小林「情報産業論」(9)

梅棹が情報産業の未来に見たもの

変化の時代にあっては経済もまた変化する。(p56)

情報産業の時代を、まさに文明史的な視座から画したうえで、いよいよ梅棹は、情報産業時代の経済学の分野に打って出る。すなわち、情報価値論。おっと、この言葉は、もしかしたらぼくの造語かもしれない。

梅棹の情報価値論の中核に、お布施理論があることは言を俟たないが、情報産業論の掉尾を飾るお布施理論に至る梅棹の論の進め方は、まるでロッシーニオペラ幕切れのストレッタを思わせるものがある。

ぼくは、1995年ごろからミレニアムの境をまたいで、アメリカの西海岸、いわゆるシリコンバレーに頻繁に出向いていた。そんな折、役得で、勤めていた会社のPR誌に連載を持っておられた紀田順一郎さんの米国IT業界取材に便乗して、サンノゼにあるウィンチェスターミステリーハウスを見に行った。サンフランシスコから、リムジンをハイヤーしてね。

ウィンチェスターミステリーハウスというのは、ウィンチェスター銃で巨万の富を築いたかのオリバー・ウィンチェスター未亡人が、心の病を得てから生涯に渡って作り続けたまさに世にも奇妙な建物だ。見事に歪んでいるとはいえ、ウィンチェスターが武器製造で得た富の大きさをうかがわせて余りある。

そのころ、カーネギー・メロン大学も、何度か訪問した。ニューヨークのカーネギーホールには、行ったことはない。いずれにしても、今のアメリカの文化や学問が、梅棹の言葉を借りると、中胚葉産業の遺産によって支えられていることに、疑いを挟む余地はない。そこに、以前触れた、アール・ゴア・シニアによるインターステイト・スーパー・ハイウェイを加えてもいいだろう。

しかし、そのころのベイエリアは、そういった中胚葉的産業から、外胚葉産業への移行が急速に進んでいた。1939年創業のヒューレッド・パッカード社を嚆矢とし、ゼロックス社のパロアルト研究所やアップルコンピューター、サン・マイクロシステムズ等々。マイクロソフトも本拠地は、ワシントン州のレッドモンドに置いていたが、ベイエリアにも巨大なキャンパスを持っていた。

そのころから、日本でも、バブルの崩壊とインターネットの爆発的な普及とを契機として、産業の外胚葉化は急速に進んでいった。2004年楽天が、2012年にはDeNAがプロ野球の球団を持った。かつては、プロ野球のオーナーといえば、新聞社か電鉄会社がその多くを占めていたが。DeNAが球団を持とうとした時、楽天のオーナーが、ゲーム会社が球団を持つ資格はない云々といった妄言を口にして、世の失笑を買ったことは記憶に新しい。

そのような時代の変化を、梅棹は、情報と産業との関係から、どのように捉えたのか。

一言で述べれば、情報の価値をどう捉えるか。

先回りして、弁明しておくと、ぼくは、《価値》という言葉と《価格》という言葉を、少し異なった層で捉えている。

その上で、まずは、議論を《情報の価格》に絞ろう。

この種のものは、さきにものべたように、そもそも軽量化できない性質のものだし、原則としておなじものがふたつとないのだから、限界効用もへちまもないのである。(p57)

梅棹の問題提起は、まず、需要と供給の関係を基礎とする価格決定プロセスに対する疑義から始まる。情報の唯一無二性に立脚すると、需給バランスの議論が成立しない、云々。ぼく自身は、むしろ、情報の(技術的には超安価な)複製可能性に立脚して、需給バランスの議論が無力なことに力点を置きたいが。

いずれにせよ、需給バランスを前提とした価格決定メカニズムでは、世界に二つと無い芸術作品などは価格が高騰し、安価な複製が可能な情報資産は価格が限りなく低下する。

もう一つの論点を。

以前、ケインズの近代経済学の要諦は、局所バランスの可能性を前提とするところにある、といった話を仄聞したことがある。議論の詳細は詳らかにしないが、直感的には、モノや情報の偏在が、経済活動の原動力となる、といった意味で捉えることが出来よう。

では、情報が即時に地球上を覆い尽くす今の時代、ケインズ的な経済理論は、まだ、有効なのだろうか。はたまた、ケインズ的局所均衡議論とは全く異なる形での、たとえば、ナッシュ均衡のような、情報の即時伝播性と、その阻害(情報の秘匿または断絶)の鬩ぎ合いを前提とした議論に取って代わられたのだろうか。もしくは、この両者には、深い関わりがあるのだろうか。

ともあれ、梅棹は、情報の価格決定が、モノの価格決定メカニズムでは解決できないことを、例によっての鋭い直感で見抜いていた。

その上で、梅棹は、外胚葉産業時代の価格決定メカニズムを、《一物多価》(この言い方は後の名和小太郎による梅棹経済学の読み直しに負っている)という問題に収斂させる。

そして、《一物多価》の代表として、僧侶と檀家の間でのお布施額決定のメカニズムを取り上げる。すなわち、僧侶の格と檀家の格とのトレードオフ。お布施理論の誕生である。

情報の価格が、お布施と同じようなメカニズムで決定される、と聞けば、多くの日本人は、直感的に、なるほど、と納得する。しかし、本当にそれだけなのだろうか。ぼくは、一方で至極納得した思いを抱きながら、どこかえもいわれぬはぐらかされ感がぬぐいきれない。梅棹のお布施理論は、ある方向感としては、至極納得できるものの、議論を尽くしているとは言い難い。梅棹は、お布施理論の先に何を見ていたのだろう。

情報産業論劈頭で、梅棹は、歌比丘尼や吟遊詩人を情報業者の一角に位置付けて、読者を瞠目させた。

そして、同じ情報産業論掉尾での、このお布施理論。情報産業論執筆時点で、梅棹の研究対象は発生学から文化人類学に大きく方向を変えていた。そんな梅棹ならばこそ、情報産業を歌比丘尼や神社仏閣、温泉などの民衆の生活との関わりで捉える視座が得られたに違いない。

では、情報業者としての歌比丘尼は、どのようにして糊口をしのいでいたか。門付けか投げ銭か。ぼくは、その委細を詳らかにはしない。しかし、それが、広い意味での喜捨、ドネーションによるものであったことは、言を俟たないだろう。

もう10年以上前、ひつじ書房の松本功さんに触発されて、電子書籍などの少額課金制度に投げ銭の考え方が援用できないかと、考えていたことがある。そのころ、マルセル・モースを中心に贈与論に関わる論考をいくつか読んだ。

・オープンソースとドネーション

随分後になって、オープンソースソフトウェアの周辺で、ドネーションウェアといった言葉が出現してきた。最近では、SNSを中心に、《いいね》ボタンの功罪が云々されている。

このような現代的な情報社会での動向も含め、モース的な意味では、贈与とは、まさに記号の交換である。

アメリカ先住民族のポトラッチから、銀座のクラブの新装開店の店頭を飾る胡蝶蘭に至るまで、物品の贈与(時には毀損)が、送る側と送られる側の関係性を象徴する記号として機能している、と捉えるのが、贈与論の要諦だとすれば、歌比丘尼への喜捨も僧侶へのお布施も、広い意味での謝意を象徴する贈与そのものと見ることが出来よう。すなわち、喜捨もお布施も、なんらかのサービス(情報)に対する対価ではなく、謝意を表象する記号なのである。であれば、あるサービスや情報の価値判断が、情報の受け取りようによって異なることも、ごく自然のことであろう。さらに、その価値判断の差が、記号として表象されることも、また自然なことだろう。

ちなみに、胡蝶蘭が、(特に企業間などのビジネスの世界で)贈答品として重宝がられるのは、その価格が高値安定しており、一目で支払われた金額を推測することができるからだ、と仄聞したことがある。

このような贈与論の視座のもとで、歌比丘尼や吟遊詩人、琵琶法師から白拍子などの異能の情報提供業者の社会との関わりを捉え直してみると、このような人々が、自らの才能に依って民衆にサービス(情報)を提供し、そのサービスへの謝意(対価ではなく)を表象する行為としてのドネーションが行われていたのは、近代位以前においては、日本に限らず、洋の東西を通して、かなり普遍的なことだったように思われる。そして、そのようなタレントの中でも、特に才能豊かな人物に、為政者や富豪がパトロンとなることも、また洋の東西に共通のことだった。

梅棹的な外胚葉産業は、まさに、人々の心と精神の豊かさに寄与するがゆえに、その存在が社会全体にとって不可欠なものと受け止められ、社会全体として、ドネーションを通して、それら異能の人々の生活を下支えする、というシステムが成立していたのだった。梅棹の謂を藉りれは、近代以前においては、情報業者は、社会の文化を支える、まさに公共人材として遇されていたのではなかったか。

このように見てくると、オープンソースにおけるドネーションウェアのありかたも、全く同型のものと考えられる。

お布施理論として、梅棹が提唱したかった情報産業時代の経済学というのは、じつは、贈与論的記号交換の社会的メカニズムの解明ではなかったか。

そしてそれは、近代の礎となった中胚葉的産業を超克したポストモダーンの豊穣なコミュニケーションを下支えするメカニズムそのものではなかったか。梅棹が情報産業の未来に見ていたのは、彼がフィールドワークで出会った近代以前の社会の豊穣さの復権ではなかったか。

 

 

 

 

 

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