東山「禅密気功な日々」(13)朱剛先生に聞く ②

伝統文化に息づく気

鎌倉教室の練習風景

 中国の道教、仏教、儒教にも気と関係する教えがあるということは、気が伝統文化の中に息づいていることを示しています。そこで重視されるのが瞑想ということですか。

――中国の三大伝統文化としての仏教、道教、儒教について、私はこれをそれぞれ仏家、道家、儒家というふうに呼んでいます。仏教は宗教で教祖、礼拝、偶像、人を集めるための宣伝がありますが、仏家は宗教と関係なく、仏法を実践する流派という意味です。道家、儒家も同じで、宗教と関係なく、本質を実践する流派と言っていいでしょう。
 もちろん仏教と仏家は時として重なっています。と言うのは宗教家であっても同時に実践していたり、実践しながら宗教の活動も行っていたりするからです。道教、儒教も同じです。私が言いたいのは、気や瞑想は宗教と関係なく、実践する仏家、道家、儒家のほうに密接に繋がっていることです。

 私たちが習う気功は禅密気功、すなわち仏教の禅宗、密教に深く関係しているわけですね。

――仏家で大事なことは仏になるように実践することです。仏についてはいろいろな説明がありますが、一番基本で大事なことは、悩みが無い、あるいはいは執着しない気持ちの状態にいることです。これが瞑想の基本です。
 基本的には、まず気持ちを落ち着かせ、穏やかな気持ちを追求し、それを見守るようにします。それが習慣になると、生活、性格にまで影響が出てきます。
 イライラして物事に対する感覚と、穏やかな気持ちで物事に対する感覚は違います。仏法を通して練習する人はその違いが分かります。これからの人生をどう生きていくかが分かるということですね。あるいは世界観、人生観が変わってきます。
 これをまとめると

 ①実践すると気持ちが愉快に(絶対ではなくて根本的に)なる。 
 ②物事に対する考え方、認識が異なってくる。

 ①を「明心(みょうしん)」といい、②を「見性(けんしょう)」といいます。あわせて「明心見性」(仏教用語)です。
 ②の観点からすると、気持ちの持ち方により、万事万物に対する感覚も異なってきます。良い気持ちになるということが第一で、その時、万事万物に対して感じた感覚は根本的な感覚です。自分の認識している宇宙はその感覚(感情)から始まってその感覚(感情)に戻ります。これは瞑想につながっています。

 瞑想については、後に詳しく聞いていきますが、簡単に説明するとどういうものですか。

――瞑想すると、微妙な感覚が浮かんできて、体内のエネルギーが活発に、元気になるだけでなく、気持ちも落ち着いてきます。これは仏法の基本の大事な功法です。瞑想を外れると愉快な気持ちが浮かんできません。もちろん、仏家の思想と合わせて瞑想すると仏になるというか、愉快な気持ち、悩みがないという状態に達します。

 日本では一般に仏教と仏家、道教と道家というふうな区別はしないので、以下、仏教、道教というふうにお聞きしていきますが、道教の道(タオ)と気の関係は深いように思います。

――道家の道も同じで、見ても見えないし、聞いても聞こえないし、触っても感じませんが、どこにでも存在すると考えられています。
 現在の言葉で言えば、道はエネルギーです。もう一つの意味は大自然の規則です。道家の修行者の目標は「得道(とくどう)」です。その意味は大自然のエネルギーを十分に利用して、大自然の規則に従って生きることです。それも瞑想と繋がっています。瞑想する時、普段の生活にない微妙な感覚が浮かんできて、身体が元気になります。その現象は道のエネルギーという性質と繋がっています。瞑想すると気持ちが穏やかになって物事に対して柔軟になります。生き方として無理なく、自然に従っていくことを追求するようになります。

 儒教はどうですか。

――2000年前に800年間続いた周朝が崩れ、幾つかの国に分かれ紛争が起きた時、儒家の思想が生まれました。儒家の思想は礼儀を重んじ、崩れた天下をよくするために貢献しました。外側の礼儀を正しくするには、まず内側の人格を高めることを大事にすることです。この人格を高める5つのポイントは「仁、義、礼、智、信」です。その中で一番基本になるのは「仁」で、この「仁」の基本的な意味の一つは善です。「仁」を求めるために気持ちを鍛えなくてはなりません。この鍛えることについて大事なことは瞑想することです。
「仁」を得るために「浩然(こうぜん)の気を養う」という孟子の言葉があります。この「浩然の気」は無限のエネルギーあるいは気という意味であると同時に、広い気持ちを持ちます。養うということには、心を整えて瞑想をすることも含まれています。

 ブリタニカ国際大百科事典によれば、浩然の気とは「人間の内部より発する気で、正しく養い育てていけば天地の間に満ちるものとされる。また、道義が伴わないとしぼむとされ,道徳的意味を強くもつ概念である」と説明されていますが、これが先生の言う「広い気持ち」ですね。

――三国時代の蜀の国の諸葛孔明は大儒(儒家の実践者)と認められています。孔明が息子に伝えた有名な言葉で「静以修身(心を落ち着かせた「平静」の状態で修身すること)」があります。これも瞑想と同じです(「君子の行うは、静以て身を修む、倹以て徳を養う」)。

・子どものころ十大形を学ぶ

  伝統武術も気を重視しますね。

――私は十大形(じゅうだいけい、「心意拳」の別称)という武術を学んだことがあります。この武術は三つある「内家拳」という流派の一つで、中国で最も有名です。後の二つは太極拳と八掛拳です。十大形の特徴は実際の格闘の際に強力だと言われています。私の体験では時代が変化して今の中国伝統の武術は他の格闘術と比べて実際に格闘することがあまりなく、弱まっている可能性があると思いますが、まだ魅力はあります。 
 というのは練習する時、力がどこから発生して流れているかという体内の感覚を追求しながら練習しているからです。意識を集中することが瞑想や伝統文化と繋がっています。
 武術の中に気の練習もあります。これは、気力の流れの練習です。瞑想の時の気の流れる感覚とは違いますが、意念を使って練習することは同じです。武術では、気は意念に沿って流れています。
 車の運転で、左折と思うのが先で、それにつれて操作が無意識的に行われるのと同じです。「意到気到」という中国語があります。意味は意念が到着すると、気力も自然に到着するということです。

 中医学については第1回でもふれました。

――中医学は伝統文化に基づいて行う治療法です。これは身体全体のエネルギーを整えることによって元気になる方法です。中医学のかなりの部分は現代科学ではまだ証明されていませんが、効果があることは2000年~3000年の中医学の歴史の中で認められています。大自然には未知の事柄がたくさんあります。中医学でも科学的に証明されていないことはたくさんあります。

 日本でも、古くは聖徳太子による仏教普及があり、平安時代には空海や最澄が密教を広め、禅宗では道元、栄西などが活躍しました。江戸時代の武士の子弟のための塾では、四書五経など多くの漢籍を学びましたし、朱子学は徳川幕府の政治の基本にもなりました。戦前の日本人は長い間、中国文化の影響を受けてきたわけですが、気や瞑想について体系的に教えることはしてこなかったように思います。これは私の勉強不足かもしれません。

――瞑想を通して伝統文化がより身近に理解できるのも面白いと思います。

 子どものころ、どういう環境でお過ごしになりましたか。

――自宅から20キロぐらい離れた祖父母のいる農村で夏や冬を過ごしました。平屋の北側に防風林、周りには林があり、井戸もありました。夏には、涼しい林の中で食事をすることも多く、林の中でも、風の通るところや、湿気が多く快適ではない場所があるなど、微妙な違いも分かりました。
 井戸で果物や飲み物を冷やし、楽しみましたが、祖母の止めるのも聞かずに冷たい井戸水で行水をし、体が冷えてお腹をこわしたこともありました(笑)。
 冬は天気がよければ布団や衣類を干し、大自然のエネルギーを取り込みました。排水設備はまだ整っていませんでしたが、雨が降れば、溝を掘って排水させ、家の下に湿気がたまらないようにしていました。湿気は体に良くない陰のエネルギーなので、取り込まないように工夫していたわけです。祖母は薬草も植えて、病気に対処していました。
 その祖母は50代の時に子宮がんにかかりましたが、手術もせずに、薬草を飲み、自己流の体操をして、91歳まで元気に過ごしていました。

 なんだか懐かしい話ですね。

――大自然のエネルギーを利用することは、気を利用することです。つい最近まで、私たちは気の中で生活していました。

 伝統文化の中にまさに気が息づいていたわけですね。古く縄文時代の人類は自然と豊かな交流をしていたようで、このアニミズム(生物・無生物を問わず、すべてのものの中に霊魂が宿っているという考え方)は民族によっては、いまでも強く残っていますね。霊魂がすなわち気であると言ってもいいですね。

――気は体内にあるだけでなく大自然にも充満しています。昔は現代のように科学が発達していなかったので、気を利用して、元気になったり、病気にならぬようにしたりしてきました。自然と共存している森との対話や、アニミズム文化のような流れは、気を重視して利用してきたということです。

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