新サイバー閑話(12) ホモ・デウス④

カーツワイルとシンギュラリティ

「ホモ・デウス(Homo Deus)」とよく似たイメージとして「ポスト・ヒューマン(Post Human)」という言葉がある。その考えはレイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生(原著‘The Singularity is Near : When Humans Transcend Biology’)』によく表れている。カーツワイルのあまりにあっけらかんと、しかも自信に満ちた主張について、ハラリは正面からは論じていないが、上巻と下巻で各1回、カーツワイルへの言及がある。

 最初は不死の研究者としての紹介であり、「昨今はもっと率直に意見を述べ、現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである、と明言する科学者が、まだ少数派ながら増えている。その最たる例が、老年学者のオーブリー・デグレイと、博学の発明家レイ・カーツワイル(アメリカ国家技術賞の1999年の受賞者)だ。カーツワイルは2012年に、グーグルのエンジニアリング部門ディレクターに任命され、グーグルはその1年後、『死を解決すること』を使命として表明するキャリコという子会社を設立した」と書いている。

 カーツワイルは、コンピュータの知能が人間を上回る「特異点(singularity)」は2045年だと預言している。サイボーグ、あるいはアンドロイドの全面肯定であり、さまざまな限界をもつ人間の現状にとらわれる必要はないと言う。

 彼は遺伝子工学(G)、ナノテクノロジー(N)、ロボット工学(R)の3分野で相互補完的に急速な(指数関数的な)変化が生じ、生物と非生物(コンピュータ)が共生する時代が来る、そのときはナノテクノロジーで作り出された小さなコンピュータが、体内の血管や脳のシナプスの中を動き回り、内臓の欠陥を修復したり、脳の記憶容量を拡大したりするという。「21世紀の前半には、怪物のような機械の知性が、機械の生みの親である人間の知能と区別がつかないほどになる」、「われわれには自分自身の知能を理解して―その気さえあれば自分自身のソースコードにアクセスして―それを改良し拡大する能力がある」。

 コンピュータは人間と共生し、人間のために働くというイメージだが、そのとき、コンピュータの知能はすでに人間を上回っている。

 彼によれば、「テクノロジーが急速に変化し、……、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来」が特異点であり、「特異点を理解して、自分自身の人生になにがもたらされるのかを考え抜いた人を特異点論者(singularian)と呼ぼう」と宣言している。

・人間と機械の区別はなくなる

 特異点という考えは、数学や物理学の世界で使用され、「特異点は、ある基準 (regulation) の下、その基準が適用できない (singular な) 点」とウィキペディアにある。

「本書では、これから数十年のうちに、情報テクノロジーが、人間の知識や技量を全て包含し、ついには、人間の脳に備わった、パターン認識力や、問題解決能力や、感情や道徳に関わる知能すらも取り込むようになると論じていく」、「特異点とは、われわれの生物としての思考と存在が、みずからの作りだしたテクノロジーと融合する臨界点であり、その世界は、依然として人間的ではあっても、生物としての基礎を超越している。特異点以後の世界では、人間と機械、物理的な現実とバーチャル・リアリティとの間には、区別が存在しない」、「特異点―人間の能力が根底から覆り変容するとき―は、2045年に到来すると私は考えている」。

 1948年生まれのカーツワイルは2045年には100歳近いが、そのときまで生き抜く覚悟のようである。

 GNRは同時進行する3つの革命であり、「ナノテクノロジーを用いてナノボットを設計することができる。ナノボットとは、分子レベルで設計された、大きさがミクロン単位のロボットで……、人体の中で無数の役割を果たすことになる。たとえば加齢を逆行させるなど」、「ナノボットは、生体のニューロンと相互作用して、神経系の内部からバーチャル・リアリティを作りだし、人間の体験を大幅に広げる」、「脳の毛細血管に数十億個のナノボットを送り込み、人間の知能を大幅に高める」、「GとNとRの革命が絡み合って進むことにより、バージョン1.0の虚弱な人体は、はるかに丈夫で有能なバージョン2.0へと変化するだろう。何十億ものナノボットが血流に乗って体内や脳内をかけめぐるようになる。体内で、それらは病原体を破壊し、DNAエラーを修復し、毒素を排除し、他にも健康増進につながる多くの仕事をやってのける。その結果、われわれは老化することなく永遠に生きられるようになるはずだ」など、勇ましい言葉が続く。

・「ミクロの決死圏」の世界

「ひとたびこの道を進み始めれば、テクノロジー恐怖症の人が『ここまではいいが、ここから先に行ってはいけない』ともっともらしく言えるような停止点はどこにもない」といった他の研究者の発言も紹介されているが、本コラム第2回で概観したように、かつて強いAIが喧伝された時、やはり肉体こそが必要だという意見が多く、私自身もそう考えていた。しかし、いま進みつつあるコンピュータと人間との共生が、まったく新しい時点に到達しつつある。「コンピュータには肉体がない」という次元の話でないことは確かである。ふたたび映画のたとえで言えば、これは「ミクロの決死圏」の世界である(こちらも1966年公開とずいぶん古い)。

 本書によれば、先に言及したロドニー・ブルックスは、「AIは1980年代に衰退したと主張する人々は今も存在するが、それは、インターネットは2000年代初頭のネットバブルととともに破綻したと言い張るようなものだ」と言っているらしい。

 さて、ハラリ本人だが、下巻でカーツワイルのいかにも予言者めいた語り口にふれて、「実際、シリコンヴァレーではデータ至上主義の予言者は、救世主を想起させる伝統的な言葉を意識的に使っている。たとえばレイ・カーツワイルの予言の著書のタイトル『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』(邦訳『ポスト・ヒューマン誕生』のこと)は、『天の国は近づいた』という洗礼者ヨハネの叫びを真似ている」と書いているが、ここにはハラリの、『ホモ・デウス』は歴史的予測の書であり、政治的なマニフェストではないという歴史家としての目がある。

 ちなみに「特異点」に関しては、『サピエンス全史』下巻に以下の記述がある。「物理学者はビッグバンを特異点としている。それは、既知の自然法則がいっさい存在していなかった時点だ。時間も存在しなかった。したがって、何であれビッグバンの『前』に存在していたと言うのは意味がない。私たちは新たな特異点に急速に近づいているのかもしれない。その時点では、私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといた、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる」。

 老年学者、オーブリー・デグレイにも少しふれておこう。

 アメリカのピュリッツァー賞受賞科学記者が長命科学の最先端をルポした『寿命1000年』によると、老化は生物に避けられない「宿命」ではなく、ただの「病気」だという。病気なら直せるわけで、本書に主役級で登場するオーブリー・デグレイは、「老化は基本的には体の細胞にゴミがたまることで起きる。だからそのゴミを除去することができれば、969歳まで生きたとされる旧約聖書メトセラの夢を実現できる」と言っている。

 ミトコンドリアが大きなカギを握っているらしいが、彼はコンピュータ科学の出身である。

レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』(NHK出版、2007。原著‘The Singularity is Near : When Humans Transcend Biology’2005)
ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき
ジョナサン・ワイナリー『寿命1000年』(早川書房、2012、原著2010)
寿命1000年―長命科学の最先端
リチャード・フライシャー監督「ミクロの決死圏」(公開1966)
ミクロの決死圏 [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]

新サイバー閑話(11) ホモ・デウス③

人間を神にアップグレードする

 人類はこれまでの歴史で、①飢饉、②疫病と感染症、③戦争、という3つの大敵をほぼ克服してきた、という大胆な宣言から話は始まる。

 これは『サピエンス全史』の結論を踏襲するものだが、スタンリー・キューブリック監督のSF映画の古典、「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンを思わせる迫力である。

 類人猿が敵との戦いのさなか、手にした木片を怒りにまかせて地面に激しく打ち付けた時、これを道具(武器)として使えることを発見する。そして、木片は空中高く舞い上がり、次の瞬間、それは宇宙船ディスカバリ―へと変貌する。リヒァルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りぬ」の壮大な音楽は、宇宙船登場と同時にヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」に変わった――。

 このわずかな冒頭シーンを検証したのが『サピエンス全史』全編と言ってもいい。著者は書いている。「飢饉と疾病と戦争はおそらく、この先何十年も膨大な数の犠牲者を出し続けることだろう。とはいえ、それらはもはや、無力な人類の理解と制御の及ばない不可避の悲劇ではない。すでに対処可能な課題になった」。

 そして、こう続ける。「成功は野心を生む。……。前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い。飢餓と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。……。そして、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えることを目指すだろう」(33)。これが『ホモ・デウス』のテーマである。

「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている。それは、至福と不死が神の特性だからであるばかりでなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するためにはまず、自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからでもある。……。これまでのところ、人間の力の増大は主に、外界の道具のアップグレードに頼ってきた。だが将来は、人の心と体のアップグレード、あるいは、道具との直接の一体化にもっと依存するようになるかもしれない」。

・生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学

 その道具としてあげられているのが、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。順に、著者の言うところを聞こう。

 生物工学。「私たちは、アメーバから爬虫類、哺乳類、サピエンスへと進化した。とはいえ、サピエンスが終着点であると考える理由はない。遺伝子やホルモンやニューロンに比較的小さな変化が起こっただけで、……、ホモ・エレクトスが、宇宙船やコンピュータをつくるホモ・サピエンスへと変容した。それならば、私たちのDNAやホルモン系や脳構造にあといくつか変化が起これば、どんな結果になるか知れたものではない。生物工学は、自然選択が魔法のような手際を発揮するのを辛抱強く待っていたりしない。そうする代わりに、生物工学者は古いサピエンスの体に手を加え、意図的に遺伝子コードを書き換え、脳の回路を配線し直し、生化学的バランスを変え、完全に新しい手足を生えさせることすらするだろう。彼らはそれによって新しい神々を生み出す。そのような神々は、私たちがホモ・エレクトスと違うのと同じくらい、私たちサピエンスとは違っているかもしれない」。

 サイボーグ工学。「サイボーグ工学はさらに一歩先まで行き、有機的な体を、バイオニック・ハンドや人工の目、無数のナノロボットと一体化させる。そうしてできたサイボーグは、どんな有機的な体もはるかに凌ぐ能力を享受できるだろう」。

 非有機的生命工学(非有機的な生き物を生み出す工学)。「とはいえ、サイボーグ工学でさえ、有機的な脳が司令統制センターであり続けるという前提に立っているから、割に保守的だ。一方、有機的な部分をすべてなくし、完全に非有機的な生き物を作りだそうという、より大胆なアプローチがある。神経ネットワークは知的ソフトウェアにとって代わられ、そのソフトウェアは有機化学の制約を免れ、仮想世界と現実世界の両方を動き回れる」。

・ボーマン船長とレイチェル

 いわゆる改造人間のことを意味するサイボーグ(Cyborg)はCybernetic organismのことである。アンドロイド(Android)も、より人間に近づいたイメージとして使われるが、いまではグーグルのモバイルOSの名としても知られている。

 サイバー(Cyber)はアメリカの科学者、ノーバート・ウィーナーが提唱した「生物と機械における通信、制御、情報処理の問題を統一的に取り扱う総合科学=サイバネティクス(Cybernetics)」に由来する。その主著『サイバネティクス』(1948)はその後の情報理論およびコンピュータの発達に大きな影響を与えたが、事態はついにホモ・デウスを生み出すまでになった。ちなみに「サイバースペース(Cyberspace=サイバー空間)」はSF作家のウィリアム・ギブスンが1984年に発表した『ニューロマンサー』で流布させた言葉である。

 さて、著者はそのような最先端の研究をいろいろ紹介しているが、サイボーグに関しては、「サイボーグの医師は、オフィスを一歩も出ることなく、東京やシカゴや宇宙基地で緊急手術を行うことができる」、また非有機的生命の誕生に関しては、「有機体の領域を抜けだせば、生命はついに地球という惑星からも脱出できる」と書いている。

 映画「2001年宇宙の旅」のボーマン船長は、一人で木星に突入、時間と空間のねじれた試練の果てに、エネルギーとして宇宙を飛び回る「星の子(Star Child)」になった。この映画はもう50年前の公開だが、その卓越した発想(SF作家、アーサー・C・クラークとの共作)は、斬新な制作手法とともに、まさにSF映画の金字塔である。

 ところでもう一つ、私が好きなSF映画は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を原則にしたリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」である。レイチェルは、この映画に登場する美しきアンドロイド(レプリカントと呼ばれていた)の名前だった。

スタンリー・キューブリック「2001年宇宙の旅」(公開1968)/リドリー・スコット「ブレードランナー」(公開1982)
2001年宇宙の旅 (字幕版) ブレードランナー ファイナル・カット(字幕版)

ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス』(岩波書店,原著1948)
ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ハヤカワ文庫,原著1968)/ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫,原著1984)
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229)) ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

新サイバー閑話(10) ホモ・デウス②

「等身大精神」と「経頭蓋直流刺激装置」

 私が「等身大精神の危機」という表現を使ったのは2005年に起きた、みずほ証券株誤発注事件だった。

 東京証券取引所の新興企業向け株式市場であるマザーズに人材派遣会社株が新規上場された際、顧客から「61万円で1株売り」の注文を受けたみずほ証券担当者が「1円で61万株売り」と金額と株数を逆に入力、あわてて取り消し作業をしようとしたが東証のシステムが受け付けず、わずか数分の間に株が乱高下、この騒ぎでみずほ証券は407億円の損失を蒙った。

 だれにも起こりがちなケアレスミスで、あっという間に会社に莫大な損害を与えてしまった社員は、どう責任をとればいいのか。ここでは会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 このことに関して、エコロジーの世界で言われていた「等身大の技術」の類推で、コンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちを途方もない世界につれて行き、そこでは「等身大の精神(人間本来の考え方)」が危機に瀕しているととらえたわけである。私は『IT社会事件簿』で、「従来の倫理を支えてきた社会システムに地すべり的変動が起こっている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくるのを否みようがない」と書いている。

 コンピュータの力があまりに強力になり、人間精神がそれについていけない驚愕と当惑が表明されているとも言えるが、いまふりかえると、この感想はいささか牧歌的に過ぎたようだ。

『ホモ・デウス』下巻に「経頭蓋直流刺激装置」という米軍が取り組んでいる実験の話が出ている。ヘルメットにはいくつもの電極がついており、それを頭皮に密着させると(倫理的な制約があるため、いまは人間の脳に電極を埋め込むことはしていない)、ヘルメットは微弱な電磁場を生じさせ、特定の脳の活動を盛んにさせたり抑制したりする。兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるのが目的である。

 科学誌の記者がその実験の体験談を書いている。

 最初はヘルメットをかぶらずにVRの戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人が彼女めがけてまっしぐらに向かってきた。「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者を前に、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」。ほんの一瞬の出来事のように思われたが20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していたという。

 コンピュータの力を人間の内部に取り込んで、その能力を高めようという実験である。

・「思考のための道具」から「ホモ・デウス」まで

 コンピュータ黎明期には、「思考のための道具」としてのコンピュータが期待をもって語られた。そのうちコンピュータがもつ危険な側面への関心が高まり、いろんなコンピュータ、人工知能、さらにはインターネットへの批判が現れた。

 初期のコンピュータ批判として有名なのが、コンピュータの世界的権威でもあったジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー』(原著1976)である。

 彼は「本書における主な論点は、……第一に、人間と機械の間には差があること、第二に、コンピュータにあることができるかどうかは別として、コンピュータにさせるべきでない仕事がある、ということである」と明快に述べている。

 彼は、「近年多くの心理学者は、人間もコンピュータも『情報処理システム』と呼ばれる、より抽象的な属に属する二つの異なった種にすぎないということを、当然だと考えるようになってきた」、「人間が、それよりもっと広い『情報処理システム』属の一種であるとする見方は、われわれの関心を人間のある一面に集めることになる。その結果、人間の残りの部分は、この見方が照らすことのない暗闇に押しやられることになる。この犠牲を払って、いったい何を購うことができるのかを聞く権利がわれわれにはある」とも述べている。

 情報処理システム属人間種という考えは、ホモ・デウスの捉え方と通じている。

 哲学からの反論としては、ヒューバート・ドレイファスの『コンピュータには何ができないか』(原著1972)があった。ドレイファスは、対象についての経験を組織化し統一する際には「身体」が、行動が規則によらずに組織化されうるためには「状況」が、状況を組織化する際には、「人間の意図や欲求」がそれぞれ重要な役割を果たすとして、とくに「強いAI」を批判した。

 知能と不可分の肉体の重要性についての指摘も多く、MITのAI研究者、ロドニー・ブルックスは1986年、「体を持たない人工知能の限界」を感じて昆虫ロボットを作っている。

 これらの見解を整理した『情報文化論ノート』(2010)で、私は「コンピュータとつき合う上で大事なのは、人間が具体的経験によって得たさまざまな知識、体で覚えている知恵、あるいは長い歴史の中で培ってきたさまざまな観念を、誰がどのようにしてコンピュータに入力するのか、ということである。コンピュータ自らが思考するようになるにしても、それはあくまでもコンピュータの思考であって、人間の思考ではない。ただその思考が、人間の能力をはるかに超えたものになる可能性ももちろんある」と書いている。

 つい最近の20世紀までは、コンピュータにさせていいこと、させてはいけないことの区別が真剣に議論されていたのである。そこにはコンピュータ対人間という捉え方があったが、21世紀に入り事態はまさに急転、コンピュータと人間の相互協力、合体が大きなテーマになってきた。

 著者はこの点に関して、「何千年もの間、歴史はテクノロジーや経済、社会、政治の大変動で満ちあふれていた。それでも一つだけ、常に変わらないものがあった。人類そのものだ。……。ところが、いったんテクノロジーによって人間の心が作り直せるようになると、ホモ・サピエンスは消え去り、人間の歴史は終焉を迎え、完全に新しい種類のプロセスが始まるが、それはあなたや私のような人間には理解できない」(63)と書いている。

ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』(パーソナルメディア、1987、原著1985)/ ジョセフ・ワイゼンバウム『コンピュータ・パワー』(サイマル出版会、1979) /ヒューバート・ドレイファス『コンピュータには何ができないか』(産業図書、1992) /ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心 コンピュータ・心・物理法則』(みすず書房、1994、原著1989)

思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか? コンピュータ・パワー―人工知能と人間の理性 コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判 皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

矢野直明『IT社会事件簿』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013、携書版2015)/『情報文化論ノート』(知泉書簡、2010)
IT社会事件簿 (ディスカヴァー携書) 情報文化論ノート: サイバーリテラシー副読本として

新サイバー閑話(9) ホモ・デウス①

 ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者が書いた『ホモ・デウス(HOMO DEUS : A Brief History of Tomorrow)』という世界的ベストセラーの日本語版が2018年に刊行され、けっこう話題になった。原著は2015年の出版だからいささか〝古い〟けれど、同じ著者が先に世に問うた『サピエンス全史(SAPIENS : A Brief History of Humankind)』を受けて「テクノロジーとサピエンスの未来」(日本版サブタイトル)を概観した「大作」である。

 私がサイバーリテラシーの教科書として推奨する書物はローレンス・レッシグ『CODE』などいくつかあるけれど、この著もまたその一つに違いなく、長い歴史的視野のもとに将来の人類のあり方を予測した興味深い内容である。

 本コラムで折々に『ホモ・デウス』にからむ話題を取り上げ、近未来の世界を探訪していきたい。

ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』㊤㊦『サピエンス全史』㊤㊦(ともに河出書房新社、2018、2016)

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

ゲームとバーチャル・リアリティ

「アサシンクリード」というプレイステーション用の「潜入アクションゲーム」がある。フランスに本拠を置くユービーアイソフトが12世紀末のエルサレムを舞台とした第1作を2007年に発売以来、現在まで、中国、アメリカ、フランスなどを舞台に十数本を制作している。

 その最近作である、プトレマイオス朝エジプトを舞台にした「アサシンクリードオリジンズ」を見る機会があった。ゲームはそれぞれの地域を舞台に戦闘や冒険が繰り広げられるのだが、その舞台の再現ぶりが驚異的である。
アサシン クリード オリジンズ【CEROレーティング「Z」】 - PS4 ゲームには、「ディスカバリーツアー」というプレイとは無関係に、古代エジプトの景観や建物、その内部、人びとの様子などを体験できるソフトがついている。アレクサンドリア、メンフィス、ナイルデルタ、ギザのピラミッドなどを歴史専門家やさまざまなジャンルの学者の協力を得て復元しており、まさに当時の世界そのものを探訪できるようになっている。

 たとえばクレオパトラで有名なアレクサンドリア大図書館の中に入ってみると、パピリスの巻物(古文書)が棚に収めてあるのだが、その巻物に心棒がはいっているのと、入っていないものがあり、その比率が研究で明らかになっている事実とほぼ合致するらしい。庭に生えている草花まで時代検証に耐えるという。ピラミッド内部も探険できる

 ゲームのバーチャル・リアリティがここまで進んだと思うと感無量である(最新作はギリシャをテーマとする「アサシンクリードオデッセイ」)。ゲームを楽しみながら、現実にあった(と想像される)歴史的舞台を探訪できるから、これは立派な教材でもある。ユーザーはゲームをするばかりでなく、それらの景観をカメラに収めたり、ユーザー同士で会話したりもできる。

 映画全盛の時代は、たとえばハリウッドのセシル・B・デミルといった大プロデューサーが、莫大な資金と人材(人物)を投じ、大きなセットを築き上げて「クレオパトラ」、「十戒」などの映画を作ったが、今や大金がゲームの世界に投じられているようだ。

・バーチャル・タイムマシン

 かつて「セカンドライフ」というバーチャル空間が話題になったことがある。

 アメリカのリンデンラボ社が2003年に開設したもので、オンラインゲームとも言えるが、決まった目的やシナリオはなく、自分の分身であるアバターを作ってそこに参加、町で買い物をしたり、楽器を演奏したり、店を開いて物を売ったり、友人とおしゃべりしたりと、まさにオンライン上で「第2の人生」を送ろうというのがコンセプトだった。リンデンドルという通貨は実際に米ドルと換金可能だったから、セカンドライフ内でビジネスを始める大手企業も出てきて、日本でも2006年ころには大きなブームになった。

 2010年以降はほとんど話題にならなくなったが、今でも活動は続いており、参加者もかなりいるようだ。セカンドライフは自分で土地を買い、ビルを建て、不動産業を営めるようになっていたが、今度のゲームの方は舞台があらかじめ精巧、かつ正確に作り込まれているところが違う。そこにバーチャル・リアリティ技術の進歩が大きく影響しているだろう。バーチャルな世界は現実世界と離れた「第2の空間」であるという発想自体がすでに過去のものかもしれない。

 かつて司馬遼太郎の歴史小説を愛読していたころ、この作家の頭には幕末のある時、勤王の志士や新選組の連中が東海道をどのように行き来していたかがはっきりイメージされているのではないかと思った。とすれば、2人の歴史上の人物が大井川の渡しですれちがったのでないかとの発想が生まれ、そこから新たな物語も生まれたのだろう。いまや、その気になりさえすれば、幕末の東海道を再現するのも可能で、まさにバーチャル・タイムマシンの時代である。

・現実世界とサイバー空間のかけ橋

 バーチャル・リアリティ(VR=Virtual Reality)というのは、コンピュータの中に現実そっくりの仮想世界をつくりあげる技術である。サイバー空間と現実世界に橋をかける技術は、一般にミックスト・リアリティ(MR)と呼ばれ、それには現実世界を電子的に補強、増強する技術も含まれる。

 バーチャル・リアリティが脚光を浴びたのは1980年代だが、当初は、頭にかぶるメガネ(HMD)や電極を埋め込んだ手袋やスーツなど、大がかりな道具を身につけてコンピュータ世界に「没入」することを目指していた。そういう大研究所の現場を取材したことがあるが、今や昔、今では同じようなヘッドマウントディスプレイのおもちゃさえある。

 ハラリの「ホモ・デウス(神の人)」というのは、われわれ「ホモ・サピエンス(賢い人)」が生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学といった最新技術によって、自らの生物学的限界を乗り越えて、新しい種(人間種)を作り上げる可能性について考察したものだが、最新ゲームの世界をのぞくだけで、私たちがいまどういう時点にいるのかがよくわかる。

 若い友人から聞いたのだが、ネット上では自分の死を体験するアトラクションも話題らしく、その体験談も掲載されている。件の友人は「VRの普及により『意識とは何か』という深淵な問題が、一般人にとっても身近な問いかけになっていくように思います」と述べている。

ローレンス・レッシグ『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社,2001、原著1999)
CODE VERSION 2.0