小林「情報産業論」(3)

「情報産業」は、梅棹の造語 

   なんらかの情報を組織的に提供する産業を情報産業とよぶことにすれば……(p.39)

『情報産業論』の劈頭から、梅棹は「情報産業」という言葉を使っている。

じつは、この言葉、梅棹自身の造語であるらしい。

この事実を知らずに、この回の初稿を矢野さんに送った際、「情報産業という言葉の初出、朝日新聞とかのデータベースで調べられないでしょうか」などというマヌケな質問をしたら、以下のようなメールが返ってきた。

「情報産業という言葉をはじめて使ったのは梅棹忠夫だと言って間違いないでしょうね。本人が「情報産業論再説」(p.120)で「情報産業ということばは、じつはわたしの造語であります」とはっきり書いているし、同書所収の中野好夫、白根禮吉氏らの発表当時の論評記事を見ても、そういう前提で書いているように見受けられます。ご両人の所説は今回の原稿には大いに参考になりますよ。」

自らの不明を恥じた。

さらに、梅棹と「情報産業」という言葉との係わりを手繰っていくと、梅棹が情報産業という言葉を用いたのは、この『情報産業論』が、初めてではない。『情報産業論』を発表した『放送朝日』の1961年10月号のために書かれた、「放送人の誕生と成長」(原題は、「放送人、偉大なるアマチュア−−この新しい職業集団の人間学的考察」にも、下記のような記述がある。

「じつは、ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。(p.24)」

梅棹自身が書いた文庫版『情報の文明学』のこの論文の解説に、以下のような記述がある。

「『情報産業』ということばも、本項(『放送人の誕生と成長」のこと)ではじめてあらわれている。この情報産業という語は、わたしの造語である。おそらくは、この語が印刷物にあらわれたのは、このときが最初であろう。(p.17)」

梅棹が「情報産業」という言葉を造った背景には、『放送朝日』という質の高い広報誌と、そのころ勃興めざましかった民間テレビ放送局の存在があった。

ちなみに、インターネットで、「情報産業とは」と検索すると、コトバンクに、いくつもの辞書の該当個所が列挙される。

「情報の収集・加工処理・検索・提供などを業務とする産業の総称。広義には出版・新聞・放送・広告を含むが、一般的にはコンピューター関連産業をいう」(デジタル大辞泉)

「各種の資料・情報を収集整理し,より高次の加工情報として販売する産業分野。株式・商品市況,産業情報,統計,技術文献などの提供,各種コンサルタント業務,ソフトウェアの製作提供などが含まれる」(マイペディア)

「情報の生成・収集・加工・提供およびコンピューター情報システムの開発などを行う産業の総称。広くは新聞・出版・放送・広告などのサービス産業をも含める」(大辞林第3版)

どれを見ても、冒頭の梅棹の定義が源流にあることは、疑い得ない。

ついでに、手元にある「広辞苑」の初版(昭和30年5月25日発行。手元の版は、昭和39年1月15日発行の第22刷)には、「情報産業」ということばの記載はない。「情報」の語義も「事情のしらせ」としか記載されていない。梅棹が「情報産業論」を書いた時代は、「情報」という言葉自体が新たな衣をまとい始めた時代だった。前回も触れたように、先の大戦後、欧米で芽吹いたコンピューター技術、通信技術を中核とする新たな「情報」概念が、いかにも新鮮に響いていたことは想像に難くない。

このような背景を前提として、情報産業という言葉を、梅棹のように規定すれば、放送産業を初めとするいわゆるマスコミは、すべて情報産業に属するとするという梅棹の主張は、ごく自然なものと思われる。

・競馬の予想屋も歌比丘尼も

しかし、梅棹の真骨頂はこの先の目を奪われるような跳躍にこそある。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、そのような情報のさまざまの形態のものを『売る』商売は、新聞、ラジオ、テレビなどという代表的マスコミのほかに、いくらでも存在するのである。出版業はいうまでもなく、興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで、おびただしい職種が、商品としての情報をあつかっているのである。 (p.40)

それにしても。ここに例示されている情報業の具体例のなんとしなやかなことか。今になってみれば、そして、梅棹が見定めた情報産業のその後を耳目にしてきた身にすれば、興信所や旅行案内業ぐらいまでは、まあ、理解が出来る。梅棹の真骨頂は、ここの競馬や競輪の予想屋を措いたところにこそ、ある。情報が「人間と人間との間で伝達されるいっさいの記号の系列」であるならば、競馬や競輪の予想も、みごとにこの範疇におさまる。言われてみれば、納得せざるをえない自明なことを、ぼくも含めて凡庸な人間は気付かない。梅棹は、このような普段は気付くことのない、じつは自明なことがらに目をとめ、そこから自らもそして読者をも限りなく豊かな連想の世界に飛翔させる天賦の才を持っていたように思われる。

梅棹以前に、もしかしたら、情報産業ということばを使った人はいたかもしれない。しかし、梅棹以外のだれが競馬や競輪の予想屋が情報産業の一翼を担う、などと言い得ただろう。梅棹は、競馬や競輪の予想屋を情報産業人の一翼に加えることにより、その後の日本の情報産業の発展への自由で伸びやかな想像力の翼をも大きく拡げたのだった。

梅棹の想像の翼は、同時代の拡がりに留まらない。

こうかんがえるならば、このような情報を売る商売は、現代の巨大な情報産業の発達するはるか以前に、原始的な、あるいは非能率的な仕かたにおいてではあるが、いくつもの先駆形態がありえたのであった。たとえば、楽器をかなで、歌をうたいながら村むらを遍歴した中世の歌比丘尼や吟遊詩人たちも、そのような情報業の原始型であったとみることもでき……(p.40)

梅棹の手にかかると、中世の歌比丘尼までが情報業者の範疇に引き入れられてしまう。この個所を読むたびに、ぼくの頭のなかには、さまざまな連想の輪が次々と拡がって、始末に負えなくなる。連想の先に漂う羽毛の一枚。

50歳をいくつか越えたころから、歌舞伎を観るようになった。観るようになってみて、今さらながら納得したのは、歌舞伎が江戸時代にあっては、いわば、テレビの昼のワイドショーのような役割を担っていたのではないか、ということ。

今のようなメディアがあるわけでもなく、幕府による情報統制も強かった時代にあって、忠臣蔵を筆頭に、歌舞伎は大きな事件の情報を民衆に伝える役割を担っていた。

歌比丘尼や琵琶法師、西欧ではトロバトーレやミンネジンガーなどの吟遊詩人は、諸国を漫遊しながら、立ち寄った土地土地で得た情報を他の地域に伝えるメディアとしての役割を担っていた。

メディア論の論客、水越伸さんから聞いた、興味深い話を思い出した。

韓国が民政化する以前のこと。確か、光州事件の前後。韓国は民主化運動で大きく揺れ動いていた。情報統制が厳しく、韓国南部のニュースは北部に位置するソウルにはなかなか伝わってこない。そうした中で、多くの南部出身のタクシードライバーが夜を徹して故郷と首都を往来し、南部の状況をソウルに伝えたという。まさに、タクシードライバーがメディアとして情報を担ったのだ。

梅棹の歌比丘尼への言及は、読者に、このような連想の輪を拡げる強い力を持っている。

・教育も宗教も俎上に

競馬や競輪の予想屋、そして、歌比丘尼を情報業者だと断じた上で、息つく間もなく、梅棹は教育と宗教をも俎上に載せる。梅棹自身が書いているが「聖職者」たちを賭博の予想屋や歌比丘尼(ある種の売春行為も行っていた)と同列に扱うのだから傍若無人としか言いようがない。しかし、梅棹の抜かりがないのは、すかさずそこに、媒介項として占星術者や陰陽師を挿入するところだろう。

ところで。この節の議論に意義を差し挟む気持ちは微塵もないのだが、1つだけ、小さな違和感を指摘しておきたい。

宗教教団とは、神を情報源とするところの、情報伝達者の組織である。(p.41)

この「神を情報源とするところの」というところ。これでは、神の存在が前提とされている(すなわち、有神論)とも読める。情報産業としての宗教にとって重要なことは、神の存在の正否ではなく、神を「情報源」として措定する「組織」という意図で書かれたものであろう。

閑話休題。連想の羽毛をもう一枚。

ぼくは、学生時代、荒井献の謦咳に接し、新約学の片鱗に触れることが出来た。その後も、断続的に聖書学関連の書物に目を通してきた。その程度の素人の域を出ない半可通の知識だが。

マルコ、マタイ、ルカの3福音書は、共観福音書と呼ばれ、互いに共通する個所が多く存在する。永年の研究の成果として、マタイもルカも、主として、マルコともう一つ失われた福音書(Q資料と呼ばれる)、さらに、口承で伝えられてきたイエス伝承を、それぞれが想定する読者層に合わせて再構成して纏めた、ということが分かっている。

福音史家(エヴァンゲリスト)たちは、まさに、とびきりの情報業者だったと言えよう。その後の聖書を巡る神学的な文書群のみならず、仏典や、イスラム教の文書群、ユダヤ教の文書群、その他、もろもろの宗教文書が、まさに、神を「情報源」として措定する「情報を組織的に提供する」営みを続けてきた。そして、「聖職者」は、日々信徒たちを前に、このような情報の連鎖に新しい輪を付け加えている。

じつは、ここまで書いたところで、ちょっと時間が空いてしまった。何か書き足りないことがあるような気がして仕方がない。しかし、その何かがなかなか形とならない。しばらく立って、オレオレ詐欺のことが、しばしば頭に浮かぶようになった。「情報産業論」とオレオレ詐欺?

もう一度、冒頭に書いた梅棹の情報の解釈を反芻してみよう。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、……(p.40)

「情報産業とは何らかの情報を組織的に提供する産業である」何のことはない。梅棹の定義をもってすれば、そして、賭博の予想屋や歌比丘尼をも情報業者の一翼に加えたならば、オレオレ詐欺集団を情報業者の範疇に加えないのは、むしろ不自然なことと思われる。

・情報産業と情報犯罪の狭間

オレオレ詐欺集団も情報業者である、と肚を括れば、インサイダー取引や虚偽に情報を意図的に流すいわゆるフェイクニュースの発信者までをも情報業者の範疇に含めることが出来る。

このような視点で、ちょっと周りを見回すと、今の時代、悪意の情報業者の何と多いことか。梅棹が予見した情報産業の今は、同時に、情報犯罪の今でもある。

梅棹が、「情報産業論」を書いたとき、賭博の予想屋や歌比丘尼のことを頭に思い描いたとき、情報犯罪が脳裏に浮かんだか浮かばなかったか、今では知る術もない。しかし、この1962年の梅棹の文脈の中に、情報犯罪の議論を投げ込んでも、彼の論旨は微動だにしない。

サイバーリテラシーを提唱する矢野直明さんが、梅棹の「情報産業論」を称揚してやまない所以でもあろう。

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