林「情報法」(25)

「馬の法」か「サイバー法」か「情報法」か

  私は執筆の当初から一貫して「情報法」を対象に論じてきました。しかし、その定義は残念ながら一定ではなく、論者によってかなりの違いがあります。サイバー法、インターネット法、(電子)メディア法などの語を使用する論者もいますが、その差はあるのでしょうか? 決定的なことは言えませんが、どうやらアメリカでは「サイバー法」が一般的であるのに対して、わが国では「情報法」が好まれるようです。その理由を探っていくと、意外なことが分かってきます。

・サイバー法論争

  このテーマに関する論争として名高いのは、20世紀末にアメリカで交された、Frank Easterbrook(以下、E)とLawrence Lessigに(以下、L)による「サイバー法論争」です。Eは第7巡回区連邦控訴裁判所判事兼シカゴ・ロー・スクール客員教授で、彼が「サイバー空間と『馬の法』」(1996年)という挑戦的な論文を書いたのに対して、L(当時はスタンフォード・ロー・スクール教授)は、3年近い熟考の末「サイバー法が教えてくれるもの」という論文と、ベスト・セラーになった『コードその他のサイバースペースの法』という書物の2つの著作で対抗しました(共に1999年)。

 ここで提起され、反論にも使われたのが「サイバー法」という概念で、それは「サイバー空間という場所に適用される法」という含意を持っています。EもLも直接触れてはいませんが、伏線として、インターネットが商用化された(1994年か1995年を起点とするのが一般的です)直後の1996年にJohn Perry Barlowが書いて、EFF(Electronic Frontier Foundation)のサイトに掲載されて話題を呼んだ「サイバースペース独立宣言」があります(https://www.eff.org/ja/cyberspace-independence)。

 バーローが「サイバースペースは独立圏だ。既存の法は入るべからず」と主張したのに対して、最初にEが「サイバー法が特殊なものだと主張するのは『馬の法』が大切だと言うようなもので、既存の法が適用されるだけだ」と茶化した後で、Lが「しかしサイバー法には実空間の法とは違った側面がある」という別の視点を提供したわけです。しかし三者ともサイバーという「空間」に拘っているのは、法学ではjurisdictionといって法の適用領域が問題になることが多いので、どうしても「場所」のイメージから抜け出せないからです。

・馬の法(Law of the Horse)というネーミングの良さ

 Eは、「サイバー法は『馬の法』のようなもので、ロー・スクールで教える価値はない。馬の売買に関する法、馬に蹴られた人の補償に関する法、競馬の掛け率に関する法、競走馬の飼育に関する法などいろいろ考えられるが、どれ1つとして一般法にはなり得ない。新しく発展した概念として『法と経済学』があり、それはロー・スクールの正規の科目になったが、サイバー法にはそんな要素はない。院生には一般法を教えるべきだ」と主張しました。

  「馬の法」という表現自体は、1979年から87年までシカゴ・ロー・スクールの学科長であったCasperから借りてきたものですが、ネーミングと言い、タイミングと言い、挑戦的なEにふさわしいとも言えます。彼のパブリシティ感覚は大したものです。

 これに対してLは正面から反論するのではなく、サイバー空間に適用される法には実空間の法にはない特徴があるとし、その最大のものが「コンピュータ・コードに代表されるコードが事実上の規範力を得て、法と同じ効果を持つ」と指摘しました。ここでcodeという英語が、「技術的コード」であると同時に「法典」の意味も持っていることに注意してください。WordやPower Pointが市場を支配するようになると、ユーザはそこで使われる決め事に従うしかない、という事象は今では普通になっています。

 Lの指摘は大きな反響を呼び、サイバー法の権威者のように見られたこともありましたが、今ではハーバードに転じて腐敗や汚職の研究者になり、サイバーからは抜け出てしまいました。因みにEとLは「犬猿の仲」ではないようですが、Lの生徒が頭を撫でると予め指定した言葉を発するロボットを買ってきて、「イースターブルック」と名づけた上で、決め言葉として「efficiency」を与えたという逸話が “CODE” の中に出てきます。この逸話が示すように、Eは「法と経済学」の権威者の1人とみなされており、その学識を反映した判決を出すことでも知られています。

 しかし、それは彼に限ったことではなく、「法と経済学」を旨とする Richard Posner(第7巡回区控訴裁の先輩)、やGuido Calabresi (第2巡回区)などといった大御所に共通する特徴です。なぜ、もともとは経済学者である人たちが、連邦控訴裁判所の判事を勤めているかといえば、アメリカのロー・スクールは大学院レベルで、法学部という学部がないため、多くの院生が経済学部から入学するからです。そして、連邦控訴裁判所の判事は大統領が任命する(上院の承認は必要)ため、内部昇進ではなく中途採用が多いからです。

 ・どこに差があるのか

  このような論争から見えてくるアメリカ的発想はなんでしょうか? 実は米国の議論は、「サイバー法」というvirtual placeを前提にした議論であり、客体である情報を中心に据えた「情報法」という視点は希薄なのです。私は、この点こそが議論の混乱を招いているのではないかという疑問を払拭できないでいます。

 例を挙げてみましょう。「情報法」ではなく「サイバー法」を構想する論者が多い米国では、知的財産窃取というサイバー犯罪に対して、「知的財産を取り戻す」ことを主張する者も(必然的に)多いし、現にCommission on the Theft of American Intellectual Property (IP Commission) という組織があって、明確にその立場を採っています。中国との間の貿易戦争も辞さないという政策には、こうした発想が反映されていると思われます。

 また、わが国では個人情報保護法(私はこの法律の基本は「個人データ保護法」だと思っていますが)への過剰な反応もあって、個人データの漏えい・流出がメディアで頻繁に報じられますが、その後の窃用は「なりすまし」として区分しています。ところがアメリカでは漏えいと窃用を一体としてID theftと呼んでおり、上記のcommissionの名前もtheftとなっています。そのため「米国では情報窃盗という犯罪がある」と誤解する人もいますが、犯罪化されているのは窃用部分で、取得そのものに刑事罰を科しているのは知的財産法制だけです。

 そこで知財法を強化して刑事罰を厳罰化するベクトルが働くのですが、情報の価値はラベルに表示してある訳ではなく、売手と買手の関係性によって決まってくるので、厳罰化にも限界があると思います。つまり、サイバー法的発想ですべてを解決することはできず、「価値の不確定性」「複製による移転」と「情報流通の不可逆性」を与件とする「情報法」的な発想が必要になると考えています。結局、有体物のように完全に取り戻すことは、技術的にも法的にも不可能なのです。

・アナロジーやメタファーの限界

 しかし、サイバー法論者も、情報法論者も、共に気を付けなければならない点があります。それは、法学者が論理を組み立てるに当たって、先行事例のアナロジーやメタファーに依存する度合いが高いこと、特に新しい事象が起きた時には、その弊害が大きくなる危険を免れないことです。多くの点で、L(レッシグ)とタッグを組んでいる感のあるLemley教授(スタンフォード・ロー・スクール)は、「サイバー法」という概念化には反対しないものの、その適用には慎重であるべきだと警告しています。

 またKerr教授(ジョージ・ワシントン大学)は、「メタファーやアナロジーは有効な場合があるが、それらに過度に依存すると正しい姿が見えなくなることがある」と警告し、「物理世界のアナロジーをインターネットに適用すると破綻する」ことを率直に認めています。しかし、なお ‘any effective model for deterring computer crime must be rooted in the former rather than the latter’ と主張しています。司法省にもいたことがある彼の現実論としては評価すべきで、特に刑事法の分野では賛同する論者が多いかと思われます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です