林「情報法」(34)

嘘の人文科学

 前3回分の記述を読み返したら、「そもそも嘘とは何か」「嘘はいかなる場合も悪なのか」「嘘が許される場合があるとすれば、どのような場合か」といった疑問が湧いてきました。この問いに答えられる学問は、哲学か社会学でしょう。私は、シセラ・ボクの ”Lying: Moral Choice in Public and Private Life”(Pantheon Books, 1978年。古田暁(訳)『嘘の人間学』TBSブリタニカ、1982年)しか思い浮かびませんので、彼女の指摘を踏まえながら考え直してみました。

・シセラ・ボク(Sissela Bok)と “Lying”

 まず著者のシセラ・ボクについて。ブックカバーにある著者紹介では、「ノーベル経済学賞受賞者ギュンナー・ミュルダールを父に、社会学者で元スウェーデン軍縮相アルバ・ミュルダールを母に持ち、夫はハーバード大学学長デレク・ボク」とあります。非の打ちどころのないサラブレッドのようです。因みに、母もこの本の刊行後の1982年に、ノーベル平和賞を受賞しました。

 彼女はもともと医学上の倫理問題の研究者で、「プラシーボ(偽薬)は受け容れられるか」といった視点から研究を続けていたようです。そして嘘の根源に関する研究を始めてすぐ、「嘘」というテーマは「哲学の常としてギリシャ時代から議論されてきたことではあるが、他のテーマに対して著しく先行研究が少ないこと」(序文から)に驚いたといいます。

 そこで彼女なりの分析を、以下のような構成で展開しています。まず「うその本性、それが人間の選択におよぼす影響、うそを評価するための基本的な方法」(同じく序文から)といった総論に当たる章として、1.「真実のすべて」の把握は可能か、2.真実さ、欺瞞、信頼、3.決してうそをついてはならないのか、4.(前3章の)諸結果を比較衡量する、の4章が置かれています。

 その後は各論に入り、5.悪意のないうそ、6.言いわけ、7.正当化、8.危機に際してのうそ、9.うそをつく者に対するうそ、10.敵に対するうそ、11.同僚と顧客を守るうそ、12.公益のためのうそ、13.欺瞞を利用した社会科学研究、14.温情的なうそ、15.病人と瀕死の人に対するうそ、といった多くのケースが検討され、16.結論、に至ります。

 こうした分析を通じて、彼女の基本的立場は「うそは無い方が良いが、必要悪の場合もある」という視点で貫かれているように思えます。倫理学者としては当然かもしれませんが、決して天才にありがちな硬直的な主張ではなく、世間の実態、とりわけ終末医療の現実を踏まえた柔軟な発想の持ち主と見受けました。第15章の末尾にある次の件が、その典型です。

 治療を必要とする人の物の見方は、それを施す人のそれとははなはだ異なる。前者は、患者にとって最も基本的問題は治療に当たる人を信頼できるかどうかにあると考える。慎重な条件付けがなされた少数の場合を除いて、あらゆる場合に正直であることを厳しく要求している。後者は欺く自由の必要性、それもときにはまったく人道的理由のために必要であると考える。両者の間のずれを埋め合わせ、信頼を回復するには、2つの視点を明るみに引き出し、例外的な事例を率直に論じることが必要なのである。

・意識しないウソと「嘘も方便」

 しかし読み終わって暫くして、ここで展開されている「うそ」が、故意の場合か、少なくとも意識的なものであることに気づきました。上述の各章のタイトルからも察しがつくように、うそをつく人が発言の状況やそれが及ぼす影響を知っている場合が大部分で、せいぜい第5章か第6章が「無意識的なうそ」に触れている程度です。

ところが、「本人が自覚しない嘘」という類型に、もっと注意を払うべきではないかと思われます。というのも、偶然テレビのインタビュー番組を見ていたら、書物を書くために4,000人以上もインタビューしたという保阪正康氏が登場して、「1:1:8の法則」を説いていたからです。言わんとするところは、インタビューに答える人のタイプは、どこまでも正直な人が1割、嘘が多い人も1割、残りの8割は「善意で自分を美化する人」だということです。

 これには、読者の皆さんも思い当る「ふし」があるのではないでしょうか。就職の面接で「さも勤勉な働き手」だという印象を与えたい、授業参観の日には「いつも良く勉強している」風に装いたい、人間ドックの検診では「日頃から健康に気を付けている」と申告してしまう、アンケート調査で知り合いの講師の評価を聞かれたら「大変良かった」に○を付ける等々。

 これらは、罪の度合いが軽いだけでなく、その後の人間関係を円滑にするという効果もあります。そのことは、多くの文学作品のテーマになっているほどで、ボク自身が引いているように、シェークスピアも次のように言っています。

「だから私は彼女に彼女も私に嘘をつく。人間の欠点として嘘で嬉しがる。」(シェークスピア、西脇順三郎(訳)「ソネット」『シェークスピア全集第8巻』筑摩書房)

 むしろ問題は、日本人は西欧人よりも、このような性向を是とする度合いが強いかどうかです。そこで、「嘘も方便」というわが国のことわざを英語でどう表現するかを、英和辞典を中心に調べてみたところ、以下のような訳がありました。The ends justify (sanctify) the means.  Circumstances may justify a lie.  It’s sometimes necessary to tell a lie in order to achieve the goal.  It’s sometimes necessary to stretch the truth. A necessary lie is harmless. 語感としては、前2者が英語的、次の2者が日本語的で、最後のものが意訳だが最も原文に近いように思えますが、いかがでしょうか?

 これは言葉の遊びのように見えるかもしれませんが、実は『嘘の人間学』の訳者である古田暁氏も、「本書の底にある西欧特有のダイコトミー(二分法)的思考が読者にどこまで理解され、また受け入れられるか、危惧の念をいだかざるをえないことが一度ならずあった。」とされています。嘘という単純そうな現象には、奥深い何かがあるようです。

・嘘が優位の時代は困りもの

 しかし、現代社会で心配すべきことは、別のところにあります。ロシアゲート事件の捜査が大詰めを迎えて、トランプ大統領の悪行が暴かれつつありますが、彼の最大の欠陥は「嘘を嘘とも思わない。気に入らないことは全部嘘だと片付ける」ことではないでしょうか? 誰もが日々目にする大統領自身が「嘘つき」だとしたら、国民が真実を追求する意欲も萎えてしまいます。

 「嘘も方便」の趣旨は、「原則的には嘘をつくべきではない」ことを前提にして、「ごく例外的に嘘の効用が評価される場合がある」というに過ぎません。この原則と例外が逆転して、「大部分は嘘だが、ごく稀に真実が混じっている」のが常態の社会では、人々は「まず疑ってかかる」ことにならざるを得ず、社会生活を営むためのコストが増大するばかりか(社会学では「信頼とは社会的複雑性の縮減メカニズムである」という説が有力です)、ギスギスした社会になってしまいます。

 ボクは、ニクソン大統領のWatergate 事件への関与に疑問を持って先の本を書いたとも聞きますが、現時点で全面改定するとすれば、どのような内容になるでしょうか? この間約40年の時代の変化と、米国の競争力と威信の低下を思わざるを得ません。

 

新サイバー閑話(15)

小林龍生氏の連載、いったん終止符

 プロジェクト欄連載の小林龍生「梅棹忠夫『情報産業論』1963/2017」が10回でいったんピリオドを打った。

 私もまた梅棹忠夫の「情報産業論」という〝珠玉のレポート〟に舌を巻いた一人である。『文明の生態史観』もそうだが、既存の学問の枠を超えて新しい現象に鋭い目を向けた彼の発想の秘密はどこにあったのだろうか。

 私は『ASAHIパソコン』時代(1989年)にインタビューしたことがあるが、彼は国立民族学博物館創設にあたって関係分野を説得するのにずいぶんエネルギーを使ったらしい。

「これから作るのは『博物館』ではなく、『博情館』だと私は言ったんです」、「文化の研究所になぜコンピュータがいるんだとよく言われました」、「そんなもの作ってもだれも見に来ないとも。だけど作れば、みんな喜んで利用する。需要が供給を呼ぶのではなく、供給が需要を呼び起こすんです。新しいものはすべてそうです」などなど。

『ASAHIパソコン』を創刊するとき、社内でよく「矢野さんはパーソナル・ユースに的を絞ったパソコンガイド誌を出すと言うけれど、そんな雑誌がどこにあるんですか。需要があるなら、どこか他社が出しているはずだ」と言われたことを思い出しながら、思わず膝を打ったものだが、思うに梅棹さんの斬新な発想は、『知的生産の技術』で紹介している「こざね法」に起因するのではないだろうか。

 話がそれた。

 小林さんは梅棹忠夫が1963年という早い時期にテレビ会社の広報誌に書いた「情報産業論」というレポートを高く評価し、それを連載開始の2017年の時点で振り返りつつ、時代をはるかに先駆けた梅棹忠夫の独創と、やはり影を落とさざるを得なかった「時代精神」について記したもので、たいへん興味深い論考になったと思う。

 本人は「平成のうちにけりをつける」という口実であっさり店じまいしてしまったけれど、編集者としては、いずれそのうちに、2019年、あるはそれ以降の時点における彼自身の情報社会論を期待している。ともかく連載ご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。

・辺境の人―挑戦する人―種蒔く人

 サイバーリテラシー研究所のウエブを「サイバー燈台」としてリニューアルしたとき、私はこれを「適時刊オンライン総合誌」にしたいと思っていた。個人でもそれなりの「メディア・プラットホーム」が作れることを立証したいという意気込みもあった。

 このためプロジェクト欄に「客員コーナー」を設けることを思いついたが、なにせ年金生活者がほそぼそと運営しているサイトだから、若い人に手伝ってもらっているメインテナンスもすべてボランティアである。原稿を頼もうにも稿料は出せない、というわけで、とりあえず旧知の小林龍生、林紘一郎、名和小太郎の3氏を口説いて始めたのが実情である。御3人がそろって快諾してくれたのをたいへん嬉しく、かつありがたく思っている。

 この3人には共通の特徴がある。

 IT社会が花開く時代の最先端で、それぞれの分野で活躍し、しかも立派な業績をあげた方々である。名和、林、小林の順でそれぞれ10歳ほど年長になるが(私は林さんとほぼ同年代である)、ともに実務の世界からしだいにアカデミズムへと軸足を移していった。未開拓な「情報」という学問分野が実務経験者の知恵を必要としたという事情もあっただろう。

 その先達はなんといっても名和小太郎さんである。

 小林さんのコラム最終回で『情報社会の弱点がわかる本』というブックレットが紹介されているが、これもまた慧眼の書である。彼は技術者として情報化社会にふれ、業界の「情報倫理綱領」策定にあたったり、情報のコンピュータ化で脚光を浴びる著作権問題で議論をリードしたり、その後国立大学法学部教授にもなった。

 私は、ユニークでどこかユーモアをたたえ、複雑なテーマをやさしく解き明かす平易な文体に大いに感心していたが、彼は「やりたいのはアカデミック講談」と語ったことがあった。現役を退いたあと「在庫一掃大セール」と銘打って『ディジタル著作権』、『情報セキュリティ』、『著作権2.0』などの大作を矢継ぎ早に刊行したのには大いに驚いた。

 名和さんが歩んだ情報化社会から高度情報社会への道を書き残してもらいたいというのが私の願いだったが、タイミングが「休筆宣言」をした後だったこともあり、体調の許す範囲で身辺雑記を寄せていただいている。

 私の目論見を超えて、精力的な論考を書いてくれているのが林紘一郎さんである。

 2017年に彼の学問の総決算ともいうべき『情報法のリーガル・マインド』を出版したこともあり、そのエキスを時局的なトピックスにふれつつ平易に解説してもらえればと、「情報法のリーガル・マインド その日その日」というタイトルを考えたが、実際は「情報法のリーガル・マインド その後」という装いとなり、堂々たる論考がすでに30回を超えている。

 最近は、彼が指摘してきた論点が現実の混乱や紛争となって顕在化しており、時局的なテーマが取り上げられることも多い。情報セキュリティ大学院大学学長として大学運営の実務に携わるほか、数多くの政府審議会委員なども頼まれている激務のなかで、情報法という新しい分野開拓に挑戦する迫力には敬服するしかない。

 その林さんもこの春にはいよいよ最終講義を行うとか。

 林さんはNTTアメリカ社社長を経てアカデミズムの世界に入った。それで経済学博士と法学博士である。取り組んだのは著作権問題であり、情報法だった。常にアグレッシブで、ローレンス・レッシグのクリエイティブ・コモンズの影に隠れてしまったとはいえ、よく似たオリジナル構想を先駆けて提案している。

 林さんが学問的にたどった道は、辺境の人→新しい学問の挑戦者、だった。変革の時代にあっては、中央はむしろ時代に取り残され、辺境から新しいものが生まれる。というわけで、彼は情報法の大家になった?

 いや、そうではあるまい。この分野はなお発展途上である。解決すべき問題は次から次へと起こっている。『情報法のリーガル・マインド』の記述からも、彼は若い研究者を育てるために「種蒔く人」になったのだと思われる。

 この「辺境の人」→「挑戦する人」→「種まく人」という道は、おそらく名和小太郎、小林龍生ご両人にも妥当するだろう。

 小林さんの実録とも言える『ユニコード戦記』、『EPUB戦記』には、ジャストシステムという一民間企業から派遣された彼が、世界を拠点とする多くの仲間たちとともに、文字コードなどの国際標準作りに挑戦する姿が描かれている。

・執筆者ただいま募集中

 最後にサイバー燈台について少し。

 当面、客員コーナーは資金的制約から、現役の人にはなかなか執筆を頼みにくい状況です。だからいまのコンセプトは「功成り名とげた人のボランティア」、最後にひと花咲かせようとする人の「土俵際の踏ん張り」といったものに限定せざるを得ません。旧友の森治郎さんに「日本国憲法の今」の短期集中連載をお願いしたのは、時局的なテーマも取り上げたいとの思いからです。

 連載でなくても、一発提言を「徳俵」というタイトルで掲載するのはどうかとも考えています。何人か声をかけたいとご尊顔を頭に浮かべつつ、遠慮が先に立って踏ん切りがつかない人もいます(^o^)いずれは、政治、経済、社会、文化とさまざまなジャンルから、若い人、女性にも筆者を広げたいと思っていますが、現状ではかなわぬ夢で終わりそうです。

 と言いつつも、自薦他薦含めて、奇特な筆者を募集しております(^o^)。

名和小太郎『著作権2.0:ウェブ時代の文化発展をめざして』(NTT出版、2010) /『情報セキュリティ:理念と歴史』(みすず書房、2005)
著作権2.0 ウェブ時代の文化発展をめざして (NTT出版ライブラリー―レゾナント) 情報セキュリティ―理念と歴史

林紘一郎『情報法のリーガル・マインド』(勁草書房、2017)/ 『セキュリティ経営: ポスト3.11の復元力』(共著、勁草書房、2011)
情報法のリーガル・マインド セキュリティ経営: ポスト3・11の復元力

小林龍生『EPUB戦記 電子書籍の国際標準化バトル』 (慶應義塾大学出版会、2016)/『ユニコード戦記 文字符号の国際標準化バトル』 (東京電機大学出版局、2011)
EPUB戦記―― 電子書籍の国際標準化バトル ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

小林「情報産業論」(10)

ひとまずの終止符

わたしは、こういう方向で、未来の外胚葉蚕業時代の経済学を構想したい。(p. 63)

先般、最終回のつもりで、原稿を矢野さんに送ったら、「なんだか尻切れとんぼだねえ」というお叱りを頂戴した。お言葉を返すようでありますが、矢野さん、梅棹の「情報産業論」そのものが尻切れとんぼなのですよ。よく言うと、壮大なオープンクエスチョンで終わっている。

梅棹のお布施理論は、その未来の経済学への補助線として語られている。そして、前回触れたように、それは歴史が未来への補助線であるという意味で、梅棹の文化人類学/民俗学への知見/懐かしさを伴った憧憬に彩られている。

であれば、梅棹が構想した外胚葉時代の経済学は、具体的にはどのようなものだったのだろうか。残念ながら、梅棹自身は、その具体的な姿を示すことなく他界した。しかし、梅棹自身が、『情報の文明学』の中でも記しているように、多くの論者が、この「情報産業論」について、様々に論じている。《情報産業》という言葉そのものが、いまだに梅棹の影響下にある。

もう一度、梅棹の「情報産業論」の大筋を振り返ってみよう。

「情報産業論」は、大きくは、3つの部分から構成されている。最初に、シンボル操作のプロフェッショナルとしての、情報業者をくくりだし、ついで、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業という形で、産業構造の変遷の中に、情報産業を位置づけ、最後に情報の価格決定メカニズム解明への方向性を、お布施理論という形で提示する。

この3つの部分のうち、もっとも多く論じられたのは、当然ながら第2の部分であり、それもアルビン・トフラーの「第三の波」との対比でその慧眼と先見性に注目した論述が多数を占めたことは、ぼくのこの一連の駄文も含め、当然のことといえば、当然のことだった。

それにひきかえ、お布施理論については、言葉そのものは広く流布したが、その内実についての深い議論が多く展開されたようには、見られない。梅棹自身の、『情報の文明学』が単行本として刊行された際、1988年2月に書き下ろした「四半世紀のながれのなかで」で振り返ったお布施理論に関わる部分を見てみると。

「さきにあげた稲葉論文では、お布施原理に対して、労働価値説の立場から、それは現象的なとらえかたにすぎず、『本質にせまろうとすると、労働市場における需給の法則が価格決定原理であることに気づくし、その価格の底にあるものとして労働力の価値を問題にせざるをえない』と論じている。またさきにあげた城塚氏も『より一般的に価値の問題として』とらえるべきであるとしている。」

と、否定的な論調を引用し、さらに、今井賢一氏の情報の価値についての論文の一部を引いて、「『このお布施の原理というのは、経済学的にみてもかなり本質をついたもの』としながら、「格」というものが一般的な市場理論になじみにくい点を論じて、『情報材の特殊性を考慮して、市場理論を再検討する必要に迫られる』としている。情報の価値および価格決定については、今後もさまざまな議論が展開しうるであろう。」と結んでいる。

世上の議論の大勢は、梅棹が構想した方向に、そのまま展開していったわけではなさそうである。

・名和小太郎<情報産業ゲートウェイ論>

こうした中で、異彩を放つのが、名和小太郎の《情報産業ゲートウェイ論》である。

名和さんは、このホームページでも健筆をふるっておられるし、なによりも、矢野さんを介して知遇を得た貴重な大先達なので、名和さんを俎上に乗せるのは、恐れ多い限りなのだが、まさに、蛮勇を奮って。

矢野さんを通して、名和さんの知遇を得たときのこと、というよりも、矢野さんと名和さんの知遇を得たのは、同じ機会だったのだけれど、そのことについては、以前、書いたことがある(『EPUB戦記』p.18)。

その後、折に触れて、矢野さんの後ろにくっついて名和さんを訪ね、お二人の談論風発を身近に拝聴する機会を得てきた。

もう10年以上も前になるだろうか、京都の佛教大学で「情報ビジネス論」と題する集中講義を担当したことがある。ぼくにとっては、単発の講演や講義を除くと、まとまった形で大学での授業を担当した最初の機会だった。

このとき、初めて、梅棹の「情報産業論」をテキストとして用いた。

迂闊なことに、このときまで、ぼくは、お布施原理が梅棹のものではなく、名和さんオリジナルのものであると勝手に思い込んでいた。

きっかけは、名和さんの名著『情報社会の弱点がわかる本』(当時のJICC出版局、今の宝島から出ていたブックレット)。96ページというブックレットでありながら、そこには名和さんの慧眼が詰め込まれている。

ぼくは、このブックレットを、ジャストシステムに入社した直後に読んでいる。そして、大いに啓発された。その折、名和さんが情報産業ゲートウェイ論への補助線として紹介された梅棹のお布施原理を、てっきり名和さんオリジナルのものだと思い込んでしまっていたのだった。

佛教大学での集中講義の準備のために、名和さんのブックレットを読み返そうとしたら、どこかに散逸してしまっていて、手元に見当たらない。名和さんに、コピーの提供を依頼したら、早速署名までして原本を一冊送ってくださった。

読んでみて、愕然とした。そして、梅棹の「情報産業論」について初めて知った。

近所のフェリス女学院大学の図書館に行って、梅棹忠夫著作集の『情報と文明』の巻を借り受け、夢中になって読んだ。

爾後、「情報産業論」は、まさに座右の書となった。

三上喜貴さんに頼まれて、長岡技術科学大学で「情報と職業」の夏期集中講義を始めた時も、矢野さんの後任として明治大学で「情報と社会」の授業の担当を始めた時も、「情報産業論」をテキストに使うことに、何のためらいもなかった。

「情報産業論」を学生とともに読み直す作業は、ぼくに、古典を読むという営為がどのようなものであるか、ということを実感させ続けている。

しかし、そもそも「情報産業論」を古典として読み直すことの、大切さとその要諦のようなものを教えてくれたのは、名和さんの『情報社会の弱点がわかる本』と、このブックレットともに送っていただいたエコノミスト誌1988年11月1日号に掲載された『ポストモダン時代に自立する?情報産業 梅棹忠夫「お布施原理を読みなおす」』ではなかったか。

もう1回分何かを書くのであれば、名和さんの「情報産業論」論以外にない、と即座に考えた。そして、今しがた、このエコノミスト誌への論考を読み直した。

この名和さんの論考そのものが、もう30年も前のものである。そして、その時点で、「情報産業論」が世に出てから、四半世紀が経過していた。

この時点での名和さんの梅棹批判は、ぼくがこのブログで書き連ねてきたことどもと、驚くほど重なっているとともに、名和さんご自身が優れた工学者であることを反映して、「要素還元論・数量還元論を奉じるシステム技術者」の立場から梅棹の有機体論的な装いを鋭く批判している。ぼく自身は、前回も書いたように、特にお布施原理の背後に、梅棹の民俗学・文化人類学的な世界観がすかして見えるように思えるのだが、名和さんは、おそらく、ぼくが感じたと同じことを、ポストモダンという言葉で指摘しているのではないか。

近代=工業化の時代を軸に、梅棹的前近代と名和さんの指摘されるポストモダンは、みごとなほどの鏡像関係にある。梅棹も名和さんも、そして、ぼくも、共に近代の超克を、情報論的世界観に託している。しかし、梅棹の「情報産業論」初出から半世紀以上、名和さんの「情報産業論論」から四半世紀たった今でも、未だ、近代が超克されたとはとても言えた状況にはない。もちろん、諸処各所に近代のほころびが見え隠れし、そのほころびが徐々に拡がっていることもまた確かなことではある。

ぼくは、このブログの一連の論考で、たびたび時代精神(ツァイトガイスト)という言葉を用いてきた。梅棹はその「情報産業論」を彼が生きた1960年代初頭の時代精神の中で書いた。名和さんは、その「情報産業論論」を、1988年というまさに世紀末の立ち入らんとする時代精神の中で読み、論じた。そして、今、ぼくは、2019年2月、平成という時代が幕を閉じようとする時代精神の中で、読んでいる。

矢野さんは、ぼくに、何を求めて、「もう一回何か書け」と求めたのだろう。前回が尻切れトンボだったからか。だがしかし、ここまで書き進めてきて、ぼくには尻切れトンボではない結論めいた言葉は、どうにも浮かんでこない。さまざまな思考の断片が、次々と浮かび上がり拡がるばかりだ。

名和さんがエコノミスト誌に寄せた論考は、梅棹の「情報産業論」が収められている「情報の文明学」が単行本として刊行されたことを契機として書かれたものだ。そして、この梅棹の単著の掉尾には、「中央公論」誌1988年3月号に掲載された『情報の考現学』が収められている。

この『情報の考現学』の「古典」と題された項のこれまた最後の部分を引いて、果てしなく続く「情報産業論」再読の作業に、ひとまずの終止符を打つこととしたい。

大気は地球をおおう普遍的な存在である。われわれは、歴史的所産としての大気を、人間個体としては、つねに新鮮なものとして呼吸する。全世界をおおう情報の体系は、歴史的に蓄積された、普遍的存在としてわれわれをとりまくが、人間個人は、つねにそれを新鮮な「空気」として呼吸するのである。こうして、古典は現在においても新鮮な意味をもつ。(p302)