名和「後期高齢者」(7)

地図を読む

 前回、私は東京地下鉄の地上出口には理解しにくい地図があると言った。それは、上が南方向の地図があるということだった。飯田橋の駅にいたっては上が東方向の地図もある。以下はその続き。

 私はいま世界の中心にいるとする。その位置は「X座標=0,Y座標=0」の原点となる。その私が「天子南面」という故事に通じていれば、自分の視線の先を、つまり南方向をY軸の正方向とするだろう。さらに私が「左上位」という哲学を信じておれば、自分の左側つまり東方向をX軸の正方向とするはずだ。この発想で私が地図を描くとすると、上方向が南、左方向が東の地図となる。この図法を天子図法と呼ぼう。

 いっぽう、臣下は北向きに整列しているはずだから、その描く地図は、天子図法を180度回転させたもの、つまり上方向が北、右方向が東の地図となる。こちらを臣下図法と呼ぼう。私たちが見慣れた地図はこれだ。臣下のほうが、天子より圧倒的に数が多い。だからか、臣下図法のほうがデファクト標準になったということだろう。これが地下鉄地上出口で戸惑う理由。

 以上、ごたごた書いたが、これって「上ル」、「下ル」、「東入る」、「西入る」などと使い分ける京都人には些事かもしれない。

 話を進める。京都の地図をみてまず当惑するのは、難読名が多いことにある。たとえば「卜味金仏町」がある。「ボクミカナブツチョウ」と読むらしい。ほかにも「化野」、「蹴上」などという面妖な地名もある。だが、難読名は京都にかぎらない。東京には「石神井」、「等々力」、「雑色」などがある。かつて東京市電には「須田チョウ」→「小川マチ」→「淡路チョウ」という路線があった。

 地名をたどるためには、漢字表現は不明であっても、その読みが分かれば十分。読みさえ正しければ、あとはスマホが引き受けてくれる。だからといって前スマホ時代が不便であったとはいえない。かつて新聞の漢字にはルビが振られていた。ルビははなたれ小僧にとって漢字の読みを習得するために絶好の教材だった。(今回は新聞に賛辞を呈します。いずれ悪口も書きます。)

 難読地名にも利点はある。難読なほどその一意性が保たれるということがある。逆に、平明な地名であるほど特定しにくくなり、その確認に手間取ったりする。たとえば、「大手町」、「中町」、「田町」などという地名は、全国にわたって存在する。

 ついでに、東京メトロの路線名についてみると、「丸の内線」、「日比谷線」、「千代田線」は、一見したのみでは、それがどこを走っているのかが不明、よいのは東西線のみ、という事実がある。この指摘をしたのはロゲルギストという物理学者の匿名グループであった。もう半世紀もまえの話ではあるが。地名にもアフォーダンスの善し悪しがある、のか、な?

【参考文献】
ロゲルギスト「道順の教え方」『新物理の散歩道:第一集』岩波書店 p.80 (1974)
新 物理の散歩道〈第1集〉 (ちくま学芸文庫)

名和「後期高齢者」(6)

地下鉄の乗換

 電車の乗降のアフォーダンスには乗換のアフォーダンスもついてまわる。ということで話題を乗換に移す。

 戦前の物理学者、寺田寅彦に「銀座アルプス」というエッセーがある。銀座についての個人的な記憶を、当時流行していた映画のモンタジュ技法を駆使して、まとめたものである。ここにいうアルプスはデパートを指す。寅彦は、その屋上の見晴らしはよいがそこへの登攀が苦労だ、とこぼしている。当時,寅彦は初老に達していた。

 この時期、私は就学前の小僧っ子ではあったが、デパートにはすでにエレベータがついていた、と覚えている。たしか日本橋高島屋には50人乗りと称する巨大エレベータがあった。当時、東京地下鉄道(現、メトロ銀座線)には「デパート巡り」という切符があり、それらのデパートの屋上には回転木馬や小動物園があったりした。これによって、小市民はディズニーランド的な夢をみることができた。

 話を現代にうつす。銀座アルプスは、地上だけではなく、地下へと拡がっている。東京都心では、地下鉄が縦横に交差しているからだ。このために拘忌高齢者(㏍)には、地下鉄の乗換という新しい難行が出現した。

 乗換といったが、そのまえに客は、降車後にまず、乗換先の路線が上を走っているのか、下を通っているのか、これを確かめ、そこへたどり着くためのエレベータやエスカレータを探さなければならない。この乗換だが、いったんは改札口を抜けなければならないこともある。これを随所に貼ってある案内板をたどりながら試みる。この複雑さは、たとえば『都営地下鉄バリアフリーガイド』をみれば知ることができる。スマホのユーザーであれば現地で誘導してもらえるのかもしれないが、私はあいにくガラケーしか使えない。

 アルプスであれば、上り下りに応じて景観を楽しむことができるが、地下ではそれもかなわない。新しい路線ほど深く、大江戸線がもっとも深いという。大江戸線は新しいためか、駅の構造も標準化、単純化されているが、いっぽう、古い路線はアドホックにできているので、双方のインターフェース、つまり接続路は乗客からみるとテンデンバラバラ。㏍は利用のつど学習しなければならない。くわえて片手に杖の姿で地中を彷徨しなければならない。

 目的地に着いた。地上に出る。おおくの場合、そこには近隣の地図が示されている。地下鉄の地上出口に置かれた地図には、往々にして、自己中心型のものがある。自己中心型とは、地図のまえに立った人を中心とし、その視線の先の方向を上、とするものである。だから、ときには上が南、右が西ということもある。このとき、土地勘のないものは一瞬立ちすくむ。ねがわくは、ぜひ足もとに東西南北を示す座標軸を刻んだ敷石を埋め込んでもらいたい。ということで、地図にもアフォーダンスがあった。

 地下鉄のアフォーダンスといえば、格好の話題がある。銀座線の初代車両の吊り手だ。「リコ式」といったらしい(グーグルで確認した)。この車両は戦後もしばらくは運用されていたから、ご存じの向きも多かろう。その吊り手は、使い手のないときには、座席上方に跳ね上がり、車内空間を明るく広くした。さらに、その吊り手の動きの自由度は拘束されていた。左右には振れるが、進行方向には揺れない。だから、ユーザーは発車や停車のときに踏ん張ることもない。しかも、つねに隣人と一定の間隔を保つように誘導される。

【参考文献】
吉村冬彦「銀座アルプス」『蒸発皿』岩波書店 p99 (1933) (吉村冬彦は寺田寅彦の筆名)
銀座アルプス (青空文庫POD(大活字版))
蒸発皿 (青空文庫POD(大活字版))

小林「情報産業論」(5)

「情報」は「商品」たり得るか

一定の紙面を情報でみたして、一定の時間内に提供すれば、その紙が『売れる』ということを発見したときに、情報産業の一種としての新聞業が成立した。
一定の時間を情報でみたして提供すれば、その『時間』が売れるということを発見したときに、情報産業の一種としての放送業が成立した。(p.45)

さて、ここからいよいよ梅棹は、情報産業の中核に切り込んでいく。課題は、ずばり、情報の価値とは何か。

今では、当然すぎるほど当然のこととして、一般に受け止められていることだが、半世紀前の日本では、《情報》が商行為の対象である《商品》たりうるか否かが、問いかけるべき問題として成立した。

後述するが、アルビン・トフラーの『第三の波』の邦訳が出版されるのは、1980年。20年近く後のことだ。梅棹が情報産業論を発表した時点では、新聞業界も、出版業会も、放送業会も、ひっくるめてC・G・クラークの第3次産業(商業、運輸業、サービス業)の分類に押し込められていた。そして、それが当然のこととして受け止められていた。

商業を含め、物を右から左に動かすだけで、何も生み出すことなく口銭を掠めとる商売。額に汗して物を作り出す農業や工業にこそ、産業の本筋がある。このころでも、そのような士農工商的価値観の残滓がまだあったと考えるのはうがち過ぎだろうか。とはいえ、梅棹の論に見え隠れする実業としての農業や工業との対比での情報産業即ち虚業という言い回しにも、このような当時の社会の価値観が色濃く反映していたように思える。そして、マスコミ即ち虚業という価値観は、ぼくが編集者を過ごした1970年から1980年ごろにも、まだ残っていた。

そのような時代にあって、複製可能な記号の列、すなわち、情報がその媒体(紙や電波)とは独立に、商品として成立することを、声高らかに宣言することには、大きな勇気が必要だったのではなかったか。情報産業という言葉が、梅棹の造語であるならば、《情報》が《商品》たりうるか否か、という問題設定そのものも、梅棹が生み出したものと考えるべきだろう。問題を発見することの困難さと重要さ。そして、その問題を言挙げする勇気。

しかし、その問題に対する答えを見出すことも、また容易なことではなかった。むしろ、この梅棹が見つけ出した設問の答えが明確な形で与えられているとは、今に至っても考え難い。

例えば、昨今世上を騒がせているマンガの海賊版サイト(正確には、海賊版を公開しているサイトへのリンク情報を集めたサイト)へのブロッキング対策問題にしても、マンガ家が創作し、出版社が販売している《商品》は、一体何なのか、その対価はどのようにして決定されるべきものなのか、という梅棹の問いかけに対する解答が、いまだに誰もが納得する形では提示されていないことが、議論を錯綜させている理由の一つであるように思われる。

情報産業論における梅棹の議論は、この個所以降、《商品》としての《情報》の価値は、どのようにして定められるべきか、という問題の核心に向かって、鋭く鏨(たがね)を打ち込んでいくことになる。