林「情報法」(58)

市場を信頼しながら所有権は制限する

 この連載で繰り返し強調してきたように、私が情報法の論議で最も懸念しているのは、有体物の法の基礎にある「所有権」の概念を、無意識のうちに情報にも適用してしまうという弊害です。この傾向は、特に経済学者の間で根強いものがあります。ところが意外や意外、「法と経済学」の論者の中でも最も「市場」重視派と思われているエリック・ポズナーの新著は、「市場は重視するが、(従来はそれと表裏一体とされてきた)所有権の呪縛から脱皮しなければならない」と説くものです。この一見矛盾するロジックは、どのようにして可能になるのでしょうか?

・Radical Markets: Uprooting Capitalism and Democracy for Just Society

 『ラディカル・マーケッツ:脱・私有財産の世紀』という邦訳書(安田洋祐・監訳、遠藤真美・訳)のタイトルは、この謎を解く上で適切な訳語だと思われます。今年の初めに東洋経済新報社から出版された同書の共著者は、「法と経済学」の始祖の1人であるリチャード・ポズナーを父に持つエリック・ポズナーと、E グレン・ワイルというマイクロソフト社の主任研究員です。書きぶりから見て、ワイルのアイディアとシミュレーションを2人で検討し、理論づけとまとめはポズナーが担当したものと思われます。

 社会主義を否定し資本主義を是とする思想の背景には、「市場と所有権は一体不可分に結びついている(はず)」という前提があります。事実、2大政党制が定着している米国では、以下のような図式が一般的な理解になっています。

 右派≒共和党の主張:所有権は市場取引の前提で、これを制限するとインセンティブを削ぐから、原則として認めるべきではない。旧ソ連が崩壊したのは、統制経済が分散型意思決定システムである市場メカニズムに負けた、象徴的出来事である。
 左派≒民主党の主張:市場が有効に機能しない「市場の失敗」に対しては、政府の介入が不可欠で、時に所有権を制限すべき場合がある。累進課税や国民皆保険、公益のための土地の強制収容などは、資本主義国でも広く認められている。

 両者の争いは、ソ連が崩壊した直後は右派の圧勝のように見えました。「すべての財を共有すべき」という共産主義の主張は、「コモンズの悲劇」(所有権が不明確だと誰もがただ乗りしようとするので、資源が浪費され枯渇してしまう)に陥るか、逆に資源が活用されずに衰退する。それが歴史的に証明されただけだ、というのです。これに対して資本主義社会では私有財産(所有権)が明確にされており、所有者が必要な管理をすれば「資産の価値を高める」インセンティブが働くので、資源投資の効率性も資源配分の効率性も担保される。このような見方からすれば、ソ連の崩壊は逆説的だが「所有権と、それに連動する市場システムや政治的な民主主義の優位性」を証明したというのです。

 さて旧ソ連の崩壊直後には、例えばアパートの国有方式を改めて市場取引を可能にしても、統制に慣れた官僚が(例えば登記の)権限を手放さないため、時間がかかったり賄賂が必要になって、「権利の存在が証明できない」まま取引するという不完全な市場しか生まれませんでした。これは「反コモンズの悲劇」と呼ばれ、「完全な排他性のある所有権」でなければ市場が機能しないことが、旧東西両陣営の共通認識になりました。

 ところが勝利したはずの資本主義においても、右派共和党と左派民主党が競っている間に所得格差が徐々に拡大して、世界一豊かな国であったはずの米国でも、グローバリズム反対の声が上がるようになってきました。また、中国経済の急成長によって、「非資本主義的市場主義」が(少なくとも短期的には)成立し得ることが実感されるようになり、「所有権」と「市場原理」が、必ずしもセットではないことが明らかになってきました。

 ポズナーとワイルの本は、まさにこのような「世界理解の揺らぎ」の時期に登場したもので、「市場原理は守りつつも所有権の絶対性は弾力的に捉える」という理解が可能かどうかを試す、思考実験だと思われます。英文タイトルのradicalやuprootは、いずれも「根源的に考え直す」ことを意図する語で、それらは必然的に「過激」な内容を含むものにならざるを得ません。

 ・繰り返し準リアルタイム・オークションが可能にしたもの

  共著者が、リスクを取っても過激な議論を展開しようとした背景には、序文で明らかにしているように、ノーベル経済学賞受賞の知らせを受けた3日後に急死したウィリアム・ヴィックリー(1914~1996)による、オークション理論への信頼があります。オークションは、希少な財貨の競売や公共工事の入札などでは古くから利用されてきましたが、ICT(情報通信技術)の驚くべき発展とともに、その応用分野を拡大しています。

 米国では、私がニューヨークに滞在した1990年代前半に、従来は「専門家による審査」(俗称「美人投票」)というプロセスで政治的に決定されていた周波数の割り当てに、オークションが導入され威力を示しました。今日では、インターネットの発展とともに中古品の売買などに広く適用され、広告市場ではリアルタイムに近いオークションが当たり前になっています(そのため、広告市場と広告による無料情報市場という「両面市場」が成立し、後者の倫理が広告市場に支配されるといった問題も生じています)。

 オークションの仕組みは、インターネット上では「繰り返し、リアルタイムに近い形」で行なうことが可能になるので、以下のようなことができるといいます(邦訳書、pp. 26~28)。① 従来は相対で取引するしかなかった私有財産を公開し広く取引の対象にできる、② 常時開設されているので頻繁に取引できる、③ 買い占めの意味がなくなり貧富の格差が縮小する、④ 取引過程が透明化され政治的介入を排除できる。

・COST(Common Ownership Self-assessed Tax)

 共著者は、オークションの仕組みを財貨の取引という伝統的市場に応用するだけでなく、選挙システムや移民労働者の市場、企業ガバナンスの市場、現在無料サービスになっているデータ取引の市場など、およそあらゆる価値の交換に利用できる(あるいは新しい市場を開設できる)はずだ、というradical な議論を展開しています。

 しかし、その基本になるのは伝統的な財貨の取引ですので、まずはそこで提案されているCOST(共同所有自己申告税)に限って、説明しましょう。監訳者の安田准教授の簡潔な要約によれば、COSTは以下のような仕組みです(邦訳 p. 419の表現を一部修正)。

①現在保有している財産の価値を自ら決める、
②その価値に対して政府が一定の税率分を課税する、
③ ①の価値より高い価格の買い手が現れた場合には、
 1)①の金額が現在の所有者に対して支払われ、
 2)その買い手に所有権が自動的に移転する。

 この仕組みに従えば、「財産を所有して他人の利用を排除する」所有権に拘ることは、趣味や希少財の世界では引き続き有効です(誰にも「これを持っているのは世界で私一人だけ」と誇りにしたい品物があるでしょう)が、財貨一般に関して所有権に拘泥することは合理的ではなくなります。なぜなら、税金を安くしようとして価値を低位に設定した人は、常にオークションで買い取られるリスクを覚悟しなければならないし、逆に見せびらかせたいだけで高値の申告をすれば、それに連動して高額の税を負担しなければならないからです。

 つまり旧来の所有権の経済的機能のうち、利用価値は生き残りますが交換価値は減退し、権利としても「所有権」ではなく「利用権」があれば良い、という状況に変化します。これまでの所有権中心の発想では、「物を持つ」ことがなければ「物を利用する」ことができないか、極めて不便な状況でした。しかしCOSTの世界では状況は改善され、「いつでも利用できる」ことを前提に権利のあり方を考え直すべきだ、と主張したいのでしょう。

 こうした主張は理論的に可能なだけでなく、一般にシェアリング・エコノミーと呼ばれているUber やAirbnb という「所有しないで利用するだけ」サービスの形で既に実現されているので、説得力があります。法律的に見れば所有権の機能は、① 自分で利用する(使用)、② 他者に利用させて収益を得る(収益)、③ 売却して換金する(処分)の3つですが、従来利用度が低かった ② の機能が、ICTの発展で重要度が増したと考えれば、当然のことともいえます。

 しかも、こうした利用形態はインターネットを前提にしているので、市場原理は後退するどころか、ますます使い勝手を広めていきます。「市場は所有権と表裏一体のはずなのに、所有権を制限しつつ市場原理は守る」という一見矛盾しそうな論理が、実は最も現実に即したものであるのは、まさにこのためです。「結論を言ってしまえば、大規模な経済を組織するアプローチとして、市場に対抗する選択肢はない」(p. 56)というのが、共著者の揺るがない理解です。

 ・所有権の排他性をゼロ・イチから解き放つ

  ただし共著者は、現在の市場は期待通りには機能していないとして、大胆な改革を求めてもいます。市場原理の良さは、「自由」「競争」「開放性」にあるのに、「富める者がますます富む」「IT市場を支配した企業が経済全体を支配する」度合いが高まったため、理想は裏切られています。それどころか、「新自由主義経済は、格差と引き換えに経済の活力が高まると約束した。結果として、格差は広がったが、活力はかえって低下している。これを『スタグネクオリティ』(stagnequality)と呼ぶ」(p.46)として、厳しく批判しています。スタグネクオリティとは、stagnation(停滞)とinflation(インフレ)の合成語である「スタグフレーション」に倣って、前者とinequality(格差)を結び付けたものです。

 上記の記述を法学的に翻訳し、私流の情報法的解釈を施せば、以下のようになるでしょう。a) 所有権は財の市場取引を可能にする機能を持つ優れた仕組みではあるが、b) 同時に所有者に「他者を排除する権利」を付与することになるので、独占を誘発しやすい欠点がある。また、c) 本来コモンズ的性質を持つ情報に所有権アナロジーで対処したところ、d) GAFA独占のような19世紀末の独占を上回る集中が起きた。結局、解決法としては、d) 所有権をアンバンドルして「他者の利用」が可能になるよう排他性を弱める必要がある、となるでしょう。

 これは、著作権に関して私の ⓓ マークやレッシグが考案したcreative commonsのように「弱い排他性」あるいは「共同利用が可能な排他性」を工夫するという発想の延長線上にあります(拙著p. 248 以下と、本連載の第49回を参照してください)。しかも、レッシグや私が考えることができなかった「所有権そのものの情報法的代替案」を提示したという意味で、画期的なものです。この提案を知ったからには、拙著の大部分を書き換えたくなるようなradical(根源的で過激)なもので、大いに刺激を受けました。

 しかし法学者として唯一の不満を言えば、邦訳書のサブ・タイトルを「脱・私有財産の世紀」ではなく、「脱・所有権の世紀」としてもらいたかったところです。しかしこれは、経済学から学問に入って、法学に回帰した私の「繰り言」にすぎないかもしれません。

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