐ具体的効果がでることは少ないかもしれないが、希望を失わずに訓練を続ければ、それは莫大な富以上のもの、健康を与えてくれるのではないだろうか。だから、こう書きかえてもいい。

希望をもって待て、と。

病んで知る禅密気功のありがたさ

 私が禅密気功教室を見学するために、鎌倉芸術館をはじめて訪れたのは2005年7月30日だった。その前年の2004年夏、南方海上からだらだらと迷走しながら北上してきた台風10号をきっかけに風邪が悪化(私は気圧アレルギーだった)、1カ月以上の闘病を強いられた。翌05年2月、ハワイに寒さを逃れたつもりが、そこで突然、耳鳴りに襲われた。最初は冷蔵庫のモーター音のようなブンブンという小さな音だったが、しだいに大きくなり、寝ていても突然頭が割れるように痛くなり、飛び起きたりした。さらに私は1998年暮れに膀胱がんを発症、その時点までに4度の手術を受けていた。

 長年の疲れがどっと出たようで、このころの私の体調は絶不調、ハワイや鎌倉の鍼灸師、指圧師、泌尿科医、耳鼻咽喉科医、内科医などを転々とする状態だった。

 鎌倉気功教室はインターネットで見つけ、世話人の菅井一美さんに連絡した上で出かけた。教室に通い、朱剛先生の話を聞き、築基功を中心とする功法を習いながら、自分の体調不良が気の乱れのせいだということはすぐわかった。当時、鎌倉教室では、渡部悌子さんが教室開始前に初心者指導をしてくれており、ときどき行われる合宿へも誘ってくださった。

 そんなふうにして私は鎌倉教室に通い、湯河原や山中湖での合宿、中国の黄山、蘇州への研修旅行にも参加、多くの先達からいろんなことを教わり、少しずつ気功に親しんでいった。とくに黄山合宿は楽しく、いまでも何人かの〝猛者〟の顔を懐かしく思い出す。東京・江戸川橋の本部道場で行われる瞑想教室や各種功法の集中コースにも通った。

 長年の苦難の旅、我が「耳鳴りオデュッセイア」については、ここでは触れないけれど、気功13年でようやく見えてきた気についての自分なりの考えを、浅薄さを棚に上げて、記してみようと思う。

①    人は体内に滓をためながら生きている。

 私の家系にはがんは無用である。なぜ私だけががんになったのか、については大いに思い当たる節があった。会社員時代、ひどいストレス状況に追い込まれ、そのいらいらを下腹部に押し込めて何とか日々を過ごしているのを、自分でも十分意識していたからである。だからがんと言われたとき、これはストレスのためだと直感した。

 そこで私はこう考えた。

 人間はだれでもストレスをため込んで生きているのではないか。怒り、悲しみ、嫉み、妬みといったマイナス感情を、体内にためず、すぐ発散できる人がいるのもたしからしいが、多くの人はそれを少しずつ体内にためていく。「酒は愁えを掃う玉箒」と言うから、適度の飲酒は悪くないと思うが、当時の私は酒の飲み方も悪かったから、かえって愁えはたまったように思われる。

 それらのストレスをため込みながら、なんだかんだと言っても、倒れることもなく、それなりに健康で生きてきたということが、考えようによってはすごいことだと思われた。逆に言えば、人間の体はすごい潜在能力を持っていると言えるのではないだろうか。

②    還暦はまさに曲がり角である。

 がんが見つかったのは2年後に60歳の定年を迎えるころだった。そこで私はまた考えた。ストレスを体内にため込む能力の限界に達したために、不具合が顕在化してきたのではないか。これが還暦の意味ではないだろうか、と。

 人間、だれしもこの歳になると、体の異常を訴えるものである。不具合や病気がどこに出てくるかは人さまざまで、そこには長年たずさわった仕事の性質、日々の姿勢、食習慣、心のありようなど、その人の長い人生が反映されているように思われる。病気もまた個性的であらざるを得ない。私の場合、主なる病巣は下腹部にあり、だから後年の2007年には胆嚢結石の開腹手術もしている。

③    スムーズに流れなくなって、はじめて「気」づく。

 なぜ多くの人はストレスを体内にため込んでしまうのだろうか。それは気の流れが滞るためだと、私は気功をしながら強く思うようになった。滞るというより、滞らせるからで、気がスムーズに流れていれば、このように体内に滓がたまることはない(はずである)。

 気とは何か。それはエネルギーである。粒子のようでもあり、波のようでもある、などと言われるけれど、私には気が実在するのは明らかなように思われる。なぜ西洋医学的に気の実在を証明できないのか。それは証明する気がないから、あるいは簡単には証明できないから、とりあえず保留されているのかもしれない。現段階では、いろんな計器がその片鱗を拾うことはあっても、それを雑音(ノイズ)として捨て去っているのではないかと私は思っている(バイオレゾナンスという治療法は、これらのノイズを拾おうとする努力ではないだろうか)。

 もっとも、健康な人は気をあまり感じないようである。気は、その流れが妨げられて初めて「気」づくのかもしれない。耳鳴りはもちろん三半規管など器官の損傷によるものも多いだろうが、私の場合、頭にたまりすぎた気が痙攣する音だった気がする。今でも耳鳴りようの音はときどき聞こえるが、気の流れる音だと思うとあまり「気」にならない。

④ リラックスして気の流れを整え、体のごみを出す。

 だから全身をリラックスして気の流れを整えることが、健康維持に不可欠である。そのための優れた功法こそ「禅密気功」と言っていい。

 しかしすでに大量にため込んだ滓を除去することはできないのだろうか。何度も膀胱がん(と言ってもポリープ用のもの)が再発するのにうんざりしていたころ、医者が「膀胱のまわりにはタケノコの根っこみたいに、がんの素がびっしり張り巡らされているのだから、何回でも出てきますよ」と言った。なるほど、がんそのものよりタケノコの根っこが問題なのだ。

 このタケノコの根っこを退治するにはどうすればいいのか。また、なぜ胆嚢や腎臓に石が出来るのだろうか。石をつくる作用が体に必要だとすれば、それは骨づくりのためである。その造骨作用が脱線して他の臓器に及ぶのはまことに不思議である。意識してやれることではもちろんない。医学的には、がんも含めて、これらの疾病は遺伝子の先天異常あるいは突然変異だと説明されるようだが、この遺伝子突然変異もまた気の流れと関係しているのではないか、と私はひそかに、というか、勝手に〝睨んで〟いる。だから、気功でがんが消えることもあっておかしくない。

 アメリカの科学記者が長命科学の最先端をルポした『寿命1000年』という本によると、老化は生物に避けられない「宿命」ではなく、ただの「病気」だという。病気なら直せるわけで、本書に登場する一奇才は、「老化は基本的には体の細胞にゴミがたまることで起きる。だからそのゴミを除去することができれば、969歳まで生きたとされる旧約聖書メトセラの夢を実現できる」と言っているらしい。

⑤    滓を解凍して気を放散する。

 さて、タケノコの根っこである。気功修行の試行錯誤の中で、私は患部に意念を強く当てることで、体の滓を解凍する技を会得しつつあると思っている。滓とは体内のごみだけれど、とくに内臓や筋肉の内部、あるいは周辺にたまった気のわだかまりである。滓は細胞レベルでたまっている。滓が解凍すると、気がほぐれて出てくる。解放された気はすみやかに体外に出してやらないと、かえって体に害を及ぼす。

 閉じ込められている良性腫瘍と外に出てきたがんとの違いに似ている。そうであれば、滓はほぐさない方がいいかというと、それは違う。老化を促進するだけである。滓の堆積こそが老化と言えるのではないだろうか。東洋医学では虚実補瀉、「まず病邪の実を瀉す、ついで正気の虚を補う」と言う。

 私の修行の大半は、日々の気功で体の気をうまく流してやりつつ、同時にすでに蓄積してしまった滓を解凍放散することに費やされた。4年ほどがんは再発しなかったのに、2007年に5度目の手術をして、それからまた頻繁に再発、2016年には2度の手術をした。これは正直言って辛かった。医者には「気功なんかで治るわけがない。抗がん剤を使った方がいい」とも言われたが、抗がん剤には抵抗があり、別の病院で免疫療法をしてもらった。これはこれで厳しい治療だったけれど、その後2年間は再発せずに過ごしている。免疫療法の効果だけではなく、タケノコの根っこがほぐれつつあるように思われる。

 後年、がんが頻発したのはよく言われる好転反応だと思う。解凍で発生した気をうまく排斥できなかったため、それがかえって悪さをしたのだろう。

⑥ 「待つ」ことが大切である。

 体を動かして、どこかひっかかるところに滓がたまっている。右に回す時はスムーズだが、左周りの時にひっかかるということもある。首筋、肩の関節、脊柱など、ボリボリ、ギシギシなるのも滓のせいであることが多い。筋肉や関節を取り巻く滓のせいでもあるし、筋肉そのものが膠やビーフジャーキーのようにひからびてしまった場合もある(この場合は音すらしないわけである)。私も、長い間、左肩と左肘がギシギシして、動かすと痛くもあり、これは治らないかもしれないと思ったけれど、数年たつと消えていた。時間はかかるが、ここは待たなくてはいけない。

 筋肉トレーニング前のストレッチで、インストラクターが「筋肉が緩むのを待つ」と指導しているのを見て、大いに納得した。ストレッチにも緊張は禁物、無理に緩めようとするのではなく、緩むのを「待つ」わけである。気のわだかまりも、それほど大きくなければ、青空に浮かぶ雲が次第に薄くなって消えていくようにほぐれていく。

待て、而して希望せよ

“東山「禅密気功な日々」(1) 『会報から』①” への1件の返信

  1. 山本エリ

    矢野さん、先日はお久しぶりに声が聞けて懐かしかったです。色々大変だったようですがお元気そうで何よりです。
    私も昨年母が亡くなり仕事と家のことで多忙を極めておりますが何とかやっております
    こんなサイトがあることは全然知らなかったので興味深く拝見しました。矢野さんが治療に見えていた頃、何か色々話したな〜と思い出しました。バイオレゾナンス医学会理事長の矢山利彦先生は私が佐賀の病院にいたときにFT研究会というところで一緒に勉強していました。矢野さんの書かれていることはとても共感できるのですんなり読んでしまいました。人体、気、未だわからないことだらけですが、いつまでも興味が尽きませんね。
    またときどきこのサイトを拝見させて頂きます。ご連絡ありがとうございました。
    最近また前田さんがいらしています。それではまた!

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