古藤「自然農10年」(9)

空が輝き、壱岐が見えた元日の「奇跡」

 穏やかな快晴で明けた2020年、元日はゆっくり起きて屠蘇と雑煮。賀状を買ってもいなかったのでお昼過ぎ、窓口が開いているはずの前原郵便局へ出かけた。妻の運転で唐津街道へ。その国道202号を20分余走った糸島市の中心部に本局がある。しばらく走ると妻が大声を出し始めた。空の色がとんでもなく青く澄み渡っているという。

 屠蘇酔い気分で頭を上げると、フロントガラス越しに異次元の様に透明感のある景色が広がった。遠い山の木一本一本がくっきりと見え、畑の麦、野菜、草原の緑色はしたたるように光っていた。

 糸島は西に唐津湾、東に博多湾を抱いて玄界灘に突き出た半島である。2013文字の漢字で記録された魏志倭人伝は古代から壱岐、対馬と島伝いに中国と行き来した伊都国を最多数の113文字で特筆している(森浩一『倭人伝を読みなおす』)。むかし大陸文化の玄関口だった糸島半島はいま、中国の大気汚染が海を越えていち早く流れ着く所となった。

 山は年中、霞がかかったようにぼやけ、人家も電線もない自然に囲まれた私の棚田も、年中、靄の中にある。ところが元日、その空のベールがとれ、すべてが澄み渡って間近に見えた。飛来するPM2.5は正月休みになったのか。

 郵便局は開いていなかった。興奮気味の妻は海へドライブしようという。玄界灘が見渡せる海岸へはさらに20分近くかかる。新年の北岸道路はサーフィンに興じる人や若いカップル、グループでにぎわっていた。車を止めて美しい海と水平線に目をやると、視界の西側に横たわる島影がはっきりと見え、それが壱岐であるとすぐに分かった。糸島に住み始めて10年余、こんな近さで壱岐が見えるのかと初めて知った。

 後日、福岡管区気象台に聞くと、元日の視程は30キロ、雲ほぼゼロ。糸島から35キロ以上離れた壱岐が見えた話をすると、職員は「視程は福岡市中央区からの視認です。海ではもっと見えたかもしれません」という。福岡のふだんの視程は良くて20キロ、10から15キロが多い。翌2日朝はその20キロに戻り、午後には15キロに下がったと教えてくれた。

 同じ正月、地球温暖化論はうそ、化石燃料の消費やCO2の影響というのは間違いで、地球は寒冷化に向かっているという主張に2度出会う。どちらも生真面目でよく勉強する人のメールと話だったから驚いた。県立図書館まで出かけて地球温暖化をキーワードに検索すると、国内の専門家を名乗る人たちが「騙されるな」「暴走」「狂騒曲」といったタイトルの著書で、地球温暖化のCO2原因論をさかんに非難していた。

 産業革命の前、大気中の二酸化炭素の濃度は275PPMだったが、化石燃料の使用で急カーブに上昇し、現在は400PPMを超えている。その結果、過去に例を見ない気温上昇が起こり、地球規模の異常な気候変動を引き起こしていると警告するのが地球温暖化論だ。

 しかし反対論者は、地球の大気の99%は窒素と酸素が占め、CO2の占める体積はわずか0.04%、毎年増えているといってもCO2が1~1.4PPM程度増えるに過ぎず、慌てふためく必要はないと主張している。太陽光線の強さなど他に原因がある、小氷期から回復している過程、近いうちに寒冷化する説まである。

 今年は、気候変動を抑制するため、京都議定書(1997年)を発展させたパリ協定で、参加各国が自ら定めた温室効果ガスの削減対策に取り組み始める最初の年である。しかし、トランプ米大統領は就任早々、協定の不公平を理由に離脱を表明、協定上それが可能になった昨年11月、正式に離脱を宣言した。彼も寒冷化説に乗っている。

 パリ協定は、国連の気象機関につながるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が科学的知見を集約した現状と予測報告書を根拠としている。その知見の一つを発表した米国の気象科学者レイモンド・ブラッドレー(マサチューセッツ大学特別教授)は、米国議会の族議員から届けられた詰問状をきっかけに激しい攻撃にさらされた。

 2012年に翻訳出版された同教授の『地球温暖化バッシング―懐疑論を焚きつける正体』によれば、標的になったのは「最近数十年の気温上昇は過去1000年の歴史にない」という結論だった。共和党の政治家が学者の科学知見を攻撃する異様さは、経済的痛みを伴う温室効果ガスの排出規制に対する抵抗がいかに大きいかを物語る。

 私はこの10年余、田畑で温暖化が確実に進んでいると体で感じ、増え続ける化石燃料の消費と大気汚染を心から心配もしている。棚田は世界経済や地球温暖化と否応なくつながっているのだ。しかし、温暖化対策をめぐるこうした論争の真偽や攻防に切り込んだ新聞、テレビの報道に接したことは一度もない。

 キラキラ輝いた元日から20日、亡くなった山仲間をしのぶ山登りに高校の同窓5人で出かけた。山といっても母校の校歌にでてくる福岡市東区の400メートル足らずの立花山。風もなく陽光が降りそそぐ頂上から福岡市の街並み、背振山系と博多湾が一望されたが、すべてはすっぽりともやに包まれている(写真)。わが棚田のある方向、糸島富士ともよばれる可也山もやっとわかる程度におぼろげだった。

古藤「自然農10年」(8)

川口さんの軌跡②今もすそ野を広げる川口自然農

 夜ひそかに乗船し国禁のアメリカ密航を願う侍にペリーは幕府との手前すげなくノーと断ったが、身なり貧しい青年の気迫と品格にこの国の未来は明るいと書き残した。その人、吉田松陰は5年後に獄死したが、彼の遺言が維新を動かしたとも言えるだろう。その彼が至高の精神としたのが千万人にひるまぬ「浩然の気」、そしてその反対の最もダメな精神が獄中の「講孟箚記(さっき)」にある「耘(くさぎ)らざる者」、田植え後に草取りをしない者である。

 田畑の草を放置するのはそれほど恥、怠惰の象徴であり、今も農業者の心に深く残る。耕さないだけでも白い目で見られるのに農薬、肥料を使わず、農業機械をも捨てる自然農、まして草まみれに見える田畑が周囲からいかに異様な目で見られたかは想像を超える。

 妻の病を治すため現代医学と手を切り、現代農業とも決別、自然の道を歩み始めた川口さんだったが、ことはそうすんなりとは運ばなかった。暗中模索しながら福岡方式を手掛かりに7反の田畑をすべて自然農に切り替えたのは、「谷底」の翌年1978年(昭和53年)の暮れ近く、すでに39歳になっていた。

 翌年の稲作からすべて自然農。しかし最初の年、米の実りを手にすることはまったく出来なかった。翌年も、また翌年も米は育たない。最初の1年は保存米で食いつないだが、それからは乏しい資産、田畑を売るしかない。集落農家からの容赦ない苦情がさらに追い打ちをかけた。

 田んぼが畑と異なるのは、それが水利権とセットになっているからである。田んぼは村共同体の要でもある。1軒だけが一斉散布の農薬を断り、草を生やして虫を増やせば文句を言われるのは避けられない。

 川口さんが今も貫く鉄則は異なる意見と絶対に論争しないことである。正しいと思う道を自ら歩むことに徹する。集落の人たちにもひたすら頭を下げて謝り通した。そんな彼にとって最もつらかったのは老母の哀願だったのではないか。米が実らぬことより周囲からまったく孤立することに耐えられない母親の涙にも黙って耐えた。種類も多く、育て方も様々に異なる野菜すべてが普通に育つまでには10年の歳月が必要だった。

 その間の苦労を彼が語ることはほとんどない。自然農を集大成した2014年(平成24年)の著作『自然農にいのち宿りて』(創森社)には4ページにわたる詳細な年表が添えられているが、自然農に切り替えてからの10年間は空白である。

・息づく漢方を学ぶまなざし

 その田畑は次第に世間の注目を集めるようになり、増え続ける見学者に日にちを決めた見学会、さらに熱心な人のための宿泊勉強会を開く「自然農学びの場」も誕生した。川口さんが自然農の取り組みすべてを語り、教え始める1988年(昭和63年)からやっと年表の記載が再開される。

 そんな見学者の一人が県境のすぐ外にある広い休耕田を提供してくれることになり、1991年(平成3年)、川口自然農の中心拠点ともいえる赤目自然農塾が開かれ、自然農の実践者が全国から集まる1泊2日の集会も毎年開かれるようになった。赤目自然農塾はその後、周辺の休耕地を借り増ししてさらに広がったが、田畑を分け合って自然農を学ぶ参加者はスタート時で約200人、スタッフは50人だった。

糸島で自然農を教え始めた川口さん
(後列左から4人目、その右隣りが松尾靖子さん)

 地元だけでなく請われれば全国どこへでも出かけ、集まる人に自然農の考え方と実技を惜しみなく教える川口さん。松尾靖子さんたちの頼みで春と秋の年2回、糸島に出かけ、私にもつながる福岡自然農塾が始められたのは赤目が開かれた翌年である。そのころ、現代医療に見放され川口さんの元へやって来る人が年々増え、数十人になっていた。

 川口さんは妻の病気、自分の体や子どもの病いを治すために漢方の処方をするようになったが、その彼を頼って人びとが次々と相談を求めてやって来る。医者ではないから治療は出来ない。しかし、「それならともに漢方を学びいっしょに体を治す勉強をしましょう」と漢方勉強会が始まった。

 普通の医療でも医師と患者の信頼は欠かせない。人はそれぞれ異なる命の強さや体質を持つ。その日々変化する脈や形、色、におい、人が発するすべての状態を判断して薬草を調合する漢方処方は、相談であっても病を持つ人との信頼、協力が格別に大事である。川口さんが相談を受ける人は多い時には同時に60人から70人にものぼった。自然農の話の休憩時間に公衆電話で患者さんと会話を交わす川口さんの姿もしばしば見られたという。

 種もみを直播する福岡方式ではうまくいかず、苗床で苗を育てて1本ずつ植える田植え方式にたどり着くのに3年かかった。川口自然農は、習った年から初心者もコメの豊作が可能だし、野菜もすぐにうまく育てられるようになる。それが、今なお全国に広がり続ける理由である。同時にコインの両面の様に、漢方を勉強するまなざしで命の営みを深く観察するから、今も深化を続けている。

 他の自然農とまったく異なる川口自然農がここにある。

 

古藤「自然農10年」(7)

川口さんの軌跡①漢方を独学し、妻子を救う

 父親が早く死に、長男として懸命に働いて婚期も遅れ、36歳で結婚できたとする。新妻はその年に身ごもったが、同時に子宮筋腫と診断され、子宮を摘出しなければ子どもどころか妻の命も危ないと医師に宣告されたら、あなたはどんな選択をするだろうか。

 いま自然農を世に広める川口由一さんも元は普通の農家。その彼がどうしようもない窮地に立たされたのは、農薬、化学肥料を多用する田畑を耕し続けて20年目。農薬で自分の体も壊れ、病院通いに希望を失った末にたどり着いた鍼灸治療に、腫れて水が溜まる体を預けているときだった。

 先ずは妻子を守らねばならない。いくつも病院を変えたが、摘出手術しない限り奥さんは死にますよと医者が口をそろえた。現代医学に見放されたような妻と自分。その「何とも言えない、谷底に落ちたような」絶望から、川口さんは普通の農業とも現代医学とも離れる人生を歩み始めことになったのである。

 川口家は代々の小作農で農地解放の戦後も7反の田畑で暮らしていた。年の瀬まぢかな寒いある晩、山仕事から帰った父親は風呂で心臓発作を起こしあっけなく死んだ。働き通しの体が限界を超えていたのだろう。由一少年はまだ小学6年生。祖母と彼を頭に子ども5人の暮らしが39歳の母親ひとりの肩にかかった。そして川口少年は中学校を卒業するとすぐ一家の柱として農業を継いだ。

 川口さんが唯一の楽しみにしたのが美術で、絵画教室の縁で結婚したのは1976年(昭和51年)。有吉佐和子の小説「複合汚染」が朝日新聞に連載され、福岡正信『自然農・わら一本の革命』が出版された翌年である。農薬の怖さと自然農を知った川口さんが、自然農こそ自分が進む道との思いを募らせていた時に「谷底」に突き落とされた。

 頼ったのは自分の体を預ける鍼灸師だった。何とか妻を治してほしいと懇願する川口さんに鍼灸師が返した言葉は「未熟な自分に治す力はありません。しかし、いま勉強を続けている漢方にはその病を治す力が間違いなくあります」という助言だった。

 そうか、それなら自分でやるしかない。愛媛県伊予市の自然農先駆者、福岡正信氏の方式を手掛かりに自然農を模索しながら、漢方の本を買い集めて独学する川口さんの猛烈な人生が始まった。

 といっても、漢方は卑弥呼の時代の少し前、中国後漢の官僚で医師であった張仲景がそれまでの医学書を集大成した医書を原典とする。元は漢字だけの白文だから素人に歯が立つものではない。江戸時代から現在に至る漢方医たちの解説書で何とかたどるのが精いっぱいだった。

・最善を尽くせば助けてもらえる

 その解説書を手あたり次第に読み進む中で川口さんの心に湧き起こったのが「子宮の摘出手術はしない。なんとかなる」という決意だった。妻の体とそのお腹の子、自然農の田畑で見守るいのち、それら全ては大いなる自然の巡りに生かされており、その力がすべてを助けてくれているという強い覚醒だったという。「どうしたら何とかなるかは分からない。しかし、何とかなる。最善を尽くせば助けてもらえる」。

 その結果、年老いた助産婦さんの老練の助けがあったにせよ、川口さんは医者が口をそろえて警告した大出血をまぬがれて母体を守り、無事に長女を得た。お産後、妻の筋腫はさらに大きくなったが、川口さんの懸命の漢方処方で3年目には子宮筋腫もきれいに消えた。

 その後、長男と次男も生まれ、3人の子どもはみな結婚、いまは孫が2人、あわせて10人の家族である。

 「なんの知識も技量もなく、根拠もまるでないのに何故そんな決断ができたか、不思議ですねえ…」。2か月ごとに開き65回目になった2019年11月の奈良漢方勉強会で川口さんは、人ごとのように語った。「奥さんも、そんな命にかかわる選択をどうして受け入れたのでしょうか」と尋ねられ、「妻は痛い手術を受けるのがいやだったのかなあ。私の決心の強さを信頼してくれたんですかねえ」と目を宙に浮かせながら答えた。

  こうして妻の窮地は脱したが、農薬で普通の農業には耐えられなくなった自分の体を治し、自然農を完成させるには、さらに険しい道が続く。「何とかなる」というより、「何とかする」という力強い思いに支えられてのことだった。(冒頭の写真は川口自然農を紹介する最新版の本)

古藤「自然農10年」(6)

中村哲医師が歩んだ道は「自然農」の道

春にはチョウが群れ飛び、命溢れる自然農(撮影・西松宏)

 女は広島県といっても岡山県、鳥取県境に近い谷間の貧しい村から、男は四国・松山近郊の蜜柑山から、時代に流され、村を追われるようにして石炭荷役で活気づく関門、洞海湾にたどり着いた。最下層の人間が生きるには力仕事しかない。夫婦となった2人は懸命に働いた。誠実に筋を通す生き方が次第に信望を集めて、1906 (明治39)年、若松港で石炭積み出しの荷役作業に労務を提供する人入れ家業の一家「玉井組」を構えた。

 男は27歳の玉井金五郎、寄り添う妻は4歳下のマン。この2人が、2019年12月4日、アフガンの農業用水路工事に向かう道で暗殺された中村哲医師の祖父母である。

 明治末から昭和初めにかけての若松は、吉田磯吉親分に歯向かえば命の危険もある暴力が支配する街だった。磯吉は石炭を運ぶ川船の一船頭から衆院議員まで上り詰めたひとかどの人物と金五郎は敬意を払ったが、その身内の子分たちは、意に添わぬものを匕首と刀で襲い、劇場に放火することもいとわなかった。

 その磯吉親分と心ならずも対立することになった金五郎は、日本刀を振るう徒党に襲われ5日間、死線をさまよう目にもあったが、医師も驚嘆する強靭な生命力で蘇り、石炭荷役で生計を立てる労働者の貧しい生活を守り通した。死線をさまよう夫の命を救おうと毎朝お百度を踏んだマンのお腹にいた長男、勝則が後年、小説「糞尿譚」で芥川賞をとり、中国戦線の従軍記「麦と兵隊」などでベストセラー作家となる火野葦平である。哲医師にとっては母の兄、伯父にあたる。

 葦平は戦後、金五郎夫婦の波乱の生涯をすべて実名でたどった小説「花と龍」を読売新聞に連載した。「火野葦平選集」第5巻に収録された際の後書に、「正しい者は最後には勝つ」が口癖だった父親は、富や権力におもねらない素朴な正義感を抱いて一生を終わった、と書いている。

 彼は父親を生涯大事にし、その人間性を引き継いだ。小説「花と龍」の中には、金五郎の人柄に引き寄せられ暴力世界の中で誠実に生きた哲医師の父親、中村勉もやはり実名で登場する。

 中村勉は第1回普通選挙を迎えた若松市議会へ玉井派の候補として政友会から立った。民政党代議士である磯吉に従う吉田陣営は供応、恐喝の激しい選挙戦で17人の民政党候補を全員当選させる一方、玉井派は金五郎らが滑り込みで議席を守るのが精いっぱい。勉の落選は「有能の士を落としてしもうた。惨敗じゃ」と金五郎を深く嘆かせた。

 勉は金五郎の3女秀子と結婚。長女に続いて長男として1946年に生まれたのが哲医師である。金五郎は世話好きで子煩悩な好々爺として最晩年を生きたというから、孫の哲を膝であやすこともあっただろう。

 後年、医師となった哲は、ただ人の病を診察しその病に対して必要な治療を施すという普通の医者ではなかった。病を持つに至った人の命を見つめ、どうしたらその命を元気に生かすことができるのかを考えた。砂漠化し農業を失っていくアフガン農民にとって、病気の治療だけでは気休めの効果でしかなかったからだ。

 井戸を掘り、用水路を掘りめぐらして、収穫を手にできる暮らしがあってこそ初めて人々の命を治すことができる。万人に賞賛される功績も、彼にしてみればごく単純にして当然の行動だったのろう。そこには、祖父母が起こした「玉井組」の貧しい人々の命と暮らしを守りたいという精神が、地下水のように流れているように思える。

 富める者、強いものが権力につながり、貧しいもの弱いものに理不尽を強いる現実。その不合理への怒りを内に秘めて人の道を踏み外さないように生きる。それは自然農が目指す生き方でもある。

 自然農の提唱者、川口由一は独学で漢方を学び自分や家族の病と闘い、自らの命を大事にするように全ての命を大切にする「命」至上主義者でもある。誠実な医療から農業を救う道に進んだ中村哲、農業をひたすら見つめて人の命を救う漢方にたどり着いた川口由一。2人は、人として正道を歩もうとする同じ情熱を原点として重なっているように見える。

 次回はその川口由一の自然農とは何か、どのように漢方治療に歩んだのかをたどってみたい(敬称略)。

古藤「自然農10年」(5)

稲刈りに遠方から一族集い収穫祭

 新天皇の即位に伴い皇居で行われた大嘗祭(だいじょうさい)が話題になったが、新穀を神にささげて五穀豊穣や国家安寧を祈る毎年の行事、新嘗祭(にいなめさい)が今は勤労感謝の祝日。11月23日、地域の神社でも収穫へのおごそかな感謝がささげられる。

 我が棚田の稲刈りも、真新しい鎌を使い、晴天の日を選んで朝露が消えてから始めた。株元を左手で握りしめ、右手に持った手鎌の刃先を地面近くの稲株に当てて一気に引き切る。サクッと小気味よい音がなんとも良い。しかも周りは黄金色の実り、心の底からうれしさが湧いてくる。

 古来、漢詩は、腹を手でうち足踏み鳴らす鼓腹(こふく)撃壌(げきじょう)と喜びをうたったが、今年は孫娘たち5人家族がやって来て初めての稲刈りを体験したので、夫婦2人暮らしの我が家も大いに賑わった。

 稲刈りの前は竹の切り出しが一苦労。細めの竹を杭にして太い数メートルの竹を横棹にして持ち上げる。運動場の鉄棒を竹で作ると思えばよい。刈り取った稲束をこれに掛けて天日干しする。娘一家がやって来る文化の日の3連休までに杭100本余、横棹10本余を軽トラに積んで棚田に運びこんだ。

 水田は離ればなれの3か所にある。自然農に出会った時、松尾靖子さんからそれぞれ広さ0.5畝(50㎡)の田と畑を貸してもらったことは既に紹介した。米と野菜の育て方はこの田畑で4年繰り返して学んだ。靖子さんの死がきっかけで米の自給を思い立ち、休耕田になっていた5反(5,000㎡)の棚田を見つけて借りた。田畑の規模は一気に50倍になったのだが、規模の拡大は意外に簡単。覚えた要領で作業の量を増やせばすむからだ。同時に新規就農者の申請もして、農業委員会と糸島市に認められた。

 この時、自宅近くで耕作放棄地になっていた0.5反(500㎡)の田んぼも借りた。棚田だけでは新規就農に必要な条件5反にわずか足りなかったためだ。だから現在、水田は3か所の計2反。鍬、手鎌だけの自然農ではこの広さが限界だ。それでも600坪、1,200畳だからやはり広い。

 稲刈りには1年前の稲わらも欠かせない。保存した昨年の稲わらで、刈り取った稲を束ねる。ワラ3、4本で稲束を括くる作業は指が痛くなったりワラがぷつんと切れたりで最初は難しかった。適度に湿らせて切れないようにし、今では10秒くらいで1束が括れる。

 娘家族の稲刈り体験は結局、お弁当を囲んだお昼が中心で(写真)、実際に稲刈りを手伝ったのは娘婿と中学2年の長男だけ。娘と2人の孫娘は、妻の指導でもっぱらサツマイモ掘りに興じた。男組の体験でこの日夕方前までに終わらせた稲刈りは棚田の隅っこ30畳分ほど。それでも娘一家は軽トラの荷台で林道を走って大興奮するなど、自然を満喫して芋や米のお土産を積んだワゴン車で賑やかに大阪へ帰っていった。

・米からパンに変わる食生活 

 娘は家庭用の精米機を買って、私が送る玄米を1回分ずつ精米し孫たちも喜んで食べてくれるが、その消費量は少ない。一家の朝食は毎日パン、パスタの夕食も多いようだ。共働き夫婦なので朝は家事に追われ、ご飯とみそ汁の朝食は敬遠される。農水省の資料をネットで検索してみても、国民1人当たりの米の消費量はこの50年で半減した、とあった。

 別のグラフを目にした時はもっと驚いた。2人以上世帯の家計調査で2010年から2013年にかけて米とパンへの出費が拮抗し、2014年から折れ線グラフが交差してパン購入代の方が多くなる。そのグラフの形は、専業主婦の家族数が次第に減って共働き夫婦の家族数に追い抜かれるグラフの交差とまったく同形だった。

 専業主婦が減るにつれてパンへの支出が増え、共働き家族の方が多くなった2014年以降はパンへの支出が米を追い抜いた国の現状を示していた。朝6時前には起きて台所、洗濯作業をすませ、孫娘と保育園へ駆け出すように家を出る娘の日常が正にグラフの形、数字として現れていた。2,000年、米に馴染んだ日本人の食は急激に変貌しつつある。

×  ×  ×

 私たち夫婦には娘の下に2人まだ結婚しない息子がいる。長男は山形、次男は東京、大阪の娘ともども大学への進学で家を離れたままだ。都会に就職や進学で子供が出て行き、教育費の見返りもないまま後継者のない限界集落の家族状況と構図的には同じである。

 しかし、山村支援で住むことになった尾花沢でスイカ農家として根付いた長男が娘家族と同じ日に帰郷、彼らが帰った後も1週間滞在して稲刈りすべてを手伝ってくれた。その長男が明日は帰るという前日、たまたま出張だという次男も帰郷して1夜だけ合流。次男のワインで思わぬ親子4人の収穫祭となった。それもこれも老後農業と稲刈りの恵み、ありがたく感謝するばかりである。

古藤「自然農10年」(4)

自然農の環境はあまりに過酷

 松尾靖子さんが遺した自然農の営農を継いだ山﨑雅弘さん(35、糸島市在住)は年中休みがない。月、木の出荷日はとくに忙しく早朝から畑へ。冬へ向かう今の季節は間引き菜が中心でカブや白菜、ダイコン、ニンジンなど。風味豊かで喜ばれるが摘むのに2、3時間かかる。自宅に持ち帰って納屋で形を整え、計量して郵パックにする。秤は小から大まで5種類。午後3時までには郵便局に持ち込まねばならない。

 包装に使うのは朝日の古新聞、親戚の販売店からもらう。梱包もスーパーの空箱、食品や飲料水用を使い、匂いが心配な洗剤や薬系の箱は避ける。お客が負担する送料も上がった。縦横高さの長さ合計が80センチの段ボール箱にして最も安い荷造りにする。段ボール紙の手書き名札を苗用ケースに入れて床に並べ、顧客ごとの仕分けするやり方などすべて靖子さんを踏襲している。

 毎週2,000円、2,500円の箱詰めを送るお客が中心。店頭野菜の倍近い値決めだが、月80箱を出荷した最盛時でも年間売り上げは200万円を超える程度。品質に自信と誇りを持つ自然農だが、多品種でも少量で、農協ともつながらない零細な経営だ。

 山﨑家では、がんと分かった一人暮らしの義母の世話と半年後の死別、まだ4歳の次男の育児に加えて、7歳の長男が入学直後から学校に馴染めず不登校になる状況も重なって十分な出荷が出来ず、この2年間は売上額が半分近くに落ちてしまった。今、契約する顧客数は20余人である。

 雅弘さんと妻のエリカさんは高校生からの同級生。自然な流れで一緒になった。雅弘さんがデザイン会社で毎日、広告やポスターをパソコンで作る生活に行き詰まりを感じ、取材で訪ねた靖子さんの輝く笑顔と自然農の世界に惹かれて研修生になった。服飾の仕事とノルマで同じように疲れていたエリカさんも抵抗なく180度の人生転換を共に選んだ。

 種まきから苗づくり、出荷まで靖子さんのすべての作業を1年間、働きながら学んだ研修。週1日の休日だけで、無給である。2人とも実家は農家ではないから、畑や家の基盤もゼロ。自立に必要な納屋付きの農家を購入する資金はすべて雅弘さんの両親に頼った。そして靖子さんの死で畑7反(2,100坪)の半分を受け継ぐことになったわけだ。

 靖子さんの夫、重明さんは、自然農がまだ奇人扱いされた頃、靖子さんと集落との間で苦労したせいか、今も自然農には近づかず、別の田んぼで無農薬の米づくりだけを続けている。しかし、靖子さんの葬式後、遺された畑と顧客への出荷を山﨑さんらに引き継がせるためすぐに動いた。地代は無料、希望する間は使ってよいという無償提供だった。

 28歳でゼロからの農業を学び、7年目にはいった雅弘さん。現実は厳しいが畑に立つ生活は生きている実感と喜びがあり、永続可能な農業はこれしかないという誇りがある。顧客からのメールにある感謝の言葉を喜び、月数万円の実質収入は楽ではないが、暮らし方に不満はない。農薬や機械を使う農業に変えるくらいなら農業をやめて勤め人になった方がまだよい、と話した。

畑の山﨑雅弘さん。冬前の苗植えは少しも遅らせられない

 もう一人、靖子さんの畑を継いで自然農の営農をする元研修生は2度の取材に応じてくれたが、その後、今回は記事にすることをやめてほしいと電話で伝えてきた。丁寧な言葉づかいと敬語を省かない、いつも通りの話し方であった。両親の支えもあり、生活保護の受給にも満たない実質収入で営農を続けているが、改善するめども立たない今を紹介されるのは断りたい、続けないこともありうるからということであった。

 フランス、イタリアなど西欧諸国は高い自給率を保ち、人の命を支える農業が尊重されている。割高でも無農薬や品質の良い農産物を選ぶ客の映像を目にすることも多い。ひるがえって日本はどうか。効率優先と利益を追求する市場経済が農業にも押し寄せ、農産物の価格は農業者の事情にお構いなく相場が決める。

 山﨑さんは農業者と認定されていない。靖子さんの営農の畑が昔、ミカン畑を開墾したもので書類上の地目が林野のままであるという理由だ。農業者でない山﨑さんは、だから1坪の農地を購入することもできない。私が最良と信じる自然農を取り巻く環境はあまりに過酷である。

古藤「自然農10年」(3)

実りの秋を次々と襲う台風

 東海、関東から東北まで百人に迫る死者・行方不明者を出す甚大な被害となった台風19号は「サイバー燈台」へ送ろうとした私の原稿も吹き飛ばした(というわけで、今回は台風と農業の話である)。千葉県を中心に大被害を与えた台風15号が三浦半島に上陸した日から1か月後の10月9日、私は吉野彰氏のノーベル賞受賞より台湾の南、北緯20度線近くの洋上にあった台風19号の進路に気を取られていた。

 九州もうかがうコースに見え、中心気圧は何と916hPa、最大瞬間風速は70メートルに達するという圧倒的な巨大さに怯えていた。しかし、そのころから急に進路が西寄りから東寄りへ変わり、15号とほとんど同じコースへ北上することが次第にはっきりしてきた。台風15号は上陸の時、960hPa、直径も半分以下の小型だったが、最大風速40メートルで千葉県を中心に大被害をもたらした。

 大停電の陰に隠れがちだったが、農水被害は367億円、東日本大震災の被害額を上回ったと、9月26日に千葉県が発表している(産経新聞)。ハウスや水田などほとんどは農業被害だったから、19号の動きは他人事と思えずニュースを見続けた。伊豆半島に上陸した10月12日午後7時ごろ、中心気圧はまだ960hPa、恐れたのは実りの秋を直撃する風のことばかりで、まさかあれほどの雨量と広範囲な洪水になろうとは少しも予想できなかった。

 千曲川、利根川、阿武隈川…7県で52に及んだ河川の氾濫。日常を唐突に襲い情け容赦なく人命を奪い、家や生活の場を破壊した台風。呆然としている被災者の心情を思うといたたまれない気持ちになるが、その悲しみ、怒りを持っていく先がない。そして、その泥水の下にどれほどの田畑が広がっていることであろうか。

 昔から「ナミダヲナガシ オロオロアルキ」しかない農業者の声がすぐにニュースとなることは少ない。事態が少し収まるまで被害の全容がつかめないこともあろうが、倒れた稲や野菜、落下した果実を前に今、農業者は肉親を失った人たちと同じようにただじっとうつむいているだけであろう。

 九州沖から日本海へ抜けた台風17号の被害は19号に比べるとスケールが余りに小さい。9月22日午後8時ごろ玄界灘を通過した時、中心気圧は980hPaだった。とはいえ、最大瞬間風速は40㍍を超え、私の棚田は進行速度と風速が重なる東側で、15号における房総半島の鋸南町に似た位置に当たっていたのでかなり心配した。

 棚田へ向かう県道近くにある神功皇后ゆかりの宇美八幡宮で、幹回り7メートル、高さ26メートルのご神木(イチイガシ)が根こそぎ倒れ、沿岸部一帯で家屋や電柱の被害、倒木が相次いだが、幸いにも棚田の稲はお辞儀をしただけで倒れなかった。背振山系が風を弱める衝立の働きをしてくれたのかもしれない。

 お米は「つくった」と言ってはならない。幸運にも災害を免れ自然の力で作ってもらったのだから「とれた」と言わなければならない。ありがたくも台風被害を免れて稲田は黄金色をまし、今年も順調にとれそうである。野菜の方は、種まきから幼児、大人へ育つよう除草や間引きなど手を加え続けるから「育てた」感覚もある。しかし、この夏のトウガンは玉ねぎの後に苗を植えただけで田の作業に追われ放置同然だった。

 台風19号の進路を気にしながら腰の高さにのびた雑草を手刈りしている時、ゴロゴロころがっているのが見つかった。数キロが5個、最後に見つけたのは重さ7.2キロと9.9キロのでかさ。育てたとはいえず育っていた。お裾分けした人たちから笑顔をもらって老後農業の励みになった。自然は涙と喜びを脈絡なく運んでくる。

×    ×    ×    ×
 

 自然農に私をつないでくれた松尾靖子さんは2012年5月28日午前6時半、眠るように亡くなった。57歳。後に残った自然農の畑のそばで、彼女が好きだったエゴノキが可憐な美しい花をいっぱいに咲かせていた(撮影・西松宏)。次回は、彼女から研修生として自然農を学び、残された畑で営農を引き継いだ二人の青年のいまを紹介したい。

古藤「自然農10年」(2)

古都奈良に自然農の聖地を訪ねる

 田畑は耕さず、農薬、肥料なしで米や野菜を見事に育てる―――世の常識をひっくり返す自然農の指導者、川口由一(よしかず)さんに初めて会ったのは2010年(平成22年)秋、奈良県桜井市の彼の田畑を見学し、近くの市民会館で勉強会をする2泊3日の「妙なる畑の会 全国実践者の集い」の会場でだった。

 自然農1年生の私は妻と物見遊山のドライブ旅行といった気分で参加した。宿は思い思いの分宿で私たちは県境を少し超えた三重県名張市のホテルにした。じつは2年前、同じホテルに泊まって伊賀上野に住む新聞社時代の先輩を訪ね、それが思いがけずもわが余生を自然農に導かれるきっかけになった。先輩夫婦は、古い農家と田畑を買って老後の農業生活を始めており、その夫人は川口さんの最も古いお弟子さんの1人だったのである。

 卑弥呼の墓説もある箸墓古墳や三輪山が近くに見える川口さんの田は黄金色に実っていた。肥料もなしに育った稲穂のすごさを、当時は見る目もなく眺めた。畑は草原に見えたが、大豆は驚くほどの鈴なりだった。座学をする市民会館は会社時代に見たことがない服装の人たちであふれていた。野良着もあれば草履ばきもある。手製の布袋やリュック、長靴に籠をかつぐ人もいる。

 宗教学者の山折哲雄氏、考古学が趣味という俳優の刈谷俊介さんらがゲストに招かれていた。川口さんの田んぼの1枚から整然と並ぶ大型建物の遺構が発掘され、卑弥呼の宮殿ではないかと大ニュースになっていた。川口さんは小柄で一見しょぼい老人という印象だった。次の年の第20回全国集会は糸島で、運営すべてを「福岡自然農塾」に任せることを決めて散会した。

 福岡自然農塾は、川口さんを糸島に招いて大きな拠点に育てた数人の農園、農塾の総称である。代表は「松国自然農学びの場」の代表も兼ねる松尾靖子さん。彼女の「ほのぼの農園」が直販する野菜の味にほれ込んだ福岡日航ホテルの料理長が彼女の野菜で8000円のコースメニューを作ったことが話題になった。福岡自然農塾にとっても活動20年の節目となる全国集会、メンバーは気合を入れて準備に入った。

・糸島の第20回全国集会に200人参加

熱っぽく語る川口由一さん(2011年、唐津市のホテルで)

 翌年11月18日からの全国集会は、北は宮城県から南は鹿児島県まで200人余が参加した。唐津の名勝、虹ノ松原のホテルを会場に、泊まりきれない人は隣の少し上等のホテルに分宿して2泊3日、うちベテラン実践者約60人はもう1泊した。夕食後も連日10時半終了という濃密な学習会だった。借り集めた9台のマイクロバスで見学の田畑とホテルの間を運んだ。私は、松国自然農学びの場の実践指導者、村山直通さんの下でスタッフ手伝いに加わった。

 参加者は、家業の農業を自然農で継ぐことにしたごく少数と、農地を買ったり借りたりした転職組や勤めながらの本格実践者が中心メンバーで、営農は少なく、多くは自給自足をめざす。2014年現在で61人が川口さんの著書に一覧表で紹介されている。彼らをリーダーに、都市から農業をしたいとやって来る人、食の安全や子どもの体質改善を願う母親などが集まっている。

 座学で初めて間近に見た川口さんは、しょぼいどころか芸術家のように服装を整え、長い頭をふわふわの頭髪でつつみ、仙人のような風貌だった。「大宇宙を生み、私たちの命も生み出した自然。その本源の力によって森羅万象が廻らされています。自然農はその力に応じ、従い、最後は任せる農業です」。時々瞑目しながら語る。「農業者が悪から離れ、美しく正しい生き方をしなければ、健康な命を持った野菜が育たないのです」とも。最後に「田畑や命をよく見て正しく応じないと作物を損ね、作る人も損ねることになります」とさりげなくつけ加えた。

 後年、私は川口さんの言葉の重さをかみしめることになる。

 福岡自然農塾にとっても20年の活動を記念する全国集会だったが、開会式はあいにくの冷たい雨。風にあおられる雨具の帽子を押さえながら松尾靖子さんが川口さんのすぐ横で歓迎のあいさつに立った。「私たちはいま地球に生きています。みなさん、元気ですか」と力いっぱいマイクを突き出したが、この時彼女は重い病状にあった。前年の集会では元気はつらつの登壇者だったのに、その後間もなくがんが見つかり田畑から遠ざかっていた。

 学びの田んぼに立つのは半年ぶり。代表の役を十分果たせなかったことを詫び最後に「これまで20年間、自然農に導いて下さってほんとにありがとうございました」と川口さんに向かって深々と頭を下げた靖子さんは、その半年後、この世を去った。ふっと消えるような別れだった。

 川口さんの自然農に感動し誠実に全力で田畑に立った人は、がんと分かった後も摘出手術、放射線、抗がん剤の治療は受けず自然療法などに徹していたと聞いた。先輩の夫人と靖子さんは川口教室のいわば1回生同士で大の仲良しでもあった。

 ふっくらと生きているような死に顔を思い出すたび、彼女の自然農に殉じるような余りに潔い亡くなり方に残念な思いがしてならない。靖子さんの命への応じ方は正しかったのか、川口さんの教えの言葉と重なって、今も私の心の中に堂々巡りをしている。

古藤「自然農10年」(1)

命あふれる棚田、私の花粉症も消えた

 今年の猛暑は山すその私の棚田にも容赦なく押し寄せたが、お盆が過ぎて急に秋の気配がただようになった。モズがけたたましく鳴き、朝露を含んだ畦道は秋の虫が元気に跳ねる。青々と繁る稲をかき分けて進むと、舞い上がる羽虫を食べるのか、アキアカネが空いっぱいに群れ飛び、私の後を追う。

 農薬を使わない田畑は元気な命にあふれている。自然農に出会って10年、メタボ気味だった体重は十数キロ軽くなり、足腰は強くなった。基準を超えていたコレステロール、尿酸値も現役時代がうその様におさまり、飲み薬と目薬が手放せなかった花粉症まですっかり消えた。

 畑にした棚田では、里芋が雨に恵まれて今年はよく育った。初めて安納芋を植えたサツマイモ畑は畑一杯に葉が広がる。タマネギ、ジャガイモは春に1年分を収穫、お米は自給以上で余分は「健康玄米」として売っている。トマト、キュウリ、ナスなど毎日の食材は、たいてい庭の畑でまかなえる。

 自然農の米や野菜は、健康な命の味と香りがする。養殖と天然の魚の違いが分かる人は同じように自然農の味の違いが分かるだろう。ナスは小さく傷があっても身がしまって甘い。タマネギは、おいしいだけでなく軒下につるすと腐らずに1年、保存できる。こうした命の力あふれる実りを手にできただけでなく、思いもしていなかった大きな恩恵があった。

 一つは、カエルやミミズ、ムカデまでも可愛いと眺める目になったことだ。田畑の生き物は食べたり食べられたり、いつも懸命に生きている。その強さ、はかなさ、ひた向きさは人の命と変わるところがない。ブヨやアブは人を刺しに飛んでくるが、ムカデは頭に這い上がって来た時も逃げるのに必死で刺すことはない。私はひたすら逃げるムカデの額に流れる脂汗を想像することが出来る。

 周辺の森に住むカラスは、しゃがんで畑の手入れをしていると様子をのぞきにやって来る。夕方は、いろいろ声音を変えて林の中で会話を交わし、雨の気配が近づくと静まって休む。キツツキが小気味よく木をたたき、フクロウは夕方が近づくと間のびした声で教えてくれる。

 だから一日、人がやって来ない棚田で孤独を感じることはない。すべての命と一緒に大自然に包まれ、生かされている実感が、やすらぎと安心を与えてくれる。命のあるかぎり自然農で暮らすことにした選択は間違っていなかった。今、少しも迷い、不安がない。充足感を持って余生を暮らせていることが、何よりも大きなもう一つの恩恵である。

・土地を耕さず、農薬も使わない

 それに使った農具は鍬、スコップ、手鎌のわずか3つ。自然農は、のちに詳しく説明するように、肥料を使わないばかりか、土地も耕さない。中古で購入した軽トラックに草刈り機とこの3つを積めば道具はすべてすむ。自然農が耕すことをやめた恩恵はとてつもなく大きいのだ。農耕が文化となって1万年ともいわれる人類史で、大逆転の革命ではなかろうか。耕さず、農薬、肥料を使わなくても自然が豊かな恵みをもたらすのは、ただ野山を見るだけで十分である。

 山と同じように耕さない畑は、刈った草や生き物の排泄物、死骸が積み重なり、おびただしい微生物の働きで自然に豊かになる。田畑を繰り返して耕す現代農業は、固くやせた土にして大量の化学肥料が必要になり、病気がふえて農薬も欠かせない悪循環に陥っているのではないか。大型農機を作るために投入される全エネルギーを考えれば壮大な無駄だと思われる。

 政治家は永続可能な農業や国民を豊かにする国土づくりに興味を示さず、儲かる農業、自らの票につながる農政に走る。農学部の研究も利益を生むバイオテクノロジーの分野が脚光を浴び、本来の田畑の研究は脇に追いやられている。私の様な老人初心者が、いとも簡単に大きな恵みと健康を手にできた自然農は、こうした日本農業の現状に鋭い問いを突き付けているように思えてならない。