新サイバー閑話(14) ホモ・デウス⑥

蝸牛角上の大坩堝

 かつて米国の作家、マーク・トゥエインは、地球全史をエッフェル塔の高さに例えれば、人類の歴史はてっぺんに塗られたペンキの薄皮の厚さぐらいなのに、その人類が塔全体(地球)は自分のためにあると自慢していることのこっけいさを皮肉った。

 ハラリの『サピエンス全史』はその地球史におけるサピエンスの歴史を俯瞰したものである。冒頭に掲げられた年表の一部を再掲しておこう。

45億年前 地球誕生
38億年前 有機体(生物体)出現
600万年前 ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先
7万年前 認知革命
1万2000年前 農業革命
500年前 科学革命
200年前 産業革命

 生物学では、科―属―種というふうに生物を体系分類しているが、ヒト科ホモ属にはいわゆるホモ・サピエンス(ハラリの言うサピエンス)以外にも、ネアンデルタール人、ホモ・エレクトス、デニソワ人などがいた。ネアンデルタール人が3万年前に滅んで、1万3000年前にはホモ・サピエンスが地球で唯一生き残った人間種となった。

 サピエンスがなぜ地上の王者になり得たか。重要なのは認知革命と農業革命、科学革命だと著者は言う。

「伝説や神話、神々、宗教は、認知革命によって初めて現れた。……。虚構、すなわち架空の事物について語る能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている」、「1万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めたときだった。……。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった」、「科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた」、「解決不可能のはずの問題を科学が一つまた一つと解決し始めると、人類は新しい知識を獲得して応用することで、どんな問題もすべて克服できると、多くの人が確信を持ちだした。貧困や病気、戦争、飢餓、老齢、死そのものさえもが、人類の避けようのない運命ではなくなった」。

 ここで、農業革命以前の狩猟採集時代が数百万年も続いていたことを想起する必要がある。それにくらべ農業革命以後は〝わずか〟1万年でしかない。その短期間にサピエンスは宗教、貨幣、帝国、資本主義という共同主観的な虚構を生み出し、それによって文明を進化させてきた。現在の私たちが生きている社会の基本構造を作った科学革命、産業革命は、サピエンス全史から見れば、これまたほんの短期間に過ぎない。

・メルシュトリームの大渦

 デジタル・コンピュータが登場したのは1945年前後であり、インターネットは1960年代後半のARPAネットから始まった。サピエンス全史から見れば、いずれ100年にも満たないきわめて〝瞬時〟の出来事である。このわずかな時間に、人類(サピエンス)は自らを改造しホモ・デウスに向かおうとしていると著者は言う。

 遼遠の歴史と現代という瞬間における大変動。これをカタツムリの角の上の大激動、言ってみれば、「蝸牛角上の大坩堝」と呼んでいいかもしれない。

 私はサイバーリテラシーにおいて、人類史をインターネット出現以前のBC(Before Cyberspace)と出現後のAC(After Cyberspace)に二分して、現在の未曾有の激動期を生き抜くためには、時代を冷静に観察する目とそれを乗り切る才覚、そして勇気が求められると書いたことがある。その点でハラリの「ホモ・デウス」という発想に度肝を抜かれる思いをした。以後で著者の「歴史家の目」について考えてみたい

 それはともかく、当時、私の念頭に浮かんだのは、推理小説の祖、エドガー・アラン・ポオの『メルシュトレームの大渦』という短編だった。

 北欧のノルウェイ沖に、漁師たちに「メルシュトレームの大渦」と恐れられている海域がある。恰好の漁場にもかかわらず、だれも近づかないが、勇敢な兄弟漁師3人だけは命を賭けて出漁、大渦が発生する間隙をぬって多くの漁獲を得ていた。ある日、漁に出た後に台風がやってくる。70トンほどの2本マストの漁船は台風に翻弄され、一番下の弟はマストもろとも海に放り出された。直後に漁船は、折り悪く発生した大渦に巻き込まれてしまう。
 渦の中で旋回する漁船の上で、弟の方の漁師は、絶望的な恐怖にとらわれながら、周囲を冷静に観察、小さな破片ほど、そして円筒形をしたものほど、海底めがけて沈んでいくスピードが遅いことに気づく。そこで彼は漁船を捨て、積荷の水樽に体を巻きつけて海に飛び込んだ。逆に、兄が振り落とされないように自分をマストに巻きつけた漁船は、樽より早いスピードで渦に巻き込まれ、1時間後に海底に消えていくが、樽に乗り移った弟は、渦がおさまった海峡から無事に生還する。

  ハラリは冒頭の年表を以下のように締めくくっている。

 今日 人類が地球という惑星の境界を超越する
    核兵器が人類を脅かす
    生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる。
 未来 知的設計が生命の基本原理となるか?
    ホモ・サピエンスが超人たちに取って変わられるか?

 そして『サピエンス全史』の最終章を「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題してこう記している。

「サピエンスは、どれだけ努力しようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまで暗黙の了解だった」、「ホモ・サピエンスを取るに足りない霊長類から世界の支配者に変えた認知革命は、サピエンスの脳の生理機能にとくに目立った変化を必要としなかった。……。どうやら、脳の内部構造に小さな変化がいくつかあっただけらしい。したがって、ひょっとすると再びわずかな変化がありさえすれば、第二次認知革命を引き起こして、完全に新しい種類の意識を生み出し、ホモ・サピエンスを何かまったく違うものに変容させることにかもしれない」。

矢野直明『サイバーリテラシー概論』(知泉書簡、2007)
サイバーリテラシー概論―IT社会をどう生きるか

新サイバー閑話(13) ホモ・デウス⑤

アナトール・フランスとイサベラ・ダンカン

 固い話が続いた。ちょっとひと息。

 本書にこんな逸話が挿入されている。1923年にノーベル賞受賞者のアナトール・フランスと才能に恵まれた美しいダンサー、イサドラ・ダンカンが出会った。当時人気のあった優生学運動について論じていたダンカンが、「私の美貌とあなたの頭脳を兼ね備えた子どもが生まれたらどんなに素晴らしいでしょう」と言うと、フランスが「ごもっとも。だが私の容貌とあなたの頭脳をもった子供を想像してみてください」と応じた。

 著者も「有名だが出所の怪しい」話として紹介しているのだが、このバリエーションはいろいろある。私が最初に知った話は、コリン・ウイルソンの本だった気がするが、登場人物はバーナード・ショーとマリリン・モンローだった。さもありなん。

 フランス、ショーともノーベル賞受賞者で、女性はいずれ劣らぬ魅力的なスターである。男性にアルベルト・アインシュタイン、女性にサラ・ベルナールを配し、それぞれがそれらしいセリフを発するいろんなバージョンがあるが、日本版はなさそうである。女性役の起用が難しいが(この種のタイプはいるのだろうか)、男性役は夏目漱石を置いてほかにないだろう。

 夏目漱石にはこんな逸話がある。

 一高で教えていたころ、教室の前方で片腕をポケットに突っこんだまま聞いている学生がいた。その日は朝から気分がよくなかったのか、漱石は「腕を出して聞くように」注意した。本人は黙っていたが、近くの学生が「彼は先ごろの戦争で腕をなくしました」と言った。そのとき漱石先生、少しも騒がず、こう応じたという。「僕もない知恵を絞って授業をしているのだから、君もない腕を出して聞き給え」。

 閑話休題。

 著者は「有性生殖は籤引きに等しい」例証として、この挿話に言及した。しかし、これからはただ運命の選択に身をゆだねている必要はなくなる。美貌と知性の組み合わせが採用され、そうでないものは排除される運命にあるかもしれないと。

新サイバー閑話(12) ホモ・デウス④

カーツワイルとシンギュラリティ

「ホモ・デウス(Homo Deus)」とよく似たイメージとして「ポスト・ヒューマン(Post Human)」という言葉がある。その考えはレイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生(原著‘The Singularity is Near : When Humans Transcend Biology’)』によく表れている。カーツワイルのあまりにあっけらかんと、しかも自信に満ちた主張について、ハラリは正面からは論じていないが、上巻と下巻で各1回、カーツワイルへの言及がある。

 最初は不死の研究者としての紹介であり、「昨今はもっと率直に意見を述べ、現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである、と明言する科学者が、まだ少数派ながら増えている。その最たる例が、老年学者のオーブリー・デグレイと、博学の発明家レイ・カーツワイル(アメリカ国家技術賞の1999年の受賞者)だ。カーツワイルは2012年に、グーグルのエンジニアリング部門ディレクターに任命され、グーグルはその1年後、『死を解決すること』を使命として表明するキャリコという子会社を設立した」と書いている。

 カーツワイルは、コンピュータの知能が人間を上回る「特異点(singularity)」は2045年だと預言している。サイボーグ、あるいはアンドロイドの全面肯定であり、さまざまな限界をもつ人間の現状にとらわれる必要はないと言う。

 彼は遺伝子工学(G)、ナノテクノロジー(N)、ロボット工学(R)の3分野で相互補完的に急速な(指数関数的な)変化が生じ、生物と非生物(コンピュータ)が共生する時代が来る、そのときはナノテクノロジーで作り出された小さなコンピュータが、体内の血管や脳のシナプスの中を動き回り、内臓の欠陥を修復したり、脳の記憶容量を拡大したりするという。「21世紀の前半には、怪物のような機械の知性が、機械の生みの親である人間の知能と区別がつかないほどになる」、「われわれには自分自身の知能を理解して―その気さえあれば自分自身のソースコードにアクセスして―それを改良し拡大する能力がある」。

 コンピュータは人間と共生し、人間のために働くというイメージだが、そのとき、コンピュータの知能はすでに人間を上回っている。

 彼によれば、「テクノロジーが急速に変化し、……、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来」が特異点であり、「特異点を理解して、自分自身の人生になにがもたらされるのかを考え抜いた人を特異点論者(singularian)と呼ぼう」と宣言している。

・人間と機械の区別はなくなる

 特異点という考えは、数学や物理学の世界で使用され、「特異点は、ある基準 (regulation) の下、その基準が適用できない (singular な) 点」とウィキペディアにある。

「本書では、これから数十年のうちに、情報テクノロジーが、人間の知識や技量を全て包含し、ついには、人間の脳に備わった、パターン認識力や、問題解決能力や、感情や道徳に関わる知能すらも取り込むようになると論じていく」、「特異点とは、われわれの生物としての思考と存在が、みずからの作りだしたテクノロジーと融合する臨界点であり、その世界は、依然として人間的ではあっても、生物としての基礎を超越している。特異点以後の世界では、人間と機械、物理的な現実とバーチャル・リアリティとの間には、区別が存在しない」、「特異点―人間の能力が根底から覆り変容するとき―は、2045年に到来すると私は考えている」。

 1948年生まれのカーツワイルは2045年には100歳近いが、そのときまで生き抜く覚悟のようである。

 GNRは同時進行する3つの革命であり、「ナノテクノロジーを用いてナノボットを設計することができる。ナノボットとは、分子レベルで設計された、大きさがミクロン単位のロボットで……、人体の中で無数の役割を果たすことになる。たとえば加齢を逆行させるなど」、「ナノボットは、生体のニューロンと相互作用して、神経系の内部からバーチャル・リアリティを作りだし、人間の体験を大幅に広げる」、「脳の毛細血管に数十億個のナノボットを送り込み、人間の知能を大幅に高める」、「GとNとRの革命が絡み合って進むことにより、バージョン1.0の虚弱な人体は、はるかに丈夫で有能なバージョン2.0へと変化するだろう。何十億ものナノボットが血流に乗って体内や脳内をかけめぐるようになる。体内で、それらは病原体を破壊し、DNAエラーを修復し、毒素を排除し、他にも健康増進につながる多くの仕事をやってのける。その結果、われわれは老化することなく永遠に生きられるようになるはずだ」など、勇ましい言葉が続く。

・「ミクロの決死圏」の世界

「ひとたびこの道を進み始めれば、テクノロジー恐怖症の人が『ここまではいいが、ここから先に行ってはいけない』ともっともらしく言えるような停止点はどこにもない」といった他の研究者の発言も紹介されているが、本コラム第2回で概観したように、かつて強いAIが喧伝された時、やはり肉体こそが必要だという意見が多く、私自身もそう考えていた。しかし、いま進みつつあるコンピュータと人間との共生が、まったく新しい時点に到達しつつある。「コンピュータには肉体がない」という次元の話でないことは確かである。ふたたび映画のたとえで言えば、これは「ミクロの決死圏」の世界である(こちらも1966年公開とずいぶん古い)。

 本書によれば、先に言及したロドニー・ブルックスは、「AIは1980年代に衰退したと主張する人々は今も存在するが、それは、インターネットは2000年代初頭のネットバブルととともに破綻したと言い張るようなものだ」と言っているらしい。

 さて、ハラリ本人だが、下巻でカーツワイルのいかにも予言者めいた語り口にふれて、「実際、シリコンヴァレーではデータ至上主義の予言者は、救世主を想起させる伝統的な言葉を意識的に使っている。たとえばレイ・カーツワイルの予言の著書のタイトル『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』(邦訳『ポスト・ヒューマン誕生』のこと)は、『天の国は近づいた』という洗礼者ヨハネの叫びを真似ている」と書いているが、ここにはハラリの、『ホモ・デウス』は歴史的予測の書であり、政治的なマニフェストではないという歴史家としての目がある。

 ちなみに「特異点」に関しては、『サピエンス全史』下巻に以下の記述がある。「物理学者はビッグバンを特異点としている。それは、既知の自然法則がいっさい存在していなかった時点だ。時間も存在しなかった。したがって、何であれビッグバンの『前』に存在していたと言うのは意味がない。私たちは新たな特異点に急速に近づいているのかもしれない。その時点では、私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといた、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる」。

 老年学者、オーブリー・デグレイにも少しふれておこう。

 アメリカのピュリッツァー賞受賞科学記者が長命科学の最先端をルポした『寿命1000年』によると、老化は生物に避けられない「宿命」ではなく、ただの「病気」だという。病気なら直せるわけで、本書に主役級で登場するオーブリー・デグレイは、「老化は基本的には体の細胞にゴミがたまることで起きる。だからそのゴミを除去することができれば、969歳まで生きたとされる旧約聖書メトセラの夢を実現できる」と言っている。

 ミトコンドリアが大きなカギを握っているらしいが、彼はコンピュータ科学の出身である。

レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』(NHK出版、2007。原著‘The Singularity is Near : When Humans Transcend Biology’2005)
ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき
ジョナサン・ワイナリー『寿命1000年』(早川書房、2012、原著2010)
寿命1000年―長命科学の最先端
リチャード・フライシャー監督「ミクロの決死圏」(公開1966)
ミクロの決死圏 [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]

新サイバー閑話(11) ホモ・デウス③

人間を神にアップグレードする

 人類はこれまでの歴史で、①飢饉、②疫病と感染症、③戦争、という3つの大敵をほぼ克服してきた、という大胆な宣言から話は始まる。

 これは『サピエンス全史』の結論を踏襲するものだが、スタンリー・キューブリック監督のSF映画の古典、「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンを思わせる迫力である。

 類人猿が敵との戦いのさなか、手にした木片を怒りにまかせて地面に激しく打ち付けた時、これを道具(武器)として使えることを発見する。そして、木片は空中高く舞い上がり、次の瞬間、それは宇宙船ディスカバリ―へと変貌する。リヒァルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りぬ」の壮大な音楽は、宇宙船登場と同時にヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」に変わった――。

 このわずかな冒頭シーンを検証したのが『サピエンス全史』全編と言ってもいい。著者は書いている。「飢饉と疾病と戦争はおそらく、この先何十年も膨大な数の犠牲者を出し続けることだろう。とはいえ、それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。すでに対処可能な課題になった」。

 そして、こう続ける。「成功は野心を生む。……。前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い。飢餓と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。……。そして、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えることを目指すだろう」(33)。これが『ホモ・デウス』のテーマである。

「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている。それは、至福と不死が神の特性だからであるばかりでなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するためにはまず、自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからでもある。……。これまでのところ、人間の力の増大は主に、外界の道具のアップグレードに頼ってきた。だが将来は、人の心と体のアップグレード、あるいは、道具との直接の一体化にもっと依存するようになるかもしれない」。

・生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学

 その道具としてあげられているのが、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。順に、著者の言うところを聞こう。

 生物工学。「私たちは、アメーバから爬虫類、哺乳類、サピエンスへと進化した。とはいえ、サピエンスが終着点であると考える理由はない。遺伝子やホルモンやニューロンに比較的小さな変化が起こっただけで、……、ホモ・エレクトスが、宇宙船やコンピュータをつくるホモ・サピエンスへと変容した。それならば、私たちのDNAやホルモン系や脳構造にあといくつか変化が起これば、どんな結果になるか知れたものではない。生物工学は、自然選択が魔法のような手際を発揮するのを辛抱強く待っていたりしない。そうする代わりに、生物工学者は古いサピエンスの体に手を加え、意図的に遺伝子コードを書き換え、脳の回路を配線し直し、生化学的バランスを変え、完全に新しい手足を生えさせることすらするだろう。彼らはそれによって新しい神々を生み出す。そのような神々は、私たちがホモ・エレクトスと違うのと同じくらい、私たちサピエンスとは違っているかもしれない」。

 サイボーグ工学。「サイボーグ工学はさらに一歩先まで行き、有機的な体を、バイオニック・ハンドや人工の目、無数のナノロボットと一体化させる。そうしてできたサイボーグは、どんな有機的な体もはるかに凌ぐ能力を享受できるだろう」。

 非有機的生命工学(非有機的な生き物を生み出す工学)。「とはいえ、サイボーグ工学でさえ、有機的な脳が司令統制センターであり続けるという前提に立っているから、割に保守的だ。一方、有機的な部分をすべてなくし、完全に非有機的な生き物を作りだそうという、より大胆なアプローチがある。神経ネットワークは知的ソフトウェアにとって代わられ、そのソフトウェアは有機化学の制約を免れ、仮想世界と現実世界の両方を動き回れる」。

・ボーマン船長とレイチェル

 いわゆる改造人間のことを意味するサイボーグ(Cyborg)はCybernetic organismのことである。アンドロイド(Android)も、より人間に近づいたイメージとして使われるが、いまではグーグルのモバイルOSの名としても知られている。

 サイバー(Cyber)はアメリカの科学者、ノーバート・ウィーナーが提唱した「生物と機械における通信、制御、情報処理の問題を統一的に取り扱う総合科学=サイバネティクス(Cybernetics)」に由来する。その主著『サイバネティクス』(1948)はその後の情報理論およびコンピュータの発達に大きな影響を与えたが、事態はついにホモ・デウスを生み出すまでになった。ちなみに「サイバースペース(Cyberspace=サイバー空間)」はSF作家のウィリアム・ギブスンが1984年に発表した『ニューロマンサー』で流布させた言葉である。

 さて、著者はそのような最先端の研究をいろいろ紹介しているが、サイボーグに関しては、「サイボーグの医師は、オフィスを一歩も出ることなく、東京やシカゴや宇宙基地で緊急手術を行うことができる」、また非有機的生命の誕生に関しては、「有機体の領域を抜けだせば、生命はついに地球という惑星からも脱出できる」と書いている。

 映画「2001年宇宙の旅」のボーマン船長は、一人で木星に突入、時間と空間のねじれた試練の果てに、エネルギーとして宇宙を飛び回る「星の子(Star Child)」になった。この映画はもう50年前の公開だが、その卓越した発想(SF作家、アーサー・C・クラークとの共作)は、斬新な制作手法とともに、まさにSF映画の金字塔である。

 ところでもう一つ、私が好きなSF映画は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を原則にしたリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」である。レイチェルは、この映画に登場する美しきアンドロイド(レプリカントと呼ばれていた)の名前だった。

スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(公開1968)/リドリー・スコット「ブレードランナー」(公開1982)
2001年宇宙の旅 (字幕版) ブレードランナー ファイナル・カット(字幕版)

ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス』(岩波書店,原著1948)
ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ハヤカワ文庫,原著1968)/ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫,原著1984)
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229)) ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

新サイバー閑話(10) ホモ・デウス②

「等身大精神」と「経頭蓋直流刺激装置」

 私が「等身大精神の危機」という表現を使ったのは2005年に起きた、みずほ証券株誤発注事件だった。

 東京証券取引所の新興企業向け株式市場であるマザーズに人材派遣会社株が新規上場された際、顧客から「61万円で1株売り」の注文を受けたみずほ証券担当者が「1円で61万株売り」と金額と株数を逆に入力、あわてて取り消し作業をしようとしたが東証のシステムが受け付けず、わずか数分の間に株が乱高下、この騒ぎでみずほ証券は407億円の損失を蒙った。

 だれにも起こりがちなケアレスミスで、あっという間に会社に莫大な損害を与えてしまった社員は、どう責任をとればいいのか。ここでは会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 このことに関して、エコロジーの世界で言われていた「等身大の技術」の類推で、コンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちを途方もない世界につれて行き、そこでは「等身大の精神(人間本来の考え方)」が危機に瀕しているととらえたわけである。私は『IT社会事件簿』で、「従来の倫理を支えてきた社会システムに地すべり的変動が起こっている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくるのを否みようがない」と書いている。

 コンピュータの力があまりに強力になり、人間精神がそれについていけない驚愕と当惑が表明されているとも言えるが、いまふりかえると、この感想はいささか牧歌的に過ぎたようだ。

『ホモ・デウス』下巻に「経頭蓋直流刺激装置」という米軍が取り組んでいる実験の話が出ている。ヘルメットにはいくつもの電極がついており、それを頭皮に密着させると(倫理的な制約があるため、いまは人間の脳に電極を埋め込むことはしていない)、ヘルメットは微弱な電磁場を生じさせ、特定の脳の活動を盛んにさせたり抑制したりする。兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるのが目的である。

 科学誌の記者がその実験の体験談を書いている。

 最初はヘルメットをかぶらずにVRの戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人が彼女めがけてまっしぐらに向かってきた。「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者を前に、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」。ほんの一瞬の出来事のように思われたが20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していたという。

 コンピュータの力を人間の内部に取り込んで、その能力を高めようという実験である。

・「思考のための道具」から「ホモ・デウス」まで

 コンピュータ黎明期には、「思考のための道具」としてのコンピュータが期待をもって語られた。そのうちコンピュータがもつ危険な側面への関心が高まり、いろんなコンピュータ、人工知能、さらにはインターネットへの批判が現れた。

 初期のコンピュータ批判として有名なのが、コンピュータの世界的権威でもあったジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(原著1976)である。

 彼は「本書における主な論点は、……第一に、人間と機械の間には差があること、第二に、コンピュータにあることができるかどうかは別として、コンピュータにさせるべきでない仕事がある、ということである」と明快に述べている。

 彼は、「近年多くの心理学者は、人間もコンピュータも『情報処理システム』と呼ばれる、より抽象的な属に属する二つの異なった種にすぎないということを、当然だと考えるようになってきた」、「人間が、それよりもっと広い『情報処理システム』属の一種であるとする見方は、われわれの関心を人間のある一面に集めることになる。その結果、人間の残りの部分は、この見方が照らすことのない暗闇に押しやられることになる。この犠牲を払って、いったい何を購うことができるのかを聞く権利がわれわれにはある」とも述べている。

 情報処理システム属人間種という考えは、ホモ・デウスの捉え方と通じている。

 哲学からの反論としては、ヒューバート・ドレイファスの『コンピュータには何ができないか』(原著1972)があった。ドレイファスは、対象についての経験を組織化し統一する際には「身体」が、行動が規則によらずに組織化されうるためには「状況」が、状況を組織化する際には、「人間の意図や欲求」がそれぞれ重要な役割を果たすとして、とくに「強いAI」を批判した。

 知能と不可分の肉体の重要性についての指摘も多く、MITのAI研究者、ロドニー・ブルックスは1986年、「体を持たない人工知能の限界」を感じて昆虫ロボットを作っている。

 これらの見解を整理した『情報文化論ノート』(2010)で、私は「コンピュータとつき合う上で大事なのは、人間が具体的経験によって得たさまざまな知識、体で覚えている知恵、あるいは長い歴史の中で培ってきたさまざまな観念を、誰がどのようにしてコンピュータに入力するのか、ということである。コンピュータ自らが思考するようになるにしても、それはあくまでもコンピュータの思考であって、人間の思考ではない。ただその思考が、人間の能力をはるかに超えたものになる可能性ももちろんある」と書いている。

 つい最近の20世紀までは、コンピュータにさせていいこと、させてはいけないことの区別が真剣に議論されていたのである。そこにはコンピュータ対人間という捉え方があったが、21世紀に入り事態はまさに急転、コンピュータと人間の相互協力、合体が大きなテーマになってきた。

 著者はこの点に関して、「何千年もの間、歴史はテクノロジーや経済、社会、政治の大変動で満ちあふれていた。それでも一つだけ、常に変わらないものがあった。人類そのものだ。……。ところが、いったんテクノロジーによって人間の心が作り直せるようになると、ホモ・サピエンスは消え去り、人間の歴史は終焉を迎え、完全に新しい種類のプロセスが始まるが、それはあなたや私のような人間には理解できない」(63)と書いている。

ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(パーソナルメディア、1987、原著1985)/ ジョセフ・ワイゼンバウム『コンピュータ・パワー』(サイマル出版会、1979) /ヒューバート・ドレイファス『コンピュータには何ができないか』(産業図書、1992) /ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』(みすず書房、1994、原著1989)

思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか? コンピュータ・パワー―人工知能と人間の理性 コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判 皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013、携書版2015)/『情報文化論ノート』(知泉書簡、2010)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書) 情報文化論ノート: サイバーリテラシー副読本として

林「情報法」(33)

フェイクと情報リテラシー

 フェイク(fake)は、フットボール・バスケット・バレーなどのスポーツでは、ごく普通の作戦の1つです。社会ゲームでも、それ自体が「行為者の悪」というよりも、「防御側が見破る技術を身につける」ことが期待される「情報リテラシー」の1つと言って良いでしょう。ところが柏市の児童相談所では、虐待が疑われる父親の言(と、父親によって強要されたと想定すべき児童の手紙)を信用して、児童を父親の元に戻して、最悪の事態を招いてしまいました。本事件は未だ現在進行形であり、論ずべき点が多々ありますが、ここでは「受け取った情報にどう対応するか」といった点に絞って、幾つかのヒントを提供しましょう。

・「フェイク」を見破るリテラシー

 トランプ大統領が多用して有名になった(そして自身もフェイク情報生産者として有名な?)fake という言葉ですが、私の語感に最も近いのはgoo国語事典です。

  1 にせもの。模造品。まやかし。「フェイク・ファー」
  2 アメリカン・フットボールで、意図しているプレーや動作を相手に見破られないように行なうトリックプレー。
  3 ジャズで、即興演奏すること。

 トランプが言うのは最初の定義ですが、ここでは二番目の定義について論じましょう。もっとも、この意味の日本語としてはフェイント(feint)という語の方が良く使われており、現に Wikipedia では「フェイントとも言う」と追記されています。ところが、1990年代初期にニューヨークで勤務していたとき、部下のアメリカ人にフェイントと言ったら、「fake じゃないの?」と指摘されたので、その後フェイクと言うように努力してきました(もっとも、彼が単にスポーツ嫌いだっただけかもしれません)。

 いずれにせよ私たちは、日常生活で日々多数のフェイクに出会い、それを巧みに処理しています。フェイクの原因は、発信者の思い違い(法的には過失による場合と、過失すら問えない場合があるでしょう)と、発信者の意図による場合があります。後者には「故意」があるとしても、犯罪として禁止されている態様は詐欺罪などごくわずかで、大部分は「受信者が見分けるべきだ」とされています。

 言い換えれば、私たちは情報を頼りに生活しているので、フェイクは望ましくはないものの、法的に規律するのではなく、「どの情報が正しく、どの情報が間違っているかを見分けなさい」という建付けになっている、ということでしょう。つまり、受け取った情報が仮にフェイクであるとしても、それが詐欺などの犯罪行為でない限り、どう対応するかは「受信者の自己責任」だということです。その能力は通常「情報リテラシー」と呼ばれています。

・「情報リテラシー」はどう育まれるか

 それでは、私たちはこうした識別能力を、どのようにして身につけているのでしょうか、あるいは身につけてきたのでしょうか? 答えは教育学者や発達心理学者に聞くべきでしょうが、割り切った言い方をすれば、わが国ではこうした「情報処理の基礎」は教えてもらうものではなく、「発達の過程で自然に身につけるもの」とみなされているように思われます。

 高等学校で「情報」という教科を設けたものの、プログラムやパソコンの扱い方などの技術を主にし、倫理を入れるようになったのは、ごく数年前のことです。児童相談所(児相)の職員が「手紙の嘘」を見抜くことが出来なかった(うすうす感じていたが、正しい対応が出来なかった)というのですから、おそらく相談員の教育プログラムにも入っていないのでしょう。

 この問題に直接答えるものではありませんが、間接的に参考になる事例として、私自身の経験を紹介しましょう。私には、長男のところに3人の孫がいます。彼らが7歳、5歳、3歳だった時は、ニンテンドウDS発売の初期でした。そこで3人と私だけになったとき、「ニンテンドウDS持ってるの?」と聞いてみたところ、しばらく沈黙が続いた後で7歳児が「持ってるよ」と答え、3歳児が「でもパパには内緒なんだよ」とフォローしたので、7歳児が困惑したような表情を浮かべました。

 長男は自身がデジタルを商売にしているためか、子供たちにデジタル機器を早く与え過ぎないように配慮して、DSを買い与えなかったのでしょう。ところが、周りの友達は大部分が持っているので仲間外れを心配して、長男の嫁がこっそり買ってあげたのが真相のようです(知らぬは、パパだけ!)。「パパには内緒」の意味と、「パパのパパ(じいじ)に伝えることの意味」を7歳児は理解しているが、3歳児には未だ分からない、と読み解けました。

 とすると、3歳から7歳までの数年間に、子供は自然に「内緒情報の扱い方」を身につけていくのでしょうか。この分野に疎い私には分かりませんが、子供が多く大家族で生活していた時代には、それで十分だったのかもしれません。コミュニティが広ければ、コミュニケーションの頻度と組み合わせの多様性があるから、自然に多くのケース・スタディができるからです。

 ところが、少子化と核家族が一般的になった現代では、こうした機会は著しく限定的になってしまいました。何でもアメリカ式が良いとは限りませんが、この点に関する限りアメリカ式で「マニュアル化」し、小学校低学年から「情報の扱い方」として、学習指導要領付きの正規の科目にする必要があるのではないか、と考えています。

 実は、「サイバー灯台」を運営している矢野直明さんと私は、情報セキュリティ大学院大学の開校時(2004年)から2010年度まで共同で「セキュア法制と情報倫理」という科目を担当し、情報の扱い方に関するケース・メソッドを開発し、『倫理と法:情報社会のリテラシー』という教科書を作りました(産業図書刊)。この科目は、現在湯浅教授と私が担当していますが、ケースが古くなったので院生自身にケースを集めるところから担当させて、円滑に授業を続けています。

・矢野さんのコメントに触れて

 ところで、その矢野さんは、ご自身で「新サイバー閑話」というコラムを書いておられます。その第8回(2月9日)で、私の連載の前回分に触れて、以下のようなコメントをいただきました。

 2017年はじめに刊行された『情報法のリーガル・マインド』で著者は、今後対応を迫られる大きなテーマとして「情報の品質保証」を上げているが、それがいま現実の社会的大問題として浮上してきたわけである。時代がようやく所説に追いついてきた(指摘していた問題が顕在化してきた)と喜ぶべきか、あるいはそのことを悲しむべきか。それよりも、持論が社会に真剣に受け止められず、とくに政治の分野ではほとんど一顧だにされてこなかった事態を嘆くべきなのか。著者の感慨もまた複雑だと思われる。

 ご賢察のとおり、私の気持ちは複雑なので一言で要約することはできません。自己診断は偏見を伴うことが多いのですが、多分喜び10%、悲しみ40%、嘆き50%といったところでしょうか? 矢野さんのコメントも、その比率になっているように見受けました。「情報法」と銘打った書籍はかなりの数に上り、それぞれの視点から見れば良書が多いのですが、フェイク・ニューズが横行している現在では、良書であっても「ここに書いてあることは確かか?」と疑ってかからなければならないとしたら、何と住みにくい社会になったことでしょう。

新サイバー閑話(9) ホモ・デウス①

 ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者が書いた『ホモ・デウス(HOMO DEUS : A Brief History of Tomorrow)』という世界的ベストセラーの日本語版が2018年に刊行され、けっこう話題になった。原著は2015年の出版だからいささか〝古い〟けれど、同じ著者が先に世に問うた『サピエンス全史(SAPIENS : A Brief History of Humankind)』を受けて「テクノロジーとサピエンスの未来」(日本版サブタイトル)を概観した「大作」である。

 私がサイバーリテラシーの教科書として推奨する書物はローレンス・レッシグ『CODE』などいくつかあるけれど、この著もまたその一つに違いなく、長い歴史的視野のもとに将来の人類のあり方を予測した興味深い内容である。

 本コラムで折々に『ホモ・デウス』にからむ話題を取り上げ、近未来の世界を探訪していきたい。

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』㊤㊦『サピエンス全史』㊤㊦(ともに河出書房新社、2018、2016)

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

ゲームとバーチャル・リアリティ

「アサシンクリード」というプレイステーション用の「潜入アクションゲーム」がある。フランスに本拠を置くユービーアイソフトが12世紀末のエルサレムを舞台とした第1作を2007年に発売以来、現在まで、中国、アメリカ、フランスなどを舞台に十数本を制作している。

 その最近作である、プトレマイオス朝エジプトを舞台にした「アサシンクリードオリジンズ」を見る機会があった。ゲームはそれぞれの地域を舞台に戦闘や冒険が繰り広げられるのだが、その舞台の再現ぶりが驚異的である。
アサシン クリード オリジンズ【CEROレーティング「Z」】 - PS4 ゲームには、「ディスカバリーツアー」というプレイとは無関係に、古代エジプトの景観や建物、その内部、人びとの様子などを体験できるソフトがついている。アレクサンドリア、メンフィス、ナイルデルタ、ギザのピラミッドなどを歴史専門家やさまざまなジャンルの学者の協力を得て復元しており、まさに当時の世界そのものを探訪できるようになっている。

 たとえばクレオパトラで有名なアレクサンドリア大図書館の中に入ってみると、パピリスの巻物(古文書)が棚に収めてあるのだが、その巻物に心棒がはいっているのと、入っていないものがあり、その比率が研究で明らかになっている事実とほぼ合致するらしい。庭に生えている草花まで時代検証に耐えるという。ピラミッド内部も探険できる

 ゲームのバーチャル・リアリティがここまで進んだと思うと感無量である(最新作はギリシャをテーマとする「アサシンクリードオデッセイ」)。ゲームを楽しみながら、現実にあった(と想像される)歴史的舞台を探訪できるから、これは立派な教材でもある。ユーザーはゲームをするばかりでなく、それらの景観をカメラに収めたり、ユーザー同士で会話したりもできる。

 映画全盛の時代は、たとえばハリウッドのセシル・B・デミルといった大プロデューサーが、莫大な資金と人材(人物)を投じ、大きなセットを築き上げて「クレオパトラ」、「十戒」などの映画を作ったが、今や大金がゲームの世界に投じられているようだ。

・バーチャル・タイムマシン

 かつて「セカンドライフ」というバーチャル空間が話題になったことがある。

 アメリカのリンデンラボ社が2003年に開設したもので、オンラインゲームとも言えるが、決まった目的やシナリオはなく、自分の分身であるアバターを作ってそこに参加、町で買い物をしたり、楽器を演奏したり、店を開いて物を売ったり、友人とおしゃべりしたりと、まさにオンライン上で「第2の人生」を送ろうというのがコンセプトだった。リンデンドルという通貨は実際に米ドルと換金可能だったから、セカンドライフ内でビジネスを始める大手企業も出てきて、日本でも2006年ころには大きなブームになった。

 2010年以降はほとんど話題にならなくなったが、今でも活動は続いており、参加者もかなりいるようだ。セカンドライフは自分で土地を買い、ビルを建て、不動産業を営めるようになっていたが、今度のゲームの方は舞台があらかじめ精巧、かつ正確に作り込まれているところが違う。そこにバーチャル・リアリティ技術の進歩が大きく影響しているだろう。バーチャルな世界は現実世界と離れた「第2の空間」であるという発想自体がすでに過去のものかもしれない。

 かつて司馬遼太郎の歴史小説を愛読していたころ、この作家の頭には幕末のある時、勤王の志士や新選組の連中が東海道をどのように行き来していたかがはっきりイメージされているのではないかと思った。とすれば、2人の歴史上の人物が大井川の渡しですれちがったのでないかとの発想が生まれ、そこから新たな物語も生まれたのだろう。いまや、その気になりさえすれば、幕末の東海道を再現するのも可能で、まさにバーチャル・タイムマシンの時代である。

・現実世界とサイバー空間のかけ橋

 バーチャル・リアリティ(VR=Virtual Reality)というのは、コンピュータの中に現実そっくりの仮想世界をつくりあげる技術である。サイバー空間と現実世界に橋をかける技術は、一般にミックスト・リアリティ(MR)と呼ばれ、それには現実世界を電子的に補強、増強する技術も含まれる。

 バーチャル・リアリティが脚光を浴びたのは1980年代だが、当初は、頭にかぶるメガネ(HMD)や電極を埋め込んだ手袋やスーツなど、大がかりな道具を身につけてコンピュータ世界に「没入」することを目指していた。そういう大研究所の現場を取材したことがあるが、今や昔、今では同じようなヘッドマウントディスプレイのおもちゃさえある。

 ハラリの「ホモ・デウス(神の人)」というのは、われわれ「ホモ・サピエンス(賢い人)」が生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学といった最新技術によって、自らの生物学的限界を乗り越えて、新しい種(人間種)を作り上げる可能性について考察したものだが、最新ゲームの世界をのぞくだけで、私たちがいまどういう時点にいるのかがよくわかる。

 若い友人から聞いたのだが、ネット上では自分の死を体験するアトラクションも話題らしく、その体験談も掲載されている。件の友人は「VRの普及により『意識とは何か』という深淵な問題が、一般人にとっても身近な問いかけになっていくように思います」と述べている。

ローレンス・レッシグ『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社,2001、原著1999)
CODE VERSION 2.0

新サイバー閑話(8)

「情報法のリーガル・マインド」

 林紘一郎さんの連載コラム「情報法のリーガル・マインド その日その日」はすでに30回を超えるが、最近は日産・ゴーン事件、政府統計不正事件と、時局的な話題が登場することが多くなっている。最新の32回は「基幹統計よ、お前もか!」である。

  2017年はじめに刊行された『情報法のリーガル・マインド』で著者は、今後対応を迫られる大きなテーマとして「情報の品質保証」を上げているが、それがいま現実の社会的大問題として浮上してきたわけである。時代がようやく所説に追いついてきた(指摘していた問題が顕在化してきた)と喜ぶべきか、あるいはそのことを悲しむべきか。それよりも、持論が社会に真剣に受け止められず、とくに政治の分野ではほとんど一顧だにされてこなかった事態を嘆くべきなのか。著者の感慨もまた複雑だと思われる。

 なぜ厚労省で不正統計が長年続いてきたのか。コラムが指摘しているように、省庁内で統計部門が軽視されてきたとか、省内のコンプライアンスは崩壊寸前だとかいった現状があり、だから「頭から腐った組織」の抜本改革が必要だとも指摘されているようだが、一方で著者の言うように、これは厚労省だけの問題ではない。

 つい最近でも森友問題をめぐる財務相の大胆な改ざんがあった。以下はコラムとは関係ない私見だが、問題はむしろ、そういう事態に対して現政権が一向に毅然とした対応を取っていないことにある。今回の統計不正問題は、皮肉なことに昨年突然、統計のやり方を元に戻した結果として、賃金水準が上昇する結果となり、それが新聞紙上で指摘される形で浮上した。これについては、アベノミクスの効果を際立させるために「忖度」したのではないかと憶測もされている。

 まさに「組織はトップから腐る」。厚労省だけで見れば、統計部門の不正を長年にわたって放置してきた厚労省幹部の責任が問われるだろうが、役人全体を考えれば、彼らは常に自分たちの上、最終的には政権を見ている。だから責任も最終的には現政権を担う閣僚、さらにはその長たる首相その人に行きつかざるを得ない。「まことに遺憾。精査して責任者がわかれば厳正に処分する」などと言ってすまされるとはとても思えない。

 国の代表者たる人びとの道徳観念が目に見える形で失われれば、それは下部にどんどん伝染していく。常に上を見て仕事をする官僚の感染速度はきわめて速いが、長い目で見れば、その状況は、市井で日々まっとうな生活を営んでいる人びとにも徐々に浸透していく。いや現にそういう空気が蔓延しているとも言えよう。

 著者が紹介しているウエブ上のディズレーリの名言集を見ていたら、「いかなる政府も、手ごわい野党なくしては長く安定することはできない。No Government can be long secure without a formidable Opposition.」というものもあった。一強多弱の政治構造においては、「忖度」の対象はただ一点へと向かう。忖度でもそれが多元的な方向を持ち、お互いに牽制し合うような状況では事態が変わり、政治状況は「安定」するかもしれない。思わずそんなことを考えた。統計不正は現政権以前から行われていたとは言うものの……。

林「情報法」(32)

基幹統計よ、お前もか!

  トランプが得意とするfake に慣らされつつある私たち日本人も、まさか自国政府の基幹統計で、「偽装」とまではいかなくても、数多くの不正が行なわれていたとは思いませんでした。これは、2005年に発生した耐震強度の偽装から始まった、一連の「品質表示の偽装」の根源に横たわる、「情報を都合よく操作するのは良くないが微罪に過ぎない」という意識の究極の姿で、「メルトダウン日本」を象徴する事件だと考えるべきでしょう。

「メルトダウン日本」を象徴する事案

 事件の発端は2018年末に、「毎月勤労統計」(厚生労働省所管)は全数調査であるべきところ、東京都の大企業については3分の1の抽出調査になっており、しかも統計的な補正も行なわれていないことが発覚したことでした。ところが、通常国会の再開を控えて急いで基幹統計56種を再点検したところ、「賃金構造基本統計」(同じく厚労省所管)や「小売物価統計調査」(総務省所管)など20以上で、担当部門の恣意的な決定だけで不正が繰り返されてきたことが分かってきました。

 しかも毎月勤労統計は、雇用保険や労災保険の支払額を決める基礎となっているため、これらが過少給付となっており、影響は延べ約2千万人、費用は約800億円(システム対応費を含む)の巨額になると推定されました。慌てた政府は、昨年12月21日に閣議決定していた2019年度予算案を1月18日に修正決定し、国会に提出しました。

 問題はそれで終わりませんでした。毎月勤労統計を所管する厚労省で「第三者調査」と称する特別監査委員会が、わずか1週間で「中間報告」を発表し、「組織的な隠ぺいではない」と断定したのです。ところが、委員がすべて厚労省に関係していただけでなく、会合に厚労省のナンバー2やナンバー3が同席し、個別ヒアリングも大半は身内が行なっていたことが判明し、事態を収拾するどころか「火に油を注ぐ」結果になってしまいました。

 そして賃金構造基本統計にも不正があったことから、安倍政権の看板である俗称「アベノミクス」で、賃金が上がったことにしたかったのではないか、という憶測まで生まれました。実際は不正の根はもっと深く、毎月勤労統計では15年も前から行なわれていたというのですから事態はもっと深刻で、「近隣の某国の経済成長率は疑わしい」などと、他国を非難できない状況です。

 統計が嘘に傾きやすいことは、昔から知られていました。インターネットには「偉人名言」というサイトがあって、その中に英国のディズレーリ首相(1804-1881)が言ったとされる「世の中には嘘は3つある。嘘、大嘘、そして統計だ」(There are three kinds of lies: lies, damned lies, and statistics.)という箴言が載っています。

・組織性逸脱行為

 そんな歴史に学んだからでしょうか。統計法には、次のような規定があります。

「第60条 次の各号のいずれかに該当する者は、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
  一 第13条に規定する基幹統計調査の報告を求められた者の報告を妨げた者
  二 基幹統計の作成に従事する者で基幹統計をして真実に反するものたらしめる行為をした者」

 今回の事件は、明らかにこの第2号に該当します。ですから「不適切な処理」という表現は「不適切」で、「不正」と言うしかないのです。

 なぜ15年も前から不正が継続していたのでしょうか? 日銀で統計を扱い現在はシンクタンク経営の鈴木卓実氏や、旧通産省出身のテレビ・コメンテータの岸博幸氏は、いずれも悲観的です。

 http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1901/17/news026.html
 https://diamond.jp/articles/-/192628

 両者の議論に共通の要因として、① 統計は主流の仕事ではなく専門知識も要るのでノン・キャリアに任せきり、② 企画・立案・立法化などは華やかでキャリアが行きたがるが統計は地味で魅力に乏しい、③ 予算抑制や定員削減があると真っ先に統計が狙われる、といった点が挙げられています。

 そして実際、今回の事件は、2018年9月12日付の西日本新聞でネット配信されたのにあまり話題にならず、また鈴木氏は2018年12月に松本健太郎氏との対談で、いずれ大事件になるであろうと予見していたというのです。

 https://note.mu/jyaga0716/n/n0aa7362ae7b7?creator_urlname=jyaga0716

 セキュリティを心理学(組織心理学)の面から研究している人の間では、「組織性逸脱」という概念が共有されています。社会的に広く認められた規範から外れる「逸脱行為」のうち、個々人の思考や資質が原因ではなく、組織風土が主因となって生ずるものに付けられた名前です。今回の不正行為はまさにこの概念にぴったりで、それだから評者のほとんどが「原因の究明は不可能だろう」と感じているのでしょう。

・統計法制定の初心に帰れ

 となると、厚生労働省という「組織」の問題点を洗い出さねばなりません。確かに、グリーンピア事業など年金保険料の無駄使い(2004年)、いわゆる「消えた年金」というデータ・ベースの管理不全(2007年)、年金個人情報の漏えい(2015年)、働き方改革の際の不適切な労働時間調査(2018年)、そして今回の不正と、同省の組織的病理は枚挙に暇がありません。所管業務の幅の広さ、重要度の向上、巨額な予算、中央省庁と自治体との関係など、組織として見直すべき点は多いかもしれません。

 しかし、「適切な情報管理」という視点から、「情報法の一側面」としてこの問題を捉える私の立場からすれば、厚労省に固有の問題点を指摘し改善するだけでは、根本的な解決にならないと思います。なぜなら、財務省における公文書改ざんは、もっと悪質な行為と言わざるを得ませんし、基幹統計の不正は多数の官庁に広がっているのですから、病理は厚労省だけとは言えないからです。

 ここで歴史を振り返る必要があります。昭和22年に制定された旧統計法(現在の統計法は2007年に全面改訂されたものです)は、第2次大戦の廃墟から、わが国の復興を成し遂げるためには、英国流の統計(evidence)に基づいた意思決定が必要だと考えた、吉田茂首相(元駐英大使)の肝いりで制定されたと言われています。

「失われた20年」あるいは「第2の敗戦」を経て、やっと「Society 5.0」を目指そうという元気回復気運にある今こそ、この精神を取り戻すチャンスではないでしょうか。その際、企画段階だけでなく、監査にも統計を生かすことが大切だと思います。

PDCACもエビデンスに基づいて実行せよ

 旧統計法の精神は、PDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act)の最初に出てくる「企画」(Plan)段階でevidenceを生かすことでした。しかし時代が変わった現代では、同時に「監査」(Check)の段階にもevidenceを活用することが重要かと思います。セキュリティを研究している私が見る限り、PDCAサイクルを繰り返し実行している組織は稀で、通常はP-Dで止まり、社長が代わったからとか環境が劇変したからという事情で、改めてP-D を始めている組織が多いのが実態です。つまり、CとAは、ほとんど実行されていません。

 環境が激変していることは事実ですから、それ自体を頭越しに責めることはできないかもしれませんが、鈴木氏や岸氏の指摘にあるように、エリートほどPに拘り、地道なCを軽視していることも否定できないと思います。しかし、組織改革というと勇ましいのですが、その実態は地道で労を惜しまぬ「見直し」と「繰り返し」です。統計や監査のような影の力に支えられてこそ、戦略が生きてくることを忘れてはなりません。