林「情報法」(63)

感染症の大流行が時代を画す:After Corona (AC) の世界

 ペストの流行が中世から近代への移行を促進したことや、天然痘がアステカとインカ両帝国の滅亡に深く関係していたことは、史実として認められていると思います。COVID-19も、現代を次世代へと変化させる原動力となるのでしょうか? 既に世間では、after-Coronaとかwith-Coronaという語が飛び交っていますが、これからの世界がパラダイム・シフトを起こすとすればどのような点か、変化の方向性だけは(情報法の将来像を描くためにも)書き留めておきましょう。

・大きな3つの変化が不可避

 この問題については、多くの識者が既に見解を表明しており、一見私が付け加える余地がなさそうですが、実は大きな欠落があるようにも思えます。というのも、COVID-19は次の3つの大変化を伴うはずだと思うからです。① 目的意識を持って実行すべき目標としての「世界人口の抑制」、② まやかしではない真の「働き方改革」、③ “Small is beautiful.” に近い「新生活」(新常態あるいはnew normal)の3つです。

①Social Distanceから世界人口の抑制へ

 感染を減らすには接触機会を減らすのが早道なので、social distanceが重要だと言われます。しかし距離感が重要なのは、(a) ヒトとヒト以外の生物の間、(b) ヒト相互の間、(c) 裕福なヒトとそうでないヒトの間、の3つに分けて考えなければなりません。(b) が一般的なsocial distanceですが、(c) はやや違った趣があります。シンガポールで外国人労働者の宿舎で2次感染が大量発生したことや、ブラジルやインドのスラム街(ファベーラ、ダラビ)で感染が広まったらどうなるかを考えれば、感染症対策と同時に差別を助長しない特段の配慮が必要でしょう。この場合distanceは「必要悪」ではなくdivideに近い「克服すべき課題」です。

 そして、最も軽視されているが最も重要なのは、(a) のヒトとヒト以外の生物の間の距離の取り方、より直截に言えば、「ヒトは他の生物の縄張りを侵すな」ということでしょう。他人事のように思われるかもしれませんが、わが国でもクマやサル、イノシシなどが住宅地に出没している状況は、「食べ物が不作だったから」で片づけることはできず、「ヒトが増えすぎて生物の縄張りを侵したから」ではないかと、疑ってみる価値がありそうです。

 この現象をよりマクロの視点で捉えれば、「宇宙船地球号に乗船できるヒトは、最大何億人か」という問題提起とみなければなりません。世界人口は既に70億人に達し、2050年には90億人を超えると予測されています。「それだけの人口を支える食料やエネルギーがあるのか」と問うヒトはいましたが(有名な「成長の限界説」)、「それだけヒトが増えれば他の生物との間に生存競争が始まる」という懸念を表明するヒトは少なかったと思われます。COVID-19から教訓を得るとすれば、「ヒトは他のヒトと交流しなければ生きられない」と同時に、「ヒトと他の生物との共存には限界がある」という事実ではないでしょうか。

 とすれば、国際社会は人口の抑制に真剣に取り組まねばなりませんが、これには革命的な発想転換が必要かと思います。例えば、産児制限を宗教的に拒否するヒトがいますが、そのような発想には「第2次宗教改革」が要りそうです。また、小さな子供を労働力と捉える見方に対しては、倫理観に訴えるだけではなく、経済的にも自立できるだけのエコ・システムを考えねばなりません。しかも、人口減少は緩やかにしか効きませんから、長期計画として取り組む必要があります。

 今回のパンデミックを「奢りすぎたヒトへの警告」と見る向きがあります。教訓と受け止めて自ら改革するなら良いのですが、「結局は天罰として何千万人もの犠牲者を出さねば収まらない」と諦めるのであれば、危険な発想のように思われます。私もそんなに楽観的ではありませんが、少なくとも「ヒトの意思で人口を抑制する」という目的意識を持って実行することができなければ、私たちは「霊長類のリーダー」を誇れないでしょう。

②真の「働き方」改革:個人と組織の Distance

 Social Distanceの次は、個人と組織の適度の距離感が問題になります。少なくともわが国では、両者の関係が「支配―隷属関係」と言われたり、隷属する側が「社畜」と呼ばれたりしているので、両者間の適切な関係の再構築が不可欠です。現在わが国では「働き方改革」が叫ばれ、今回の騒動を機にテレワークなどが普及しそうですが、企業と個人の間のarm’slength relationship(「つかず離れず」の関係)が保たれなければ、「絵に描いた餅」か「仏作って魂入れず」に終わるような気がします。直近の黒川検事長事件は、検察と権力、検察とメディアの間の距離の取り方を誤った、典型的な事例かと思います。

 また「働き方改革」の一環として、週休3日制などが論じられていますが、そもそも「皆が同じ時間に同じ場所で働く」というのは工業社会の特徴で、情報社会には不適ではないでしょうか。市役所や教会・大学などの立派な建物には時計がついていることが多いのですが、それこそ「時間は誰にも共通」「時間に合わせて行動しましょう」という倫理観を、象徴しているように思われます。

 そして、マックス・ウェーバー流に言えば「プロテスタンティズムの倫理」が資本主義の精神と調和的であったように、「時間に合わせて行動する」ことが、わが国の精神風土と極めて調和的であり、戦後の驚異的経済発展を支えてきたことを忘れてはなりません。しかも、わが国の教育制度が、そうした「時間に合わせて行動する」規律を広め、均質な労働力を供給する意味で、多大な効果を発揮してきたことも。

 とすれば、コロナ以前に議論されていた「働き方改革」は、依然として工業社会の延長線上での「働き方」をモデルにしており、コロナ以後はそれを根本から覆すような「真の」改革が求められている、と思われます。しかもAI(Artificial Intelligence)が予測を上回る速度で発展していることから、「AIとの付き合い方」の面から「ヒトが何日働き、後は機械に任せれば、経済は維持できるのか」といった、先輩世代が経験したことのない課題を解かねばなりません。

 しかし思わぬ展開もありました。例えば前述のテレワークも、「通勤電車の密を避けるため」という受け身の姿勢で始まったものが、案外旨くいっているようです。その過程で、これまでLife-Work Balanceが著しくWorkに偏っていたことが自覚されつつあります。若い世代が、私のように「24時間戦えますか?」という強迫観念に囚われることなく、自律的に労働の内容と時間を選ぶことができれば、コロナ禍を福に転ずることができるかもしれません。

③21世紀の新生活運動としての Small is beautiful.

 そして最後は、生活に関する新常識(あるいは新常態)です。ここでは、「淳風美俗」とは言えない「弊風醜俗」を捨てることから始めましょう。1955年に当時の鳩山首相が提唱した「新生活運動」は、高度成長期に勢いを失いましたが、現代版としての復活です。

 例えば「3密(密閉・密集・密接)を避ける」というのは、感染症対策から生まれた教訓ですが、そのままAfter Coronaの生活指針にもなり得ます。イタリアほどではないにしても、わが国も人的交流を大事にし、同調圧力が強いからです。この連載の第46回で紹介した、わが恩人の1人である庄司薫さんが、薫シリーズの中で繰り返し「どっと繰り出す」日本人の習性を描いています。この現象は、自粛が要請されていた時期に海辺や観光地に出かけた外出好きによって、繰り返されています。

 同じように、接待・贈答文化は美風とも言えますが、30年余にわたるサラリーマン生活では、そのマイナス面も体験済みです。百貨店はここぞとばかりに「おすすめ品」を勧めるせいか、受け取る側には同じものが「どっと」届きます。日持ちしないものも多く、どなたかに差し上げてもご迷惑かと悩んだものです。その後、不用品を買い取る者が現れ、遂にはカタログ方式も登場しましたが、豊かになった現代では「頂いて嬉しかった物」は絶滅危惧種ではないでしょうか。接待はやめて自分で払い、物は自分で買いましょう。

 そして、コロナ対策の最大の成果は、ステイ・ホームです。自粛期間中に、多くの人が一時的にせよ、カイシャ人間から家庭人になりました。「24時間戦う」ことをやめて自分の生活ペースを取り戻し、家族を大事にしました。私事ですが、長男が育児休職を取り、当時は珍しかったのでテレビのインタビューを受けた際「どうしてイクメンに?」と問われ、彼が「自分が子供の時、父親が家にいなかったから」と答えたのを見て、私も宗旨替えしました。後悔先に立たず、ですが。

 しかし、ステイ・ホームの要請の中で「自粛疲れ」が問題になった原因の1つが、わが国の住環境にあることは見過ごせません。かつて「ウサギ小屋」と揶揄された狭小住宅からの脱却がなければ、ステイ・ホームは軟禁に近くなり、疲れるのは当たり前です。3年余米国暮らしをした私からすれば、バスルームが2室以上あれば、仮にパートナーが新型コロナに罹ったとしても、感染を防ぐことはさほど難しくないと思われます。すぐにそこまで実現することは困難ですが、人口減少を利用して、かつての団地の2戸を1戸にするなど、改善の余地はあるでしょう。

 こうした変化は、自然に継続することが期待されますが、運動論的な展開も必要かもしれません。その際、画一的な運動ではなく、多様な展開を許容することが不可欠です。それには「新生活運動」が古すぎるとすれば、“Small is beautiful.” を思い出すのは、いかがでしょう。イギリスの経済学者シューマッハーによって1973年に出版された書籍は、石油危機を予言した書としてベスト・セラーになりました。

 しかし、実は有名になったタイトルの標語は本文中に一度しか登場せず、強調されていたのはappropriate technologyの方でした。つまり、先進国はとかく最先端技術途上国に移転したがるが、それが相手国にとって最適解とは限らず、それぞれの国や地域の事情に応じた「適正技術」があるはずだ、というのです。これは途上国に当てはまるだけでなく、「リニアは本当に必要か」という問いとして、私たちにも関わってきます。

・若い世代の「適正」な選択に期待 

 このように、COVID-19を機に、既に世界の各所で多様な変化が生じています。若い世代が、多くの選択肢の中から「適正」なものを選択することに、期待したいと思います。

 

林「情報法」(62)

未だに「空気」を読んで「竹槍」で戦うのか?

 COVID-19 の問題は、第57回で速報的に扱いましたが、部分的に修正する必要はあるものの(例として「若い世代は罹患しない」とは言い切れない、「通常の死亡率は2~3%だが感染爆発が起きた時の死亡率はSARSの10%に近い」等)、大筋は間違っていなかったようです。そこで、その後緊急事態宣言を経て、その解除が議論されている現状に照らして、忘れてはならない教訓を再び備忘録として記しておきましょう。

・PCR検査が受けられない三流国

 OECDが去る3月28日(現地時間)に公開した、国別の「新型コロナ検査」関連報告書によると、加盟36か国の平均的なPCR検査件数は、「人口1000人当たり22.9人」でしたが、日本は「1.8人」で36か国中の35位となっています。また、OECDの2019年の報告書によると、日本の人口1000人当たりの医師数は2.4人で、OECD平均の3.5人を下回り32位になっています(https://www.jmari.med.or.jp/download/RE077.pdf)。

 PCR検査の少なさは、COVID-19の発生当初から懸念が表明されていました。しかし、a) SARS/MERSの被害が少なかったことに安住して十分な体制を整備しなかった。それどころか、b) 保健所の数は1991年~92年の852か所がピークで、現在は469か所と55%減になりコロナ・ウィルスと戦える布陣になっていなかった、という事情に加え、c)  4月に迫っていた習近平中国国家主席の来日と、7月に予定していた東京五輪という政治ファクターに配慮しすぎて初動対策が遅れた、ことが災いしたと思われます。

 それを知っていた政府と専門家会議は、検査を受ける人を重症患者(と予備軍)に絞らないと、検査と治療の両面で破綻することが心配されたため、「37.5度以上が4日以上続く」など「入り口を絞る」作戦に出たものと思われます。厚労相は「目安のはずが基準になってしまった」と弁解しましたが、国民の多くは「門前払い」と受け取ったでしょう。

 この作戦は、クラスターの発見と追跡の面ではある程度成功しましたが、その間検査を受けられないまま死亡に至るケースも散見されて非難を浴びました。そして何よりも、クラスターを追いかけるだけでは対応できない市中感染が広まったため、他の諸国と同様「幅広いPCR検査(代替方法を含む)」が必要になりました。それは、ⅰ) 医療従事者自身を守るための隔離基準であり、ⅱ) (他の症例での)入院患者が隔離を要するか否かの判断基準でもあり、ⅲ) 市中感染者全体を推計する根拠にもなるからです。

 最後の点は特に重要です。外出や営業の自粛を要請するには、そして更にその解除を決定するには、十分な証拠(evidence)がなければなりません。その指標として「国民の何%が感染していると見たら良いのか」が決め手になります。検査を受けた人のうち陽性者の割合(陽性率)が7%未満なら、外出や営業の自粛を続ければ一時的にせよ「封じ込める」ことができ、逆に感染が広まって国民の60%~70%が感染すれば「集団免疫」ができて、それ以上の感染は他の病気に対すると同様の方法で対応可能と言われています。問題は、この中間にある場合に、どのような対策を取るかです。

 一般論としては、このような推計が可能になるためには、十分な量の検体を採取し、迅速に判定できる体制を作らねばなりません。この点で、残念ながらわが国は、世界の「三流国」と呼ばれても仕方のない状況です。ご自身が医師でもある山梨大学の島田真路学長は、「日本の恥」とまで言っています。

・「目詰まり」はどこにあるのか

 専門家会議は、当初から問題の所在を知っていたと思われますが、5月4日になったやっと尾身茂副座長が、PCR検査が拡充されない理由として、① 保健所の業務過多、② 入院先を確保する仕組みの機能不全、③ 地方衛生研究所の人員削減等による検体検査者不足(臨床検査技師は6.7万人程度)、④ マスク・防護服など資材の不足、⑤医療機関と都道府県の契約の必要性、⑥民間検査会社への輸送機材不足を挙げましたが、多くの国民には「言い訳」にしか聞こえなかったでしょう。一国の首相が、しかも緊急事態宣言下で「1日2万件まで拡充する」と約束したにもかかわらず、その半分にも達せず「目詰まりがある」と認めざるを得ない理由が、これだけとは思えないからです。

 おそらく、⑦ 厚生労働省は「重篤者と死者を減らすことに注力し、それ以上の面倒なことはしたくない」と思っており、⑧ 保健所の医療分野での地位は高くなく、厚生労働省の方ばかり見て自治体を向いていない、⑨ (軍医経験者が少なく)検査に携わる医者や看護師も防護服が無い中では尻込みする、⑩ 大学病院などは「文部科学省から言われるまでは沈黙」を決め込んでいる、⑪ 国立感染症研究所・国立国際医療研究センター・日本医療研究開発機構・国立保健医療科学院という主要な4機関の情報共有と分担の不備、更にはCDC(全米疾病対策センター)のような臨戦体制の欠落、⑫ 安倍政権になってから強められた官邸主導も、医学(公衆衛生)の知識が不可欠の事態には対応できない、⑬ こられの欠陥を打破する政治力は誰も持っていない、といった諸事情が加味されていたと思われます。

・エビデンスなしの議論は「空気の支配」を許す

「日本政府の対策は太平洋戦争の敗因と共通するものがある」というのが、多くの人の共通認識になりつつあります。つまり、頭でっかちの官僚(かつては作戦参謀)がエビデンスもないまま机上で練った作戦で、現場は翻弄されて日々の業務をこなすだけで精一杯。皆が理論ではなく、恐怖心と同調圧力を伴う「空気」に支配され、PCR検査なしでひたすら医療従事者の献身に期待するのは「竹槍で戦うのと同じ」というのです。

 純理論で言えばウィルス対策には、ア)流行に任せ集団免疫が60%を超えるのを待つ、イ)ロックダウンにより都市を封鎖し短期間で(一時的にせよ)感染を抑える、という両極端の方法があり、第三の道としては後者の変形である、ウ)国民に自粛を求めロックダウンと同じ効果を狙う、という考えもあり得るところです。今回の日本の作戦が、ウ)を狙ったものなら意図は明確だし、そのように訴えるべきでした。なぜなら、そのような作戦を採る国はなく、わが国独自のものだからです。

 ここで大切なことは、新型コロナ対策は誰も経験したことのない事態ですから、誰もが間違う危険がある(現に、イ)を採ったスウェーデンは大量の死者を生み、当初それを目指したイギリスは早々に路線変更しました)ので、変更は許されるが、どの方針であるかは明確にする責任があることです。ところが、総理の記者会見では「生の声」を聞くことは少なく、プロンプターに映る「作文」を聞かされている感じが抜けません。更に、その根拠が数値化されていない(「他人との接触を8割減らす」は具体的指標ですが算出根拠は不明です)ので、一体自分たちが従うべき方針が、いつ達成されるのかも分かりません。これでは、仮にウ)を採っているにしても、真意が伝わることはないでしょう。

 『朝日新聞』2020年5月8日オンライン版に、生物学、生態学、地理学などの知見を駆使して人類の歴史を解き明かした著書『銃・病原菌・鉄』などで知られるジャレド・ダイアモンド氏のインタビュー記事が載っています。彼は新型コロナ・ウィルスの教訓として、第一は、国家が危機的な状況にあるという事実、それ自体を認めること。第二は、自ら行動する責任を受け入れること。第三は、他国の成功例を見習うこと。第四は他国からの援助を受けること。そして最も重要な第五のポイントは、このパンデミックを将来の危機に対処するためのモデルとすること、だと指摘しています。

 なお、三と四に関して、「私から安倍政権への助言は『韓国が嫌ならベトナムでもオーストラリアでも他の国でもいい。対策に成功している国を見習って、早期に完全なロックダウンを実行すべきだ』と言っており、彼が単なる理想主義者でない点が見て取れます。

・緊急事態に関する誤解

 そして、この渦中で気が付いたことは、安倍総理を含めてほとんどの当事者が、「緊急事態」という言葉を誤解していることでした。典型的な例は「疾病対策と経済の両立」という問題の立て方で、これはウィルスの流行がなだらかなとき、つまり「平時」にだけ成り立つ考えです。「緊急事態」とは、その両立が不可能で、「まずは疾病対策を最優先せざるを得ない」状態のことですから、「両立」を考えること自体が論理矛盾なのですが、このことが分かっている人はいないかのようでした。

 私も、この分野の専門家ではありませんが、幸か不幸か東日本大震災の直後に緊急事態を泥縄で勉強して、同僚の湯淺墾道教授と共著で「『災害緊急事態』の概念とスムーズな適用」という論文を書いたことがある(http://www.iisec.ac.jp/proc/vol0003.html)ので、誤解だけは解いておきたいと思います。この論文は、地震という自然災害の緊急事態を論じたものですが、「緊急事態」には「平常時とは全く違った対応が必要」という共通項があります。

「災害緊急事態」は、非常災害が発生し異常かつ激甚なものである場合において、災害応急対策を推進し、国の経済の秩序を維持し、その他当該災害に係る重要な課題に対応するため特別の必要があると認めるときに、内閣総理大臣が閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる(第105条第1項) ものです。

 災害緊急事態の布告があった場合の効果の主なものは以下の通りで、新型コロナ対策と共通点があることがお分かりでしょう。

・緊急災害対策本部 (第28条の2)の設置義務 (第107条)
・対処基本方針の制定 (第108条)
・当該災害に関する情報の公表義務 (第108条の2)
・「重要物資をみだりに購入しない」こと求める権限と国民の努力義務 (第108条の3)
・避難所等の特例 (第86条の2)、臨時の医療施設の特例 (第86条の3)、埋葬及び火葬の特例 (第86条の4)、廃棄物処理の特例 (第86条の5、第108条の4)
・行政上の権利利益に係る満了日の延長 (特定非常災害特別措置法3条)、行政・刑事上の義務の履行期限の延期 (特定非常災害法4条)、債務超過を理由とする法人の破産手続開始の決定の延期 (特定非常災害法5条)、相続承認・放棄の期限の延期 (特定非常災害法6条)の適用

 加えて、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置を待つ暇がないときは、内閣は、以下の事項について必要な措置をとるため、政令を制定することができます (第109条1項) 。

・供給が特に不足している生活必需物資の配給・譲渡・引渡しの制限・禁止
・災害応急対策・災害復旧又は国民生活の安定のため必要な物の価格等の最高額の決定
・金銭債務の支払延期及び権利の保存期間の延長

 このように緊急災害事態は、「緊急事態」の典型となるものですが、上記のように(国会の閉会中に限るとはいえ)法律の代わりに政令で定める権限を付与するなど「伝家の宝刀」としての劇薬性を持っているため、それを布告するのは慎重にならざるを得ません。事実、あの東日本大震災に際しても、「東北地方太平洋沖地震緊急災害対策本部」は設置されましたが、災害緊急事態の布告は発出しませんでした。ただし、より重大な福島第一原子力発電所事故により、「原子力非常事態」が宣言され「災害対策本部」が設置されましたが、こちらも史上初のことでした。

 このように緊急事態は、「法治国家であることを放棄してまで目前の対応を迫られる事態」なのですから、命がけの対応が求められます。現在「新型コロナ特措法ではロックダウンはできない」「私権を制限するには憲法に緊急事態条項を設けるしかない」といった他人事のような発言が繰り返されていますが、その前に「責任をもって緊急事態を抑え、一時も早く緊急から逃れる」覚悟と責任感があるのかどうか、疑わしくなってしまいます。

林「情報法」(61)

「加速化する時間という厄介」の緩和策

 前回に続いて「<よろずやっかい>解決に貢献できるか」を議論します。今回は、⑧ の「時間の加速化という厄介」が対象です。矢野さんがこのテーマを選ぶ際には、私も若干後押しした経緯があるので、このテーマを中心に、第6回にある「等身大精神の危機」という要素を加味して論じてみましょう。

・厄介の正体

 まず矢野さん自身が、この厄介をどう捉えているかといえば、以下の諸断章から全体像を浮かび上がらせることができます。

私は常々、サイバー空間の登場は人類史を2分できるほどの出来事である(BC=Before CyberspaceとAC=After Cyberspace)と述べてきたが、その最大の特徴は飛躍的スピードの増大にこそ求められるかもしれない。
ネットスケープタイム。(中略)彼(創業者のジム・クラーク)によれば、創業から株主公開までの期間は以下のように短縮した。
 ヒューレットパッカード 創業1939 株式公開1957(18年後)
 マイクロソフト 創業1975 株式公開1986(11年後)
 アップル 創業1976 株式公開(4年半後)
 ネットスケープ 創業1994 株式公開1995(1年4ヶ月後)。
コンピュータに限らず、文明の発展にともなって私たちの時間が加速しているのは間違いない。足で歩く→自転車に乗る→鉄道を利用する→車→飛行機と、交通手段の発達はまさにスピードアップの歴史であり、電信、電話などの通信手段もまた時間の克服に大きく貢献した。

 ここで厄介が生ずるのは、このような加速化についていけない人と、楽々キャッチ・アップできる人の間に「差別」が生ずるだけでなく、時間間隔の相違から思わぬミスが生じたり、行き違いが生じかねないことでしょう。例えば、私が慶應の教師だったころ、ゼミを自宅で開催したことがあります。ゼミ生に地図のコピーを渡して到着を待ったのですが、なかなか現れません。後刻判明した事実は「学生は携帯のGPSに頼りすぎて、(紙に書かれた、動かない)地図が読めなくなっている」ということでした。

・時間は不可逆:経路依存性

 この問題に関して、経済学者の間で共通認識となりつつある概念を、いくつか紹介しましょう。最初に挙げたいのは、経済学が「白紙に絵を描く」ように、時空を超越して「いつ、いかなる状態でも適用可能」な理論を提供できるという神話が、経済学の内部から見直されていることです。発端は、キーボードの標準配列であるQWERTYの考察から始まりました。パソコンを使い慣れている人でも、「QWERTY配列が効率的で使いやすい」と感ずる人は少数派でしょう。なぜ経済学が忌み嫌う「非効率」な配列が、生き延びているのでしょうか? 

 経済史家のポール・デイヴィットは、当初は数ある配列が競争をしていた状態から、タイプ・バーがジャムを起こしにくい配列であることが評価された、タイピスト学校が採用したためQWERTYに慣れたタイピストが多くなった、タイピング・コンテストの優勝者がこの配列を使っていた、といった「歴史的な小さな事件」(historical small events)の積み重ねが、配列の「固定化」(lock-in)をもたらし、その後の経路を決定した(path-dependency)と主張しました。

 これは考えてみれば当たり前の「時間は不可逆である」ことと同じで、世の中に「従来のやり方」は一顧だにせず、「これが正しい方法だ」といって一気に転換可能な方法が、そう簡単にみつかるはずはありません。経済学はもっと早く「経路依存に配慮しない理論は現実性がない」ということに気づくべきでした。連載58回以降引用しているポズナーとワイルが、一見突拍子もないradical な提言をしながら、実は現状から改革に進む過渡期のあり方に、かなりの検討を割いていることが、その証左になるかと思います。

・初期値過敏性と経路依存

 しかし経路依存性の含意は、意外なところに現れました。経路依存性と言えば従来は「過去のトレンドから大きく外れることはない」「線形的な方法で将来予測ができる」ことと符合していました。ところが「複雑系」や「カオス」の研究が進むにつれて、初期値の設定が変わった(あるいは間違えた)だけで、結果が大きく違ってくることが分かってきました。その先例となったのが、気象学者が発見した「バタフライ効果」です。この点を、Wikipediaは以下のように説明しています。

1961年にエドワード・ローレンツが計算機上で数値予報プログラムを実行していた時のこと、最初ローレンツはある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し、予想される天気のパターンを得た。このときのコンピュータのアウトプットは、スペースの節約から、入力値が四捨五入された「0.506」までしか打ち出されないものであった。ローレンツは、もう一度同じ計算をさせるため、特に気に留めずに、打ち出された方の値「0.506」を入力して計算を開始させた。計算が終えるまでコーヒーを飲みに行き、しばらく後に戻って2度目の計算結果を見てみると、予測される天気のパターンは一回目の計算とまったく異なったものになっていた。ローレンツはコンピュータが壊れたと最初は考えたが、データを調べていく内に入力値のわずかな差によるものだと気づいた。この結果から、もし本物の大気もこの計算モデルのような振る舞いを起こすものならば、大気の状態値の観測誤差などが存在する限り気象の長期予想は不可能になることを思い付き、初期値鋭敏性と長期予測不能性のアイデアを持つようになる。

 この説明は、理知的で温和な学者が書いたものと思われますが、同じ現象を見て「ここに商機あり」と思うビジネスマンがいたとしても、不思議はないでしょう。彼らの解釈では「初期値に過敏で、経路依存性から脱却できないのなら、先手必勝のビジネス・モデルができる」という発見になったと思われます。

 中でも「バグ」による瑕疵担保責任を免除された製品、すなわちソフトウェアを商売にする人々は、「未完成製品をβ版として市場に出して、ユーザーにデバッグさせよう。その方が早く顧客をロック・インできる」と理解しました。デバッグさせられるユーザーにしてみれば、宮沢賢治の「注文の多い料理店」(料理を楽しみたかった客が、逆に調理されてしまう)状態で癪ですが、このビジネス・モデルは、どの法律にも違反していないのです。

・有限資源としての予算と時間

 このようにして、インターネットの世界は「何でもあり」に近くなりました。私が経済学から法学に転向した理由は、前回述べたように経済学の無倫理性についていけなかったのが主原因ですが、もう一つ別の理由は、インターネットの秩序の最適解を求めるには「自由度のある変数が多すぎてインターネット方程式が解けない」「仮に定数があるとすれば法律(あるいは制度)しかない」と考えざるを得なかったことです。

 現在定数になっているのは、DNS(Domain Name Server)の数や設置場所、IPアドレスの割り当て方式、技術基準の決め方に関するRFC(Request For Comment)方式など、いわゆるインターネット・ガバナンスに関する基本的考え方やそれを実装した制度だからです。しかし、これらの仕組みはインターネットの母国である米国が決めたものがほとんどで、中国やロシアなどから鋭い批判を浴びており、いつまで維持できるか分かりません。

 もちろん有限資源の制約が、インターネットの秩序に枠をはめる(つまり定数になる)部分はあります。しかし通常は制約になり得る予算(つまりカネ)は、「異次元の金融緩和」という怪しげな理論で使い物にならなくなってしまいました。今後ブロック・チェーン技術を利用した新しい通貨が多数出回るようになれば、この傾向はますます進行するでしょう。

・時間の身体性:等身大精神の危機

 そこで残された唯一の有限資源が、「時間」ということになります。時間は誰にでも平等に一方向に進むし、貯めておくことができない、つまり時間が経過すればチャンスもリスクも消滅することが多いからです。しかし矢野さんは、先回りして「等身大精神の危機」という言い方で、「時間の身体性」についても見通しています。以下が、それに触れた部分です。

一部のSFファンの間では有名な話のようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』などの作者が提唱した「ダグラス・アダムスの法則」というのがある。
人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。
<よろずやっかい>➆の最後にふれたように、技術がもたらした問題の多くは技術によって解決できるはずである。サイバー空間と現実世界の接点における快適な時間の確保ということに関しても、秀逸な<よろずやっかい解決アイデア>が求められるとも言えよう。ノーベル賞級か、あるいはイグノーベル賞級の。

 しかし私には、最後の部分はかなり楽観的に過ぎるのではないか、と思われます。先に挙げた「動かない地図が読めない」と類似の現象が、いたるところで起こっているからです。「24時間働く」ことを美徳としてきた「企業戦士」の私からすれば、「会議の5分前に着席している」のは「同僚の時間を奪わない」最低限の義務と思っているのですが、現代の主流のルールは、トヨタ式のJIT(Just In Time)のように思われます。当方からすれば、「めったに合わない人と、会議前に雑談の一つも交わしたい」のですが、効率性基準では「ムダ」となるのでしょうか?

 このような感覚の差は、世代間では調和不能なほど拡大しています。私は伝統的なeメールが快適ですが、子供はショート・メッセージでないと「まどろっこしい」ようです。孫は今のところショート・メッセージ派ですが、次の技術が出てくれば、親世代よりも早く移行するでしょう。この3世代が、それぞれ別のところから1つのレストランに集まる過程を見ていると、その時間感覚の差に驚きます。そして、こうした変化がほんの四半世紀ほどで起こった(Windows 95から数えています)ことに、再び驚きます。

 この「新しい分断」に対する処方箋は未だ持ち合わせていませんが、とりあえずの対策は「適宜ブレイクして、その間に時差調整する」しかないように思います。わが国は年次有給休暇さえ放棄する(あるいは買い取ってもらう)傾向がありますが、「会議は長くても1時間で終わらせる」「2時間になるようなら途中で休憩を入れる」程度のことは、今回のコロナの経験を生かす意味で、実践してみてはどうでしょう。

古藤「自然農10年」(14)

季節はひたすら廻り、田植えの準備

 サクラが去って目を洗うような若葉色が山を染め、棚田にそそぐ陽光はすでに初夏の勢い。私の棚田はコロナ騒ぎをよそに季節が廻り、田植えの本格準備が始まった。

 まずは苗を育てる苗床づくり。私たちの暦では4月20日から1週間が適期で、場所決めから作業が始まる。毎年、所を変えて田んぼの一角を定め、モグラが入らぬよう周囲に溝を掘る。今年は日当たりのよい上段の畝に1.5メートル幅、長さ10メートルを仕切った。撒くのは昨年収穫したモミ米。稲刈りの前に種にする稲を先に刈って保存していた。大きい稲や小さいのは避けて中くらいの稲束を種籾にする。中くらいの方が安定した収穫になると教えられた。

 耕さないので年寄りにも楽な自然農だが、苗床づくりは溝を掘り表土を剥いで軽く耕すなど重労働。苗が元気に育つ環境にするためで力に加え辛抱もいる。手のひらのモミを指の間からこぼしながら撒くが、均等にばらまけるわけはない。後でひと粒ずつ動かして間隔を出来るだけ均等にする。

 溝を掘った土をモミにかぶせるのも力仕事。モミが土になじむよう手でしっかり押さえた後、乾燥しないよう草を厚くかぶせて完成だ。1か月半で苗が育ち田植えができる。草を刈ったり運んだり1日がかりの作業は農閑期でなまった体にこたえる。妻と仲間に手伝ってもらったが10メートルに4日かかった。

最初に溝を掘って苗床を囲う(左)、モミをまき終わって土をかぶせる

 作業が終わって夕方の風呂が一段と有難い。足腰を思い切り伸ばすと寿命が延びる心地になる。苗床作業のお陰か、このごろ気になりだした耳鳴りも消えていた。世間の騒ぎも無縁に見える自然農の暮らしだが、コロナの影響が少しずつ迫っている。

 人口9万6千人余の糸島市で感染者数はいま20人、うち2人が亡くなった(4月27日現在)。微々たる数字ではあるが、マスク姿の糸島市長が市のホームページに登場して連休中は海や山への観光もやめてほしいと近隣に訴えた。図書館や公共施設はもう2か月近く閉じたまま、仲間内の飲み会、反原発グループの集まりもすべて中止。炭焼き仲間は、焼きあがった窯からの取り出し作業を自粛して、窯が密閉されたまま今シーズンを終わろうとしている。

・自給自足の生活に不安はないが……

 前回、北海道の鈴木知事が果敢な対応でウイルス感染者を抑え込んだ成果を取り上げたが、その北海道で感染者数がまた増加し始めた。緊急事態宣言と外出自粛で収まったかに見えた感染も気が緩んで人が動き出せばぶり返して、前にも増す感染者数になる。北海道は今、当面の抑え込みに懸命な東京や大阪の今後の困難を先取りしているのかもしれない。新型コロナウイルスとの戦いは長期戦の様相を深めている。

 当面の対策に追われる国や自治体がこの先、コロナ禍の耐乏が半年、1年と続いた時にどうするのか。5月の連休明けまでを区切った緊急事態宣言は延長の方向だが、休校や外出自粛の後をどうつなぐのか長期戦略を問われ始めた。正体が見えないウイルス相手とは言え先が見えない状況が続けば、感染者が差別を受ける世情がいっそうとげとげしいものになりかねない。

 それでなくとも打つ手なく国は数十年に及ぶ人口減少の中にある。百兆円を超える規模に膨らんだ国家財政の3分の1は借金で賄う赤字体質。この30年で借金は1,000兆円を突破した。いろいろ理屈をつけて問題がないと説明しているが、抑制的な欧米主要国とまるでかけ離れた財政破綻は決して健康体と言えない。

 とくに安倍政権は高齢化が進み膨らむ医療費を減らそうと保健所を減らし、公立病院の赤字対策に躍起だった。患者の入院日数を減らして回転率を上げるよう尻を叩き、昨年9月には再編・統合の対象にする400余の公立病院名を一方的に公表、今年1月には都道府県に実行を促す通知をした途端にこのコロナ禍だ。再編作業はいま先送り状態にある。

 都市の過密と限界集落に象徴される地方の疲弊、マスク騒動で露呈された外国の安いコストに頼る輸入国家の弱点。国民の命に直結する食糧自給率も4割の低い水準のまま。いわば様々な既往症を抱えて新型コロナに襲われているのだ。まさに感染者の中で肺炎が重症化するケースと同じではないか。

 悪い時に悪いことが重なるたとえは多い。新型ウイルスに重なって食糧危機が起きたらどうなるか、同じ時期に災害や原発事故に襲われることだってあり得るのだ。豊かさを謳歌してきた都市生活の衣食住はどれ一つをとっても安心とは程遠い。自然農で自給自足をする私の暮らしには、それらの不安が一つもない。今こそ老いも若きも山野に戻り自然農を始めてみてはいかがか、と声を大にしたい思いだが、コロナとの共存を主張しながら私も難しい立場に立たされている。

 自然の恵みをもらってウイルスに負けない自信があるが、妻はそうではない。大変怖がっている。普通の風邪をこじらせて2、3年前に肺炎で入院し苦しんだ経験があるから、コロナウイルスに感染すれば必ず死ぬと決め込んでいる。同居の私が軽率に動いて保菌者になるわけにもいかない立場なのだ。新型コロナウイルスはなかなか一筋縄ではいかない。自然農に励みながらもうしばらくコロナ禍を考えてみたい。

 

 

 

林「情報法」(60)

<よろずやっかい>解決に貢献できるか?

 このブログが間借りしている「サイバー燈台」主宰者の矢野さんは、ご自身のブログ「新・サイバー閑話」の中で、「インターネットよろずやっかい」を連載しています。間借り人として大家さんに若干の貢献がしたいので、前2回で紹介したポズナーなどの提言が「厄介」の解消に幾分でも役立つのか、勝手に想像してみました。

・テーマの選定

 矢野さんがこれまでの9回にわたる連載で挙げた<やっかい>は、具体的には次のようなものでした(テーマの表記を私流に変えた部分があります)。第1回は「2015年ごろ以降はインターネットの抱える潜在的問題点が顕在化しつつある時代と言える」といった全体の問題視角を述べる回だったので、個別の事例としては以下の8点が指摘されたことになります。

  2)「1人1票」の厄介
  3)情報発信が金になる厄介
  4)「人間フィルタリング」が効かない厄介
  5)「良識派」がネットから撤退する厄介
  6)既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失の厄介
  7)ネットの行動様式が現実世界に逆流する厄介
  8)日本社会に特有の「タテ社会」と「世間」が弱体化する厄介
  9)加速化する時間という厄介

 このうち、ポズナー流の Radical Markets が寄与しそうなのは、さし向き3)と9)かと思いますので、今回と次回でその2つの話題を取り上げましょう。

・情報発信が金になる厄介

 まず3)の情報発信が金になる厄介は、以下のような点が<やっかい>の根源だと思われているようです。

インターネットの登場以前(Before Cyber = BC)は、言論を広く伝播するにはそれなりの投資が必要だったため発信者の数は限られ、それで生計を維持している人は「作家」「ジャーナリスト」などと呼ばれる、その道のプロフェッショナルでした(「先生」という敬称あるいは蔑称もありました)。ところが、インターネットという安価で操作が簡単な言論発信装置が登場したことで、「誰でも表現者」になれる時代が到来し、プロとアマの区別が薄れてしまいました(矢野さん流のインターネットの3大特徴のうち、「インターネットには境目がない」を反映するものです)。

 加えて、両者を仲介するプラットフォーマーと呼ばれる事業者が、「言論と広告を組み合わせる」というビジネス・モデルを発明したため、従来なら「文士は食えない」と思われていた職業でも、十分「食っていける」可能性が生まれました。ケータイ小説・ユーチューバー・ピコ太郎などという象徴的な例を経て、アルファ・ブロガーやフォロワー100万人などというヒーローが現れ、子供が「将来なりたい職業」に入るケースもあります。

 しかし、長くジャーナリズムの世界に身を置いてきた矢野さんからすれば、以下のように目を覆いたくなる事例も散見(あるいは日常化?)されるようになりました。

・広告のために事実をあっさり曲げる:どうしても表現は過剰になり、極端な場合、嘘でもいい。フェイクニュースが頻発する原因はこういう事情にもよる。
・キュレーションサイト(まとめサイト):2016年にDeNAが閉鎖した10サイトの実態を見ると、インターネット上で書くことがいかに事実、あるいは真実からかけ離れた行為だったかがよくわかる。 

 ここでは、かつてメディアというものが持っていた「正しい事実を伝える」といった姿勢そのものが消えているだけでなく、コミュニケーション(すなわち人間同士の交流の在り方)まで歪めているのではないか、と矢野さんは心配しています。

ケータイやスマートフォンの書き込みは、書き言葉ではなく話し言葉で、文章は短く、断片的、断定的になりがちである。その極限が絵文字で、隠語めいたものもある。書くという行為の内実がずいぶん変わってきたわけで、こういうやりかたでコミュニケーションしていれば、思考方法もまた変わってくるだろう。そこに安易に金が稼げるという事情が覆いかぶさり、表現をめぐる状況自体が大きく変わってきた。

・「情報発信が金にならない厄介」もあったのではないか?

 矢野さんの指摘は核心を突いていますし、ジャーナリストの衰退は放置できない、という心情も良く分かります。しかし経済学の視点から見ると、「情報発信が金になる厄介」以前には、「情報発信が金にならない厄介」があったのではないか、という疑問も生じます。具体的には、上述した「文士は食えない(武士は食わねど高楊枝)」現象です。

 これは「産業化」一般に言えることで、経済の世界(特に資本主義経済)では、「その仕事で生計が維持できるかどうか」は、決定的に重要な意味を持っています。どんなに社会的に大切な機能だと主張しても、一人前と見られるには「それで食っていけるか」ということにならざるを得ないからです。「衣食足りて礼節を知る」のが順序ですから、「食っていけない」人に道を説いても、残念ながら無意味です。

 逆に、どんなに倫理的に非難に値する仕事であっても、それで悠々食っていけるものは、法律で禁止しても生き延びます。世界最古の職業とされる売春が無くならないのは、その故でしょう。かつて、レーガンとサッチャーが主導した市場主義の流れの中では、「個人」が「市場」で独り立ちすることを強いられ、「社会」という緩衝材はないものとされました(Covid-19から奇跡の復活を果たしたジョンソン首相が、「やはり社会はあるのだ」と発言して話題になっているようです。宗旨替えでしょうか?)。

 「だから経済学は嫌いなんだ」と言って、ここで立ち止まらないでください。実は、私が経済学から法学に回帰したのも、経済学者の中には倫理観ゼロや、あっても極端な功利主義を信ずる学者がいて、これ以上付き合っていられないと思ったからなのです(この嫌悪感は、トランプ大統領に対しても持ち続けています)。  

 それでも私は、経済学は「マネーという単位で見ればどうなるか」という視点から物事の本質を教えてくれる、便利な手段だと思っています。つまり「バカとハサミは使いよう」で、経済学の有用性と限界を理解した上で「手段として」使うのです。そのためにも、経済学一本やりではなく、「法と経済学」という形で批判的に使うのが、バランスを取る上で有効だというのが、私の信条です。

 さて、その上で矢野さんの指摘を私流にパラフレイズすれば、産業化以前からあった言論ビジネスを産業化して、多くの人が生計を維持できるようにした点では、インターネットは過去の厄介を解消しました。しかし、それがあまりに安易に使えるようになった結果、新たな厄介が生じたので、これを軽減あるいは緩和するにはどうしたら良いか、というのが「法と経済学者」としての私に期待される任務である、ということになるでしょう。

・「独り勝ち」の原因を経済学はどう捉えるか?

 そこで現実論として、矢野さんの指摘のような弊害を避けるにはどうしたら良いかを考えるには、インターネットが可能にしたビジネスが持つ、メリットとデメリットを見極めるのが早道です。

 メリットは言うまでもなく、ビジネスとしては成り立ちにくい仕事を手助けして、産業化したことです。私はかつてメディアの研究者でしたので、メディアが契約料でどれだけ稼ぎ、広告料にどれだけ依存しているかに関心を持っていました。当時は、いわゆるニューメディアの勃興期で、新しいビジネス・モデルの模索が続いていたことを懐かしく思い出します。

 ところが、ここで「ネットワーク効果」という新しい現象が生まれました。これは「どのシステムに入るか」という意思決定が購買者の選好だけでは決まらず、「どのシステムに入っている人が多いか」という外部の事情に依存するということです。1990年代半ば以降は「なぜWindowsを買うのか?」と問われれば、「性能が良いから」ではなく「誰もが使っていて便利だから」という回答をする人が圧倒的になりました。

 つまりWindowsというOSが優勢になると、それに対応したアプリが多数かつ早期に開発され、この良循環が更にWindowsに有利に働き、遂には「独り勝ち」(winner-take-all)になったのです。これはOSの市場とアプリの市場が相互作用した結果ですので、従来の独禁法では対応できません。独禁法は単一市場を前提にしており、まず「市場を画定する」作業をし、その市場の中の支配力で「独占」かどうかを判断するのに対して、ここで生じているのは2つの市場にまたがる相互作用が独占の源泉だからです。

 「ネットワーク効果」がより鮮明に出ているのが、情報サービスと広告の組合せです。この点を独禁政策が専門の小田切宏之さんの図(「プラットフォーム市場の集中と競争:2つの螺旋効果と競争政策の役割」『情報通信学会誌』Vol.37、No. 4)を借りて、私なりに脚色して説明すれば、以下の3ステップになります。

 まず第1ステップの「(直接)ネットワーク効果」(図の左側)は、単一の市場で「ユーザ―数が多い」ことが、そのまま「ユーザーの効用が大きい」ことを言います。極端な例は、20世紀初頭の米国の電話ビジネスで、2つのシステム間の相互接続交渉が挫折したので、「どちらが優勢か」をめぐって、し烈な顧客獲得競争が行なわれました。

 これが上述のWindowsのような例では、「ハードの市場」と「ソフトの市場」が相互に影響し合うように発展し(図の右側)。ここで第2ステップの「間接ネットワーク効果」が生じました。図の「市場S」は、例えばオンライン・ショッピング・モールの出店者の市場、「市場C」は、その顧客の市場と考えてみましょう。

  Sの出店者が多いことは、同じ市場の同業者に(プラスの)影響はしませんが、モールで買い物をする市場Cでは、顧客の効用を増大させます。ここでプラットフォームがSとCをつなぐと、Cの市場でユーザー数が多いことは、他の買い物客に影響しませんが、Sの出店者の効用を増大させます。つまりここでは、ネットワーク効果が2つの市場をまたいで出現しているのです。

 ここで終わっていれば、さほどの議論にならなかったかもしれませんが、情報という商品は伝統的な有体物とは違っていました。従来はSとCの市場は独立したものと捉えられていましたが、プラットフォーマーというビジネス形態が生まれ、この仲介者が両市場を統合的に支配するような変化が生じたのです。経済学はこれを「両面市場」(two-sided market)として議論していますが、世間的には「プラットフォーマー独占」の問題と呼ぶのが一般的かと思います。

 彼らの独占力の源泉は、2つあります。1つは「情報」という価格をつけにくい財貨に、1つ1つ価格をつけるという難題を回避して、「広告収入」で賄うことで無料にするか、せいぜい「定額制」で販売することを可能にしたビジネス・モデルの成功です。もう1つは、従来「広告効果は測定が難しい」ことを隠れ蓑にしてきたマスメディア等と違って、ビッグ・データを活用して効果を「見える化」したことで広告主の信頼を得たことです。

 しかし、このような大成功には、光と影があります。前者の影は矢野さんの指摘にあるように、「言論が広告に服従する」現象を生みやすいことです。後者の影は「データが価値を生む」ことが明らかになったにもかかわらず、その対価が支払われていないことです。ポズナー達が後者について、厳しい指摘をしていることは前回指摘したとおりですが、いずれにせよプラットフォーマーが「両面市場」の支配力を強めていることは疑いなく、EUを始め各国はその対応を余儀なくされています。

・「見えないもの」を中心にシステムを考え直す

 しかし私は、彼らの指摘に対して「(他の)3つの提言では、冷徹な分析を披露したポズナーとワイルも、このテーマには有効な提言が難しかったようです」といった厳し目の評価をせざるを得ませんでした。それは「情報の経済学」が、これまでの経済学を延長するだけでは解けない面を有していることを表しています。

 経済システムが変わった後に、それを追いかける形でしか制度を設計することが難しい法学においては、その困難は想像を超えるものがありそうです。しかし私たちは、否応なくその世界に足を踏み入れているのです。やや誇張であることを承知で敢えて言えば、ペストという感染症が中世から近代への移行を促進したように、Covid-19という感染症が近代から脱近代への移行を促しているようにも思えます。