林「情報法」(5)

「知的財産」を経済学で考える

 第3回と第4回で述べたことに若干の補足を加味し、主として経済学の用語で説明し直すと、次のようになります。

 情報財は、① 排他性(他人の利用を排除することができる)も、② 競合性(私が使っていれば他の人は使えない)も欠いており、むしろ「公共財」に近い。加えて、③「占有」状態も不確かで、その移転(内容が受け手に移転され、渡し手には残らない)も起きず、④ 財貨としての取引は「引き渡し」ではなく「複製」という行為を通じてなされ、⑤ デジタル化されていれば複製は簡単で、費用はゼロに近く、また品質も劣化せず、⑥ 一旦(意に反して)流出したら、これを取り戻すことはできない(流通の不可逆性)し、⑦ どこに複製物があるかも分からないので削除も効果がない。そのため、所有権に近い排他性を付与することは難しいばかりか、有効性も疑わしいのです。

・知的財産権と知的所有権

 このように情報という財貨には、旧来の所有権をそのまま適用することができないこともあって、先進諸国では19世紀の末頃から「知的財産権」という、新しい法制度が導入されました。この制度の本質は、経済的価値を持つ「情報」に、所有権に類似した権利(=排他性)を付与して、円滑な経済取引を促進することにありました(それが回りまわって、創作者や発明家を経済的に潤すことにもなります)。既に確立していた「所有権」になぞらえることで、その試みは成功した感があります。

 世間では知的財産権のほかに知的所有権という表現もあり、どちらを使うかは人さまざまです。しかし意外に知られていませんが、立法者(特に、わが国の立法者)は、所有権アナロジーは「擬制」に過ぎず、両者の間には明確な差があることを、忘れていなかったと思われます。というのも、所有権の前提になる状態は「占有」ですが、知的財産制度には「占有」の用語は一切出てこないからです。例えば著作権法は、「占有」概念を避け、「権利の専有」の語を用いています(著作権法21条「著作者は、その著作物を複製する権利を専有する」など)。

 恥をさらせば、私は最初にこの条文を読んだとき、意味を正しく理解するまでに時間がかかりました。「権利を専有する」って、一体どういうこと? 「専有する」権利は自分で実行することしか許されないの? 著作者が自分で複製するケースは希だから、「複製を許諾する権利を専有する」なら分かるのだけれど、などなど。

 しかし、ここで用語法に深入りすると、読者の皆様を混乱させることが懸念されますので、別途まとめて議論します。ここでは代わりに、1点だけ強調しておきましょう。それは、立法者の慎重な配慮にもかかわらず、所有権の「擬制」が実際には「限りなく所有権に近い」解釈を呼んでいること(これが第3回で、所有権を妖怪になぞらえた所以)です。

 著作権をはじめとした知的財産権は(所有権と同じ)物権の一種とされ、物権と債権を峻別するわが国(あるいは大陸法系)の法制にあっては、物権には対世的(世間一般に対する)排他性があり、それが制限されるのは例外だという大原則を貫かざるを得ません。それゆえ英米法的なフェア・ユースの規定を設けて、裁判所の判断に委ねるという方式を取らず、「著作権の制限」(同法2章3節5款)という分かりにくい表現をしています。その実態は、公共財的性格を有する情報財に排他権を設定する以上、権利者と利用者との間の利益のバランスを取ろうとする点(比較衡量)にあるのですが、その限界も内包していることになります。

・著作権保護期間に見る所有権アナロジーの限界

 「知的所有権」という表現を好む人は、「知的財産権も所有権のアナロジーで処理可能だし、また処理すべきだ」と信じている人が多いようですが、所有権アナロジーには限界があります。それを端的に示しているのは、法改正のたびに長くなっている著作権保護期間です(以下の記述は、拙著 [2004]『著作権の法と経済学』勁草書房と、田中辰雄・林紘一郎 [2008]『著作権保護期間』勁草書房、のエキスを要約したものです)。

 まず著作権は、政府に登録するなどの一切の手続きを取らなくても、創作と同時に自動的に成立することを確認しましょう(無方式主義、著作権法17条2項)。これは著作物が「言論の自由」の発露であるため、検閲を避ける有効な仕組みですが、特許など登録を要する他の知的財産と違って、権利の存在を不明確にする欠点があります。

 その欠点が顕在化しているのが、孤児作品(orphan works権利者が不明なため利用許諾が取れずに死蔵されたままの著作物)の存在です。著者の死亡後50年未満の場合、国会図書館でデジタル化して配信しようとしても、権利の相続者やその所在が不明のため作業が進まないことがあると言います。文化庁による裁定(著作権法67条以下)という救済制度もありますが、認められる例はごく限られています(2001年の著作権法改正を機にかなりの改善がなされましたが、なお潜在需要とは隔たりがあります)。

 このような中で保護期間を延長すると、どういうことが起きるでしょうか? 著作者には創作のインセンティブが効きますので、新しい創作の量は従来より増えるでしょう。しかも保護期間を延長した分だけ、著者の死後も権利が継続する著作物の比率は高まります。この2つの要素が掛け算されるので、孤児作品は指数関数的に増える恐れがあります。

 孤児作品が利用されないまま放置されるのは社会的損失なので、各国とも対策を講じていますが、「保護期間を短縮しよう」という動きは目立ちません。おそらく「保護期間の短縮が全体最適である」という主張よりも、「保護期間を延ばす方が創作のインセンティブが高まる」という主張の方が、直感的に理解し易いからでしょう。その結果、保護期間は延長される一方で、わが国でも死後33年から始まり、35年、37年、38年と延長されて、現在の50年になっています。そしてTTP(Trans Pacific Partnership)協定がアメリカ抜きで成立すれば、死後70年となる見込みです。

 しかし、よくよく考えて見ると、現代はドッグ・イヤーとかマウス・イヤーと呼ばれ、1年の間にかつての7~8年分の変化が生ずる時代です。つまり形式的な1年(ドッグ・イヤー)が、実質的には7~8年分(ヒト・イヤー)と同等なのですから、死後70年は実質的には死後500年程度に相当します。これだけ長い保護期間を設定するのが妥当かどうか、直感的にも疑問符が付くのではないでしょうか? 特許権(保護期間は出願後20年)について保護期間の長さが問題とならないのは、ある種の妥当性を持っているからでしょう。

・小さな改善で現行制度の弱点を補う

 「柔らかな著作権制度」を主張する私からすれば、死後70年も市場価値が続く著作物は稀なのですから、例外として「文化財保護法」的な処理をすべきだと思います。現に丹治さんの労作によれば、わが国の書籍の場合「没後51~60年に出版されるものは全体の1.3%、同61~70年に出版されるものは0.87%」とごく少数です(丹治吉順「本の滅び方:書籍が消えてゆく過程と仕組み」田中・林 [2008] 所収).

 しかし、このような主張は権利者やその団体のロビーイング力には適いませんので、すぐ実現する見込みはありません。「反著作権」ではなく「補著作権」の立場に立つ私としては、以下のような小さな改善の積み重ね(piecemeal engineering)で、現行制度の弱点を補う努力も必要かと考えます。

 ① クリエイティブ・コモンズや ⓓ マークは、「権利表明制度」という一種の自主登録制度でもあるから、孤児作品を生まない工夫として推進したい、

 ② 著作権制度を創作にインセンティブを与える制度と捉えるなら(現代の法理論では、このような説明=インセンティブ論が通説です)、検閲につながらないよう工夫した登録制度を新設して、登録を訴訟要件とするなどの改善が望まれる(現にアメリカでは、登録を訴訟要件としている)、

 ③ さらに進んで、特許の登録料が時間の経過とともに逓増する例に倣って、「登録する価値がある著作物だけが登録される」ような仕組みを組み込むべきであろう、

 ④ ドッグ・イヤーの影響は情報技術関連分野に顕著なので、プログラムの著作物については全面的に見直し、かつての「プログラム権法」(中山信弘 [1986]『ソフトウェアの法的保護』有斐閣)に近い制度を創設してはどうか。

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