林「情報法」(26)

資本主義とproperty 信仰

 個人的なことですが、私は法学部の出身で現在は法学者と称していますが、それは今世紀に入ってからのことで、博士号をいただいたのは経済学が先で、1990年です。博士号取得後間もない1992年に、NTTアメリカの社長として赴任して直ぐに実感したのが、「アメリカは経済学の教科書に出てくる通りの資本主義の国だ」ということでした。この感覚は、同じ資本主義を唱えていても、日本に居たのでは分からないでしょう。今回は、経済学がいう資本主義とはどういう仕組みなのか、それが法制度にどのように反映されているのか、を考えてみます。

・国民皆保険は社会主義か

 この問題を考えるには、オバマ・ケアと称されている医療保険制度に関して、米国の世論が二分されている状況を例にするのが良いと思います。2大政党制が定着している米国では、共和党の大統領が前任の民主党の大統領がやったことを「全否定」するのは珍しいことではありませんが、トランプの主張は例によって「度が過ぎる」ほど過激なものです。そして、それに賛同する有権者が一定比率で存在するのです。

 米国は何事につけ個人の自由な意思を重んずる国で、医療保険についても「入りたい人が入ればよい」という任意加入の仕組みを採ってきました。高齢者向けのMedicareや、低所得者向けのMedicaidといった最低限の公的保障はありましたが、無保険者が4800万人(全国民の15%)に達し、医療費も高騰するという深刻な問題を抱えていました。

 オバマ・ケアは、従来どおり個人が民間の健康保険を購入する枠組みを維持しつつ、① 個人による医療保険加入の義務付け、② メディケイドの対象拡大、③ 従業員へ医療保険を提供しない企業に対するペナルティなどを盛り込み、これによって10年間で無保険者を3200万人減らし、65歳以下の保険加入率を83%から94%に引き上げることを目指しました。したがって、従来から個人で十分な健康保険を購入していた自営業者や、勤務先経由で購入していた被雇用者には、直接的な影響や変化はほとんどないとされています。

 ところが、こうした改革に反対する主張の陰には「健康保険は自助努力で賄うべきで、国家が税金で運営するものではない」という、信仰にも近い根強い意識が感ぜられます。これは、国民皆保険に慣れきった日本人からすれば、「差別意識」と呼ぶほかないと思われるかもしれません。しかし、資本主義の原点に帰って考えれば、「国家が個人生活に介入することは認めない」という、ごく素朴な「市場原理」に基づく発想とも言えるのです。

・アメリカには「市場」がある

 なぜなら、資本主義とは文字通り「資本」が優位の社会に他ならないからです。市民革命によって生まれた近代社会は、政治的には民主主義、経済的には資本主義を旨としています。それは、市民革命の担い手がかつては生産手段を持たず、領主に隷属せざるをえなかった下層階級だからで、彼らが「自ら物を所有する」ことに期待を込めて生まれたのが近代社会だからです。そこでは政府の役割は、安全保障などの限定的な範囲にとどまります(いわゆる「夜警国家」)。

 資本主義の理念を実現する手段が、経済的には「市場」機能であり、法的にはpropertyに代表される「物に対する支配権」です。後者は奥歯に物が挟まったような言い方で申し訳ありませんが、日本では「所有権」のことだと考えておいてください(わが国の所有権と、英米法におけるpropertyとは微妙な差があるので、「物に対する支配権」と言ったのですが、この微妙な差は後に大きな差であることが判明します)。

 私は、たまたま経済学を学んだ直後にアメリカに渡ったので、教科書に出てくるような「市場」がそこに存在することを知って驚きました。経済学の教科書の初めの方には、需要曲線と供給曲線が登場し、その交点で需給均衡するとの説明が出てきます。私は、それは試験管の中にしか存在しない「虚構」だと思っていたのですが、アメリカという「新世界」では限定的ではあっても、存在し得ることを実感しました。

 また、仮にこの原理が適用できない事態になれば、理論を諦めるのではなく「理論に合わせて現実を変える」ことこそ必要だ、とする見方が強いことにも気づきました。例えば、自主決定を最大限尊重し、取引に関する規制は極力少なくすること。商流でいえば「ゼロから新商品を開発し販路を開拓すること」、物流では「航空機・自動車・船舶・鉄道など運送手段の組み合わせの最適化」や、「デポの立地の選択」などが自由にできること(経済活動の自由)は、「資本主義の神髄」として尊重されています。

 そのアドバンテージがIT革命の波に乗り、現在のGAFA支配(Google、Amazon、Face Book、Appleなどの米国発グローバル企業の支配構造)につながっていることは言うまでもありません(ここには、独禁法問題という別の課題も生まれますが)。しかし、これは資本主義のメリットだけを強調した見方で、その間にリーマン・ショックにつながった「強欲資本主義」(Greed Capitalism)の欠点が露呈したことも、忘れてはならないはずです。つまり、前のパラグラフまでの説明は「効率」を第一義とする限り正解ですが、そこには「公平」の要素が見当たりません。経済学の課題の中には「公平」が欠かせないと考えるなら、両者のバランスを保たなければなりません。

 だが、20世紀の妖怪(マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』で自己規定した言葉)である共産主義を倒して以降、アメリカ人の中に生まれた「大切なのは『資本』の力だ」という自信が揺らぐことはなく、同時にその法的な根拠であるproperty信仰は今日でも続いています。

・Cyber Squatting

 このような信仰が、インターネットにそのまま適用できるかが問われたのは、1990年代中葉のインターネットの商用化当初に発生したCyber Squatting(サイバーにsquatting = 居座りを組み合わせた造語)問題です。ドメイン名の取得は原則として「早い者勝ち」で、割り当ての際に商標との関係は考えられていません。そのため、ドメイン名を実際には使用せず、将来高く売りつけるためだけに取得する者が、企業の社名や商標を先にドメイン名として取得した場合、その企業は同一のドメイン名を取得できなくなります。

 ドメイン名における紛争は典型的にはUniform Domain-Name Dispute-Resolution Policy(UDRP)に従って、Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN) によって解決されます。この例に当てはまる法律としては商標法(米国ではLanham Act)が一番近く、商標権を取得済みの人や法人が、商標と同じと考えられるドメイン名を使用する(潜在的あるいは優先的)権利を持つという発想は、propertyアナロジーでは自然ですが、結果としては、商標の取得者を有利に扱うことになります。

 しかし、Cyber Squattingにおいて商標の取得者のドメイン名を優先的に割り当てることは、直感的に理解し易いもので大方の支持があったのか、あるいはsquatterの行為は不公正だとする意見が強かったのか、まず保護されるべきは消費者の信頼感だとされたためか、Anti-cybersquatting Consumer Protection Act (ACPA) of 1999という法律の制定によって、商標取得者を優先することが是認されています。

・Trespass to Chattel

 これに対して、「サーバーに過大な負荷をかけることはサーバーの所有者のpropertyの権利を侵害する」という論理構成はどうでしょうか。

 このような事案で最も頻繁に使われるのは、trespass to chattel(動産に対する侵害)という概念です。これは不動産に対するtrespass(不法侵入)の法理を動産にも拡大したもので、現行のrestatement(判例法の国である米国で、過去の判例から一般的法理を抽出し条文化することで、州などにおける立法の参考にする資料)であるRestatement(Second)of Tortでは、‘intentionally—-disposessing another of the chattel, or using or intermeddling with a chattel in the possession of another’ ( 217条) とされています。

 したがって、侵害を主張する側は 1) 故意、2) 動産に対する介入、3) 実際の損害、を証明しなければなりませんが、このうち第3点は、不動産への不法侵入の場合は不要とされています。つまり、不動産の場合は損害が発生しないような侵入であっても、侵入それ自体が違法あるいは不法となるのです。

 そこで動産への侵入であっても、初期の判決では、3) を不要とするeBay v. Bidders’ Edge判決(100 F.Supp.2d 1058 (N.D. Cal. 2000)などがありました。この事例は、eBayというオークション最大のサイトに対して、まとめサイトを運営するBidders’ Edgeが反復・継続的なクロールをかけたのに対して、eBay がTrespass to Chattelで訴えたもので、判決はeBay の勝訴で、かつ実害の証明を不要としました。

 しかし、Intel v. Hamidi(30 Cal. 4th 1342 (2003))以降は、実害が必要との解釈が一般的になっています。このケースは、Intel社の社員であったHamidiが不当に解雇されたとして、同社社員とOB用メーリング・リストを使って同報メールにより理解を訴えた行為(ただし受信を望まない場合は、送信停止はできる)が、Trespass to Chattelに該当するかどうかが争われたもので、判決は実害が生じていないとしてIntelの訴えを退けています。

 この判決以降は、restatementの文言通り、「実害の発生が前提」との理解が浸透しつつあるやに見えますが、なお根強いproperty重視派があって、「不動産侵害と同様、侵害行為自体が違法」という主張が続いています。

 

 

名和「後期高齢者」(20)

フェイスブックすなわち回覧板

 私の住む区では、いま、「プライバシー」を巡って微妙な論争がなされている。それは、後期高齢者のみが生活する家庭の名簿を区役所が事前に警察に開示することを可とするか非とするか、についてである。なぜか、と聞けば、後期高齢者は不正な詐欺の対象になりがちであり、そのような社会的弱者を警察が事前に保護するためには名簿が必要、という答え。

 このやり取りをみて私は「とんとんとからりと隣組」を思い起こした。それは戦時下に流行した国民歌謡(作詞、岡本一平)。その第1節は、

とんとん とんからりと 隣組/格子を開ければ 顔なじみ/回して頂戴 回覧板/知らせられたり 知らせたり。

 となっている。2~4節のリフレインは「教えられたり 教えたり」「助けられたり 助けたり」「纏められたり 纏めたり」となる。

 ついでにいうと、隣組は1940年に官主導で制定された大政翼賛会の末端組織であった。制度の名称は「部落会町内会等整備法」。その役割は上記リフレーンの「知らせられたり 知らせたり」などに示されている。いずれも相互監視の有力な手段であった。ついでにいえば、当時は転居は少なく、だれもが向こう三軒両隣の機微にわたる消息を知悉していた。

 「知らせられたり知らせたり」などの機能を支えるものは町内会の名簿だろう。名簿のたぐいは、同窓会名簿、学会名簿、町内会名簿など、かつては社会に溢れていた。それがゼロ年代のなかばころから消え始め、いまでは、新規に発行されるものは(更新を含めて)ほとんどない、という有様になった。

 ところが、である。近年、名簿を簡単に入手できる場所が急増している。たとえば、フェイスブック。ここでは当人の氏名と写真のみではなく、その友だちの氏名まで、しかも写真付きで見ることができる。効率はいま一つだが、スパイシーというアプリもある。また、たとえば病院や大学のサイト。ここでも職員名簿(医師名、教師名)をみることができる。こちらは野放図といってよい。いずれも雲(クラウド)というサイバー空間に入っている。

 話をもどせば、名簿の移転はプライバシーにかかわる。『オックスフォード英語辞典』によれば、初出は14世紀、その意味は「他者から、あるいは公共的な関心から抜け出す状態」(要旨)とある。

 19世紀末になり、この言葉は法律家によって法的領域にもちこまれ、その後、漠然かつ精緻な議論が展開されることになる。たとえば、電話の盗聴はプライバシー侵害か、住宅外壁の温度測定はどうか、乗用車に付けられたGPSデータはどうか、など。最近は、路上に棄てられたゴミはどうか、そこにはだれかの皮膚や髪――DNAデータを採取できる――がまざっているかも、といった議論も現れている。いずれもセンサーは公共的な場所に置かれている。家庭内ではない(だから家庭内の「粗大ゴミ」、つまり亭主は別扱い)。

 日本の個人情報保護法はどうなっているのか、とみると、「個人情報」を「個人識別符号」を含む情報と定義し、「個人識別符号」には氏名を含むと示している。たさらに「匿名加工情報」という怪しげな概念の定義も示されている。肝心の「プライバシー」という言葉であるが、法律の本文にはない。ただし、JIS(日本工業標準)には「プライバシーマーク」として現れる。

 いずれにせよ、フェイスブックなどにくっついている「雲のなかのプライバシー」も「ゴミのなかのプライバシー」と同等に扱われるようになった。

 文脈はやや外れるが、欧州では「忘れられる権利」などという定義が通説となりかけている。だが、どうだろう。忘れられるということは、その人の存在が抹消されることにもなりかねない。というのはサイバー空間で検索できない人は、いまや実空間においても存在しない、というように私たちの社会は再構成されつつあるので。とすれば、あるいは「忘れられない権利」も必要な時代になったのかもしれない。

 冒頭の課題にもどれば、社会的な弱者である後期高齢者たる私は、区にも警察にも、忘れてほしいと頼むか、忘れられないでほしい、とすがるか、その選択に迷っている。

 高崎晴夫さんの近著によれば、サイバー空間に住むユーザーには、プライバシー原理主義者、プライバシー無頓着派、プライバシー現実主義者がいるという説ありとのよし。私はといえば、主観的には現実主義者、客観的には無頓着派ということになるかな。

 「隣組の歌」はなぜか戦後になっても人気がある。それは「お笑三人組」(NHK)、「ドリフ大作戦」(フジ)の番組の元歌となり、さらに武田薬品、メガネドラッグ、サントリーのCMでも引用されたという。

【参考文献】
名和小太郎『個人データ保護』、みすず書房 (2008)
個人データ保護―イノベーションによるプライバシー像の変容
名和小太郎「ゴミのなかのプライバシー、雲のなかのプライバシー」『情報管理』、v.60, p.280-283 (2017)
高崎晴夫『プライバシーの経済学』,勁草書房 (2018)
プライバシーの経済学

林「情報法」(25)

「馬の法」か「サイバー法」か「情報法」か

  私は執筆の当初から一貫して「情報法」を対象に論じてきました。しかし、その定義は残念ながら一定ではなく、論者によってかなりの違いがあります。サイバー法、インターネット法、(電子)メディア法などの語を使用する論者もいますが、その差はあるのでしょうか? 決定的なことは言えませんが、どうやらアメリカでは「サイバー法」が一般的であるのに対して、わが国では「情報法」が好まれるようです。その理由を探っていくと、意外なことが分かってきます。

・サイバー法論争

  このテーマに関する論争として名高いのは、20世紀末にアメリカで交された、Frank Easterbrook(以下、E)とLawrence Lessigに(以下、L)による「サイバー法論争」です。Eは第7巡回区連邦控訴裁判所判事兼シカゴ・ロー・スクール客員教授で、彼が「サイバー空間と『馬の法』」(1996年)という挑戦的な論文を書いたのに対して、L(当時はスタンフォード・ロー・スクール教授)は、3年近い熟考の末「サイバー法が教えてくれるもの」という論文と、ベスト・セラーになった『コードその他のサイバースペースの法』という書物の2つの著作で対抗しました(共に1999年)。

 ここで提起され、反論にも使われたのが「サイバー法」という概念で、それは「サイバー空間という場所に適用される法」という含意を持っています。EもLも直接触れてはいませんが、伏線として、インターネットが商用化された(1994年か1995年を起点とするのが一般的です)直後の1996年にJohn Perry Barlowが書いて、EFF(Electronic Frontier Foundation)のサイトに掲載されて話題を呼んだ「サイバースペース独立宣言」があります(https://www.eff.org/ja/cyberspace-independence)。

 バーローが「サイバースペースは独立圏だ。既存の法は入るべからず」と主張したのに対して、最初にEが「サイバー法が特殊なものだと主張するのは『馬の法』が大切だと言うようなもので、既存の法が適用されるだけだ」と茶化した後で、Lが「しかしサイバー法には実空間の法とは違った側面がある」という別の視点を提供したわけです。しかし三者ともサイバーという「空間」に拘っているのは、法学ではjurisdictionといって法の適用領域が問題になることが多いので、どうしても「場所」のイメージから抜け出せないからです。

・馬の法(Law of the Horse)というネーミングの良さ

 Eは、「サイバー法は『馬の法』のようなもので、ロー・スクールで教える価値はない。馬の売買に関する法、馬に蹴られた人の補償に関する法、競馬の掛け率に関する法、競走馬の飼育に関する法などいろいろ考えられるが、どれ1つとして一般法にはなり得ない。新しく発展した概念として『法と経済学』があり、それはロー・スクールの正規の科目になったが、サイバー法にはそんな要素はない。院生には一般法を教えるべきだ」と主張しました。

  「馬の法」という表現自体は、1979年から87年までシカゴ・ロー・スクールの学科長であったCasperから借りてきたものですが、ネーミングと言い、タイミングと言い、挑戦的なEにふさわしいとも言えます。彼のパブリシティ感覚は大したものです。

 これに対してLは正面から反論するのではなく、サイバー空間に適用される法には実空間の法にはない特徴があるとし、その最大のものが「コンピュータ・コードに代表されるコードが事実上の規範力を得て、法と同じ効果を持つ」と指摘しました。ここでcodeという英語が、「技術的コード」であると同時に「法典」の意味も持っていることに注意してください。WordやPower Pointが市場を支配するようになると、ユーザはそこで使われる決め事に従うしかない、という事象は今では普通になっています。

 Lの指摘は大きな反響を呼び、サイバー法の権威者のように見られたこともありましたが、今ではハーバードに転じて腐敗や汚職の研究者になり、サイバーからは抜け出てしまいました。因みにEとLは「犬猿の仲」ではないようですが、Lの生徒が頭を撫でると予め指定した言葉を発するロボットを買ってきて、「イースターブルック」と名づけた上で、決め言葉として「efficiency」を与えたという逸話が “CODE” の中に出てきます。この逸話が示すように、Eは「法と経済学」の権威者の1人とみなされており、その学識を反映した判決を出すことでも知られています。

 しかし、それは彼に限ったことではなく、「法と経済学」を旨とする Richard Posner(第7巡回区控訴裁の先輩)、やGuido Calabresi (第2巡回区)などといった大御所に共通する特徴です。なぜ、もともとは経済学者である人たちが、連邦控訴裁判所の判事を勤めているかといえば、アメリカのロー・スクールは大学院レベルで、法学部という学部がないため、多くの院生が経済学部から入学するからです。そして、連邦控訴裁判所の判事は大統領が任命する(上院の承認は必要)ため、内部昇進ではなく中途採用が多いからです。

 ・どこに差があるのか

  このような論争から見えてくるアメリカ的発想はなんでしょうか? 実は米国の議論は、「サイバー法」というvirtual placeを前提にした議論であり、客体である情報を中心に据えた「情報法」という視点は希薄なのです。私は、この点こそが議論の混乱を招いているのではないかという疑問を払拭できないでいます。

 例を挙げてみましょう。「情報法」ではなく「サイバー法」を構想する論者が多い米国では、知的財産窃取というサイバー犯罪に対して、「知的財産を取り戻す」ことを主張する者も(必然的に)多いし、現にCommission on the Theft of American Intellectual Property (IP Commission) という組織があって、明確にその立場を採っています。中国との間の貿易戦争も辞さないという政策には、こうした発想が反映されていると思われます。

 また、わが国では個人情報保護法(私はこの法律の基本は「個人データ保護法」だと思っていますが)への過剰な反応もあって、個人データの漏えい・流出がメディアで頻繁に報じられますが、その後の窃用は「なりすまし」として区分しています。ところがアメリカでは漏えいと窃用を一体としてID theftと呼んでおり、上記のcommissionの名前もtheftとなっています。そのため「米国では情報窃盗という犯罪がある」と誤解する人もいますが、犯罪化されているのは窃用部分で、取得そのものに刑事罰を科しているのは知的財産法制だけです。

 そこで知財法を強化して刑事罰を厳罰化するベクトルが働くのですが、情報の価値はラベルに表示してある訳ではなく、売手と買手の関係性によって決まってくるので、厳罰化にも限界があると思います。つまり、サイバー法的発想ですべてを解決することはできず、「価値の不確定性」「複製による移転」と「情報流通の不可逆性」を与件とする「情報法」的な発想が必要になると考えています。結局、有体物のように完全に取り戻すことは、技術的にも法的にも不可能なのです。

・アナロジーやメタファーの限界

 しかし、サイバー法論者も、情報法論者も、共に気を付けなければならない点があります。それは、法学者が論理を組み立てるに当たって、先行事例のアナロジーやメタファーに依存する度合いが高いこと、特に新しい事象が起きた時には、その弊害が大きくなる危険を免れないことです。多くの点で、L(レッシグ)とタッグを組んでいる感のあるLemley教授(スタンフォード・ロー・スクール)は、「サイバー法」という概念化には反対しないものの、その適用には慎重であるべきだと警告しています。

 またKerr教授(ジョージ・ワシントン大学)は、「メタファーやアナロジーは有効な場合があるが、それらに過度に依存すると正しい姿が見えなくなることがある」と警告し、「物理世界のアナロジーをインターネットに適用すると破綻する」ことを率直に認めています。しかし、なお ‘any effective model for deterring computer crime must be rooted in the former rather than the latter’ と主張しています。司法省にもいたことがある彼の現実論としては評価すべきで、特に刑事法の分野では賛同する論者が多いかと思われます。