『禁断の惑星』(1956年 米)

多くの人がサンドイッチを食べる前にその写真を撮ってネットにアップする時代になり、強烈なナルシシズムを持つことが異常とは言い切れないようになった。メディアを通して自我を拡大できるようになった社会において、ナルシシズムはむしろ、自分はつまらない存在だという感覚から逃れるための当たり前の要素なのかもしれない。(マイケル・ダントニオ : 『熱狂の王 ドナルド・トランプ』)

禁断の惑星エグザビア HDニューマスター版(続・死ぬまでにこれは観ろ!) [Blu-ray]

 ども。「自分はつまらない存在だという感覚」から逃げられないkikです。サンドイッチの写真をアップしても、誰も見てくれません。ふん。

 さて、ネット上の「リア充自慢」(自我)が更に拡大していくと、人間や社会はどうなるんでしょうね。

 まあ、ふつーに考えると、「こうなりたい(こう見られたい)私」と、「現実の私」とのギャップが大きくなってくるんですかね。今でも、SNSの写真用に、友だちや恋人を代行するサービスがあるとか。…なんか哀しくなるサービスですが。 拡大するのは自我(エゴ)というより、厳密には欲動(イド)なのかもしれませんね。

 なんにせよ、現代のテクノロジーは、イドもエゴも拡大する「手段」を、日々作り続けています。そして、拡大された自我が、更にテクノロジーを進化させるという高速循環。

 それらのテクノロジーは、すごく便利なんですが、一方、人間の能力や自我(イド)を無制限に拡大し続けちゃって、本当に大丈夫なのかなあ、という不安もよぎります。

 だって、映画の中では、自我の拡大をコントロールできず、滅んじゃった種族が存在しますからね。惑星第4アルテアのクレール族がそうでした。

 クレール人は、潜在意識(欲望)を自由に具現化するという画期的テクノロジーを開発したものの、それを制御できずに怪物を生み出し、互いに殺し合って滅亡しました。

 その後、アルテアに移住した地球人も、モービアス博士とその娘以外は、謎の怪物に襲われ殺されてしまいます。映画史上最も愛されるロボット、ロビー(後に『スター・ウォーズ』でR2-D2-のモデルとなったことでも有名)ですら、その怪物には太刀打ちできませんでした。

 サイバーリテラシー三原則の一は「サイバー空間には制約がない」ですが、それは(概念的な)空間だけとは限りません。サイバー空間を構成する高度なテクノロジーは、人の欲求を、制約なく実現していきます。

 人類の果てしない欲望を実現し続けていくと、地球には、どんな怪物が生み出されるのでしょう。

 地球人の未来は分かりませんが、クレール人は滅亡しました。そして本作の最後、惑星第4アルテアそのものも、自爆しちゃいます。

監督 フレッド・マクラウド・ウィルコックス
出演 ウォルター・ピジョン レスリー・ニールセン 他

熱狂の王 ドナルド・トランプ

林「情報法」(8)

学術交流の意義

 前回速報でお伝えした、情報ネットワーク法学会での討論の成果を、今後数回に分けて考えてみましょう。まず「学術交流の意義」について紹介します。

・他人の説を理解する

 世間話のレベルでも、「ある人がこう言っている」という情報が、正しく伝播するとは限りません。「伝言ゲーム」にあるように、あるいは「故意ではない fake news」が存在するように、情報を正しく伝え正しく理解するのは、意外に難しいのです。

 学者の議論は、発信者自身が「正しく伝わり、正しく理解してもらえる」努力をしているのだから、そんな心配はないと思われるかもしれません。しかし、こちらの方は独自の概念や用語を使ったりするので、かえってややこしい面もあります。そのような障害がある割には、今回の登壇者の間(コーディネータの成原氏が全員を知っている以外は、お互いが「はじめまして」状態)では、事前の相互理解がかなり進んでいたように思われます。

 その陰には幾つかの工夫がありました。まず第1は、それぞれが書籍を出しているので、事前に読んでおくことで、相手を知ることができました。第2に、自著には必ず本人の先行研究が言及されているので、それを読むことで更に深い理解が得られました。加えて第3に、登壇者だけのメーリング・リストを作り、自己紹介や短い事前打ち合わせをすることで、打ち解けた雰囲気を作ることができました。そして第4として、このブログがある程度役立った、と言ってくださる方がいたのは、幸せなことでした。

 実は、これには成原さんと私との間の失敗体験が、生かされています。私は『情報法のリーガル・マインド』の執筆過程で、若手の研究者に分かってもらえるかどうかが気になりました。そこで成原氏と生貝直人氏に頼んで、構想の主要部分をプレゼンして反応を得ようとしました。しかし、その結論は「学者の議論を理解するためには、首尾一貫した論文か本が前提になる」ことを発見するだけに終わりました。今回の企画は、学者の間の相互理解を進めるには、「それぞれが(ほぼ同時期に)本を出し、それを肴に議論するのが一番良い」という命題を、見事に立証することになったようです。

 このことを裏読みすると、パワーポイント依存の弊害を暗示しているようにも思われます。法学の学会は他の学会と違ってパワーポイント資料が少なく(仮にあったとしても文字情報だけが多く)、それが批判もされていますが、逆にパワーポイント全盛の発表(私が授業を持っている大学院では常態)では、「それだけで分かった気持ちになるのは危険」という用心深さが求められるでしょう。「他人を理解する」とは、「自分で本を書く」に匹敵するほどの、エネルギーを要する仕事なのです。

・「何か」が共有されている

 さて、今回の登壇者の間では相互理解が進んでいるとすれば、その背景には何があるのでしょうか。多分、登壇者が何らかの共通認識を持っているはずですが、4人の共通項と言えば「日本人で男性」というくらいで、前回の写真のとおりバラバラです。年齢に至っては30代の3人と80歳に近い私との間には、半世紀近い差があるのですから、不思議というしかありません。

 その鍵は、2つ考えられます。1つは、情報ネットワーク法学会そのものが、既存の法学会に満足できない人たちが集まって作ったものだ、という誕生秘話に関係しています。不文律になっている「純粋の法学者を会長にせず、法学に関心を持つ他の分野の方にお願いする」というルールは、今も生きています。「東大法学部出身者はできるだけご遠慮願う」という(差別的)ルールは、さすがに自然消滅したようですが、当初「創立メンバーである私には適用されないのか?」と問うた時に、「林さんは東大出身者には見えないから」という答えが返ってきたことは、今も鮮明に覚えています。

 もう1つの鍵は、技術の発展がドッグ・イヤーで進む限り、「事が起きてから逐次的改善を図る」という従来の方法論では、太刀打ちできないとの理解が共通認識になりつつあることです。これはセキュリティの世界では当たり前のことですが、法学はそうではないと思っていた私が遅れていたことを、今回の研究大会で教えられました。

 中でも、最も保守的であると思われ、また「謙抑性」という言葉で、保守的であることが期待されてもいる刑法の分野で、「人工物にも倫理がある」「人工物の責任を問う」といった議論が進んでいることを知ったのは驚きでした。私たちの次の分科会は、「ロボットの利用と刑事法分野における課題」というテーマでしたが、そこでの議論は「伝統的発想の延長線上で考える」派と、「全く新しいパラダイムを追い求める」派に、分断されているかに見えました。

 しかも、新パラダイム派の源流が、1999年の Latour (邦訳は2007年『科学論の実在―パンドラの希望』産業図書)にあるらしいのは別の驚きでした。というのも、私の主張のうち「情報法は有体物の法と連続している面もあるが、不連続(断絶)の面もある」「占有できない情報については、主体と客体を峻別する法制よりも、その関係性を極める必要がある」といった構想は、既に20年近く前に提示されていたのですから。

・先駆者は必ずいるが、自分の言葉に変換するのが難しい

 学者になって痛感するのは、「こんなことを言った人はいないだろう」と思っても、必ずと言って良いほど、先行研究があることです(先行研究者は外国人の場合が多く、日本人の突出した先行者が少ないのが残念ですが)。今回私は恐る恐る「主体・客体峻別論は、そろそろ限界にきているのでは?」と問題提起したに過ぎませんが、先行者はとうの昔に「人間と機械を対立項として捉えるのは間違っている。人間の行動も機械を介してなされるのが常態であり、それが一般化すれば人間の行動様式さえ変える。つまり、人間と機械は相互浸透の関係にあるのだから、その限りで機械も道徳と無縁ではいられない」と説いていたわけです。

 Latour (とその後のVerbeekなど) を読んでいれば、「こんなことを言っても大丈夫か?」と悩む必要はなかったわけで、更に進んだ議論が展開できたかもしれません。しかし逆に、悩む必要がない分「自分の言葉で考え、かつ語る」ことができなかったかもしれません。いずれにしても私にとっては、このような事実を知ったことが、今研究大会の最大の成果と言えます。

 しかし問題は、そこから先です。帰京後すぐに関連図書を入手して読み始めましたが、これらの先行研究を十分消化し、自分の言葉で語れるようになるには、月単位ではなく年単位の月日が必要かと思われます。すると、「遅くとも80歳前には引退しよう」と考えてきた路線を変更せざるを得ないかもしれません。

 前述の登壇者だけのメーリング・リストに、「興味をかき立てられたので、私の引退時期も『自然遅延』するかもしれません」と投稿したら、複数のメンバーから「歓迎です」という返信をいただいたのは、嬉しいことに違いありませんが、家庭の状況を顧みると複雑な心境です。

『モダン・タイムス』(1936 米)

モダン・タイムス Modern Times [Blu-ray]  ども。kikです。エマ・ワトソン主演の 『ザ・サークル』 を観てきました。アメリカ本国での興行実績から、あんまり期待せずに観たんですが、なんというか、本国で酷評された理由も含め、サイバーリテラシーを考える上では教科書みたいな作品でした。いろんな意味で。

 まあ、(『ザ・サークル』の主人公のように)自分のプライバシーを常時SNSで公開していたら、精神的に追い詰められていくのは当然です。エマ・ワトソン自身、Twitterで2500万人からフォローされているというから、かなり追い詰められているんじゃないでしょうか。この作品で。

 さて、最近は「SNS疲れ」という言葉をよく耳にしますが、人間、四六時中テクノロジーに囲まれていたら疲れるに決まってます。…と分かっていても、一度入り込んだら、なかなか抜け出せないのがSNS(情報)社会の怖いところ。

 だって、社会全体がその方向に流れちゃってるし。先輩から「友だち申請」来ちゃったし。あの娘の、どーでもいいランチ写真に「いいね!」しておかないと冷たい人と思われそうだし。上司の、会ったこともないクソガキ 子ども写真に「可愛いですね!」とかコメントしておくのも仕事の内だし。フォロワー数が少ないと、友だちいない奴って思われそうだし。

 そういう流れに逆らい、あるいは立ち止まって、「自分にとって本当に大切な/必要なモノは何か」なんて考え直すのは、そう簡単なことじゃないですからね。サイバーリテラシーの実践は、案外難しそうです。

 ところが。世の中には、そうした「心理的不可能の壁」を、あっさり乗り越える人もいます。本作のチャップリンもその1人。本人はそんなこと自覚していない(という役だ)から、その右往左往はメッチャ笑えますが、同時に、逃げ場のない(と思い込みがちな)社会に、思いがけない視点を与えてくれます。ほんと、「笑い(ユーモア)」 って大事ですよね。

 機械化社会に翻弄され、時代に取り残される主人公ですが、実は誰より 「テクノロジー社会の中で、いかに人間性を維持し、いかに幸福を見いだすか」 を考え、テクノロジーに縛られる社会の滑稽さを嗤います。

 巨大な歯車に巻き込まれるチャップリン同様、僕らも(好むと好まざると)この情報社会からは逃れられません。だからこそ、それらと上手に向き合い、追い詰められる前に、自分や社会を笑い飛ばす余裕が必要なんです。

 …という意見をTwitterに書いて、エマ・ワトソンから「いいね」を貰おうと思います。わははは。

 ちなみに。本作のエンディングで、全てを失った主人公が、未来を求め、大切な人と歩き始めます。
 流れる曲は、『スマイル』です。

監督 チャーリー・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン ポーレット・ゴダード 他
作曲 チャーリー・チャップリン

Smile

小林「情報産業論」(3)

「情報産業」は、梅棹の造語 

   なんらかの情報を組織的に提供する産業を情報産業とよぶことにすれば……(p.39)

『情報産業論』の劈頭から、梅棹は「情報産業」という言葉を使っている。

じつは、この言葉、梅棹自身の造語であるらしい。

この事実を知らずに、この回の初稿を矢野さんに送った際、「情報産業という言葉の初出、朝日新聞とかのデータベースで調べられないでしょうか」などというマヌケな質問をしたら、以下のようなメールが返ってきた。

「情報産業という言葉をはじめて使ったのは梅棹忠夫だと言って間違いないでしょうね。本人が「情報産業論再説」(p.120)で「情報産業ということばは、じつはわたしの造語であります」とはっきり書いているし、同書所収の中野好夫、白根禮吉氏らの発表当時の論評記事を見ても、そういう前提で書いているように見受けられます。ご両人の所説は今回の原稿には大いに参考になりますよ。」

自らの不明を恥じた。

さらに、梅棹と「情報産業」という言葉との係わりを手繰っていくと、梅棹が情報産業という言葉を用いたのは、この『情報産業論』が、初めてではない。『情報産業論』を発表した『放送朝日』の1961年10月号のために書かれた、「放送人の誕生と成長」(原題は、「放送人、偉大なるアマチュア−−この新しい職業集団の人間学的考察」にも、下記のような記述がある。

「じつは、ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。(p.24)」

梅棹自身が書いた文庫版『情報の文明学』のこの論文の解説に、以下のような記述がある。

「『情報産業』ということばも、本項(『放送人の誕生と成長」のこと)ではじめてあらわれている。この情報産業という語は、わたしの造語である。おそらくは、この語が印刷物にあらわれたのは、このときが最初であろう。(p.17)」

梅棹が「情報産業」という言葉を造った背景には、『放送朝日』という質の高い広報誌と、そのころ勃興めざましかった民間テレビ放送局の存在があった。

ちなみに、インターネットで、「情報産業とは」と検索すると、コトバンクに、いくつもの辞書の該当個所が列挙される。

「情報の収集・加工処理・検索・提供などを業務とする産業の総称。広義には出版・新聞・放送・広告を含むが、一般的にはコンピューター関連産業をいう」(デジタル大辞泉)

「各種の資料・情報を収集整理し,より高次の加工情報として販売する産業分野。株式・商品市況,産業情報,統計,技術文献などの提供,各種コンサルタント業務,ソフトウェアの製作提供などが含まれる」(マイペディア)

「情報の生成・収集・加工・提供およびコンピューター情報システムの開発などを行う産業の総称。広くは新聞・出版・放送・広告などのサービス産業をも含める」(大辞林第3版)

どれを見ても、冒頭の梅棹の定義が源流にあることは、疑い得ない。

ついでに、手元にある「広辞苑」の初版(昭和30年5月25日発行。手元の版は、昭和39年1月15日発行の第22刷)には、「情報産業」ということばの記載はない。「情報」の語義も「事情のしらせ」としか記載されていない。梅棹が「情報産業論」を書いた時代は、「情報」という言葉自体が新たな衣をまとい始めた時代だった。前回も触れたように、先の大戦後、欧米で芽吹いたコンピューター技術、通信技術を中核とする新たな「情報」概念が、いかにも新鮮に響いていたことは想像に難くない。

このような背景を前提として、情報産業という言葉を、梅棹のように規定すれば、放送産業を初めとするいわゆるマスコミは、すべて情報産業に属するとするという梅棹の主張は、ごく自然なものと思われる。

・競馬の予想屋も歌比丘尼も

しかし、梅棹の真骨頂はこの先の目を奪われるような跳躍にこそある。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、そのような情報のさまざまの形態のものを『売る』商売は、新聞、ラジオ、テレビなどという代表的マスコミのほかに、いくらでも存在するのである。出版業はいうまでもなく、興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで、おびただしい職種が、商品としての情報をあつかっているのである。 (p.40)

それにしても。ここに例示されている情報業の具体例のなんとしなやかなことか。今になってみれば、そして、梅棹が見定めた情報産業のその後を耳目にしてきた身にすれば、興信所や旅行案内業ぐらいまでは、まあ、理解が出来る。梅棹の真骨頂は、ここの競馬や競輪の予想屋を措いたところにこそ、ある。情報が「人間と人間との間で伝達されるいっさいの記号の系列」であるならば、競馬や競輪の予想も、みごとにこの範疇におさまる。言われてみれば、納得せざるをえない自明なことを、ぼくも含めて凡庸な人間は気付かない。梅棹は、このような普段は気付くことのない、じつは自明なことがらに目をとめ、そこから自らもそして読者をも限りなく豊かな連想の世界に飛翔させる天賦の才を持っていたように思われる。

梅棹以前に、もしかしたら、情報産業ということばを使った人はいたかもしれない。しかし、梅棹以外のだれが競馬や競輪の予想屋が情報産業の一翼を担う、などと言い得ただろう。梅棹は、競馬や競輪の予想屋を情報産業人の一翼に加えることにより、その後の日本の情報産業の発展への自由で伸びやかな想像力の翼をも大きく拡げたのだった。

梅棹の想像の翼は、同時代の拡がりに留まらない。

こうかんがえるならば、このような情報を売る商売は、現代の巨大な情報産業の発達するはるか以前に、原始的な、あるいは非能率的な仕かたにおいてではあるが、いくつもの先駆形態がありえたのであった。たとえば、楽器をかなで、歌をうたいながら村むらを遍歴した中世の歌比丘尼や吟遊詩人たちも、そのような情報業の原始型であったとみることもでき……(p.40)

梅棹の手にかかると、中世の歌比丘尼までが情報業者の範疇に引き入れられてしまう。この個所を読むたびに、ぼくの頭のなかには、さまざまな連想の輪が次々と拡がって、始末に負えなくなる。連想の先に漂う羽毛の一枚。

50歳をいくつか越えたころから、歌舞伎を観るようになった。観るようになってみて、今さらながら納得したのは、歌舞伎が江戸時代にあっては、いわば、テレビの昼のワイドショーのような役割を担っていたのではないか、ということ。

今のようなメディアがあるわけでもなく、幕府による情報統制も強かった時代にあって、忠臣蔵を筆頭に、歌舞伎は大きな事件の情報を民衆に伝える役割を担っていた。

歌比丘尼や琵琶法師、西欧ではトロバトーレやミンネジンガーなどの吟遊詩人は、諸国を漫遊しながら、立ち寄った土地土地で得た情報を他の地域に伝えるメディアとしての役割を担っていた。

メディア論の論客、水越伸さんから聞いた、興味深い話を思い出した。

韓国が民政化する以前のこと。確か、光州事件の前後。韓国は民主化運動で大きく揺れ動いていた。情報統制が厳しく、韓国南部のニュースは北部に位置するソウルにはなかなか伝わってこない。そうした中で、多くの南部出身のタクシードライバーが夜を徹して故郷と首都を往来し、南部の状況をソウルに伝えたという。まさに、タクシードライバーがメディアとして情報を担ったのだ。

梅棹の歌比丘尼への言及は、読者に、このような連想の輪を拡げる強い力を持っている。

・教育も宗教も俎上に

競馬や競輪の予想屋、そして、歌比丘尼を情報業者だと断じた上で、息つく間もなく、梅棹は教育と宗教をも俎上に載せる。梅棹自身が書いているが「聖職者」たちを賭博の予想屋や歌比丘尼(ある種の売春行為も行っていた)と同列に扱うのだから傍若無人としか言いようがない。しかし、梅棹の抜かりがないのは、すかさずそこに、媒介項として占星術者や陰陽師を挿入するところだろう。

ところで。この節の議論に意義を差し挟む気持ちは微塵もないのだが、1つだけ、小さな違和感を指摘しておきたい。

宗教教団とは、神を情報源とするところの、情報伝達者の組織である。(p.41)

この「神を情報源とするところの」というところ。これでは、神の存在が前提とされている(すなわち、有神論)とも読める。情報産業としての宗教にとって重要なことは、神の存在の正否ではなく、神を「情報源」として措定する「組織」という意図で書かれたものであろう。

閑話休題。連想の羽毛をもう一枚。

ぼくは、学生時代、荒井献の謦咳に接し、新約学の片鱗に触れることが出来た。その後も、断続的に聖書学関連の書物に目を通してきた。その程度の素人の域を出ない半可通の知識だが。

マルコ、マタイ、ルカの3福音書は、共観福音書と呼ばれ、互いに共通する個所が多く存在する。永年の研究の成果として、マタイもルカも、主として、マルコともう一つ失われた福音書(Q資料と呼ばれる)、さらに、口承で伝えられてきたイエス伝承を、それぞれが想定する読者層に合わせて再構成して纏めた、ということが分かっている。

福音史家(エヴァンゲリスト)たちは、まさに、とびきりの情報業者だったと言えよう。その後の聖書を巡る神学的な文書群のみならず、仏典や、イスラム教の文書群、ユダヤ教の文書群、その他、もろもろの宗教文書が、まさに、神を「情報源」として措定する「情報を組織的に提供する」営みを続けてきた。そして、「聖職者」は、日々信徒たちを前に、このような情報の連鎖に新しい輪を付け加えている。

じつは、ここまで書いたところで、ちょっと時間が空いてしまった。何か書き足りないことがあるような気がして仕方がない。しかし、その何かがなかなか形とならない。しばらく立って、オレオレ詐欺のことが、しばしば頭に浮かぶようになった。「情報産業論」とオレオレ詐欺?

もう一度、冒頭に書いた梅棹の情報の解釈を反芻してみよう。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、……(p.40)

「情報産業とは何らかの情報を組織的に提供する産業である」何のことはない。梅棹の定義をもってすれば、そして、賭博の予想屋や歌比丘尼をも情報業者の一翼に加えたならば、オレオレ詐欺集団を情報業者の範疇に加えないのは、むしろ不自然なことと思われる。

・情報産業と情報犯罪の狭間

オレオレ詐欺集団も情報業者である、と肚を括れば、インサイダー取引や虚偽に情報を意図的に流すいわゆるフェイクニュースの発信者までをも情報業者の範疇に含めることが出来る。

このような視点で、ちょっと周りを見回すと、今の時代、悪意の情報業者の何と多いことか。梅棹が予見した情報産業の今は、同時に、情報犯罪の今でもある。

梅棹が、「情報産業論」を書いたとき、賭博の予想屋や歌比丘尼のことを頭に思い描いたとき、情報犯罪が脳裏に浮かんだか浮かばなかったか、今では知る術もない。しかし、この1962年の梅棹の文脈の中に、情報犯罪の議論を投げ込んでも、彼の論旨は微動だにしない。

サイバーリテラシーを提唱する矢野直明さんが、梅棹の「情報産業論」を称揚してやまない所以でもあろう。

林「情報法」(7) 速報

情報ネットワーク法学会分科会は盛況(速報)

 11月12日(日)に、情報ネットワーク法学会研究大会(於名古屋大学)の分科会の1つとして「IoT、ビッグデータ、AI時代の情報法の可能性と課題」という討論が行なわれ、私も参加しました。コーディネータは成原聡氏(『表現の自由とアーキテクチャ』の著者)、パネリストは松尾陽氏(『アーキテクチャと法』の編著者)、水野祐氏(『法のデザイン』の著者)と、私の3人です。

 パネリストの3人は、偶然本年2月にほぼ同時に本を出していますが(私が2月20日、他の2人は同28日)、お互いを知らないままに書いたのに、どこか発想や(今はやりの)ケミストリが似ているのではないかということで、成原さんが企画したものです。

 「思い通り」だったかどうかは分かりませんが、会場はほぼ満席、熱気でムンムンしており質問の指名争いがあり、終了後に登壇者を囲んで小さな「反省会」がありましたが、そこまで質疑が持ち越されました。また、登壇者の書籍を出した勁草書房と弘文堂の陳列デスクの前には、大勢の人が集まっていたこと(事実、私の著書は「完売」しました)から見ても、企画は成功だったと思われます。

 そのような中で、私個人にとっては、大きな変化があった1週間でした。まず11月5日の日曜日に、白内障の最新手術(両目を連続して手術し日帰り)を受け、「世界はこんなに明るく、陰影に富んでいたんだ」ということを、ほぼ50年ぶりに認識しました。さらに7日(火)には、拙著が本年度の大川出版賞を受賞するという栄誉に浴しました。

 この賞は、本サイトの運営者の矢野直明さんも、私が理論形成の上で大きな影響を受けている名和小太郎さんも受賞されているので、私も「仲間入りさせてもらった」という誇りを感じています。

 という訳で、公私両面というよりも、どちらかというと私の方が忙しい1週間でしたので、会議の模様は次回以降、追々ご報告します。

林「情報法」(6) 

「使用と利用」「フェア・ユース」「権利を専有する」という3つのキーワード

 情報ネットワーク法学会の討論(11月12日)が近づきましたので、いよいよ情報財を律する法的な基本概念を探るため、「使用と利用の区分」「フェア・ユースの意味」「権利を専有する」の3点を検討してみましょう。

・「自分で使用する」と「他人に利用させる」

 第4回の「所有から利用へ」で議論してきたところは、情報法の文脈で見ても重要な暗示を含んでいます。それは著作権法で、著作物の「使用」と「利用」という2つの概念を、明確に使い分けていることと関係しています。著作権法30条の「私的使用」と32条の「引用して利用」を比較してみてください。

 すると、著作権法で著作物を「使用」するとは、本を読む、CDを聴くといった行為、すなわち「自分で使用する」ことが分かります。他方、著作物を「利用」するとは、「引用」などに該当し誰でもできる例外(後述する「権利の制限」)を別にして、著作物を複製する、公衆送信するといった、原則として著作(権)者の許諾がなければできない行為をすること、すなわち著者(権)者から見れば「他人に利用させる」ことを意味します。したがって世間で広く使われている「著作物の使用許諾」という表現は間違いで、「利用許諾」が正しいことになります。

 このように両者を峻別した上で「使用」の概念を考え直すと、当該著作物が格納された媒体である本やCDやソフトウェア・パッケージを、購入するという事前の行為が無ければ実現できません(オンライン配信を除きます)。つまり「使用者」は通常「有体物の所有者」でもあったのです。

 著作権を含む知的財産の存在理由については、「インセンティブ論」と「自然権論」の2つの対立する見方があります。インセンティブ論とは、創作者の経済的利益を保護することで、創作活動を誘引・奨励するため、本来は誰もができる創作物を活用する行為を、立法的・政策的に制約している(「許諾権」あるいは「禁止権」)と考える理論です。知的財産制度を、国家により社会全体の利益と創作者の経済的利益のバランスを取る人工的なものと考えるもので、英米法系の諸国では、このような説明が一般的です。

 一方「自然権論」とは、創作物は作者の精神が発露したものと考え、それに対する権利は、人工的なものではなく自然的に発生する権利と考える理論です。従って原理的には、人が努力して創作した作品について、他人がこれを無断で活用するのは自然法ないし正義に反するとします。大陸法系の諸国では通説的な考えでした。

 しかし、どちらの説を採ったとしても「使用」と「利用」が区分できれば、媒体の所有者がその内容である「情報」を活用する場合と、所有者でない人が著作(権)者の許諾を得て、その内容である「情報」を活用する場合を明確に分けられるので、すっきりするように思われます。

 ところがソフトウェアのユーザ・ライセンスは、複製や公衆送信を許諾しているわけではないので、「利用許諾」ではなく「使用許諾」で、既に先の分類とは違っています。ソフトは無体財の代表格ですので、オンライン配信が一般化するにつれて、有体物との関連を重視した分類は、意味が薄れていくでしょうから、この区分が有効なのは、以下の2点についてだけと考えた方が良さそうです。

①  「使用する」は、有体物に対する権利の基本とも言えるが、情報が媒体に固定されていれば、情報財についても相当程度当てはまるようである。
②  「利用する」は、情報財に特有の要素があり、また情報を含む無体財の権利の基本とも言えそうで、有体物とは別の扱いを検討すべきである。

・「フェア・ユース」の意味するもの

 次に、フェア・ユースの規定の位置づけに注目してください。実はフェア・ユースは、二重の否定型になっているので、理解しにくいのですが、下図を元に、次のように考えれば分かりやすいと思います。まず大原則(デフォルト)が「情報の自由な流通」(Free Flow of Information = FFI)で、それに対する例外措置として、特定者にのみ利用を許す制度(図の塗りつぶした部分)が著作権などの知的財産制度であることを確認しましょう。そして、その例外として、一定の条件を満たした「公正な利用」(Fair Use of Information = FUI)の場合は、仮に著作権者の事前の承諾を得なくても「大原則に戻る」こと、つまり例外の例外として「情報の自由な流通」として許される(図において白抜きになっており、デフォルトと変わらない)、と理解すれば納得がいくかと思います。

 わが国の法制では「フェア・ユース」と呼ばず、「権利の制限」と呼んでいますが、「インセンティブを付与するために一定期間の排他的利用を認める」という著作権法の原則に対して、その「権利を(文字どおり)制限する」と考えれば、図が示すところと全く同じ構造です。このような枠組み(今風に言えば architecture)を理解することが、情報に関する権利設定を考えるための第一歩となることは、間違いないでしょう。

・「権利の専有」がもう一つの鍵

 第3のカギになるのは、第5回で説明を留保していた「権利の専有」という概念ではないかと思います。この用語は1887(明治20)年の版権条例まで遡る古い歴史を持ち(野一色勲 [2002]「特許権の本質と『専有』の用語の歴史」『知的財産法の系譜』青林書院)、他の知的財産制度と共有されています(特許法68条など)。ところが学説的には、排他的支配権であることを示す以上に特別な意味があるとは解されていない(加戸[2013]『著作権法逐条講義(六訂新版)』)、という不思議な存在です。事実、三省堂『知的財産権辞典』にも、標準的教科書の索引にも収録されていません。

 これは一体どうしたことでしょうか? 著作権は(所有権と同じ)物権の一種とされ、物権と債権を峻別するわが国(あるいは大陸法系)の法制にあっては、物権には対世的(世間一般に対する)排他性があり、それが制限されるのは例外だという大原則を貫かざるを得ません。そのような中で、例えば「複製する権利を専有する」とせず、「複製権を有する」とすれば、著作権の物権的性格が更に強くなり、物権そのもの(第4回で図示した排他性のスペクトラムの100%)になってしまい、some rights reserved が必要であっても、入り込む余地がなさそうです。それを避けるために「権利を専有する」という語を用いたということは、十分あり得るかと思います。

 しかし、このような説明をすると、かつて民法学界で議論になった「権利は占有(こちらのセンユウは、民法180条以下に規定されている一般的なものです)の対象か」という論争を蒸し返すことになるかもしれません。さらに言えば、ローマ法以来の難問といわれる「占有と所有の関係」についても、整理する必要が生ずるでしょう。実は、『情報法のリーガル・マインド』では、そこまでの深い検証をしないまま、情報については「占有権」に代わる「帰属権」がふさわしい、という提案をしました。

 ところが、気鋭の民法学者に教えを乞いに伺ったところ、「あなたが主張する帰属とは、占有と同じような状態を示すのか、所有に対応するような権利を示すのか」という基本的な質問を受けてしまいました。そこで西洋法制史の研究者である旧友に「読むべき論文は何か」と問うたところ、鷹巣信孝 [2001]「占有権とはどのような権利か(1)-(4)」『佐賀経済論集』33巻3・4号~34巻2号、を推薦されました。

 これを通読して感じたのは、「なるほど占有という概念は難しい」ということでした。先に述べた「準占有」(民法205条)に関する論考が少ないのも、無理からぬところです。しかし、一貫して「情報」という難題に向かい合ってきた私からすれば、この難題を克服しなければ道が開けないだろうことを、痛感しています。

 実は当初、5回目までの連載で、私が新たに主張する「帰属」という概念まで辿り着く予定したが、あと一歩及びませんでした。不安なまま学会発表を迎えますが、この議論の続きは、その後で。

●学校での保護者へのネット教育が重要(2016年2月発表)

内閣府「青少年のインターネット利用環境実態調査」
調査期間:2015年11月7日~12月6日
有効回答数:3442件
詳細データ:http://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h27/net-jittai/pdf/sokuhou.pdf

 内閣府では満10歳から満17歳までの青少年について、インターネットの利用環境を調査した。

 その結果、青少年の80%がインターネットを利用、そのうち利用機器は46%がスマホ、23%がゲーム機、20%がノートパソコン、18%がタブレットとなった。利用内容は、高校生ではコミュニケーションが90%、音楽試聴が82%、動画視聴が82%。中学生ではゲームが71%、動画視聴が71%、コミュニケーションが63%となった。
 この調査で面白いのは、保護者の意識調査だ。インターネットを安全・安心に使うための注意点の認知は、「出会い系や著作権等の違法情報の問題」については83%と高いが、「過度の利用の問題」59%、「電子商取引の問題」63%、「コミュニケーションの問題」71%などは低い傾向にある。安全対策では「フィルタリング」が41%程度いるが、「利用時間帯のルールを決めている」は22%ほどに過ぎない。「インターネットに関する啓発や学習の経験」は「学校配布の資料」が61%、「学校の保護者会などでの説明」が58%と、学校経由の情報入手が大半だ。これを見る限り、学校での保護者に対するネット教育が今後、重要と思われる。

 

●1歳児の4割、3歳児の6割が毎日スマホを利用(2017年2月発表)

子どもたちのインターネット利用について考える研究会「未就学児の生活習慣とインターネット利用に関する保護者意識調査」
調査期間:2016年10月21日~2016年10月24日
有効回答数:1149件
サマリー: https://www.child-safenet.jp/activity/2657/
詳細データ: https://www.child-safenet.jp/activity/2664/

 お茶の水女子大学の坂元章教授を座長とした子どもたちのインターネット利用について考える研究会では、2016年10月に「未就学児の生活習慣とインターネット利用に関する保護者意識調査」を実施した。

 その内容は、かなり早い速度で幼少の子どもたちの間にスマホやタブレットおよびインターネットが浸透しつつあることを示している。スマホなどの利用率は0歳で22%、1歳で42%、2歳で56%、3歳で60%に達している。2015年3月に総務省が同様の調査を行っているが、0歳児で10ポイント、1歳児で25ポイント、2歳児でも25ポイント高くなり、1年半で低年齢化が加速している。
 しかも、利用頻度は0~2歳児で「毎日必ず」「ほぼ毎日」を足すと、56%、3~6歳児で49%になる。乳幼児の半数が毎日スマホなどに接している状況はさらに進むだろう。使わせる理由で一番多いのが「子供の機嫌が良くなる」54%と、保護者のスマホなどに対する認識の甘さが見て取れる。機器に備え付けてある保護者管理機能(一部の機能を制限する仕組み)についても、「知らなかった」25%、「知っているが、使ってはいない」59%と、8割以上が放置状態だ。子供の見るコンテンツの一番多くが「動画を見る」44%であることを考えると、思わぬ悪影響が出る可能性が高い。