林「情報法」(17)

Inforg である法人の刑事責任と免責

 前回に続いて「法人の刑事責任」を取り上げますが、今回はその理論づけを含めて、主として英米法的な視点から論じます。この分野はわが国の学界でも議論が深まり、川崎友己『企業の刑事責任』(2004年、成文堂)や、樋口亮介『法人処罰と刑法理論』(2009年、東京大学出版会)といった良書が現れたので、それらに依拠して最近の動きを紹介します。

 ・代位責任説と同一視説

 「なぜ法人が刑事責任を負うのか?」という基本的疑問に対して、「代位責任説」と「同一視説」という2つの違った見方がありました。前者は、民法の「監督責任」と同じ発想で、本来自然人のみが違法行為の主体であり、法人は当該個人を適切に選任し監督する義務を怠ったとして、「代位責任」のみを負うものと捉えます。一方後者は、法人そのものが違法行為の主体になり得る(「法人の犯罪」という概念を想定し得る)と捉えますので、結果として「自然人と法人を同一視する」立場になります。

 法人の犯罪理論の長い歴史を突き詰めると、この両説の対立だったといえますが、これは理論を純化して敢えて対照的に描いたもので、この両者の中間的な立場が多いと思われます。例えば、行為は自律的な意思決定に基づくものでなければならないとして、法人の犯罪能力を原則として否定しつつも、一定の犯罪については法人を同時に処罰すべきとする政策論。あるいは、法人の受刑能力の視点から「法人は自由刑を受けることができない」ことを所与としつつ、罰金刑を高額にすることで抑止効果の実効性に期待するものなどがあります。

 一般的な傾向として見れば、当初は自然人のアナロジーに過ぎなかった法人の存在感が高まるにつれて、民事法における法人は確固たる地位を占めるようになり、刑事分野においても個人には還元できない「法人固有の犯罪」があり得るとの考えが、次第に強くなりました。

 そのきっかけは意外に早く、憲法学者として有名な美濃部達吉の『経済刑法の基礎理論』(有斐閣、1944年)における「監督過失の推定理論」でした。彼は一般の刑事犯の場合には、道徳的な意思決定ができることが要件で法人にはその能力がないが、行政犯は「(手続)義務違反」の要素が強い罰則だから、法人も対象になるとしました、そして両罰規定がある場合、監督過失は推定されるものとし、個人の責任が法人に容易に転嫁される解釈を導きました(樋口 [2009])。

 美濃部の理論は、解釈論を巧みに利用することで法人の責任範囲を拡大したものでしたが、戦後、法人処罰の発想は藤木英雄による『法人に刑事責任がありうるか』(『季刊現代経済』1974年)などの一連の著作によって、より明示的に提案されました。これは「監督責任」を介するまでもなく、法人の責任を直接的に追及する立場ですが、「同一視」の範囲は過失犯に限られ、故意犯(名誉毀損罪など)についての議論は未成熟でした。

・組織モデルからInforg 論へ

 しかし、板倉宏『企業犯罪の理論と現実』(1975年、有斐閣)が、「個人には可罰性がないとされる非違行為であっても、企業体の組織活動全体を見て処罰される場合があり得る」という「組織モデル」を提唱して以来、このモデルを認める学説が優勢になってきました。つまり、法人の行為を個人の行為と同列に論じ、故意・過失を問わず法人の刑事責任を問うことに、さほどの違和感がなくなってきたのです。前回紹介した「環境(犯)罪法」は、なお代位責任説に基づく両罰規制に留まっていますが、立法趣旨として法人自身による公害の防止が緊急の課題であることは、誰の目にも明らかでした。

 その後の展開を見ると、1980年代半ばのインターネットの商用化と1989年の東西冷戦の終結以降は、アメリカ企業の急成長が顕著で、一時「独り勝ち」の状態になりました。そして、新技術を駆使した法人の活動がより広範囲になり、グローバル企業が登場するにつれて競争も激化したので、レント(超過利潤)を求める企業の行動は法の網目をくぐるように精緻になり、不正経理が続出しました

 例えば、SOX法(Sarbanes-Oxley Act」。正式名称はPublic Company Accounting Reform and Investor Protection Act of 2002)を生むことになったエンロン事件は、単なる不正経理というよりも、電力供給事業という「お堅い」事業を、デリバティブの全面的な活用により「融通無碍」な金融事業に変えてしまった点に、問題の根幹があったと思われます。つまり、グローバル企業が後刻「強欲資本主義」(Greed Capitalism)と批判されるようになる動機と、何でも商品化することができるインターネットという「汎用技術」が結びついた結果、従来とは規模が格段に違った「企業犯罪」が可能になった、と捉えるべきでしょう。

 こうして今日では、「法人の犯罪行為」は自然人よる犯罪に擬制したものというよりも、法人の特性に合致した「実体を伴ったもの」と考えるのが一般的になったようです。この点について私は、フロリディが「人間は情報処理有機体(Informational Organism = Inforg)である」と説いているのを、自然人と法人の両方に適用可能なように拡張して、「個人も法人も Inforgである」と見ることによって、統一的な理解が可能ではないかと考えています。

 この考えは、Luciano Floridi [2014] “The Fourth Revolution”, Oxford University Press(春木良且・犬束敦史(監訳)先端社会科学技術研究所(訳)[2017]『第四の革命』新曜社、という邦訳があります)から借りたもので、拙著を構成する基本概念の1つです。

 ・コンプライアンス・プログラム遵守による免責

 法人も自然人と同様に犯罪の主体になり得るとの発想は、思弁的な大陸法よりもプラグマティックな英米法に、より適合したものです。しかも情報技術やファイナンス理論を使ったビジネスは英米両国の得意分野でもあり、この分野の犯罪が多発しているばかりか、銃社会の米国では、自然人による犯罪も頻度が高く、市民の不安を呼んでいました。

 このような流れに沿って米国では、「医療モデル」と呼ばれる教育刑主義から、「正義モデル」という名の応報主義に転換しました。包括犯罪規制法(Comprehensive Crime Control Act of 1984)がそれで、同じ年に制定された量刑改正法(Sentencing Reform Act of 1984)と相俟って、① 「適正な応報」思想の下で制裁の質と量を再検討し、② 量刑において裁判官の裁量を制限して透明性を高めるため「連邦量刑ガイドライン」を制定してポイント制により量刑を決定する、などの改正がなされました。なお連邦国家であるアメリカでは、刑法は州の権限の部分が多く、これが適用されるのは連邦が定める犯罪のみです。

 このガイドラインは当初自然人の犯罪に対処するものでしたが、1991年には「組織体に対する連邦量刑ガイドライン」が制定されました。そこでは「有効なコンプライアンス・倫理プログラム」を実施している企業については、量刑を軽減する規定を設けるとともに、このようなプログラムを構築していない企業には、罰金刑を宣告する前に猶予期間を与え、同プログラムを作成・実施することを前提に保護観察(probation)とすることができる、としていることが目を引きます。

 これは、「同一視説」「組織体説」のいずれに拠るのであれ、法人処罰の実効性が「企業の代表者や従業者などの個人とは切り離された企業自身のシステム面での注意義務を具体的に提示できるかどうかにかかっている」(川崎 [2004])と考えれば、納得がいくものと思われます。私のように、更に進んで「Inforg説」を採る者からすれば、「社内における情報処理過程を見える化して、どの段階でどのような注意義務が期待されているか」を定めて、リスクをその範囲内に留める努力をしていることを証明して初めて、免責されると考えるべきだと思います。

 刑事と民事は違った側面はありますが、第15回で紹介した「責任は加重されるのか、軽減されるのか、それとも影響がないのか」というケース・スタディは、このコンプライアンス・プログラムのことを念頭に置いたものでした。また同じく民事ですが、コーポレート・ガバナンス・コードで定められている「comply or explain」の原則も、コードの規定をデフォルト・ルールとしつつ、当該企業の事情が許さない場合には、「その理由を説明せよ」と求めているものと考えられます。

 このように英米の方式は、企業に対して強い姿勢で臨む一方で、企業には自治が必要であり、特にリスク管理に関しては「経営判断の原則」を尊重すべきことから、自主的に作成・運用するコンプライアンス・プログラムを免責条項としている点が特徴です。川崎は、この方式はわが国にも有効であるとしていますが、樋口はなお若干の留保が必要と考えているかに見えます。また、いずれの態度を採るにしても、業務が全面的にシステムに依存している以上、その基礎となるソフトウェアにはバグが避けられませんが、その責任問題は世界中どこでも未解決のままであることも、頭の片隅に覚えておかねばならないでしょう。

 

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