新サイバー閑話(16) ホモ・デウス➆

アンジェリーナ・ジョリーの決断

ウィキペディアから

 ハラリは本書で、実際には乳癌を発症していなかったが、母親が乳癌で早死にするなど家系的にがんになる恐れを抱いていた米女優、アンジェリーナ・ジョリーが、現段階では何の異常もない両乳房をあえて切除する決断をした事例を特筆している。

 彼女は2013年5月に米紙ニューヨーク・タイムズに「私の選択」と題する記事を投稿した。

 それによると、母親をはじめ親族で乳癌で死亡した人が多く、彼女自身もいつ乳癌になるのか心配する日々を送っていた。そこで遺伝子検査を受けたところ、遺伝子に危険な変異を抱えていることがわかった。この変異を持っている女性は乳癌になる確率が87%あるという。そこで彼女は、いまはなお健康な自分の両乳房をあえて切除する手術に踏み切った。その後に人工乳房整形を施している。

 以前なら、その危険を恐れながらも家系からくる「運命」と〝諦め〟、それがわが身に起こらないことを念じ、できるだけの養生をするしかなかった。ところが現代医学は彼女の遺伝子変異を計測することができる。乳癌になる確率87%。

 さて、そのときあなたならどうするだろうか。

 アンジェリーナ・ジョリーは医学的データを信じ、それに賭けた。すでに子育てをひととおり終えていたという事情もあっただろうが、ふつうの人にはなかなかできない「決断」である。

 しかも彼女は、同じような状況下の他の女性たちの参考のためだとして、そのことを公表した(ちなみに彼女は、最初の調査ですでに黄信号だった卵巣と卵管についても、複数の炎症マーカーの数値が上昇したとして、おそらく本書執筆後の2015年に切除手術を受けている)。

 この事例をハラリは、以下の2点において注目した。

 1つは、彼女が自分のDNAの声を聴いたということである。著者はこう書いている。「ジョリーは自分の人生にまつわるこれほど重要な決定を下さなければならなくなったとき、大海原を見下ろす山の頂上に登って、波間に沈む太陽を眺め、自分の心の奥底の気持ちと接触しようとはしなかった。その代わり、自分の遺伝子に耳を傾けた」。

 さらにこうも言っている。「人々が自分のDNAとしだいに緊密な関係を育むにつれて、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になり、本物の内なる声は途絶え、やかましい遺伝子の群れが残るだけかもしれない」。

 医学が進歩すればするほど、人びとは運命に従うことをやめ、提示される医学的データを信じ、そのもとに自らの決断をするようになるだろう、というのが著者の予測である。

「あなたも自分の健康にかかわる重要な決定を、アンジェリーナ・ジョリーとまったく同じ形で下す可能性は、きわめて高い」。

 医学は長い間、ごくふつうの風邪から伝染病、手ごわいがんに至るまで、人びとの病気を治癒すること、あるいは通常人より劣った身体機能、いわゆるハンディキャップを克服する技術として発達してきた。それは人びとの福音でもあった。

 ところが治療のために開発された技術は、当然、通常以上の能力を求める身体機能増強にも利用されることになる。著者はバイアグラの効用や整形美容の普及などを例示しているが、治療と増強の間に明確な線を引くことは難しい。しかも医学はどんどん進歩し、人々は内心の声に従うことをやめつつある。

 これがいずれは「ホモ・デウス」が誕生するだろうという予測の底に横たわる著者の怜悧な認識である。

・新しい階級の誕生

 もう1つは、アンジェリーナ・ジョリーが受けた遺伝子検査および切除手術の費用である。遺伝子検査だけで3000ドル以上かかったという。切除手術や予後などの費用はさらに高額なものになったはずである。

 3000ドルは「1日当たりの稼ぎが1ドル未満の人が10億人、1ドルから2ドルの人がさらに15億人いる世界での話だ」。かくして先端医療の恩恵に預かれる層とそれがかなわない層では、格差がどんどん広がる。その結果として、サピエンスとホモ・デウスという新たな階級が成立するだろうと著者は言う。

「豊かな人々は、歴史を通して社会的優越や政治的優越の恩恵にあずかってきたが、彼らを貧しい人々と隔てるような巨大な生物学的格差はなかった。……。ところが将来は、アップグレードされた上流階級と、社会の残りの人々との間に、身体的能力と認知的能力の本物の格差が生じるかもしれない」、「もし誰かが(通常人の)基準を下回ったら、その人を『他の誰とも同じ』になるのを助けるのが医師の仕事だった。それに対して、健康な人をアップグレーとするのはエリート主義の仕事だ」、「21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。……。21世紀には進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ」。

 アンジェリーナ・ジョリーの例を一つの試金石と考えているわけである。

「とはいえ、パニックを起こす必要はない。少なくとも、今すぐには。……。ホモ・サピエンスは一歩一歩自分をアップグレードし、その過程でロボットやコンピュータと一体化して行き、ついにある日、私たちの子孫が過去を振り返ると、……、(これまでの)種類の動物でなくなっていることに気づくということになるだろう」。そう言われて、安心していていいいのかどうか……。

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