IT社会の処世訓「サイバー倫理」(第140回、2017/9号)

原稿PDF / 原稿JPEG


イラスト

混沌化するIT社会を生きるための「サイバー倫理」がテーマです。この際、これまで「情報倫理」と呼んできたものを「サイバー倫理」と改称することにした。市井のまっとうな生き方がITによって阻害されないための「処世訓」というか……
こちらの方がわかりやすいですね
倫理と言うと、どうしてもうさん臭くなるけれど、最終的なよりどころはここにあると思うわけね
倫理の押しつけは願い下げです
タテの倫理からヨコの倫理への力点移動がひとつの主張だが……
イラストでは、緊張のタテ社会、緩和の横社会を対比しました。右下の主婦は124回で使ったのと同じエプロン姿で、「リトルベア・チャーリー」と書いてあります
リトルベア・チャーリーをグーグルで検索すると、なんと、我らが「サイバー絵本」が最初に出てくるの知ってた?
おお、これでSEO対策もクマりませんね
……お後が宜しいようで

< ML楽屋話 >


Kan これまで「情報倫理」と呼んできたものを「サイバー倫理」と呼び変えたのが今回の注目点です(^o^)。以前、ツイッターで散発的にやっていた、サイバー倫理の具体的指針づくりも本格化したいと思っています。


Sic 今回のコンセプトは、「タテ社会とヨコ社会の邂逅」です。画面上部は古代ギリシャ・ローマの兵士で、ファランクスという陣形を組んでいます。

 ファランクスとは、大きな盾を構えて並び、隙間から長槍を突き出し前進あるいは防御する古代の陣形戦法です。弓の発達により廃れていきましたが、歩兵戦では絶大な効果を上げました。現代でも、機動隊などが対暴徒鎮圧用に採用しています。(さすがに槍は構えませんが)。

 この戦法の最大の弱点は機動力です。盾に身を隠しつつ前進するので、兵士の視界はほぼゼロに近く、号令をかける指揮官が必須です。兵士は指揮官の号令(命令)を遂行するのみで、一糸乱れぬ行動に最大の効果が現れますが、同時に一人でも足並みが乱れるとそこが弱点となってしまいます。すなわち、全体で一つ、一個の小隊で生死を共にする厳しい規約のもとにある最小単位の「社会」です。

 記事にある縦社会を表現していますが、タテ→盾という連想から思いつきました。タテ社会というダジャレに至らなくても、ローマ帝国(古代の兵隊=絶対的縦社会の集団)が重武装ながら躊躇している絵として見えればよいかなと。

 下は、ボランティア活動(ゴミ拾い)に励む人々です。少年、女子学生、主婦と、従来の縦社会と対照的な関係→横社会という表現です。実は、少年は117回(監視に囚われた少年)、女子学生は116回(携帯操作に悩む女子中学生)、主婦は124回(匿名で叫ぶ主婦)で描いたキャラクターで、「現代社会に潜むデジタルの『影』を追う」の過去記事が「横」に並んでいるというメタ視的な関係です。そんなマニアックな視点がなくとも、堅実な生き方をする市井の人びととして見てもらえればよいと思います。

 ファランクス陣形を組む兵士部隊は、それぞれの結束が強いと同時に、そのまとまり故に孤立しています。閉鎖されている社会とも言えます。その中で、同じ盾、同じ装備、同じ武器を持ち、先頭が倒れれば、すぐに後列の兵士が補います。その歩みは、全滅するか敵を滅ぼすまで止まりません。ファランクス陣形において、兵士は消耗品です。

 一方、ボランティア活動の面々は、関係性が緩く、リラックスしたムードで活動をしています。服装もラフな格好で統一性がなく、年代もバラバラ。それぞれが「自分の出来ること」をやっており、同じ事をしている人はいません。

 緊張のタテ社会に対して、緩和のヨコ社会という対比を表現してみました。そこに流れるリーガルマインドも、恐らくは対象的なものでしょう。

 余談ですが、ファランクスは艦艇用自動迎撃システム(レーダーと重火器が一体になったもの)の名称として採用されています。艦艇に接近する攻撃手段に対して、人の手を介さず問答無用で迎撃する完全自動化兵器です。過去に廃れた戦争の技術が、IT化された兵器の名に採用されるというのは、何とも皮肉なものですね。

 


Kan タテ社会の象徴としてのファランクスというのは、なかなか意味深長ですね。異論を許さないわけね。

 昨日のサイバーリテラシー研究会でも、ジャズ音楽家、日野皓正さんの往復ビンタ事件が話題になりましたが、今日の東京新聞の篠田博之氏のコラムに、殴られた中学生本人が『週刊文春』に「自分が悪いと納得しています」と連絡してきたこと、マスコミの取材に対して日野氏が「あなたたちがこういう騒動にしてしまうことが日本の文化をダメにしているんだ」と語ったことなどが出ていました。

 日野さんの言う通りだと思いますが、結局、ネットにはいろんな情報が面白半分に上がるものだ、マスコミはいつもくだらぬ報道をしているというところに落ち着けば、それでいいと考えるべきなのかどうか、ということですね。

 僕にはネットやマスメディアなど無視すればいいんだとは思えないところがあるわけですね。これも余計なお世話かもしれないけれど、世の中の情報環境が汚れるというか、美しくなくなることが残念です。健全なモノ言わぬ多数の人びとを信頼すべきだという考えもわかるけれど、情報がインターネットの波に乗ってどんどん安きに流れるのを放置しておくのは良くないのではないのか。インターネット時代だからこそ、そういうことへの歯止めをかける努力というか姿勢が必要なのではないかと思うわけです。

 サイバー倫理の考え方の根本に関係していますね。


Sic なんで2択に落とし込もうとするんですかね?動物の躾としては正しいし、法律でいえば暴行、炎上商法でいえば話題性は(結果的に)大成功だし、健全なイメージ戦略ではNG…共感出来る、出来ないなら分かりますが、単なる正悪ではないと感じるんですけどね。

 私としては、行為そのものより、その後の「お前らが日本をダメにしてるんだ」みたいな発言が「お前の母ちゃんデベソ」みたいだなと見てました。本番で子どもがそういうことをやったってことは、練習と指導が足りなかったんじゃないの?叱るなり殴るなりは裏でやれよ、とも思いました。。


Kik まさしく「総メディア時代」ならではの問題ですね。技術論は勿論、文化・社会、あるいは哲学的アプローチまで、さまざまな角度から考察できそうですが、最終的に行き着くところは、結局、人間は「サイバーリテラシー」の定義(…それは現代社会を、私たちが現に生活している「現実世界(リアルワールド)」とインターネット上に成立した「サイバー空間(サイバーワールド、サイバースペース)」の相互交流する姿…)を、肉体感覚として落とし込めない生物だからなんじゃないかと。頭で理解し、「意識」することは可能だけど、「実感/体感」することが不可能という生物学的な限界。
 最近の遺伝学では、「人間の知性は2000~6000年前にピークを迎えており、その後人類の知的、感情的な能力は徐々に衰えている」といった研究結果があり、「脳の大きさが過去3万年で10%縮小している」という別の研究もあります。

 科学の進歩によって肉体を進化する必要がなくなった人類は、実は数千年前とまったく同じ脳を使っているとのこと。人間の脳は、科学を理解し、「車を運転する」「PCを操作する」といった身体感覚に直結することは「実感」できても、従来の「日記を書く」「仲間内で会話を楽しむ」と同じ日常的身体行為を、「世界とつながっている」「世界に発信している」という「実感/体感」に結び付けられません。普段、呼吸をしながら「あ、今、地球上の酸素を○%消費した」と「実感」しないのと同じレベルで。

 結果、ネットは暇人の承認欲求や同調欲求を満たす装置に成り下がり、つまらない情報や炎上ばかりが増える。(やっている人の、脳内快感につながるので止まらない)だとすると、解決方法は二つで、一つは脳とコンピュータを直結し、データの流れを「実感/体感」できるようにする、サイバーパンクな技術を開発する方法。もう一つは「サイバーリテラシー」を通じて、人類が「意識」することに慣れさせること。ますます、サイバーリテラシーは重要ですね。(お、うまいとこに着地できた(^o^))
 ちなみに、日本で炎上が多いのも、脳科学で研究されているみたいですね。


Kan 日野氏の発言はもっともであり、それに賛同する人の方が、今の日本人の中では多数派だと思います。しかし、この多数派の意見はあまりネット上には出てこないですね。ここが問題だと思うわけです。日本人全体の意思らしいものと、ネット上の情報のあり方の比重が逆転しているように見える現状は放置しない方がいいんじゃないか。もちろんネットの全体状況を把握することは難しいわけで、無視しておけばいいというのも一つの態度です。多くの人が無視すれば自然に収まるところに収まるようなら、それでもいいわけだけれど、どうもそうではない。考えようによっては、面倒な時代ではあるが、降りかかる炎は払った方がいいのではないか。これはIT社会を生きる人の務めではないか、と思ったりするわけですよ。

 その点、例の「学び舎」の教科書をめぐる灘中学校長の態度は立派だと思います。妙な圧力に屈せず、自説を堂々と述べれば、正論を否定することの方が難しい。それを妙に空気を忖度して黙ってしまうと、空気の方がいよいよ強まるわけで、これが戦前の状況によく似ているように思われます。校長の意見に賛同する声を上げることがいま必要なのではないかというね。

 一方、これまで主張してきたサイバーリテラシーの基本は、サイバー空間と現実世界を区別したうえで、私たちの軸足を現実世界に置くことの重要性だったわけです。だから「情報をデジタル化されない権利」、「忘れられる権利」にむしろ好感を示し、サイバー空間は大いに利用するとしても、一方でその危険な側面についての理解を深める必要性も強調してきました。

 前回、Sicさんもふれていたけれど、サイバー空間上の情報は完全に把握されてしまうわけで、それを承知でみんなに意見を述べるように進めるのは矛盾している面もあります。


Kik 最近、面白いと思った記事に、<ネット上の「批判」「誹謗中傷」に、メディアや書き手はどう向き合えばいい?>というのがありました。


Kan これはサイバー燈台関係者、必読ですねえ(^o^)。座談会出席者の一人、徳力基彦氏が「だとすれば過激な人が正義にならないように、受け取る側のリテラシーを高める教育をしていかないといけないし、誹謗中傷のような過激な表現をしている人が格好悪いという雰囲気を社会的に作らないといけない。または、メディアやプラットフォーマーがテクノロジーを使って、そうした意見が表面に出てこないようにしていくことも考えられます。そうしたデジタル時代ならではの言論のセーフティネットみたいなものを真剣に考えないといけないフェーズにきているのでしょう」と言っているのは、大いに我が意を得たりと思いました。


ご意見をお待ちしています

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です