新サイバー閑話(23) ホモデウス⑭

いよいよ影が薄くなる「倫理」

 サイバーリテラシーがIT社会の世界観だとすれば、サイバー倫理はそこでどう生きるべきかという処世訓だと私は言ってきた。しかし「できることをあえてやらない」のが倫理の基本だとすると、サイバー倫理の旗色はきわめて悪い。いよいよ影が薄くなっているようにも思われる。

 ハラリも「いったん重要な大躍進を遂げたら、新しいテクノロジーの利用を治療目的に制限して、アップグレードへの応用を完全に禁止することは不可能」と言っている。『サピエンス全史』では「私たちが超人を生み出すのを妨げる、克服不可能な技術的障害はないように見える。主な障害は、倫理的な異議や政治的な異議であり、そのせいで人間についての研究の進展が遅れている。そして、倫理的な主張は、たとえどれほど説得力を持っていても、次の段階に進むのをあまり長く防げるとは思えない」と書いている。

 カーツワイルの本にある「ひとたびこの道を進み始めれば、テクノロジー恐怖症の人が『ここまではいいが、ここから先に行ってはいけない』ともっともらしく言えるような停止点はどこにもない.」という発言はすでに紹介した。

 ヒューマニズムにもとづいた個人主義や自由主義の根幹が崩れれば、人間の内心に焦点を当てる倫理の出番はいよいよなくなるのかもしれない。連載②で取り上げたように、コンピュータ黎明期にはジョセフ・ワイゼンバウムのような人が安易なコンピュータの利用を批判していたのだが……。

 サイバー倫理に対する疑問あるいは批判としては、「一神教の神のような絶対者が存在しないところで倫理が成立する余地はあるのか」とか、「倫理ではなく法こそが大事である。係争に倫理を持ち込むから話が混乱する」など、さまざまな意見を聞いてきた。

 しかし、法はどうしても保守的である。これだけ技術が急速に進む中では、法は事後規制にならざるを得ず、その間にも技術は進化して、結局、取り返しのつかないことになる恐れがある。

 大学で教えていたとき、強調していたのは<倫理はもろい>ということだった。私はよく、チョコレート、ゴディバの由来となった中世のイギリス南部の領主婦人、ゴディバの話をした。

 夫人の夫は冷酷で、領民から多額の税を徴収していた。夫人は「どうかして税を軽減して、領民を楽にしてあげてください」と頼むが、夫は頑として首を立てにふらない。夫人に何度もせがまれて、苦し紛れに「お前が生まれたままの姿で馬に乗って領内を一周すればまけてやってもいい」と言った。中世において女性が、しかも高貴な女性が人前で裸を見せることは死ぬよりも恥ずかしいことで、夫は「どうしてもダメだ」と言ったつもりだったが、夫人は、領民のために、裸で馬にまたがって領内を一周する決断をする。「みんなのためです」。「公益のため pro bono publico」という言葉の由来である。
 ゴディバ夫人の決断を聞いた領民たちは、だれからともなく、自宅の扉や窓という窓を全部、板で覆って、夫人の裸を決して見ないように、見ようとしても見られないようにした。当日、ゴディバ夫人は約束どおり、領内を馬にまたがって一周した。
 比喩的に言えば、これが倫理である。夫人の裸を見たものは打ち首にするという命令が下ったわけでもないし、それを禁じる法律があったわけでも、みんなで作ったルールがあったわけでもない。人びとは、自発的に決断し、それを守った。ここに、強制力をともない明文化された法とも、一定の行動基準としてのルールとも違う倫理の姿がある。

 今でも、たかが倫理、されど倫理という思いが強い。ホモ・デウスをめざす人びとからは一蹴されてしまいそうだが、まさにこういう時だからこそ、倫理を復権すべきではないだろうか(自らは倫理観の微塵もない政治家などがすぐ「道徳教育」、「終身教育」などと叫んで、自らはその埒外に起きつつ、他人を縛りつけようとするのが、倫理のもう一つのやっかいなところである。ジョージ・オーウエルの『1984年』における思考を体制順応に誘導する話法、ニュースピーク開発などの例もある)。

・ローレンス・レッシグの危惧

 連載冒頭でサイバーリテラシーの教科書の一つとしてあげたローレンス・レッシグ『コード』は、IT社会における人びとの行動を規制する4つの要因を以下のように図示している。
 ①法(Law) 制裁の脅しによって裏付けられた命令。②規範(Norms) コミュニティのメンバーがお互いに対して課す小さな、あるいは強力な制裁を通じた規範的な制約。慣習、道徳。③市場(Market) 価格を通じて制約する。④コード(アーキテクチャー、Code、Architecture)。サイバー空間の現状を決めるソフトとハード。コードにはある価値観が埋め込まれているか、ある価値観を不可能にする。

 彼はコードこそサイバー空間における見えない規制だと強調したわけだが、この図の「規範」の重要なものこそが倫理だと私は考えている。

 ところで、彼が1999年の段階でサイバー空間のあり方について記した危惧は、今の状況にもそのまま妥当する。それはハラリの危惧でもあるだろうし、私の危惧でもある。

「サイバー空間をなるべく実空間と同じにして、同じ価値観をそこに入れ込むか、あるいはサイバー空間に現実空間とは根本的にちがう価値や性質を与えるか。どちらの選択をすべきかについて、一般的な答えは出せない。でももし実空間の価値観を保存すべきだと決めるなら、その手続きを考えなければならない。そしてもし実空間とは価値観を変えることに決めたら、じゃあどういう価値観に変えるのか?」、「何もしないというのは、最低でもそれを受け入れるということだ」、「サイバー空間がどうなるかについて、いちばん大事な決断をしなきゃいけない時期にいるのに、それをするための機関も仕組みもないし、決断するという実践力もない」。

 サイバー空間のあり方よりも、いまや人間の将来そのものが問題である。そしてかつてもいまも共通するのは、その大問題に対処する方法が私たちにはわかっていないということである。

 以下のハラリの記述は興味深い。「インターネットの台頭からは、将来の世界がうかがえる。今ではサイバースペースは私たちの日常生活や経済やセキュリティにとってきわめて重要だ。それなのに、いくつかのウエブの設計から一つを選ぶという重大な選択は、それが主権や国境、プライバシー、セキュリティのような従来の政治的問題に関連しているにもかかわらず、民主的な政治プロセスを通して行われなかった。あなたはサイバースペースの形態について投票などしただろうか?」。

 もっともインターネットが一部の科学者、技術者、若者などのボランティアで営々と築き上げられていったころ、ほとんどだれもインターネットに興味を示さなかった。インターネットを支えるWWW(World Wide Web)の略称はWild Wide Westだと冗談に言われていた時代が懐かしいが、それにしてもわずか100年にも満たない間の出来事である。

 ところで林紘一郎さんによると、レッシグはすでにサイバー法の世界から足を洗ったらしい。

 まさに万物流転。あるいは、逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず。

・ホモ・デウス5原則

 私はインターネットをうまく利用しつつ、その危険から身を守り、あわせて他人を傷つけないために、主として若い人や子ども向けに、具体的な行動指針(サイバー倫理Dos&Don’tsべからず集)を作ってきた。

 生命倫理4原則というものがある。「自律的な患者の意思決定を尊重せよ」という自律尊重原則、「患者に危害を及ぼすのを避けよ」という無危害原則、「患者に利益をもたらせ」という善行原則、「利益と負担を公平に配分せよ」という正義原則からなるという。(http://www.c-mei.jp/BackNum/076r.htm)

 サイバー倫理Dos&Don’tsも中途半端な現状でこんなことを言うのは気が引けるが、ふとホモ・デウス5原則みたいなものを考えてみるのはどうだろうかと思った。単なるスローガンに終わりがちなのは認めざるを得ないけれど……。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房、原著1949)
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 旅先で書いた<ホモ・デウス>シリーズを一応終える。『ホモ・デウス』『サピエンス全史』に対する遅まきながらの応戦と言えば大げさだが、<新サイバー閑話>を2018年末に開設したのをきっかけに、サイバーリテラシーを下敷きに両書を読み解き、提起された問題を私なりに整理してみた。ご意見、ご感想をお寄せいただければ幸いである。

 

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