新サイバー閑話(14) ホモ・デウス⑥

蝸牛角上の大坩堝

 かつて米国の作家、マーク・トゥエインは、地球全史をエッフェル塔の高さに例えれば、人類の歴史はてっぺんに塗られたペンキの薄皮の厚さぐらいなのに、その人類が塔全体(地球)は自分のためにあると自慢していることのこっけいさを皮肉った。

 ハラリの『サピエンス全史』はその地球史におけるサピエンスの歴史を俯瞰したものである。冒頭に掲げられた年表の一部を再掲しておこう。

45億年前 地球誕生
38億年前 有機体(生物体)出現
600万年前 ヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先
7万年前 認知革命
1万2000年前 農業革命
500年前 科学革命
200年前 産業革命

 生物学では、科―属―種というふうに生物を体系分類しているが、ヒト科ホモ属にはいわゆるホモ・サピエンス(ハラリの言うサピエンス)以外にも、ネアンデルタール人、ホモ・エレクトス、デニソワ人などがいた。ネアンデルタール人が3万年前に滅んで、1万3000年前にはホモ・サピエンスが地球で唯一生き残った人間種となった。

 サピエンスがなぜ地上の王者になり得たか。重要なのは認知革命と農業革命、科学革命だと著者は言う。

「伝説や神話、神々、宗教は、認知革命によって初めて現れた。……。虚構、すなわち架空の事物について語る能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っている」、「1万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めたときだった。……。これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった」、「科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた」、「解決不可能のはずの問題を科学が一つまた一つと解決し始めると、人類は新しい知識を獲得して応用することで、どんな問題もすべて克服できると、多くの人が確信を持ちだした。貧困や病気、戦争、飢餓、老齢、死そのものさえもが、人類の避けようのない運命ではなくなった」。

 ここで、農業革命以前の狩猟採集時代が数百万年も続いていたことを想起する必要がある。それにくらべ農業革命以後は〝わずか〟1万年でしかない。その短期間にサピエンスは宗教、貨幣、帝国、資本主義という共同主観的な虚構を生み出し、それによって文明を進化させてきた。現在の私たちが生きている社会の基本構造を作った科学革命、産業革命は、サピエンス全史から見れば、これまたほんの短期間に過ぎない。

・メルシュトリームの大渦

 デジタル・コンピュータが登場したのは1945年前後であり、インターネットは1960年代後半のARPAネットから始まった。サピエンス全史から見れば、いずれ100年にも満たないきわめて〝瞬時〟の出来事である。このわずかな時間に、人類(サピエンス)は自らを改造しホモ・デウスに向かおうとしていると著者は言う。

 遼遠の歴史と現代という瞬間における大変動。これをカタツムリの角の上の大激動、言ってみれば、「蝸牛角上の大坩堝」と呼んでいいかもしれない。

 私はサイバーリテラシーにおいて、人類史をインターネット出現以前のBC(Before Cyberspace)と出現後のAC(After Cyberspace)に二分して、現在の未曾有の激動期を生き抜くためには、時代を冷静に観察する目とそれを乗り切る才覚、そして勇気が求められると書いたことがある。その点でハラリの「ホモ・デウス」という発想に度肝を抜かれる思いをした。以後で著者の「歴史家の目」について考えてみたい

 それはともかく、当時、私の念頭に浮かんだのは、推理小説の祖、エドガー・アラン・ポオの『メルシュトレームの大渦』という短編だった。

 北欧のノルウェイ沖に、漁師たちに「メルシュトレームの大渦」と恐れられている海域がある。恰好の漁場にもかかわらず、だれも近づかないが、勇敢な兄弟漁師3人だけは命を賭けて出漁、大渦が発生する間隙をぬって多くの漁獲を得ていた。ある日、漁に出た後に台風がやってくる。70トンほどの2本マストの漁船は台風に翻弄され、一番下の弟はマストもろとも海に放り出された。直後に漁船は、折り悪く発生した大渦に巻き込まれてしまう。
 渦の中で旋回する漁船の上で、弟の方の漁師は、絶望的な恐怖にとらわれながら、周囲を冷静に観察、小さな破片ほど、そして円筒形をしたものほど、海底めがけて沈んでいくスピードが遅いことに気づく。そこで彼は漁船を捨て、積荷の水樽に体を巻きつけて海に飛び込んだ。逆に、兄が振り落とされないように自分をマストに巻きつけた漁船は、樽より早いスピードで渦に巻き込まれ、1時間後に海底に消えていくが、樽に乗り移った弟は、渦がおさまった海峡から無事に生還する。

  ハラリは冒頭の年表を以下のように締めくくっている。

 今日 人類が地球という惑星の境界を超越する
    核兵器が人類を脅かす
    生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる。
 未来 知的設計が生命の基本原理となるか?
    ホモ・サピエンスが超人たちに取って変わられるか?

 そして『サピエンス全史』の最終章を「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題してこう記している。

「サピエンスは、どれだけ努力しようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまで暗黙の了解だった」、「ホモ・サピエンスを取るに足りない霊長類から世界の支配者に変えた認知革命は、サピエンスの脳の生理機能にとくに目立った変化を必要としなかった。……。どうやら、脳の内部構造に小さな変化がいくつかあっただけらしい。したがって、ひょっとすると再びわずかな変化がありさえすれば、第二次認知革命を引き起こして、完全に新しい種類の意識を生み出し、ホモ・サピエンスを何かまったく違うものに変容させることにかもしれない」。

矢野直明『サイバーリテラシー概論』(知泉書簡、2007)
サイバーリテラシー概論―IT社会をどう生きるか