新サイバー閑話(78)<折々メール閑話>㉗

メディアの根底を突き崩した安倍政権

 A 放送の中立性という「表現の自由」にも関わる重要な問題が、「文書捏造だ」、「捏造という言葉はきついかもしれないが、文書は不正確である」、「私の言うことが信用できないなら、質問しないでください」などという高市元総務相の頓珍漢なやりとりで、参議院予算委員会は迷走気味だけれど、この件をきっかけに、2014年当時の安倍政権、というより安倍晋三首相その人の強引なメディア介入の実態が改めて浮かび上がっています。

B 一部は前回の繰り返しになるけれど、2014年から2016年の前後におよぶ安倍政権とメディアにからむ出来事を整理してみました。

2013
 2013/9/8           アルゼンチンで開かれた2020年夏季オリンピック開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会で、安倍首相は東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題について「(汚染水の)状況は制御できている。東京には今までもこれからも何のダメージもない」と説明。
2014
 2014/1/25         新任のNHK籾井勝人会長が就任記者会見で、領土問題に関して「政府が『右』と言うものを『左』と言うわけにはいかない。政府と懸け離れたものであってはならない」と述べた。2013年11月には作家の百田尚樹氏らがNHK経営委員に任命されている。
 2014/3/21       安倍首相、フジテレビのバラエティ番組「笑っていいとも!」に出演。
 2014/8/5        朝日新聞が慰安婦報道で訂正記事を掲載。
 2014/11/18     安倍首相がTBSの「ニュース23」に出演中、街頭インタビューの視聴者の声がアベノミクス批判ばかりだとして、「おかしいじゃないですか」と発言。
 2014/11/20     自民党が「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書(萩生田光一副幹事長などの名)を在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛に出す。①出演者の発言回数と時間の公平を期すること、②ゲスト出演者等の選定も公平、公正を期する、③テーマについて特定の立場からの意見の集中がないようにする、④街角インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、特定の立場が強調されないようにする、など番組制作の細部に介入するものだった。  
 2014/11/21     衆院解散。12/14投票、自公両党で議員総数の3分の2を確保。
2015
 2015/3/27       テレビ朝日「報道ステーション」降版に際し、コメンテイターの古賀茂明氏がI am not  ABE のフリップを掲げる。同氏は1月13日の段階で中東政策に関する政権批判として、日本国民は世界に向けてI am not  ABEであると主張すべきだとの発言をしていた。
 2015/5/12       高市総務相が参議院総務委員会で「一つの番組でも放送法に抵触する場合がある」と答弁。
 2015/9/19       安倍政権が安全保障関連法を強行成立させる。
2016
 2016/2/8        高市総務相が衆議院予算員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命ずる可能性もある」と答弁。
 2016/2/12       総務省が「政治的公平性の解釈について」政府統一見解を出す。「一つの番組のみでも、たとえば、①選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合。②国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたりくり返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合 といった極端な場合においては、一般論として『政治的に公平であること』を確保しているとは認められない」。総務省ではこの見解を「『番組全体を見て判断する』というこれまでの解釈を補充的に説明、より明確にしたもの」と説明した。
 2016/8/21       リオデジャネイロ五輪閉会式に安倍首相、ゲームキャラクターのスーパー・マリオに扮して赤いボールを手に登場(写真)。
[その後]
 2019/4/20       安倍首相、吉本新喜劇「なんばグランド花月」にサプライズ出演、大阪で6月に開かれるG20サミットについて協力を呼びかける。
 2020/9/16       安倍内閣総辞職、安倍首相辞任。
 2020/12/21     安倍首相が「桜を見る会」懇親会をめぐって国会で行った答弁のうち、検察の捜査に関する情報と食い違う答弁が少なくとも118回あったことが衆議院調査局の調査で明らかになる。別に森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改竄問題でも安倍政権が行った国会答弁のうち、事実と異なる答弁が計139回あったとも。
 2021/7/23       東京オリンピック開催(8/8まで)。
 2022/7/8        安倍元首相、参議院選挙の応援演説中、銃撃され死亡。
   2022/8/17       東京地検特捜部は東京オリンピックをめぐる汚職事件で、高橋治之大会組織委理事(元電通専務)を受託収賄容疑で逮捕。

 こうして並べてみると、安倍首相は自らメディアに積極的に登場して大衆の支持を獲得しつつ、一方で自分の意に沿わない放送局や新聞には徹底的に圧力をかけ続けてきたことがはっきりします。そのピークが奇しくも2014年から2016年だったと言えるでしょう。

A 今になって、その当時の出来事が改めて脚光を浴びています。
 2014年に古賀茂明氏がテレビ朝日の「報道ステーション」でI am not  ABEのフリップを掲げた時、菅官房長官の秘書官から直接、番組関係者に「古賀は万死に値する」というメールが入って、番組の裏方は大騒ぎになったそうです。本人のユーチューブの発言によると、その秘書官は中村格氏で、彼は伊藤詩織さん「レイプ事件」で逮捕状が出ていた被疑者の逮捕執行を見合わせた警視庁刑事部長、後に警察庁長官となった人です。
 これは完全な「報道の自由」への介入であり、憲法に反する行為と言ってもいいと思いますが、そんなことが許され、現場は混乱したけれども、社としてはとくに抗議もせず、むしろ政権に対してもモノ申そうとするキャスターやゲスト、さらには番組制作責任者の降版や更迭が行われていたわけです。同「報道ステーション」では古賀さんに続いて、「報道ステーション」の屋台骨を支えてきたプロデューサーの松原文枝さんも更迭されています。

・「言論機関」よ、さようなら 「広告代理店」よ、こんにちは

B 結局、安倍元首相はテレビを自分の都合のいいように徹底的に利用しつつ、反対する報道などを禁じようとしてきたわけで、それはメディアを私物化することでした。心あるキャスター、ジャーナリストたちは、当時も反対声明などを出して抗議しましたが、テレビ局の大勢は完全に政権追随色を強めていったわけです。
 これを一言で表現すると、<「言論機関」よ、さようなら。「広告代理店」よ、こんにちは>ということになりますね。政権に批判的な「報道」を封殺するばかりか人事にも介入しつつ、一方では金を出せば都合のいい「宣伝」をしてくれる電通のような広告代理店を重用したわけです。

A 2019年の参院選でのれいわ街宣に登壇した前川喜平さんが、「自民党は資金潤沢だから憲法改正の国民投票になった時、その資金を使って大量のコマーシャルで国民を誘導するだろう」と警告していたのを思い出します。

B 安倍政権はメディアの基盤を解体しつつ、安保法制成立といった懸案を推し進めた。その間、以前にも何度も取り上げた統一教会や日本会議などとの関係を深めていったわけでもあります。報道機関の表現の自由は著しく狭められ、ジャーナリズム機能は弱まりました。
 これは本欄で以前書いたことだけれど、たとえば2022年参院選で山本太郎が衆議員の椅子を投げ出して参議院選挙に出馬する過程などもずいぶんドラマチックな話だけれど、これをそういう観点から報道するメディアは皆無に近かった。これは総務省見解「①選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合」に該当するからで、これでは興味深い選挙報道はできるわけがない。かつてなら選挙を野次馬的関心から面白がって報道するようなことはふつうにあったわけですね。放送ばかりか新聞もその制約に習ったように思われます。同選挙でれいわに対する報道が少なかったのもむべなるかな、というか、少数者あるいは弱者は切り捨てられる構造になっている。これでは社会はなかなか進歩しない。
 対立する見解を天秤にかけて過不足なく報道することが「公正中立」だと考えれば、それは権力にとって有利であり、ジャーナリズムの基本である「権力の監視」など絵にかいた餅になります。言論機関の矜持において何を報道すべきか、何がおもしろいかを独自に判断するのが「表現の自由」の醍醐味だと思いますね。今回、ネット上で雑誌『創』のバックナンバー(2016年8月号)が再掲されているけれど、そこでキャスターの岸井成格さんの言っていることは、まことに正論だと思います。

安保法制と原発に関して批判的な報道をすることは許さんと、そういう基本方針が政府にはあったし、今もそれはあるんじゃないかと思っています。私が先輩から受け継いだジャーナリズムの基本というのは「権力は必ず腐敗し、時に暴走する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」ということです。これを見誤ってしまうと、後々になって取り返しのつかないことになる。そういうことを、我が国は経験してきている。しかもその中に、メディアは積極的に参加してきてしまっているんです。これだけは二度と繰り返してはならないということは、メディアの使命だと思うんですね。ですから、権力の腐敗とか暴走というものに、どうやってブレーキをかけるか、つまり権力の監視役というのがどれだけできているのか、ということがメディアやジャーナリズムにとっての生命線なんです。これが、だんだん崩れているというのが今の状況です。

 そもそも安倍首相は放送法の理念とか、民主主義社会における「表現の自由」の重要さなどに関してほとんど無知、無関心だったように思えます。自分の意向を忖度して動いてくれる磯崎陽輔補佐官のような人を官邸に集めて、既存の秩序や手続きも無視して官邸主導でことを運んだ。それに官僚たちも忖度しつつなびいて行った。この構造は安保法制成立のころに石川健治東大教授が言った「非立憲政権によるクーデーター」そのものでした。

A その結果、生まれたのが汚職まみれの東京オリンピックでもあったわけだけれど、検察当局の捜査もその膿を出すまでは至らなかったですね。日本は根底から破戒されたとも言えます。新聞社は軒並みオリンピックのスポンサーになるなど、自らのジャーナリズム性を放棄しました。
 最近公開された映画『妖怪の孫』はまだ見ていませんが、安倍政権のメディア制覇の実態や覆面官僚による赤裸々な告発もあるようです。

B 僕はかつて『総メディア社会とジャーナリズム 新聞・出版・放送・通信・インターネット』(知泉書館、2009、大川出版賞受賞)という本を書いたことがあります。インターネット以前は、メディアと言えばいわゆるマスメディアだけでした。しかも新聞、出版、放送などのメディア企業は、ふつうの企業とは違う一種の「文化産業」とみなされ、そこでは不十分ながらも、「表現の自由」や「権力監視」といったい言論機関の役割が自覚されていたわけです。
 放送は公共の電波を使用する制約上、電波法や放送法によって規制されていましたが、一方で、放送の公正中立性も保証されていました。本書は、インターネットの発達でマスメディアとパーソナルメディアが錯綜するようになった社会を「総メディア社会」と呼び、そこにおける民主主義を守る基盤としてのジャーナリズムのあり方を考察したものです。
 昨今の状況を見ていると、マスメディアはジャーナリズム機能を急速に失いつつありますね。安倍政権は時代の流れをうまく利用する形で、新聞、放送をほぼ完全に骨抜きにしました。
 それは「表現の自由」や「ジャーナリズム」という公共的役割を担う言論機関を敵視し、自らの都合のいいことを宣伝してくれる「広告代理店」を活用したと言えるわけです。「表現の自由」は民主主義社会を維持するための大切な権利であり、ジャーナリズムは表現の自由を行使する社会的活動だと認識されていたわけですが、昨今の国会審議などを見ても、「表現の自由」を正面から議論するような雰囲気はありませんね。

A かえってインターネット上に骨のある番組があるのでは。

・インターネットと「表現の自由」の危機

B ここには、インターネットの発達ですべての人が「表現の自由」を行使する手段を得た時、その表現の自由はどう変質するか、という大きな問題があります。たしかに、ユーチューブには我々もよく見ている『一月万冊』、『SAMEJIMA TIMES』といった硬質、かつ良質なコンテンツがありますが、一方で、政権ヨイショものも多いわけです。
 基本的には通信であるインターネットには現在のところ、電波法も放送法も適用されませんし、グーグルが開発した検索連動型広告に象徴的なように、「記事」と「広告」の区別もありません。新聞ももちろん広告収入に依存していましたが、大部数を持ち影響力がある媒体として広告を集めるけれど、あくまでも報道記事が主であるとの認識があり、それを「編集権の独立」とも呼んでいました。記事と広告は、少なくともタテマエとしては独立していたわけです。記事と広告の境界線が薄れたこともインターネット時代の情報の質を大きく変えました。
 またSNSに特徴的ですが、閲読率(ビューポイント)を高めるために記事をゆがめたりする傾向(針小棒大、意図的な虚偽情報)もありますし、政権が都合のいい情報をアルバイトやそのための専門業者を使って故意に書かせることはもはや日常的ですらあります。
 これもすでに触れましたが、インターネットという仕組み自体が、知りたい情報はどんどん集まるが、それに対抗するような情報からは自然に隔離されてしまう制度的特徴があります(『山本太郎が日本を救う』P21)。またユーチューブの硬派番組を支えているのは旧マスメディアから飛び出した人が多く、マスメディアが骨抜きにされた後はどうなるのか、これはこれで心配な状況でもありますね。

A 今日はれいわファンの知人宅を訪問、最新ポスターを分けてもらったのですが、岸田首相夫人の単独米国訪問計画や最近の内閣支持率上昇に憤懣やるかたない感じでした。放送法問題の火付け役、立憲民主党の小西洋之議員のツイッター上のバッシングも話題になり、「裏で金が動いているのではないか」と疑念を呈していました。

B 『総メディア社会とジャーナリズム』の巻頭に、以下の言葉を掲げたのですが、現状はまことにお寒い。

21世紀の自由社会では、数世紀にもわたる闘いの末に印刷の分野で確立された自由という条件の下でエレクトロニック・コミュニケーションが行なわれるようになるのか、それとも、新しいテクノロジーにまつわる混乱の中で、この偉大な成果が失われることとなるのか、それを決定する責任はわれわれの双肩にかかっている。(イシエル・デ・ソラ・プール『自由のためのテクノロジー』堀部政男監訳、東京大学出版会)

 今回の出来事で総務省は放送の公平について安倍(高市)以前の見解に復帰するような答弁をしたようですが、放送局自らの力によって押し戻したというわけではなく、むしろ完全に既成事実に屈服しているのが現状ですね。新しいメディア環境の中で、表現の自由を守るためにはどうすればいいのか、これが本書の課題だったのだけれど、技術の目まぐるしい進歩に幻惑されたのか、それを利用した権力側の攻勢にメディア側がただ追随し、まさに屈服しつつあるのか。だからこそIT社会の本質を洞察する基本素養(サイバーリテラシー)が必要だと僕は長年、提唱しているわけです。
 この機会にそういった問題への議論が喚起されることを願わざるを得ないですね。