新サイバー閑話(81)<折々メール閑話>㉚

選挙が機能していない政治と新しい息吹

B 4月に行なわれた統一地方選をふりかえるとき、最初に襲われるのは、結局、何も変わらなかった、というどうにもやるせない徒労感、倦怠感ですね。この国の政治において選挙というものがほとんど機能していない。
 投票率は41道府県議選の平均投票率41.85%、過去最低だった前回の44.02%からずいぶん下がりました。後半の市町村議員と町村長選でも過去最低、市長選と東京区長選、区議会議員選挙では前回を上回ったけれど、これも50%以下です。都道府県知事選の投票率は平均46.8%、やはり50%以下で前回を下回っています。町村議選では約3割が無投票当選だったとも言います。
 半数以上、場合によっては6割近い人びとが実質的に選挙に参加していないし、しかもその割合が多くのケースで前回より増えています。選挙前には統一教会がらみで自民党議員の票がぐっと減るだろうと予想されていましたが、そういうふうにも民意は動かなかった。

A 脱力感ですね。

B 社会思想家の内田樹氏が東京新聞のコラム「時代を読む」(2023.4.23付)で、<統一教会のことも、防衛費増強のことも、増税のことも、インボイス制度のことも‣‣‣みんな『政府が好きにしていいよ。オレは興味ないから』という有権者が60%近くを占めているのである。これはかなり深刻な病態と言ってよいと思う>と述べたうえで、これを「パワークラシー(powercracy)」が日本に定着した兆候だと見立てています。「パワークラシー」は貴族政治(aristocracy)、民主政治(democracy)などの類推による内田氏の造語で、これは<「権力支配」という意味である。ふつうは王政であれ、貴族政であれ、民主政であれ、主権者はおのれの地位を正当化する何らかの理由づけをする。「神から授権された」とか「民意を負託された」とか、あるいは端的に「賢明だから」とか。パヮークラシーは違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っていること」だからである。‣‣‣。「権力者は正しい政策を掲げたのでその座を得たのであり、その座にある限り何をやってもその政策は正しい」という循環構造がその特徴である。‣‣‣。パワークラシーには「出口」がない。私たちはそんな社会にしだいに慣れ始めている>と言うのだが、心情としてはよくわかりますね。
 徒労感の要因はもう1つあります。同時に行われた国政選挙、千葉5区、和歌山1区、山口2区と4区の各衆院補選と大分の参院補選で、自民が4勝、和歌山は維新が獲得しました。大分では立憲民主党が擁立し、共産、社民が推薦した元社民党首が自民党の新人、「銀座のママ」に敗れました。

・立憲民主党の背信とれいわ新選組の躍進

A 自民が圧勝したわけではなく、むしろ辛勝、立憲民主党のふがいなさだけが目立ちました。山口2区は立民が平岡秀夫を公認しなかったわけですね。一説によれば無所属で出ることで共産党の票を獲得出来ると読んでいたそうですが、また一説では原発反対派の平岡を公認すると連合のご機嫌を損ねるからだとも。立民のだらしなさ、無責任さのおかげで〝家系図候補〟で何の実績もない岸信千代が勝った。
 日本維新の会は関西を中心に大躍進ですね。大阪知事、大阪市長選で圧勝したばかりか、奈良県知事選でも自民候補を破っています。

B 維新の本質は自民党とあまり変わらないわけで、やはり特筆すべきは立憲民主党の惨敗です。そもそも候補擁立の段階からほとんど野党共闘が成立せず、勝たねばならない選挙区でも苦杯を喫しました。泉健太執行部の責任であることは明らかです。野党として闘う姿勢を喪失したことで多くの人の失望を買い、投票に行く意欲までも失わせたと言えるでしょう。この「背任」に対する総括をしない以上、立憲民主党の将来はないし、日本の政治の前途はいよいよ暗い。ユーチューブの動画「一月万冊」で佐藤章が立民は辻元清美を党首に立て、しっかりした野党として出直し、そのうえで共産党、社会民主党、れいわ新選組などとの共闘を考えるしかないと言っていたけれど、まったくそうだと思いますね。
 これも東京新聞の「本音のコラム」(4.27付)で青学大名誉教授、三木義一氏が投票率に関して、洒脱な問答を載せています。

「低投票率の原因は?」
「わしが思うに、政党が日本丸の航路を照らす灯標の役割を失ってきたのだ。特に左側の灯標の多くが壊れかけておる」
「なるほど。それで、右にしか進めなくなっているんだ!」

A れいわの山本太郎代表も本気で立民を乗っ取る行動に出てほしいです。

B 60%の有権者を枠外において行われている選挙は、いよいよ自民党や日本維新の会の思うがままです。この40%だけの政治が実際に世の中を動かしていることは指摘しておかないとね。

A つい最近の国会を見ても、27日の衆院本会議で60年超運転を可能にする「GX脱炭素電源法案」が自民、公明、日本維新の会、国民民主党などの賛成で可決、健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化するマイナンバー法も同日、衆院を通過しました。また自民、公明、日本維新の会、国民民主党は入国難民法改正案の修正で合意しています。立憲民主党は法案に反対したりはしているようだけれど、形だけ反対しているにすぎず、何の迫力もありません。

B 選挙制度は落ちるところまで落ち、その中で政治は与党の思うがままに行われている、とまあ言えなくはないのだけれど、細かく見ていくと、新しい動きがないわけでもないですね。
 まず東京区長選や地方の議員選では女性の進出が目立った(女性の比率は14.0%、これでも1割台です)。自民党、公明党などは区議会議員選挙では票を減らしています。維新はここでも票を伸ばしましたが、れいわは区議選14、全国市議選25の公認候補を当選させました。

A 地方に40の拠点を得たことは、今後のれいわにとって大きいのではないですか。れいわは擁立した候補の半数以上が当選したようで、結党4年目でここまで進出できたことを良しとすべきだと思いますね。

・選挙に無関心の6割の内訳と新しい息吹

B 以下では、投票しなかった60%のことを少し考えてみたいと思います。なぜ投票しないか、それは選挙にも政治にもまったく無関心だというのが一つのグループです。日々の生活に追われて政治のことを考える余裕がないとか、「竹林の七賢」のように韜晦を決め込み、独自の世界を生きている人びと、それと、これがいちばん多いと思うけれど、内田樹氏の「パワークラシーにゆらぐ葦」とでもいう、なんとなく日々の生活を生きている人びとです。しかし政治はいやおうなくそれらの人をも巻き込んでしまう。山に籠っても、衛星やドローン、あるいは最新兵器で補足されてしまうわけだし、為政者にとっては、むしろありがたい人びとです。
 もう1つは政治そのものには関心も持ち、自らの人生のこともよく考えているが、現代政治そのものには絶望して参加意欲を失い、NPO法人とかボランティア活動、あるいは自分の身の回りで理想の社会を実現しようとしているグループです。むしろまっとうな人びとで、しかも、けっこうな人数がいるように思われます。とくに若者の中に。これらの人びとと政治をつなぐチャンネルになれるのは、立憲民主党ではなく、れいわ新選組だと我々は思い、また期待もしているわけですが、いまはまだ必ずしもリンクできていないですね。
 たとえば最近、友人に勧められて孫泰造『冒険の書  AI時代のアンラーニング』(日経BP、2023)を読みました。孫泰造氏はいろんなITベンチャー企業に投資してきた企業家で、ソフトバンク創業者、孫正義氏の弟です。本書は、思索としての冒険の書であると同時にAI時代の生き方指南書でもあります。
 AI時代にはこれまでの教育で培ってきた実務知識はコンピュータによって代替されるようになる。そこで生き抜くためには、もっと根源的な学びの哲学が必要になってきます。AIに脅かされている時代が、教育本来の意味を浮かび上がらせてくれるという逆説がここにあります。
 著者が古今東西の教育者、思想家を通して学んだことは、結局、「教育は本来の意図とは別に、まったき人間を育てることよりも産業社会、資本主義に都合のいい人材を育てるものになってしまった」、「子どもを保護しなくてはいけないという善意の考えが子どもを型にあてはめ、かえって子ども本来の可能性をそぎ落としてきた。学校教育そのものがいびつなものになり、だからいじめや不登校といった適応障害も起こっている」ということです。
 彼は「自ら『優秀な機械』になろうとする人間は、遅かれ早かれ『メリトクラシーの最終兵器』である人工知能にとってかわられる」とも書いています。メリトクラシー(meritocracy)は実力主義、能力主義といった意味です。アンラーニングとは、「自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びに取り組み、すべてを組み替えるという『学びほぐし』の態度」であり、「『社会が自分を変えるための場』であった学校を『自分が社会を変えるための場』へと意味を逆転させるイノベーション」です。
 本の注目度から推測して、このラディカルな考え方を支持する若者がけっこういるのだと思います。この本で驚くのは、アニメの1シーンを思い出させるようなイラストの中に、タイトルが小さく配されている本の斬新なデザインでもあります。あとがきに多くの協力者の名前があがっていますが、この本を読みながら、ここに結集している若々しいエネルギーと現代日本の政治的停滞はどう関連するのだろうか、ということを考えたわけです。老人の余計なおせっかいと思われるのを覚悟して言えば、なぜれいわ新選組および山本太郎への支持へとつながらないのか、と。

A  僕も最近、上間陽子『海をあげる』(筑摩書房、2020)という本を読んで感激しました。著者は沖縄在住の琉球大学教育学研究科教授で、この本は2021年の「本屋大賞ノンフィクション本大賞」と第14回「(池田晶子)わたくし、つまりNobody賞」を受賞しています。池田晶子ファンとしてこの本に出合いました。「ここは海だ。青い海だ。珊瑚礁のなかで、色とりどりの魚やカメが行き交う交差点、ひょっとしたらまだどこかに人魚も潜んでいる」。いまその沖縄の海(辺野古)が米軍基地建設のために赤い土で埋められている。「この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる」。
 沖縄の人たちが、何度やめてと頼んでも、海に今日も土砂が入れられる。これが差別でなくてなんだろう。見たくないものを沖縄に押しつけて知らん顔。現在、上間さんは琉球大学で教えるかたわら、若年出産女性を調査、支援する活動を続けています。エッセイの中にも10代で母になった女性が登場しますが、問題の背後にあるのも本土との経済格差だと思います。いまの政治家は沖縄に誠実に向き合っているとも思えない。
 先の大戦で沖縄の人たちに大きな借りがある、申し訳ないという気持ちを強く持っていましたが、現状はそんな生易しいものではない。国が沖縄の地を、人たちをまた蹂躙している。

B ここには生活に打ちひしがれて政治に無縁な人びともいるし、辺野古の埋め立てに抗議してハンガーストライキをしている先鋭な人びともいます。前者は選挙には行かないだろうし、後者の人はもちろん行っているでしょうね。そういう人間模様を包み込みながら、全体では半分以上の人が選挙には行かない。
 以前にもインドの哲人、ガンジーの言葉を引用したことがあるけれど、『冒険の書』を読みながら、彼の別の言葉、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないためである」を思い出しました。
 <折々メール閑話・もともな人間を育てない「教育」>でも言及しましたが、いまの教育の基本がおかしくなっているために、高学歴者の中に人間的にどうかと思うような人がけっこう育っているわけです。孫さんの言葉を借りると、選挙を「自分が社会を変えるために行く」ものにしていきたいと思いますねえ。

新サイバー閑話(80)<折々メール閑話>㉙

『通販生活』の特集に納得しました

A 選挙応援演説中の岸田首相に向って爆発物がまた投げ込まれる事態となり、社会に不穏な空気が漂い始めましたが、その間、ドイツでは2011年の東日本大震災と原発事故をきっかけに宣言した脱原発政策が完了したというニュースがありました。唯一の被爆国であり、原発事故にも見舞われた日本ではなぜ、脱原発に踏み込めないのか。それ自体、大いに疑問ですが、それよりももっと問題なのは、脱原発に対する真摯な議論が起きていないことですね。

B 4月18日の東京新聞によると、15日に最後の原子炉3基が発電を停止、2030年までに電力消費の8割を再生エネルギーで賄う計画とか。達成までの道は険しく、「ロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー価格高騰や供給不安で運転延長を求める声が高まる中、政府は事故のリスクや放射性廃棄物の問題を重視し、約60年に及ぶ原発利用に終止符を打った」と言います。ここには確たる決断と、それを実行に移す政治があると思いますね。

A それに比べて、日本の政治はまったくお粗末です。今回の爆発事件でも、テロを警戒して警備を強化しようという方向でしか話が進まず、テロを生み出す温床は何か、といった本質的な議論はほとんどないですね。

B 安倍政権以来とみに、民主主義の基盤である既存制度やそれを支える精神をあっけらかんと破壊、しかも国会という議論の場も軽視して、政権(閣議)だけで勝手にことを進めるファッショ的な風潮が強まっています。小西議員が問題提起した放送法の公平性問題も、高市元総務相の地元奈良での自民敗退は痛いとか、小西議員のサル失言はけしからんとか、瑣末な問題に論点がすり替えられ、本筋の議論は国会でも、メディアでもほとんどスルーされています。こういう空洞化現象はいよいよ深まっています。

A いまのところ、絶望的な状況下の青年による孤独な爆発物テロという感じですが、これまた新聞・メディアの騒ぎようは異常だと思います。

B ところで、最近、ちょっと嬉しいニュースが2つありました。
 1つは妻宛に届いているカタログ雑誌『通販生活』2023年夏号に「岸田首相の〝聞く力〟は、誰の言葉を聞いているのだろうか」という緊急特集があり、<「敵基地攻撃能力の保有」に反対する12人の女性の声をぜひ聞いてください>として、上野千鶴子(社会学者)、上原公子(元国立市長)、落合恵子(作家)、加藤陽子(東京大学大学院教授)、斎藤美奈子(文芸評論家)、澤地久枝(ノンフィクション作家)、田中優子(法政大学前総長)、中島京子(作家)、浜矩子(エコノミスト、同志社大学大学院教授)、三上智恵(映画監督)、安田菜津紀(フォトジャーナリスト)、山本章子(琉球大学人文社会学部准教授)の声を掲げていました。

A 堂々たる顔ぶれですね。しかも女性ばかり。ひと昔前なら朝日新聞にでもありそうな特集がカタログ雑誌で行われているのも驚きです。もはや朝日には無理とも思える企画です。

B 特集前文は以下の通り。これがまた立派です。

昨年の臨時国会(2022年10月3日~12月10日)で、岸田内閣は「敵基地攻撃能力の保有」について、ひと言の問題提起も行なわなかった。
ところが国会閉幕を待っていたように、6日後の12月16日、いきなり「敵基地攻撃能力の保有」を閣議決定し、国会(国民)に説明する前に、年明け早々の1月13日、訪米してバイデン大統領に報告した。もしかして報告させられたの?と邪推したくなるようなタイミング。
国会(国民)への説明は帰国後の1月25日(施政方針演説)だったが、「防衛問題だから手の内は明かせない」と国会での本格議論は一向に進まない。これまでの「専守防衛」や「憲法九条」とどう折り合いをつけるつもりなのか、国民(自民党支持者含めて)には全く説明なし。岸田首相の国会(国民)軽視、プーチン氏や習近平氏とあまり変わらないように思えてしまう。

 本文では、それぞれがしっかりした見解を表明していますが、ここでは歴史学者の加藤陽子さんの全文だけ上げておきます。

 今を生きる人々に、昭和戦前期にあった大本営政府連絡(連絡会議)の構成員が誰か間いても知る人はいないだろう。だが昨年12月、国家安全保障戦略・国家防衛戦略・防衛力整備計画の3文書が決定された場として、閣議のほかにもう一つ名が上がった会議、国家安全保障会議(NSC)の構成員を知らないのはかなリマズい。
 戦前の連絡会議で、陸海軍軍務局長ら軍人が専横を極めたことで、国民は存亡の危機に立たされた。ところが今回のNSCでは、首相・外相・防衛相・内閣宣房長官、たった4人の判断で、1976年以降改訂されてきた防衛計画の大綱、が完全に書き変えられてしまうこととなった。
 予算と法律の審議によって、国会での入念な議論と国民の叡智を結集する機会を設けることもなく、NSCの大臣会合を支える極めて少数の安全保障担当者の限定的な判断力と恣意的な判断によって、国家と国民の将来の存亡が委ねられてしまってよいはずはない。
 国民は政治に向き合おう。まだ間に合う。

 ちなみに加藤陽子さんは中高生向けに講義した内容をまとめた『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社、2009、小林秀雄賞受賞)などで有名ですが、2020年に菅義偉政権によって学術会議会員への任命を拒否された6人の中の1人でもあります。

A 拒否された6人はいずれも人文科学、社会科学の分野の学者で、しかも安保法制や特定秘密保護法、共謀罪など、安倍政権下の政策に異議を唱えた人たちばかりですね。政府が検討中の学術会議法改正案では、会員選考に第三者の選考諮問委員会を関与させようとしており、17日開かれた学術会議総会でも、会員から反対意見が続出したといいます。

B まことに戦前を思い出しますが、学問への露骨な干渉が進み、これについての反対意見というか反対運動がそれほど盛り上がらない。加藤さんじゃないけれど、国民はいまこそ戦前の歴史に学ぶべきです。
加藤陽子の別の本(『戦争まで』)によると、19世紀の軍事思想家、クラウゼヴィッツは『戦争論』で、「戦争は政治的交渉の一部であり、従ってまたそれだけでは独立に存在するものではない」と言っている。以前にも紹介した昭和史および漱石の研究家、半藤一利が『昭和史』(平凡社ライブラリー)かどこかでふれていましたが、夏目漱石も「人びとはとかく大事件に注目するが、それ以前の小さな出来事の意味が大きい」といったことを書いているとか。
 いまや世界的に戦争をあおる空気が強いけれど、戦争以前の外交努力こそが大事だと言えますね。ウクライナ問題を考える時、大いに腑に落ちる話でもあります。ロシアのウクライナ侵攻は非難されるべき暴挙であるけれど、それ以前にアメリカを中心とした西側陣営がNATOのロシア包囲網を進めた事実、侵攻後はウクライナに武器を供与、むしろ戦いを続ける要因になっていることなどを無視できないですね。
 歴史の教訓ということを考えると、先にも言ったけれど、唯一の被爆国であり、つい最近、悲惨な原発事故も経験、しかも平和憲法を奉ずる日本がなぜ、戦争回避や世界平和への努力をほとんどせず、安保法制強化、軍備増強、原発延長、学術会議任命拒否など重要政策の転換を、まっとうな議論抜きで強行できているのか、現代日本政治の異常さを感じざるを得ません。そういう日々の中で『通販生活』の特集にいささか救われる思いがしたと(^o^)。

A もう1つの嬉しいニュースとは。

B そうそう、それを忘れていました。先日夜、もう40年も前、組合活動を1年間ともにした旧友から突然、電話がありました。「酔っぱらった勢いで電話しました」との前置きのあと、「サイバー燈台の連載コラムをずっと読んできましたが、統一地方選で初めてれいわに1票を投ずることにしました」と言ってくれたんですね。酔っぱらっての夜分の電話という行為もすでに十分懐かしいのに、内容が内容だけに、嬉しさもひとしおでした。

A それは嬉しいですね。もっともれいわが候補を立てないと、投票はできません。

B 神奈川県知事選など、その問題はあると思うけれど、気分をよくしたところで、今日はおしまい(^o^)。

新サイバー閑話(79)<折々メール閑話>㉘

小西議員の発言は「サルに失礼です」

B 元朝日新聞記者・鮫島浩氏のSAMEJIMA TIMESが毎週続けている動画「ダメダメトップ10」は、近ごろ大手メディアでは聞けない正論が堂々と展開されていて、常々愛聴していますが、とくに4月10日の放送には感心しました。
 例の放送の公平性問題で高市総務相を追及した立役者、立憲民主党の小西洋之議員が衆議院憲法審査会の議論を「毎週開催するなんてサルのやることだ」などと批判したことで、当の立憲民主党から参院憲法審査会の野党筆頭幹事を更迭され、党参院政審会長も辞任することになりました。いろいろ開いた口がふさがらない事態です。
 小西議員はせっかくの功をフイにしかねない言動をしたわけで、まことに浅慮、残念だったと言えますが、一方で、立憲民主党が他党の批判攻撃から小西氏を守ることなくそそくさと処分し、せっかくの放送法をめぐる論議に自ら蓋をしてしまったのは、敵に塩を送るようなもので、最大野党としての闘争姿勢を大いに疑わせました。
 そういう中でSAMEJIMA TIMESがこの問題をダメダメトップ2に位置づけた理由は立憲民主党のふがいなさです。しかもそこで山本太郎の参院憲法審査会の発言を取り上げたところに、ジャーナリストの慧眼を見た思いですね。
 山本発言は一部しか紹介されていませんが、要旨は以下の通りです。

これ、たしかに問題発言なんですね。サルに対して失礼であり、サルに対して謝罪すべきだと(思います)。サルは高度に社会性のある動物で、群れの明確なルールを守り、実力者が裏でこそこそルール変更したりしません。力にものを言わせた政治支配とも無縁と言えます。いま一部与野党の国会議員がやっているような姑息な火事場泥棒的なルール変更をサルは画策したりはしない、これらの国会議員たちと同列に置くのは、サルに対する冒涜です。
憲法審査会を毎週開くのが問題であるわけではないです。いま日本にはびこるさまざまな違憲状態、憲法に定められた国民の権利を無視した政策をチェックし、改善するための議論に集中するなら、週何回開催されてもたりないくらいです。‣‣‣。自公政権は生活保護基準引き下げを進め、憲法25条が定める最低限の生活を壊してきました。‣‣‣。同じ群れの中で、生殖の権利を奪い、飢え死にするところまで追いやるなどサルならば絶対にやらない。最近の憲法審査会では、国民の権利をさらに制限しようとする改憲提案ばかり議論し、回数を重ねたことを口実に国民が望んでいない改憲案を発議しようという意図が見え見え、本国会の衆議院憲法審査会では内閣に国会の賛成が不要な緊急政令制定権、政府の裁量で予算執行する緊急財政処分権限を付与する提案が出されている。国民が経済的に疲弊し、コロナから立ち直れないうちに戦前の法体系に戻そうとする動きです。こんな姑息なルール変更はサルはやらない。ほんとうにサルに申し訳ない限りです。小西議員にはすべてのサルに対する真摯な謝罪を求めたいと思います。

 サルへの謝罪にことよせ、自民党の改憲審議のやり方を批判しているわけです。もう少しましな議論をしないようでは憲法論議が泣くというように、小西議員の舌足らずな失言、と言うより暴言を丁寧にフォローして、ある意味で小西援護を行ったとも言えます。この山本演説に対する立憲民主党などの政界、さらにはメディアの鈍感な対応も含めてダメダメ2にランク付けしたようです。
 遠い昔、中国は三国志の時代、蜀の丞相、諸葛孔明は作戦に失敗した部下の首を泣いて斬った。「泣いて馬謖を斬る」という諺の由来だけれど、泉健太立憲民主党代表のいつもニコニコというかニタニタ笑っている表情には闘う野党代表の表情は見られないですね。
 鮫島記者によると、立憲民主党内で堂々と小西議員を擁護したのは原口一博議員程度で、参議院憲法審査会に出ている護憲派の雄(?)、辻元清美議員は発言なしだったと言います。一人気を吐いた山本太郎代表に言及したSAMEJIMA  TIMESの意図は、山本太郎の正論に対する敬意だと思いました。

A 参院憲法審査会をリアルタイムで見ましたが、途中で馬鹿々々しくなりました。各議員が原稿を読み合わせるだけで、読み終われば散会ですよ! 学芸会かよ! こんな状況では、まったく自公の思うがままですね。
 山本代表の小西議員のサル発言を逆手にとった政権批判はまことに見事でした。短い時間なのでやむをえないとは思いますが、原稿読みではいつもの舌鋒鋭い論調とはちょっと物足りない気もしたが、まあ、これは贅沢過ぎますね(^_^;)。共産党の山添拓さんと仁比聡平さんは、やはり原稿読みでしたが、共に正論でした。

B 審議の場数を増やして長時間審議したように見せかけ、それを既成事実に自民案を一方的に押しつけようとするやり方に、野党はなぜなすすべもなく呑み込まれてしまうのか。まことにふがいないと思います。
 社会民主党の福島瑞穂議員が言及していたけれど、戦前の帝国議会でも斎藤隆夫議員の「反軍」演説のような立派な意見陳述が行われた歴史があるけれど(1940年、この演説の結果、斎藤議員は衆議院議員を除名されている)、いまの国会の論議はまことに情けない。気迫も知力も戦前にすら及ばない状況です。
 この山本発言は名演説の一つに加えていいと思いますね。山本太郎には斎藤孝夫に匹敵する勇気と気概があると思います。メディアは例によって、この問題を正面から論じないし、その見識もなさそうに見えるけれど、メディアについては前回ずいぶん言及したので、いまさら論ずる気も起りません(^o^)。

・れいわはなぜ神奈川に候補を擁立しなかったのか

A 統一地方選の前半(知事選、県議選など)が終わりましたが、維新だけが躍進、共産党はだいぶ票を減らしました。問題はやはり立憲民主党の不振ですね。奈良や徳島の知事選では保守分裂になりましたが、奈良では維新候補が当選、徳島では3分裂の中で自民候補が当選しました。大阪で知事、市長ダブル当選、しかも圧勝した維新は、関東でも勢力を拡大しました。こういう報道に接すると脱力感しかないですね。

B 神奈川は選挙期間中に黒岩祐治知事のスキャンダルが報じられましたが、残念ながら対立候補が共産党ではやはり勝てませんでした。今の立憲民主党には政権交代をめざす気力がまったく見えません。もはや滅びるしかない印象すら受けます。
 れいわはなぜ神奈川で候補を立てなかったのか、というのが僕の大いなる疑問です。れいわは今回、1議席も獲得できずに終わったわけですね。それはそれでやむを得ないとも思いますが、SAMEJIMA TIMESも選挙総括でふれていましたが、もし神奈川で名もある立派な候補を立てていれば、黒岩スキャンダルの影響もあって少しは票を獲得できた、というより、勝てた気もするわけです。
 れいわの選挙戦略には山本太郎の演説のような冴えが見られない。現体制のけっこう深刻な欠点ではないかと思います。

A 山本代表は統一地方選後半に向けて意気軒高なところを見せていますが……。共産党が議席を減らしたのは委員長公選制要求に対する党本部の威圧的な態度が影響したとも言われるけれど、野党で上り調子なのは、自民よりタカ派の維新だけという状況はまことに情けない。その責任はどこにあるかというと、結局、立憲民主党のふがいなさ、闘争意欲喪失に帰着せざるを得ないですね。まったく笑っている場合じゃないですね。

新サイバー閑話(78)<折々メール閑話>㉗

メディアの根底を突き崩した安倍政権

 A 放送の中立性という「表現の自由」にも関わる重要な問題が、「文書捏造だ」、「捏造という言葉はきついかもしれないが、文書は不正確である」、「私の言うことが信用できないなら、質問しないでください」などという高市元総務相の頓珍漢なやりとりで、参議院予算委員会は迷走気味だけれど、この件をきっかけに、2014年当時の安倍政権、というより安倍晋三首相その人の強引なメディア介入の実態が改めて浮かび上がっています。

B 一部は前回の繰り返しになるけれど、2014年から2016年の前後におよぶ安倍政権とメディアにからむ出来事を整理してみました。

2013
 2013/9/8           アルゼンチンで開かれた2020年夏季オリンピック開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会で、安倍首相は東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題について「(汚染水の)状況は制御できている。東京には今までもこれからも何のダメージもない」と説明。
2014
 2014/1/25         新任のNHK籾井勝人会長が就任記者会見で、領土問題に関して「政府が『右』と言うものを『左』と言うわけにはいかない。政府と懸け離れたものであってはならない」と述べた。2013年11月には作家の百田尚樹氏らがNHK経営委員に任命されている。
 2014/3/21       安倍首相、フジテレビのバラエティ番組「笑っていいとも!」に出演。
 2014/8/5        朝日新聞が慰安婦報道で訂正記事を掲載。
 2014/11/18     安倍首相がTBSの「ニュース23」に出演中、街頭インタビューの視聴者の声がアベノミクス批判ばかりだとして、「おかしいじゃないですか」と発言。
 2014/11/20     自民党が「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書(萩生田光一副幹事長などの名)を在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛に出す。①出演者の発言回数と時間の公平を期すること、②ゲスト出演者等の選定も公平、公正を期する、③テーマについて特定の立場からの意見の集中がないようにする、④街角インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、特定の立場が強調されないようにする、など番組制作の細部に介入するものだった。  
 2014/11/21     衆院解散。12/14投票、自公両党で議員総数の3分の2を確保。
2015
 2015/3/27       テレビ朝日「報道ステーション」降版に際し、コメンテイターの古賀茂明氏がI am not  ABE のフリップを掲げる。同氏は1月13日の段階で中東政策に関する政権批判として、日本国民は世界に向けてI am not  ABEであると主張すべきだとの発言をしていた。
 2015/5/12       高市総務相が参議院総務委員会で「一つの番組でも放送法に抵触する場合がある」と答弁。
 2015/9/19       安倍政権が安全保障関連法を強行成立させる。
2016
 2016/2/8        高市総務相が衆議院予算員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命ずる可能性もある」と答弁。
 2016/2/12       総務省が「政治的公平性の解釈について」政府統一見解を出す。「一つの番組のみでも、たとえば、①選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合。②国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたりくり返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合 といった極端な場合においては、一般論として『政治的に公平であること』を確保しているとは認められない」。総務省ではこの見解を「『番組全体を見て判断する』というこれまでの解釈を補充的に説明、より明確にしたもの」と説明した。
 2016/8/21       リオデジャネイロ五輪閉会式に安倍首相、ゲームキャラクターのスーパー・マリオに扮して赤いボールを手に登場(写真)。
[その後]
 2019/4/20       安倍首相、吉本新喜劇「なんばグランド花月」にサプライズ出演、大阪で6月に開かれるG20サミットについて協力を呼びかける。
 2020/9/16       安倍内閣総辞職、安倍首相辞任。
 2020/12/21     安倍首相が「桜を見る会」懇親会をめぐって国会で行った答弁のうち、検察の捜査に関する情報と食い違う答弁が少なくとも118回あったことが衆議院調査局の調査で明らかになる。別に森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改竄問題でも安倍政権が行った国会答弁のうち、事実と異なる答弁が計139回あったとも。
 2021/7/23       東京オリンピック開催(8/8まで)。
 2022/7/8        安倍元首相、参議院選挙の応援演説中、銃撃され死亡。
   2022/8/17       東京地検特捜部は東京オリンピックをめぐる汚職事件で、高橋治之大会組織委理事(元電通専務)を受託収賄容疑で逮捕。

 こうして並べてみると、安倍首相は自らメディアに積極的に登場して大衆の支持を獲得しつつ、一方で自分の意に沿わない放送局や新聞には徹底的に圧力をかけ続けてきたことがはっきりします。そのピークが奇しくも2014年から2016年だったと言えるでしょう。

A 今になって、その当時の出来事が改めて脚光を浴びています。
 2014年に古賀茂明氏がテレビ朝日の「報道ステーション」でI am not  ABEのフリップを掲げた時、菅官房長官の秘書官から直接、番組関係者に「古賀は万死に値する」というメールが入って、番組の裏方は大騒ぎになったそうです。本人のユーチューブの発言によると、その秘書官は中村格氏で、彼は伊藤詩織さん「レイプ事件」で逮捕状が出ていた被疑者の逮捕執行を見合わせた警視庁刑事部長、後に警察庁長官となった人です。
 これは完全な「報道の自由」への介入であり、憲法に反する行為と言ってもいいと思いますが、そんなことが許され、現場は混乱したけれども、社としてはとくに抗議もせず、むしろ政権に対してもモノ申そうとするキャスターやゲスト、さらには番組制作責任者の降版や更迭が行われていたわけです。同「報道ステーション」では古賀さんに続いて、「報道ステーション」の屋台骨を支えてきたプロデューサーの松原文枝さんも更迭されています。

・「言論機関」よ、さようなら 「広告代理店」よ、こんにちは

B 結局、安倍元首相はテレビを自分の都合のいいように徹底的に利用しつつ、反対する報道などを禁じようとしてきたわけで、それはメディアを私物化することでした。心あるキャスター、ジャーナリストたちは、当時も反対声明などを出して抗議しましたが、テレビ局の大勢は完全に政権追随色を強めていったわけです。
 これを一言で表現すると、<「言論機関」よ、さようなら。「広告代理店」よ、こんにちは>ということになりますね。政権に批判的な「報道」を封殺するばかりか人事にも介入しつつ、一方では金を出せば都合のいい「宣伝」をしてくれる電通のような広告代理店を重用したわけです。

A 2019年の参院選でのれいわ街宣に登壇した前川喜平さんが、「自民党は資金潤沢だから憲法改正の国民投票になった時、その資金を使って大量のコマーシャルで国民を誘導するだろう」と警告していたのを思い出します。

B 安倍政権はメディアの基盤を解体しつつ、安保法制成立といった懸案を推し進めた。その間、以前にも何度も取り上げた統一教会や日本会議などとの関係を深めていったわけでもあります。報道機関の表現の自由は著しく狭められ、ジャーナリズム機能は弱まりました。
 これは本欄で以前書いたことだけれど、たとえば2022年参院選で山本太郎が衆議員の椅子を投げ出して参議院選挙に出馬する過程などもずいぶんドラマチックな話だけれど、これをそういう観点から報道するメディアは皆無に近かった。これは総務省見解「①選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合」に該当するからで、これでは興味深い選挙報道はできるわけがない。かつてなら選挙を野次馬的関心から面白がって報道するようなことはふつうにあったわけですね。放送ばかりか新聞もその制約に習ったように思われます。同選挙でれいわに対する報道が少なかったのもむべなるかな、というか、少数者あるいは弱者は切り捨てられる構造になっている。これでは社会はなかなか進歩しない。
 対立する見解を天秤にかけて過不足なく報道することが「公正中立」だと考えれば、それは権力にとって有利であり、ジャーナリズムの基本である「権力の監視」など絵にかいた餅になります。言論機関の矜持において何を報道すべきか、何がおもしろいかを独自に判断するのが「表現の自由」の醍醐味だと思いますね。今回、ネット上で雑誌『創』のバックナンバー(2016年8月号)が再掲されているけれど、そこでキャスターの岸井成格さんの言っていることは、まことに正論だと思います。

安保法制と原発に関して批判的な報道をすることは許さんと、そういう基本方針が政府にはあったし、今もそれはあるんじゃないかと思っています。私が先輩から受け継いだジャーナリズムの基本というのは「権力は必ず腐敗し、時に暴走する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」ということです。これを見誤ってしまうと、後々になって取り返しのつかないことになる。そういうことを、我が国は経験してきている。しかもその中に、メディアは積極的に参加してきてしまっているんです。これだけは二度と繰り返してはならないということは、メディアの使命だと思うんですね。ですから、権力の腐敗とか暴走というものに、どうやってブレーキをかけるか、つまり権力の監視役というのがどれだけできているのか、ということがメディアやジャーナリズムにとっての生命線なんです。これが、だんだん崩れているというのが今の状況です。

 そもそも安倍首相は放送法の理念とか、民主主義社会における「表現の自由」の重要さなどに関してほとんど無知、無関心だったように思えます。自分の意向を忖度して動いてくれる磯崎陽輔補佐官のような人を官邸に集めて、既存の秩序や手続きも無視して官邸主導でことを運んだ。それに官僚たちも忖度しつつなびいて行った。この構造は安保法制成立のころに石川健治東大教授が言った「非立憲政権によるクーデーター」そのものでした。

A その結果、生まれたのが汚職まみれの東京オリンピックでもあったわけだけれど、検察当局の捜査もその膿を出すまでは至らなかったですね。日本は根底から破戒されたとも言えます。新聞社は軒並みオリンピックのスポンサーになるなど、自らのジャーナリズム性を放棄しました。
 最近公開された映画『妖怪の孫』はまだ見ていませんが、安倍政権のメディア制覇の実態や覆面官僚による赤裸々な告発もあるようです。

B 僕はかつて『総メディア社会とジャーナリズム 新聞・出版・放送・通信・インターネット』(知泉書館、2009、大川出版賞受賞)という本を書いたことがあります。インターネット以前は、メディアと言えばいわゆるマスメディアだけでした。しかも新聞、出版、放送などのメディア企業は、ふつうの企業とは違う一種の「文化産業」とみなされ、そこでは不十分ながらも、「表現の自由」や「権力監視」といったい言論機関の役割が自覚されていたわけです。
 放送は公共の電波を使用する制約上、電波法や放送法によって規制されていましたが、一方で、放送の公正中立性も保証されていました。本書は、インターネットの発達でマスメディアとパーソナルメディアが錯綜するようになった社会を「総メディア社会」と呼び、そこにおける民主主義を守る基盤としてのジャーナリズムのあり方を考察したものです。
 昨今の状況を見ていると、マスメディアはジャーナリズム機能を急速に失いつつありますね。安倍政権は時代の流れをうまく利用する形で、新聞、放送をほぼ完全に骨抜きにしました。
 それは「表現の自由」や「ジャーナリズム」という公共的役割を担う言論機関を敵視し、自らの都合のいいことを宣伝してくれる「広告代理店」を活用したと言えるわけです。「表現の自由」は民主主義社会を維持するための大切な権利であり、ジャーナリズムは表現の自由を行使する社会的活動だと認識されていたわけですが、昨今の国会審議などを見ても、「表現の自由」を正面から議論するような雰囲気はありませんね。

A かえってインターネット上に骨のある番組があるのでは。

・インターネットと「表現の自由」の危機

B ここには、インターネットの発達ですべての人が「表現の自由」を行使する手段を得た時、その表現の自由はどう変質するか、という大きな問題があります。たしかに、ユーチューブには我々もよく見ている『一月万冊』、『SAMEJIMA TIMES』といった硬質、かつ良質なコンテンツがありますが、一方で、政権ヨイショものも多いわけです。
 基本的には通信であるインターネットには現在のところ、電波法も放送法も適用されませんし、グーグルが開発した検索連動型広告に象徴的なように、「記事」と「広告」の区別もありません。新聞ももちろん広告収入に依存していましたが、大部数を持ち影響力がある媒体として広告を集めるけれど、あくまでも報道記事が主であるとの認識があり、それを「編集権の独立」とも呼んでいました。記事と広告は、少なくともタテマエとしては独立していたわけです。記事と広告の境界線が薄れたこともインターネット時代の情報の質を大きく変えました。
 またSNSに特徴的ですが、閲読率(ビューポイント)を高めるために記事をゆがめたりする傾向(針小棒大、意図的な虚偽情報)もありますし、政権が都合のいい情報をアルバイトやそのための専門業者を使って故意に書かせることはもはや日常的ですらあります。
 これもすでに触れましたが、インターネットという仕組み自体が、知りたい情報はどんどん集まるが、それに対抗するような情報からは自然に隔離されてしまう制度的特徴があります(『山本太郎が日本を救う』P21)。またユーチューブの硬派番組を支えているのは旧マスメディアから飛び出した人が多く、マスメディアが骨抜きにされた後はどうなるのか、これはこれで心配な状況でもありますね。

A 今日はれいわファンの知人宅を訪問、最新ポスターを分けてもらったのですが、岸田首相夫人の単独米国訪問計画や最近の内閣支持率上昇に憤懣やるかたない感じでした。放送法問題の火付け役、立憲民主党の小西洋之議員のツイッター上のバッシングも話題になり、「裏で金が動いているのではないか」と疑念を呈していました。

B 『総メディア社会とジャーナリズム』の巻頭に、以下の言葉を掲げたのですが、現状はまことにお寒い。

21世紀の自由社会では、数世紀にもわたる闘いの末に印刷の分野で確立された自由という条件の下でエレクトロニック・コミュニケーションが行なわれるようになるのか、それとも、新しいテクノロジーにまつわる混乱の中で、この偉大な成果が失われることとなるのか、それを決定する責任はわれわれの双肩にかかっている。(イシエル・デ・ソラ・プール『自由のためのテクノロジー』堀部政男監訳、東京大学出版会)

 今回の出来事で総務省は放送の公平について安倍(高市)以前の見解に復帰するような答弁をしたようですが、放送局自らの力によって押し戻したというわけではなく、むしろ完全に既成事実に屈服しているのが現状ですね。新しいメディア環境の中で、表現の自由を守るためにはどうすればいいのか、これが本書の課題だったのだけれど、技術の目まぐるしい進歩に幻惑されたのか、それを利用した権力側の攻勢にメディア側がただ追随し、まさに屈服しつつあるのか。だからこそIT社会の本質を洞察する基本素養(サイバーリテラシー)が必要だと僕は長年、提唱しているわけです。
 この機会にそういった問題への議論が喚起されることを願わざるを得ないですね。