古藤「自然農10年」(7)

川口さんの軌跡①漢方を独学し、妻子を救う

 父親が早く死に、長男として懸命に働いて婚期も遅れ、36歳で結婚できたとする。新妻はその年に身ごもったが、同時に子宮筋腫と診断され、子宮を摘出しなければ子どもどころか妻の命も危ないと医師に宣告されたら、あなたはどんな選択をするだろうか。

 いま自然農を世に広める川口由一さんも元は普通の農家。その彼がどうしようもない窮地に立たされたのは、農薬、化学肥料を多用する田畑を耕し続けて20年目。農薬で自分の体も壊れ、病院通いに希望を失った末にたどり着いた鍼灸治療に、腫れて水が溜まる体を預けているときだった。

 先ずは妻子を守らねばならない。いくつも病院を変えたが、摘出手術しない限り奥さんは死にますよと医者が口をそろえた。現代医学に見放されたような妻と自分。その「何とも言えない、谷底に落ちたような」絶望から、川口さんは普通の農業とも現代医学とも離れる人生を歩み始めことになったのである。

 川口家は代々の小作農で農地解放の戦後も7反の田畑で暮らしていた。年の瀬まぢかな寒いある晩、山仕事から帰った父親は風呂で心臓発作を起こしあっけなく死んだ。働き通しの体が限界を超えていたのだろう。由一少年はまだ小学6年生。祖母と彼を頭に子ども5人の暮らしが39歳の母親ひとりの肩にかかった。そして川口少年は中学校を卒業するとすぐ一家の柱として農業を継いだ。

 川口さんが唯一の楽しみにしたのが美術で、絵画教室の縁で結婚したのは1976年(昭和51年)。有吉佐和子の小説「複合汚染」が朝日新聞に連載され、福岡正信『自然農・わら一本の革命』が出版された翌年である。農薬の怖さと自然農を知った川口さんが、自然農こそ自分が進む道との思いを募らせていた時に「谷底」に突き落とされた。

 頼ったのは自分の体を預ける鍼灸師だった。何とか妻を治してほしいと懇願する川口さんに鍼灸師が返した言葉は「未熟な自分に治す力はありません。しかし、いま勉強を続けている漢方にはその病を治す力が間違いなくあります」という助言だった。

 そうか、それなら自分でやるしかない。愛媛県伊予市の自然農先駆者、福岡正信氏の方式を手掛かりに自然農を模索しながら、漢方の本を買い集めて独学する川口さんの猛烈な人生が始まった。

 といっても、漢方は卑弥呼の時代の少し前、中国後漢の官僚で医師であった張仲景がそれまでの医学書を集大成した医書を原典とする。元は漢字だけの白文だから素人に歯が立つものではない。江戸時代から現在に至る漢方医たちの解説書で何とかたどるのが精いっぱいだった。

・最善を尽くせば助けてもらえる

 その解説書を手あたり次第に読み進む中で川口さんの心に湧き起こったのが「子宮の摘出手術はしない。なんとかなる」という決意だった。妻の体とそのお腹の子、自然農の田畑で見守るいのち、それら全ては大いなる自然の巡りに生かされており、その力がすべてを助けてくれているという強い覚醒だったという。「どうしたら何とかなるかは分からない。しかし、何とかなる。最善を尽くせば助けてもらえる」。

 その結果、年老いた助産婦さんの老練の助けがあったにせよ、川口さんは医者が口をそろえて警告した大出血をまぬがれて母体を守り、無事に長女を得た。お産後、妻の筋腫はさらに大きくなったが、川口さんの懸命の漢方処方で3年目には子宮筋腫もきれいに消えた。

 その後、長男と次男も生まれ、3人の子どもはみな結婚、いまは孫が2人、あわせて10人の家族である。

 「なんの知識も技量もなく、根拠もまるでないのに何故そんな決断ができたか、不思議ですねえ…」。2か月ごとに開き65回目になった2019年11月の奈良漢方勉強会で川口さんは、人ごとのように語った。「奥さんも、そんな命にかかわる選択をどうして受け入れたのでしょうか」と尋ねられ、「妻は痛い手術を受けるのがいやだったのかなあ。私の決心の強さを信頼してくれたんですかねえ」と目を宙に浮かせながら答えた。

  こうして妻の窮地は脱したが、農薬で普通の農業には耐えられなくなった自分の体を治し、自然農を完成させるには、さらに険しい道が続く。「何とかなる」というより、「何とかする」という力強い思いに支えられてのことだった。(冒頭の写真は川口自然農を紹介する最新版の本)

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