小林「情報産業論」(5)

「情報」は「商品」たり得るか

一定の紙面を情報でみたして、一定の時間内に提供すれば、その紙が『売れる』ということを発見したときに、情報産業の一種としての新聞業が成立した。
一定の時間を情報でみたして提供すれば、その『時間』が売れるということを発見したときに、情報産業の一種としての放送業が成立した。(p.45)

さて、ここからいよいよ梅棹は、情報産業の中核に切り込んでいく。課題は、ずばり、情報の価値とは何か。

今では、当然すぎるほど当然のこととして、一般に受け止められていることだが、半世紀前の日本では、《情報》が商行為の対象である《商品》たりうるか否かが、問いかけるべき問題として成立した。

後述するが、アルビン・トフラーの『第三の波』の邦訳が出版されるのは、1980年。20年近く後のことだ。梅棹が情報産業論を発表した時点では、新聞業界も、出版業会も、放送業会も、ひっくるめてC・G・クラークの第3次産業(商業、運輸業、サービス業)の分類に押し込められていた。そして、それが当然のこととして受け止められていた。

商業を含め、物を右から左に動かすだけで、何も生み出すことなく口銭を掠めとる商売。額に汗して物を作り出す農業や工業にこそ、産業の本筋がある。このころでも、そのような士農工商的価値観の残滓がまだあったと考えるのはうがち過ぎだろうか。とはいえ、梅棹の論に見え隠れする実業としての農業や工業との対比での情報産業即ち虚業という言い回しにも、このような当時の社会の価値観が色濃く反映していたように思える。そして、マスコミ即ち虚業という価値観は、ぼくが編集者を過ごした1970年から1980年ごろにも、まだ残っていた。

そのような時代にあって、複製可能な記号の列、すなわち、情報がその媒体(紙や電波)とは独立に、商品として成立することを、声高らかに宣言することには、大きな勇気が必要だったのではなかったか。情報産業という言葉が、梅棹の造語であるならば、《情報》が《商品》たりうるか否か、という問題設定そのものも、梅棹が生み出したものと考えるべきだろう。問題を発見することの困難さと重要さ。そして、その問題を言挙げする勇気。

しかし、その問題に対する答えを見出すことも、また容易なことではなかった。むしろ、この梅棹が見つけ出した設問の答えが明確な形で与えられているとは、今に至っても考え難い。

例えば、昨今世上を騒がせているマンガの海賊版サイト(正確には、海賊版を公開しているサイトへのリンク情報を集めたサイト)へのブロッキング対策問題にしても、マンガ家が創作し、出版社が販売している《商品》は、一体何なのか、その対価はどのようにして決定されるべきものなのか、という梅棹の問いかけに対する解答が、いまだに誰もが納得する形では提示されていないことが、議論を錯綜させている理由の一つであるように思われる。

情報産業論における梅棹の議論は、この個所以降、《商品》としての《情報》の価値は、どのようにして定められるべきか、という問題の核心に向かって、鋭く鏨(たがね)を打ち込んでいくことになる。

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