林「情報法」(4)

所有から利用へ?

 有体物の世界では所有権が有効に機能し、有体物ではない世界、特に情報の世界では必ずしも有効ではないとすれば、それはどういう事情によるのでしょうか。その答えは単純で、有体物は「一物一権」(1つの物に1つの権利が対応する)が可能だが、非有体物(無体財)では、「一財多権」(情報の場合、1つの情報に複数の権利が重畳的に存在する)にならざるを得ないからです。私たちの身の回りを見ても、特定の少数者が排他的に利用できる情報(営業秘密のように「秘密」として管理されている情報)は少なく、不特定または多数がアクセスできる情報が圧倒的に多いのを、実感されていることでしょう。

・情報は「占有」できないから「所有」もできない

 これを法律的に言い直せば、有体物には「占有」を観念することができるが、無体財(特に情報財)を占有することは不可能である(非占有性)ことを意味します。現行の法律はこの点を良くわきまえています。「占有」とは、「自己のためにする意思をもって物を所持する」(民法180条)ことで、「物」とは有体物です。反対解釈をすれば、無体財には占有の規定がそのまま適用されることはないのです。もっとも「例外のない規則はない」の喩えどおり、「準占有」(民法205条)という規定がありますが、この点には深い含意が隠されていますので、次の機会まで取っておきましょう。

 情報を「占有」できないということは、情報には 100% の排他性を持たせることが難しいことと同義です。また「一財多権」にならざるを得ないことは、「占有の移転」を観念できないこととパラレルです。有体物を譲渡すれば私の手元には何も残りません(占有の移転)ので、これを盗む行為(窃盗)に刑事罰を科すことで違法な移転を抑止し、また民事的に取り戻すこと(返還請求権)で法的秩序を保つこともできます。

 ところが情報の場合は、私がある情報を誰かに伝えた後も、私は同じ情報を持ち続けています(非移転性)。つまり情報は、占有の移転ではなく「複製」(著作権法2条1項15号参照)という行為を通じて拡散していきます。また、一旦複製を許せば「そうするつもりではなかった」と言って取り消しても、情報は戻ってきません(流通の不可逆性)。

 情報に対しても窃盗に類似する行為があり(いわゆる「情報窃盗」)、これを処罰してもらいたいところですが、どの情報を対象にするかを決めるのは、とても難しい。下手に「情報窃盗罪」を作ると、うかつに情報を取得できない事態になって、日常生活に支障をきたしかねません。したがって、現在「情報の違法な取得・窃用・漏示行為」として刑事罰が科せられるのは、「特定秘密」の漏示(特定秘密保護法23条以下)や、不正な手段による「営業秘密」の取得(不正競争2条1項4号)、医師など特定職業従事者による秘密漏示(刑法134条)など、対象がごく限られています。

 それでは、このように情報に対して所有権の有効性が失われる場合に、それに代わる適切な法的制御の方法はあるでしょうか? 多くの経済学者が主張しているのは、「所有から利用へ」というトレンドと、「共同利用」という仕組みです。経済全体がシェア(sharing economy)やフリー・エコノミー(この場合のフリーには、自由とタダの両方が含意されています)に向かっていると主張する学者もいます。確かに、民泊のインターネット版ともいえる Airbnb や、自家用車をタクシー代わりに相乗りする UBER の隆盛を見ると、そのような時代が来そうな気もします。

 ところが、どっこい。「所有」という妖怪は、この程度で衰退してしまうような「ヤワ」なものではありません。人間の「所有欲」はかなり根源的なもので、「人は経済原理だけで動く訳ではない」という心理の好例とされているほどです。ブランド品や別荘などは、経済計算では「ムダ」と判定されるでしょうが、購入者は後を絶ちません。ですから「利用」が「所有」に全面的に取って替わることはなく、せいぜい補完するものだと思われます(タイトルに?を付けたのは、その気持ちを表すためです)。

・排他性のスペクトラム

 そのように考えるには、法的な理由もあります。前回の議論で、「所有権は絶対的排他権」と説明しましたが、これを排他性のスペクトラムとして表示すれば、次のようになります。左端は、著作権等の知的財産権において、all rights reserved と表記されることと符合しています。つまり100% の絶対的排他権が認められるのです。一方、右端にあるのはno rights reserved = 誰が使っても自由、つまり純粋なコモンズという位置づけです。

 排他性の強度
<------------------------------->
排他性100%                       排他性0%
All rights reserved            No rights reserved
            Some rights reserved

 現在の知的財産制度は、所有権になぞらえたものですので、「権利があるかないか」つまりスペクトラムの両極端に分かれています。しかし現実の世界は複雑なので、中間的扱いが望ましい場合があり得ます。著作権の例では、「創作者が私であることは表記して欲しいが、コンテンツは無料で自由に使ってもらって構わない」とか、「改変も含め、どんどん使って宣伝して欲しい」といった要望があり得ます(極端な例だと思われるかもしれませんが、売れない創作者が第1作から儲けることは難しいので、まずはタダで利用してもらって名前が知られることが大切なのです)。

 するとここに、some rights reserved の需要が出てきますが、現在の法律は100% か 0%かのデジタル的割り切りをしているので、何らかの工夫が必要です。ローレンス・レッシグたちが考えた Creative Commons(以下 CC) は、こうした需要に応えようとするもので、attribution(氏名表示)を必須とし、これとnon-commercial(非商用利用なら自由)、no  derivatives(改変禁止)、share-alike(改変後シェアする義務がある) の3つの権利表示マークの組合せにより、6種類の権利処理の選択を可能にしています(原語は私流に訳していますので、クリエイティブ・コモンズの公定訳とは異なることに、ご留意ください。レッシグ他 [2005]『クリエイティブ・コモンズ』NTT出版、参照)。

 実は私も、ほぼ同時期にⓓ マークというアイディアを出したのですが、レッシグの案が優勢になったので、私はこの運動を日本でサポートし、「アメリカ以外では最初」と言われたCC の契約書等を翻訳して、サイトを開設するなどの協力をしました。CC は現在ではWikipediaの標準利用方式となっていますので、ある種の感慨を覚えます。

 しかし、個人的感慨を離れて本題に戻れば、ここで改めて強調しておきたいのは、CC やⓓ マークが目指したものは「反著作権」ではなく「補著作権」だということです。これは時として誤解されやすいのですが、仮に著作権法が無ければ、CCも ⓓ マークも機能しなくなる(誰も実効性を担保してくれないので自滅する)ことは明らかでしょう。権利者を中心に、私たちを白い目で見る方々がいますが、よくよく考えていただければ、私たちの提案は「排他性が100% か0% か」という硬直的な仕組みでは救済できない、ニッチな需要に対応するもので、かえって現行制度を助けているのではないでしょうか。

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