林「情報法」(33)

フェイクと情報リテラシー

 フェイク(fake)は、フットボール・バスケット・バレーなどのスポーツでは、ごく普通の作戦の1つです。社会ゲームでも、それ自体が「行為者の悪」というよりも、「防御側が見破る技術を身につける」ことが期待される「情報リテラシー」の1つと言って良いでしょう。ところが柏市の児童相談所では、虐待が疑われる父親の言(と、父親によって強要されたと想定すべき児童の手紙)を信用して、児童を父親の元に戻して、最悪の事態を招いてしまいました。本事件は未だ現在進行形であり、論ずべき点が多々ありますが、ここでは「受け取った情報にどう対応するか」といった点に絞って、幾つかのヒントを提供しましょう。

・「フェイク」を見破るリテラシー

 トランプ大統領が多用して有名になった(そして自身もフェイク情報生産者として有名な?)fake という言葉ですが、私の語感に最も近いのはgoo国語事典です。

  1 にせもの。模造品。まやかし。「フェイク・ファー」
  2 アメリカン・フットボールで、意図しているプレーや動作を相手に見破られないように行なうトリックプレー。
  3 ジャズで、即興演奏すること。

 トランプが言うのは最初の定義ですが、ここでは二番目の定義について論じましょう。もっとも、この意味の日本語としてはフェイント(feint)という語の方が良く使われており、現に Wikipedia では「フェイントとも言う」と追記されています。ところが、1990年代初期にニューヨークで勤務していたとき、部下のアメリカ人にフェイントと言ったら、「fake じゃないの?」と指摘されたので、その後フェイクと言うように努力してきました(もっとも、彼が単にスポーツ嫌いだっただけかもしれません)。

 いずれにせよ私たちは、日常生活で日々多数のフェイクに出会い、それを巧みに処理しています。フェイクの原因は、発信者の思い違い(法的には過失による場合と、過失すら問えない場合があるでしょう)と、発信者の意図による場合があります。後者には「故意」があるとしても、犯罪として禁止されている態様は詐欺罪などごくわずかで、大部分は「受信者が見分けるべきだ」とされています。

 言い換えれば、私たちは情報を頼りに生活しているので、フェイクは望ましくはないものの、法的に規律するのではなく、「どの情報が正しく、どの情報が間違っているかを見分けなさい」という建付けになっている、ということでしょう。つまり、受け取った情報が仮にフェイクであるとしても、それが詐欺などの犯罪行為でない限り、どう対応するかは「受信者の自己責任」だということです。その能力は通常「情報リテラシー」と呼ばれています。

・「情報リテラシー」はどう育まれるか

 それでは、私たちはこうした識別能力を、どのようにして身につけているのでしょうか、あるいは身につけてきたのでしょうか? 答えは教育学者や発達心理学者に聞くべきでしょうが、割り切った言い方をすれば、わが国ではこうした「情報処理の基礎」は教えてもらうものではなく、「発達の過程で自然に身につけるもの」とみなされているように思われます。

 高等学校で「情報」という教科を設けたものの、プログラムやパソコンの扱い方などの技術を主にし、倫理を入れるようになったのは、ごく数年前のことです。児童相談所(児相)の職員が「手紙の嘘」を見抜くことが出来なかった(うすうす感じていたが、正しい対応が出来なかった)というのですから、おそらく相談員の教育プログラムにも入っていないのでしょう。

 この問題に直接答えるものではありませんが、間接的に参考になる事例として、私自身の経験を紹介しましょう。私には、長男のところに3人の孫がいます。彼らが7歳、5歳、3歳だった時は、ニンテンドウDS発売の初期でした。そこで3人と私だけになったとき、「ニンテンドウDS持ってるの?」と聞いてみたところ、しばらく沈黙が続いた後で7歳児が「持ってるよ」と答え、3歳児が「でもパパには内緒なんだよ」とフォローしたので、7歳児が困惑したような表情を浮かべました。

 長男は自身がデジタルを商売にしているためか、子供たちにデジタル機器を早く与え過ぎないように配慮して、DSを買い与えなかったのでしょう。ところが、周りの友達は大部分が持っているので仲間外れを心配して、長男の嫁がこっそり買ってあげたのが真相のようです(知らぬは、パパだけ!)。「パパには内緒」の意味と、「パパのパパ(じいじ)に伝えることの意味」を7歳児は理解しているが、3歳児には未だ分からない、と読み解けました。

 とすると、3歳から7歳までの数年間に、子供は自然に「内緒情報の扱い方」を身につけていくのでしょうか。この分野に疎い私には分かりませんが、子供が多く大家族で生活していた時代には、それで十分だったのかもしれません。コミュニティが広ければ、コミュニケーションの頻度と組み合わせの多様性があるから、自然に多くのケース・スタディができるからです。

 ところが、少子化と核家族が一般的になった現代では、こうした機会は著しく限定的になってしまいました。何でもアメリカ式が良いとは限りませんが、この点に関する限りアメリカ式で「マニュアル化」し、小学校低学年から「情報の扱い方」として、学習指導要領付きの正規の科目にする必要があるのではないか、と考えています。

 実は、「サイバー灯台」を運営している矢野直明さんと私は、情報セキュリティ大学院大学の開校時(2004年)から2010年度まで共同で「セキュア法制と情報倫理」という科目を担当し、情報の扱い方に関するケース・メソッドを開発し、『倫理と法:情報社会のリテラシー』という教科書を作りました(産業図書刊)。この科目は、現在湯浅教授と私が担当していますが、ケースが古くなったので院生自身にケースを集めるところから担当させて、円滑に授業を続けています。

・矢野さんのコメントに触れて

 ところで、その矢野さんは、ご自身で「新サイバー閑話」というコラムを書いておられます。その第8回(2月9日)で、私の連載の前回分に触れて、以下のようなコメントをいただきました。

 2017年はじめに刊行された『情報法のリーガル・マインド』で著者は、今後対応を迫られる大きなテーマとして「情報の品質保証」を上げているが、それがいま現実の社会的大問題として浮上してきたわけである。時代がようやく所説に追いついてきた(指摘していた問題が顕在化してきた)と喜ぶべきか、あるいはそのことを悲しむべきか。それよりも、持論が社会に真剣に受け止められず、とくに政治の分野ではほとんど一顧だにされてこなかった事態を嘆くべきなのか。著者の感慨もまた複雑だと思われる。

 ご賢察のとおり、私の気持ちは複雑なので一言で要約することはできません。自己診断は偏見を伴うことが多いのですが、多分喜び10%、悲しみ40%、嘆き50%といったところでしょうか? 矢野さんのコメントも、その比率になっているように見受けました。「情報法」と銘打った書籍はかなりの数に上り、それぞれの視点から見れば良書が多いのですが、フェイク・ニューズが横行している現在では、良書であっても「ここに書いてあることは確かか?」と疑ってかからなければならないとしたら、何と住みにくい社会になったことでしょう。

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